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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 「ローマ人への手紙」研究 (104)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (16)

 「一部のイスラエル人が頑なになったのは」。この言葉は二つの点で真実です。イスラエル人の頑なさは全体的ではなく一部なのです。というのは、幾世紀にもわたる教会の全歴史を通じて、いくらかのユダヤ人たちもキリストへの回心は間断なくあり、従って、頑なさが全体的であることはないからです。何故ならば、それが永遠に続くことはなく、散在している個々のユダヤ人のみでなく、ユダヤ人社会がキリストに回心する時が来るからです。
 パウロは頑なさの度合いについて述べているのではありません。頑なであった人々は徹底的に頑なであったのです。しかし、彼が言及しているのは、すべてのユダヤ人が真理に頑なであった時は一度もなかったという事実とユダヤ人社会の頑なさが終わるという時があるという事実なのです。
 「異邦人が全部救われる至るまでのことである」。この言葉の前述の二つの形態の解釈によって、各々異なった解釈がされています。異邦人たちが救われている間は、ユダヤ人たちの一部は頑なままで、ただごく少数のユダヤ人たちが回心するに過ぎないという意味であり、異邦人が全部救われた後のユダヤ人の回心については何も意味していないと考える人たちもいます。
 この考え方によると、この言葉の意味は、パウロの時代に存在した状態は、不変のまま世の終わりまで継続し、その後(異邦人が全部救われた後)にキリストの再臨と審判の日が続くということに過ぎません。この解釈はパウロがこの言葉を重大な奥義として述べている点を考慮していません。

40282ce2.jpeg この言葉のもう一つの解釈は、パウロは異邦人が全部救われるに至った後にユダヤ人の頑なさは取り去られて、彼らがキリストに回心することを意味しているのだとします。「・・・まで」(until)と訳されているギリシャ語は、その後に不定過去接続法の動詞が来ており、従ってuntilという訳語は正確です。ギリシャ語新約聖書の用法からすれば、ここの言葉を「異邦人たちの回心が継続している間に」と解釈するという考えは適当ではありません。
 このことは聖書の他の箇所にあるこのギリシャ語の用例を参照すれば判ることです。例えば、黙示録15・8「・・・七人の御使の七つの災害が終わってしまうまでは、だれも聖所にはいることはできなかった」(七つの災害が終わってしまった後、再び聖所には入ることが可能となった、の意味)。黙示録17・17「神は御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである」。(神の御言が成就された後は、獣はもはや支配権を持つことはない、の意味)。

 この第二の解釈が正しいものであると思われます。イスラエルの頑なさは異邦人のすべてが救われてしまう時まで継続し、その後、彼らの頑なさは取り去られ、彼らはキリストに回心するのです。ここで「異邦人が全部救われるに至る時まで」という言葉の正確な意味は何かという問題が残ります。
 最も考えられ易いのは、異邦人の中に神の選びの民全部と言う意味です。ある学者たちは、「異邦人が全部」とは、世界のすべての民族からキリストに回心する異邦人の意味であると主張します。いずれにせよ、異邦人の救いに関する神の主要目的が達成されてしまう時、ユダヤ人の頑なさは取り去られ、彼らの回心がそれに続くのです。

 私たちが銘記しておかなければならないことは、ここで私たちは時が満ちるまでは決して完全には明らかにならない預言の言葉を取り扱っているということです。その成就の時期と仕方について、種々の疑問が生じるけれども、これらの疑問には答えることはできないし、また答える必要もないのです。ただ、今の段階でわかるのは、ユダヤ人たちの極めて急激、また迅速なキリストへの回心が起こるということだけです。異邦人の全部が救われる時期も正確には言うことはできません。それらは奥義であり、私たちには定かには啓示されていないのです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
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97f25181.jpeg 「ローマ人への手紙」研究 (103)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (15)

 「兄弟たちよ、あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われることに至る時までのことであって、・・・」(25節)。

 ここの箇所をめぐる大問題は、これが未来におけるユダヤ人の集団的な回心を語っているかという点です。C・ホッジは、ここの解釈には多くの見解があることを述べてから、しかし要するに二つの見解に還元されると言っています。
(1) 第一の見解は、この箇所はユダヤ人の未来における全体的な回心を述べているのではなく、彼らの盲目性は全体的なものではなく、異邦人が救われつつある間は、かれらユダヤ人のうちのいくらかが継続して回心していくことを述べているに過ぎないとするものです。
(2) 第二の見解は、パウロはここで、将来、ユダヤ人たち全体のキリストへの回心があるが、それは異邦人があまねく救われるまでは起こらないだろうと言っているのだとするものです。

 ホッジは、前者は宗教改革の頃まで、一般に行われていた見解であり、当時の千年王国論者たちの極論に反駁しようとした学者たちが、反対に極端な論をとるに至って、この箇所の預言的性格をまったく無視してしまっていると述べています。ユダヤ人の心は極端にかたくなになっていたので、その回心は不可能であると断言し、さらに「ローマ人への手紙からこのような行き過ぎを捏造するものである」と付言したマルチン・ルーテルの言葉をホッジは引用しています。

 ホッジは、後者の見解は宗教改革の時代を除けば、キリスト教史のすべての時代において、あまねく取り上げられた見解であると断言し、この見解こそ正しいと述べています。この見解を支持し、ホッジはこの解釈は最も文脈に合致しているとして、ユダヤ人たちは拒否されたと同じ意味において、すなわち、集団として回復されるべきことは明らかであるとしています。
 このことは異邦人と並行して回心する少数のユダヤ人たちだけで成就されることではないのです。パウロが「この奥義を知らないでいてもらいたくない」という言い方をして、このことが重大な出来事であると述べていることは明らかです。もしパウロが何か新しい特に重大なことを語っているのでなければ、彼はこのような言い方を取らないからです。
 「少数のユダヤ人たちのじょじょの回心であるならば聖書的な用法における「奥義」(mystery)では決してない」。ホッジは「奥義」と言う語は、新約においては、一般に近代的な意味では用いられていないと言っています。すなわち、「私たちの理解を超えた事柄」の意味ではなく、「或る隠されたこと・知られていないこと」の意味です。神が啓示されていない御意図であるからであろうと、未来のことであろうと、また、私たちの理解を越えているからであろうと、とにかく「隠れた事柄」というのが、この意味なのです。
 パウロは「一部のユダヤ人が盲目でかたくなになっているのは、異邦人が全部救われるに至るまでのことである」ということを「奥義」として述べているのです。何故かと言えば、このことは神の特別啓示によってのみ、知れることであるからです。だから、11・25におけるパウロの「奥義」という語の用法は、彼の時代に既に起こりつつあるユダヤ人の個人的な回心より、はるかに重大なことを語っていると言うことを示しているのです。

「あなたがたが知者だと自負することのないために」。これがパウロが述べようとすることの理由です。彼が異邦人キリスト者に対して、彼らが傲慢になって、神がユダヤ人を永久に退けられたのだと考えることのないように警告しているのです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
503a3318.jpeg 「ローマ人への手紙」研究 (102)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (14)

「しかし彼らも不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐちからがある」(23節)。

 異邦人が教会の中にあって継続してその特権にあずかっているのは、ひとえに彼らの信仰によるものであるように、ユダヤ人たちが拒否されたのは、とりもなおさず、彼らの不信仰によるのです。異邦人たちがその信仰を止めれば、彼らも退けられることになるし、ユダヤ人たちが不信仰であることを止めれば、彼らも再びつがれるからです。
 何故ならば、「神には彼らを再びつぐ力がある」からです。神の力が制限されたり、弱められたりすることはありません。したがって、障害はユダヤ人自身の中にあるのです。もし神の測り知ることのできない摂理によって、この障害が取り除かれることがあれば、ユダヤ人が再び良いオリブの木につながれることを妨げるものは何もないのです。

 「なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然の良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつながれないであろうか」(24節)。

 ここに自然のままの木の枝と、野生の枝が人工的に(自然に反して)接ぎ木されたこととの間に対比があります。ユダヤ人たちはその木が産出した自然のままの生育であり、異邦人は自然の性質に反して良いオリブの木にされたことは、自然の性質に反する、ありそうにもないことです。異邦人の接ぎ木ということが実際に起こったとすれば、自然のままの枝であるユダヤ人が再び接がれるということも充分ありうることです。
 自然の性質に反したことであり、ありそうにもないことが実際に起こったのである以上、自然の性質に合致した事柄が、未来において生起することはありうることです。すなわち、本来の枝であるユダヤ人が、再び真のイスラエル、すなわち、神の契約の民である良いオリブの木に接がれることは大いにありうることなのです。
 パウロはそれを「元のオリブ」と呼んでいます。ユダヤ人たちはその不信仰のために、それから引き離されました。しかし、彼らが属していたオリブの木そのものは健在のままです。不信仰の中にいるユダヤ人たちが、そのような地位を要求する権利を持っていたというのではなく、神の摂理がそれを可能とするのです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
a5f5aca9.jpeg 「ローマ人への手紙」研究 (101)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (13)

 パウロは異邦人キリスト者に対してのみならず、それとなく、あらゆる時代のキリスト信者に対して、「高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい」と真摯に警告しているのです。「ユダヤ人がユダヤ人であるからといって完全ではいのと同様に、異邦人も異邦人であるからといって完全ではないのである」(ホッジ)。「もし神が元木と木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう」というパウロの言葉は、聖徒の堅忍という教理に反する考え方であるととってはならないのです。
 これは真の信徒が恵みから落ちて滅びてしまうということを決して意味してはいません。ここで私たちが銘記しておかねばならないことは、パウロはここで、第一義的に、個人の信仰者とその救いについて語っているのではなく、ユダヤ人に対応する一つの部類としての異邦人キリスト者について語っているということです。
 彼の言葉は自己満足、単なる外面上だけの信仰、神の善性をよいことにしているような態度に対する真剣な警告なのです。異邦人キリスト者たちには、彼らが良いオリブの木に接ぎ木されたからといって、彼らの教会との結合や、それから受ける特権がまるで永遠のものであるかのごとく考えてはならないからです。
 私たちにはこのパウロの警告がキリスト教会の歴史を通じて、今も生きているものであることを知るべきです。北アフリカは、かつてはキリスト教会が各地に点在していましたが、今では殆どイスラム教が普及してしまっているのです。

 「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」(11・22)。
 ここでパウロは、神の御性質の二つの面、すなわち、神の慈愛と峻厳とを語っています現代において宗教は神の愛のみを偏って強調する大きな誤りを犯していると言わなければなりません。
 聖書が神は愛であるというのに対して、近代宗教は、神は愛であって愛以外の何者でもないと主張します。神の怒りなどということは、時代錯誤の不愉快な教理であるとして反対されてきています。しかし、聖書においては、神の愛と怒りとは共に強調されていて、決して一方だけが主張されて他方が退けられているということはないのです。
 神が人間に対して取られる態度の中には、この双方が明らかに示されています。神の慈愛と峻別の両方なのです。

 「これらの言葉の中には、たとい、それらが個人のことについて述べていると仮定しても、聖徒の堅忍の教理と一致しないものは一つもないのです。何故ならば、このように仮定的に述べていることは極めて普通のことです。一つの事柄が神の目的や約束によって確実に生起するとされるときでも、必要な手段が用いられなければ、この事が起こらないであろうと述べることは、広く用いられている用法です。(使徒行伝27:31を参照してください)。
 このような言葉はすべて、その根底は極めて単純な教理なのです。すなわち、目標を望む者は方法を望むものであり、彼は確実に方法を用いることによって目標を達するとのするのです。ここでパウロは個々の信者とキリストとの関係は決して切り離すとこは出来ないものであることを語っているのではありません。これらのことは、彼は8章やその他の箇所で十分に教えてきています。
ここで彼が語っているのは社会と教会との関係及び教会の種々の特権についてであります。神の側には、異邦人たちが世々にわたって、そのような特権を確保するという約束も契約もないことは、ユダヤ人たちをその不信仰の結果から守るという約束がなかったのと同じです。それらの恵みを受け続けていく方法は、各時代の継承者たちの行為如何に掛かっているのです。だから、パウロは異邦人に対して、神の慈愛のうちに留まらなければならない。そうでなければ彼らも切り去られると警告するのです」。(ホッジ)

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
a58ecec4.jpeg 「ローマ人への手紙」研究 (100)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (12)

 『すると、あなたは「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう』(11・19~21)。

 ここでパウロは、異邦人キリスト者の側において起こりやすいもう一つの傲慢に対して警告しています。異邦人キリスト者は良いオリブの木に接がれることによってのみ、すべての霊的幸いが自分たちの元に来るということを承認しても、さらに彼らがユダヤ人という枝を切り去られたのは、彼ら異邦人キリスト者が接がれるために他ならなかったのだとして、傲慢な態度をとる傾向があります。彼らは、神が良いオリブの木の中に彼らが入る余地を残されたのは、彼らの所有する何か良い点とか、何か価値があることの故であったと考えやすい。

 しかし、ユダヤ人という枝が切り去られたのは、彼ら自身の不信仰の故であって、異邦人たちのどの様な良い点に基づくものではないというのが真実なのです。彼らユダヤ人は救い主としてのイエス・キリストを拒みました。その故にこそ、彼らは切り去られたのです。そして、異邦人キリスト者は神の恩恵によってのみ、彼らの救い主としてイエス・キリストを信じるようにされたのです。
 ユダヤ人たちが不信仰の故に倒れた所に、彼ら異邦人キリスト者は信仰によって立てられたのです。ここで、パウロは誰であれ、神との契約関係を保ち得る唯一の方法は、信仰によるのであるということを教えています。救いに至る信仰を持つ者は、良いオリブの木の中にあるのです。救いに至る信仰を欠く者は良いオリブの中にはなく、切り捨てられてしまうのです。

 もちろん、異邦人キリスト者は、彼らの信仰は自分自身の業であり行為であるから、それについて保証を求めることが出来ると、あえて主張するかもしれない。一方において、彼らは自分自身には何らの完全な義を所有しないことを認めながら、他方で、彼らは信仰を持っていると主張し、その信仰は自らの意思に基づいて持ったものであり、ユダヤ人たちがキリストを退けるのに対し、自分たちはキリストを受け入れたのであるから、当然、その信仰を功と認められるべきであると主張するかもしれません。
 しかし、明らかにパウロの時代、異邦人キリスト者たちはそのような主張はしませんでした。何故ならば、パウロはそれに答えようとはしていないからです。実際には、ペラギュウス主義やアルミニウス主義の誤りは、後世において出現してきたものです。これらの考え方は、パウロの時代には存在していなかったのです。その信仰の保証を求めるというような考えは、パウロの時代の異邦人キリスト者には決してなかったことです。勿論、パウロが信仰に立つ立場を誇る立場と対比的に述べているとき、救いに至る信仰とは、神が値なしに与えてくださる恵みを受け取ることであると言う聖書的な考え方を心に持っているのです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
37d7d96a.jpeg 「ローマ人への手紙」研究 (99)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (11)

 銘記すべきことは、良いオリブの木はユダヤ民族そのままを示していないことです。何故ならイエス・キリストを拒んだユダヤ人は、木から切り取られた枝として示されているからです。しかし、彼らは決してユダヤ民族からは切り去られてはいません。パウロを迫害して殺そうとしたユダヤ人たちは、依然としてユダヤ民族に属しています。
 しかし、彼らはもはや良いオリブの木の枝ではありません。彼らは不信仰のために切り取られたのです。故に、良いオリブの木とは、いわゆる、ユダヤ人ではなく、契約の神の民を意味するとしなければなりません。この良いオリブの木に野生のオリブの枝―即ち、異邦人キリスト者―が接木されたのです。彼らはユダヤ人の一人とはなりませんでした。しかし、真のイスラエル人の一員となったのです。何故ならば、彼らはオリブの木の組織の一員となり、それの養分によって養われたからです。

 異邦人たちは野生のオリブの枝によって表されています。野生のオリブそれ自身は値打ちの無い存在です。このことは異邦人世界が、パウロの時代でも現代でも、その精神的、霊的状態は貧困であることを私たちに教えています。
 異邦人たちは神より遠く離れ、罪の中に深く沈み、腐敗・堕落して、望みの無い者となっています。しかし、彼らは良いオリブの木に接ぎ木され、イエス・キリストにあって新たに造られたものとなったのです。

 だから、如何なる異邦人キリスト者には誇ったり、得意になったりする根拠は全くないのです。それどころか、彼らは自分たちが根を支えているのではなく、根が彼らを支えていることを覚えなければならないのです。彼らは無名の野生のオリブの枝でした。しかし、良いオリブの木に接がれて一体とされたのです。
 彼らの受け取るすべての霊的な賜物は、良いオリブの木を通して来るのです。彼らは良い賜物を受け取る者に過ぎないのであって、それに寄与した者なのです。人間的な誇りや虚栄が彼らをユダヤ人に対して誇らせるかもしれません。しかし、パウロはそのような精神に反対して、接がれたに過ぎない異邦人キリスト者が、切り去られた枝であるユダヤ人に対して誇ることがあってはならないと警告しているのです。
 
J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 
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 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (10)

 良いオリブの木は一つしかありません。枝が切り去られ、他の枝が接木される。しかし、その一本に良いオリブに木は生きているのです。地上には唯一つの契約の民しかいません。そしてその民が旧約・新約を貫いて続いているのです。良いオリブの木によって象徴されている真の契約の民は旧約の教会であり、また新約のイスラエルでもあるのです。良いオリブの木という象徴は、新約の教会が旧約のイスラエルと本質的な統一性と連続性をもっていることを示しているのです。
 近代の契約期分割主義(デイスペンセーショナリズム)は、教会とイスラエルとの間に鋭い区別を置いて、「イスラエルはイスラエル、教会は教会である」と主張します。-すなわち、新約の教会と旧約のイスラエルとの間の統一性と連続性を否定してしまう。-しかし、契約期分割主義はパウロのこのオリブの喩えを正しく説明することが出来ません。
実質的にここの箇所は契約期分割主義の人々にとっては正にやっかいな箇所なのです。

 契約期分割主義者は、イスラエルなどに対する旧約の諸約束は新約の教会に帰属するものではなく、厳密にユダヤ人にのみ帰するものであり、未来において文字通りユダヤ人に成就されなければならないと教えています。これらの諸約束をキリスト教会に適用することは、それらをユダヤ人から盗むことに等しいと言う人がいます。しかし、パウロはオリブの木の喩えに照らして考えるとき、私たちは純粋なイスラエル、すなわち、約束がなされた真のイスラエルは、旧約と新約の両時代を貫いて一つであり、一つの良いオリブの木によって示されている契約の民の集団であると主張しなくてはならないのです。従って、キリスト教会は旧約において神の恵みの約束が与えられた真のイスラエルなのです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
c3e84cb6.jpeg 「ローマ人への手紙」研究 (97)
 第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (9)
 
 私たちのローマ書の学びは、今やオリブの木の比喩まで至りました。これはデイスペンンセーショナリズム(契約期分割主義)と呼ばれる聖書解釈法を検討する鍵とたる極めて重要な喩えです。この聖書解釈法はJohn.N.Darbyの書著やスコーフイールド引照付聖書やピルグリム版聖書などによって一般化されている解釈法です。このオリブの木の喩えが、契約期分割主義の聖書解釈法に対して、どんな意義を持っているかを考えてみましょう。
 
 「しかし、もしある枝が切り去られて、野性のオリブであるあなたがたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたがたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである」(11:17~18)。
 
 ここでパウロは、異邦人キリスト者が、ユダヤ人に対して誤った態度を取っていることに対して警告しています。ここまでのパウロの教えを考慮すると、異邦人キリスト者である読者が、ユダヤ人に対して優越感や勝ち誇ったような感情を持つことは当然と見えます。神はユダヤ人を拒否して異邦人を救いに召された。しかし、このことは如何なる意味においても、霊的にも肉的にも誇ることを許す根拠ではなく、むしろ謙遜と神への感謝と霊的慎重さとに向かわせる根拠なのです。17節に始まるパウロの言葉は、異邦人キリスト者がユダヤ人に対して、傲慢な考えを抱くことがないように警告しているのであります。
 
 パウロは良く栽培されたオリブの木について述べています。ある枝々が切り去られて、その切られた所に野生のオリブの枝が接木された。すなわち、本来の枝をもった良いオリブの木があり、また枝をもった野生のオリブの木があった。良いオリブの木から幾つかの枝が切り去られて捨てらえた。野生のオリブの木から幾つかの枝が切り取られて、その良いオリブに接木されたのです。
 
 先ず第一にここで考えるべきことは、良いオリブの木とは何かということです。それがユダヤ民族を指している筈はありません。なぜならば、パウロは不信仰の故にある枝が切り去られ(20節)、信仰の故にある枝(異邦人)が接木されたと教えているからです。明らかに、イエスをキリストとして受け入れることを拒んだユダヤ人たちも、ユダヤ民族の中に一体とはされはしませんでした。それでは良いオリブとは一体何でしょうか。
 それは真のイスラエル、すなわち、神との真の契約関係にある人々、神の恵みの約束が与えられていた人々、真にイスラエルと言う名を持つ権利を持っている人々を指しているに相違ありません。
 
J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
43369a0a.jpeg 「ローマ人への手紙」研究 (96)
 第56課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。       11章11~36節 (8)

 ここで、「聖い」という言葉の意味を誤解してはなりません。これは聖化による個人の性質の聖さを言っているのではありません。これは立場の聖さを意味しているのです。聖書において、「聖い」、「聖さ」という語は、一つ以上の意味で用いられています。一つは聖化による個人の聖さという意味です。(へブル12:14、「自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」)。
 もう一つは、「立場」とか「関係」における外的な聖さという意味です。例えば、エルサレムは聖なる町(マタイ4:5)と呼ばれています。「エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なるものとなり」(ゼカリヤ14:21)、その他、マタイ7:6,24:15、27:53、Ⅰコリント7:14、ルカ2:23参照。これらの聖句の中にあるものは、「聖い」という語を、「神の御用のために聖別された」、「特に神に属するものとして選び分かたれた」という意味で用いられています。
 また、パウロはⅠコリント7:14で、「不信者の夫は妻によってきよめられており、」と言っています。明らかに、これは聖化によって起こる心や生活の聖さではなく、立場や関係の聖さという外的なものを意味しています。 
 同じように11:16でパウロが「かたまり」や「枝」がきよいと言っている時、それはユダヤ人が集団的に、聖霊による聖化の働きによって生み出される心と生活のきよさを獲得したという意味で言っているのではありません。集団的に見れば、ユダヤ人は明らかに不信者であって、その意味では聖化されていないしきよくもないです。しかし、彼らがなおも真の意味できよいと呼ばれることができる唯一つの意味があります。すなわち、彼らはその根であり初穂である聖なるアブラハムと関係を持っているという理由で、外的な意味で「きよい」と呼ばれることができるのであります。
 アブラハムはその故国から呼び出されて、神と特別な関係の中に入りました。これは一つの「きよさ」です。パウロの時代のユダヤ人も現代のユダヤ人も共に、アブラハムが根である枝なのです。その意味において、ユダヤ人はきよいと言えるのです。

 神はアブラハムを召して、神との特別な関係に入れるために聖別されたとき、それはアブラハムにだけ関係することではなかったのです。神はアブラハムの子孫をもみ心のうちに考えておられたのです。「神はヘブル人の族長たちを選んで聖別し、ご自身への奉仕に用いられる時、彼ら自身だけでなく、彼らの子孫のことも考慮しておられたのである。神は集団としてのユダヤ人たちが、後の世まで特別に神のために自らを捧げるように意図しておられた。だから彼らは今まで他の民族が与ることがなかった神との特別な関係の中に立ってきたのである。そしてこの関係をもってきたからこそ、彼らは再び神の恵みの中に回復されることが有り得るのである。そして、パウロが後の箇所で(25節)述べているように、神はそれを完成することを決定しておられるのである。(C・ホッジ)」。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 「ローマ人への手紙」研究 (95)
 第56課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (7)

「もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、枝もきよい」。(11:16)
 ここで、同じ真理を教えている二つの著名な言葉を見ましょう。麦粉の初穂というのは、主への献物として捧げられた、こねた小麦粉です。(民数記15:21「あなたがたは代々その麦粉の初物で、主にささげ物をしなければならない」。)麦粉の初穂をささげることは、人々の食料としてもちいられるその残りの麦粉を聖別することになります。「根」というのはそれから成長と生命が出てくる木の部分を指しています。
 根が枝を養い支えるのです。最初に、枝がある前に、根がなくてはならないのです。ここで「起原」、「初めの部分」を意味するものとして「根」が採り上げられているのです。明らかに、ここでは「根」と「初穂」とは同意に用いられています。ここの論旨は、「かたまり全体は初穂の性質をもっているものであり、枝は根の性質を留めているのである」ということです。

 ここで、「根」とか「初穂」とかは、何が意味されているのでしょうか。ある人たちは、初穂と根とはキリスト教会の根となったキリスト教に改宗した際、初穂のユダヤ人たちを意味するとしました。しかし、もっと良い見解は、初穂と根はアブラハム及びイサク、ヤコブなどの族長であるとするものです。この見解は、前の見解よりも文脈に適合していることは明らかです。
 パウロは今ここでユダヤ人はキリストに回心すると論じているのです。彼の論旨は、ユダヤ人はその先祖である聖なるアブラハムとの関係の故に、ある意味において聖いと言うのです。

 次に「かたまり」と「枝」とは何を意味するのでしょうか。この箇所におけるパウロの論旨に適合する唯一の見解は、それらが「集団としてのユダヤ人」を意味するとするものです。従って、パウロの論旨は「族長としてのアブラハムは聖である故に、ユダヤ人も集団的に聖いのである」ということです。かたまりは初穂のきよい性質に与っており、枝は根のきよい性質に与っているからです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 「ローマ人への手紙」研究 (94)
 第55課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否d6523d1c.jpeg
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (6)

 一つは「死人の中から生き返る」という表現は、「沈黙と悲惨の状態から繁栄の状態に移行する」という意味の比喩的表現であるとするものであって、C・ホッジの見解です。この見解によれば、ユダヤ人のキリストへの回心は非常な喜びと祝福であって、死人から生き返ることであると比喩的にいうことが出来ることです。ユダヤ人たちは不信仰とキリストを持たないことによって、あたかも霊的に死んだ者に等しい。しかし、彼らがキリストに回心すれば、彼らは霊的に生き返ることに等しいという意味になります。

 もう一つの見解は、この言葉は、キリストの再臨のとき、死人が身体を持ってよみがえらされることを意味しているとするものです。この見解によると、ユダヤ人たちはキリストの再臨の直前に、キリストに回心するという意味になります。彼らの回心の直ぐ後に死人の復活が続くのです。故に、彼らの回心は死人に中から生き返ることであると表現できるのです。この見解はDavid.Freemanがその著書「聖書と起こるべき事柄」の中で採っている見解です。
「ここの『死人に中から生き返る』ということばはそういう意味だろうか。パウロはユダヤ人の回心が死人の復活をもたらしたと言っているのであろうか。もしそうであれば、イスラエルがメシヤを受け入れることは、天よりのキリストの再臨をもたらすものであろう。これこそ正にパウロが言おうとしていることである。何故ならば、彼は死人の中から生き返るということと世の和解とを関連させているからである。そして前者は後者の極点なのである。『死人の中から生き返る』ということは、世の和解と言うよりもはるかに高度で偉大なことであるに相違ない。今の世が経験する和解ということにまさって偉大でありうるのは、生命の復活以外に何があろうか。パウロはここで、キリストによって買い取られた贖いを、それの始まりから栄光に満ちた完成に至るまでを、一気に眺望しているのである」。Freemanは脚注の中で、「死人の中から生き返る」という言葉は、単なる霊的覚醒(リバイバル)を意味するとする比喩的解釈を許すものではありえない。文脈上からもこのような解釈は不可能である。『彼らは捨てられた』という言葉の反対である『彼らは受け入れられること』という言葉は、前者よりもより尊厳に満ちた状況を表しており、神が人間を取り扱われる終局的御行為の始まり、すなわち、死人の復活を意味していると取る以外にはないのである」と述べている。
「死人の中から生き返る」(life from the dead)という用語で復活が意味されている箇所は、新約の中で他にはないということを考慮すると、ホッジの見解は有利であります。他の個所では、復活を表す用語は、「死人の甦り」(the raising of the dead)です。しかし、パウロが、復活を表す用語として後者と同様に前者をも用いることが出来ることを、私たちは認めなければなりません。そしてFreemanの解釈が正しいと考えて、ローマ書の11章15節は、ユダヤ人たちのキリストへの回心がキリストの天からの再臨と死人の復活をもたらすことを意味していると理解すべきです。

J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
  「ローマ人への手紙」研究 (93)
 第55課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (5)
 
 「そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務めを光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている」(11:13~14)。
 
 パウロの論述において、これらの二つの節は挿入句になっています。パウロはユダヤ人の堕落と回復の論述を一時中断して、この大問題に関連して自分の気持ちと行動について一言しようとしています。パウロは異邦人の使徒です。しかし、使徒行伝に記されている彼の行動から見ると、彼が訪れた多くの場所において、彼はまず最初にユダヤ人に福音を宣べ伝えることを常としていたことを知るのです。ここでパウロは異邦人に語っていますが、それは彼が異邦人に言及することが、彼の血族であるユダヤ人たちを奮起させて、救いを求めさせ、キリストの中に救いを見い出させることを望んでいることなのです。
 異邦人の救いとユダヤ人の救いとは密接に関連していることは明らかです。全てのキリスト信者は、これらの両方に深く関心を持たなくてはならないのです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、そのいずれかに悪感情を持つことは根拠のないことなのです。パウロが異邦人の救いを切望したのは、彼ら異邦人たちのためばかりではなく、そのことが彼の同族のユダヤ人たちの回心のためにも道を開くことになるからです。
 
 「彼らの幾人かを救おうと願っている」(14)。勿論、これはパウロ或いは他の伝道者が罪人を実際に救うことが出来るという意味ではありません。罪人の救いは全く神の業です。しかし、神は同時に人間をその器として、ある点においてお用いになるのです。現代において、伝道者の努力が聞く者を救いに導くのに十分な力を持っているかのような印象を与えますが、パウロが述べているのは、そのような意味は全くないのです。彼のいう意味は、「彼らの幾人かの救いのための神の御手の中の器となりたい」と言っているのです。
 
 「もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか」(11:15)。
 この節は、11章12節と部分的に並行するものです。前半は難解なところはありません。「捨てられる」は明らかに神がユダヤ人を拒まれることを意味し、「世の和解」とは異邦人の救いを意味してします。「彼らの受けいれられること」はユダヤ人の回心を意味しています。しかし、後半は全く難解です。「死人の中から生き返る」とは何を意味するのでしょうか。この11章15節の解釈について二つの見解があります。
 
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    (日本キリスト改革派引退教師)
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東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
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東京大学大学院法学政治学研究科教授
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青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
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西出拓生
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馬場健司
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本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
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おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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