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第104課 結びの言葉:個人的挨拶
=16:1~27=
D ローマにいるキリスト信者へのパウロの同労者たちの挨拶・・・1・・・
=16:21~23=
数人のパウロの友人たちや同労者たちがここで挙げられている。それらの人々の中には、キリスト信者になったコリント市の要職の会計係エラストがいる。22節に出てくるルツテオはパウロのこの手紙を筆記した人である。これら人々は多分コリントでパウロに加わってキリスト教伝道の働きに参加したのであろう。
E 結びの讃詠 =16:24~27=
25~17節は、ギリシャ語の原文では長文である。しかし、教えていることは明白である。キリスト信者を確立することは神の力であり、この力はイエス・キリストの福音を通して働くのである。この福音は「長き世々にわたって隠されていたが、今やあらわにされた」奥義として語られている(16:25~26)。
このように福音は「人間の哲学の体系でも、また人間の調査の結果でもなく、神の御目的の啓示なのである。パウロは度々、贖いの計画は永遠より形成されたものであって、人の目も発見することは出来ず、人の心も考えつくことができないものであることを述べています」(ホッジ)。
福音は永遠より神の御心の中にあったが、遂に終りの時、旧約においては部分的に、新約においては全面的に人間に啓示された。永遠より神の御心の中にあったこの福音は、遂に「今やあらわにされ、もろもろの国人に告げ知らされた」のである(16:26)。
ここで私たちはパウロの福音と旧約の預言者たちとの間に本質的な調和と一致があることに注目しなくてはならない。この福音は何か新奇なものなのではなく、旧約の中にあるものと全く一致するものなのである。それは同一の真理が完全な啓示の段階に到達したのに他ならないのである。
パウロの時代と私たちのこの時代においては、旧約の預言者たちの時代とは異なり、福音は「信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた」のである(16:26)。
「すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより栄光が永遠より永遠にあるように、アーメン」(16:27)。
人間の救いの全体が全く神とその恵みに着せられているこの手紙において、結びの文章が栄光をキリストにより神に帰していることは、まことに相応しいことである。そして 神はここで「唯一の知恵深い神」と述べれているが、それは、神はその無限で完全な知恵がそのすべての御業と特に御子に関する福音の中に現わされている御存在であるからである。
ローマ書講解 =完=
J・G・ヴォス著
第104課 結びの言葉:個人的挨拶
=16:1~27=
C 分裂と偽りの教理に対する警告・・・2・・・
=16:17~20=
「なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである」(16:18)。
「純朴」という語は良い響きを持っているが、原語は「不注意」「不用意」という意味の語であって、宗教における真理と虚偽という問題について無警戒な人々を指しているのである。「思慮のない者はすべてのことを信じる」(箴言14:15)とあるとおりである。
従って思慮のない者、教理的に無防備である人たちは常に欺かれる危険があるということである。現代の偽教師たちはパウロの時代と同じく、極めて巧妙で狡猾である。真摯なキリスト者たちは彼らに対して、不断に警戒を厳しくしなくてはならない。
「あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのめに喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には疎くあってほしいことである」(16:19)。
ローマのキリスト者たちが善良であるばかりでなく、注意深く細心でなくてはならない。「彼らは悪を行うことを避けるばかりでなく、悪の被害を受けないように注意すべきであるのだ」(ホッジ)。
「彼らはとても善良であざむくことができないだけでなく、あまりに善良で欺かれることのないようであるべきである」(グロチュウス)。オーガスチンが祈ったように、「聖書が私の喜びでありますように。聖書に立って欺かれることがありませんように、また聖書より外れて人を欺くことがありませんように」と考えるべきである。
「パウロは、ローマの信者たちが賢明であっていてほしいと願っているのである」(ホッジ)。
「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」(16:20)。
すべての真のキリスト者と真の教会は、キリストを通じて神のみ恵みと力によって、サタンに対して勝利を得るのである。この勝利はローマのキリスト信者にも約束されている。
サタンは常にキリストの王国に敵対して働いている。サタンはやがて猛烈に活動的になり、ローマにいるキリスト信者たちに対する迫害を激化させるであろう。しかし、平和の神が速やかにサタンを彼らの足の下に踏み砕かれるという約束は真実である。何故なら彼らは恵みによってサタンに対して勝利を得ているからである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第104課 結びの言葉:個人的挨拶
=16:1~27=
C 分裂と偽りの教理に対する警告
=16:17~20=
「さて兄弟たちよ、あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教えに背いて分裂を引き起こし、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠さかるがよい」(16:17)。
「パウロはすべての忠実な教師や信徒たちを親切に受け入れることを彼らに勧めると共に、分裂やつまずきを与える者たちとの関係を断つことを勧めている。彼がこの箇所を記していた時に、その心にあったことは二つの誤りを指していると思われる。すなわち、誤った教理によって引き起こされたつまずきとか、醜聞とかであったと考えられる。初代教会を迷わせたこうした種類の誤りは殆ど道徳的な悪行に関係があったと考えられる」(ホッジ)。
私たちも同じく偽教師やその誤った教えを避けることを常に考えなくてはならない。現代において多くの人々が教理に関する相違などは重要ではない、生活における重大な誤った行動がない限りは大したことではないと考えるのである。しかし、正しい生活は真理から来るのであって、偽りからではない。偽りの教理は結局、邪悪な生活をもたらすのである。
偽りの教理の教師たちは先ず警戒され、直ちに避けられなければならない。キリスト教の愛は、私たちの家庭に侵入する盗賊や家庭に害を与える者を寛大に扱うことを要求していないと同様に、偽りの教理を寛大に扱うことを決して要求してはいないのである。キリスト教の愛は実は偽りの教理を拒否することを要求するのである。
私たちが偽りの教理を教え、すすめる者たちを警戒すべきであるならば、まず第一に真正な教理とは何かを知らなければならない。現代の多くのキリスト者たちは、神聖な教理と偽りの教理との相違を判別できないのである。彼らは自分の属する教会と他の教会との教理的な相違を正確に述べることができていない。偽りの教理を警戒し、それから遠ざかるためには、神の御言葉に述べられている真正な距離の適切かつ正確な知識を持たなければならないのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第103課 結びの言葉:個人的挨拶
=16:1~27=
B ローマの多くのキリスト信者への挨拶
=16:3~6=
また、ここの個所で注目しなくてはならないもう一つのことは、女性たちが福音宣教の有力な働き人であったということである。「最初から女性たちは福音宣教において、活動的かつ重要な役割を果たしていた。彼女たちは最も忠実な人々であり、十字架の下に最後まで留まり、また、墓においても最初の復活の発見者であった」(ホッジ)。フイベのほかに数人の女性たちがパウロの友人のリストの中に出ている。プリスカ、マリヤ、ユニアス、ツルナバ、ツルソバ、ペルシス、ルポスの母、ユリヤ、ネレオの姉妹などである。
これら人々の中にある者について、パウロは彼女たちが主にあって働いていたとか、主にあって多くの労したことを述べている。プリスカとその夫アクラとはイエス・キリストにあるパウロを援助者の中の一人であった。
パウロは女性嫌いであったなどと言う人々がいる。パウロが教会政治についてのその教えの中で、女性について語っていることから、このようなことが言われているのである。しかし、パウロは女性嫌いどころか、福音宣教に於いての女性たちの働きを高く評価し、感謝し、歓迎していることは明らかである。
パウロの時代に於いてそうであったように、現代の教会の中にあっても、女性が就くことができない牧師職や長老職のほかに、女性が奉仕できる多くの領域があることを覚えたい。16章に出てくる女性たちが、男性に限定された教会の役職に就こうとしないので、彼女たちに適当であるような形で奉仕に、心から献身していたということは確かなのである。彼女たちは男性に遥かに勝ってなしうるような役務があったと考えられるし、また女性しかできないこともあったと思われるのである。
「きよい接吻をもって、互いにあいさつをかわしなさい。キリストの全ての教会から、あなたがたによろしく」(16節)。
この節にある原則は現今においても生きているが、詳細な形式は私たちを縛るものではない。互いに挨拶を交わすことは大切であるが、接吻する必要はない。あの時代はそれが日常生活の挨拶であったが、今は違うのである。正確な表現は私たちに必要であるが、形式は私たちを縛るものではない(ホッジ)。
友情に満ちた握手、明るく親しい言葉のやり取りなどが求められている。今の世の中は特にそうであるが教会でも挨拶することを避ける人々が増加している。冷たい言葉や態度は避けて、主にある者にふさわしい態度と物腰を持って交わるべきである。もしそうでなければ、この16節で神が与えられた勧告に背く罪を犯すことにもなろう。現代の様な世相の中にあっては、キリスト者交わりは貴重なものというべきである。
J・G・ヴォス著
第103課 結びの言葉:個人的挨拶
=16:1~27=
B ローマの多くのキリスト信者への挨拶
=16:3~6=
3~6節において、パウロは26名ほどの人々の名前を挙げて挨拶を送っている。私たちはここでパウロの友情・細やかな愛情の息遣いを脈々と感じるのである。パウロ自身は一度もローマへ行ったことはないけれども、当時、ローマにいた26名以上の人々を名前によって知っていたのである。多分、それらの人々の中にはローマ以外の地において個人的に会ったことのある人々もいたであろう。その他の人々は通信によって知り合った人々であろう。
しかし、いずれにしてもパウロは詳細をも付して挨拶を送っていることから見て、個人的な知己の間柄であったと考えられる。
パウロはローマの町だけで、これだけの多くの人々を知っていたのであるから、ローマ帝国全体では、どれだけ多くの友人を持っていたかと考えられる。この暖かい友情を見れば、パウロは学者たちが想像しているパウロ像とはいかに違った人柄であったが分かるのである。
すなわり、パウロを学問的な論争と紙を剥ぐような議論にのみ興味を示すような学者であるとする彼らの想像は、如何に真実のパウロとはちがったものであろうか。箴言に次のような言葉がある。「友をもつ人は、自らも友らしくなければならない」(箴言18:24・意訳)。
パウロがもつ多くの友人たちは、パウロが友情に満ちた人がらであったことを証ししているのである。
これこそキリスト教的友情であった。彼らはキリストにあるパウロの友人たちであった。パウロは彼らを主にあって友人・同労者と認めている。彼らがキリストに対して持っている関係は、パウロにとって、彼らは他のいかなる社会的関係よりも重要であった。現代の私たちも、パウロのように聖徒の友情を養い、また評価しなくてはならない。
J・G・ヴォス著
第102課 結びの言葉:個人的挨拶
=16:1~27=
A ケンクレヤにある教会の執事フイベを紹介する。16:1、2・・2・・
「ケンクレヤにある教会の執事、わたしたちの姉妹フイベを、あなたがたに紹介する」。(16:1)
ここの個所だけでは、フイベのローマ到着の期待も、どのような用向きで彼女がローマへ行くのかもよくわからない。しかし、ある用向きがあったことは明らかである。というのは、パウロが彼女のローマ訪問につい述べて、ローマの人々に必要に応じて彼女を助けてやってほしい求めているからである。
もしフイベが何の目的でローマに行くのかを知ることが出来れば興味深いと思われる。しかし、ローマを訪れる外国人たちはローマという異国の都であるこの大都市の中で迷ったり困ったりすることがないように、かなりの助けが誰かによって与えられることは必要であったと考えられる。
フイベは恐らく、地方の教会の助けを必要とするある時別な使命を受けて、教会から派遣されたと考えられる。宣教師として働いたことのある人々は、地方の人々の時機に適した助けが如何に必要かを良くい知っているのである。
パウロはフイベが多くの人々を助けた人であると述べている。彼女はコリントの港であるケンクレヤに住んでいたので、恐らくそこで下船してその地を初めて踏む人々を助けることが彼女の使命であったのだろう。このようにして彼女は彼らを彼女の教会の福音宣教に接するように導いたのだろう。フイベによって援助と助けを得た多くのキリスト信者の乗船者や下船の者もあったと思われる。聖書の中にそれらの記録がないので、彼女の働きの性質について、正確に知ることは出来ない。しかし、彼女の働きがそうした価値のある有益なものであったことは確かである。
「また私自身をも助けてくれた人です」(16:2B)。
フイベがどの様にしてパウロを助けたのであろうかと疑問を感じる人もあろう。しかしパウロは丁寧に彼女の助けに感謝を表明しているのである。フイベのような人々は現に今でも宣教師者の働きを円滑に効果的にするものであり、彼らの良き行いは神の御名を現わすのである。キリスト教を古代世界において盛んならしめたのは、パウロの様な使徒やステパノのようか殉教者たちだけではなかった。必要な時に喜んで助力をかってでたフイベの様な謙遜な働き人たちもまた大きな力となったのである。そして現今においてもキリスト教を前進させるものは、宣教師や教師たちのみでなく、必要な時に進んで助けを提供する平信徒の人たちの集団なのである。
J・G・ヴォス著、
第102課 結びの言葉:個人的挨拶
=16:1~27=
A ケンクレヤにある教会の執事フイベを紹介する。16:1、2・・2・・
「ケンクレヤにある教会の執事、わたしたちの姉妹フイベを、あなたがたに紹介する」。(16:1)
ケンクレアというのはギリシャのコリントにある二つの港のうちの一つである。コリントの町から約15キロの所にある。パウロがここを訪れたことがあるということは使徒行伝18:18から分かることであるある。フイベが正規の執事であったかどうかは新約聖書学者たちの論が分かれるところである。ある人たちは男女ともに執事として按手されていたと考えるし、他の人たちはフイベのような婦人の執事は男子の執事とは異なる地位であったと考える。
ホッジは「使徒時代の教会においては、長老に値するような婦人は特に選ばれて、女性の貧しい人びとや病人たちを見舞い慰めることに携わっていたと考えられる」と述べている。Ⅰテモテ3:11の「婦人執事」({執事の妻})とも訳す)というのは、このことを指したのである。
とにかく、フイベはケンクレヤの教会の働き人であった。正規の執事であったかどうかはあまり問題ではない。明らかに彼女はローマに行こうとしていた。そして確かにパウロがローマに行くよりも先に、そこへ行くことになっていた。そこでパウロはこの手紙を書く機会を利用して彼女をローマの教会に紹介し推薦したのである。
「どうか、聖徒たるにふさわしく、主にあって彼女を迎え、そして、彼女があなたがたにしてもらいたいことがあれば、何事でも助けてあげてほしい。彼女は多くの人の援助者であり、またわたし自身の援助者でもあった」(16:2)。
パウロはローマの人々に、フイベを「主にあって」、すなわち、彼らがキリスト者としてフイベを主にある友人として歓迎することを求めたのである。彼らがフイベのような人物を友情と親切をもって迎えることは、彼らのキリスト者としての義務なのである。パウロはローマの人々にフイベを主にある友人として、また聖徒として迎えてくれるように求める時、彼はローマの人々が、そのようにしてくれることに十分な信仰を持っていることに確信を持っていることを示しているのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
=15:14~33=
C パウロはローマのキリスト者たちの祈りを求めている。
・・・15:30~33・・・
「また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共に慰め合うことができるように祈ってもらいたい」(15:32)。
これがパウロが祈ってもらいたい第三の事柄である。
「パウロはローマにいるキリスト者たちと会うことを切に望んでいるかのようである。彼は戦いと働きの生活からの一時の休息として、このことを望んでいるのである。エルサレムでは不信のユダヤ人たちに取り囲まれ、ユダヤ主義キリスト者たちに悩まされ、その他の多くの場所では諸教会への心づかいで重荷を負わされていた。しかし、ローマは彼にとって憩いの地であって、働きの地ではなく、そこで彼はさらに遠くの地における使徒としての宣教の業の続行のために、その力を蓄えることを願っていたのである(ホッ ジ)。
使徒パウロの働きは、好ましいと思われる環境下にあっても、困難があったと考えられる。そして特に、友人または支持者であるはずの人々による反対に耐えることに勝って難しく辛いことはなかった。パウロは経験から、世からの反対でなく、教会内の人々からの反対の苦しみの味をよく知っていた。ローマ訪問をそのような苦しみながらのしばしの憩いの時として待ち望んでいたことは疑いのないことである。 それで、彼はローマのキリスト者たちに、喜びを持って彼らのところに行くことが出来るように、祈ってほしいと求めたのである。
「どうか、平和の神があなた方一同と共にいますように、アーメン」(15:33)
これがローマのキリスト者たちのために、パウロが神に捧げる祈りである。それは短い祈りであるが、多くのことを含んだ祈りである。『「平和の神」。神がお与えになる平和、平安は、魂の完全な祝福のために必要な全ての恵みを含んでいる」』(ホッジ)。
キリスト教は平和の神を人々の下にもたらす唯一の宗教である。キリスト教はそれをするために、まず第一に人々を神との平和に入らせることによって始めるのである(ローマ5:1)。イエス・キリストの血と正義によって、人と神との間の恐るべき敵意が取り除かれ、罪人は神と和解していただけるのである。
このことを基盤として、神の平和が人間の生活の中に来るのである。そして人は罪を憎むようになり、この世・肉・悪との激しい闘争状態に入る。しかし、その闘争を通じて、人は神の平和を得るのである。福音は私たちに戦いよりの解放を約束はしない。しかし、それは私たちに生涯を通しての神の平和を約束するのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
C パウロはローマのキリスト者たちの祈りを求めている。
・・・15:30~33・・・
「共に力をつくして、わたしたちのために神に祈ってほしい」
(15:30b)
「力を尽くして」と訳されているギリシャ語は、英語のagonize(苦悶させる)という語ができた語源であって、「必死に努力する」「悩み苦しむ」という意味であり、「深い関心もって」という意味でもある。私たちのせっかちで形式だけの祈りは、このような語では到底表現されることはできないからだる。深い霊的な熱心だけが、ここでパウロが述べているような祈りに私たちを導くのである。
「共に」という語に注目しなくてはならない。ローマのキリスト信者たちはパウロと共に力を尽くして祈らなければならないのである。パウロは艱難と危険の中を通り抜けるときには、ローマのキリスト信者たちも、祈りを通してパウロの苦難や危険に与らねばならないのである。
「すなわち、わたしがユダヤにおる不信の徒から救われ」(15:31A)。
これはパウロがローマのキリスト者たちに、彼のために祈るように求めている3つの事柄のうちの第一のものである。彼らはパウロがエルサレムに入る不信仰のユダヤ人たちの暴力と怒りから救われるように祈ることを求められている。パウロはこれからキリスト教が迫害されつつある地域に足を入れようとしている。
ステパノが石で打ち殺され、ヤコブが数年前に斬首されたのはエルサレムだったのだ。激しい迫害が鎮まっている間でも、厳しい反対は依然残っており、いつ何時再発するか分からなかった。パウロはユダヤ人たちを恐れなければならないことを知り尽くしていた。パウロの生涯を通じて、彼らは彼を迫害し殺害しようとしていたのである。
「そしてエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなるように」(16:31b)。
これがパウロがローマのキリスト者たちに、彼のために祈ってほしいともと求めている第二の事柄である。彼がエルサレムに行く目的の任務が無事に完了することである。このことのために彼は祈ってもらう必要があったのである。何故ならパウロに反対するのは非キリスト者のユダヤ人ばかりではなく、ユダヤ人キリスト者の間にも彼を疑いと冷たい目で見る人々がいたからである。
彼が異邦人たちに福音を宣べ伝えることに従事していたという事実は、狭量な心のユダヤ人たちに彼に対する偏見を持たせる結果を生み出している。「パウロはエルサレムへ行くことの目的である愛の業が、エルサレムのキリスト者たちによって快く受け入れられることを望んでいた。パウロはあまり快く思わない人々のために労してきたのである。彼はエルサレムのキリスト者たちを聖徒と呼んで、彼らのキリスト者としての性格を認めているのである。たとえ彼らが彼に不親切であっても、彼は彼らを聖徒と呼んで尊敬し、ローマのキリスト者たちに、エルサレムのキリスト者たちが彼の手にある親切(異邦人キリスト者からの援助金と親切)を快く受け入れてくれるよう祈ってほしいと求めているのである」(ホッジ)。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
C パウロはローマのキリスト者たちの祈りを求めている。
・・・15:30~33・・・
「兄弟たちよ、わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ、御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしたちのために神に祈ってほしい」(15:30)。
「祈り(とりなしの祈りでさえも)というものは真実で重要な有効性を持っている。それはただ単に祈りを捧げる人の心に感化を及ぼすだけでなく、私たちが求めて祈るその祝福を獲得することにおいても極めて有効なものであるのだ。
パウロはローマのキリスト者たちに命じて、神が摂理の力を働かせて彼を危険から守ってくださるように、また、聖霊がエルサレムにある兄弟たちの心に感化を与えて下さるようにと祈らせるようとしているのである。もし、このような祈りが有効でないと仮定すれば、パウロは祈りというものをしなかったことであろう」(C・ホッジ)。
使徒パウロは同僚にキリスト者たちの祈りの必要性を強く認識していたのである。
何故ローマのキリスト者たちがパウロのために祈るべきであることについて、彼は二つの理由を上げている。
第一に、彼らは「主イエス・キリストより」(for the Lord Jesus Christ.s sake)、すなわち、主の故に彼のために祈るべきなのである。神に対する彼らの献身と敬虔の故である。もし彼らがキリストを愛しているのであれば、そして真実にキリストの王国が繁栄することを願っているのであれば、彼等キリストの僕であるパウロのために祈るべきなのである。
第二に、「御霊の愛」のゆえに彼らはパウロのために祈らねばならないのである。すなわち、聖霊が創始者であり源であられるキリスト者の愛の故に祈るべきであるばかりでなく、同僚であるキリスト者としての彼自身に対する彼らの愛にも訴えているのである」(C・ホッジ)。
もし私たちの同僚であるキリスト者たちを真に愛しているのであれば、彼らのために祈るべきなのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第100課 パウロも宣教活動とその計画
B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望
・・・15:22~33・・・
「そこでわたしは、この仕事を済ませて彼らにこの実を手渡した後、あなたがたの所をとおって、イスパニヤに行こうと思う」(15:28)。
パウロは「この実をエルサレムにいるキリスト者たちに手渡した後」と言っている。「手渡す」と訳されている語は、シール、すなわち「封印する」と言う意味を持つ語である。ここでは確実に安全に手渡すという意味である。このお金を取り扱い、それを手渡すということは重大な責任なのである。パウロはその仕事を真剣に遂行しようとしているのである。
私たちはパウロがこのお金をエルサレム教会の正当な役員に確実に手渡したとき、初めて彼は安堵すると思うのである。
パウロは福音の宣教ということを重大なことと考えていたのみでなく、教会のお金を扱うということにも重大な関心を払っていたのである。霊的なことのみでなく、物質的なことでも、神に属することには、このように重大な関心が払わなければならないのだ。
教会の経済的な問題について不注意、ずさんということは許されないのである。教会の経済や資産を預かっている役員たちが、もし不注意なずさんな仕方で事に当たっているならば、神が求めておられる義務を忠実に果たしているとは言えないのである。
神の忠実な僕は、パウロのように細心の注意を払い、責任をもって行動しなければならない。偉大な使徒であり、かつてはガマリエル門下の逸材であったパウロは、会計的な仕事を見縊ることは決してなかったのである。
この重大な仕事を終えた後、パウロはイスパニヤへの旅の途中にローマを訪れるつもりでいるのである。
「そしてあなたがたの所に行く時には、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと、信じている」(15:29)。
ロマ書の初めの個所(1:11~12)において、パウロはローマにいる信者たちに会って、霊的な賜物を分かち合いまた彼らの相互の信仰によって励まされたいという希望を表明している。そして今やここの末尾に於いては、彼が彼らを訪れる時、キリストより限りない祝福をもって行くという確信を披露している。
パウロは今まで伝道してきた多くの地に於いて、そのような豊かな祝福を経験しており、従って未来においても、そのような祝福を主が必ず与えて下さる ことを確信しているのである。キリストの福音は祝福の源泉である。ローマを訪れるパウロの目的の一つは福音伝道の促進であるから、彼は確信をもって、彼の訪問と共に溢れる恵みが伴うことを述べているのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望
・・・15:22~33・・・
「そこでわたしは、この仕事を済ませて彼らにこの実を手渡した後、あなたがたの所をとおって、イスパニヤに行こうと思う」(15:28)。
ここでパウロは異邦人に捧げられた献金を「実」と呼んでいる。通常、私たちはお金を実とは呼ばない。しかし、この場合にはそれは真に実なのである。野性のオリーブの枝は良いオリーブの木に接ぎ木されたことによって、今やキリスト者の自己中心的でない、果実を結んだのである。
すなわち、キリスト者の愛の結実なのである。キリスト者は自己中心的でない良き果実であった。パウロがエルサレムに持って帰るこのお金は、異邦人たちの真のキリスト教信仰と生活の証拠であったのである。お金と言うものは一人の人のキリスト教信仰の試金石であると言われている。もし彼の財布がキリストに向かって回心していないとすれば、その人の心が真に救われていることを疑いうる理由であるかもしれない。
真の救いは、真の実を生み出すのである。パウロはエルサレムに携えていく寄付献金は、そこにいる貧しいキリスト信者たちへの単なる物質的な援助に過ぎないのではない。それらの献金はパウロがかつて先導した異邦人たちの間における神のみ霊の力強い働きを証しているのである。
自己中心的でキリストの教会を経済的に支えていくことに真に消極的な現代の信仰者たちは、真剣に自分たちが本当に死と滅びから生命に移っているかどうかを考えてみなければならない。忠実に一貫して教会を支えていくことは、一人の人における真の信仰生活の証であると言わねばならない。
見苦しいと思われないだけで、出来るだけ少なく、しかも不承不承捧げようとする人々は、その生活の中に神のみ霊の働きが盛んであることを証しするものではない。教会において1ドル貨幣が献金袋に入れるべき自由な捧げものであると考えている人々は、その幾倍かを不必要な贅沢や楽しみに使うことを躊躇しない人たちであると言えよう。しかし、神は欺かれるような方ではないことを銘記しよう。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」