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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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ded873f5.jpg「つのぶえジャーナル」に提供してくださる門間 亨さんの写真を適宜掲載し、ご紹介いたします。今回は、ひるがの、京都です。ba232fe4.jpg

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世田谷通信
 猫 草
(45
 「ガラスの仮面」という漫画をご存知だろうか。もう30年以上前に「花とゆめ」で連載され、今なお連載中のロングヒットである。これの原画展を「世田谷文学館」で開催、と聞いて友人と二人いってみた。彼女も同年代なので「懐かしさ」のわかる人である。展示はファンならよだれの出そうな「原画」が山ほどである。それらの美しいことったらない。カラー原稿なんて雑誌のカラーページに掲載されたときとは比較にならない繊細な色遣いである。友人はイラストレーターなので「キレーだなー‥」とガラスケースにへばりついて眺めていた。
そして私が嬉しかったのが1970年代の「花とゆめ」が展示されていたこと。そうそうそう、美内すずえの「ガラスの仮面」と和田慎二「スケバン刑事」が当時の二大看板だったのよね!うわー、三原順の「はみだしっ子」超特大カレンダーだって!ほしい~!とまあ、平日の午前中人もまばらな美術館をいいことに、すっかり喜んでしまったわけで。
 漫画なんて、と侮るなかれ、もう漫画抜きにいまどきの文化は語れない。映画もアニメもドラマも小説も、「原作はコミック」のいかに多いことか。そして多くの場合、実写版や活字は、コミック版の魅力と衝撃を超えられないのだ。私は特別なファンではないけれど、「ガラスの仮面」は現実の世界にも大きな影響を与えてきた作品の一つだと思う。展示を見ながら、「漫画ばっかり読んで!」と子どものころに言われたこと、当時の様々な記憶や、諸々の「あのころの空気」までよみがえってきたことにも我ながら驚いた。
 今の子どもたちは、どんな漫画を読んで、どんな大人になるのだろう。そして、30年後に展示される作品はなんだろう。それを見て30年後の彼らは何を感じるのだろう。
 
詩編を祈る 10編
「御手に労苦と悩みをゆだねる人を」
 
この詩編には「貧しい人」が多くでてきます。標題もないこの詩編は、まさに「貧しい人」の詠う詩編です。貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて、その策略に陥ろうとしている」(2節)時に詠った詩編です。「神に逆らう者」は「何事も神を無視してたくら」(4節)みながら、欲望、貪欲、高慢、呪い、詐欺、搾取をもって繁栄し、富み、栄えています(3-7節)。にもかかわらず、神の裁きは高くて(5節)、彼とは無関係であり、揺らぐことなく、幸せで(六節)、「罰などはない」と心に思うのです(13節)。しかも彼らの繁栄と富は、まさに「貧しい者」の犠牲と搾取によって成り立っているのです。
 
 正直者が馬鹿を見る、まさにそれがこの世の現実です。そこで逆らう者の「手に陥り」倒された「不運な人」は、率直に神に訴えます。「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」(1節)「神は私をお忘れになった」(11節)と。これが正直な気持ではないでしょうか。そこで苦悩にあえいでいるのに、神は何もしてくださらない。正しい者ばかりが虐げられて不幸であり、悪事を働く者が栄えて、幸福なのです。この詩編は、まさにそのような神への問いかけの中で詠われたものです。
 この詩編を詠った詩人は、そこから訴えました。「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。
貧しい人を忘れないでください。」(12節)しかし彼は、この切なる訴えと祈りの中から、神への信仰に至らせられます。神は我らの労苦と悩みを「必ずご覧になって」(14節)くださると。神は「貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし、みなしごと虐げられている人のために、裁きをしてくださ」(17-8節)ると。
 
 まことの神は、「貧しい人」「不運な人」「虐げられている人」の神です。神は常に彼らの側に立ち、彼らを支え守られる神なのです。富む者、幸福な者には、神はいりません。彼らは神を必要としないで生きていくことができますから。しかし「貧しい人」とりわけ「みなしご」は違います。彼らは神なしには生きていくことができません。神だけが彼らのよりどころです。彼らはその自分の弱さと欠けを自覚すればこそ、神にのみ寄り頼みます。
神だけが彼らの生命です。その彼らを、神も慈しみ、守られるのです。こうして主イエスが語られた言葉が真理となるのです。「貧しい人は幸いです。天国は彼らのものだからです。」   
  
                  稲毛海岸教会牧師
                      三川栄三
世田谷通信
   猫 草
   (45)
 
 30年ぶりにウサギを飼い始めた。とはいっても状況はぜんぜん違う。その昔飼っていたのはいわゆる体が白くて目が赤い「白ウサギ」。今のは薄茶色の毛に黒い目の「ネザーランドドワーフ」。昔のが庭先で「外飼い」だったのが、今は「室内飼い」。もちろん共通点も多い。
最初はペットショップで食べていたのと同じ「ラビットフード」(見た目はキャットフードとそっくりのカリカリで、草を固めてあるらしい)と「干草」(最近のウサギはこれが主食だと聞いたので)を与えていたが、ふと昔を思い出して庭先の草をあげてみたら、これがすっかり気に入って干草を蹴散らし、新鮮な草が主食に。
ちなみに最初にあげたのは「タビラコ」でいかにもやわらかくてウサギの好みそうな草だったが、残念ながら春先にしかみかけない。次には「タンポポ」そして「ノゲシ」。「ノゲシ」は良く食べるがオシッコが赤くなるので、病気じゃないらしいがあげるのをなんとなく控えた。意外にも気に入ったのが「葛の葉」である。ちょうどうちの裏山から庭まで勢力範囲を拡大してはびこっているし、ネットで調べたら「ウサギのおやつ・吉野の本葛の葉」なるものまで売られているほどだ。そして私が一番あげてみたかったのが「リュウゼツサイ」である。ギザギザのタンポポに似た葉で、茎は1mにもなり、折ると白い液が出る草である。
以前飼っていたウサギの大好物で、しかもそうそう見かけない。たまにこれを見つけると「とってウサギにあげなきゃ!」と、ウサギを飼わなくなってからも、ついつい条件反射で手が伸びそうになっていたのだ。そしてついにウサギに再びこの「リュウゼツサイ」をあげられる日が来て、なんだかとてもうれしい。ウサギの反応は?それが、一応喜んで食べはするもののオシッコは真っ赤になるし、どっちかというと葛の葉のほうが好きらしい。ともあれ自転車で出かけるたびに道端の草をチェックする楽しみができて嬉しい限りである。

詩編を祈る 9編
「彼らが人間にすぎないことを」
 
 「ご覧ください。私を憎む者が私を苦しめているのを」(14節)から、この詩編はダビデが敵対する者によって苦境に陥っているときのものであることがわかります。
しかもその敵とは、ダビデとその民を取り巻き、虐げる「異邦の民」です。そこでダビデがまず詠ったことは、過去における輝かしい勝利です。しかもその勝利は、神によってもたらせられたと、賛美します(2節)。ダビデにとっては「あなたの賛美をひとつひとつ物語り、御救いを喜び踊ることができる」(15節)、その神の恵みの勝利があるのでした。その1つ1つを数え上げることができる、神の確かな救いの出来事があったのでした。それを根拠にして、ダビデは再び、神による助けと救いを求めるのです。神が敵に御顔を向けられれば、「敵は退き、倒れて、滅び去る」からです(4節)。
 
 さらにダビデがこのように神に訴える根拠は、神が彼の「訴えを取り上げて裁いてくださる」(5節)ことです。なぜならダビデに敵対する異邦の民は、主を畏れる者を虐げ、血を流し、貧しい者を圧迫する者たちだからです。まことの神を畏れない者は、神が造られた人間を恐れることなく、むしろそれを虐げるのです。神との関係が崩れたところでは、隣人との関係も崩れ、倒錯していくのです。ここでダビデが神の求めることは、神の正義と公正です。神の公平な裁きが、国々の中に行われるように、そうして「御自ら世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる」(9節)ことです。
ここにはイスラエルのみならず、世界を支配したもう神への信仰が脈打っています。まことの神は、イスラエル、神を畏れる者だけの神ではなく、神を恐れない民、神を知らず認めない者にとっても神であられること、全世界の主な神であられることを表わします。多神教の、強大な偶像国家に囲まれたイスラエルにとって、それは驚くべき信仰でした。弱小国にすぎないイスラエルの神こそ、世界の主、世界の神であるとの信仰告白なのです。しかもその神が全世界を裁かれる方でもあり、その裁きは公正であるというのです。驚くほど大胆な信仰です。
しかしこの神への苦難のうちにある者を支え、強めるものでした。主こそ「砦の塔」なのです。「苦難の時の砦の塔」(10節)となってくださる神こそ、力強い国々をもお裁きになる生ける神、それらを御手のうちにあって支配したもう世界の主なのです。その主が臨在されるのはシオンの門です。それ以外の門がどれほど強固でも、それは「死の門」にすぎません。それがどれほど強くとも、所詮人間にすぎないものを恐れる必要はないのです。                                                                                                                           稲毛海岸教会牧師
                                                                                                                                          三川栄二 
詩編を祈る 8編
 
「乳飲子の口によって」
 
 「ギディトにあわせて」の意味には諸説がありますが、ぶどうしぼりのときに歌う陽気な歌、豊かな収穫を喜ぶ調べと考えることができます。この詩編では満ち溢れる喜びが歌われているのです。
 
 この天地を造られ、その威光が「全地に満ちている」神の栄光の輝きは、この天の万象と星振によって表わされているばかりか、それがいとも弱く小さな人間によっても表わされていることの驚きを、この詩編は語ります。天地を造られた神は、ご自身の栄光を、私たち人間によって表わされることをよしとしてくださったのでした。神が御心に留められる「人間」とは、エノ-シュ、弱く死ぬべき存在にすぎない無力な人間であり、「人(アダム)の子」、土の塵から造られた空しい存在です。土にすぎない人間を、なぜ神は顧みてくださるのか。「神に僅かに劣る者」として、「創造の冠」として、神は人間をお造りになられたのでした。それは人間が神に似せて、「神の像」に造られたということです。その「神の像」とは、神の被造世界と万物に対する支配権でした。神の地上における代理人として、神の統治権をもって支配する、その「栄光と威光」を与えられたのです。それを謙虚に受け止めて、「地を治めよ」との神の命令を忠実に果たすところに、人間の栄光と誇りとがありました。しかし罪によって堕落した人間は、神から与えられたこの栄光の使命、地を治める支配権を、己が栄光と己が益のために用い、横暴に支配し、無益に殺生し、自分勝手に搾取することで、結局今日の環境破壊と自滅の道に至ったのでした。
 
 しかしこの詩編で詠われている本来の人間の姿を、神が再び回復し、取り戻してくださいました。神は本来あるべき人間、まことの人間、神の像としての人間を、イエス・キリストにおいて成就してくださったのでした。この詩編は、実は主イエスについて語っている詩編です。キリストこそ「見えない神の像」(コロサイ1章15節)であり、キリストにあって、人間は神の栄光とその代理者へと高められたのでした。人間に与えられた、地を治める務めは今やキリストに与えられました(マタイ28章18節)。主キリストこそ、神によって高められた人間そのものとなられた方なのです。5~7節がヘブライ2章6~8節に引用され、それはキリストのことであると理解されています。キリストこそ、栄光ある神の御子であるながら、乳飲み子となって、つまり最も弱く小さい姿をとってこの地上においでくださり、貧しさのうちに生き、神に従って、地上での贖いの御業を果たしてくださいました。受肉、受苦、十字架、死、葬り、よみ下りという一連の「キリストの低い状態」をもって、罪にある人間を贖い、ご自身が低くされることによって、人間を高めてくださったのでした。それによって神はキリストを高められ、ご自身の代理者としての支配権を与えられたのでした(フィリピ2章6~11節)。
 
 それにしても神の偉大な栄光が、「幼子と乳飲み子」
によって表わされるとは、何という恵みでしょうか。主がエルサレムに入城されたとき、主をほめたたえたのが幼子たちでした(マタイ21章15、16節)。神は幼子たちによって、その栄光を表わし、賛美させるのです。幼子とは、人間の最も小さく弱い姿です。であればこそ神だけが彼らの依るべであり、彼らは己の弱さと無力さを自覚するゆえに、神にのみ依り頼むのです。だから神の国は、彼ら幼子のものとなるのです(マタイ18章1~5節)。そして偉大の神の栄光は、実に彼ら弱く小さき幼子によってこそ表わされるというのです。己の弱さと無力さを自覚して、ただ神に依り頼み、神だけを信頼して生きる彼らこそ、神の栄光の器なのです。神はこの世の知者、力ある者を辱めるために、取るに足りない者を選んでくださいました(コリント第一1章26~29節)。死すべき人間、塵にすぎない人間、それも最も弱く取るに足りない者を選んで、神の栄光の器としてくださる、その恵みを感謝したいと思います。弱い者なればこそ、神に依り頼んで生きる私たちを慈しみ、憐れんで、ご自身の尊い栄光を表わす者として高めてくださる、その慈しみを覚えて賛美したいと思います。乳飲み子が、乳を求めて力一杯泣き叫ぶ、あの泣き声が神の栄光を賛美していると、この詩編は語ります。私たちも、力の限り主の恵みを感謝し、主を賛美する者でありたいです。
 
                稲毛海岸教会牧
                     三川栄二
世田谷通信
猫 草
(44)
 
 a6b4da9e.jpgテレビの健康番組でのお話。テーマは「更年期障害の薬物治療」。そろそろ自分にも関係ありそうな話だったので、そのまま眺めていた。東京の某女子医大(って1校だけか)の女医さんが更年期障害への薬物治療のあれこれについて説明する。聞き手のアナウンサーが「何々ですね」と要約すると、「ええ、日本では」と言うので(これは日本国民向けの番組だろうが!)とも思ったが、まあいいか、口癖なんだろうね。と気にしないことにして視聴を続けた。そして番組のまとめ。アナウンサーが「先生、どうやったら自分に一番合った治療法を見つけられるのでしょうか?」と聞いた。
(そうそう、それよ核心は!)と身を乗り出して答えを待つと、その女医さん「そうですね、まず、自分に一番合った治療法を見つけることが重要です」と真顔で言ったのだ。こらこら~それは答えじゃない!ただ質問を繰り返しただけでしょう!と思わずテレビ向かって突っ込みをいれてしまった。一瞬のきまずい沈黙のあと、女医は笑顔で「まあそれでも迷われると思うので、まずは試してみることですね!3ヶ月ぐらい試して効果がなかったら次を試すといいと思います!」と結んだ。
アナウンサーの「まあ、いろいろ試してみる、っていうことですね・・」と内心うんざりしているに違いない無難なまとめで番組は終わった。医者に行くとある種の歯がゆさ、脱力感を感じることがある。肋骨にひびが入って「何してても痛いんです」と言うと「じゃあ、痛くないように生活してください」とか。(そんなことができるなら苦労はしない)。不眠を訴えると「眠りたいなら薬出しますけど、その代わり一日中ぼーっとしてもいいですか?」とか。(いいわけないでしょう!)
高いインフルエンザの予防接種をしたのにインフルエンザにかかって診察に行くと「なんか今回はずれだったみたいですよね。ま、あたりはずれがありますから」って占いかクジじゃないんだから!そりゃあね、ワクチンや薬を作るのは製薬会社で、医者はそれを処方するだけだから、直接関係ないのかもしれないけど。なんていうのかなあ、この会話のかみあわなさ。
医者の立場からは間違ったことは言ってない、でも、そういうこと聞きたいんじゃなくて。という空しさ。名医って、どんな感じなんだろう。居るなら一度会ってみたい。いや医者に行かずに済むのが一番ですが。
 〈つのぶえ社・出版物案内〉
 
 
 
旧約婦人物語
ポーリン・マカルピン著
550円
新約婦人物語
ポーリン・マカルピン著
350円
さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
3000円
ジャパニズ・ヒムス・
 
 
イン・イングリッシュ
ポーリン・マカルピン著
1500円
日本伝道百年史
 
 
バラ・マカルピン宣教記念誌
発刊編集委員会
1500円
田舎牧師の記
諏訪武臣著
3500円
初歩教理問答書
(日曜学校用)
250円
解説ウェストミンスター信仰告白
岡田 稔著
500円
緑のまきば
 
 
=絶対者なる神を求めて=
吉岡 繁著
2000円
聖霊とその働き
E・H・パーマー著
 
 
鈴木英昭訳
1500円
初めて学ぶキリスト教
ヘリクマ・テュック共著
 
 
鈴木英昭訳
700円
死後と終末
W・ヘンドリクセン著
 
 
鈴木英昭訳
1900円
われらの教会と伝道
C・ジョン・ミラー著
 
 
鈴木英昭訳
1000円
ウェストミンスター小教理案内
鈴木英昭著
1500円
ウェストミンスター信仰基準
鈴木英昭訳
1100円
 
小教理問答
 
 
大教理問答
 
 
信仰告白
 
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
1800円
男女の役割の関係
ジョージ・W・ナイトⅢ著
 
 
鈴木英昭訳
1000円
 
 
 
 
詩編を祈る 7編
 
「あなたを避けどころとします」
 
 この詩編の直接的背景は明らかではありません。伝統的には、このベニヤミン人クシュは、ダビデの命をつけ狙っていたサウル、またはその腹心の部下と考えられてきました。いずれにしろ、いわれのない中傷を浴び、無実の罪で訴えられて苦しんでいるのです。
6編と違い、後ろめたいところはありません。むしろ自分の無実を訴え、神が身の潔白をはらしてくださることを求めます。
 ダビデはここで誓いの形で、自分の無罪性を主張します。自分に不正はないこと、仲間を陥れたことはないこと、悪者の悪を不正に見逃したことがないことをです。これらはいずれも道徳的完全さではなく、社会的正義です。ダビデは一人の市民として、また王として、国を司り、裁きをなすとき、まずこの社会的公正さが求められました。そしてその点で落ち度はないと主張するのです。
神が繰り返しイスラエルに求められたのが、この社会的正義でした(アモス5章24節、ミカ6章8節など)。神への信仰と畏れが欠けるところでは、神の像に造られた隣人に対する関わりも失われていきます。十戒の第一の板の戒め(神に対する戒め)を破るところでは、第二の板の戒め(隣人に対する戒め)も破られていくのです。ダビデはこの点において、落ち度はなかったのでした。
 
 しかしそれにもかかわらず、彼に追い迫り、魂を餌食とする者がいるのです。獅子が獲物をもて遊び、引き裂き、貪り喰らうように、その魂をずたずたに引き裂き、もて遊ぶのです。自分の力では、どうにもならない圧倒的の力の前に、踏みにじられていく様が語られるのです。かくも無力なダビデが、ここでどのように神に向き合っているかを見ていきましょう。彼は神を「主」と呼び、この主なる神を「避けどころ」とするのです。主、ヤ-ウェとは契約の神、ご自身の立てられた契約に忠実な神です。ダビデはこの神から一方的に契約を与えられ、王とされたのでした(サムエル下7章)。今、見に覚えのないことで中傷され、追われる身となっているのも、この神との契約のゆえでした。だからダビデは、自分の神が契約を守られる、真実な神であることに訴えて、助けを祈り求めているのです。
 
 しかもここでダビデが求めていることは、神ご自身が天の法廷を開き、裁きを行われることでした。地上の法廷では、不義がまかり通り、わいろによって裁きが曲げられます。人間の評価は不正確で、その裁きは偏っています。ですから唯一の正義であられる神が、その公正をもって正しく裁いてくださり、心のまっすぐな者を救われるようにと求めるのです。神の怒りは、感情的なものではなく、どこまでも倫理的なものです。不義と罪に向けられていくものです。
だから神とは「正しく裁く神。日ごとに憤りを表わす神」なのです。つまり神は日毎に、その義をもって悪しき者を裁き、正しい者を救われる神なのです。その神の裁きの確実さを、剣、弓、殺戮の武器、炎の矢によって表現し、城を取り囲んで、ついにそれを落城させてしまう様になぞらえています。しかし最後の落城は、実は自滅です。結局、悪しき者は、自らの悪と罪によって自滅するのです。彼らの悪が、自らの滅びを招くのです。
 
 ですからまことに畏るべきは、「心とはらわたを調べる方」です。それは心臓と腎臓で、知性と情緒が宿る場とされています。人が探ることができない深みにまで、それを探り究めることのできる方をこそ、畏れなければなりません。
「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる」(箴言16章2節)「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サム上16章7節)まさにその言葉によって自分を選ばれた神を信じ、ダビデは訴えます。この神を畏れる者にとっては、このことこそ慰めなのですから。
 
稲毛海岸教会牧師
                                               三川栄二
 
世田谷通信 
 猫草(43)
 
 長男の部屋の水槽にはヤエヤマイシガメとアカハライモリがいる。以前にはアフリカツメガエルもいた。過去形なのは、この3種を1つの水槽に入れていて、悲劇が起きたからだ。まず犠牲になったのが体長4cmほどのカエル。ふと見ると手だけになっていた。犯人は当時体長5cmのカメ。こいつがたいして大きさの変わらないカエルを食べちゃったのだ。その点イモリは体長20cm、カメよりはるかに大きいし(長いし?)、
みたところ餌もまあ対等に奪い合っている。カメのほうが敏捷で食欲旺盛だが、水槽も大きいしなんとか共存していけるだろう、と楽観していた。ところがまた悲劇が起きたのである。いつも水にもぐっているイモリが石の上にいる。よくみると左後ろ足がない!カメに食べられたのだ。あわてて水槽を別にするがイモリはぐったりしている。
ごめんイモリ、痛かったよね、と謝りつつ、待てよトカゲの尻尾は再生するが、イモリはどうだっけ? と疑問がわく。いやいや、トカゲは爬虫類、イモリは両生類、姿が似てるからって無茶な論理?と思いつつ調べてみると、なんとイモリの再生力はトカゲ以上なのだそうだ。目を失っても水晶体が再生する、手足を失っても生えてくる、らしい。でも一体どうやって。オタマジャクシの足みたいな感じ?というわけで観察することにした。
最初の1週間イモリは食欲もなく、失った足の周りはゼリー状の半透明なもので覆われている。3週間ほどするとそのゼリー状の中に白い足先が!指もある!しかし太ももからいきなり足先が出ている感じで、失敗だったのか、やがてゼリー状の物が消えた。そして今は食欲旺盛、切れた足先から白い骨?のようなものが5mmほど突き出している状態。
これからどうなるのか観察は続くが、とにかく元気なのでほっとした。
不思議なのが最強生物のカメが水槽に一人ぼっちになって急に元気をなくしたこと。あれほど見境のない食欲が失せ、一日石の上でぼーっとしている。きっと寂しいんだよ、と長男は言う。とはいえ相手を選ばないと食うか食われるかの関係になるし。同じ種類のカメでも餌と縄張り争いはあるし。生き物が共存するって厳しくも難しい。
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お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
4008bd9e.jpg
われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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