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世田谷通信
(138)
猫 草
高校生の長男が持ち帰ってきた小論文講習の課題が興味深かった。「あなたが欲しいと思う『ドラえもん』秘密道具の説明とその理由を述べよ」というもの。高校生、理系用の課題なので、それなりの論理展開が期待されるところだ。
ドラえもんが「じゃじゃーん」とポケットから出してくれる便利な道具というのは「未来の技術への期待」であり、それによって可能となる未来の姿への夢想でもある。コストや資源、技術的な壁を全てとっぱらって、「できたらいいな」と願うのは何だろう。まず、これは駄目だなと思うもの。人の心をコントロールする系。そりゃ戦争や紛争はなくなってほしい。でも、何らかの作為で他者の心をコントロールしようとした時点で、もうそこに平和はない。
じゃあ、超人的な能力を持つことができる道具はどうだろう。現在でも介護や農作業などの負担を軽減するパワースーツは実用化されている。もっと凄いものは?スーパーマンみたいな。いや、あまりにも突出したパワーは世界のバランスを崩しはしまいか。悪用されたらどうする?
そうなのだ。単純に「できたらいいな」と夢をみる前に「もしこれが犯罪に使われたら」「もし意図以外の使われ方をして事故が起きたら」という危機管理にばかり気持ちが向く時点で、もう素直に夢を見られる年齢ではないのかもしれない。
食品添加物、農薬、遺伝子組替にしても、生産性、保存や風味、食味、見た目、様々なメリットがあったからこそ使用し始めたのだろう。もし仮に、後になってから健康被害が出たとしても、条件が複合的で複雑なリスクほど事前に察知することが難しい。だからといって技術の進歩を止めることはできない。
さて、長男に「どんな道具について書いたの?」と聞くと、「自分の脳をパワーアップさせる道具。人間の脳ってほとんど使われていないんでしょ?だからイルカみたいに半分ずつ脳を眠らせて、ずっと起きていられたら受験に有利かなと思ってさ」だそうだ。ほう、半球睡眠ね。なるほど。日々睡魔と闘っては負けている高校生らしい夢の道具だ。
ちなみにイルカは右脳が眠っているときには左目を、左脳が眠っているときには右目を閉じているそうだが、終日パフォーマンスが半分にならないかしら・・。いや、水を差すのはやめておこう。あったらいいな、の夢を見る心こそが、技術進歩への原動力だから。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(137)
猫 草
PTAという組織がある。これはなかなか面倒なもので、時間もとられるし、仕事内容も結構大変。それがきっかけで仲良しママが増えることもあるけれど、逆に人間関係がこじれることがあるし、苦労の割にボランティア活動なので1円も入らない。でも学校に在籍している以上は任意とはいえ半ば強制で加入、他の学校や団体との付き合いもあり、簡単にはやめられない事情もある。
毎年、次の年の役員を決めるのはうんざりする仕事で、押し付け合いがはじまる。引き受けられない理由として、仕事、介護、病気、リストラ、障害、離婚・・様々な話が出てきてしまう。己の不幸を口々に言い合う泥試合になることもある。役員なんぞやっていると、夜中に電話がかかってきて「なぜ自分ができないか」を1時間ぐらい勝手にまくし立てる人もいる。聞きたくもない個人的な話に心身ともに疲弊する。
そういう空気がとても嫌なので、いいよ、私がやるよ。と長男、次男のPTAでいい続けて今に至る。あなたと一緒のクラスになれてよかった、と面と向かっていわれると、グーで殴りたくなる。あなたほんとに馬鹿なお人よしね、と言ってるのと同じなんだけど。
そもそも、仕事内容が多くて大変だから、誰もやる人がいないんじゃないの?という話が盛り上がり、このたび大幅な負担軽減案を作成することになった。検討メンバーは歴代の副会長など役員経験者。みなさん、百戦錬磨のPTA役員達なので、裏の裏まで事情は良く理解している。そして容赦なく、「これやめよう」「ここ要らないよね」と仕事や活動内容を削減すること約2時間。驚くほどのPTA活動スリム化が実現した。毎月1回つまり年に12回あった定例役員会は、半分以下の年5回に。役員会の前の準備も大幅カット。広報や研修など、各々年3回やっていたのを、1/3の年1回のみ。その他にもばっさりと活動を減らして、最低限残しましょう、という形を作り上げた。
なかなか爽快な作業ではあった。これまで、あれもこれもとどんどん肥大化して、身動きがとれないほどに膨らんでいたPTAが骨組みだけ残して、すっきりした。当然、負担軽減は拍手を持って承認されたので、来年度から随分と楽になる・・はずである。
願うべきはどうぞリバウンドしないで欲しい、ということだ。ニーズがあるから、反省により改善を進めて、その都度良かれと思って活動し、ここまで贅肉がついたのだ。
確かにやるからにはよろこばれたい、褒められたいと頑張る気持ちもある。でもバトンを渡すときにはもういちど、ついたしがらみを落として、リセットして次につなげたい。そんな風に思うのである。さて、少しでもこれからのPTA役員選出がスムーズになることを願ってやまないが・・。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(136)
猫 草
うちには宅配便がよく届く。インターネット通販のほうが、種類多様で安く、ニーズぴったりの品を選べるからだ。いろいろ買わせるように仕向けるイベントのせいでもある。「買い物マラソン」とはたくさん買い物するほどポイントが多くつく。どうせならその機会に・・ということになり、さらにそれぞれの店で「あとちょっと買うと送料タダになるけど、ついでになんか買うものない?」となる。まさに店側の思うツボ、である。
クリック一つでバーチャルに買い物は完了するが、その後、届くまでのプロセスはリアルである。日本あるいは世界のどこかで誰かがその品物をピックアップして梱包し、宛先を確認して発送する。その後、陸海空の様々な輸送手段を経て、たくさん人の手を介してだんだん自宅に近くまで運ばれ、ピンポーンと届くわけである。
この「物を運ぶ」手続きを全部自分でやったらどれだけ大変で面倒か。なのに、ちょっと多めに買えばこれが無料?品数が増えた分、運ぶ手間は増えているのに?物流ってほんとうに不思議だなあと思う。
注文する瞬間、大きさや重さなんてあまり意識しないけど、例えば図書室で500冊の本をワンクリックで注文したとする。実際にダンボール何箱ものそれらが届いて、カートに載せて検収して、ラベルを貼りつけ、様々な受け入れの処理をしてから、図書室の本棚に出すまでの、その1冊1冊の重さといったら!考えただけで筋肉痛になりそうである。
データは瞬時にバラバラに電子化されてコードに変換し、世界中に届く技術が確立されたけれども、質量のあるものをバラバラにして別の場所で再構成、転送するような技術はまだこの世にないはずである。もしかしたら、ものすごく小さなもので実験は成功しているかもしれないけど。
それがもし現実に可能になったら、ヒトはまずどこに何を届けようとするだろう。願わくは水や食べ物のようにヒトを活かすものであってほしい。くれぐれも爆薬や細菌・ウィルスではなく。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(135)
猫 草
ウサギで7歳といえば、人間ならかなりの高齢。うちのウサギも急に老け込んで介護の日々である。もともと視力が弱い上に結膜炎が悪化、目薬は欠かせない。首が傾く持病があり体のバランスが保てないので、抗原虫薬を飲ませる。さらに足の裏が床ずれ状態になり包帯を巻いているのだが、化膿防止に抗生物質のクリームと飲み薬。目下、家の中で一番手厚い医療を受けているのは体重わずか750gの小さなウサギなのである。
足の裏に包帯・・と書いたが、これがなかなか大変である。ウサギの中でも最小のネザーランドドワーフ、その後ろ足の長さは約5cm。本来ふかふかの毛に覆われた足の裏、それが病気により体のバランスを欠いて汚れがちになり、赤剥けになっている。ソアホックという病名である。足にガーゼを当てて伸縮包帯で固定する。汚れるたびに1日に何度も交換する。
この伸縮包帯、本当に素晴らしい発明だと思う。テープと違ってべたべたしないのに、包帯の端を重ねると繊維どうしがからみあってぴったりくっつく。ウサギが動いても蹴っ飛ばしても外れない。手触りは包帯そのもの。接着度は強力なのからごく弱いものまで多様である。医療の進歩だなあ、なんて思う。
ウサギに使える軟膏は種類が限られるのだが、赤剥けになった皮膚にはコラーゲンの生成を促すというクリームを塗っている。
腰に力が入らず便秘になるので排便の補助もする。毛づくろいができないのでウェットティッシュで体をぬぐってやる。飲み薬は小さなシリンジで飲ませる。まあ、いまは出来ることはなんでもしている感じである。それでも体力が落ちて自力で食事ができなくなったら、そのときが限界と判断するか、強制給餌で延命すべきか獣医さんと相談中である。
750gのウサギの介護は片手でできる。これが体重50kgの人間ならどんなに大変かとしみじみする。小さくとも命は命。ヒトでもネコでもカメでもそれぞれに一つの命。目の前に苦しんでいる生き物がいるのなら、少しでも和らげ、快適に生活できるようにと願う。ウサギの名前は「せいじ」。生きる時、と書く。もう足腰が弱って自力で起き上がれないけれど、最後まで小さな命のライフタイムを支えたい。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(134)
猫 草
百科事典といえば、どんなイメージをお持ちだろうか。一昔前はセールスマンが家に売りにきたもの?或いは重厚な応接室の本棚に並ぶお飾り・・という時代もあったのだろうが、最近の進化ぶりは目をみはるものがある。とにかく写真が綺麗で迫力がある。DVD付のものがぐっと増えた。ライバルはインターネットである。パソコンでは、手軽に最新の情報や大量の画像、動画をみることができる。ただし、玉石混交だし、系統だっていない。体系的な知識を得たいと思ったら百科事典は知識の宝庫。というわけで、学校の図書室には何セットか常備しているのである。でも時々買い換えないと内容が古くなるので、少しずつ予算を組んで入れ替えている。
図書室まで行く時間が無いが、教室でちょっと調べものに使いたいとの先生方からの声もあり、各教室にはポケットサイズの百科事典を数冊配備している。各教室にネットにつながったパソコンが1台あれば随分いろんなことが簡単になるだろうに・・とは思うが、この情報化社会の中にあって、今のところ公立小学校は相変わらず、昔ながらの黒板と紙で運営されているのである。
国語辞典や漢和辞典も本屋に行くとずらりと何種類もの種類があり、一体どう違うの?と悩んでしまうが、小学校の学年によって見出し語の数や文字の大きさ、内容を吟味しながらのセレクトとなる。図書予算との兼ね合いで、低学年、中学年、高学年それぞれを2クラスずつそろえて図書室前に置いている。
そして、古くなった百科事典。これがまたもったいなくて簡単には捨てられない。手書きの精密な挿絵には写真で真似できない迫力がある。例えば大きな建築物などを斜めに切断したアングルでの構造図や展開図や味のあるイラスト等。そのまま捨ててしまうにしのびなく、図工の先生に資料としてお渡しし、作品の構想を練ったりするときの参考にしていただく。もう捨てる本なので、絵の具がついて汚れても構わないという前提だ。
何でもスマホやパソコンで手軽に調べて、その場だけ分かったつもりになってしまうのだが、辞典や辞書も無くしたくない資産だと思う。編纂するという言葉があるが、本当に「編む」というのがぴったりするような、吟味と検討と熟考と推敲の結晶なのだから。流れている大量の情報をしばしつなぎとめつつ、時々放流しつつ。図書室って川の中州のような場所だなあ・・と思うのである。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(133)
猫 草
いろんなスポーツをみていると「元気」「勇気」「感動」を「もらった」、あるいは「あげたい」「届けたい」というコメントの多さに気がつく。いつから「元気」「勇気」「感動」は、やりとりするものになったのだろう?まるで贈り物のように。
元気になる、勇気が出る、感動するのは相手側の立場なので、元気になって、勇気出して、感動してというのが押し付けがましく感じられるし、相手に負担になるのが良くないとの配慮なのだろう。「がんばれ」も同じ。気持ちを汲んだ上で、頑張れと相手に求めるのではなく、こちらが頑張っている姿を見せることで、婉曲的に頑張っていただけたら嬉しい。強制じゃなく、こちらで勝手にやっているので、お気になさらずと。受け取る側も、自分のために頑張ってくださいというのはプレッシャーになるので、あくまで通りすがりにいただきましたありがとう・・という・・。なんとも奥ゆかしき心持ちである。
いつから?震災あたり?いやもっと前か。長男に聞いたら、「ドラゴンボール」あたりじゃね?とのこと。確かに主人公、「オラにみんなの勇気をくれ!」とかよく言う気がしますね。でも勇気をくれ、っていうのは、自分が勇気を出すきっかけをくれ、ということですので、勇気を「もらった」という思いがけない感じ、贈り物感とはちょっと違うような・・。いや、現状なんとかしなきゃ、でも一歩を踏み出す勇気がないな、というベースラインがあってこその「もらった」なのか。
多分、ツイッターとか、ブログみたいに、不特定多数の人たちに匿名のまま、気持ちを発信するチャンスが各段に増えたこと、そして「いいね」と共感することで、双方が匿名で社会やしがらみにとらわれないまま、気持ちを醸成できるようになったことも大きいように思う。
誰かへという特別なベクトルがなくても、なんとなく全体的に勇気や元気は送れるし、受け取る側も特に自分宛じゃないけど、エールとしてもらっておくね、という新しい形のコミュニケーションなのかもしれない。ガラス瓶に詰めて海に流す手紙よりももっと、空気に溶ける、風や波のようなメッセージの応酬である。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(132)
猫 草
蔓性の雑草というのは、最強なんじゃないか・・と草むしりをしていると良く思う。雑草と言うのはこちらの認識が雑であることを表象しているだけで、もちろん、正式にはガガイモ、ヤブカラシ、クズ、アレチウリなどきちんとそれぞれに名前がある。とはいえ当の植物達は名前があろうとなかろうと一向に気にせず日々陣地を拡大している。
特に感動するのはガガイモ。うちのキャットテールの中に見事に混じっている。キャットテールは赤いふわふわした花がたくさんつき、つる性でよく伸びる。伸びるなかに・・ふと気がつくと一緒になってガガイモが繁殖している。ガガイモくん、悪いがキミを育てているつもりはない。と抜こうとしても、複雑にからんでどうにもならない。茎の途中からも根が出てアンカーを打ち込んでいく作戦をとるガガイモのほうが断然強いので、だんだんキャットテールの元気がなくなっていく。排除できぬまま、負けるな!の精神的支援を送るもむなしく、その一帯はほどなくガガイモ地帯と化す。
そしてヤブカラシ。なぜあなたは熱風吹き出すエアコン室外機に巻きついて平気なのか。そこ熱くない?熱いよね。生きる場所を選ぼうよ。と話しかけても、不敵にそよそよと触手を伸ばしている。他の草が乾燥に耐えかねて撤退する中、平然と成長する姿は最強、むしろ不気味だ。
前二者ほど強靭ではなくてもアサガオやヘクソカズラのいかにも頼りなげに触手(まきひげ、或いは若い茎)を揺らしてのんびりした風情も油断ならない。触れた瞬間ねじねじっと巻きついていく、あの受身から急に本性むきだしな感じ。風任せで偶然に頼るから指向性は低いだろう、でも、巻きついた次のアクションは非常に的確、ねじって相手を固定するだけでなく、途中で螺旋をくるんと回転させて逆向きにロックしてしまう。もう簡単には外れない。あなたたちなんて頭いいの?と褒めたくなる。
ネットワークとか、エネルギー供給の脆弱性などとよく言われるが、植物の賢さを少し見習ったらよいのに。ただ延々と補給ラインを伸ばすのではなく、途中でバックアップや蓄積装置、調節弁を作って、ある程度の機能を常に残すとか。生き残ることの知恵にかけては動物の歴史など植物に及ばない。いわんや人間の知恵をや、というところだろう。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(130)
猫 草
長男と一緒に漢文や古典を読むことがある。彼は数学大好き根っからの理系人間なので、行間を読む文系科目は苦手、でも試験前にはなんとかやっつけなくてはいけない。翻って私は文章ならなんでもござれ、の活字中毒。短時間で解説してくれ!と頼まれればやぶさかではない。そんな事情である。
私もそういう機会でもなければ平安時代の古典などひもとかない。いわんや漢文をや、である。しかし1000年のときを超えて残ってきた文章は珠玉。切り刻まれて教科書に載せられている短文程度でもなお輝きを失わない。素朴で無駄がない。大河の下流の河川敷でみつけることのできる、長期間流れに洗われて、すべすべになった小さな丸い小石のようである。
先日、友人と「徒然草」展を見に行った。インターネットどころか、印刷やコピーの技術のなかった時代に、あれだけ大量の随筆が多くの異なる人間の筆跡で丁寧に書きうつされ、美しい表紙で綴られ、豪華な箱の中に収められて、現在まで完全に保管されている。まさに「言葉は宝」だったのだなあと思う。人の手になるものなので、どうしても異本がでてくる。どれが最も原本に近いものなのか、種々雑多な本を引き比べて、系統を整理し、底本といわれるベースラインを決めていくのも文学研究の一分野である。
今の電子書籍や書店や図書館にあふれかえる大量の本をみたら、1000年前の人たちはなんと言うだろう。「わろし」と一言いわれそうな気もする。
使い捨てられる言葉、書き捨てられる紙、読んだつもりで目の端からこぼれおちていく情報の中で私たち自身が流れにまかれて磨り減っては居ないか。
毎日一体何通のメールや文章を書いては送信し、書いては修正しを繰り返しているのだろう。それは磨かれず、単に澱のように沈殿していくだけのものである。本当に自分の気持ちとむきあった一言を探したい、そんな気持ちになる。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(129)
猫 草
インナーマッスルというものがあるらしい。どこに?というと内臓のあたり。なぜ曖昧かというと、通常、自分で内臓は見えないし、そして見えないので実感できないからだ。二の腕がたるむとか、わき腹に贅肉がつくというのは実感できるが、内臓の周りになんかアンキモみたいな脂肪がぎっちりついているのは想像に難くない。
体幹トレーニングというのがあり、これを地道にやると、体の内側の筋肉が鍛えられるそうだ・・。以前、ずっと器械体操をやっていた人のお腹を触ったことがある。びっくりした。鉄板が入っているかと思うぐらい、皮膚の下はカチカチである。そうか、満員電車でどんなに揺れても平気なのはきっとこういう人だ。対して、自分のお腹は溶けたバターのように拳を入れればどこまでも沈む。スライムか。当然満員電車では自分の姿勢を維持でない。健康で過ごしたかったら、この内側の筋肉を鍛えるべきだそうだ。さもありなん。
長男はせっせと日々この筋トレに励んでいる。たとえ問題集を開かない日があっても、筋トレを欠かさない日はない。おかげで背筋も腹筋もすごい。見えないけど、きっと内部の筋肉もきっちりあるのだろう。スクワットをやっても体の軸は一切ブレないもの。「継続は力なり」という言葉は深い。
この夏見えない内臓と骨格をほんのちょっと意識して、姿勢を正すところから始めよう。
金子みすずも言っているではないか。「みえぬけれどもあるんだよ」と。
見えない部分が、実は一番大切な役目を背負っている。それは内臓に限ったことだけではない。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(128)
猫 草
受験シーズンは風邪やノロやインフルエンザには皆さん殊更に緊張感を持っており、その時期、小学校で給食の前にこんな全校放送が入る。「皆さん、牛乳の入ったカゴは床に置かないでください」「牛乳びんのフタは給食当番がまとめて開けず、自分の分は自分で開けましょう」ふむ。なるほど、感染予防、自己責任、というわけだ。
休み時間が終わる頃には「みなさん外から戻ったら手洗い、うがいをしてから教室に入りましょう」とまた放送がかかる。予防も万全の体制だ。
注意はしていても、嘔吐の風邪も流行っており、今年は誰かが教室で吐くと、他の子ども達は図書室に廊下に出されるのだ。寒いので図書室に避難しに来ることもよくある。そして本人と先生は保健室、後の処理は主事さんや副校長先生がバケツと雑巾と消毒液の大きなビンを抱えて出動となる。ご苦労様。隔離と消毒で二次感染拡大を防ぐ、というわけで、これまた、とても適切な処置。
アレルギーで食べられないものが給食で出たりすると、その子達はおにぎり等を持参してくることになっている。無理に食べさせショック症状が起きては大変なので、これも納得の対処。一昔前の「給食は絶対残しちゃいけません」「好き嫌いする子はだめ」とか、かなり強引に全員が全種類食べ終わるまで昼休みはなし、なんて時代は過去である。その頃は、アレルギーへの理解が得られずさぞかし大変だったでしょう。
夏の盛りには、保健室の先生がグランドに出て気温を測り、熱中症予報を出していた。休み時間の終わる頃には「必ず水分補給をしてから教室に戻りましょう!」と放送がかかり、あまりに暑い日はグランド使用中止となる。かつては部活の途中に水を飲むと余計に疲れるから、終わるまで水分禁止とか言われていたのに、よく脱水症状にならなかったわね。高校時代の自分を振り返る。
そんなわけで、今どきの小学校はもう本当に保健衛生的にもきちんと管理されているわけだ。そして間違った知識と民間療法と、適当でほったらかしで、転んだら唾つけときゃ治る、という時代よりもどんどん子供達が脆弱になっているのはどういうことなのだ。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
世田谷通信
(129)
猫草
子供達が幼い頃は、なにかと病院にかかることが多かったのだが、高校生、中学生になると減ってくる。自分も多少調子が悪いと外出が面倒なので、寝て治す。となると人間用の病院は縁遠くなるのだが、最近よくお世話になるのが動物病院だ。
近所の動物病院にはウサギ専門の先生がいる。若くて小柄でちょっと前歯が大きくウサギっぽい。たまに犬やネコだけという病院もあるので貴重な存在だ。
ウサギも高齢になり体調を崩すので、ケージに入れて、自転車の後ろに乗せて病院まで運ぶ。今回は目の周りがただれて、ベタベタして、毛も抜けてきたので受診。「うーん、ちょっと眼球に傷がないか検査しましょう」えっ、それはどうやって?人間の眼科だったら角膜を調べる時は大きなスクリーンに出すけど、ウサギは固定が難しそうだなあ。どうするんだろ。わくわく。
そうなのだ。動物病院の楽しいところは、治療法が興味深いのだ。奥から蛍光塗料を持ってきた先生がウサギの目に塗料を細い紙片でぺたぺた塗る。そして診察室の電気を消してライトを当てる。傷があると緑に光るのだという。「わあ!見たいです!」というと一緒にみせてくれた。目の縁にたまった液体がライトグリーンに発光している。眼球は黒いまま。「目に傷があると液が入るのではっきりわかりますが、大丈夫ですね。あ、体に影響のない塗料ですから、なめても平気」。ふーん、面白~い!もしかしてこれが生物由来の発光物質かしら、例えばオワンクラゲみたいな?それとも細胞のマーカーにつかうような?うきゃあ楽しい~!と、この時点でもはやウサギの存在は二の次になっている。
結局、診断は結膜炎。2種類の点眼薬をもらう。人間用と一緒。ただし保険がきかないのでえらく高額。まあ、面白い診断法を見られたので満足だ。結膜炎治るといいね。また調子悪くなったら病院行こうね、ウサギ。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
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(128)
猫 草
時は春、これを書いているのは、あと1時間で春のセンバツ高校野球決勝戦が始まる、というタイミングである。もともと高校野球好きだが、長男が高校に入ってぐっと身近になった感がある。自分が小学生のときには選手は大きくて立派で憧れの対象だったが、自分が年を重ねていくうちに、すっかり選手は幼い子ども、もう監督の年齢に近くなっている。
今回お気に入りのチームを追っかけのようにテレビ観戦していて、少しだけ監督の気持ちが分かった気がする。プロのスカウトが注目する豪腕ピッチャーでも、打率5割のホームランバッターでも、結局はまだ高校生なのだ。とにかく遊びたい盛り、エネルギーだけはありあまり、すぐにサボり、すねるし、けなせば落ち込む、褒めればうぬぼれる。この子達をまとめてよくぞここまで鍛えたものだ。そして、野球に熱中する息子を支える、親のサポートも大変なものだろう。もう、選手や試合そのものより、裏方に徹する人たちの努力に感動し共感して涙ぐみそうになる。
勝つか負けるかは、地道なプレーの積み重ねの結果・・のはずだ。しかしそこは16歳、17歳の高校生、思わぬことも多々起きる。なぜそこで打ち上げる?なぜそこで飛び出す?なんでそっちに投げる?それでも、チームの方向を修正し、叱咤激励し、形を作っていく。そして試合の潮目というか流れ、というのを分ける瞬間は必ずある。勝負の境目を自分のほうに引き寄せる。周到な準備や努力を総動員して不確実な現実に対処するのだ。その勝負どころに監督の表情が映ると、目が離せない。
高校野球という巨大な舞台を支えるたくさんの大人たちのストーリー。その中央にあるグランドに、無心にプレーする高校生たちの姿がある。あの子達は一切気にしなくていい。ただひたすら、野球をしていればいい。その幸せ。
それにしても、あのバックネット裏のコアなファンの皆様、すごい。最初から最後まで全試合かぶりつきで、誰かと話をするわけでもなく、ひたすら観ている。そこまでの境地には程遠いが、次は夏だ!甲子園、楽しみ。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」