2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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「ローマ人への手紙」研究 (92)
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (4)
「奮起せしめる」とは、異邦人の救いが、不信のユダヤ人たちに妬みを起こさせることを意味しています。神がユダヤ人を拒まれたことは、永遠のものではなく、最後的な拒否ではありません。それは異邦人への福音伝道が促進されるためでもあり、最後的にはユダヤ人がそれを見て奮起し、救い主に立ち帰るように、神が計らわれたのです。
「奮起させる(妬みをおこさせる)ということは、罪に汚れた種類の妬みを意味するのではありません。パウロは異邦人の救いがユダヤ人を奮起させ、福音を通して彼らに救いを求めさせるよう神は意図されたのだと述べているのです。
「もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう」(11:12)。もしユダヤ人の拒否が、世界にそれほど大きな利益をもたらしたのならば、彼らがキリストに回心するならば、さらに大きな益を期待できるはずです。「すばらしいこと」は「失敗」と対比されます。新約ではいろいろの意味に用いられています。あることを完全にするために補えられねばならない部分の意味を表しています(マタイ9:16)。
ここの11:12では、完全な回復または祝福(ホッジ)、あるいはユダヤ人が再び満たされる(アルフォード)の意味です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (4)
「奮起させる(妬みをおこさせる)ということは、罪に汚れた種類の妬みを意味するのではありません。パウロは異邦人の救いがユダヤ人を奮起させ、福音を通して彼らに救いを求めさせるよう神は意図されたのだと述べているのです。
「もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう」(11:12)。もしユダヤ人の拒否が、世界にそれほど大きな利益をもたらしたのならば、彼らがキリストに回心するならば、さらに大きな益を期待できるはずです。「すばらしいこと」は「失敗」と対比されます。新約ではいろいろの意味に用いられています。あることを完全にするために補えられねばならない部分の意味を表しています(マタイ9:16)。
ここの11:12では、完全な回復または祝福(ホッジ)、あるいはユダヤ人が再び満たされる(アルフォード)の意味です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
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「ローマ人への手紙」研究 (91)
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (3)
「そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」(11:11)。
11節が11章の1節の「そこで、わたしは問う、・・・、断じてそうではない」と同じ形で始まっていることに注目したいのです。1~11節において、パウロは「神はその民を捨てたのであろうか」という問いを起こし、それに答えました。彼は、ユダヤ人拒否は全員ではなく、恵みの選びによって残された者は救われると説明して、その問いに答えています。更に進んで、もう一つの問い、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」を問うて、次に、以下の節においてそれに答えているのです
第二の問いに対するパウロの答えの要点は、神がユダヤ人を拒否されたのが、全員ではないのと同じく、最後的ではないということです。「つまずく」と「倒れる」との間には、対比、あるいは比較があります。彼らはつまずいた、その通りです。しかし、それは、彼らが倒れるためであったのでしょうか。すなわち、永遠に拒否されることであったのであようか。
明らかに「つまずく」という語は、一時的なことを表す語であり、他方「倒れる」という語は永遠的なことを表すものです。そこでパウロは、ユダヤ人の拒否は永遠的でなく、取り消され得ないものではないと教えているのです。なぜなら、彼は直ぐ後で「断じてそうではない」という強調的な否定をもって答えているからです。神がユダヤ人の背教を赦された意図は、彼らの拒否が永遠で最終的なものであるのではなく、むしろ、(1)異邦人の救いをもたらすためであり、(2)そうして、最後にユダヤ人をして奮起させるためであったのです。
私たちはここで、ユダヤ人たちの不信仰が、どのようにして異邦人の救いを促進させることが出来るのかと少なからず不思議に感じるのです。しかし、それがこのような効果をもたらしたというのが聖書の教えなのです。 (使徒行伝13:46、28:28とイザヤ49:4~6を比較してください)
「ユダヤ人たちは、キリスト教を告白している人たちでさえも、第一に、福音が異邦人たちに伝道させることを許すのに極めて消極的であった。第二に、彼らは殆ど一様に律法の儀式的遵守によって福音を阻もうと願ってきたように見えます。これが使徒時代にキリストの運動の進展を阻んだ最大の障害の一つであった。それで、もし民族としてのユダヤ人がキリスト教信仰を受け入れていたとすれば、それはまさしく一大驚嘆事であったことであろう。これら二つの理由から、ユダヤ人の拒否は思いがけなく福音伝播の促進の手段となったのである。さらに、その不信仰の故に彼らの上にもたらされた罰が、彼らの民族と勢力の破滅を伴いながらも、福音を広く伝道することを禁止しようとする彼らの熱烈な願望を実行する能力を阻んだのである」(ホッジ)。「ユダヤ人が神の愛顧のうちに持っていたこの地位からよろめき落ち、代わりに異邦人たちがその地位に入れられることによって、このように除外されたユダヤ人自身が奮起させられて、ついには民族として今は落ちているかつての栄光を再び獲得しようとするのである」。(H・アルフョード)
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (3)
「そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」(11:11)。
11節が11章の1節の「そこで、わたしは問う、・・・、断じてそうではない」と同じ形で始まっていることに注目したいのです。1~11節において、パウロは「神はその民を捨てたのであろうか」という問いを起こし、それに答えました。彼は、ユダヤ人拒否は全員ではなく、恵みの選びによって残された者は救われると説明して、その問いに答えています。更に進んで、もう一つの問い、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」を問うて、次に、以下の節においてそれに答えているのです
第二の問いに対するパウロの答えの要点は、神がユダヤ人を拒否されたのが、全員ではないのと同じく、最後的ではないということです。「つまずく」と「倒れる」との間には、対比、あるいは比較があります。彼らはつまずいた、その通りです。しかし、それは、彼らが倒れるためであったのでしょうか。すなわち、永遠に拒否されることであったのであようか。
明らかに「つまずく」という語は、一時的なことを表す語であり、他方「倒れる」という語は永遠的なことを表すものです。そこでパウロは、ユダヤ人の拒否は永遠的でなく、取り消され得ないものではないと教えているのです。なぜなら、彼は直ぐ後で「断じてそうではない」という強調的な否定をもって答えているからです。神がユダヤ人の背教を赦された意図は、彼らの拒否が永遠で最終的なものであるのではなく、むしろ、(1)異邦人の救いをもたらすためであり、(2)そうして、最後にユダヤ人をして奮起させるためであったのです。
私たちはここで、ユダヤ人たちの不信仰が、どのようにして異邦人の救いを促進させることが出来るのかと少なからず不思議に感じるのです。しかし、それがこのような効果をもたらしたというのが聖書の教えなのです。 (使徒行伝13:46、28:28とイザヤ49:4~6を比較してください)
「ユダヤ人たちは、キリスト教を告白している人たちでさえも、第一に、福音が異邦人たちに伝道させることを許すのに極めて消極的であった。第二に、彼らは殆ど一様に律法の儀式的遵守によって福音を阻もうと願ってきたように見えます。これが使徒時代にキリストの運動の進展を阻んだ最大の障害の一つであった。それで、もし民族としてのユダヤ人がキリスト教信仰を受け入れていたとすれば、それはまさしく一大驚嘆事であったことであろう。これら二つの理由から、ユダヤ人の拒否は思いがけなく福音伝播の促進の手段となったのである。さらに、その不信仰の故に彼らの上にもたらされた罰が、彼らの民族と勢力の破滅を伴いながらも、福音を広く伝道することを禁止しようとする彼らの熱烈な願望を実行する能力を阻んだのである」(ホッジ)。「ユダヤ人が神の愛顧のうちに持っていたこの地位からよろめき落ち、代わりに異邦人たちがその地位に入れられることによって、このように除外されたユダヤ人自身が奮起させられて、ついには民族として今は落ちているかつての栄光を再び獲得しようとするのである」。(H・アルフョード)
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (90)
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (2)
この問題を入念に学ぼうと願う人々は、次の書物を読むことが望ましいです。(2)
4 Albertus Pieters 「アブラハムの末」(絶版)
本書の副題は「イスラエル・教会・ユダヤ人についての聖書的研究」です。この書の中で、著者はローマ書11:11~36の問題について、「パウロは来るべき時代におけるイスラエル民族の領土的回復について述べているのではなく、またそのようなことに関心を寄せているのでもない。ローマ書の11章において、彼はイスラエルの霊的回復のことを言っているのである。しかし、パウロが、異邦人たちが集められた後であるにしても、或いはそれと共であるにしても、どのような形における回復を期待しているかは明らかではない。パウロが「彼らが全部救われたら」と言っているのだから、四散している個々のユダヤ人だけでなく、ユダヤ人全体の回心が最終的にあるので、今後は、パウロの時代から今日に至るまで、存在したような、福音に反対する立場をとるユダヤ人に集団と言うものはもはや世界に存在しなくなると結論する人々があるが、決して不自然な解釈ではないのである。或いはこれが正しい解釈であるかもしれないが、パウロが常に主張している「残された者」という理念があるので、一抹の疑問は残る。この理念によると、神の約束は民の一部分に対してだけ成就され、しかも、それで正当且つ真実に成就されたのであるとされる。この考え方をここに適用すると、全てのイスラエルというのは、イスラエルの中の選ばれた者を意味することになり、神は予め知っておられたその民を捨てられることはないと言うパウロの確信にも合致するのである」。
5 David Freeman「聖書と来るべき出来事」(絶版)
本著の「ユダヤ人:その回心と領土」という章において、著者が述べていることは、きわめて有用で啓発されるものがあります。彼は「神が再び民族としてのユダヤ人の上に、恵をもって臨まれると言う意味の確かな教えがある」。また、「民族としてのイスラエルは、回心という仕方においてのみ救われる。いつの日にか、彼らは必ず、全ての民族から来る者と共に、真の信仰をもって、その救い主を認めるのである」と言っている。フリーマン氏の所論に中には、反対の見解を持つ人たちがまだ十分には答えていないものがあると考えられます。
ローマ書11章11~36節は、ユダヤ人が集団として将来、キリスト教に回心することを述べているとする学者たちの中には、H.Alfuord C. Hodge, Shdd,G.Vosなどがあり、反対の見解を持つ人々には、P.Mauro,I.Graebner,W.Hendriksenなどがいます。ローマ書11章11~36節は全く難解な箇所です。この箇所を単純で明白であると考える人たちは、この問題について無知であるばかりでなく、この問題について記されている文献にも無知であることを暴露していると言うべきでありましょう。
この学びにおいては、ユダヤ人のキリストへの回心は集団的であるということが、ローマ書11:11~36の語っているところであると言う立場を採用したいです。しかし、常に明記しておかなくてはならないことは、この問題は確かに議論の多いものですが、結論はまだ記されてはいないということです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (2)
この問題を入念に学ぼうと願う人々は、次の書物を読むことが望ましいです。(2)
4 Albertus Pieters 「アブラハムの末」(絶版)
本書の副題は「イスラエル・教会・ユダヤ人についての聖書的研究」です。この書の中で、著者はローマ書11:11~36の問題について、「パウロは来るべき時代におけるイスラエル民族の領土的回復について述べているのではなく、またそのようなことに関心を寄せているのでもない。ローマ書の11章において、彼はイスラエルの霊的回復のことを言っているのである。しかし、パウロが、異邦人たちが集められた後であるにしても、或いはそれと共であるにしても、どのような形における回復を期待しているかは明らかではない。パウロが「彼らが全部救われたら」と言っているのだから、四散している個々のユダヤ人だけでなく、ユダヤ人全体の回心が最終的にあるので、今後は、パウロの時代から今日に至るまで、存在したような、福音に反対する立場をとるユダヤ人に集団と言うものはもはや世界に存在しなくなると結論する人々があるが、決して不自然な解釈ではないのである。或いはこれが正しい解釈であるかもしれないが、パウロが常に主張している「残された者」という理念があるので、一抹の疑問は残る。この理念によると、神の約束は民の一部分に対してだけ成就され、しかも、それで正当且つ真実に成就されたのであるとされる。この考え方をここに適用すると、全てのイスラエルというのは、イスラエルの中の選ばれた者を意味することになり、神は予め知っておられたその民を捨てられることはないと言うパウロの確信にも合致するのである」。
5 David Freeman「聖書と来るべき出来事」(絶版)
本著の「ユダヤ人:その回心と領土」という章において、著者が述べていることは、きわめて有用で啓発されるものがあります。彼は「神が再び民族としてのユダヤ人の上に、恵をもって臨まれると言う意味の確かな教えがある」。また、「民族としてのイスラエルは、回心という仕方においてのみ救われる。いつの日にか、彼らは必ず、全ての民族から来る者と共に、真の信仰をもって、その救い主を認めるのである」と言っている。フリーマン氏の所論に中には、反対の見解を持つ人たちがまだ十分には答えていないものがあると考えられます。
ローマ書11章11~36節は、ユダヤ人が集団として将来、キリスト教に回心することを述べているとする学者たちの中には、H.Alfuord C. Hodge, Shdd,G.Vosなどがあり、反対の見解を持つ人々には、P.Mauro,I.Graebner,W.Hendriksenなどがいます。ローマ書11章11~36節は全く難解な箇所です。この箇所を単純で明白であると考える人たちは、この問題について無知であるばかりでなく、この問題について記されている文献にも無知であることを暴露していると言うべきでありましょう。
この学びにおいては、ユダヤ人のキリストへの回心は集団的であるということが、ローマ書11:11~36の語っているところであると言う立場を採用したいです。しかし、常に明記しておかなくてはならないことは、この問題は確かに議論の多いものですが、結論はまだ記されてはいないということです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (89)
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (2)
ローマ書の解釈上最も難解な箇所の一つに来ています。すなわち、11:11~36は未来におけるユダヤ人の(多数、または大部分、或いは全員)キリストへの回心を述べているのかと言う点です。表面的にだけ見るならば。このことは容易に肯定的に答えることが出来るように見えます。しかし、問題は決して単純ではありません。著名な正統的聖書学者たちの間にも、全く正反対の結論が出ているのです。
この箇所を取り上げるにあたって、まず始めに学者の間でも互いに見解を異にしている箇所であることを念頭において置くべきです。そして、この箇所が論争の的になっているその性格を正しく把握して、次に決定的な証拠によって確実な論証が可能である部分を除いて、決定的な断定を下さないで進んで行くことが必要でしょう。
この問題を入念に学ぼうと願う人々は、次の書物を読むことが望ましい。
1 William Hendriksen「イスラエルと聖書」(Israel and The Bible)
本書はローマ書11:26の綿密な研究を入れています。著者は「全てのイスラエルが救われる」という言葉は、各時代を通じて、選ばれたユダヤ人が救われることを述べているものであり、「全てのイスラエル」は、11:5の「残された者」と同意である、と主張しています。
2 Charles Hodge「ローマ書注解」
ホッジ博士の結論は、「未来において、ユダヤ人があまねくキリストに回心し、全てのイスラエルが救われる」としています。
3 Louid DeCaro「今日のイスラエル:預言の成就か?」
著者の見解は、今日のイスラエルはその不信仰の故に、旧約の預言の成就ではなく、「イスラエルの残された者」の霊的覚醒と救いについての聖書における約束であると見る。イスラエルの約束された救いとは、政治的または領土的なものではなく、霊的なものであり、イスラエルの中に悔い改めて、信仰を持ってキリストに立ち帰る人々の希望なのである。本書は近東における現代の紛争問題を聖書的な見地から考えるのに大いに啓発的です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (2)
ローマ書の解釈上最も難解な箇所の一つに来ています。すなわち、11:11~36は未来におけるユダヤ人の(多数、または大部分、或いは全員)キリストへの回心を述べているのかと言う点です。表面的にだけ見るならば。このことは容易に肯定的に答えることが出来るように見えます。しかし、問題は決して単純ではありません。著名な正統的聖書学者たちの間にも、全く正反対の結論が出ているのです。
この箇所を取り上げるにあたって、まず始めに学者の間でも互いに見解を異にしている箇所であることを念頭において置くべきです。そして、この箇所が論争の的になっているその性格を正しく把握して、次に決定的な証拠によって確実な論証が可能である部分を除いて、決定的な断定を下さないで進んで行くことが必要でしょう。
この問題を入念に学ぼうと願う人々は、次の書物を読むことが望ましい。
1 William Hendriksen「イスラエルと聖書」(Israel and The Bible)
本書はローマ書11:26の綿密な研究を入れています。著者は「全てのイスラエルが救われる」という言葉は、各時代を通じて、選ばれたユダヤ人が救われることを述べているものであり、「全てのイスラエル」は、11:5の「残された者」と同意である、と主張しています。
2 Charles Hodge「ローマ書注解」
ホッジ博士の結論は、「未来において、ユダヤ人があまねくキリストに回心し、全てのイスラエルが救われる」としています。
3 Louid DeCaro「今日のイスラエル:預言の成就か?」
著者の見解は、今日のイスラエルはその不信仰の故に、旧約の預言の成就ではなく、「イスラエルの残された者」の霊的覚醒と救いについての聖書における約束であると見る。イスラエルの約束された救いとは、政治的または領土的なものではなく、霊的なものであり、イスラエルの中に悔い改めて、信仰を持ってキリストに立ち帰る人々の希望なのである。本書は近東における現代の紛争問題を聖書的な見地から考えるのに大いに啓発的です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (88)
第53課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (7)
9節、10節は詩篇69:22~23からの引用で、キリストの受難とキリストの敵の上に来るべき審きについての預言です。これはいわゆる呪いの詩であって、極度に復讐的なもので、キリスト者の敬虔な用い方には相応しくないものだと言う人もいます。しかし、これは明らかにイエス・キリストの預言であって、新約におけるこのような言葉に当てはめることが出来ます。詩篇69:9の「あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりがわたしに及んだのです」とあり、ヨハネ2:13~17と比較しましょう。また、詩篇69:21「わたしのかわいた時に酢を飲ませました」とヨハネ19:28~30を比較しましょう。
パウロは、詩篇69:69:22~23を不信仰なユダヤ国民の上に来る神の審きについて述べているものと見ています。「ここで通告されている審きは象徴的に述べられています。その意味は彼らの祝福が呪いとなり、盲目性と弱さ、心の頑なさと悲惨が彼らの上に臨むということです。この悲惨と言う理念は視力の暗さと老年の虚弱さとして言及することによって強く表現されている。若さの活力と行動力は、神の慈しみの結果を表現する通常の形象である」(ホッジ)。
詩篇69が祈っている事柄は、パウロの時代とそれ以後にユダヤ人たちの上に現実に生起したことでした。こうして、神がユダヤ人を拒否されたことについて、パウロが述べてきたことは、少しも新しいことではなく、既に旧約において述べられていることなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第53課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (7)
9節、10節は詩篇69:22~23からの引用で、キリストの受難とキリストの敵の上に来るべき審きについての預言です。これはいわゆる呪いの詩であって、極度に復讐的なもので、キリスト者の敬虔な用い方には相応しくないものだと言う人もいます。しかし、これは明らかにイエス・キリストの預言であって、新約におけるこのような言葉に当てはめることが出来ます。詩篇69:9の「あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりがわたしに及んだのです」とあり、ヨハネ2:13~17と比較しましょう。また、詩篇69:21「わたしのかわいた時に酢を飲ませました」とヨハネ19:28~30を比較しましょう。
パウロは、詩篇69:69:22~23を不信仰なユダヤ国民の上に来る神の審きについて述べているものと見ています。「ここで通告されている審きは象徴的に述べられています。その意味は彼らの祝福が呪いとなり、盲目性と弱さ、心の頑なさと悲惨が彼らの上に臨むということです。この悲惨と言う理念は視力の暗さと老年の虚弱さとして言及することによって強く表現されている。若さの活力と行動力は、神の慈しみの結果を表現する通常の形象である」(ホッジ)。
詩篇69が祈っている事柄は、パウロの時代とそれ以後にユダヤ人たちの上に現実に生起したことでした。こうして、神がユダヤ人を拒否されたことについて、パウロが述べてきたことは、少しも新しいことではなく、既に旧約において述べられていることなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第52課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (6)
「そして、他の者たちはかたくなになった」(7)。神は罪人をかたくなにされることによって、彼らを罰せられることがしばしばある。すなわち、彼らを罪の状態の中に放置されて、その結果、彼らがますます悪くなるままにして置かれることによって、彼らを罰せられるということは、聖書の中に示されている明らかな原則です。「彼らは神によってかたくなにされた。すなわち、神は彼らの心をかたくななままに放置されたのだ」(C・ホッジ)。
8節は旧約の各所から引用されたものです。例えば、イザヤ書6:9、10、申命記29:4、イザヤ書29:10などです。これらの旧約の聖句は、一つには、それらが記された当時の状態に適用されるとともに、未来的な意味をも持つもので、パウロの時代のユダヤ人に適用されうるのです(比較マタイ13:14)。
これらの多くの聖句は、はじめに小規模に成就し、後に大規模に、あるいは完全な形態において実現しているのです。旧約時代に起こったことが、再びパウロの時代のユダヤ人の間に、より完全に起こったのです。すなわち、霊的に見えない目を持ち、霊的に聞こえない耳を持つということです。その盲目の故に、彼らはメシヤとしてのイエスを見ることが出来ず、紀元70年のエルサレムの破壊の時の災害と破滅が彼らに及ぶまで、彼らは不信仰の中に陥っていたのです。
「このかたくなさは、決して単なる災害ではなく、また彼らの罪の自然的な帰結に過ぎないのでもありません。それらは課せられるべき刑罰なのです。神は言われます。わたしはあなたがたに見えない目を与える。生ける神の御手は魂をかたくなにし、惑わし、盲目とされるのである」(C・ホッジ)。
このことが真理であるからには、神を怒らせることや、神の恵みにつけ込むなどと言うことのないように気を付けることは、いかに大切なことであろうか。わたしたちの神は焼き尽くす火であられるのだ(ヘブル12:29)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第52課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (5)
「では、どうなるのか、イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。『神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞こえない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる』と書いてあるとおりである」(7~8)。
ここで「追い求める」と訳されている言葉は、「熱心に、懸命に追い求める」という意味です。ユダヤ人たちは熱心に義を追い求め続けました。しかし、彼らはそれを手に入れることに失敗しました。なぜかと言えば、彼らはそれを信仰によらず、行いによって得ようとしたからです。この箇所はパウロが今までに述べてきた論述の要約です。民族としてのイスラエル-すなわち、イスラエルの大多数はそれを得ることに失敗しました。しかし、神は予め知っておられ、お選びになっていた者は、それを手に入れたのです。イスラエルの拒否は全体ではなくて、一部の者であるからには、旧約において神がなさった約束は決して取り消されることはないのです。
信じて救われたイスラエルは、真のイスラエルであり、古いイスラエルの真のイスラエルの継承者であり、約束の真の受領者なのです。この真理は次のように例証することが出来ましょう。未来のある時に、米国の諸州がロッキー山脈の西側の州を除いて、海の中に陥没してしまうと想定しましょう。この国の大部分はその住民たちと共に、この大災害によって失われてしまうけれども、残っている諸州は依然として米国を形成するのです。それは依然として北米合衆国であり、世界の中で、米国の正統な継承であると見做されるのです。
同じようにイスラエルの残された者たちは救いを得た真のイスラエルなのです。異邦人のキリスト信者と共に、彼らは旧約の約束の受領者なのです。約束は決して反古になってはいないし、取り消されてもいないのです。その約束は、それを真に与えられた者たち、恵みによって選ばれた者たちの上に確かに成就したのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (85)
第51課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (4)
「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなるからである」(6)。
これはパウロが5節で述べている「恵み」という言葉の説明です。彼はここで二つの原則、すなわち恵みと行ないとは互いに対立するものであることを指摘しています。人々の選びは恵みと行ないの両方に基づくと言うことは有り得ないことです。というのは、この二つの概念は相互に相容れない矛盾概念であるからです。
選びは恵みによるか、或いは行いによるかの何れかであり、両方では決して有り得ないのです。恵みが、もし行いによるのであれば、それはもはや恵みではなくなるのです。恵みという概念は、「行いによるのではない」ということです。予め知られた、すなわち予知された行いというものは、他の行いと同様、選びの概念からは全く排除されているのです。アルミニウス主義の選びの教理理解は、選びが予め知られている行いに基づくとするものです。
すなわち、神はある人がやがて悔い改め、キリストを信じるようになることを予め知っておられるから、その人を救いにお選びになったのだとするのです。もしアルミニウスの神学が正しいとすれば、選びの教理は恵みによるのではなく、行いによるものになってしまいます。何故なら、アルミニウス主義は、神は人の悔い改めと信仰を予知することに基づいて、彼をお選びになるとするからです。この考えによると、悔い改めと信仰とは、選びがそれらに基づいてなされる根拠、すなわち、行ないとみなされるのです。そのような選びは断じて恵みによる選びではありません。
パウロの選びの教理から人間の行いや功績と言う要素を完全に排除することを、極めて重要なことと見ていたことは明らかです。彼は恵みと行いについて強調するために、ユダヤ人と異邦人の問題の論述を11章6節において一時中断しています。今日、多くの人々が選びの教理を、聖書に教えられている通りに信じると言いながら、この点について余り注意を払っていません。彼らはそれを余り語らないし、またそれを避けようとしています。
あるいはこの点について何か遠慮がちに語ろうとするのです。パウロが神の主権的な選びの教理について、決してそのようには考えていないことは明らかです。彼はこの点についてこそ福音の主要点と考え、それを一貫して強く教えています。私たちもそのように教えなければなりません。もしそれが神のみ言葉の真理であるならば、それを恥とするどころか、堂々と述べなければならないのです。
(人間中心的な要素が時と共に増大する傾向のある現代キリスト教界にあって、神の主権性、主権的な選びの教理こそ、ぜひとも私たちが擁護しなくてはならない保塁であり、それなくして教会は真理の柱とはなりえないのです)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第51課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (4)
「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなるからである」(6)。
これはパウロが5節で述べている「恵み」という言葉の説明です。彼はここで二つの原則、すなわち恵みと行ないとは互いに対立するものであることを指摘しています。人々の選びは恵みと行ないの両方に基づくと言うことは有り得ないことです。というのは、この二つの概念は相互に相容れない矛盾概念であるからです。
選びは恵みによるか、或いは行いによるかの何れかであり、両方では決して有り得ないのです。恵みが、もし行いによるのであれば、それはもはや恵みではなくなるのです。恵みという概念は、「行いによるのではない」ということです。予め知られた、すなわち予知された行いというものは、他の行いと同様、選びの概念からは全く排除されているのです。アルミニウス主義の選びの教理理解は、選びが予め知られている行いに基づくとするものです。
すなわち、神はある人がやがて悔い改め、キリストを信じるようになることを予め知っておられるから、その人を救いにお選びになったのだとするのです。もしアルミニウスの神学が正しいとすれば、選びの教理は恵みによるのではなく、行いによるものになってしまいます。何故なら、アルミニウス主義は、神は人の悔い改めと信仰を予知することに基づいて、彼をお選びになるとするからです。この考えによると、悔い改めと信仰とは、選びがそれらに基づいてなされる根拠、すなわち、行ないとみなされるのです。そのような選びは断じて恵みによる選びではありません。
パウロの選びの教理から人間の行いや功績と言う要素を完全に排除することを、極めて重要なことと見ていたことは明らかです。彼は恵みと行いについて強調するために、ユダヤ人と異邦人の問題の論述を11章6節において一時中断しています。今日、多くの人々が選びの教理を、聖書に教えられている通りに信じると言いながら、この点について余り注意を払っていません。彼らはそれを余り語らないし、またそれを避けようとしています。
あるいはこの点について何か遠慮がちに語ろうとするのです。パウロが神の主権的な選びの教理について、決してそのようには考えていないことは明らかです。彼はこの点についてこそ福音の主要点と考え、それを一貫して強く教えています。私たちもそのように教えなければなりません。もしそれが神のみ言葉の真理であるならば、それを恥とするどころか、堂々と述べなければならないのです。
(人間中心的な要素が時と共に増大する傾向のある現代キリスト教界にあって、神の主権性、主権的な選びの教理こそ、ぜひとも私たちが擁護しなくてはならない保塁であり、それなくして教会は真理の柱とはなりえないのです)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第51課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (3)
「聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなた方は知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った、『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしの命も求めています』」(11:2~3)。
パウロは今、イスラエルの残れる者がやがて救われるという真理を述べようとしています。そしてそのために、預言者エリヤの時代の状況を語ります。列王記上19章10節に言及しています。その時代は悪王アハブの治世であって、民の大部分はアハブに従い、エホバより離れてバアル礼拝に進んで行きました。エリヤの時代には、イスラエルの廃教は極点にあったと思われます。
しかし、それは決して全体ではなく、一部の者であり、エリヤの時代においても、なお、信仰ある少数の者が残っていたのです。すなわち、オバデヤがおり、数百人の預言者たちが洞窟に隠れていました。また、真の神に忠実な7000人の者がいて、バアルに膝を曲げず、その像に口づけしませんでした。エリヤの時代の信仰者たちは、全国民の数に比べれば、確かに一握の者でしかありませんでした。しかし、彼らこそ真のイスラエルであり、イスラエル人の中のイスラエルであり、神の民であったのです。
彼らこそ、神が「あらかじめ知っておられたその民」なのです。同じように、パウロの時代にも、イスラエル人の拒否は全員ではなく、神は依然として御自身のために残れる民を持っておられ、彼らこそ真の神の民であったのです。「それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる」(11:5)。
「恵みの選びによって」という表現の真の意味は何でしょう。「恵み」とは、単なる「親切」や「顧み」以上のものです。それは「神が受ける資格のない者にお与えになる愛と慈しみ」です。一人の人が神の恵みを受ける理由は、その人の中にあるのではなく、神の主権的な愛と慈しみにあるのです。それについて被造物は、神がそうすることを良しとされたという以外に、如何なる理由も付加することは出来ません。従って、「恵みの選びによる残れる者」とは、神の主権的な選びによって残された者の意味です(比較してください。9:11、11:21,24)。
エリヤの時代において、信仰者の数はエリヤが想像する以上に多数でありました。エリヤ自身だけが神に仕えるために残されていると考えました。しかし、神は7000人以上の者が残されていたことを彼に教えられました。同じように、パウロの時代にも、残される者の数は傍観者が考えるよりも遥かに多かったに違いなかったのです。使徒行伝21章20節でヤコブは数万人の信じるユダヤ人のことを述べています。だから、全てのユダヤ人が捨てられたのではないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳 (日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (83)
第50課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全体ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (2)
「神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった」(2)。この言葉を解釈するに当たって、その強調点がどこにあるかが問題になります。もし強調点を「その民」に置くならば、そこにも一つの解釈ができ、また「あらかじめ知っておられた」に強調点を置くならば、もう一つの解釈が可能になります。第一の場合には、「その民」とはイスラエルを指すことになり、その意味は、神はイスラエルの民をお捨てになってはおられない。神は予めおられたその民を捨てることはされなかったということになります。
しかし、第二の場合には、その民はイスラエルではなくて、選びの民、すなわちイスラエルの中の選ばれた者たちの意味となり、永遠より愛と慈しみをもってあらかじめ知っておられたイスラエルの中の真のイスラエル、霊的イスラエルを指すことになります。第二の意味が第一の意味に比べて、より優れていると考えられます。
第一の場合には、2節は1節の繰り返しに過ぎなくなってしまいます。しかし、第二の場合には2節はそれ自身の意味を持ってくることになります。更に、9:6~8節においてパウロはすでに、外的イスラエル(肉のイスラエル)と霊的イスラエルという核となる者との区別を明らかにしています。この考えはこの書簡において、今新しく登場して来たものではありません。
また、第二の解釈は11章の後にある部分と最も良く適合するのです。すなわち、11章においてパウロは恵みの選びによって残された者があることを語っています(5)。これらの理由から、第二の解釈の方がはるかに優れているのです。この解釈によりますと11章2a節の意味は「神はその選びの民をお捨てにならなかった。神は特にあらかじめ知っておられたイスラエルの民の中のある者たちを捨てることはされなかったのだ」となります。
これはローマ書全体の文脈に適合するばかりでなく、聖書全体の教理、すなわち、外的な目に見える社会とそのメンバーたちは罪の中に捨てられ滅びるかもしれない。しかし、神の選びの民たちは、決して捨てられないし、滅びることはありえないという教理にも適合するのです。
「あらかじめ知る」という語は、聖書では一つ以上の意味に用いられています。11章2a節に用いられているように、単に「先に知る」という意味以上のことを意味するのです。「あらかじめ知る」、あるいは「永遠より知る」という意味において、神のあらかじめの知識、すなわち、神の予知は全ての被造物と出来事を一切包含しているのです。この意味において、神はユダヤ人と同じく異邦人をもあらかじめ知っておられたのです。したがって11章2a節の「あらかじめ知る」という言葉が、単に「先だって知る」という意味に過ぎないならば、神がユダヤ人をあらかじめ知っておられると言うとき、ユダヤ人について何の特殊性も独自性もないことになってしまいます。しかし、「神はあらかじめ知っておられるその民」という言い方においては、「あらかじめ知っている」という言葉は、イスラエル人を「神の特別な配慮と慈しみを永遠より受けている」という意味にとることが適切であります。神がご自身の民としてあらかじめ慈しみと愛顧をかけておられる人々は、決して捨てられることはあり得ず、永遠に神との交わりの中に生きるのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第50課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
E ユダヤ人の拒否は全体ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (2)
「神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった」(2)。この言葉を解釈するに当たって、その強調点がどこにあるかが問題になります。もし強調点を「その民」に置くならば、そこにも一つの解釈ができ、また「あらかじめ知っておられた」に強調点を置くならば、もう一つの解釈が可能になります。第一の場合には、「その民」とはイスラエルを指すことになり、その意味は、神はイスラエルの民をお捨てになってはおられない。神は予めおられたその民を捨てることはされなかったということになります。
しかし、第二の場合には、その民はイスラエルではなくて、選びの民、すなわちイスラエルの中の選ばれた者たちの意味となり、永遠より愛と慈しみをもってあらかじめ知っておられたイスラエルの中の真のイスラエル、霊的イスラエルを指すことになります。第二の意味が第一の意味に比べて、より優れていると考えられます。
第一の場合には、2節は1節の繰り返しに過ぎなくなってしまいます。しかし、第二の場合には2節はそれ自身の意味を持ってくることになります。更に、9:6~8節においてパウロはすでに、外的イスラエル(肉のイスラエル)と霊的イスラエルという核となる者との区別を明らかにしています。この考えはこの書簡において、今新しく登場して来たものではありません。
また、第二の解釈は11章の後にある部分と最も良く適合するのです。すなわち、11章においてパウロは恵みの選びによって残された者があることを語っています(5)。これらの理由から、第二の解釈の方がはるかに優れているのです。この解釈によりますと11章2a節の意味は「神はその選びの民をお捨てにならなかった。神は特にあらかじめ知っておられたイスラエルの民の中のある者たちを捨てることはされなかったのだ」となります。
これはローマ書全体の文脈に適合するばかりでなく、聖書全体の教理、すなわち、外的な目に見える社会とそのメンバーたちは罪の中に捨てられ滅びるかもしれない。しかし、神の選びの民たちは、決して捨てられないし、滅びることはありえないという教理にも適合するのです。
「あらかじめ知る」という語は、聖書では一つ以上の意味に用いられています。11章2a節に用いられているように、単に「先に知る」という意味以上のことを意味するのです。「あらかじめ知る」、あるいは「永遠より知る」という意味において、神のあらかじめの知識、すなわち、神の予知は全ての被造物と出来事を一切包含しているのです。この意味において、神はユダヤ人と同じく異邦人をもあらかじめ知っておられたのです。したがって11章2a節の「あらかじめ知る」という言葉が、単に「先だって知る」という意味に過ぎないならば、神がユダヤ人をあらかじめ知っておられると言うとき、ユダヤ人について何の特殊性も独自性もないことになってしまいます。しかし、「神はあらかじめ知っておられるその民」という言い方においては、「あらかじめ知っている」という言葉は、イスラエル人を「神の特別な配慮と慈しみを永遠より受けている」という意味にとることが適切であります。神がご自身の民としてあらかじめ慈しみと愛顧をかけておられる人々は、決して捨てられることはあり得ず、永遠に神との交わりの中に生きるのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (82)
第50課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全体ではなく、残される者はやがてすくわれる。
11章1~10節 (1)
パウロは旧約が異邦人の召命とユダヤ人の拒否ということを両方とも述べていることを明白に証明してきました。11章の始めの10節において、パウロはさらに、神はユダヤ人を民族として拒否されたけれども、この拒否は全体的なものではなく、民族の中の残された者はやがて救いに与ることを教えています。
「そこで、わたしは問う、『神はその民を捨てたのであろうか』。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である」(1)。ここで問われている、「神はその民を捨てたのであろうか」という問いを、9章、10章の言葉から、神はその民を捨ててしまわれた、すなわち、神は御自身が宣言された目的と約束に忠実ではないと推論することにより提起されたのである、とする人々が多いのです。
パウロが言おうとしていることは、要するに、「9、10章において、わたしが述べたことは、神がその民を捨ててしまわれ、神御自身の言葉と約束を反古にしてしまわれたという意味になるのか」ということです。この問いに対して彼はいつも用いる強い否定の仕方、「神はこれを禁じられる」(日本語訳は「断じてそうではない」)と強く否定しています。
次いでパウロは、神はその民を捨てられたのではないことを示す実例を挙げています。パウロ自身がイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族出身のものであるが、自分は決して捨てられてはいないのだと言うのです。彼はイスラエル人であるけれども、神の恵みによって救われて、今では真の神の民の一人、すなわち、キリスト教会の一員として立てられているのである。そして、もしイスラエル人パウロが捨てられていないとすれば、きっと他にも彼のような人々、キリスト信者となったユダヤ人たちが多くあるはずであります。彼らは捨てられず、驚くべきことに救われているのです。従って、イスラエルの拒否は、全員が捨てられることでは決してないのです。少なくとも、いくらかのイスラエル人は救いを受け、真の神の子とされ、神の国の真の民となるのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第50課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
E ユダヤ人の拒否は全体ではなく、残される者はやがてすくわれる。
11章1~10節 (1)
パウロは旧約が異邦人の召命とユダヤ人の拒否ということを両方とも述べていることを明白に証明してきました。11章の始めの10節において、パウロはさらに、神はユダヤ人を民族として拒否されたけれども、この拒否は全体的なものではなく、民族の中の残された者はやがて救いに与ることを教えています。
「そこで、わたしは問う、『神はその民を捨てたのであろうか』。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である」(1)。ここで問われている、「神はその民を捨てたのであろうか」という問いを、9章、10章の言葉から、神はその民を捨ててしまわれた、すなわち、神は御自身が宣言された目的と約束に忠実ではないと推論することにより提起されたのである、とする人々が多いのです。
パウロが言おうとしていることは、要するに、「9、10章において、わたしが述べたことは、神がその民を捨ててしまわれ、神御自身の言葉と約束を反古にしてしまわれたという意味になるのか」ということです。この問いに対して彼はいつも用いる強い否定の仕方、「神はこれを禁じられる」(日本語訳は「断じてそうではない」)と強く否定しています。
次いでパウロは、神はその民を捨てられたのではないことを示す実例を挙げています。パウロ自身がイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族出身のものであるが、自分は決して捨てられてはいないのだと言うのです。彼はイスラエル人であるけれども、神の恵みによって救われて、今では真の神の民の一人、すなわち、キリスト教会の一員として立てられているのである。そして、もしイスラエル人パウロが捨てられていないとすれば、きっと他にも彼のような人々、キリスト信者となったユダヤ人たちが多くあるはずであります。彼らは捨てられず、驚くべきことに救われているのです。従って、イスラエルの拒否は、全員が捨てられることでは決してないのです。少なくとも、いくらかのイスラエル人は救いを受け、真の神の子とされ、神の国の真の民となるのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (81)
第49課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
10章11~21節 (2)
「イザヤも大胆に言っている、『わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、わたしを現した』。そして、イスラエルについては、『わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた』と言っている」(10:20~21)。先のモーセの言葉もその意味は明白でしたが、このイザヤの言葉も同じく意味は明白であり、極めて大胆な言葉です。イザヤ書65:1~2からの引用ですが、その言葉の順番は欽定訳のイザヤ65:1~2とは少し違っています。その理由はパウロが引用にあたって、ヘブル語の旧約ではなく。70人訳を用いているからです。パウロはしばしば70人訳によって引用しています。パウロはギリシャ語でこの書簡を書き、ギリシャ語を話す人々に送っているのですから、これは当然のことでしょう。ヘブル語の原文の意味はパウロの引用文によって十分に伝えられています。相違はただ形のみです。
「わたしはわたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に自分を現した」。これは明らかに異邦人のことを述べています。彼らは神の契約の民ではなく、神を知らず、特に真の神について関心を持ってはいなかった。各民族は自らの宗教、哲学、神話、伝説、習慣、法律、倫理などを持っていました。彼らはみな自ら道をそれて行き、愚かな暗黒の中に入って行きました。彼らは真の神を求めようとしなかったのです。
しかし、彼らはイエス・キリストの福音を通して神を見い出したのです。勿論、このことはイスラエルがもはや特別な神の民ではなくなる時が来るということ、すなわち、ユダヤ人も異邦人も同じ条件、または立場で神の国に中に入れられる日がくることを意味しています。
「そして、イスラエルについては、『わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた』と言っている」(21)。聖書においては「手をさし伸べる」ということは、「招く」ことを意味します。ここでは、神が服従せず反抗する神の民に対して、なおも招きの手を伸べておられる、その愛が示されています。イスラエルの歴史を通じて、このようなことは何度繰り返されたことでしょう。しかるに、父なる神は、そのみ心において、彼らが立ちかえることを望んでおられるのです(一匹の羊、放蕩息子)。「終日」は「不断に」を意味しています。イスラエルの拒否は、神が彼らを愛し救おうとされることにおいて、不熱心であることに起因するのではありません。それは彼ら自身の愚かさ、傲慢、不信仰、廃教への転落に起因するものです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円