2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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世田谷通信
猫 草
(53)
先日、通勤時間帯の電車に乗る機会があった。極力混んでいる時間帯の電車には乗りたくない。しかし今回は事情があった。いつもは自転車で行く場所なのにあいにくの雨、しかもPTAの会議でどうしてもその時間に行かなければならない。家を出る前にインターネットで運行状況を確認すると、またまた車両事故で大幅にダイヤが乱れていることがわかった。各停に乗っていたら時間に間に合わない。というわけで、憂鬱な気分のままどーっと押されて、いつもよりさらに混雑している急行電車に乗った。なんとか一つの吊皮を死守して自分の立ち位置は確保したが、それでもあちこちから圧迫されているので気分は晴れない。
その時、隣に立っていた高齢の男性が一冊の本を読み始めた。「よくこんな狭いスペースで本が読めるな・・」とちらりと見ると、テサロニケ、という文字が目に入る。聖書?違う、神学書だ。かなり年季が入っていて、紙は黄ばんであちこちに赤や青のボールペンで傍線や書き込みがしてある。表紙には丁寧に包装紙のカバーがかかっている。本屋さんがかけたものではない、おそらくとても大切な本だから丁寧に自分で包みなおしたのだ。その男性は内ポケットからボールペンを出すと、また新たな個所に傍線を引いた。何度も読み返してなお、新たな発見があるのだろうか、雨のせいでむっとするほど熱気のこもった、不快な車内の中で男性は一人本に集中している。前には携帯のメールに余念がない若者、反対の隣にはスポーツ紙を眺めるおじさん、そしてとにかく駅に着いて外の空気が吸いたい、早く早くと念じる私。
しかし急行電車の割にあちこちでスピードが落ちる。どんどんゆっくりになって、ついに止まってしまう。車両事故で遅れたため、前の電車がつかえているから云々のアナウンス。うんざりした、あきらめの空気が車内にただよう。男性は神学書の世界に入り込んだままだ。また傍線を引く。いったいどこに?「文明の発展と聖化は並行しない、逆行する。」男性が青のボールペンでラインを引いた文字が目に入る。そのフレーズを心の中で反芻する。意味を考える。ガタン、と電車が動き出す。考えている私。そのうち駅に到着する。ホームに降り、まだ車内で読書中の男性に一礼して、歩き出す。もう遅刻は間違いない。でも不思議と焦ってはいない。改札口へ沢山の人と一緒に流されながら、さきほどの一文の意味をあれこれ考えていた。
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世田谷通信
猫 草
(51)
毎春やってくるのは桜前線と花粉と…ではなくてうちの場合は「特撮ヒーロー物」新番組のチェックである。何でしょう、それ?という方のために説明すると、「特撮ヒーロー物」には「戦隊ヒーロー」と「仮面ライダー」があり、今年は「ゴーオンジャー」と「キバ」である。昨年は「ボウケンジャー」と「電王」、その前はええっと・・いや長くなるのでやめておこう。要するに「○○レンジャー」と「仮面ライダー△△」が毎年、新番組として登場する、と考えていただきたい。なんとこのシリーズは1975年「秘密戦隊ゴレンジャー」にはじまり、以来延々と繰り返され、現在31作目という歴史を持っている。「仮面ライダーシリーズ」も同様の歴史を持つ。昭和時代に男子だった方は、何か一つぐらいはその手のキャラクターグッズを持っていたのではないでしょうか?
まず、新番組とともにすべてのキャラクター商品が一新される。フィギュア、お菓子、ソーセージなどの食品、文房具、靴や衣類・・子どもの生活に関連するかなり広範囲のものが「○○レンジャー」から「××レンジャー」に刷新される。そういわれると目にしませんか、あちこちで「新しい××レンジャーの、あれ買って~」とねだる子供の姿。これが男の子の母としては結構な悩みの種なのである。
そんなの、いま持ってるやつと同じじゃん!と親は思うが、子供の目はもう新シリーズに釘付け。最初のフィギュアが5体揃うと、次はロボットが登場。そして変形し合体し、ピンチのたびに新ロボ新メカが、謎の6人目レンジャーが反目の末に仲間になり(お約束)、最初の5人も新たな敵の前にモードチェンジでさらに派手に変身し、これでもかと玩具メーカーとの完璧な連携プレーによる新商品攻撃が続く。それがようやく落ち着いたあたりで、1年が過ぎ、新番組「☆☆レンジャー」の登場となるのである。
レンジャーに比べ、仮面ライダーならキャラやメカ数が少ないだろう、って?そう話は甘くない。今やライダーは敵味方中立含めて数人~最大100人が入り乱れ、モードチェンジあり、メカもバイク、車、電車・・と百花繚乱。なんとか魔のおもちゃ売り場を回避しても、スーパー、コンビニのお菓子・食品コーナーでこの手の商品が目に入らないことはない。子供が成長し、「そんな子供っぽいのもう興味ない」と言ってくれるまで、このキャラクターとの戦いは果てしなく続く。
世田谷通信
猫 草
(50)
この時期憂鬱になるのが、クラスの役員決め・・という恒例行事である。「あ、私でよければやりますよ」とあっさり手を挙げる人がいて、笑顔と拍手で即決。というクラスがないわけではない。しかし現実には多くのクラスで新学期最初の保護者会は「沈黙と緊張」のつらい時間を強いられるのだ。これをなんとか気持ちよくスムーズに公平に、あとあと禍根を残さぬように決めるため、どの学校でもさまざまな工夫を凝らしているときく。ある学校では、役員や係を引き受けると「ポイント」がたまる。高学年になるほどに引き受け手が減少し、やる人が限定されていくのを避けるため、「ポイント」という形で自分がこれまで貢献したことを数値化する。とはいっても、やる人はポイントがたまるばかり、一方ゼロポイントとてペナルティはなく強制力にはならない。という話もある。ある学校では、新入学のときに「6年間で最低2回以上は役員をやりましょうカード」が配布され、在学中のどこで何を引き受けるかを事前に申告し、実際に引き受けると○がつく。(さらに委員長になると◎で、2回やったのと同じになる特典がある!)それぞれの家庭の事情があるなか、6年間のどこなら何ができるか自分でイメージする、というメリットはある。
長男の通う学校では上記を含めた様々な方法が検討された上で、事前にアンケートを配布し、やってもいい委員・係の希望をとる方法をとっている。前年度のクラス代表委員が新クラスでの保護者会司会を務め、このアンケートをもとに委員、係を決めていく。どうしてもその場で決まらない場合は去年やっていない人たちでクジを引く。欠席の場合は事前に「保護者会での決定に従います」との委任状を提出してもらう。あらゆる場合を想定し、今年はこれでうまくいくか、クラス代表や委員でそれは真剣に討議が繰り返された。なんでここまでしなきゃならんのか・・という気もするし、どんなに周到に用意しても課題は残るのも事実。もめたすえに「実は私・・」(このあとには病気、介護、離婚などの単語が入る。)と「できない理由」を涙ながらに訴えあうという修羅場、愁嘆場は避けたい。ので、4月の委員会は「今年も?」「あなたも?」と苦笑い・・になるんだろうな。
世田谷通信
猫 草
(49)
そろそろ春なのだな、と厳寒の中に思う。木々や植物が春に向けた準備を開始しているからだ。秋から衰退していた「気」が外に向けて発散し始めている感じがする。以前に料理の後でほんの気まぐれで駐車場の隅のわずかな土のスペースにアボカドの種を埋めた。そこから芽が出て葉が出て、今では大人の膝あたりまでの「木」になっている。アボカドに関しては、条件が良ければ大木となって実をつけることさえあるという。最低10年はかかるだろうけれど、現在の成長ぶりをみるとあながち嘘でもないかも。
園芸店で苗を買うこともあるが、「処分品」の50円やら100円に値引きされた植物がほとんど。店の小さなポットで根が周り、育ちすぎ、季節はずれになった植物を買って帰って庭に植えかえる。肥料をやったら、そのまましばらく忘れてしまう。花も終わっているので見所がないのだ。しかし、ある日ふと気がつくとたいていの植物はギョッとするたくましく成長している。とっくに季節は過ぎているのに再び花を咲かせていることもある。すっかり枯れかけていたら、思い切って地面から5センチほどに切り詰めてしまう。園芸用語では「切り戻し」という手法だそうだが、なんのことはない、枯れたのを放置しても見苦しいし、引っこ抜くのも面倒。というのが本音である。パラパラっと形ばかり肥料を足して、またほうっておく。処置もむなしくそのまま枯れてしまうこともあるが、多年草なら半分程度は再生して翌シーズンにはもうひと花咲かせてくれる。鉢植えで元気がないのは地植えにする。枯れかけた鉢植えのカランコエが地植えで息を吹き返し、巨大化して寒さの中に原色の花をつけている。手をかけてやればもっとうまく育つのかもしれないが、温室で丹精込めた大輪の花を眺めるより、地面に根をおろして花をつけているのを見つけるほうが好ましい。日当たりと多少の地面、わずかな肥料と水があれば、植物は自分で道を見つけて育つのだ。ペットも、子供も、植物も、いくつかの条件さえそろえば勝手に育ってエネルギーを無自覚に周囲に発散している。育てているつもりで、実は私が育ててもらっている。そんな気がする。
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〈つのぶえ社・出版物案内〉
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旧約婦人物語
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ポーリン・マカルピン著
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550円
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新約婦人物語
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ポーリン・マカルピン著
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350円
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さんびか物語
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ポーリン・マカルピン著
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3000円
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ジャパニズ・ヒムス・
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イン・イングリッシュ
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ポーリン・マカルピン著
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1500円
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日本伝道百年史
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バラ・マカルピン宣教記念誌
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発刊編集委員会
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1500円
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田舎牧師の記
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諏訪武臣著
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3500円
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初歩教理問答書
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(日曜学校用)
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250円
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解説ウェストミンスター信仰告白
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岡田 稔著
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500円
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緑のまきば
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=絶対者なる神を求めて=
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吉岡 繁著
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2000円
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聖霊とその働き
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E・H・パーマー著
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鈴木英昭訳
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1500円
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初めて学ぶキリスト教
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ヘリクマ・テュック共著
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鈴木英昭訳
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700円
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死後と終末
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W・ヘンドリクセン著
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鈴木英昭訳
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1900円
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われらの教会と伝道
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C・ジョン・ミラー著
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鈴木英昭訳
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1000円
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ウェストミンスター小教理案内
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鈴木英昭著
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1500円
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ウェストミンスター信仰基準
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鈴木英昭訳
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1100円
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小教理問答
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大教理問答
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信仰告白
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十戒と主の祈り
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鈴木英昭著
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1800円
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男女の役割の関係
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ジョージ・W・ナイトⅢ著
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鈴木英昭訳
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1000円
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世田谷通信
猫 草
(48)
運動会といえば、秋の体育の日の・・というのは昔の話になりつつある。いまどきの運動会は5月開催。都内の小学校ではそちらが半数以上なのだそうだ。長男の小学校もそう。2学期には学芸会もあり、大きな行事が集中すると大変という学校側の理由、9月から10月はじめは雨が多いので練習期間がとれないという地球温暖化がらみ?の理由、6年生の多くは中学受験を間近に控えており、運動会どころではないという保護者の本音、などが理由のようである。
夏休みの宿題を8月31日に慌ててやるカツオくん・・というのはサザエさんの毎年のネタだが、これも怪しくなってきた。授業時間の確保のため、8月最終週に始業式をする学校が増えてきたからだ。そうそう。夏休みの宿題と言えば私の子どものころには「夏休みの友」とかいうワークブックだかドリルだかを学校から渡された記憶があるが、長男の学校では「学習塾に行くお子さんも多く、そちらからどっさり宿題が出されるので・・・」という先生の説明のもと、学校からの宿題は読書感想文と自由研究のみである。
塾やら受験やらに、公立小学校が遠慮してどうする?という気もするが、有名進学塾の夏期集中講座なんか大人気で選抜試験をクリアしないと受けられないとか、有名進学塾に入るための塾に通ってるとか、嘘か本当かもう訳わかんない状況である。塾派、お受験派が大勢を占めるうちの学校では仕方ないのかもしれない。毎日下校後、塾に直行し8時9時までびっちり勉強、帰宅して夕食・風呂、その後塾の宿題で、寝るのは12時過ぎ、学校に着くと寝不足とイライラでクラスは険悪な雰囲気。母親のうわさも子どもの話題も「あの子は特進クラス(進学塾の特別進学クラスのこと。難関私立中学を受験する子供が行く、特別なコース。塾の試験で成績が悪いと下のクラスに格下げにされる。)から落ちた」「あの子は○○中を受けるらしい」と受験一色。2月ともなれば毎日受験関係で欠席の子が多数。全国的にみれば異常な現象なのだろうし、賛否両論はあるのだろうが、それが長男の通う小学校の現実である。5年生ともなれば塾に行かない生徒が少数派になり、6年生ではクラスに「塾行かない子」は2~3人のみだと聞く。いやいや小学生も大変だねえ、なんて他人事ではいられなくなりつつある・・4年生の秋。
詩編を祈る 12編
「彼らがあえぎ望む救い」
この詩編の背景は明らかではありませんが、ダビデがサウル王に追われていた時のこと、ケイラやジフの人々から受けた仕打ちを背景にした詩編と考えられています。
ダビデはペリシテの襲撃からケイラの人々を救ったにもかかわらず、彼らはダビデを裏切ろうとし、ジフの人々もダビデの居場所をサウルに通報し、彼を窮地に追い込もうとしたのです。このような経験からダビデは、人間の言葉と神の言葉の違いを自覚させられたのでした。
「主の慈しみに生きる人」「神を敬う人」(口語訳)は、自らがその神の真実と慈しみに生きる中で、そこに他者をも引き入れます。隣人に主の慈しみを施す者でもあるのです。
「信仰ある人」ア-メンである人、真実で信用できる人です。そのような人は「絶え、消え去」ってしまったのでした。そして「偽りを言い、滑らかな唇、二心をもって話」す者が横行し、我が世を謳歌するのでした。ダビデは、宮廷に渦巻く権謀術策と人間の裏切り、不真実、偽りをいやというほど見てきて、その人間の不真実とへつらいと人を平葉、うわべやおべっか、悪口や中傷、批判や暴言、陰口、そういった言葉に、私たちはいやというほど苦しめられてきたのでした(箴言26章19~28節)。
いやそういう私たち自身、気づくところで意図的に、あるいは気づかないところでも、同じ言葉を発してきたのではないでしょうか。十戒における「殺すなかれ」は、言葉の暴力による人格否定をも含み込んでいます。神を賛美する、その同じ口をもって、神にかたどられた隣人を呪います(ヤコブ3章2~10節)。これが人間の言葉の現実です。
この人間の偽りの言葉の苦しみから、神は「立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう」とされます。かつてエジプトの苦役に服し、その過酷な苦しみから神に叫び訴えたとき、神は立ち上がって救ってくださったのでした(出エジプト2章23~24節)。同じ神が、今や不真実と偽りと暴力の言葉に苦しむ民のために立ち上がり、救いだしてくださるというのです。彼らがあえぎ望んだ救いとは、二重の救いでした。それは一方では悪しき者の言葉が裁かれ、絶やされることであり、同時にこの悪しき者からの誘惑に屈しないで、正しい言葉、真実な言葉を語り続ける者とされるようにとの神の守りです。かつてイスラエルが、荒れ野でマナ、つまり神の言葉によって日々養われたように、神の真実な言葉によって私たちも養われ(マタイ4章4節)、日毎にその「生命のパン」(ヨハネ6章22~28節)をいただくことです。
神の言葉は「土の炉で七たび練り清められた銀」つまり完全に精錬されて、中に不純物や汚れが一切ない聖いものです。「混じりけのない言葉」(新改訳)偽りがなく、信頼しうる確かな言葉でもあります。その言葉は、この世界を創造した力ある言葉(創世記一章)であり、言われたことは必ず実現する言葉(イザヤ55章)でもあります。しかもその神の言葉が、肉体をとって、私たちの間にまで来てくださったのでした。私たちはこの真実な言葉にこそ、私たちの言葉を基礎づけ、またこの言葉を慕い求めて養われつつ(第一ペトロ2章2節)、この言葉を語る者とされていきたく願います。その時、私たちの言葉は、塩で味つけられた真実な言葉(コロサイ4章6節)とされていくのです。
稲毛海岸教会牧師
三川栄二
世田谷通信
猫 草
(47)
再び、我が家のウサギの話題。ほとほと困っている。ウサギ専門誌(本当にある。『うさぎがピョン』)にもこんなウサギのことは書いてない。何がってジャンプ力と脱出への根性がすごいのである。まだ生後2ヶ月の仔ウサギの頃、高さ50cmのケージを越えて外に出てきた。踏み台を使って角度を考えての慎重なジャンプ。「へえ、やるじゃん!」と感心し、「えらい!えらい!」なんて褒めてしまったのがいけなかったのか。このとき以来である。彼が「行きたい場所には行く!」という強い信念を持ったのは。
そしてその信念に基づいて彼はリビングのあちこちを走り回り、ところかまわずウンチやおしっこでマーキングをし、縄張りを宣言し始める。ウサギの暴挙を食い止めるべく、人間側の工夫としてはフェンス設置である。(問題行動にはそれがよい、とウサギ雑誌にもある)フェンスというのは100円ショップのワイヤーネットをつないだもの。これでウサギが自由にしてよいゾーンと入っちゃダメゾーンの住み分けができ、一応の平和が保たれた。
だがこの処遇に納得のいかない彼は、フェンスを次々と飛び越える。最初は70cm。これをあっけなくクリア。普通、フェンスがあるとあきらめるらしいが、うちのウサギは挑戦と感じるらしい。次に85cm。これは無理だと思った。だって大人の腰の位置である。人間だってまたげない。部屋が分断され不便なことこの上ない。しかしウサギはぐっと上をにらんで垂直にジャンプ。そのままフェンス上部まで駆け登って、頂上からさらに飛んで着地。
あまりの華麗な跳躍に思わず拍手してしまったが、フェンス、意味ないじゃん。飛び越えるだけではなく、歯と鼻で押して隙間を作りすり抜ける技もある。ウサギ恐るべし。階段もぴょんぴょん上って2階まで走り回る。彼の勢力範囲は拡大する一方。生後1カ月の頃、たったの250gだった小さな体は日々成長し、自由を求め、限界に挑戦し、束縛に抵抗する、生命のエネルギーに満ちている・・・。なんて感慨にふけっている間に、布団の上でオシッコするな!いたずらウサギ!いたちごっこならぬ、ウサギごっこ?は、果てなく続く。
猫 草
(47)
再び、我が家のウサギの話題。ほとほと困っている。ウサギ専門誌(本当にある。『うさぎがピョン』)にもこんなウサギのことは書いてない。何がってジャンプ力と脱出への根性がすごいのである。まだ生後2ヶ月の仔ウサギの頃、高さ50cmのケージを越えて外に出てきた。踏み台を使って角度を考えての慎重なジャンプ。「へえ、やるじゃん!」と感心し、「えらい!えらい!」なんて褒めてしまったのがいけなかったのか。このとき以来である。彼が「行きたい場所には行く!」という強い信念を持ったのは。
そしてその信念に基づいて彼はリビングのあちこちを走り回り、ところかまわずウンチやおしっこでマーキングをし、縄張りを宣言し始める。ウサギの暴挙を食い止めるべく、人間側の工夫としてはフェンス設置である。(問題行動にはそれがよい、とウサギ雑誌にもある)フェンスというのは100円ショップのワイヤーネットをつないだもの。これでウサギが自由にしてよいゾーンと入っちゃダメゾーンの住み分けができ、一応の平和が保たれた。
だがこの処遇に納得のいかない彼は、フェンスを次々と飛び越える。最初は70cm。これをあっけなくクリア。普通、フェンスがあるとあきらめるらしいが、うちのウサギは挑戦と感じるらしい。次に85cm。これは無理だと思った。だって大人の腰の位置である。人間だってまたげない。部屋が分断され不便なことこの上ない。しかしウサギはぐっと上をにらんで垂直にジャンプ。そのままフェンス上部まで駆け登って、頂上からさらに飛んで着地。
あまりの華麗な跳躍に思わず拍手してしまったが、フェンス、意味ないじゃん。飛び越えるだけではなく、歯と鼻で押して隙間を作りすり抜ける技もある。ウサギ恐るべし。階段もぴょんぴょん上って2階まで走り回る。彼の勢力範囲は拡大する一方。生後1カ月の頃、たったの250gだった小さな体は日々成長し、自由を求め、限界に挑戦し、束縛に抵抗する、生命のエネルギーに満ちている・・・。なんて感慨にふけっている間に、布団の上でオシッコするな!いたずらウサギ!いたちごっこならぬ、ウサギごっこ?は、果てなく続く。
詩編を祈る 11編
「主を、わたしは避けどころとし」
この詩編は、ダビデがサウル王に命を狙われ、追われていることを背景にした詩編と考えられています。いわれのない理由で都を追われ、妻や友、家族とも別れて放浪し、王とその取り巻きに命をつけ狙われているという理不尽な境遇の中で詠われたものです。社会の基盤である法と秩序と正義が、その実行者である王自身によって公然と破られ、無法と不法がはびこる世となってしまったのでした。無実の人、誠実な忠臣をその地位から追い落し、政務をほったらかしにして、ひたすらその命を狙うという異常な事態によって、「世の秩序が覆っている」のでした。そのような中で一体何ができるというのでしょうか。
このような事態の中で人々は「鳥のように山に逃れよ」と勧めます。小鳥が不安に駆られて、小さな物音にも敏感に反応し、本能的に逃げ去るように、自分を守れというのです。ユダヤの荒れ野にはあちこちにほら穴や洞窟があり(創世記14章10節)、社会的逃避者の避難所となっていました(サムエル上22章1~2節)。
この「山に逃れ」るとは、かつてソドムとゴモラが滅亡するとき、ロトに命じられたことと重ね合わされています(創世記19章17節)。町は神の裁きにゆえに、火と硫黄によって滅ぼされたのでした(19章24節)。
しかしダビデは明言します。「主を、私は避けどころとしている」と。この世の秩序は覆り、「拠り所」が壊されたとしても、それを自分の拠り所とするのではなく、主なる神をこそ避けどころとするというのです。詩編は繰り返し、神が私たちの避けどころであると告白します(46編1節、59編17節、62編7~8節など)。この世がその基から崩壊し、揺れ動くとき、この世の基準が壊され、秩序も道徳も混乱していくとき、自分が一体何を「拠り所」「避けどころ」としているかを問わなければなりません。私たちは、主を避けどころとしているでしょうか。
地上の混乱のただ中で、ダビデが主を見上げていったとき、ただ一人変わることなく、揺らぐことのない方をそこに見ました。天の御座にいて、この世を見据え、公正に裁かれる神こそ、私たちの「避けどころ」です。「人の子らを見渡し」とは、物を詳細に調べることで、その背後まで見透かす目をもって見極めることです。人は見かけしか見ませんが、神は人のすることの全てを見通す方です。「人の子らを調べる」とは、金の精錬に用いられる言葉で、一つ一つの出来事に目を留めて注目される神の目配りが語られています。
神の裁きは、その初めから終わりに至る全てに渡って正当なのです。その神が「主に従う人と逆らう者を調べ」、それにふさわしい取扱をなさるのです。従う者には「調べる」とは「試みる」ことですが、それは彼らに「義という平和に満ちた実」(ヘブライ12章11節)を結ばせます。しかし逆らう者には神の適正な裁きをくだされるのです。
ここで神の裁きが「火」のイメ-ジで語られていることに注目しましょう。聖書で「火」は、神の臨在を現わし、この聖なる神の臨在はそれ自体が恵みであると共に裁きにもなります。それは神の近づき難い「聖さ」「栄光」を示し、それに触れる者をそれにあずからせずにはおかないものです。だから神の聖なる臨在そのものが正しい者にとっては恵みであり、逆らう者にとっては裁きとなるのです。それは私たちを「浄化する火」です。それは苦しみでもありますが、それによって私たちは神に近づけられていくのです。
「見よ、わたしは火をもってお前を練るが、銀としてではない。わたしは悩みの炉でお前を試みる。」(イザヤ48章10節)神の火は、私たちから「不純物を取除く」(箴言25章4節)ものです。それは「吟味の火」(コリ第一 3章10~15節)でもあります。こうして神は「御顔を心のまっすぐな人に向けて」「避けどころ」となってくださるのです。
稲毛海岸教会牧師
三川栄三
「主を、わたしは避けどころとし」
この詩編は、ダビデがサウル王に命を狙われ、追われていることを背景にした詩編と考えられています。いわれのない理由で都を追われ、妻や友、家族とも別れて放浪し、王とその取り巻きに命をつけ狙われているという理不尽な境遇の中で詠われたものです。社会の基盤である法と秩序と正義が、その実行者である王自身によって公然と破られ、無法と不法がはびこる世となってしまったのでした。無実の人、誠実な忠臣をその地位から追い落し、政務をほったらかしにして、ひたすらその命を狙うという異常な事態によって、「世の秩序が覆っている」のでした。そのような中で一体何ができるというのでしょうか。
このような事態の中で人々は「鳥のように山に逃れよ」と勧めます。小鳥が不安に駆られて、小さな物音にも敏感に反応し、本能的に逃げ去るように、自分を守れというのです。ユダヤの荒れ野にはあちこちにほら穴や洞窟があり(創世記14章10節)、社会的逃避者の避難所となっていました(サムエル上22章1~2節)。
この「山に逃れ」るとは、かつてソドムとゴモラが滅亡するとき、ロトに命じられたことと重ね合わされています(創世記19章17節)。町は神の裁きにゆえに、火と硫黄によって滅ぼされたのでした(19章24節)。
しかしダビデは明言します。「主を、私は避けどころとしている」と。この世の秩序は覆り、「拠り所」が壊されたとしても、それを自分の拠り所とするのではなく、主なる神をこそ避けどころとするというのです。詩編は繰り返し、神が私たちの避けどころであると告白します(46編1節、59編17節、62編7~8節など)。この世がその基から崩壊し、揺れ動くとき、この世の基準が壊され、秩序も道徳も混乱していくとき、自分が一体何を「拠り所」「避けどころ」としているかを問わなければなりません。私たちは、主を避けどころとしているでしょうか。
地上の混乱のただ中で、ダビデが主を見上げていったとき、ただ一人変わることなく、揺らぐことのない方をそこに見ました。天の御座にいて、この世を見据え、公正に裁かれる神こそ、私たちの「避けどころ」です。「人の子らを見渡し」とは、物を詳細に調べることで、その背後まで見透かす目をもって見極めることです。人は見かけしか見ませんが、神は人のすることの全てを見通す方です。「人の子らを調べる」とは、金の精錬に用いられる言葉で、一つ一つの出来事に目を留めて注目される神の目配りが語られています。
神の裁きは、その初めから終わりに至る全てに渡って正当なのです。その神が「主に従う人と逆らう者を調べ」、それにふさわしい取扱をなさるのです。従う者には「調べる」とは「試みる」ことですが、それは彼らに「義という平和に満ちた実」(ヘブライ12章11節)を結ばせます。しかし逆らう者には神の適正な裁きをくだされるのです。
ここで神の裁きが「火」のイメ-ジで語られていることに注目しましょう。聖書で「火」は、神の臨在を現わし、この聖なる神の臨在はそれ自体が恵みであると共に裁きにもなります。それは神の近づき難い「聖さ」「栄光」を示し、それに触れる者をそれにあずからせずにはおかないものです。だから神の聖なる臨在そのものが正しい者にとっては恵みであり、逆らう者にとっては裁きとなるのです。それは私たちを「浄化する火」です。それは苦しみでもありますが、それによって私たちは神に近づけられていくのです。
「見よ、わたしは火をもってお前を練るが、銀としてではない。わたしは悩みの炉でお前を試みる。」(イザヤ48章10節)神の火は、私たちから「不純物を取除く」(箴言25章4節)ものです。それは「吟味の火」(コリ第一 3章10~15節)でもあります。こうして神は「御顔を心のまっすぐな人に向けて」「避けどころ」となってくださるのです。
稲毛海岸教会牧師
三川栄三
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〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円