2023年7月号
№193
号
通巻877号
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(76)
猫 草
春の花をたくさん買ってきて寄せ植えをした。直径40㎝ぐらいの大きな鉢に、ミニ金魚草、ストック、アリッサム、マーガレット、ミニバラなど7~8株を買ってきて寄せ植えする。円形の鉢なので中央を高く、縁に少し葉っぱがかかるぐらいにアレンジするときれいにみえる。とはいっても植物は生長することを前提に考えないといけない。寄せ植えをした段階ではちょっと物足らないぐらい・・でちょうどいい。しかしその物足らなさをうまく植物がカバーしてくれるとは限らない。隙間はずーっと中途半端に空いたまま、狭いところに葉が茂り、あらぬ方向に枝が伸びる・・こともある。いや正直にいうとそういう場合がほとんどだ。植物はままならない。もちろん人間も、だけれど。
ガーデニング3年目になると、ようやく花やその株の「性質」が少しわかってくる。花が終わると急速に全体がやつれるもの、逆に花が終わると勢いよく葉が伸びるもの、小さいスペースだと縮んでいたのに植えかえたら急にいきいきするもの、いろいろである。わかってくるのは「いろいろある」ことだけで、小さな株を見たときに「これはこうなる」と予測できるわけではない・・外部依存的あるいは環境依存的、つまり土、水、日光、風通しなどなど、周囲の状況によって絶えず植物の状態は変化するからである。
園芸店で花を買うときには、処分品で50円とか100円になっている鉢をまず選ぶ。なんというか・・見事に咲きそろった旬の花を買って植えても、自分の手柄ではないという気がするからだ。買った時をピークにしてどんどん姿が悪くなるよりは、最初にだめだめな株を再生させる方が面白い。そんなわけでうちの寄せ植えはちょっと訳あり、個性派、もうひと花頑張って咲かせましょう!な花たちが集まっている。まあ、ここに寄せ植えされたのも何かの縁と思って、仲良くやりなさいね、と置き肥をあげて、あとは意外な展開になるのを楽しみにしている。あとは暖かな日差しと春の雨がなんとかしてくれるでしょう!
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(75)
猫 草
卒業式の季節である。長男の公立小学校には、いわゆる謝恩会はない。例え企画しても先生方がなかなか参加できないからである。卒業式が終われば次は入学式準備が即始まる。とにかく忙しい。感傷に浸る暇はない。というわけである。
先生が来ないのに謝恩会は成立しない。というわけで、今年は卒業式の翌日に大きなホールを借りて、子供たちの「お別れ会」を保護者が企画した。
なんでそんなことをわざわざ?さんざん学校で一緒に過ごしているでしょう?と思われるだろうか。昔なら「サイン帳書いて~」だったろうが、今はケイタイのメルアド交換やデジカメで写真をとりあったり、ゲームのアイテム交換をしたり・・要するに学校持ち込み禁止のアイテムがいまどきのコミュニケーションツールなのである。
さらに昔と違うのは「クラス名簿」を作成しないことだ。配布されるのは緊急連絡網の電話のみ。自分の子供のころはクラス全員に名前、住所、電話番号に、両親の名前と親の職業まで書いたものが配布されていた記憶があるが、「個人情報保護」の観点からそんなものはもってのほか。が、そうなると同窓会やクラス会の葉書ひとつ出せないのが実情である。地元の中学にみんなが進学するなら「中学でまた一緒だからいいじゃない」だが、私立受験率が7割という長男の学校では、卒業したらそれっきりになる子がほとんど・・というわけで「お別れ会」の企画なのである。そこで携帯番号やアドレスを交換するもよし、写真をとりあって「後で送るから住所教えて」と切り出すもよし。
何事もドライで個人主義になっているのだろうか。そして相手の都合を考えない行動は「空気読めない~」と嫌われるからだろうか。誰かが「場所」をセッティングしないと動けないのがいまの子どもたちである。思えば幼稚園のころからこの子たちは遊ぶ時にも事前に電話でアポとりをしてからだった。いきなり「あーそーぼ!」と押しかけたら親子ともども「マナー違反」と眉をひそめられるのである。アポなしで遊べるような暇な子はおらず、習い事など様々な予定がぎっちり詰まっているのである。
最近の子はお膳立てをしないと何もできない、とは言うものの、子供の生活をそんな風にしてしまったのは誰なのか。本来自由でおおらかであるはずの子供たちのコミュニケーションに窮屈な影を落としているのは紛れもない事実である。
(74)
猫 草
いよいよ世の中は受験シーズンクライマックスである。いや、他人事ではない、うちにも受験生がいる。12月まで土日は早朝から夕方まで野球の練習と試合に明け暮れ、ようやく本腰を入れたのは年末から、という遅まきな状況は、小学校の低学年から塾と模試に時間を割いてきた家庭とは勉強の絶対量が違っている。
公立小学校なのに、学年の8割の児童が外部の学校を受験するというので週刊誌ネタにもなった学校だけに、毎年1月末から2月はじめの受験日になると6年生はクラスの半分近くが学校にこない。「体調管理のため」だ。受験日当日ともなるとクラスはがらーんとしている。例年、受験直前はみんなピリピリ、イライラしてケンカが絶えず、受験あとは呆然と真白に燃え尽きている・・というのだがさて今年はどうなることか。
最初は小学生のうちから受験なんて、と考えていた。自分自身ずっと公立の学校に通っていた。しかし、小学校6年間の勉強がきちんと身についていなくては、この先どんな進路を選ぼうと、積み重ねる土台なしに先はない。しかし小学校の授業だけで本当に教科書の力がきちんと身についているか?それは甚だ疑問である。学校の授業ではわからなくても、間違っていてもそのままでフォローの機会がない。塾や模試や通信講座などでの予習復習で繰り返し確認しなくては、学力が維持できないほどに、普通の公立小学校の授業レベルは低い。ようやく図工や調理、音楽などでの専科の先生が増えてきたが、主要教科は担任が教えている。国語、算数、理科、社会はもちろん、その他のさまざまな学校事務にかかわる雑事、クラブ活動やクラス運営や学校行事など、すべてが担任の力量一つにかかっている。まったく無茶な話である。完全にキャパシティオーバーである。
不十分な準備のもとに行われる授業は魅力がない。子どもたちは塾のプロフェッショナルな授業に慣れているので、退屈して騒ぎ出す。「静かにしなさい!」で時間が過ぎていく。そもそも1クラスに30~40人も学習レベルもモチベーションもばらばらな子どもを寄せ集めただけの教室である。しかも専門性も時間もない教師の手で、高度な授業が成立するはずもない。公立小学校の限界である。学校に疑問を感じた親は塾に頼る。子供は先生を軽んじる。学校はさらに荒廃する。この悪循環を断つ方法がどこにあるのか?私には見当がつかない。
世田谷通信
(73)
猫 草
私の作る料理はいつも冷蔵庫にある材料で、賞味期限の状況、昨日のメニュー、あとは気分とか・・そういったものにあちらこちら流されながら「なーんとなく」できあがってしまったものが多い。しかし次男はきちんと材料をそろえて手順どおりに作りたいのである。学校ではスイートポテト作りの甘味づけにコンデンスミルクを入れるという。お砂糖じゃだめ?と思うが、いやそこは断固コンデンスミルクなのである。
またある時はアンパンマンに「春巻きぼうや」という男の子が出てきて、春巻きを作っている。「ひき肉、もやし、ピーマン、たけのこ、しいたけを細かく切って入れて・・」というのをじーっと見ていると思ったら、次の日スーパーではその通りの材料をそろえることになる。
世の中には料理の本がたくさんある。料理番組や雑誌にもおいしそうなレシピはあふれている。でも「ふーん、おいしそうだな」と思うだけで、材料・分量どおり、指示どおりに作った試しがないのである。だいたいこんな感じでしょ?この材料とあの調味料はないからこれでいいや、と自己流のアレンジが過ぎて、目指していたものとは似ても似つかない結果になる・・料理だけではなく、この傾向は生活の中の万事すべてについて当てはまるかもしれない。レシピ通りに材料を買いそろえて、手順通りに作ったメニューは、やっぱり適当な料理より数段おいしいのである。基本に忠実であること。・・今年の目標にしたい。
世田谷通信
(72)
猫 草
人が住まなくなったその空き地は、どんなに地面をならしてもすぐに雑草に覆われる。秋の風にさわさわと草が揺れる。猫がやってきて昼寝する。散歩の犬が走り回りたいなあ・・という顔で立ち止まる。空が広くなる、月が近くなる、夜が深くなる。このまま家が建たないと見晴らしがいいのになあ、などと勝手なことを思う。ええもう駅から15分もかかっちゃう立地条件でございますから。
別の場所でマンションが建つまでの間、しばらく更地だったところに、それはみごとに鶏頭の花がびっしりと咲いていたことがあった。雑草・・というわけでもないのに、種をまいた人がいたのだろうか?大人の背丈ほどに伸び、真紅の鶏のトサカそっくりの花がビルの隙間の空き地を埋め尽くしていて、何かのいたずらかはたまた芸術作品か・・とにかく通りかかった人がぎょっとするほど鮮烈な光景だった。いまは何事もなかったようにマンションがあるけれど・・。
かくいう今、我が家が建っているところも、もとは古い木造アパートと樹々に覆われた庭だったそうだ。どうりで裏庭からは植えた覚えのない植物が生えてくる。土の上っ面のところでは人間が線を引いたり値踏みしたり、建てたり壊したり、小賢しいことをしているけれど、深い土の下では脈々と息づいている世界がある・・。と思うと安心にも似た、嬉しい気持ちになる。
世田谷通信
(71)
猫 草
そのウーパールーパーを飼い始めた。顔が大きくて手足が短い幼児体型、頭の横にはイソギンチャクの触手のようなひらひらが左右3本ずつ。きょとんとした表情を浮かべているところも赤ちゃんっぽい。ものすごく食欲旺盛。乾燥エビや乾燥赤虫をあげると大きな口で丸呑みにする。そしてお腹いっぱいになると「遊び」はじめる。水槽のエアポンプの泡がブクブク出ているところにやってきて手足を広げ、ふわっと浮いて流れに身を任せる。何度も。まるで水中で「わーい」と歓声をあげて遊んでいる子どものようだ。他愛ないその行動を飽きずに繰り返している。
人間は何かと理由をつけて一生「遊び」たがるが、それ以外生き物で「遊ぶ」という感覚があるのは幼少期だけなのだと思っていた。子猫はやたらじゃれるし、子ウサギも無邪気に跳ねまわる、しかしあっという間に大人になると「めんどくさい」と言わんばかりに暇な時にはごろん、と横になったままのことが多いではないか。ウーパールーパーの隣の水槽に住んでいるご長寿アカハライモリは餌を食べる以外はじーっと穴の中にもぐったままである。余計なエネルギーは使わないのが生きる知恵であり、分別や知識をつけて、無駄なことはしなくなるのが「大人」かもしれない。しかし一方で、人間は「遊び」に憧れたまま成長してしまう部分があるのだろう。癒しとかリラクゼーションとか趣味とか・・ちょっと見渡せばそんな言葉が氾濫している。「無趣味な人」は退屈だと言われるし、老後のために趣味のひとつもないと、と強迫観念にとらわれたりする。でも「さあ遊ぶぞ!徹底的に効率よく完璧に遊ぶぞ!」と気合をいれてもかえって疲れてしまう。今日もウーパールーパーが呑気な顔で頭のヒラヒラを揺らしながら水槽の中をお散歩している。日常の中のほんのちょっと、つい、ふと、という自分のためのひとときが「遊び」の時間なのかもしれない。
世田谷通信
(70)
猫 草
ボランティア、NPOなど、地域にはさまざまな志と力を持った人たちの組織がある。小学校のPTA組織もその一つだ。ただし、自ら意思を持って参加したわけでなく「子供が学校に通っている」から所属しているPTAへの帰属意識は多岐にわたる。不公平のないようにと毎年工夫や知恵を出し合っても、PTA役員決めは難航するし、あちこちから不満が出て火種になる。結局役員をやるのは毎年同じ顔ぶれ。いっそのこと!とPTA組織をなくした小学校もあり、代わりに地域の方々、保護者などが別組織を立ち上げているそうだ。関わりたくない親を無理に引っ張り出すこともない・・というのも一面ではある。しかし参加の機会をなくしていいものか?という疑念も残る。
*朝いくつ咲くか楽しみなヘブンリーブルー。毎日8つくらい咲いています。
世田谷通信
(69)
過去の統計データから将来を予測するときには、突然変異的な発明や発見といったまったく未知の要素を入れることはできない・・つまり現在の延長線上のラインでしかない・・。しかし「今ここにないもの」を予見する手段として、人間の想像力がある。過去の優れたSF、サイエンス・フィクションで「未来社会」あるいは「夢物語」として描かれていた世界が現実となる瞬間もある。インターネット上にあるフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』をご存じだろうか。匿名の編集者15万人、260以上の言語で書かれ、1千万の項目をもつ、そして今この瞬間も編集され増殖し進化を続ける百科事典である。これは「その項目について知っている」人が個人的な知識を書きこんでいく巨大な共有百科事典である。
つまりあなたも私もその項目について何らかの情報を持っていれば編者の一人とし て参加できるのである。もちろん個人の知識には誤解や間違いは多々ある。故意に事実を歪曲した記述もあるだろう。最初は「信用できない」部分も多く、批判されたが、数人~数十人の「その道の権威」が編纂した市販の百科事典にだって同じことは言える。その時点での最新知識は分野によっては1年以内に過去の遺物となる。その点通称「ウィキ」は紙面や締切や価格の制約もなく、延々と書き込みと修正、編集が続けられるのだ。これはまさに人類の共有知ではないだろうか。これはアイザック・アシモフというSF作家が「ファウンデーション」(銀河帝国興亡史)シリーズの中で書いていた銀河百科事典のイメージと重なってくる。銀河のすべての知識を網羅するという壮大な目的で脈々と受け継がれ編纂され続けるエンサイクロペディア。
この作品の第1部はなんと1942年から1953年に書かれている。パソコンが世の中に現れたのが1970年代、インターネットが出現したのが1990年代、爆発的普及は2001年以降と言われている。まさに「この世にまだないもの」を予見して書いているのだ。さらにアシモフと言えば「ロボット」という言葉を最初に使った人でもある。これも初出は1950年というから驚嘆するしかない。ちなみにアシモフは世界初のしゃべるロボット「ロビイ」が発明される数年前の1992年に亡くなっている。作品の中にこんな1文がある。「完全に論理的かつエレガントに見えて、しかもなお表現されていない仮定を含んでいる議論というものがあるかもしれないよ」(出典:「ファウンデーションと地球」)そんな高みから物事をとらえることができたら、どんなにか清明な心持ちとなれるだろうか。想像もつかない。
世田谷通信
(68)
猫 草
最近の子どもたちの「調べ学習」というのは、「PCでwebサイトを検索する」というのとほぼ等しい。ちょっとキーワードをいれて検索するとなんでも情報が手に入る。「ググってみる」という言葉も日常生活で頻繁に使う。グーグルというサイトで情報検索することだ。
一昔前、調べ物と言えば、図書館でいろんな資料を本棚から探して、目次をみて、ページをめくって、関連情報があれば書き写して・・・という地道な作業だった。今は必要な情報を画面上で「コピペ」(ちなみにコピー&ペーストの略、情報をコピーして別のところに貼り付ける、というような意味だ)すれば事足りる。大学の先生が学生にレポート提出させると、すべてが「コピペ」で済まされていてうんざりする、と聞いたことがあるが、すでに小学生の宿題からしてそうである。図書室に「○○について調べたいのですが!」「○○の本ありますか?」と聞きに来る子どもたちが「あ~パソコンで調べてえー!」とつぶやくのを耳にする。そう、自分の手足、耳目を使って調べるのは労力の割に収穫が少ないのである。
なぜ今さらこんなことをくだくだ書いているかというと・・自分があまりにもPC上の情報に頼りすぎている・・と思うからだ。ふとわからないことや、疑問に思うことがあったときにPCで検索すると即、過剰な情報が提供される。まるでこの世の中にわからないことはない!錯覚に陥るのだ。
今日もどこかの見知らぬ誰かがPCを立ち上げて「こんなこと知ってても何の得になるかわかんないけど見つけちゃったから誰かに見てほしくてアップして」いる。
濃密で過密で過剰な毛細血管のようなインターネットという目に見えない巨大生物が、ほんの薄皮一枚で、画面の前の自分とつながっている。自分の画面の向こうに黒々とした宇宙・・無数の人間の心・・深淵のブラックホールが広がっているような気がする。時々ふと呑み込まれそうな圧迫感を感じるのは私だけだろうか。
世田谷通信
(67)
猫 草
少年野球の話である。数年前、長男が幼稚園のころ、土日に近所の公園に遊びに行くと、隣の市民グランドで少年野球チームが練習をしている。その監督の罵声が「へたくそ!やめちまえ」「もう今日は家に帰れ」「おまえなんか来なくていい」などなど・・あまりに酷い言葉で、耳を覆いたくなると同時に、こんな昔ながらの「根性」野球が現存するのか・・?といささか時代錯誤な気がしたものだ。
さて数年後、長男が成城地域の野球チームに入り、土日祝日は早朝から夕方まで練習と試合に明け暮れている。監督・コーチも怒鳴ることは怒鳴るが・・特に人間性を否定する発言はない。試合などで相手チームを見ていても、それほど不快な発言もない。・・ので、あのチームの監督はちょっと、いやかなり「昔気質」な人だったのだろうと思う。それとも聞いているこちらに耐性ができたのか?いやいやそればかりでもないだろう。時代は変わるのである。
試合中のこと。長男がセカンドライナーをエラーした。うつむいて悔しそうにするところに、監督・コーチから大声が飛ぶ。「顔を上げろっ!試合中に下向くな!」、その声でなんとか前を見るが表情は硬い。そして次の回、守りに乱れがあり、暴投でランナーが3塁に走った!と思ったところでセカンドがバックアップ、好送球で3塁ぎりぎりアウト。「よーし!それでいい!」「ナイスフォロー!」監督やコーチの声に長男に笑顔が戻る。自分の失敗は自分自身が一番分かっている。だからくどくど怒るのも半端な慰めも無意味だ。次にがんばっていいところを見せればいい。ミスしたら叱られる、成功したら褒められる、だからつまらないミスをしないように気をつける、繰り返し練習していいプレーができるようにする。当たり前のことなのだが、そういう単純なことの繰り返しがスポーツだけでなく勉強でも仕事でも人間関係でもいろんな場面で自信につながるのではないだろうか。そして褒めたり叱ったりする大人の評価軸がブレないこと。子供から尊敬まではいかなくても、少なくとも信頼されること。これも本当に大事なことだと思う。
世田谷通信
(66)
猫 草
植物は子どもに似ている・・と花壇の手入れをしていてよく思う。1年前にきれいに咲いていたプリムラ・ポリアンサス。その後、どんなに手入れをしてもなんだか効果があるのかないのか・・もういい、なんてあきらめかけた頃にふとつぼみがいっぱいについているのを見つける。そしてある日、ハッとするほどに美しい花を誇らしげに咲かせるのだ。その潔さ、それまでのしおれかけて頼りない葉っぱだけだった面影はどこにもない。
子どももそうだ。いつまでも甘えて、ぐずぐず言って、しっかりしてよ!と思うのだが、ある日ふと、えっこれがこの子なの?と思うほどに大人びた所を見せつけられるのだ。それは植物がある日、満開の花をつけるのに似ている。
立原えりかの作品で「花になりたい?」と問う不思議な女の子が出てくる童話があった。日々に疲れた人が少女の問いに「そうね、花になりたいわ」と答えると、その人は花に変わってしまう。やがて街は美しい花であふれるのでした、というシュールな話である。
植物と子どもは似ている。しかし決定的に違うところがある。植物は自らの植えられた場所から動けない。だが子どもはその場所を飛び出し、環境を自ら変え、生きる場所を選ぶことができる。何度でも、いつでも、どこにでも行ける。その気持ちさえなくさなければ。
世田谷通信
(65)
猫 草
長男は6年生になる。校長先生は「6年生がいい学校は良い学校だ」と常々言っておられる。学校の代表として最高学年の責任感を持たせる意図なのだろうが、現実はなかなか厳しい状況にある。5年生の時のクラスがいわゆる「学級崩壊」したからだ。時折耳にする言葉だが、まさか自分の子供のクラスがそんなことになるとは思っていなかった。1,2年生の時は騒々しくてもまあ幼稚園の延長みたいなかわいらしさがあった。3,4年生のやんちゃぶりも、子供らしいほほえましさを残していた。親も先生も、「まあ子供だからはしゃぐのは仕方ないか」と容認していた部分がある。 
ところが、5年生になるとどうも様子が違うのである。反抗的な言葉も態度も先鋭化して、先生の心をえぐるものになる。最初は一人がやっていた反抗が、どんどんエスカレートして、とても先生に向けた言葉ではない罵倒が子供たちの口から飛び出す。そして子供同士のケンカやちょっとしたぶつかり合いも体が大きく力が強い分、双方にダメージがあってやれ救急車だ!病院だ!と大ごとになる。毎日のようにケガだ、喧嘩だ、授業中に誰かが教室を出て行った、見かねた校長先生が教室に来て怒鳴った・・みるみるうちに、クラスが騒然となっていく。授業が成立しない。落ち着いた時間が持てない。先生の声も指示も全く届かない。
気になってクラスを見に行くと、あちこちから勝手な声があがり、みんな好き勝手なことをやっている。中には大人しい子もいる。しかしそういう子は奔流の中の石のような状態だ。たまに「おい、静かにしろよ!」という子がいても「てめえの声がうるせえんだよ」「なんだと?」と火に油。いつも(ぐわーん)という騒音が教室に満ちている。一見して「あ、こりゃだめだ」というかんじである。
学校も親たちも何もしなかったわけではない、補助の先生をつけたり、保護者会があったり、交代で様子を見に行ったり。しかし対策の効果はみられないまま1年がすぎた。
この春、クラス替えが行われ、担任陣が発表になった。6年担任は全員体格の良い男性教師。とりあえず体格では負けないぞ、という威圧感はいっぱいだが・・さて「6年がいい学校は、良い学校」になれるだろうか。
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円