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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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世田谷通信

126

猫 草

 

2月に東京に雪が降ったとき、数十年に一度の大雪だの、観測史上初だのと言われたが、1週間後にもう一度同じぐらい降雪があり、そういう時はなんと報道するのだろう?と思った。数十年に1度のことが、1週間で2度起きるとはどういうこと?・・うーん、確率の話はよくわからない。

「これまでに経験したことのない」とか「観測史上初」という表現にもびっくりしたり、警戒したりするのは最初だけである。やたらと降水量でも積雪でも台風でも気温でも耳にする気がする。なんだか異常も日常となって、危機感が薄れてしまうものだ。警鐘が鳴らされるほどに警戒心は反比例するように薄れていくのだ。なので、報道・情報を流す側も、より刺激の強い形に、どんどん表現を強めていくしかない。それでも言えば言うほど「ああ、またなんか言ってる」ぐらいにしか受け止められず、危機に対して麻痺した感覚になるのが本当は一番危険な状態なんだろう・・と思う。

先日の雪では高校生の長男と部活の友人達も、練習を早めに切り上げればまだ電車はあったものの、夕方すっかり雪深く、首都圏のあちこちで電車が運転見合わせとなってから「あれ、帰れなくね」と気がつき、我が家に泊まりに来ることになった。それも、帰り道に雪合戦、雪だまりに人型、と散々に遊んで、服も髪も靴もベタベタになってのご帰還である。まったく。幼稚園か小学生ですか、君達は。

もちろん子供達はスマホは持っており情報を検索することはできる。こちらも早めに帰るようにとメールを送っている。あれほどに天気の急変が予測され、交通の麻痺が報道され、不要不急の外出はお控えくださいと警鐘が鳴らされても、現実になるまでスルーなのである。

危機を自分の実感として感じ取るのは、きっとケータイのアラーム音でも、強い防災情報の表現の工夫でもなく、ただ本人が「ひやっ」とする、その肌感覚なのだろう。それが本当に深刻な危機でなければいい。そんな風に思う。

 

*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

 

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世田谷通信

(124)

猫 草

 

うちの生き物の話である。うちのウサギは6歳を超えたあたりで急に老化が進んだ感じがする。具体的には足腰が弱った。まっすぐ走る時はいいのだが、曲がるとふらつく。ウサギが寝る姿勢は、前脚をお腹の下に収納してうずくまった姿勢が基本なのだが、バランスがとれないようで、こっくりこっくり舟をこぎながら一歩、一歩と前進している。そのうち壁にぶつかってやっと止まり、寄りかかって寝ている。熟睡するとどさっと横倒しになる。時々心配になって呼吸を確かめたりする。

なのに食欲は際限ない。お皿が空だと、皿に手を突っ込んでこっちをじっと眺め、ドライフードをねだる。ドライが入っていると、立ち上がってこちらと皿を見比べ、パパイヤのドライフルーツをトッピングしろとねだる。ウサギのくせに牧草を食べるとお腹を壊すので、毎日私は柔らかな野草を採ってくる。一山あげてもあっという間に食べつくす。体重は相変わらず1kgジャスト。どんなに食べても太らないのは草食だからか?

体のバランスも悪いので毛づくろいができない。そのせいか、やたらに撫でろと要求してくる。撫でてやるとぐいぐい手に体をこすり付けてくる。そしてほわほわと毛が抜ける。手足やお尻も汚れていてお湯で洗ってやる回数が増えたし。なんだか、介護ウサギになってきたなあ。

それに比べるといつまでもぴちぴちしているのはイモリである。もう10数年生きているが、見た目が変わらないのは脱皮のおかげだろう。相変わらずのマイペース、というか、意思の疎通はない。ものすごくお腹がすいていると水面すれすれからじっとこちらを見ている。お腹いっぱいの時は水底にいる。それだけ。長男は「こいつ本当に同じイモリ?何回か入れ替わっているんじゃない?」いやいやヤモリならたまに外壁にくっついていますが、アカハライモリはその辺にはいませんよ、仮にもし入れ替わっても見分けはつかないけど。

かくいう世話をする側の自分も老いているので、新しい生き物を飼おうとか、「挑戦」する気持ちにはならない。

なんで飼い始めたんだっけ?いつからいるんだっけ?と漠然としつつ、今日も共に生きているのである。

 

*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

 

 世田谷通信

 (123)

猫   草

 

トトトン、コココン、何かが壁をノックするような音がする。鳥かな?カカカッ、とこんどは天井から。室内だ、何だろう。カンカンッと電灯に当たるモノをみて納得する。蜂だ、どこからまぎれたものやら。部屋の電気を全部消して、リビングのカーテンと窓を全開にすると無事に冬蜂は室外へと帰還してくれた。元気でね~。

先日、カフェの手伝いをしているとき、お客様が「あのう・・」と遠慮がちに声をあげた。みると大きなキイロスズメバチが一匹窓にくっついている。なんと内側に。こりゃ危険とお客様を奥の席に誘導し、店内の電気を一度消した。明るい方に向かう走行性があるので、びっくりさせて電球に向かわないための用心だ。ガラス窓から差し込む陽が明るいので、そのままじっとして動く気配がない。

どうやら冬でだいぶ弱っている様子。とはいえスズメバチであることに変わりはない。さてどうやってお引取り願うか。飲食店で殺虫剤は使いたくないし、そもそも蜂用のがない。虫網は?あるわけないでしょう!と、悩んだ末にガラス瓶に入れて、捕獲することに。昆虫苦手の店長は腰が引けているので、しょーがないワタシがやりますか。

ガラスにくっついてるのにそっと接近し、素早く蜂にビンをかぶせる。ビンを窓に押し付けたまま、ガラスとビンの隙間にメニューの紙を滑らせてふたをする。そのまま外へ。しばらく店から離れて紙をはずすと、そのままどこかへ飛び去った。飛び立つ瞬間、目が合ったような気がする。いや気のせいかもしれないが。

そういえば、長男が昆虫少年だったころは、ああして、カマキリ、トノサマバッタ、カミキリ、コガネムシ、いろんなものを捕獲したものでした。出かけた先でも発見したら「捕まえるの!」と断固主張する長男のために、私のバッグには常に捕獲用の小さいビニール袋が入っていた。さすがに蜂をビニール袋で捕まえる勇気はないけれど、死角から一瞬で捕獲する感覚はちょっと懐かしかった。

店に戻ると、お客様と友人がほっとした顔で拍手してくれた。あの蜂はもっと、ほっとしていたと思う。

 

*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

 世田谷通信

 (122)

猫  草 

 

私がぼんやりなのか、物の形や記憶が本当にあいまいなのである。家の外壁の補修をしようと思ってホームセンターで補修パテを買いに行く。毎日見ているのに、さあて、どんな壁?ベージュ、灰色、白?ざらざら、ツルツル?最近、ひび割れを見つけて確認したはずなのに、思い出せないので何も買えずに帰ってくる。家に帰ってよくみたら、ざらざらした黄土色でした。

バッグを忘れて、遺失物係りに問い合わせる。受け取りたい自分、引き渡したい係りの方。さて、ここからが問題。それが自分のであることを立証しなくてはならないのだ。で、「色や素材、大きさや特徴は?」改めて聞かれると、どんどん記憶が不確かになってくる。そういうときは必ず上を見てしまう。脳の中を見られるわけでもないのに。「黒か紺。布製です。たぶん。」「黒か紺で布製ですね。他には?」「ええと、確か雑誌が入ってるはずです。」「どんな雑誌ですか?」「・・表紙が、あの女優さん、ほら大河ドラマに出てる・・。」「綾瀬はるかさん?」「そう、それです!」って遺失物係りの方を連想ゲームにつき合わせるはめになる。

思い出せない、に加えてさらに悪いことに、思い出せたものが間違っていることもままある。記憶は都合よく、或いはゆがんで書き換えられているらしい。なんでだろう?

歯医者の予約を忘れないようにメモする。カレンダーに貼っておく。前日にあっ!と思う。しかしそのメモを書いた記憶はない。確かに自分の字なのに。もう自分を信じられないことこの上ない。ありがとう過去の自分。

でも大丈夫。脳から記憶をとりだせなくても、体は記憶しているのだから。風邪をひけば、免疫系が「あ、このタイプの風邪菌ね。ああなるほど、5年前にかかったやつに似てるわ。あの時は熱出ちゃったけど、今度は大丈夫、敵の型はわかってるから、免疫システム作動させるよ。」と頼もしく正確に機能してくれる。それは別に5年前の風邪を本体である私がすっかり忘れているのに、ちゃんとどっかに保存されている知恵なのだ。

さあ、こんなだけど、なんとか新しい1年もやり過ごしたい!

 

*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

 

 

 世田谷通信

 (121

猫  草

 

家の近所の冬枯れのススキの河原。河床工事や度重なる台風の襲来で草一本無かったのにすっかり見慣れた風景ね。でも何か違和感を覚えて、立ち止まってもう一度河原をみた。あれ?ススキじゃない。よく似ているけどこれはヨシだ。昨年までは確かにススキ野原だった。だってお月見に何本か折ったもの。なのに、今年気がつかぬうちに総入れ替えとなっている!

まあ、誰にも迷惑はかかっていないようだ。見た目は似てるし。生物層とか変わっているのかもしれないけど、深く考えるのはやめにしてその場はやりすごした。

そういえば、長男が夏休みに植生調査とかで多摩川の写真を撮影してきたが、セイタカアワダチソウ、アレチマツヨイグサ、ハルシャギク、アレチウリ・・猛々しい外来生物の見本市のようだった。表面上は緑に覆われて元に戻ったように見えるけれど、密かに外来種に代わり固有種は根絶して、植生は変化しているのだ。

では日本古来の植物って何?とは言っても、どのあたりが日本固有なのかすでに判然とはしない。平安時代に大陸から持ち込まれ薬用・観賞用として珍重された果てに帰化した、なんて七草に入ってるし。そして外来種の持ち込みはそれこそ平安の昔から今に至るまで、園芸や食用、或いは荷物や作物にくっついて、意図する・しないに係らず、この瞬間にも続いている。

日本の動植物も海を渡れば外来種。例えばクズといえば夏にはあちこちの斜面にはびこり、葛湯に葛根湯とゆかり深い植物だが、アメリカで電線にからみつき猛威をふるっているとか。後ろ足をぴっと伸ばして可愛らしいマメコガネも外国では害虫として困ったことになっているとか。

植物も動物もボーダーレス・・言葉も考え方も。外国から入ってきて、日本語も伝播して、和語も漢語もカタカナ言葉も渾然一体となっている。またそれを日本語の乱れとか問題視する人も、言葉も生き物だからよしとする人も居て。

意識しているうちはいいのだけれど、いつものススキ野原だと思っていたら、ある日見知らぬ風景にすり替わり、さて化かしたのやら化かされたのやら。

 

 *この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

 

世田谷通信

120

猫 草

 

お店に入って自分が客の立場になったときに、店内のサービスが良いと気持ちがいいものだ。飲食店ならフロアから厨房にスムーズに意思が伝わっているか。良い関係があればそれはとても快いサービスとなる。そこに何かひずみがあると、不協和音として空間を不快なものにしてしまう。それは会社や学校や行政や、とにかく人が係る以上は同じだと思う。目の前の「お客様」と「自分の仕事」にどれだけ集中できるか。ひとつのパーツを担当する人たちがそれぞれ矜持を持ってことに当たれるか。

少し前だが、アルバイト中に投稿した写真が社会問題になっていた。いずれも不衛生、不謹慎、調子に乗った悪ふざけの域を出ないものだが、店の側への影響は大きかった。さらに不思議なのは続々と模倣する人がいたことだ。勤務中って仕事モードスイッチ入りませんかね。

友人のカフェの手伝いを、時々頼まれることがある。ランチタイムメニューはカレー等の簡単なものだし、お客さんも常連が多く、席数も少ないので、それほど忙しい訳ではない。それでも自分がフロアに居る間はずっと緊張する。店内だけでなく、自分の爪や髪も清潔に、ミスのないように。「ようこそ、いらっしゃいませ」と迎え「ありがとうございました」と送り出すのに全エネルギーが注がれる。できるだけ快適にお客様にはすごして欲しいと思う。キッチンに立つ友人もそう。お客様が居るときの彼女の料理の手際はまったく無駄なく、スピーディで的確。繊細で丁寧。美しい舞のようで惚れ惚れする。一期一会、という言葉が浮かぶ。私はその彼女の「皿」を大事に、素早くお客様のテーブルに届ける。「ごゆっくりお過ごしください」の気持ちをこめて。

きっとそういう経験はいろんな場面で役に立つと思う。何か仕事をするとき、人と接するとき、自分と周囲の間合いをとれるか。その場に適切な言葉や態度。ほんの少し、視点を上にもって空間全体を見渡すことができるか。アルバイトで学ぶことは多いと思う。投稿ネタ探しではない、社会と人間という複雑奇妙で不可思議なものを探すのにそれは役に立つ。

 

・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

 世田谷通信

 (119

猫 草

 

もう10年以上、正確には何年生きているのか判然としない家のイモリ。最近盛んに脱皮を繰り返す。その脱ぎ捨てた皮をよくみたら、なんと手と足の指の形が綺麗に残っているのだ。指の先端部分の吸盤の形もわかる、極小で半透明の手袋と5本指靴下のようだ。通常は石などに体をこすり付けて脱皮し、すぐに自分で食べてしまうので、こんなのを見るのは初めてだった。早速横に居た長男に「ねえねえ、この脱皮、スマホで撮ってツイッターにアップしてよ!」と言ったが「ウケねーよ」と即座に却下された。そうかなあ。けっこう貴重だと思うのに。面白いと思うのは私だけ?残念な。

そしてうちのウサギ。日々せっせと毛づくろいをするのだが、ネザーランドワーフという種は耳が短い。加えて高齢のためか体が固い。骨格構造上、前肢が短い。以上の条件だと自分で耳の後ろに手が届かない。顔の横まで必死に短い手を伸ばし、耳と首を曲げても、むなしく空を掻いている。何度も挑戦して仕舞いにバランスを崩して後ろにひっくり返る。情けないことこの上ない。一生懸命な姿がいじらしく可愛い。これもぜひ動画でアップして欲しい素材だが、実現していない。これ投稿したら面白かろうに・・と思っても、よくわからない、面倒くさい、でそのまま素通りしている状態なのだ。しかし普段から何か投稿ネタを探している人はチャンスを逃さない。ご飯を食べても、道を歩いても、すぐにアップである。話をしていて「あれ?どうだっけ」という疑問もすぐに検索で中断される。これでは話が深まる気配が無い。

この文章、この写真を投稿したら、「ウケるかも」それだけが判断基準だと、熟慮も校正も推敲もそこにはない。客観的に多角的にみたら、という視点が常にあればよい。しかし自分の瞬間の判断にそこまでの自信は無い。なにせイモリの脱皮に「なんと精巧な!これ大発見!?」と興奮する感性だし。ネット上には真偽入り乱れ錯綜する情報が文字通り氾濫しているので、濁流に泥の一掴みぐらい投げても問題なかろう、と思ったら、たちまち日の光の下にさらされてつるし上げられるのも最近の怖さだ。今日もウサギが届かない耳掃除をしている。なので私もエアー「いいね」を押してみるのである。そして誰とも共有されないけど、自分だけのお宝映像、というのもいいんじゃないか、と思うのである。

 

・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。

e4f53454.jpeg世田谷通信
(118)
猫 草

今の高校の生物資料集を見ると、そりゃあ楽しい。試験を受けなくて良いからいたって気楽なのである。遺伝子分野なんて発見ラッシュ。自分が高校時代に習ったところから、遥かに進んだ研究内容までカバーされている。ま、30年もたっていたら研究も進んで当然だが。
ところで、論文のデータ捏造だの、他人の論文のコピーだのといった学問の不祥事も時々ニュースをにぎわせている。学問の世界では、どんなチェック機能があるのだろうか。
まずは先行研究をどれだけサーベイできるかが重要となる。その上で自分のやったところを積み重ね、くっつけ、発展させ、次の研究者にバトンを渡すのだ。
学会に「査読」というシステムがあり、投稿された論文が掲載に値するか間違いやごまかしはないかを同じ分野の研究者が匿名複数で審査する。そのとき同じ研究室出身の人は差読者にならないとか、「身内」を省く作業もあるそうだ。もちろん学会側もすべての人間関係を把握できるはずがないので、自己申告もあり。掲載可にせよ否にせよ、複数の観点から非常に詳細なコメントと評価がついて投稿者に返却される。
そうは言っても、計算ミスは指摘できてもデータ自身が捏造だったら確認のしようが無いし、そもそも学会自体が狭い研究者コミュニティでお互い顔見知り、同じ研究プロジェクトに入っていたりするので、相互チェックも限界はあるだろうなあと推測する。
まったく違う分野からのアプローチ、すごく革新的で、斬新なアイディアや「異端」といわれそうな論理、目からウロコの大発見を「理解の範囲外」「評価できない」と排除するのではなくて、「何かとてつもなくすごいもの・・かもしれない??」コーナーに集めておけたら・・大半は単なる思い付きだろうけど、一粒ぐらい砂金が混じっているかも?そういうのは研究者が個人的にブログで発表するのかな。田中耕一氏のノーベル賞受賞のきっかけは、ある学会のポスター発表で別の分野の大御所研究者が「この技術本当?本当だったら凄いことなんだけど!」と目を留めたことだったとか。ここに載るまでの知識の蓄積と淘汰ってすごいんだろうな。それでも玉石混交なのかな、さらに30年後どうなっているんだろう?と最先端の理科資料集を眺めながら思った。

・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(117)
猫 草

俳人、歌人、詩人、翻訳者等「その一言」に徹底的にこだわる人がいるかと思えば、無意識の言葉も一方で膨大に存在している。
彼らとて日常的には用意周到で選び抜かれた珠玉の言葉ばかり使うわけではないだろう。疲れるわ、そんなの。
かつてご近所のおばさんたちの、梅雨時の「よく降るわね」「ねえ~洗濯物が乾かなくてこまっちゃう」、夏の「毎日暑いわあ」「ええ、ほんとに嫌になるわねえ」とか、あるいは冬場の「みなさんお元気かしら」「おかげさまで変わりなく、そちらは?」「そうねえこの間風邪ひいちゃって」「あらいけないわ、いま流行ってるのよね」などなど延々と続き、かつ他愛ない会話が非常に嫌いだった。
話す意味ない!会話する価値ない!時間の無駄!くだらない!と思っていたわけだ。どうせ話をするならもっと大事なことがあるでしょう?とね。
c429fcf2.jpeg確かに話の内容自体に意味はほとんどない。強いて言えば、「あなたと私は同じような環境で価値観を共有している共同体の一員、もちろん敵意はなく危機的状況にもない、今後とも仲良くやっていこう」の確認。要するに犬や猫がすれ違うときにちょっとニオイを嗅ぐのに似た作業。でもこれを意味なし、としてスルーすると社会的にいろいろ軋轢が生じてくる。
上記の会話が成立するのは流れるような様式美がそこにあるから。ツイッターのボットという機能のように、ああくればこう言う、こう来たらそう返す、自動プログラムにも似た絶妙なさじ加減が安心感を生むのだ。母国語ゆえ同国人ゆえの緩やかな絆の確認。
確かに外国に居てその国の言葉で話すとなれば、たぶんもっと緊張して正確に伝えようとするだろう。そしてその生活になじんでくれば、「おはよう~いい天気ねえ」の余裕が生まれてくる。それは社会の一員、というぼんやりした位置を得た証だ。
ご近所さんは顔を合わせたときに確認作業を済ませられるけれども、ネット社会では顔の見えない大多数との付き合いが膨大で、どんどん希薄な紐帯が占拠していくのだろう。霧のような無数の意味の無い言葉たち。収束する先はあるのだろうか。


・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
2fdf7840.jpeg世田谷通信
 (116)
猫 草

このごろ詩人や俳人がつづった文章に出会うことが多い。あれっと思って奥付をみると「詩人」「俳人」「歌人」とあって、おお、やはり、である。うまく言えないが、ひとつの言葉への集中力が尋常ではない。きっと「ひとつの言葉」「一つの言葉」「一つのことば」の選択で、うーむ、と1時間ぐらい悩んでいるような気がする。推敲の結果たとえ「ひとつの言葉」を選んだとしても、文章全体を見渡してみて、もう一度「うーむ」と悩んでいるに違いない。いえ、実際の創作の現場は知りません。あくまでもイメージです。
言葉同士の響きが繊細かつ濃密、考え抜いたようでさらり、ふいと天から降りそそいだような驚きもある。あれ、この文章・・とひっかかると、アーサービナード、蜂飼耳、俵万智、穂村弘などで、ふむ、さすがと思う。
吟ずるという時点で時間がかかっている。吟味の、吟ですものね。言葉として発する前に心のうちで何度も転がしているのだろうと思う。それともモーツァルトのように、するする書き散らして完成形っていうタイプも居るのかなあ。それはやはり快いが軽いのだろうか。
テレビ俳句、という番組がある。朝は「教育テレビ」つけっぱなしという幼稚園時代の習慣からたまたま眺めていると、先生が「ここは『し』より『す』でしょうね・・」などと添削している。そうですかね?別に「し」でも構わないように思うけど。そんな、違いありますか?どっちもありでしょう。何々、次の俳句のお題は「籠枕」。ほほう。って挑戦したくとも「かごまくら とは」って、意味を検索している時点で問題外・・。レベル低いな自分。
あと言葉への感度の高い人種と言えば翻訳者。この人たちの言葉へのこだわりもまた独特。異国言語の社会・文化背景に思いを馳せつつ、自国の言葉とのマッチングをはかる作業は、詩作とはまた違った趣きがある。原作のイメージをできるだけ壊さずに表現する・・なんでしょう、金継ぎ?パッチワーク?大量の言葉の海から「これ」それとも「こっち」と貝を拾っては当て嵌めているような。すみません、これもあくまでもイメージです。
さて、言葉の感性・感度は如何にすれば磨かれるや。

・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
5c37ba4a.jpeg世田谷通信
 (115)
猫 草

子供たちは高校、中学へと進学したが、自分は相変わらず小学校の図書室に勤務している。どんどん変わり流れていく先生方や子供たちの中で、ずーっと同じ場所に留まっている石のようだ。校長・副校長の管理職も長男小学校入学時から指折り数えると、10人近く異動がある。うーむ、そのうち生き字引とか言われるかも。
さて自分の子供のいない小学校はなんと客観的に観察できることか。今年のこの学年は落ち着いているなあ。こっちの学年は全体にうるさいから後半荒れるかも、など、自分の子供が在籍していたときには見えなかったこともみえてくる。
入学直後、小学1年生が昼休みグランドの隅で泣いている。通りかかって「どうしたの?」と聞くと「せんせいが・・いない・・」ぽろんぽろんと綺麗な涙があふれてくる。先生はグランドの反対側で他の子供と話している。もうそれで視界に入らないのか、この子まだ一人で教室に戻れないのかな?先生も大変だ。はやく教室の場所覚えようね。かわいいなあ。こっちではお迎えのお母さんを見つけて「ママ、いた・・!」と叫んで教室を飛び出してしまい、先生にしかられている1年生もいる。なんてかわいいの。
そうかと思えば反抗期か思春期の5、6年生が居たりする。何が腹立たしいのか、図書室の本をわざと床にばらまいて逃げていく。あまりひどいと先生に注意してもらうのだが「やってませーん」の一点張り。本に八つ当たりはやめてね、壊れるから。よくわからないがなにか必死に主張しているのでしょう。もう、かわいいったら。
こんなに穏やかに子供たちのあれこれを「かわいい」と受け流せるのは自分の子供が卒業している立場だからだと痛感する。
だって、長男などもう高校生なのに、未だに忘れ物はないか、遅刻してないか、お友達と仲良くしているか、など本気で気になるし。小言だって、早く起きなさい、宿題やったの、プリントと洗濯物を出しなさい、ゲームやめなさい、早く寝なさい、これ全部幼稚園からぜんぜん変わらないし、全く心穏やかではない。いつまでやきもきするのだろう。いい加減悟りたいが、そんな境地は訪れるのか。子育てにも卒業はあるのか。もしかして世話を焼かせていただいているのか。因果なものである。

・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
02711289.jpeg世田谷通信
 (114)
猫 草

「遺伝子」という言葉をニュースや新聞、あちこちで耳にするようになった気がする。漠然とした印象だと、なんだか未知で極小かつ膨大、二重螺旋で精密。さらに自分の未来を握っている運命の鍵のような、不可思議で超越的なイメージである。
ところがある生物学者の「遺伝子はプログラムではなくアーカイブです」との言葉を読んだとき、すとん、と腑に落ちた。そうだよね。最新型のパソコンやスマホにどんなスペックがあっても使わなければ宝の持ち腐れ。或いは国会図書館に住んでいたとしても、そこにある本を一冊も開いて読まなければ知識にはならない、そんな感じなのかなあ。さらに生命は私たちに「自由であれ」と言っている、と続く。
この科学エッセイ、面白いなあ、と思っていたら、意外なところで同じ名前を目にした。なんと、銀座の美術館の館長さんでもあったのだ。その美術館では現在、葛飾北斎の作品をデジタル技術で再現する展示をしている。
浮世絵は版画なので、紙の材質や顔料の状態によって刷るたびにさまざまなバージョンができる。それでも最初の一枚、すなわち「初刷り」が絵師のイメージに最も近いだろう、という仮定のもとにそれらを再現している。デジタルデータなので拡大縮小はもちろん、動画仕立てにもできる。顔を思い切り寄せて眺められる。楽しいことこの上ない。そしてどんなに「遊んで」も揺るぎもしない構成と正確無比な美がそこにある。
どんなに近くまで寄っても尚、美しさを保つというのは、まるで微細な生物組織や遺伝子に通じる奥の深さを感じる。銀座フェルメールセンターというこの美術館は生物と美術の不思議な狭間に立っている。フェルメールという偉大な画家と、歴史上はじめて顕微鏡で微生物を観察したレーウェンフックは同時代、同じ町に住んでおり親交があったそうだ。それもまた美術と科学の不思議なつながり。
世界も自分の体内もまだ解き明かされぬ不思議で満ちている。思わぬ分野の出会いがまた新しい視点を開く。北斎の富士のラインの美しさに見とれながら、そういえば、これが対数曲線に等しいと言った数学者がいたなあ、と思った。「遺伝子はプログラムではなくアーカイブ」との言葉がもう一度思い起こされた。身のうちに眠る膨大な過去の蓄積はきっとヒトには読めぬ美しい言葉で書かれている。

・添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
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キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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