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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 「ローマ人への手紙」研究 (68)7d5577ce.jpg
 第43課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
       10章1~10節
 
  第二の誤りは、キリスト信者は如何なる意味においても律法の下にはないとする考えです。キリストがすべて信じる者に義を得させるために律法の終わりとなられて以来、もはやキリスト信者は神の律法を守る如何なる義務の下にも置かれていないと説くのです。このように説く人々は儀式律法と道徳律法とを一つに含めています。
 十戒でさえもキリスト者を縛ることはできない。なぜならば、キリスト者は律法の下のにはなく、恵みの下にあるからであると説くのです。このような考え方は、今日のキリスト教世界をも毒して、多くの重大な道徳的腐敗の源となっています。
 
 信者は、義を得るための方法としての律法からは解放されており、従って、律法の刑罰と呪いとしての神の道徳律法の下にも、もはや、いないということを意味するものでは決してありません。
 
 道徳律法は神の性格の表現であり、その故に永遠であり、不変です。それは決して取り消されることはあり得ないし、如何なる人も、それに服従する義務から除外されることもないのです。パウロ自身もこの意味における律法から除外されることを否定しています(Ⅰコリント9:21)。キリスト者は義に生きるように救われる(Ⅰペテロ2:24)。
しかし、義に生きるとはどういうことでしょうか。キリスト信者は何が正しいか、何が正しくないかを、日常、どのようにして知るのでしょうか。それは十戒において要約され、全聖書の中に説かれている、神の道徳律法によってです。キリスト者は一日一日を神の律法に調和するように生きようと努めているのです。そして、それは永遠の生命を得るためではなく、すでに彼らはそれを得ているのであって、今は、神に感謝し神を喜ばすためにそうするのです。
道徳律法は、何が正しいか、何が神を喜ばすことなのか、何が不正なことであり、神の聖なる怒りを招くこてかをキリスト者に告げるのです。この意味では、キリスト者はあくまでも律法の下にあるのです。
 
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 
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 「ローマ人への手紙」研究 (67)  s-IMG_0055.jpg
 第43課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
       10章1~10節
 
 10章4節の解釈を考えるに当って、2つの誤りを注意深く避けなければなりません。第一の誤りは、モーセからキリストまでのイスラエル人たちは、律法の行いによって義とされるという体制の下にあったと考えることです。そのような考えはパウロがここで言おうとしていることではなく、C.ホッジがここの注解で述べている意味でもありません。
 現代の或る聖約期分割論者(ディスベンセーショナリスト)は、モーセからキリストまでの人々は行いによって義とされるという体制の下にあり、アブラハムからモーセまでは、救いは「約束」により、モーセからキリストまでは「律法」により、キリスト以後は「恵み」によると説いています。
この教えは旧約について重大な誤解をしているのです。ユダヤ教のパリサイ主義もまた行いによる救いを教えていたのであり、今日のユダヤ教もそうです。しかし、この考えは旧約のどこにも教えられてはいません。ユダヤ教と旧約の宗教とは異なるのです。前者は律法主義的であり、後者は恩恵的なのです。
 
永遠の生命を得るための実際の方法としての業の契約というのは、エデンの園に始まり、そこで終わりを告げているのです。アダムが罪を犯した時、業の契約の下に来ていない罪人はすべて、破られた業の契約の呪いと刑罰の下に今もなお置かれているのです。そのような人たちは彼らの業によって、永遠の生命を得ようと努めるのです。しかし、それは空しい無駄な試みであることは確かですが、今もなおなされつつある試みなのです。
パウロはガラテヤ書5章3節で、そのようにして永遠の生命を得ようと企てる者は、すべて律法は完全な服従と絶対的な道徳的完全性を要求するのです。だから、律法を守ることによって永遠の生命を得ようとする者は、それを成し遂げねばならない立場にいるのであり、それは明らかに不可能なのです。
 
実際に、旧約の宗教は徹底して恩恵主義なのです。それは業の契約ではなく、恩恵の契約の古い形式の執行なのです。犠牲を通して、約束の贖い主を信じる信仰による恩恵の救いへの準備がされたのです。パウロが「キリストはすべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」と述べる時、彼はキリストの時代以前は、ユダヤ人は律法によって義を得たとか、得ることができたとか言っているのではありません。彼が言っていることは、人々が律法によって義を得ようと試みたことと、信じるすべての人々に対して、キリストは空しい試みを止めさせられたことに過ぎないのです。罪人が決してできなかったことを、キリストが私たちのために、成し遂げて下さったのです。律法は常に「これを為せ」と言うのに対して、キリストの福音は「すでに為されてしまっている」と言うのです。
 
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)(写真:アセビの新芽)
 
「ローマ人への手紙」研究 (66)
 第43課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さdb6d7cd8.jpg
       10章1~10節
 
 「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」(10:4)。福音の真髄は私たちの救い主イエス・キリストの人格と業です。救いは私たちが律法を守ることによってではなく、私たちのためのキリストのみ業によって来るのです。私たちが義とされるために律法が要求する全てを、キリストはご自身のうちに持っておられるのです。
 この言葉の全体的な意味は完全に明白ですが、「律法の終わり」という表現の厳密な意味については、少しく難解な点があります。ここに3つの意味が可能になります。
 1「キリストは律法の終わりとなられた」は「キリストは律法がその全ての部分において指し示している方であり、罪人をそこへ導いて行く方である」という意味です(ガラテヤ3:24)。
 2「キリストは律法のすべての要求・型を成就し完成する方である」という意味。
 3「キリストは律法を終わらせられた方である。すなわち、信じる者を業の契約より恵みの契約に移転させられる方である」という意味。
 C.ホッジは1の意味はカルヴァンやその他の多くの注解者によって採用されており、2つの意味は教理的には聖書的であるが、「終わり」という語の原語「テロス」の意味と合わない。テロスは正確には完成・成就を意味せず、そのような意味では「プレローマ」がしっくりする。3の意味が正しいといえる」と述べています。
 「キリストにおらず律法の下にある者は、律法の要求と刑罰の下に服せしめられているという教理は、聖書の中に明白に述べられています。キリストの来臨とそのお働きは律法の権威を終わらしめ、私たちはもはや律法の下にはなく、恵みの下にあるのです(ローマ6:14)。私たちはもはや「これを為せ。そうすれば生きる」という体制の下にはないのです。しかし、この律法の廃止ということは、それを排除してしまうということによってではなく、それを成就することによって来るのです。キリストが律法の終わりとなられたのは、彼が律法を完成されたからである。パウロがここで主張しているのは、この後の方の真理である」(C.ホッジ)。
 したがって、ここの意味は、「キリストは律法の要求とその刑罰を満たすことによって、神の前に義とされるための要求としての律法の機能を終わらせられたのである」ということになります。神の前に義とされるということに関する限り、信者は律法については、もはや完全なのです。彼は業の契約より恵みの契約の下に移されてしまっているのです。
彼は破られた業の契約の罪科の下にはなく、神の律法への服従によって義を獲得しょうと望みのない無駄な試みを続ける必要はないのです。
 例えば、大きな負債を抱えて苦しんでいる人がいるとしましょう。彼は自分一人では支払いきれないことを知っています。彼は負債から解放されたいと、懸命に努力するが、結果的には負債に対する利息を支払うことができるだけで、負債そのものは全く返済することができません。利息を支払うことだけが彼のできる全てです。しかし、時にはそれさえも困難で、負債から解放されるどころか、ますます負債が多くなってゆく始末です。
 その時、裕福な友人が登場してきて、彼の代わりに全ての負債を全額支払ってくれました。その瞬間に彼は分割払いによって彼の負債を償却しようとすることから解放されたのです。元金が彼の代わりに他の人によって支払われてしまっているので、彼は返済義務から解放されたのです。ちょうどそれと同じく、キリスト信者も神の前に義とされることに関する限り、律法への義務は終わったのです。キリストが彼に代わって負債を完全に支払って下さったからです。
 
 J.G.ヴォス著
                         玉木  鎮訳
                      (日本キリスト改革派引退教師)
 
 
 「ローマ人への手紙」研究 (65)
 第42課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
       10章1~10節
 
 贖い主を信じる信仰によって罪人に与えられる神の義があることをしないで、ユダヤ人たちは早計にも、神の全ての律法の命令に従おうとすることによって、自分の義を打ち立てようと試みたのです。恵みの賜物として救いが与えられることを知らないで、彼らは自分自身の正しい行いによって義を達成しようとする無益で不可能な努力に走ったのです。
 
 私たちがよく理解しなければならないことは、このような誤りはパウロの時代のユダヤ人に特有のものではないと言うことです。それは全ての時代と、あらゆる場所における罪人の特徴なのです。罪に汚れた誇りと愚かさの中で、人間の心は善い行いによって、自分の義を立てようとする傾向があります。
 このことは「黄金律の宗教」と呼ばれるものが驚くほど人気を集めているということの証明となるものです。著名人たちが口を揃えて、「黄金律こそ私たちが必要とする宗教である」と言っています。そこには福音もなく、キリストもなく、救いもありません。彼らはキリストも福音も必要ではないということです。彼らの宗教は外形的には違うかもしれませんが、内面的には古のパリサイ人たちの宗教と大差はないのです。彼らは宗教を人間の業と性質の問題であると見做し、それ以上でもそれ以下でもないとするのです。s-2010022609060000.jpg
 それは古のカインの宗教であり、現代もなお存在するものです。それは現代ではいろいろの名称で呼ばれています。例えば、「性格による救い」、「最高理想」、「奉仕」、「キリストのような生活」、「キリスト教的人生」、「人格形成」、「修養」など。
 これら全ては人間の業や功績に依拠する偽りの宗教形式であり、キリストの流された血潮と転嫁されたキリストによる義に基づく真の宗教ではないのです。本質的には、神の義を知らず、自分の義を立てようとしたパリサイ派ユダヤ人たちの努力と同じものに過ぎません。
 
 「神の義に従わなかったからである」。この表現は「罪深い愚かさ」「罪科のある不信仰」を示すものです。キリスト・イエスの福音の中にある神によって啓示されている救いの計画を知らず、受け入れず、従うことをしないことを意味しています。現代において、主の福音を拒み、それに代えて自己の「人格形成」といったことを主張する人々は、不幸にも、誤っているばかりでなく、罪深い不信仰に巻き込まれているのです。このことは彼らがそれに非常に熱心で敬虔で信心深く、社会において、たとい多くの善行をしたとしても、それらによって決して中和されるものではないのです。
  
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 
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 第42課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
       10章1~10節
 
 ユダヤ人たちは彼ら自身の伝統と義の達成については極めて熱心であったけれども、同時に当然とても傲慢で、他に対して批判的でありました。彼らの熱心は、神への熱心に関する限り、無関心よりはましでした。このことはパウロが彼らの熱心を、条件付きで褒めている理由を明らかにしています。
 「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(10:3)。その真摯な熱心にもかかわらず、ユダヤ人たちは最も重要な問題、すなわち、どうすれば罪人たちは神の前に義とされるかということについて、完全に誤っていたのです。この最大の問題に対して、彼らは、罪人は律法を守る行いによって、神の前に義を獲得することができるという誤った解答を与えていたのです。
 この誤りは単なる無邪気な誤りでは決してありません。これは彼らの側の深い道徳的な罪科を含む誤りなのです。彼らの義認についての考え方は、神と律法の要求と彼ら自身の道徳的・霊的状態についての誤った理解を含んでいるからです。神の御性質と律法の要求について、彼らは余りにも低い見解を持ち、彼ら自身の能力については極めて高い理解を持っているのです。
 このような事柄について誤っていることは、単に罪の結果であるばかりでなく、それ自体が重大な罪なのです。このような重大問題について誤っている人々は霊的には盲人であり、他の多くの小さな事柄でいかほど正しくあろうとも、それは彼らの優越性とは成り得ないのです。
 
 ここで「自分の業」と「神の業」とが対比されています。前者は明らかに、彼らが自分の行いによって立てようと試みる義を指しています。ここの「自分の義」という表現の正確な意味を把握することは少しく困難があります。それは、「自分の義」と対比されているから、この意味では「神がその源である義」、「神から受け取る義」でありましょう。
 
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 
 
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 第42課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
       10章1~10節
 
 9章の終わりの箇所で、パウロはイスラエルの人たちが救われることに失敗したのは何故かを説明してきました。ユダヤ人たちは義を得るために、誤った偽りの、しかも不可能な方法をもってしようと試みました。彼らは真摯で極めて熱心であったけれども、完全にその方法を誤っていたのです。パウロ自身もキリストに改宗する以前は、彼らと同じ類の人でした。真摯にと熱心ということだけでは、救いには不十分なのです。私たちはまた真理に至る道の上にいなければならないのです。
 今の世にあって、多くの真面目で熱心な人々がキリストの福音を拒むのは、一体何故でしょうか。彼らが福音を拒むのは、昔のユダヤ人と同じように、彼らの心が彼ら自身の誤った考え方を好むように、偏ってしまったからです。
 
 10章の最初の節において、パウロはイスラエルの人々が救われることを心から願っていることを述べています。彼らが救われることはパウロの心からの願いであり、神への祈りでもありました(10:1)。パウロが教えている真理は、ユダヤ人読者にとっては極めて好ましくないものでしたので、ユダヤ人たちに彼の気持ちを分からせ、彼が彼らの幸いを心から願っていることを確信させるには非常な苦労をしているのです。
 「私たちはここでパウロがどんなにか苦労をして、つまづかせることを避けるようにしているかが分かるのだ」(カルヴァン)。私たちも真理に忠実であることを犠牲にしない限り、できるだけつまづきを与えないように留意すべきです。神の真理を証言することは、この真理をできるだけ好ましくないものに見えるようにしなければならないことを意味するものではありません。それどころか、私たちは最善の努力をしてその困難さとつまづみの機会を取り除くようにしなければなりません。
 もし私たちが神の真理に反することを主張するならば、それは彼らの責任です。しかし、私たちはその真理をできうる限り受け入れやすい仕方で提示し、私たちの怒りの心や敵意や短気が、私たちが宣べ伝えている真理から人々を逸れさせてしまうことが無いように努力することは大切です。
 
 何故ならば、「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない」からです(10:2)。神に対して熱心であることは結構なことであり、その限りにおいては、それは褒められるべきです。しかしながら、神に対するユダヤ人の熱心は「知識によるものではない」がゆえに、実は無価値なものなのです。彼らの熱心は正しい目標にではなく、間違った対象に向けられています。だから、それは罪に汚れた効果のない熱心なのです。
 ここの「知識」と訳されている語は「エピグノーシス」という極めて強いギリシャ語で、「道徳的知識」「正しい知識と理解」の意味です(ホッジ)。「知識」という意味の通常のギリシャ語は「グノーシス」で、一般に知識・報道するの意味です。他方、「エピグノーシス」
は「正しい知識」、「道徳的に識別する知識」を意味します。「彼らの知識は啓発されたもののではなく、賢明なものでもありませんでした。またその対象については正しくない、その性質については正当ではなかった」(ホッジ)。
 ユダヤ人たちは彼ら自身の伝統と義の達成については極めて熱心であったけれども、同時に当然とても傲慢で、他に対して批判的でありました。彼らの熱心は、神への熱心に関する限り、無関心よりはましでした。このことはパウロが彼らの熱心を、条件付きで褒めている理由を明らかにしています。
   
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 
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 第41課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
B ユダヤ人は旧約に述べられているように、その不信仰の故に拒否された。
       9章25~33節(続)
 
 こういうわけで、神が彼らを拒まれた原因は、全く彼らの側に責任があるのです。彼ら自身以外の誰も、それについて非難されるべきではありません。救われる者はただ一途に、神の主権的恵みによって救われるのであり、拒まれ定罪される者は彼ら自身の罪の故にそうされるのです。
 
 「信仰によらないで、行いによって得られるかのように」、すなわち、義は律法の行いによって得られるかのようにと言う意味です。実際に、罪人が律法を守る行いによって、義を獲得することは不可能です(3:20)。しかし、ユダヤ人たちは自分を欺いて、熱心と努力を持って、空しくも義を獲得しようと奔走したのです。
 
 「彼らはつまずきの石につまずいたのである」(32)。「つまずきの石」というのは、勿論メシヤ、すなわち、イエス・キリストのことです。彼らは自ら罪人であることを告白することも、神の御計画とみ言葉に従って、救いを受けることもしようとはしなかったのです。
 
 キリストが「つまずきの石」であることは、旧約聖書の中に啓示されています。パウロはイザヤ書28章16節と8章14節を引用しています。彼はこの二つの引用句を9章33節において一つの文章にまとめています。イザヤ書の真の著者である聖霊によって、霊感されているゆえに、パウロがそうすることは正当であります。前にも述べたように、新約聖書が旧約聖書より引用することは、霊感の教理に照らしてみる時、それは全く正当なことです。
 
 イザヤ書28章は、神以外のものに望みを置いて、アッシリヤの侵略の危険より自らを守るために、エジプトと同盟しようとする人々に対して言われた預言です。言い換えると、人間や人間的な方法や力、すなわち、神の力以外の力により頼む人々に対する神の言葉は、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石である」(イザヤ28:16)であったのです。
 これはメシヤであるキリスト・イエスの来臨の預言なのです。イスラエルは約束のメシヤが来るときまで、敵によって滅ぼされることはあり得ない。だから彼らはアッシリヤの力を恐れる必要がないのです。彼らは神の約束に信頼を置くべきです。来るべきメシヤとその贖いの業にだけ望みを持つべきであって、地上的な同盟や方法に頼るべきではないという意味です。 
 イザヤ書8章14節はユダヤの人々に対して、シリヤとエフライムとの同盟を恐れるべきではないと説くのです。「この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となりわなとなる」(8:12~14)。
 神はある者にとっては聖所であり、のがれ場となる。しかし、他の者にとっては、さまたげの石、つまずきの岩となると神は言われるのです。ある者は信頼を神に寄せるが、他の者は愚かにも神に信頼を寄せることを拒むのです。パウロはこの言葉をイエス・キリストに対する人々の態度に適用していますが、それは真に妥当なことです。神のみ子であるキリストはある者には受け入れられ、他の者には傲慢にも退けられます。「ユダヤ人の全精神・見解・期待は、贖い主の人格・性格・教理に相反するのです。従って、イエス・キリストは他の者にとっては愚かと見えるように、彼らにとっては「つまずきの石」なのです。彼らはイエスを彼らが予期していたメシヤと認めることができなかったのです。また、イエスが語られた言葉に従って天国に入ることに同意しません。このようにして彼らがキリストを拒絶したので、神の民より除外されることを述べた昔の預言が、彼らの上に成就したのです(C・ホッジ)。 
 
 J.G.ヴォス著
玉木  鎮訳
                       (日本キリスト改革派引退教師)
 
 
 「ローマ人への手紙」研究 (61)
 第41課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
B ユダヤ人は旧約に述べられているように、その不信仰の故に拒否された。
       9章25~33節(続)
 a7d2851e.jpg人間的見地よりすれば、異邦人が救いに与るというということは、ユダヤ人にとっては極めて有り得べからざることと思われていました。しかし、このような人間的には有り得べからざることが、実際に起こっているのです。罪の中に深く沈み込み、神より遠く離れていた異邦人たちが、キリスト・イエスを信じる信仰によって、義と救いを受けたのです。
 一方、自ら義を打ち立てるには専門家であると認めていたユダヤ人たちは、それを得ることに失敗しました。これが9章30~31節におけるパウロの論述でした。異邦人たちは「義を追い求めなかった」―パリサイ的ユダヤ人の場合のようには、義というものは異邦人たちの関心を引かなかったのです。しかし、神の救いの恵みを通して、彼らは実際に信仰による義を獲得したのです。すなわち、彼らはその救い主であるイエス・キリストを信じるようになり、義と認められました。彼らに転嫁されたキリストの完全な義によって、神の前に義人と宣言されたのです。
 
 強く義に関心を持ち、義の獲得と所有について自ら誇っていた人たちが、神の聖なる律法を満たすことができる義を得ることに失敗したということは、イスラエルの悲劇であり、パラドックスでした。彼らは「義の律法を追い求めていた」、すなわち、義を獲得することに専念し、それを仕事にしていた。「義の律法」という言葉の意味を正確に把握することには、困難があります。カルヴァンはこの言葉を、「ユダヤ人たちがそれによって義を獲得することができると考えた律法」を意味していると解釈しています。
 
 ユダヤ人たちが義を獲得することに失敗した理由は32節で述べられています。それは「信仰によらないで、行いによって得られるかのように追い求めたからである」。すなわち、罪人の必要を満たす唯一の義認の方法を受け入れることを拒み、堕落以前のアダムとエバならば可能であった業・行いによる義を獲得しようと試みたからです。ちょうどカインがその行いと性格に基づいて神の前に自ら立とうと試みたように、ユダヤ人たちも当時、彼ら自身によって神のみ前に近づくことを拒んだように、すなわち、罪人であることを告白し、屠られた子羊の上に信頼を置くことをしなかったように、パウロの時代のユダヤ人たちは、愚かで頑迷にも、自らの罪を告白せず、また世の罪を取り除く神の子羊であるキリスト・イエスの流された血潮に信頼を置くことをよしとしなかったのです。  
 
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
                       (日本キリスト改革派引退教師)
 
 
 「ローマ人への手紙」研究 (60)
 第40課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
B ユダヤ人は旧約に述べられているように、その不信仰の故に拒否された。0ef3bbcd.jpg
       9章25~33節(続)
  25、26節を考えると、この二つの節が人間の普遍的兄弟性という現代の通有理念と全く異質的なものであるということを知ることが出来ます。世界には二つの種類の人間がいます。すなわち、神の民である人間とそうでない人々、神の贖いの愛によって愛されている者と愛されていない者の二種類です。一方のグループは神との契約関係に入れられている者であり、彼らは神を自分の神として知っており、神も彼らの神であり、彼らは神の民です。他方のグループは神からは知られていない者たちであり、異邦人であり、神との敵対関係にあり、神との契約関係の外にある者たちです。
 神の恵みによって、神の民でない者たちが神の民となるというのです。しかし、注意すべきことは、このことは神の恵みによる召しによってのみ起こるということであります。すべての人類が生まれながら神の子(宗教的にも倫理的にも)であるということは真理ではありません。生まれながらの人間は、神の怒りの子なのです。神の特別な救いの恵みを受けて初めて、彼らは神の民とせられ、愛される者となるのです。
 自由主義神学的な普遍的兄弟性という理念が、現代世界の宗教指導者たちによって躊躇なく真理と見做されている現代、私たちはこの聖書的真理を十分に心に刻みつけておくべきことです。
 
 さらに、旧約は異邦人の召命と救いを宣言しているのです。このことは今の私たちにとっては極めて明らかなことですが、パリサイ的なユダヤ教の教義の中で育ってきた人々にとっては、まことに心外で、しかも理解困難な教えであったことを覚えなければなりません。もしユダヤ人の拒否と異邦人の召命ということが、最も理解困難な教えであると見做されていなかったとすれば、パウロはこんなに長く入念に、この点を明らかにするための苦労はしなかったことでしょう。
 
 次に、パウロはイザヤの預言から引用します(10:22,23、1:9)。そして民族としてのユダヤ人が救われるのではなく、外的なイスラエル民族の残りの者たち、中心の核にある者たちのみが救われるのであることを明らかにしようとします。パウロの引用文はイザヤ書の10章22~23節とは少しばかり違っているのが分かります。それは70人訳に近いものです。しかし、全体の意味は同じです。聖霊が聖書の究極的な著者であることを考えれば、このことは問題なく、聖書霊感の教理にも背くものではありません。
 
 9章29節はイザヤ書1章9節の引用です。パウロが「子孫」と言っているところを、イザヤ書は「少しの生存者」と言っています。「子孫」すなわち「種」は将来の「種蒔き」 
のために少量を保存しておかれるのです。イスラエルが完全にソドムとゴモラのようになってしまわないようにしているのは、神の恵みなのです。大多数は廃教し異邦人のようになってしまいました。しかし、神の契約の民の存続のために、救われた少数の霊的人々、残りの者たちを取っておかれるのです。だから、神のあわれみの約束はアブラハムの子孫であるイスラエル、肉によるイスラエルに与えられたとする考え方は、いかに誤っていることでしょう。
 
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
                 (日本キリスト改革派引退教師)
 
 
 「ローマ人への手紙」研究 (59)
 第40課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
B ユダヤ人は旧約に述べられているように、その不信仰の故に拒否された。
       9章25~33節(続)
s-IMG_2690.jpg  9:1~24節でパウロは、神がユダヤ人を拒まれ、異邦人を召されたことは、神の約束と矛盾するものではないことを明らかにします。さらに彼は、神がその恵みを人にお与えになることにおいて、絶対的な主権を持っておられることを強調して語っています。神はご自身以外の何者にも責任を負ってはおらず、常にご自身―すなわち、ご自身の性質・言葉・約束に絶対的に忠実に行動されるのです。
 
 次にパウロは、ユダヤ人たちは旧約に宣言されているように、その不信仰のために拒まれたことを明らかにしようとするのです。第一にホセア書より引用します(ホセア2:23、1:10)。「わたしはわたしの民でない者を、私の民と呼び、愛されなかった者を、愛されるものと呼ぶであろう。あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」(9:25、26)。
 この引用はホセア書の原文と少しばかり異なっています。しかし、それはさほど問題ではありません。その理由は、パウロの引用はホセアの原文の忠実な直訳であるからです。
しかしなおその上に、ホセア書もローマ書も共に聖霊がその究極的な著者であるから、その著者である聖霊が以前の書から引用する時に、絶対的に文字通り同一の引用をしなくてはならない理由はありません。聖霊はいくらかの引用の自由をもっておられるからです。
 
 ここで重大な問題は、ホセア書においては、この約束はイスラエル北王国の10支族に関わるものであるにも拘らず、パウロは(Ⅰペテロ2:10ペテロも同じく)それを異邦人に適用しているという事実です。ホセアは10支族について書いているのであるから、パウロは9:24ではユダヤ人の回復を考えていたに違いないと言う学者たちがいます。しかし、この解釈は当りません。何故なら、それはローマ書9章の文脈に適合しないからです。
9章の主題は明白にユダヤ人の拒否と異邦人の召命ということであるからです。最も可能性の高い解決は、ホセアの時代において10支族は異邦人のような状態にあり、偶像礼拝に陥り、宗教的観点より見るならば、実質的には異邦人民族と同じ状態にあったということにあります。したがって、ホセアが異邦人一般にパウロがそれを適用しても決して的外れではないのです。すなわち、神の民ではなかった者が神の民と呼ばれ、愛されなかった者が愛される者と呼ばれる時が来るのです。 
 
 J.G.ヴォス著
       玉木  鎮訳
      (日本キリスト改革派引退教師) 
 「ローマ人への手紙」研究 (58)
 第39課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
A 神がユダヤ人を退け、異邦人を召されることは神の約束と矛盾するものではない。
       9章1~24節(続)
 「その愛顧を与えることにおいて、神は絶対的主権をもっておられる」
       9章6~24節 (続)
 
  神は陶器作りであり、人間は粘土であります。神は人間の行為が自由であり、すなわち、人間は行為について責任があり、そしてしかも神は永遠より人間のそれらの行為を予定しておられるように、人間を創造し形成されたのです。このことに反対する者は、自分が神の御手の中の粘土であることを喜ばない者であり、聖なる陶器作りに対して指図しようとする者なのです。643018e9.jpg
 
 何故ならば、陶器作りには自主性を持っているが、粘土は全く依存的であるからです。もし人が神と同じ自主性を持っていたとすれば、彼の自由な行動は予定されることは有り得なかったはずです。しかし厳密に言えば、人間は被造物として神に依存しているので、人間の行為は予定されていても自由で有り得るのです。神は人間をそのように創造されたのです。神は人間をそのような種類の被造物として形成されました。神は人間をその行為が予定されながらも自由であるように創造されたのです。
 
 人間は神に依存する存在として、神のみ旨に従って考え、神が人間の歴史に計画されたプランに基づいて生きるように創造されているのです。神は人間を自立的な存在としてお造りにならなかったのです。すなわち、人間をその思想と行為の絶対的創始者であるようには創造されなかったのです。
 
 人間は神の被造物であり、従って、神に依存的であるばかりでなく、有罪の被造物であって、神の愛とあわれみを要求する権利は持たないのです。神は完全な主権をもってある者を救いに選び、他の者を遺棄する権利をもっておられるのです。このことは決して不正を含まないし、何人にも不平を言わせる余地を与えるものではありません。遺棄される者はその罪のために罰せられるのであり、それは正に彼らが受けるべきものなのです。選ばれた者はその罪から救われるのであり、それは神の自由な恵みによるのです。
 
 パウロは、次に反対者たちに注意を、彼らが忘れている事柄、すなわち、悪い者たちが罰せられることも、選ばれる者の救いと同じく、神の栄光を現わすものであるということに向けさせるのです。このことは22~24節で述べられています。忍耐に富んでおられる神は、「滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれる」のです。何故なら、「神は怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせよう」とされるからです。
「悪人の処罰は決して神の気ままな行為ではありません。それは悪に対する神の聖なる怒りを明らかに示すためであり、また、神の聖なることを明示すためであります。他方、正しい者の救いは神の恵みの豊かさを示すためです。ある者たちの処罰と他の者たちの扱いということの両方において、最も、峻厳であり慈しみに富んだ神の御目的が遂げられているのである」。(C.ホッジ)。
 
 一方的に、しかも非聖書的に神の愛のみが過度に強調される現代は、邪悪な者たちの処罰が、選びの民たちの救いと同様に、真に神の栄光を現わすものであるということを全く忘れ去っているのです。悪人の処罰は神の正義を示し、選びの民救いはあわれみを示すのです。今日、私たちは、聖書の中で語っている聖霊が「滅びることになっている怒りの器」と呼んでいる人々が現実にいることをすっかり忘れてしまっています。しかし、このことは疑いもなく神のみ言葉の真理なのです。
 
 もし、私たちが真に聖書的な視点と主張を持っているならば、ある人々が永遠に滅びるということに対してでなく、ある人々が救われるということにこそ驚きを抱くべきなのです。新約聖書に描かれているような初代教会は、ある者たちが滅びることになっている怒りの器であるという考えによって非難されはしませんでした。それどころか、初代教会は罪に汚れた人類に対して、神が救いをお与えになるという良い知らせを聞いて、驚嘆と驚喜に満たされたのです。
 
 そこでパウロは、22~24節で、神は罪人の処罰と選びの民の両方によって、栄光を現わされると言っているのです。彼はさらに付け加えて、救われる選びの民はユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも出るのであると言っています。このことは現在の私たちにとっては、明らかなことですが、その当時のユダヤ人社会においては、全く驚くべきことであって、彼らが受け入れるには極めて困難なことであったのです。 
 
 J.G.ヴォス著
                 玉木  鎮訳
                (日本キリスト改革派引退教師)
 
 
 「ローマ人への手紙」研究 (57)
 第39課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
A 神がユダヤ人を退け、異邦人を召されることは神の約束と矛盾するものではない。
       9章1~24節(続)b281dbc7.jpg
 「その愛顧を与えることにおいて、神は絶対的主権をもっておられる」
       9章6~24節 (続)
 
 神の主権は人の責任を破壊するとして反対する人々は、自分は被造物であり、神が創造者であるということを忘れ去ってしまっているのです。神がすべての起こり来ることを予定しておられならば、人間はその行為については責任が無いと主張する彼らは、神の主権性と人間の責任性との間を対立関係と見て、神が主権的であるか人間に責任があるか、そのいづれかであって、両立すること有り得ないとするのです。そして、彼らは人間の責任性を立てるために、神の主権性を否定しょうとしているのです。
 
 人間は被造物であり、神が創造者であるということを忘れている人間は、自分が究極的・絶対的でなければ、その行為について責任は有り得ない、すなわち、自分の行為は神の永遠のご計画の外にない限り、責任は有り得ないと言います。言い換えると、神が神である限りは人間に責任が無いのだと言っていることになるのです。
 
 勿論、正しくは、すべてが生起することは永遠から神によって聖定されているが、人間は自由行為者であるから、その心の状態・思想・言葉・行為については道徳的に責任があるということです。このことは人間理性では解くことができないパラドックス-外見上の矛盾を含んでいる。いかにして神が主権者でありながら、人間が自由でありうるか、すなわち、人間に責任が存在し得るかということは、人間理性が解決することが出来ないパラドックスなのです。
 聖書における神の啓示の上位に人間理性を置くことを主張する近代の人間にとっては、これは躓きの石となるでしょう。しかし、聖書が神の主権と人間の責任の両方を教えているという事実は全く疑いのないことです。もし私たちがこれらの二つの真理のいづれか一方を放棄するならば、より大きな問題と困難の中に踏み込むことになるのです。
 唯一の確実で正しい問題解決の方法は、聖書の教えるところに従い、これを神の神秘・奥義のままにしておくことなのです。過去、幾世紀にもわたってこの問題は解決不可能と見られてきています。それは私たちの主なる神に属する神秘の一つだからです。私たちは神の主権の真理と人間の主権の真理との両方を主張すべきです。そして、恐れつつ人間理性によってそれを解決しようとすることを慎むべきです。
 
 パウロが指摘したように、創造者・被造物の関係を正しく認識すれば、私たちは19節にあるあるような反対論を持つことはないのです。創造者の無限の偉大さと被造物の神への絶対的依存性を認める者は誰でも、そのような反対論を起こすことはないのです。創造者・統治者としての神―私たちがその中に生き、動き、存在している神に対して真の宗教的な畏敬を抱く者は、このような反対論には組しないのです。そのような人は謙虚に、神は全て起こり来ることを予定しておられ、しかも人間は自由で責任性を持っていることを認められるのです。
神は人間の自由を取り去ることなく、その行為を予定しておられるのです。
 
 J.G.ヴォス著
                    玉木  鎮訳
                   (日本キリスト改革派引退教師)
 
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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
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