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世田谷通信(163)
猫草
樹木用のノコギリで自宅の木を何本か伐った。引っ越し以来10年、一度も庭師さんを頼まず、自己流で毎年伸びすぎた分だけを伐っていた。つまりその場しのぎを続けてきたのだが、ふと冷静に見ると、冬枯れのせいだけとは言いがたい、えらく荒んだ光景の庭木たちである。枯れて放置されたハナミズキ。縦横5mにまで成長したアボカド。勝手に生えてくるシュロ。幹の歪んだヒメシャラ。根元が枯れ上だけ茂ったイヌツゲ。ここらでバッサリ伐って一度リセットしたくもなる。
そして分かった。せいぜい直径10cm程度の庭木を伐るのは比較的簡単。大変なのはその後、燃えるゴミとして回収可能なサイズ、つまり幹や枝を30cm以下に小さくするのにものすごく労力と時間がかかる。ちょっと考えたら分かりそうなものだが、伐ってから後悔することしきり。木は空中にあるとそんなに大きく見えないけど、地面にあるとすごく嵩張るんだなあ。
大量の雑木を処理するため、裏庭に落葉溜めを作ってみた。裏山が竹藪なので落葉はたくさんある。伐った木の幹を組み合わせ2m×3mぐらいのミニサイズだが、そこに枝や葉っぱを溜める。里山の落葉溜めなら1~2年でミルフィーユ状に落葉が腐って重なり、下の方は完全に土になっているのだが。さてどれぐらい時間が経てばカブトムシが卵を産みに来てくれるような腐葉土になるのだろうか。落葉樹と違って、笹の葉は腐りにくそうである。さらに生木の枝まで入っている。地面も固く、日当たりも悪い。土と水も混ぜてはみたものの分解されるまで何年かかることやら。
もう一つ分かったことがある。剪定というのは一気に切り詰めると木に大きな負担がかかるので、こういう「ばっさり」は「強剪定」と言って、一番やってはいけないことでした。里山のベテランボランティアさんたちは、腰に付けた鉈でぱしっと不要な枝を伐ったりする。それに憧れて、形ばかりをまねてみたのだが、「剪定は伐られたことが木に分からないようにするものだ」と言われる。うーん、そんなさりげなく?どっちかというと木の息の根を止めたかもしれない。温かくなったら伐った株から脇芽が出てくるだろうか。なんとか萌芽更新してほしい。
長男はこの春から大学に進学し、森林や生態系の勉強を始めることになった。いつか樹木の専門家になって、我が家の庭木の管理もしてくれるだろうか。木も人も育つのはゆっくり時間をかけたほうがいい。
世田谷通信(162)
猫草
毎月「つのぶえジャーナル」の校正を手伝っている。かつての誌面ではなく、ホームページ上での掲載という形になって以来のことだ。月に1度、コーナーごとに番号のついたファイルが編集人である父からメールで送られてきて、それをチェックする。つまり更新前の最初の読者というわけだ。この自分の担当原稿を自分で校正しては、他の原稿と比べてなんて違和感のあるコーナー、まるで朝の月のようだと、我ながら白々しさを感じつつ、毎回苦笑している。
今回は、今月の「美しい朝に」さんの原稿に率直に綴られた生活と心情、それを包み隠さず提供してくださる勇気に心が動かされ、原稿の差し替えを申し出た。
「世田谷通信」のきっかけは何か普通の生活を綴った原稿が書けないかという父からの要望に端を発している。最初に書いたものは多摩川の風景スケッチのような文章だった。次男の障害のことが一番の気がかりで、心の大半がそのことで占められていたはずの当時に、なぜその文章が出てきたのかはわからない。以来、折々のことを書いては送り、今回で162回目になる。実は今回のように何度か原稿の差し替えをしている。書いてみても送信しなかった草稿もたくさんある。たいていは感情や物事が整理できず、何かしっくりこないものを感じてのことだ。
私にとってこの原稿はかさぶたのようなものだと思う。薄皮を剥くと血がにじむし、中の液体がこぼれ出てくる。一度決壊すればとめどもなく溢れるかも知れない。それを防ぐ、外界と内面を隔てる半透明の一枚。
大きな怒鳴り声や物音が辛くて、耐えられず、悲鳴をあげることがあるらしい。らしい、というのはその時のことをあまり記憶していないからだ。動悸が激しくなり、呼吸が苦しく、体温が下がり、全身に汗をかいて固まる。しばらくするとふと我に返るのだが、どれぐらいの時間が経過しているのかよくわからない。鬱病、ストレスによるショック症状、乖離、過呼吸、音による過敏。心療内科へ行くとあっさりそんなラベルを貼られる。薬はもらうがいつも症状が出るわけではなく、不穏な気持ちが高まってくると早めに飲んで、家に居るときは横になるか小さくしゃがみ込んで落ち着くのを待つ。
でも寒風の中に梅が咲くように、苦しいばかりではない。大半は通常の生活で、常識人で、仕事もするし家事もできる。外に出れば穏やかに社会常識をもった振る舞いができる。笑顔もあり、美しい、素晴らしいと感じる心もある。
怒鳴られないように、怒りをぶつけられないように、いろんな物事から回避しつつ暮らしていく日常もある。忘れないように、ミスをしないように、たくさんの付箋紙をそこら中に貼って慎重に過ごしている。
そして平衡感覚を保つためにこうして文章を書く。自分を液状にしないための皮膚という名の薄皮。青空の中に白く浮かぶ半月のように、確かにそこにあるけれど、普段はさして害もない。心を保つための文章というかさぶた。
世田谷通信(161)
猫草
里山保全のボランティア活動をはじめて半年になる。最初は何の意味があるのかさっぱりわからなかった作業が、少しずつつながり、意味を持ってきた。落葉溜めの腐葉土がいっぱいになって壊れてきた→解体して中の腐葉土を竹林に運んで撒く→空いた場所に新しい落葉溜めを作る→そのための竹を伐り出す→枝を払う→長いので半分に切る→四つ割りにする→丸太の杭を打って四隅の大きさを決める→割った竹を下から四面に釘で打ち付ける→落葉を入れて完成、こんな流れである。
とはいえ、半日でこの作業をするのは大変なことである。なにせベテラン勢の平均年齢は70代後半。指示は出しても、重労働は厳しい。と言うわけで学生さんのお手伝いが重宝する。この日も3人来てくれた。普段から農業大学で学んでいるので作業着に地下足袋姿。土や竹みたいな重いものもどんどん運んでくれる。若い人がその力を遺憾なく発揮してくれている。頼もしい限りだ。
5m四方ほどの1基の落葉溜めで1年半ほど経過した落葉はミルフィーユのような層状になって栄養たっぷりの腐葉土になっている。ふかふかと活きている土である。この土でガーデニングをしたらさぞかし野菜も花もよく育つだろうと思わされる。落葉を分解したのはカブトムシの幼虫やミミズ、ヤスデ、菌類など。丸々太った幼虫が75匹いたので、この子たちはそーっと別の落葉溜めに移動した。
先日の報道番組で、放射能除去のために大量の表土を剥いでいる映像を見た。除染が必要とは言え、そこに新しく植物が根付き、落葉や枯れ葉が分解されて豊かな土壌が戻るまでの年月を考えると胸が痛くなる。かく言う世田谷の里山でさえ、放射線が心配だからと地域の方々への腐葉土配布は中止になったそうだ。
技術の進歩が常に明暗を抱える中で、今日も明日もこれからも微生物は土壌を豊かにし続けている。その静かで確実な活動が地球を支えている。
世田谷通信(160)
猫草
ただいま倫理政経を勉強中の長男と「生存権」について話をする機会があった。現在日本国憲法で保障される社会権の一つとしての「生存権」は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と定義づけられている。でも生存権というと一般的にはちょっとニュアンスが異なるものを思い浮かべないだろうか。つまり、今ここに生存していることを「善」とする根拠を問う「生存権」である。
我々の生存権は基本的に保障されている一方、突如脅かされる危険性もはらんでいる。安穏とした日常が昨日も今日も続く前提で人は予定をたて、約束を交わし、来年の手帳やカレンダーを用意するのだ。だが予測不可能な故意・偶発、様々な理不尽な事由により突然その生活が一変する事態は日々世界のどこかで起きている。それはニュースの向こう側の他人事ではなく、明日は我が身に起きるかもしれない。漠然と不安を感じてはいる、でも切迫感はない。
そう、特に根拠はないが、そのような「災厄」に見舞われない限り生存を保障されていると信じている自分が居るのだ。しかしここで一つの疑問がわく。生存権とは誰に対して主張しているのか。それが自分以外の他者に対してであれば、他者の生存権と自身のそれが拮抗したときどのように折り合いをつけるのかという事由となる、これは通常の「生存権」の概念の範疇である。自分と他者の「生存権」は、互いの権利・なわばりが侵害されない距離まで移動するか境界線や共存ルールを定めることによって多くの問題は解消されうる。
この場合自分と他者はお互い平等という前提がある。しかし仮に下位の、いや下位と信じていたものから、その生存権を主張されたらどうなるだろう?少し想像してみる。自分が生物学者だとして、生殺与奪の権利を掌握し日々実験しているシャーレの中の「菌」がある日叫んだら?「これまで人類により大量虐殺を繰り返されてきたが、このような不当な扱いにはもう耐えられない。我々はその生存権をかけて戦う」と言ってきたら?菌、いわゆるモネラ界は人類の知覚を超えた全ての世界で、数・多様性・耐性・性質、あらゆる面で人類を凌駕する「圧倒的存在」である。その宣告に対しヒトなどなすすべがない。
遙か高みより守られていると信ずればこそ成立する「生存権」だが、大きな生態系の輪の一括りの中にあることも覚えていなくては、と時に思う。
世田谷通信(159)
猫 草
昔から活字なら何でも好き嫌いなく読む方針だったが、一つだけ避けていたのはいわゆるハウツー本である。「あなたも~するだけで!」「~のコツ、教えます」「絶対~になれる~」みたいな題名と煽り広告の帯を見るだけで満腹感。手に取ったことのほとんどないジャンルだった。
ところが長男が「勉強のやり方ってなんだろう?」と言い出して、たくさん本を借りたり買ったりしてきたのだ。受験のど真ん中で今それを考えるのかとも思うが、納得しないとなかなか前に進めないので、そこは目をつぶることにする。
で、参考になりそう?面白い?と半信半疑で聞いてみると、みんないろんな事を言っており、共感できる部分もあるし、まあなかなか興味深いとのこと。私も試しにいくつか読むことにした。
さて、まず目次が魅力的。見出しの付け方が上手だなあと思う。本文も小分けにしてあって読みやすい。大事な箇所は色や太字で強調、項目別にテーマカラーを決めて構成してあったり、本全体のデザインが工夫満載である。
そうか、本って字が並んでいるだけの物ではなくて、こんなにバリエーションに富んだ表現ができるんだ、と気がつかされる。
昔007シリーズの作者が、純文学を書いている知人に、少なくとも私の書いているものはあなたのより読者に次のページをめくらせる力がある、とか言ったそうだが、読ませる努力ってあるんだな、と思う。
そもそも読者だって革新的、画期的なメソッドに胡散臭さを感じつつ手に取っているわけで、それをぐっと捉えて引き込む力は感じる。「3つのルール、これだけで!」とか言いつつ、3行で終わるわけもなく。革新的に始まっても、結論は意外と常識的なものだったりして。それでも最後まで引っ張る力はたいしたものだ。
勉強法について結論は出たのか長男に聞いてみると、「良さそうなのをいろいろ試して自分に合う方法を探せばいいよね」と。さらに、気分転換になるのでこれからもこの手の本は読むんだそうだ。狂信的になるでなく、嘘っぱちと決めつける訳でもない、美味しいとこ取り。なるほどそれぐらいの距離感がハウツー本との正しいつきあい方かもしれない。
世田谷通信(158)
猫 草
今年の夏はオリンピックと高校野球がほぼ同時開催、まるで華やかで儚い打ち上げ花火のようだった。花火といえば、かつてはどこかで音がすればわくわくして見に行ったものだが、ここ数年急に大きな音が苦手になり、花火大会の日には自衛手段として家の中でも耳栓をして過ごす始末だ。音というのは、そもそも波のようなもので、押し寄せる力が強いと圧迫感に、不意の大きな音は恐怖にもなる。
四方八方に雑多な音が存在する場所、特に電車や人混みは元々苦手だが、最近はスーパーマーケットも体調が悪いとつらい。絶えず流れるテーマソングと甲高い子供の声、それにレジの電子音が重なると動悸が速くなってくることがある。そんな時のために、出かけるときには耳栓とイヤホンを持参している。本当は工事現場などで使う、遮音用のヘッドホンが適度に周囲の音を緩和し一番いいのだが、結構無骨なので、外で付けるには違和感があり断念している。
寝るときにもごく小さな音量で音楽をかけるときもあるし、耳栓で完全に遮断したい場合もある。耳栓も両耳或いは片耳だけ、などその時によって決める。耳栓の種類もいろいろあって、最初は飛行機でもらってくるのを使っていたのだが、最近いろんな種類を試している。
歳をとると機能低下と同時に、過敏にもなる。全体的に調節機能が甘くなるのだろうか。友人も、耳石が耳の中でコロコロ転がっちゃって目眩がして大変だったのよと、ギョッとするようなことを言っていた。
耳の奥にある精密機械のような小さな三つの骨と小さなカタツムリのような渦巻きが、今日も震えながら私に音を伝えてくる。
世田谷通信(157)
猫 草
巷ではポケモンGOなるものが流行っているそうな。かくいう私もスマホでミニゲームなるものをやってみた。電車やバスの中で皆がやっているのをしばしば見かけるあれである。俊敏性には自信がないので最初からシューティングゲームには挑戦せず、試したのはマス目をブロックで埋めるミニゲーム。
いろんな形のブロックを組み合わせて縦か横の列を作ると消える、隙間がなくなって置けなくなったら終わり、という単純なゲームだが、1列消すごとに大げさに褒めてくれる。「Good!」「Excellent!」と画面に文字が出る。最初はちょっと嬉しかったが、ブロックを動かすだけで「Great!」「Perfect!」と来るとだんだん嘘っぽくなる。そのうちに「Amazing!」「Cool!」にも慣れると褒め言葉のインフレが起きる。
よく「子供は褒めて伸ばせ」という教育論を目にする。否定的な言葉で萎縮させるのは論外だが、意味なく褒めても言葉の価値は下がる一方だ。しかも「何もしなくても褒められる」と思うと仕事は雑になる。緊張感がないので判断は速くなるが当然ミスも出る。失敗を恐れないので、思わぬ奇跡の大成功を生む可能性がなくはない、しかし日常的な注意深さは減少し、結果としてデメリットの方が勝る。
このゲームは列を消すとコインが貯まり、置く場所がなくなって行き詰まっても候補交換とか部分消去とか、コインの数に応じた救済措置があるのだ。ダメなら取り消しも効く、甘やかし放題。いかにもアメリカンなゲームだなあと思うのである。
もう一つの類似ゲームは一切褒めてくれないし、置けなかったらいきなりゲームオーバーである。ただ過去のハイスコアのみが表示されるのでそれを更新するのが目標となる。熟考するので時間がかかる。コツコツ自分との戦い、こちらはいかにも日本的な感じ。平均スコアはこちらの方が高いがモチベーションの維持が課題となろう。
結局、1日でやめてしまった。スマホの電池の減りが早いだけで褒められてもハイスコアが出ても嬉しくないからだ。友人に勧められて「ねこあつめ」というゲームもやってみた。画面の庭先に餌やおもちゃを置くと猫が来る、それだけ。面白さが理解できないままこちらも2日で飽きた。要するにこの手のゲームに向いてない。高校野球なら熱中できるのに。夏もU18も終わったけど既にセンバツが待ち遠しい。
*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信(156)
猫 草
ササと竹の違いって何だろう?と里山でササを刈りながら思う。スマホで調べたら、「英語でササはbamboo grass、竹はbamboo」と出てくる。うーん、結局どっちも「バンブー」ですか。
「竹も笹もイネ科タケ亜科に属する植物で、一般には、大型のものを『竹』、小型のものを『笹』と呼ぶ」ともある。サイズの違い?そういえば里山でせっせと刈っているアズマネザサ、1年で膝丈、数年放っておくと数メートルまで成長して、シノダケと言われるそうな。
もうちょっと調べると「成長するにつれて皮がはがれ落ち、茎の部分がツルツルしているのが『竹』、成長しても枯れるまで皮が残っているのが『笹』。」とある、おお、ちょっと植物学っぽくなってきた。とはいえ里山でみると皮が引っかかって微妙な状態のものも多い。見分けはつきにくい。
「茎の部分を利用したものは『竹』と呼び、葉っぱの部分を利用したものは『笹』と呼ばれる。」とも書いてある。これがなんだか一番しっくり。素材としてどう使いたいか、という話なんだな。呼ばれ方は切り出してきたあとのプロセスによる。「竹」細工にするか、「ササ」をまとめて土留めの粗朶として利用するかは状況による。或いは児童館が「七夕で使う」という時には、もちろん葉っぱ付きで提供する。
人里の身近にあって、適度な太さと長さがあり、まっすぐでしなやか。丈夫だが割ると空洞で加工しやすい。古来から利用されてきたのも納得がいく、便利な植物なんだなと思う。
しかし一度背丈ほどの藪になると厄介だから毎年大人数で刈る必要が出てくる。毎夏、外資系証券会社のボランティアの方が20人ほどもやってくる。本社は六本木ヒルズだそうな。普段は超高級オフィスのヒルズ族だが、今日はパソコンではなく鎌を存分にふるってもらう。メンバーは多国籍で半分は日本語が通じない。でもひたすら急斜面のササを刈ってくれる。彼らのランチは里山のど真ん中にピザのデリバリーである。なんだかピクニックみたいでお洒落だ。
こうやって手入れした斜面には翌年希少な金蘭やエビネ、ウラシマソウ、ホウチャクソウといった植物が群生するようになる。地方では荒廃した山林の管理が大変と聞くし、不在地主も多くて簡単には手が出せない中、鳥獣被害や土砂災害などの危険も増しているという話を耳にする。秋田出身の友人が「秋田の山はもっと荒々しいよ、クマいるし。こんなお綺麗な箱庭じゃなくてさ。」と笑っていた。確かに世田谷の里山は都会の小さなエアスポットのようなもの。それがこんな風に守られているんだな、と思う。
*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信(155)
猫 草
本の引っ越しは重い!のである。勤務している図書室で、棚が古くなって破損し、他の学校に譲ってもらった本棚と入れ替えることになった。まず中の本を出して、箱詰めしておき、地震対策で壁面と床に固定された棚を外して撤去。これだけで一苦労である。なにせ図書館用品は堅牢に作ってある。その気になれば私でも破壊できる組み立て家具とは物が違う。数人がかりで台車やらなんやらフル活用してやっと運ぶ。新しい棚を入れるのも同様。すっかり腰が痛くなる。
さらに、主人もオフィスの引っ越しで、段ボール約80箱もの本を運ぶことになった。研究者の商売道具なので仕方ないが、それにしてもざっと数えて5000~7000冊。ハードカバーは、同じ冊数でも児童書の倍はある重量感。運搬はもちろん業者さんだが、棚出し箱詰め、2階から玄関先まで運ぶのはこちらの仕事である。長男にも手伝ってもらってなんとか運ぶ。リビングは段ボールだらけ。運送業者さんにも、これ全部本ですか?とあきれられる。
それを新しい職場の棚に並べる。ジャンル別にといってもNDC(日本図書十進分類)で言えば、ほぼ全部「5」類である。箱を開けて並べて箱を解体して・・と無言の作業。途中で隣の研究室の先生がのぞきに来た。その方の部屋を見せてもらうと、両壁面に天井までの巨大な本棚が一体型でくみ上げられて床にボルトで固定されている。すさまじい収納力。ぱっと見て2万冊はある。あの天井付近の本、置いたが最後二度と見ないのでは?そしてこの方が引っ越しするときにはさしもの運送業者さんも泣くだろうな。
連日の本の引っ越しであちこち痛い。本好きの私も食傷気味。湿布を貼りつつ、半分ぐらい電子化できないのかな!とやけ気味に思うのである。
書店、出版社、図書館、或いは事務職で大量の書類を扱う仕事の方々を思いやるとしみじみする。本当に紙は重いですね!
*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信(154)
猫 草
世田谷トラスト協会の里山保全活動に参加することにした。きっかけは生物多様性や里山の本を読んだこと。近所には国分寺崖線に沿って湧水や緑地などが残っている。急傾斜で開発しにくい土地というだけではない。マンション建設計画があっても、あえて開発せずに買い取って保護して残している。その活動に興味を持った。
そもそも守るべき自然とは何だろう?これだけ人の都合で改変しておきながら今更「自然」なんてあるか、という気もする。反面、人がちょっと手を加えたからって「自然」はもっと高みにあり頑健ではないかとも思う。
固有種を保護するために外来種を駆除するのは正しいのか。何かを守れば、何かを捨てることになる。その選択は単なる自己満足ではないのか。平安時代に渡来して七草にまで数えられているような植物はもう日本の固有種って呼びたいぐらいだがそれでもまだ外来種なのか。生物多様性だの遺伝子バンクだのと言っても、人間に都合の悪い害虫や害獣、病原菌は根絶しようとするではないか。ブラックバスは釣りのために人間が持ち込んで、増えすぎてワカサギを食べるからと駆除の対象になっているが、そもそもワカサギだって商売になるから持ち込んだ外来種であり。要するに人間の経済活動や利便性の枠に則っているかどうかが判断基準ではないのか。
そんなモヤモヤを抱えつつ、とりあえず活動に参加してみる。10人ほどのメンバーは皆さん、リタイアした年代のベテラン揃い。それぞれの得意分野、植物や鳥や水生生物に造形が深い。植物や昆虫は詳しいと自分では思っていたが、一歩里山に入ると斜面がきつくて周りをみるどころではない。言われるままに抜き、刈り、運び、ゴミを拾って、枝落としをする。全体像は見えないまま、手元と足元に集中するだけで精一杯。
帰宅して、70Lゴミ袋いっぱい引っこ抜いた「ノハカタカラクサ」を調べる。「観賞用のものが逸出し、野生化。進入年代昭和初期。在来草本植物と競合、要注意外来生物」ふうん、露草みたいで可愛いと思ったのに外来生物だったのか。さらに環境省のサイトをみると「要注意外来生物リストは平成27年3月26日をもって発展的に解消されています」とある。何それ。「発展的に解消」とはいかにもお役所言葉。まるで意味不明で、ぱあっと目の前で霧消した感じ。私のモヤモヤはさらに深まる。でも作業は純粋に楽しかった。3日後ぐらいに筋肉痛になるだろう。それでもまた行こう。続けていくうちに何か見えてくるような気もする。
*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信(153)
猫 草
紙は「重い」というのは本や事務などに関わるすべての方の共通認識だろうと思う。今回の震災でも沢山の被害が起き、そして回復に向けた地道な作業の中で大量の書類や本の存在はずっしりと「重い」だろう、と想像する。
勤務している図書室では、破損した棚を、他の学校に譲ってもらった本棚と入れ替えることになった。新しい棚を買ってもらうなど低予算のご時世、最初から望まない。不要品の抽選に当たったのをまずは喜ぶとしよう。
古い棚の本を出して箱詰めし、壁面と床に固定された地震対策金具を撤去。なにせ図書館用品は堅牢。その気になれば私でも破壊できる組み立て家具とは造りが違う。大人数人がかりで台車や古毛布をフル活用してやっと運ぶ。すっかり腰が痛くなる。
さらに、同時期に主人もオフィスの引っ越しで、段ボール90箱の本を運ぶことになった。研究の商売道具なので仕方ないが、ざっと4000冊。ハードカバーの専門書は、同じ冊数でも児童書と比較にならない重量感。運搬は業者さんだが、棚から箱に詰め、玄関先まで出すのはこちらの仕事である。春休みで家に居た長男に手伝ってもらって運ぶ。リビングは段ボールだらけ。運送業者さんにも、これ全部本?とあきれられる。ごもっとも。
それを新しい棚に並べる。ジャンル別にと思ってもNDC(日本図書十進分類)で言えば、ほぼ全部「5」類である。しばし本を並べる無言の作業。途中で隣の先生がのぞきに来た。参考までにその部屋を見せてもらうと、両壁面に天井までの巨大な本棚が組み上げられて床にボルトで固定。すさまじい収納力。ぱっと見て1万冊はある。天井付近の本、置いたが最後二度と見ないのでは?この方が引っ越すときはさしもの運送業者さんも泣くだろう。
棚は綺麗になって大変使い勝手がよくなったのだが、連日の本の引っ越しで肩と腰と指と手首がぱんぱんである。この作業、日常的に新刊と差し替えをする巨大書店さんや日々大量の文書ファイルを扱う事務系の方々は延々とやっているんだよな。人類の叡智が詰まっているとはいえ、紙媒体は重い。さりとてすべて電子化すればすむ話でもない。紙が紙たる存在意義もわかっている。あちこちに湿布を貼りつつ、本の重量を一時的に月の重力ぐらいにできる技術を開発した人には私がノーベル賞をあげる!と半ばやけ気味に思うのである。
*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
猫 草
前回の続き。ウサギさんの食欲不振がいよいよ深刻になり、強制給餌しても飲み込めないという事態になった。栄養が採れなければ死に直結してしまう。慌てて翌日動物病院に連れて行き、診察。やはり口の中のトラブルではないか、口の奥をみると、舌に傷がついているとのこと。麻酔をかけて口の中を診察してもらう、奥歯が内側に向かって伸びすぎて、両側から舌を圧迫し、傷つけていたことがわかった。
削ってもらった歯と口の中の写真を参考までに見せてもらうと、鋭利な歯先で舌が切れていた。人間だってちょっと歯の治療後や口内炎ができただけでも食欲を失うことがある。かれこれ1ヶ月も、食べようとするたびにさぞかし痛かっただろうし、おなかが空いているのに食べられなくてどれほど辛かっただろう。ともあれ無事に手術終了、麻酔が切れて帰宅したらすぐに草を食べ始めた。わかりやすい。激減した体重もこれで戻るだろう。
食欲不振に気がついていながら、なぜこんなに発見が遅れたのか考えてみる。レントゲンは診察初期に撮っていたが異常は発見できなかった。理由は横からの角度で内側に伸びているのが写らなかったこと。痛い割には固い異物をずっと齧り続けていたこと。診察してもらっても、傷ができるまで口腔内の状態がよくみえなかったことが、診断に確信が持てず判断を鈍らせた原因である。
そしてどうしたら今後歯の伸びすぎを防ぐことができるのか?については牧草をしっかり噛んで食べるしかない、それでも噛み合わせが悪ければ半年に一度ぐらい病院に削りにこないといけない、ということである。頻度が高くて毎回麻酔をかけるのが負担になる場合は、ウサギ専門医(そんなものが存在するのか)だと麻酔せずに切ることもできるらしい。人間と違って齧歯類はどんどん歯が伸びてしまう。ある意味、歯のトラブルは宿命なのかもしれない。
というわけで、早期発見、早期治療の教訓にすべく、切った2mmほどの歯先をもらってきた。こんなにも小さな切片が文字通り命を削っていたのだ。野生だったら致命的だろうが、ペットなので一命をとりとめることができた我が家のウサギ、今日も元気でなにより。
*この添付のイラストは小学生のころ絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」