2023年7月号
№193
号
通巻877号
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「ローマ人への手紙」研究 (80)
第49課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
10章11~21節 (1)
「なお、わたしは言う。イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている。『わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起こさせ、無知な国民にたいして、怒りをいだかせるであろう』」(10:19)。
ここでもパウロに論述の極端な短縮が解釈を難しくしています。「イスラエルは知らなかったのであろうか」とありますが、イスラエルが知らなかったのは一体なんでしょうか。一つの解釈は「知らなかったのは福音であった」という解釈です。もう一つの解釈は「それは彼らイスラエルが拒まれるということと、神が異邦人を召してお救いになるという真理」を指しているとするものです。
これらの二つの解釈のうちで、次の二つの理由から、後者が正しいと考えられます。
1、パウロは現在、イスラエルに拒否され、異邦人が召されるということを論じている。2、19~21節にある旧約からの引用は、後者の解釈に最もよく適合している。
従って、私たちはここの箇所を次のように解するのがよいと考えます。「イスラエルは、神が彼らを退け異邦人をお救いなるという、すでに宣言されている神のみ旨を知らなかったのであろうか」。次に、パウロはモーセの言葉を申命記32章21節から引用します。「まず」と言っているのは、すぐ後でイザヤ書からも引用するからです。
申命記の言葉は、イスラエルが神より受けた大いなる慈しみと、彼らが神に対して感謝をしていない愚かさを語っています。申命記32章21節でモーセはイスラエルの子らに対して、彼らが神ではないものを拝むことによって、神の非常な怒りを呼び起こしているから、神は神の民ではない者を用いて、彼らイスラエルにねたみを起こさせると警告しているのです。
この意味は、神は結局イスラエルを退け、彼らの代わりに、かつては神の民ではなかった異邦人をお選びになったと言うことです。モーセの言葉は、その意味するところは明白であって、もしパウロの時代のユダヤ人たちが、この言葉の真理に盲目であったとすれば、彼らはモーセからそれを学ぶべきであったのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
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第48課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
10章11~21節 (2)
「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(10:17)。この節での「聞くこと」という言葉は、16節の「聞いたこと」という表現に関連して言われています。「聞いたこと」というギリシャ語は元来「聞くという動作」を表し、それから由来して「聞くことの内容」を意味するに至っています。イザヤの問い掛けの言葉「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」は、信じることは聞くことによるのです。すなわち、信じること、信仰は聞いたことによるのであるという意味です。
人が福音を信じるようになる前には、先ずそれを聞かなければなりません。すなわち、それに接しなくてはならないのです。信仰は聞いたメッセージを真理として受け入れること、そのメッセージがそれについて語っているその方を信頼することから成り立つのです。その故に「信仰は聞くことによるのである」と言えるのです。
パウロはさらに付け加えて「聞くことはキリストの言葉から来るのである」と言っています。「キリストの言葉」、あるいは「神の言葉」という表現は、単に聖書、あるいは神の言葉だけを意味するのではありません。それは宣教の業をなす神の言葉、または命令を指すのです。宣教の業はキリスト信者たちの自発的な努力ではなくて、神によって命じられた使命なのです。神の権威ある御言葉の伝達であり、神の命令より出るものなのです。
パウロは今までに述べてきた2つの真理をここで確認します。すなわち、
1 知識は信仰に必要であること。
2 そしてその知識を異邦人にまで伝達することが神のみ旨であること。
「しかしわたしは言う。彼らには聞こえなかったのであろうか。否、むしろ『その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ』」(18)。
この所でのパウロの論理はかなり短縮されており、いくらか唐突で、かなり理解が困難になっています。しかし、とにかくパウロがここで言おうとしていることはなんでしょうか。ある学者はパウロはここでユダヤ人のことを念頭において語っているのだと言います。しかしここの解釈は、パウロが今ここで論じているのは主題と一致していません。
なぜなら、彼がここで述べているのは、ユダヤ人の拒否ではなくて、異邦人の召命についてであるからです。18節も異邦人について宣べているからです。なぜならば、イスラエルのことを語ろうとしていることは明白です。19節において、彼は名前を挙げているからです。
18節が異邦人について語っているのであるとすれば、パウロはここで何を言おうとしているのでしょうか。パウロの言葉は詩篇19編4節から引用されています。しかし、詩篇19編の主題は自然における神の啓示ですが、ここではキリストの福音を語っているのです。パウロは異なる事柄を表わすために、詩篇より言葉を借りてきているに過ぎないのでしょうか。勿論、自然における神の一般啓示は、ある意味で福音の普遍的宣教の準備的な予微であることは確かです。これら両者ともに普遍的になされることが、神のみ旨でありました。
しかしパウロの意味するところは、福音は既に契約の民イスラエルというチャンネルを破って外に出て、世界の全ての人々に宣べ伝えられる普遍的なメッセージとなってしまっていたということです。勿論、このことはパウロの時代に福音が既に全ての国々の民たちにまで届いていたということを、決して意味してはいません。なぜなら、そのようなことがなかったことは明らかであるからです。しかし、福音が当時の世界にあまねく、広く伝えられていたことは確かです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第48課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
10章11~21節 (1)
「しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている」(10:16)。福音を聞く多くの人が、それを受け入れるとは限らないからと言って、福音を全人類に宣教する義務は少しも変ることはありません。神は福音を全人類に宣教することを命じておられるが、しかし、神は全ての人々を永遠の生命に選んでおられるのではなく、従って、福音を聞く全ての人が、それを受け入れて、救われることを期待すべきではありません。
多くの人が福音を拒むのは、唯、現代においてだけ経験されるのとではなく、聖書の中にも語られていることです。パウロはイザヤの言葉を引用して、このことが語られていることを示そうとするのです(イザヤ53:1)。イザヤの言葉は一般的な福音拒否に関するものです。イエス・キリストは自分の所に来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった(ヨハネ1:11)。イエスは入念に弟子たちに、彼らの宣教が拒絶されることに直面する場合、どのように行動すべきかを教えておられます(マタイ10:14、マルコ6:11、ルカ9:5)。後になってパウロとバルナバはピシデヤのアンテオケにおいて、この教訓を実行しています(使徒13:50~51)。
現代において、宣教の業に反対する議論として、宣教の業はあまり成功しないから反対だという人々がいます。このような反対論を唱える人たちは、一般企業の場合と同じような世俗的な基準を適用して、宣教の業は成功しないと言うのです。このような反対論の背後に無意識的に潜んでいる仮定は、宣教の業は、福音に接する人々の全部、あるいは大分分を、即座にキリスト教に改宗させるべきものであるということです。しかし、このような仮定は何らの保証もありません。
福音を全人類に宣教せよという命令は、その効率に基づいてなされているものではなく、神の御意思と御命令に来ているものです。それが忠実に遂行されるならば、宣教の業は成功します。しかし、その成功というのは、神が予め意図しておられる成果、すなわち、神が予め救いに定めておられた人たちの救いという成果もたらすという意味においてです。
大多数の人々は福音に関心を示さないばかりか、むしろ故意に拒絶さえするということは、すでに聖書が語っていることに他ならないのです。従って、そのことは教会に課せられている宣教の使命に対する有効な反対論とはなり得ないことなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第47課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
10章11~21節 (3)
現代のキリスト信者の多くが、一般的に言って、宣教ということに無関心であるといえます。彼らがそのために献げるものは、自分自身が自分のため、或いは、自分の教会のために費やすものに比べるならば、少ないと言えるのです。米国などにおいても、外国伝道ということは、何か赤十字などの働きに類するもので、慈善の業とか博愛事業の別名ぐらいに考える向きが多い。だから時折に寄付をすればよいと考えています。
そのような考えは宣教活動についての妥当な考え方ではありません。これは神が私たちにお与えになった厳かな命令なのです。神が権威をもって教会の上に課せられた使命であり、キリスト信者一人一人が、それに対して関心を持ち、支えるべき性質のことなのです。私たちは「ギリシャ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも果たすべき責任がある」(1:14)のです。すなわち、全ての世界に対して、果たすべき責任があると言わなければなりません。
今日において宣教の業と呼ばれるものの多くが、パウロの意味における福音の宣教ではない。自由主義神学の諸教派において、宣教の業と呼ばれるものが行われていますが、それは十字架に付けられたキリストを罪人に宣べ伝えることよりも、むしろ一種のヒューマニズム的な社会奉仕的なものとなってしまっているのです。神が教会の上に課せられた事柄は、内外の罪人たちにキリストの救いの福音の真理を宣教するという義務を遂行することであり、それを支えることです。従って言うまでもなく、救われたキリスト信者でなければ宣教者となることはできないのです。
A・シュバイッアー博士の事業は真に偉大です。彼は多くの人々から偉大な宣教師と言われ、またある人たちからは世界の中で最も偉大なキリスト信者であるとさえ言われています。彼が偉大であることは言うまでもないことです。彼は実に多方面に才能を持つ天才です。また、神学、医学、音楽の三分野における業績を持っています。しかし、聖書及び正統的な信仰から言うならばシュバイッアー博士は全くキリスト信者ではないと言ってもよいのです。彼についての伝記は数多くありますけれども、それらはいずれも彼の神学的な見解に注意を払っていません。彼の多くの著書から彼の神学理解は世によく知られています。
例えば、「歴史的イエスの探求」という有名な著書は、明確に彼のイエス観を示しています。彼の理解によれば、イエスはその弟子たちがまだ地上に生きている間に地上に帰って来ることを期待していた。しかし、イエスはこの点で誤っており、錯覚の犠牲者です。言うまでもなく、このようなイエスは世界の救い主でもないし、また、聖書の中に提示されているイエスでもなく、さらには、パウロが宣ベ伝えたイエスでもないのです。
多くのキリスト信者がシュバイッアー博士を最高の賛辞をもって賞賛するのを聞きます。しかし、それらの人たちは自由主義神学的な出版物の中の論説などによって誤って教えられているのです。シュバイッアー博士の事業は確かに偉大であるにしても、それは本質において、アフリカ人への聖書の福音の伝達よりも、むしろ、人間主義的奉仕なのです。
10章15節は、イザヤ書52:7からの引用です。この聖句は私たちに福音という言葉の真意を教えています。それは「よきおとずれ」なのです。「よきおとずれ」「よい知らせ」とは何でしょうか。聖書によれば、それはイエス・キリストを内容とするよい知らせ、すなわち、罪人の救い主として十字架につけられ給うたキリストと言う知らせなのです。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」は、宣教者が遣わされるというということは何と素晴らしく、また、喜ぶべきことであろうかと言う意味です。
暗きと死の谷の蔭にある罪人に福音の光を携えて行くということは、何と素晴らしく有益な仕事でしょうか。私たちはどんなにか喜んで熱心にそれを支えなくてはならないかというです。教会の伝道活動を支えることに消極的であったり、惜しんだりしているということは、どんなにか罪深いことでしょうか。宣教活動を進めることを怠ったり拒否したりする教会は、自己中心主義のために沈滞し萎縮してしまうのです。この宣教活動においても、私たちは「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒20:35)ことを覚えるべきです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第47課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
10章11~21節 (3)
パウロはユダヤ人であることを問わず、すべての人間の必要に対して、福音による救いに適応するものであることを明らかにし、また、旧約が異邦人の救いと召命を預言していることも明らかにしました。これらの真理は、福音とはすべての人間に宣べ伝えられねばならないことを教えているというべきです。従って、パウロは次に進んで、宣教という方法によって、福音が伝えられなければないことを論じています。
「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣ベ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』」と書いてあるとおりである」(10:14~15)。これは福音を全人類に宣べ伝える宣教の必要性と義務とを論証する論述です。
神がある目的を持たれるとき、神はまたそこへ至る方法をも意図しておられるということは聖書の真理です。神がノアとその家族を洪水による破滅から救おうと意図されたとき、神は箱舟を建造して、彼らがその中に入ることをも同時に意図されたのです。ヨナが海中で死ぬことから守られることを神が意図されたとき、同時に巨大な魚によって彼が呑みこまれることも意図されたのです。神がコルネリオを救おうと意図されたとき、神はペテロを遣わして福音を彼に伝えさせました。
この真理は私たちが神のご計画や命令について語ることにあたっても言えることです。奇跡やその他の特別な場合を除いて、神は目的を達成されるのに適切な方法手段をお用いになるのです。
このことは異邦人の救いの場合には、特に真理です。私たちはイザヤやヨエルの預言を通して知ったように、彼らの召命と救いは、古くから神によって定められて、計画されていたことであるからには、彼らの召命と救いの方法手段が存在するということも、神の御意図にちがいないのです。パウロが指摘するように、主のみ名を呼び求めることは、主イエス・キリストを信じる信仰を意味するように、主を信じる信仰をもつことは、主についての知識をもっていることを意味します。これらのことから当然出てくる推論は、すべての人類に宣教師を送ることが、教会が神より与えられた仕事であり義務であるということです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (75)
第46課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
10章11~21節 (2)
「ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼びもとめるすべての人を豊に恵んで下さるからである」(10:12)。この言葉は11節の「すべて彼を信じる者」を説明しています。すなわち、救いについてユダヤ人と異邦人との差別はないのです。確かに、ユダヤ人と異邦人との間には多くの相違があります。しかし、彼らが共に救いを必要としている罪人であるということと、彼らが救われる方法については、全く差別はありません。
彼らは共に同じ立場にあるのであって、等しく罪人であって、救いを必要としており、彼らは全く同じ方法で救いに与るのです。すなわち、万物の上に主であるキリストが価なしに与えてくださる恵みによって救われるのです。
12節の「主」(Lord)が神を指すのか、キリストを指すのかを決定することは極めて難しく、ほとんど不可能と言えます。どちらを指しているにしても両方に理由があります。しかし、これはたいして重要な問題ではありません。「教理的には、どちらの説を採っても大した差はない。神を信じる信仰は、すなわち、キリストを信じる信仰である。なぜなら、キリストは神であるからだ。このことは認められなければならない大切な真理である。福音の下における救いの条件は、キリストを神として受入れることである」(C・ホッジ)。
「主の御名を呼び求める」(call upon)という表現は聖書の中にしばしば見られます(創世4:26,12:8、イザヤ64:7、使徒2:21、9:14、22:16、Ⅰコリント1:2、Ⅱテモテ2:22)。「主を呼びもとめる」とは「彼に対する真の信仰」を意味します。「全てを信じる者」と「主の御名を呼びもとめる者」とは、要するに同じことの違った表現に過ぎません。
「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(10:13、ヨエル2:32より引用)。この引用は11節におけるイザヤ書からの引用と、意味においては殆んど同じであります。ヨエルの預言はメシヤの来臨とメシヤがもたらす祝福の時期を示しています。この時期においては、主を呼びもとめる者はすべて-ユダヤ人と異邦人の区別なく-救われるのです。この同じヨエル書の言葉がペンテコステの日にペテロによって引用されていることに注意したいものです(使徒2:21)。
パウロはここで、キリストを信じる者はすべて救われるということは、パウロ自身が教える教理であるばかりでなく、ヨエルやイザヤの言葉が示しているように、旧約の教理でもあることを示しているのであります。
この真理は、旧約に極めて明瞭に教えられているのに、パウロの時代のユダヤ人たちはそのことに無知でありました。使徒ペテロでさえそれを理解するのに困難を感じたのです(使徒10章、ガラテヤ2:11~16)。イスラエルは特別な立場を持っているという考えはユダヤ人の心の中に深く刻み付けられていたので、彼らは神と民と言うこの特殊な地位というものが、それ自体が目的ではなく、実は目的への手段であることを理解できなかったのです。すなわち、アブラハムの末によって地上のすべての民が祝福を受けるという目的への手段であることを理解できなかったのです。そして、彼らはまた、イスラエルの特殊な地位を永遠的なものではなく、メシヤが来る時までの一時的なものであったことが理解できなかった。だから、彼らの特殊な地位を永遠的であり、それ自体が目的であると考えていたから、彼らは異邦人の救いについての旧約の預言に無知であり、それらの預言を真剣に考慮して考えることが出来なかったのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (74)
第46課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
D 福音はすべての人の必要に適応したものであり、万人に伝えられるべきものである。
10章11~21節 (1)
「聖書は、『すべて彼を信じるものは、失望に終わることはない』と言われている」(10~11)(イザヤ28:16より引用)。パウロはイザヤの書より引用することによって、今まで述べてきたことを確認しています。すなわち、二つの真理です。第一に福音による救いという方法は、全ての人に適する方法であること。すなわち、「すべて彼を信じる者」に適した方法なのです。したがって、イスラエル民族のみならず、ユダヤ人と異邦人の両方に同じく適応するのです。すなわち、それは普遍的なのです。それは民族の別、その他のどんな区別とも無関係に、全ての罪人の必要に応じているものなのです。
第二に、イザヤ書より引用の句は、信仰とは救いを確保する手段であることを教えています。しかし、特にキリストを信じる信仰を持つ者、すなわち、神によってシオンにすえられた隅の首石、確かな基礎を信じる者は失望に終わることはないのです。現代では、信仰というものを漠然とした曖昧なものと考える人が多いのです。救いをもたらす信仰とは、心理的態度としての信仰とか宗教一般とか、宗教を信じる信仰などといったものではありません。
私たちを救う信仰とは、明確にイエス・キリストを信じる信仰です。聖書は信仰を単なる心理的態度とか、一つの力であるなどとは決して見做してはいません。今日、多くの人たちが信仰を力、或いは信念などと見て、信仰をダイナマイトよりも強力であるなどと言います。実際は、信仰そのものは何の力でもありません。信仰は力ではなくて導管にすぎません。そうではなく、キリストが力を持っておられるのです。そして信仰は私たちとキリストとの間を結ぶ管なのです。信仰をそれ自体が心理的姿勢と見る近代の信仰観なるものはキリスト教を破壊するものです。
信仰が、私たちの救い主ではなく、キリストこそ救い主なのです。
救いをもたらす信仰は、その対象としてのキリストの上にその基を置いています。「彼を信じる」という言葉は、信仰とは、人格的な信頼を含んでいることを示しています。このことは救われるためには、福音の中に提供されているままにキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼むことを意味しています。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
「ローマ人への手紙」研究 (73)
第45課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節(続き)
キリストに対する信仰が本物であるためには、キリストについての真の教理を受け入れることだけでなく、それが「心におけるもの」でなくてはならないのです。感情とか知性におけるものであるだけでなく、「心における信仰」でなければなりません。「心」という言葉は、ここでは、感情・情緒のみでなく、内なる人間全体を指すものです。キリストに対する真の信仰は、いろいろな教理を知的に承認するだけでのことでは決してありません。それ以上のものです。そのような知識だけなら、悪魔でさえも所有しているものです(ヤコブ2:19)。
救いに至る信仰には二つの要素があります。この二つの要素が共になければ、真の信仰であるとは決して言えないのです。第一の要素は、知識、すなわち、真理を知ることであって、これは絶対に必要なものであります。しかし、それだけでは不十分です。第二の要素は信頼、すなわち、救いと永遠の生命とを求めて、自らキリストを信頼し、自らをキリストに委ねることです。信頼は知識がなければ存在し得ないのです。私たちはキリストが信頼するにたる方であると知ることがなければ、キリストを信頼することは出来ません。この心において真にキリストを信じる者は、キリストについての真の知識を持っているのみでなく、救い主としてキリストを本当に信頼している人なのです。
信仰についてのこのような理解は、現代の安っぽく薄弱な信仰主義と比べて、なんと違っていることでしょう。多くの人々は伝道集会において手を挙げ、キリストを救い主として受け入れると書いてある決心カードに署名するのです。しかし、その人々は真の心からのキリストに対する信仰の証拠を全く示さず、世の前にキリストを主と告白することをしないのです。幾千人もの人々が、伝道集会において、キリストを受け入れたから、自分たちの永遠の救いは確かであると考えています。しかし、彼らはキリストを彼らの人生・生活における主として受入れ、承認することを、少しもしていないし、また、そうしようと願ってもいないのです。
彼らはまた、彼らの罪の業や欲望の行動から離れることも、自分に十字架を負うことをも、少しも望んでいないのです。彼らは決心カードでキリストを受け入れたから救われていると主張します。ただ、それだけのことです。
使徒パウロが私たちの前にローマ書10章で述べていることとは、全く違うのです。しかし、それは最も単純なことなのです。それは少しも巨大なことも含んでいませんし、何も不可能な業をも必要としません。それは、宇宙と私たち人生全般におけるキリストの全面的主権性を告白し、私たちが全てを挙げて、親しくキリストに信頼すること、すなわち心からの信頼を求めているに過ぎないのです。これを欠く者は純粋のキリスト者ではないのです。
10節はもう一度、心からの信頼と公の告白の重要性を強調しています。公的告白は信仰の正しい証拠です。恐れや困惑や恥じ、その他の如何なる理由にせよ、キリストを公に告白することを躊躇する者は、密かに信者であるにしても、キリスト信者とは言えないのです。もしその信仰が本物であるならば、彼は必ずその弱気と恐怖を克服して、聖書が命じるように、人の前でキリストを告白するはずなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第45課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節(続き)
キリストに対する信仰が本物であるためには、キリストについての真の教理を受け入れることだけでなく、それが「心におけるもの」でなくてはならないのです。感情とか知性におけるものであるだけでなく、「心における信仰」でなければなりません。「心」という言葉は、ここでは、感情・情緒のみでなく、内なる人間全体を指すものです。キリストに対する真の信仰は、いろいろな教理を知的に承認するだけでのことでは決してありません。それ以上のものです。そのような知識だけなら、悪魔でさえも所有しているものです(ヤコブ2:19)。
救いに至る信仰には二つの要素があります。この二つの要素が共になければ、真の信仰であるとは決して言えないのです。第一の要素は、知識、すなわち、真理を知ることであって、これは絶対に必要なものであります。しかし、それだけでは不十分です。第二の要素は信頼、すなわち、救いと永遠の生命とを求めて、自らキリストを信頼し、自らをキリストに委ねることです。信頼は知識がなければ存在し得ないのです。私たちはキリストが信頼するにたる方であると知ることがなければ、キリストを信頼することは出来ません。この心において真にキリストを信じる者は、キリストについての真の知識を持っているのみでなく、救い主としてキリストを本当に信頼している人なのです。
信仰についてのこのような理解は、現代の安っぽく薄弱な信仰主義と比べて、なんと違っていることでしょう。多くの人々は伝道集会において手を挙げ、キリストを救い主として受け入れると書いてある決心カードに署名するのです。しかし、その人々は真の心からのキリストに対する信仰の証拠を全く示さず、世の前にキリストを主と告白することをしないのです。幾千人もの人々が、伝道集会において、キリストを受け入れたから、自分たちの永遠の救いは確かであると考えています。しかし、彼らはキリストを彼らの人生・生活における主として受入れ、承認することを、少しもしていないし、また、そうしようと願ってもいないのです。
彼らはまた、彼らの罪の業や欲望の行動から離れることも、自分に十字架を負うことをも、少しも望んでいないのです。彼らは決心カードでキリストを受け入れたから救われていると主張します。ただ、それだけのことです。
使徒パウロが私たちの前にローマ書10章で述べていることとは、全く違うのです。しかし、それは最も単純なことなのです。それは少しも巨大なことも含んでいませんし、何も不可能な業をも必要としません。それは、宇宙と私たち人生全般におけるキリストの全面的主権性を告白し、私たちが全てを挙げて、親しくキリストに信頼すること、すなわち心からの信頼を求めているに過ぎないのです。これを欠く者は純粋のキリスト者ではないのです。
10節はもう一度、心からの信頼と公の告白の重要性を強調しています。公的告白は信仰の正しい証拠です。恐れや困惑や恥じ、その他の如何なる理由にせよ、キリストを公に告白することを躊躇する者は、密かに信者であるにしても、キリスト信者とは言えないのです。もしその信仰が本物であるならば、彼は必ずその弱気と恐怖を克服して、聖書が命じるように、人の前でキリストを告白するはずなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第45課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節(続き)
告白の他に、信仰が要求されています。すなわち、「自分の心で、神が死人の中よりイエスをよみがえらせたと信じる」ことが求められています。私たちは単にキリストを一人の人格として信じ、また、私たちの罪のために苦しみを受けられたと信じるのみでなく、特に、神が彼を死人の中からよみがえらせたという信仰を持たなければならないのです。キリストが肉体をもってよみがえられたことを信じる信仰は、実は他のすべてを含んでいる信仰にほかなりません。
それは、キリストは御自身がそうであると主張されたすべてであったし、また今もそうであること、また、聖書の中に提示されている正にその通りであることを信じる内容の信仰なのです。死人の中からよみがえらせることによって、父なる神は、キリストのなさったすべての贖いの業を確認し、承認されたのです。キリストのよみがえりを信じない者は、実は彼が救い主であることを信じない者に他ならないのです。
現代における宗教指導者たちの中に、人格に対する信仰と教理に対する信仰とを、相互に対立するものとして強調する人がいます。彼らは、人格に対する信仰(すなわち、キリストの贖い、よみがえりを信じること)よりもはるかに優れたことであり、より重要なことであると主張します。
このような歪んだ主張は表面上敬虔そうな響きを持っています。そして多くの人々が、まことしやかなこの表現に惑わされています。このように区別することは、要するに、贖いやキリストのよみがえりを否定することの巧妙な偽装に他なりません。「人格としてもキリストに対する信頼は、キリストについての教理を信頼することよりもはるかに重要である」という人たちは、実は、「教理は真理ではないので、受け入れることは出来ない。しかし、私たちはキリスト者であると呼ばれたい」と言っているのと同じです。このような形の否定は、現代の不信仰の詭弁的な陰険さに他なりません。
実際において、キリストについての教理を信じることなしに、人格としてのキリストを信じることは全く不可能なことです。イエス・キリストと私たちとは20世紀以上も離れています。私たちはキリストの時代に生きた人たちと同じような仕方で、キリストと直接の接触を持つことは出来ません。ガリラヤやユダヤの路上で、キリストと顔を会わせて接することなど望むべくもないことです。そのようなことは不可能です。
それでは、どのようにして、私たちはキリストに接することが出来るのでしょうか。ただ聖書の中で、私たちに提供されているキリストに関する真理によってのみ、それは可能となるのです。キリストについての真理こそ、私たちがキリストに接触することができる唯一の方法なのです。
「神はキリストを死人の中からよみがえらせた」という言葉を含めて、幾つかの決定的な叙述(真理、あるいは教理)を信じることなしには、キリストを信じることは出来ないのです。キリスト教は曖昧模糊とした神秘主義のようなものではなく、キリストについての聖書の教理を信頼することによって、歴史のキリストに接することになるのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第45課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節(続き)
「では、なんと言っているか。『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である」(10:8)。
福音による救いという方法は、何か人間が近づき得ない、遠く離れたものではなく、また、救われるためには、私たちには、私たちに不可能な離れ業をすることを要求するようなものでもありません。それどころか、福音による救いが私たちに要求するものは、私たちの近くあるもの、私たちが容易に捉えることが出来るものに他なりません。すなわち、「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。真に救いを求める人は、不可能な要求によって、狼狽させられたり、困却させられたり、失望させられたりすることはありません。義のために飢え渇く者は、大きなことをせよと求められて、罠にかけられることはないのです。シリヤ人のナアマンは、要求されていることは、大いなることではなく、神のみ言葉に対する単純で謙虚な信頼に過ぎないことを学んだのです(列王記下・5章)。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(10:9)。ここに福音による救いが私たちに要求するもの・・・、すなわち、告白と信仰が示されています。口で主イエスを告白する(正確には、イエスは主であると告白する)。心の中で神がイエスを死人の中からよみがえらせたと信じることが求められているのです。
人間の経験からすれば、信仰が告白より先に来ます。しかし、ここでは告白が先に置かれています。それは、告白は信仰の外的証拠であるからです。「告白されるべきことは、イエス・キリストが主であることの限界ぎりぎりまで、彼の権威を認めなくてはならないのです。イエスは全ての権威・権勢の上に上げられ、天使も彼に服し、天と地の全ての権威が彼に与えられていること、また、勿論、イエスが私たちの主であることを認めなければなりません。ゆえに、この告白はキリストの主権性の承認と、私たちの上に臨むキリストの権威を真剣に認めることを含んでします。キリストを主と認めることは、キリストをメシヤと認めることです。すなわち、キリストを神であると認め、メシヤとしての座の全ての権威と大権とが与えられていることを認めることです。
この承認は、従って、キリストをその全ての職務(預言者・祭司・王)において、認めることに他なりません」(ホッジ)(比較章、Ⅰコリント12:13、ピリピ2:11、ローマ14:9、使徒11:20、マタイ10:32、ルカ2:8、Ⅰヨハネ4:15)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第44課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節(続き)
パウロは更に論を進めて、福音による救いという方法は、そのような不可能性を全然持っていないことを明らかにします。この方法は人間が到底満たすことができないような条件の上に、義と救いを基づかせることはしていないのです。私たちは義を得るために天に上ろうともしないし、地の底にまで下ることもしません。これらは共に人間の能力を越えたことなのです。
パウロは申命記30章11~14節のモーセの言葉を引用します。この言葉の中で、ある物を天より引き降ろすことや、海を越えた向こうからある物を持ってくるために、海を渡って行くことは、人間の能力を超えた業として示されています。これらの不可能なことと対照的に、神がイスラエル人の前に置かれたことは、神の恵みによって能力を与えられた人々のその能力の中にあることなのです。
「この言葉はあなたに、はなはだ近くにあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、これを行うことができる」(申命記30:14)。ここで言われていることは、勿論、罪人が完全には満たすことができない道徳律法ではなく、モーセによってイスラエルに与えられた全体制、すなわち、犠牲、型、象徴、儀式、祭司制度、預言などを包含するものであって、それらによって贖い主による救いという方法がイスラエルの人々の心の中に、余示されたのです。これこそ恵みによる救いの体制であり、これを受け入れ、この中に生きることによって、イスラエル人はその信仰を告白し、救いに与る者となったのです。
明らかに、「天に上る」ということ、「海を越える」ということ、「底しれぬところに下る」ということは、不可能なことを表わす当時の格言的な表現です。これに類する表現は、聖書の各所において指摘することが出来ます(詩篇139:6、箴言24:7、アモス9:2、詩篇138:9)。パウロは「海を渡る」という表現を「底しれぬ所」と変えたのでしょうか。ギリシャ語の「深い」という語は、英語の「淵」という語の語源です。その固有の意味は「底のない」という意味です。ローマ10:7を除いて、新約ではこの語は常に「滅びた霊魂、堕落した天使のいる場所」を意味しています(ルカ:31、黙示録17:8,20:1)。パウロが「海を渡る」という表現を、「底しれぬ所へ下る」という表現に変えたのは、恐らく、キリストの甦りについては後者の表現がより適切と考えたからでありましょう。
ここでパウロが言っていることの目的は。恵みによる救いという神よりの方法が、如何に簡潔で適切であるかを示すことにあります。従って、パウロは最初に、救いは人間の不可能の業を要求するという考えを退けます。業と命の条件として、神の律法に絶対的な完全さをもって服従するということは、人間に要求されてはいません。それはちょうど、天に上がることや底なき所に下ることと同じく不可能です。
私たちは自分自身の力で自分を救おうと試みるには及びません。私たちは救い主キリストを持っているからです。自分で救い主を備えようと試みて、救い主を天より引き下ろしたり、海の底から引き上げたりする愚をしてはなりません。これらのことは全て、すでに私たちのために神によってなされてしまっているのです。
救いはキリストの福音に中で、私たちに提供されているのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第44課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節(続き)
「モーセは律法による義を行う人は、その義によって生きると書いてある」(10:5)。この言葉はレビ記の18章5節から引用されています。その意味は、律法は完全な服従を要求し、そのような服従をしてはじめて、人間は律法によって義を獲得し得るのであると言う意味です。パウロにしてもモーセにしても、人間は堕落以降も完全な服従をすることにより律法によって義を獲得することが出来るとは決して言っていません。
パウロは(そしてモーセも)行いによる義という原理を述べているに過ぎないのです。人間がこの原理に基づいて義と生命を獲得することが出来た時代がありました(堕落以前のエデン)。しかし、パウロの時代には(モーセの時代も同じく)、そのようなことはもはやなく全く不可能なことなのです。
なぜならば、人間は罪の中に陥り、その心と生活において腐敗してしまっているからです。業による義の獲得はもはや不可能であるけれども、その原理は今も述べることが出来ます。イエス・キリストにおける神の恵みによる義と言う原理と比較するためです。
5節の「生きる」とあるその生活とは、「身体と霊魂をも含めた全人格と、この世と来るべき世におけるこの生涯の全過程を含むものである」(ホッジ)。これが生命の木によって象徴され、堕落以後は人間から取り上げられた生活なのです(創世記3:22~24)。その悲しむべき日以来、人間が永遠の生命と義を獲得することができる唯一の方法は、唯一の仲保者主イエス・キリストによる方法なのです。
「しかし、信仰による義は、こう言っている、『あなたは心のうちでは、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストをひきおろすことである。また、『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることである」(10:6~7)。パウロは5節で、神の律法に完全な服従をすることによって義を得ることは、人間には不可能であることを述べたばかりです。モーセによって語られた律法は、罪人には不可能な服従の実行を要求しています。それゆえに、この方法による義の獲得は不可能なのです。
J.G.ヴォス著 写真:空と花
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
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書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
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おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円