[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
世田谷通信(175)
猫草
図書室では毎年数百冊の本を購入・寄贈で受け入れする。でも棚の数は有限で場所も増えない。ということは同じ数の本を廃棄しなければ置けないのである。新しい本の受け入れは気分が浮き立つが、資料的に古い本、人気がなく読まれなくなった本のラベルを剥がして、分解し廃棄する作業は精神的に疲れる。本を捨てるのは本好きには辛いのだ。
そんなことがあって、気分が落ち込んでいた反動からか、1冊の古書を買ってしまった。市川崑・和田夏十著「成城町271番地」白樺書房、昭和36年初版本である。市川崑と言えば有名な映画監督、成城町271番地は現在の成城2丁目辺りと見当がつく。表紙が破れ状態がよくないこともあり、値段は安い。
家に帰って見返しをみて、おや、と思った。著者献呈本である。大河ドラマにも出演している俳優さん宛て。破れた表紙に俳優名の千社札シールが貼ってある。裏表紙には最初に買い取った古書店名もある。六本木の俳優座劇場前にあったその書店は既に閉店。市川崑監督と俳優との交流を示すもので、映画好きには興味深いものだろう。回りまわって、芸能に全く詳しくない私の手元に来てしまって申し訳ない限り。
本の内容は、40代の市川崑監督が映画会社の意向と予算とスケジュールの中で苦心している様子が綴られている。世間の評判を気にかけ、自分のスタイルを模索し、映画評論家と激論し、映画とは何か散々小難しく悩んでいる様子が面白い。後半は監督の奥様であり、脚本家でもある和田夏十さんの日常が綴られている。こちらはわかりやすく率直な文章。家族のお弁当を作り、庭仕事をする合間に、台所の机で脚本を書いている様子がうかがえる。お庭に紫苑を植えたが枯れてしまったともある。現在、紫苑は環境省レッドリストにも載っている絶滅危惧種になってしまった。花屋でよくみかける紫の小さな菊は宿根アスターという名前らしい。昭和36年にはありふれた花も平成30年にはもう手に入らない。大量生産の本を大量消費している現実があり、50年以上前の古書から読み解く現在もある。
世田谷通信(174)
猫草
長男に「何かやってみようと思ったらネットで調べる。ホームページがしっかりしていたら、信用できると思うし、連絡してみようかな~と思うよ。」と言われた。仕方なく活動するボランティア団体のホームページは作ってみた。でもやはり放置・・ダメな管理人である。せめて春までに一度更新しよう。
今どき一番手軽な情報源はインターネットで、大抵の情報はネットに落ちている。嘘も過去も主観も悪意もごちゃ混ぜ。そのカオスから一粒の情報を拾ってくるのには自己責任と慎重さが必要になる。短い罵倒、石つぶてのような中傷、悪意ある言葉を目にすることもままある。そういう言葉の刃や誤解が怖くて、自分は情報発信にとても消極的だ。ツイッターもインスタグラムもブログもやらない。ラインに誘われても全て「煩わしい」から断っている。
自分のことはさておき、学校図書室でもIT化が進行中である。これまでの紙のカード記入から、バーコードによる読み取りにシステムが変わった。どんな感じになるだろう?と正直不安があったが、大人の懸念を払拭するかのように図書委員さん達はやる気まんまんである。これまで中休みや昼休みの当番に来なかった子達も忘れずに来る。当番でもないのにやってきて、隙あらばバーコードでピッとやりたがる子もいる。貸出し返却手続きとしては、以前より煩雑になったのに、嬉しくて仕方がない様子である。空いた時間には静かに本を読んでいたのに、むやみに本の検索をしては「おお~!」と喜んでいる。子どもたちばかりでなく、若い先生もそうなのだ。無邪気すぎてちょっと引き気味な気持ちになる。そんなに画面上に展開する世界を信用していいのか。初期パソコンで何の前触れもなく爆弾マークが出てフリーズ、全データが消える煮え湯を飲まされた世代と、インターネットがある世界に生まれた世代とのギャップかなあと思う。
矛盾を抱えつつ便利は便利、一人で暇だとついグーグルホームに話しかけてしまう。私が「OKグーグル、何か歌って」と言うと「デハ、イキマス!・・・ウ~タ~♪」だと。馬鹿にしてるのか。うーん、やはりこいつを信用できない。
世田谷通信(173)
猫草
昨年末、高校時代の同級生と偶然再会した。卒業以来30数年ぶり。近所の集会所で「世田谷の歴史と緑」みたいな講演会を聴きに行ったら「講師の先生」が同級生だったのだ。なぜ分かったかと言うと彼が「世田谷の花はサギソウ、私の高校校歌にも出てきます・・。」と一節を口ずさんだのだ。それで「おや?もしかして同窓。」と思いあたったのだから歌の力、恐るべし。
講演後、旧姓を名乗ったら向こうは覚えていた。そして立て続けに当時の先生や級友の名前を言われた。「うわー、懐かしい!」とその場は話を合わせたが、実は全然思い出せない。そもそも覚えていない。トンチンカンな状況になるのが目に見えているので同窓会にこれまで出たことがない。学生時代、新しいクラス全員の名前と顔を一致させるのにどれほど苦労したことか。教室を間違えてしばらく気がつかず座っていた事すらある。クラスと集合写真を確認してから登校し、1年かけて覚えた頃にまたクラス替え。いつも相手に「分かってないことがバレませんように」と願いつつ話していた。再会した方とは、あろうことか同じ部活、中学・高校が一緒だったそうな。私は卒業アルバムを見ても感慨はなく、きれいさっぱり他人事である。
動植物やその他の暗記はすぐにできるのだが、人名と顔は極端に苦手。そんなわけで今の小学校800人を超える児童が在籍しているのだが、名前を覚えているのは一人だけ。その子は図書室の隣のクラスで、授業中しょっちゅう図書室で本を読んでいるからだ。もちろんそんな勝手が許される訳ではない。でも彼は少し集団になじみにくく、感情のコントロールが難しいのだ。それゆえ先生公認で図書室をクールダウンの場にしている。放置ではなく、私も「新しい本入ったよ、面白いよ」と声をかけるし、先生方や支援員の人もいる。
全ての児童が教室で一斉授業に適応できるわけではない。保健室やカウンセリングルームや少人数教室、図書室などいろんな場所が受け皿になって、その子にとって心地よい場所で見守ればいいのだと思う。かく言う私も毎年ほぼ見知らぬ40人とクラスメイトという集団にされて1日の大半の行動を共にし、芽生えたことにされる「絆」「友情」がひどく苦痛だった。できれば私も図書室で過ごしたかった。
小学生の彼が図書室の棚の間で好きな本に熱中して過ごしているのを、ちょっと羨ましく、また微笑ましく眺めている。
*写真は「サギソウ」
世田谷通信(172)
猫草
里山の竹林で何本か竹が枯れていた。10mぐらいの高さでぐんにゃり折れ曲がっているのもある。放置すると危ないので伐ることになる。せっかくの機会なのでやらせてもらった。これまで一人で竹を伐ったことはなかったのだ。まず、どちらの方向に倒せば良いかを考える。なにしろ高低差20mの急斜面。国分寺崖線の中でも最も傾斜が急な場所なのだ。竹の向きや切った後の移動、他の竹との位置関係で倒す方向を決めたら、そちらに竹切り用のノコギリで切り込みを入れる。受け口というのだそうだ。幹の半分ぐらいまで切れたら、受けの少し上の位置で反対から切る。これが追い口。こうすると最初に切った受け口がつぶれて倒したい方向にちゃんと行ってくれる。ところが最初の1,2本はできたのだが、直径20cmはある竹は固い。だんだん腕が疲れてきて、受け口が斜めになり、追いとの高さも合わない。こうなるとやっかいだ。ベテランのみなさんに「もう危ないからどいて」と言われ、かえってご迷惑になる始末。
やってみたい気持ちはあっても、技術や知識、それに腕力、体力がないと危ない。ボランティア活動は一度事故があると活動自体が縮小されたりするので、本当に注意が必要だと思う。別のボランティアグループで、鉈が滑って自分の親指を切り、救急車を呼ぶ事故があったと聞く。斜面で転んで複雑骨折した方もいる。そもそも高齢者が多いので丸太みたいに重い物は運べないし、杭打ちとか浚渫とか、パワーの要る作業ができない。
そうなると若い人たちに参加してもらいたいわけだが、定期的にとなると難しい。イベントの日だけ一緒にササを刈ったり、竹コップを作ったり、外来植物を除去したりといった気軽な里山体験は結構人が集まる。農大の先生に森林を案内してもらって森林療法体験をするのは人気のプログラムだ。小学生だってやり方を教えれば一生懸命落葉かきをやってくれる。でもボランティアグループに入会するのは人間関係が面倒くさそう、毎回出るのは忙しいから無理、組織なんて勘弁してよ、なのだ。高齢者ばかりで世代間ギャップもあるだろう。それなら今は自然の中で汗を流して、楽しかった思い出を重ねてもらおう。将来的に時間ができたときに、じゃあボランティアでもやってみようか、という気持ちになるのを気長に待ってみましょう。それまで自分にできることは、ベテラン勢からいろんなノウハウを受け継いで、できるだけ蓄積し、途切れさせないこと。さて、教えてくれる人たちがいるうちに、竹もまた切らせてもらおう。
世田谷通信(171)
猫草
普段は半径2kmぐらいのエリアで暮らしているのだが、たまに出かけると世田谷の住宅街にもいろんな風景があるなあと思う。例えば世田谷に深沢という場所があり大邸宅が多いのだが、コンクリートの壁に囲まれて、塀の上には防犯カメラ、要塞のような威圧感がすごい。うっかり野球のボールをとりに入ったら瞬間的にレーザーで焼かれそう。あくまでイメージですけれど。どなたが住んでいるのやら。
しかし成城界隈のお屋敷は低い生け垣と庭の木々に包まれて洒落た家屋がのぞくのが昔からのスタイルである。昭和の初めに成城学園が移転し、小田急線が開通し、住宅開発が始まったときに、敷地内の樹木をできるだけ残すことと、生け垣が推奨されたらしい。また和風住宅には松、洋風住宅にはヒマラヤ杉を植えていたようだ。
そんな街並の一角、崖沿いの高台に一軒の住宅がある。時々前を通っては、なんだか素敵な建物だなあ、庭は荒れ放題で誰も住んでいないようだけど・・、と気になっていた。それが今年文化財として修復が済み、一般公開されたのである。さっそく中をのぞいてみると、ステンドグラスが玄関ドアの周囲にはめ込まれ、光を柔らかく通している。床は寄せ木細工、壁はクリーム色の卵漆喰。窓は分銅による上げ下げ窓、テラスには綺麗な模様の古いタイルが少し残っている。
応接間にはマホガニーの手すりのついた階段と大きなステンドグラスもある。2階は居住スペース。特別保護区の森を借景にできるテラスもある。2階には 和室もあるが、障子の外に狭い縁側を設け、外観はあくまで洋館である。和魂洋才という言葉があるが、日本の職人さんが丁寧に洋風建築を作った心意気が感じられる。昭和の初めに実業家が建てて、戦後進駐軍にしばらく接収され、その後画家の家だったとのこと。成城にも数少ない貴重な洋風の近代建築である。
華美ではないが、質素でもない、実用的だが機能一辺倒でもない、これが住む人のセンスだなあ。としみじみしながら帰宅する。さて、あんなお屋敷とは比べる気もおきないが、我が家も年末年始に向けて、玄関周りの掃除と生け垣の手入れをしなくては。
世田谷通信(170)
猫草
保全ボランティア活動をしている緑地、通称里山周辺には学校が多い。公立と私立の小、中、高がある。今年さらに保育園と特別養護老人ホームができた。同じ建物に2つの施設が併設されるスタイル。そこの保育園児も要介護のご老人達も隣接する緑地をお散歩などに活用したいという。せっかく隣に2ヘクタールもの緑地があるのだし、いいんじゃない?と思っていたら、緑地の「リスク」について教えて頂きたいと保全ボランティアにお話がきた。うーん、そんなの考えたことがない・・。犬の散歩や通勤通学、近隣の方々が好きなように使っている場所なのだ。だって駅までの近道だし、公園だもの。
でもまあ、この際だからちょっとまとめてみましょうと、毒やトゲなど危険のある動植物をざっと挙げてみると、緑地に入るのが怖くなるぐらいリストはいっぱいになってしまった。
なぜなら、ほとんどの植物はアルカロイドという毒を持っている。それは葉っぱや花、実をむやみに食べられないための自己防衛であり生き延びるための植物の知恵である。毒があるから薬にもなる。タバコやコーヒーだって多用すれば毒だが、適量なら嗜好品ではないか。要するに人間側の使い方次第ということだ。
昆虫や蛇なども、こちらから挑発しなければ、噛んだり刺されたりということはまずない。でもまあスズメバチの巣は地面の下にあるし、ムモンホソアシナガバチは一枚の葉裏に巣を作る。うっかり踏んだり、手で払いのけたりすることはあるだろう。幼児や老人といった抵抗力の低い人たちは、アレルギー反応、アナフィラキシーショックを起こすかもしれない。蜂毒のアレルギー検査ぐらいはやっておいた方が良いのかもしれない。
土にだって無数の微生物がいるし、マダニや蚊を媒介して感染する場合もある。だが自らヤブや湿地に入らなければ、それほど危険はない。
車の事故は絶えないが、それでも車を利用し続けているのには危険と利便性を天秤にかけて、利益が上回ると判断しているからだ。どんな事象もリスクゼロにはできない。ある程度のリスクは保有したままで、適当なところで折り合いをつけるのだ。
むやみに怖がるよりも、重大な事故にならない程度に小さなリスクの経験と抵抗力を高めていく。そして緑地を歩くことは、癒やしと発見に満ちた宝物のような経験になるはずだ。一緒に楽しみ方を見つけていきたい。
世田谷通信(169)
猫草
通信制大学で資格を取ることについて書いてみようと思う。私が取りたい資格の場合、必要単位は5教科10単位。自宅でパソコンに向かうだけである。大勢の若い人が居る大学に通う気力もない自分には大きな魅力である。とは言えそんなに簡単でもないなあというのが実感だ。
まず送られてきた分厚いテキストを読んで自分で勉強する。その後2000字のレポート課題をweb上で書いて送信する。手書き郵送でもいい。インターネット上の情報を丸写しするのを避けるためにコピーやペースト機能は一切使えない。不便だが仕方ない。1~2週間程度で採点されるが、2ヶ月も返事がないこともある。待たされると不安は募る。合格すれば良し、再提出ならまた2000字のレポート提出である。1度で合格する科目もあったが、再提出3回の教科もあった。不備を修正し、指示通りに再提出しても、次は全然違う点を指摘されて再々提出となった。がっかりしつつ、さらに2000字のレポートを書く。顔の見えない採点者から何を求められているのか分からず、手探りで書く。相談できる仲間もいない。このままずっと合格しなかったらどうしよう、と孤独で心が折れそうになる。
そんなこんなで、ようやくレポート課題が合格すると最終試験になる。会場受験か、自宅受験が選べる。会場は全国10カ所。会場受験には最終試験問題集を持参する。事前に試験問題が分かっているなら楽勝だろうって?そんなに甘くない。問題集への書き込み一切不可。一文字でも書いてあったら試験終了、2ヶ月は試験が受けられない。1科目に数十個の試験問題が提示されていて、問題番号は当日発表。つまり科目×数十個×1000文字程度の回答を準備し暗記していく必要があるわけだ。web受験の場合、試験問題は当日画面上で表示される。何を参照しても良いが全範囲をきっちり勉強しておくことになる。
悩んだ末、web受験を選んだ。往復の移動時間が面倒だったのだ。当日試験時間にパソコンに向かい、ログインして緊張しながら待つ。試験開始、問題が表示され、回答作成画面にひたすら回答を書き込む。終了時間までに送信ボタンを押せばよい。最終試験はほぼ毎月実施され、不合格なら再受験できる。今のところ4科目受験して合格、残すはあと1科目。
通信教育もなかなか厳しい。内容も大学に通うのと同等かそれ以上に勉強している。さてあともうちょっと。もう一度テキストを復習するとしよう。
世田谷通信(168)
猫草
リタイア層、高齢者が多い里山ボランティアだが、時々企業や大学生が参加してくれる。若い人が来てくれると場が華やぐ。重い物を運んで貰ったり、硬い材を伐ったりもお願いできる。
ある外資系企業の社会貢献プログラムで来てくれる人に聞くと、年間で複数のボランティアメニューがあり仕事の都合と好きな内容を選んで参加するそうだ。選んだ理由は「子どもの頃にこういう近所の雑木林で遊んだことがある」「最近、自然に触れる機会がないと感じている」「日々の仕事にちょっと疲れ気味で自然に癒やされたい」といった声が多い。
大学生参加者にも幾つかの共通点がある。子ども時代に里山で遊んだ経験がある。親がボランティア活動に参加しており、楽しさと大変さを事前に見聞きしている。そして進路や大学生活などを模索中なのである。
若い人たちも森に癒やしを求めたり、日頃の鬱屈をリフレッシュしたい気持ちがあるのだろう。転地療法とか作業療法という活動もあるようだし。
お願いする作業はササ刈り、竹伐り、水草抜きなど。特に竹を伐ってからの一連の作業が面倒である。10m以上の高さの竹を伐って、斜面から広場まで運び、枝を落とす。枝はシュロ縄でしばって粗朶にし、斜面の土留めに使う。適当な太さの竹を菊割という鉄の道具で4~5本に割る。割った竹の節を落として、落葉溜めを作ったり、先端を鉈でV字に切って竹串にする作業もある。
若者、大活躍である。大学生参加者は近所の子なので小学生の頃から知っているが、昔の面影を残しつつ、頼りがいのある大人になっている。懐かしく不思議な感じがする。企業ボランティアには外国の方も多く、パワフルだ。力の要る部分は若い人にお任せで、高齢者は監督しつつ草刈り。良い光景である。
若い人たちの感想はみなさん「楽しかった」「久しぶりに体を使って労働した」と好評である。筋肉痛になるし、汗でベタベタ、蚊に刺されるし、草や泥で汚れる。半日だけだが、作業後の笑顔は皆さんとてもすっきりしている。
「また来たい」そう言って、実際に何度か来てくれる人もいる。たとえ忙しくて「次回」につながらなくても、里山経験者が増えていけばいいのである。
世田谷通信(167)
猫草
別の環境保全ボランティア活動に誘われ、そちらにも行ってみた。こちらは人数も多く、調査も野草、昆虫、水生生物、きのこ等グループに分かれて本格的。フェノロジー(開花調査)、コドラート(区画植生調査)と言った専門用語も使われている。議事録や報告書はきっちり、専門家もたくさんいて、とても厳密。こっちに最初に入っていたら続かなかったかも、とやや引き気味。保全を巡って意見が対立し、「それは違う!」や「そういう意味じゃない!」と白熱してくるし。メンバーの半分ぐらいは顔見知りだが、場所が違えば表情も意見も違っている。いろいろあるんだね、と眺めている。
要するに、公開されて人が日常的に利用することが前提か、非公開で保護すべきかの違いなのだ。前者は外来種だって入ってくるのは仕方ないし、持ち出されることもある。諸々の変化が受容されている。里山は近所の人たちが入会地として皆で共同管理する場所。枝を払い、竹を伐り、タケノコや山菜をとり、水を田んぼや畑にひいたり、橋や通路が壊れていたら気がついた人が修理する。よかれと思ってやった結果が、プラスもマイナスもあって緩やかに変化しつつ保たれている。
でも保護区の場合は、基本方針や年間計画、年間目標があり、その範囲内で活動するという縛りがある。変化を加えたい場合は、それが及ぼす影響や生態系全体のバランスを考慮しながら、という感じ。
議論を聞いていると、生態系を守るって何なのかなという素朴な疑問が湧く。土壌の無数の菌から、水や木や植物や生物の複雑きわまりない繋がりのうち分かっているのはごく一部なのに。ヒトが議論している間に木は茂り、草は競争を続け、生き物もその命をつないでいる。益も害も誰の視点なのか、角度が変われば万華鏡のようにその形を変える。
先日、家のスイートピーにアブラムシが大量についたので、公園からテントウムシを1匹スカウトし「好きなだけ食べて」とお願いした。彼(彼女かも)は数日スイートピーをせっせと歩きまわってはアブラムシを捕食して全滅させ、仕事は終わったとばかりにどこかへ羽ばたいていった。私とスイートピーはほっとして、テントウムシは満腹。アブラムシには大災厄だろう。ヒトにできるのはその程度の生態系への関与が関の山ではと内心思っている。
世田谷通信(166)
猫草
小学2年生に春の里山を紹介する授業があった。私もスタッフとして参加していたのだが、7歳の子供の屈託のなさは素直すぎて眩しい限り。
春を探すゲームとして、「虫」「黄色の花」「鳥」「ハート型の物」などのキーワードを与え、ビンゴカードのように区切ったマス目に見つけたら記入していく。ハート型の物を探すのに苦心したらしく、ハート型の石、木の穴、雲の形など意外な答えが出てきて面白かった。こちらはカタバミの葉っぱとかナズナの実の部分などを想定していたのだが。
虫を探してみようと言っているのに、子供たちが「いたー」と大騒ぎしたのはカナヘビとムカデ。それ、どっちも虫じゃないし。
植物の匂いを嗅いでみよう、というお題でドクダミ、キュウリ草、ハナニラ、ヨモギなど特徴的なものを用意していたのに、子供たちが嗅いでみたのはタンポポ、松ぼっくり、桜の花びらなど、なんとも形容しがたい。草をちぎって鼻に近づけている子に、どんな匂いがした?と聞くと「草のにおい~」そりゃそうだ。予想の斜め上とはこのことだ。
広場から湧水に降りて、サワガニなどの水生生物をみせる。わき水を触らせると、大喜びで袖まで水につけてしまう子がいる。「服が濡れてるよ」と言うと「大丈夫!だってね、これはお古だから!」と得意そうに返された。汚れてもいい服装でと親が着せたのだろう。でもわざと汚して良いって意味ではないよ。春とは言えまだ肌寒い。一日袖が冷たいだろうに。
さらに移動して落葉溜めで丸々太ったカブトムシの幼虫を見せる。7歳にして「触りたーい!」と目を輝かせる子と「気持ち悪っ」の二派に分かれる。現時点では後者が少数派。高学年になるほど後者比率は高くなる。6年生では大半の女子と一部の男子は「絶対無理!」と悲鳴をあげる。
「虫は苦手」な若い先生も多い。子供の手前、平静を装ってはいるが「ひゃー」と呟きながら手にこわごわ乗せて、結構ですと戻してくる。理科で昆虫を扱う授業はどうしているんだろう。教科書を読んで終わりかも知れない。
雨の翌日で、2カ所遊歩道の真ん中からタケノコが生えていた。転ばないように「タケノコ、気をつけて」と声をかけると、「どこ?」と上を見回している。さすが都会っ子、タケノコは足元、という常識が通用しない。それでも、なかなか楽しそうではある。こうして小学1年から6年まで里山で体験授業を行っている。子供の頃に全く土や虫や植物に触れる経験がないと、大人になって森に来ても癒やされないし、まして懐かしいという感情は持てないだろう。ささやかだが自然に触れる原体験を育んでくれたらと思う。
世田谷通信(165)
猫草
世田谷の制度を利用して、ガーデニングを頑張っている。今までは思いつきで植物を庭の空いているところに植えて枯らす、の繰り返しだった。まあ気が向いたときに特売品の花や苗を買っていたので然もありなんである。
しかし今度は違うのだ。ちゃんとプランを作り、申請して承認を受け、実行してから報告書も出して、助成を受けるという立派なプロセスがある。3軒以上のグループで活動するという条件もあるのでお隣とお向かいを巻き込んでの共同作業である。とはいえ自分たちだけではプランも作れない。この制度の良いところはガーデニングの専門家を派遣してくれるところだ。現地を見て、ここにはこういう植物とか、あっちにプランターか、ハンギングバスケットもいいんじゃないか等、色々とアドバイスをもらうことができる。
最初はプランなんてめんどくさい、と少しうんざりしていたのだが、計画してから園芸店に行くと、目的がはっきりしているので買いやすい。例えばラベンダーといっても濃い紫から白やピンクまで様々な色があり、雰囲気も違うのだ。
ベランダ前に培養土を入れてレンガで囲い、ラベンダー、ローズマリー、タイムなどのハーブ類を外から見えるように育てる。雑草だらけの門柱周りも一度掘り下げて腐葉土を入れる。何を植えても育たないな、とあきらめていたのだが、掘り返してみたら木の根が思った以上に広がっていた。根をとって、雑草を抜いて、土をふるい、肥料を入れたら植物が育ちそうな、ふかふかの土になった。今までこのプロセスを省いていきなり穴を掘って植えて、いや埋めていたのだから、植物に申し訳なかった。こんな場所無理と内心ご立腹だったに違いない。植物が寡黙で良かった。
いい土にしたらスイートピーがよく育つ。アズレウスという、深い青紫の品種で実に美しい。綺麗な花が咲くと手入れも楽しくなる。植物と向きあって、土に触れていると、ささくれた気持ちも落ち着く。植物や土いじりをするセラピーもあるそうだ。さらに植物の好きな方が綺麗ですね、珍しい種類ですね、と通りかかって声をかけてくれたりする。褒められるとやる気も出る。次はどこを手入れしようかと構想が広がる。いい循環である。
世田谷通信(164)
猫草
学校での図書の仕事を続けるのに必要なので、司書教諭の資格をとることにした。大学に通う時間や気力はないので、通信教育である。たった5科目10単位、通学は一切なし。そんなに金額や期間もかからないだろうと思い立った。
大学の卒業証明書等を取り寄せて、入学準備をするなんて何十年ぶりのことだろう。今やインターネット出願。証明写真を貼ったり、誤字脱字に気をつけながら願書を書いたりしなくてもいい。便利な世の中になったものだ。
必要書類や振り込みが受理されてガイダンス、テキスト、学生証が送られてきた。法学部の所属らしい。形ばかりだが学生気分でちょっと嬉しくなる。
大学の通信教育部で学ぶ人たちの年齢や状況は様々である。仕事をしながら、定年後、家庭の事情、健康上の理由で通学できなくなった・・等々。でも、学ぶ気持ちがあればそこに道は開いている。素晴らしいことである。
テキストは毎晩少しずつ読んで、課題や設問にも日々取り組んでいる。レポートはインターネットの通信教育サイトで提出する。これまで断片的な知識で図書の仕事をしていたのが、体系的に整理されてくる。認識が間違っていた部分もあり、これまでのやり方を見直すきっかけにもなる。
最終試験の問題ももう届いている。論述課題が1教科につき数十個並んでいるのだ。試験当日、会場で試験問題の課題番号が発表される。持ち込みも書き込みも一切不可なので、事前に数十個の課題の回答を全部暗記していくのはかなりの勉強量だと思う。インターネット受験の場合は当日別の問題が提示される。回答には時間制限があり、文字数も多い。コピペもできない。その場で入力するのみなので、内容がしっかり頭に入っていないと解けないようになっている。学ぶからにはきちんと取り組んでもらいますよ、という大学側の姿勢がみてとれる。お金さえ払えば遊んでいても単位がもらえて卒業できるような甘いものではない。身が引き締まる思いで取り組んでいる。
学生時代ってこんな感じだったかな、それとも今だから真摯にやろうと思えるのかも知れない。この春大学生になった長男と時を同じくして、50歳になる母も再び大学で学ぼうとしている。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」