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B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望
・・・15:22~33・・・
「確かに、彼らは賛成した。しかし同時に、彼らはかの人々に負債がある。というのは、もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからである」。(15:27)
パウロは困っているパレスチナのキリスト信者たちの救済のために異邦人からの贈物を提供することに当たって、それらを単に自発的な献げ物としてのみでなく、道徳的な義務でもあると指摘しているのである。救いはイスラエル人と言うチャンネルを通して異邦人にもたらした。
従って、このような霊的で道徳的な義務は忘れてはならないのである。異邦人キリスト信者たちは、野生のオリーブの枝であり、良いオリーブの木に接ぎ木されたものであることを覚えておかねばならないのである。このような霊的なユダヤ人キリスト信者たちに、物質的恵みを覚える時、異邦人キリスト信者に対して、パレスチナのユダヤ人キリスト信者たちのためにお金を寄付することを求めるに当たって善意を求めて乞うことをしていない。それどころか、善いことをする、すなわち、感謝を示してキリスト信者の愛の行動に移してほしいと異邦人キリスト信者に求めているのである。
パウロが他の多くの書簡の中で、この問題に言及しているところを見ると、異邦人キリスト信者たちが真心よりこの企てに賛同して協力をしていたことが分かるのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望
・・・15:22~33・・・
「しかし今の場合、聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしている」。
ここでの「仕える」という言葉は「聖徒たちの必要を満たす」という意味である。このギリシャ語はあらゆる種類の奉仕を意味する語である。エルサレムへの旅はそこにいる聖徒たちへの奉仕の一部である。
「なぜなら、マケドニヤとアカヤの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである」(15:26)。マケドニヤとアカヤ、すなわち、異邦人地域にいるキリスト信者たちは、エルサレムにいるキリスト信者たちに比べて、その生活水準は遥かに上であった。ここで「援助する」と訳されている語は、本来は「交わり」を意味する「コイノニヤ」である。パレスチナにいるキリスト信者たちは迫害の犠牲者であって、経済的にも窮迫した状態にあった。
使徒行伝15章の使徒会議では、異邦人の間に伝道しているパウロにパレスチナで困窮しているキリスト信者たちの救援のための資金を集めることを要請している(ガラテヤ2:9,10参照)。パウロは直ちにこの仕事に着手し、きわめて忠実にそれを実行したのであった。経済的な救援はユダヤ人と異邦人との間の、友好を増進する最も良い方法の一つであった。ユダヤ人キリスト信者が持つ異邦人キリスト信者に対する偏見を除くのに大いに力があった。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望
・・・15:22~33・・・
「イスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを」(15:22~33)。
「パウロがスペインを訪れるという目的を達成したかどうかはよくわからない。新約の中にも初代教父文書の中にも、歴史的な記録は何もない。しかし、これらの教父たちがパウロのスペイン訪問を当然のこととしていると思われる節が多分にある。カイザリヤでの長期にわたる投獄と捕らえられてローマに送られることになったエルサレムでの出来事によって、恐らく彼の宣教計画全体が狂わされたと考えられる(ホッジ)。
ローマのクレメントは92年頃イタリヤから手紙を書いて、パウロが西の果てまで到達したと述べている。スペインはローマ世界の西の果てであった。旧約に語られているタルシシと言うのは多分スペインの南部の一部であったと思われる。
ローマは紀元前200年頃から、スペインを支配していた。そしてパウロの時代には、南スペインの文明文化は徹底的にローマ化され、ほとんど1世紀の間そうであった。
「その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのである」(15:24)。
パウロの意図は、第一にローマ帝国の首都であったローマを訪ね、ローマの教会との交わりを喜ぶことであり、第二にはローマの教会の人々の助けを受けて、そこでスペインへの旅の最終的な準備をすることであった。「送られて」と言う表現は単なる見送りのみを意味するのではなく、ある程度の旅の準備を整えることを意味している。(参照:15:3、Ⅰコリント16:6、Ⅱコリント1:16)。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望
・・・15:22~33・・・
「こういうわけで、私はあなた方の所に行くことをたびたび妨げられてきた」(15:22)。
パウロがここで言おうとしていることは、キリストがまだ宣べ伝えられていない所に、福音を宣べ伝えるという開拓伝道の業に関わるあめに、ローマを訪れようとする彼の望みの達成が、たびたび延ばされてきたということである。もちろん、ローマにおいては既に教会があり、福音はそこに伝えられていた。パウロにとって、ローマに伝道することは開拓伝道と呼ばれるものではない。何故ならば、そこには、他の人々によって、すでに土台が築かれていたからである。
「しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつてイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所にいくことも、多年、熱望していたので・・・」(15:23)。「この地方にはもはや働く余地がない」とはどういう意味であろうか。ある人たちは「この余地」という語を、ヘブル書12:17(悔い改めの機会)のように「機会」という意味であろうと解釈する。そしてパウロはこのロマ書を書いているコリントの町では、もはや福音を語る機会は持っていない、あるいは、この地方では伝道する機会はもはやないと言っているのだと解する。
しかし、もっと筋の通った解釈は、彼の伝道はこの地方では隅々までなされているので、もはや福音の伝えられていない地域はここにはないと言っているのである。もちろんこのことはパウロの伝道があらゆる町や村にまでなされてという意味ではないであろう。使徒行伝からも解るように、パウロは戦略的に伝道の集中地点、例えば、エペソ、テサロニケ、アテネ、コリントアドを選んでいる。これらの町々において周囲の地域から来た人々はパウロの宣教談を聞いたのである。そしてキリストの福音は間もなくこの地方全体に広まったのである。パウロはこれらの町々のどの一つにも、長期間滞在しなかった。教会を建て、役員と会員が出来ると、彼はそれらの人々にその教会の運営を委ねて、新しい地域へと移って行ったのである。
「熱望している」というのは極めて強い表現である。それはパウロの極めて熱心な願いを意味している。彼はローマのキリスト信者たちに、彼らを訪ねたいという願いを何年にもわたって強く持ち続けていたと告げているのである。ここから私たちはローマの教会がその時すでに建てられてから数年を経ていたことを知るのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第98課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=
・・・15:14~21・・・2・・・
A 「異邦人宣教師としてのパウロの働き・・2・・
・・・15:14~21・・・2・・・
しかし、他人の土台の上に建てることにより、真に悪質で軽蔑すべき形のものもある。すなわち、すでにキリスト信者である人々と接触して、彼らを説いて、彼らの教会から離れさせて、自分の教会に加入させようとする伝道者たちがある。不幸なことながら、このような羊を盗むことがよく行われる。そしてこのような行動の犠牲となるのは、比較的小さいが熱心で信仰深い教派なのである。
もちろん真摯な信仰の確信に基づいて、教籍を変えようとするキリスト信者については反対すべきではない。聖書の立場、あるいは聖書に示されている教会の形態に最も近いと自分が確信する教会に加入することが信者の義務である。もし教役者が他の教会に働きかける場合、上述のような高いレベルの確信からするのであれば、誰も不義を述べる者はいないであろう。
そのような意味での競争は、むしろ真摯で正当であると言えよう。しかし、現今においては、他教会の会員を転籍させる働きは、このような高度の指向に基づいてなされていることは稀であり、もっと低級で世俗的な動機から行われることが多い。例えば、厳格で信仰深い小さな教会から、より大きくて世俗的なタイプの教会へ誘うことがよくなされる。このような形態の教会員の横取りは大いに非難されるべきである。聖書的な基準を厳守し、正統的な信仰と生活を維持しようと努める教派は不断にこのような非倫理的な企てに反対するのである。
「すなわち、彼のことが宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」(15:21)。
この言葉はイザヤ書52:15からの引用であり、そこではキリストが異邦人に宣べ伝えられることが預言されている。このようにパウロの異邦人への宣教の働きは旧約の預言の成就なのである。パウロはここで自分の教えと旧約聖書とが調和していることを示しているのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第98課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=
・・・15:14~21・・・1・・・
A 「異邦人宣教師としてのパウロの働き・・1・・
・・・15:14~21・・・1・・・
「その際、私の切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることあった」(15:20)。「切に望んだ」(strive)と訳されているギリシャ語は「名誉を愛する」という意味であり、従って、「名誉なことであると考えて~~をする」という意味になる。パウロは開拓的宣教師としての働きを名誉なことと考えていたのである。キリストがまだ知られていない所に福音を宣べ伝えることを自分のライフワークとしていたのである。他人の土台の上に立てる野心も願いも持っていなかった。他人がパウロの後についてきて、彼が築いた土台の上に建てるかもしれない。しかし、パウロは開拓宣教師として働くことを無上の名誉ある特権と考えていたのである。
説教者が他人の土台の上に建てることをするのは常に必ずしも悪いことではない。ウエスレ―が言うように、「神はその働きを葬られる。しかし、神は彼の働きを成し遂げられる」のである。Ⅰコリント3:10でパウロは厳かに、自分が建てた土台の上に建てることをする人々に対して、彼らがその上にどのように立てるかを注意しなければならないと警告している。
「神から賜った恵みによって、わたしたちは熟練した建築師のように、土台をすえた。そうして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい」。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第97課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=異邦人宣教師としてのパウロの働き・・21・・
・・・15:14~21・・・5・・・
「異邦人を従順にするために、キリストが私を用いて、言葉とわざ、・・・」(18節B)。
奇跡はまた不思議とも言われる。それが、それを目撃する人々の心の上に生み出す効果のゆえに、そう呼ばれるのである。それらは人々を驚かし、考えさせて、その神の直接的な働きがあること認識させるのである。したがって奇跡は福音の信任状(credential)のようなものである。神だけが奇跡をお行われるから、その奇跡を伴うメッセージは神よりのものであることが分かるのである。パウロによって行われた奇跡については使徒行伝19:11~12を参照すること。
奇跡の力の外に、パウロは聖霊の力を語っている。奇跡に加えて(奇跡自体が聖霊の働きであるが)、人間の心の中には聖霊の力強い働きがあるからである。この働きの結果、選ばれた人々に回心が起こるのである。Ⅰコリント2:4を参照。ここでパウロはわたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との召命によったのである」と言っている。パウロは自分の宣教者としての能力に依存しないで、ただ宣教の言葉と共に働く聖霊の働きに依存していたのである。
パウロは付け加えて、「エルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで」と述べている。イルリコはいまのユーゴスラビアとアルバニヤの領域に入っている。パウロがこの手紙を書いた時には、まだローマに行ったことはなかったことを覚えておかなければならない。当時イルリコはパウロが福音を宣べ伝えた地域の限界であった。このようは広大な地域にパウロは伝道し、教会を建て、贖い主の国を進展させてきたのであった。このことを考えるとパウロが神によって召しを受けたキリストの福音の役者(えきしゃ)であったことが一点の疑いもなく解るのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第97課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=異邦人宣教師としてのパウロの働き・・21・・
・・・15:14~21・・・4・・・
「異邦人を従順にするために、キリストが私を用いて、言葉とわざ、・・・」(18節B)。
「異邦人を従順にする」ということは、「キリストの福音の要求に従順にさせる」ということである。彼らは言葉のみでなく、業によって従順されるのである。すなわち、福音の真理が彼らに宣べ伝えられるだけでなく、その伝道の業が聖霊の内的な働きによって伴われ、彼らの救いに有効に働くようにされるからである。福音の宣教という外的な働きは必要なことは勿論であるが、それだけでは人を救いに至らせるには十分ではない。
それに加えて聖霊の有効な内的な働きがなくてはならないのである。使徒行伝16:14を参照。そこでは主がルデヤの心を開かれたので、彼女はパウロの語ることを理解できたのである。メッセージによる外的な伝道のみでは力がないという事実は、本当の効果を期待するには、聖霊に依存しなくてはならないということを私たちに銘記させるのである。聖霊の力が新しい生命を与えなければ、大衆伝道も宣教活動も一人の魂をも救いに導く者とはならないのだ。従って、私たちは生命を与える聖霊の働きが、神の御言葉の宣教に伴うように、不断に熱心に祈らなければならない。
「しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さった・・・」(19節a)。直訳すると、「しるしと不思議との力において、聖霊の力により」となる。
これら二つの形の力がパウロの異邦人伝道を有効にしたのであった。
第一には、ここで「しるしと不思議」と言われているものの役割、奇跡の力があった。第二には聞く者の心に働く聖霊の力であった。
奇跡が「しるし」と呼ばれているのは、それが人間の歴史の中に神が直接に働かれることの現れであるからだ。奇跡というのは神の創造的・直接的な働きの例であって、神が自然法則を通じて働かれる通常の形の働きとは区別されるのである。
人間に食物を供給するためには気候と日光と雨と土壌という自然を通じて、種を発芽させ、成長させ、収穫して、その穀物を曳いて粉にしてパンを作る。それはみな神の業であるが、これは奇跡ではない。何故ならば、それは自然の手段を用いているからである。それは摂理の業である。即座に五つのパンと二つの魚を増やして一度に五千人の人々を養うことは奇跡である。自然の法則や力はそれを説明することが出来ない。それは神の直接的な働ききによることである。それは自然の秩序の産物ではないので、自然科学によっては説明できないのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第97課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=
A. 異邦人宣教師としてのパウロの働き・・1・・
・・・15:14~21・・・3・・・
「だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである」(15:17)。
パウロは神によって使徒とされ、また異邦人への伝道者とされ、さらに異邦人の回心のために努めたパウロの努力を、神が有効に用いてくださったので、パウロは本書に見られるような権威と確信とをもってローマにいるキリスト者を教える。「誇り」(glorying)は有罪的な人間的誇りを指すのではない。
それどころかパウロが誇りうる根拠を持つのは、ひとえにキリスト・イエスによるのである。結局パウロの信用はキリストに基づいている。キリストの僕であるから、信用があるのである。彼の誇りは神に奉仕することにあるのであって、彼自身の中にいかなるものに在るのではない。彼は自分の世的な業績や教育水準などについて誇っているのでなく、神への奉仕、すなわち、福音の宣教とそれに伴う聖霊の働きについて、彼は誇るのである。パウロの誇りは威張ることでも尊大であることでなく、謙虚な誇りなのである。それはパウロ自身の中にあるいかなるものにも基づく誇りではなく、すべて主に基づく誇りなのである。
「わたしは異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、ことばとわざ、しるしと不思議との力、聖霊に力によって、働かせて下さったことの他には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルニコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた」(15:18~19)。パウロは18節で注意深く自分を誇るつもりは全くないことを説明した。彼はキリストが彼を通してなさったことの他はあえて何事も語ろうと述べてはいない。「彼は肉において、すなわち、彼自身に属する者については誇ろうとしない。だから、パウロは自分を誇らないで、キリストの御業を誇るのである。
パウロがここで人々を回心させるために神の中の単なる器に過ぎないものとして、自分を戒めしている点を注目したい。真の有効原因は贖い主に帰せられるべきだとしているのである。従ってこの聖句はパウロがキリストを今も人々の魂の上に働いておられるのであり、また今も忠実なキリストの福音の役者(えきしゃ)の伝道の業を有効にしておられる方であるとみている証拠である。そのような力を聖書著者たちは神以外の何者にも帰することはできないのである」(ボッジ)。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第96課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=
A. 異邦人宣教師としてのパウロの働き・・2・・
・・・15:14~21・・・3・・・
「このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕えのる
者となり、神の福音のために祭司の役を勧め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめ
られた、御旨にかなうささげ物とするためである」(15:16)。
ここで「仕える者」(ministere)と訳されている原語は「公務員」を表わす語である。しかし、この同じギリシャ語が「祭司」の職を表わすのによく用いられている(申命記1:8、へブル10:11)。もちろん、パウロの文字通りの祭司では決してない。彼の職務は祭司ではなく使徒職であった。全てのキリスト者が祭司であるという万人祭司の意味における場合を除いては、キリスト教教役者も祭司ではない(Ⅰペテロ2:9、黙示5:10)。しかし、ここの聖句は比喩的な表現なのである。
ここでは使徒パウロを祭司として述べている。全ての祭司たちは神に捧げるべき供え物を持たねばならない。そして次の聖句において、異邦人キリスト者がパウロの神に捧げる供え物であると言われている。文字通りでは、もちろん、異邦人たちが供え物でないのは、パウロが祭司でないのと同じである。供え物としての異邦人を語ることによって、中心的な真理が示されている。すなわち、罪の中に深く沈んでいた異邦人たちが聖なる捧げものとして、すなわち、聖霊によって清められた聖なる供え物として神に捧げられたのである。
「供え物が祭壇に供えられたとき、水やその他の方法で清められるように、私たちも聖霊の力によって、神への奉仕に相応しく、聖なるものとされたのである。これが、パウロが自分の働きの成功について語る時、常に省くことをしない大切な思想なのである。彼の宣教の業における成功を、器に過ぎない自分の力に帰することを決してしないで、常に真の創始者である神に帰しているのである。
この美しい聖句において私たちはキリスト教宣教者に帰せられる唯一の祭司性を見出すのである。罪のための供え物を捧げることが、彼らの職務ではなく、宗教教育によって、聖霊の働きにより、人々をして自分を生きた供え物として神に捧げるようにさせることこそが宣教者の任務なのである」(ホッジ)。
すべてのキリスト者が祭司であるという万人祭司性以外の意味において、福音の宣教者を祭司と呼ぶことは正しくない。聖書は信仰者が万人祭司であることを教えている。しかし、祭司の役をする特別は階層というのは信者の間にはない。ローマ・カトリック教会においては、宣教者は供え物を捧げる祭司となり、主の晩餐はミサの供え物となっているが、これは腐敗の一つであると言える。プロテスタントの中にも宣教者のことを祭司と呼ぼうとする傾向があるが、ローマ・カトリック教会と同じ誤りをしないように警戒しなくてはならない。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第96課 パウロの宣教活動とその計画
=15:14~33=
異邦人宣教師としてのパウロの働き・・1・・
・・・15:14~21・・・2・・・
「しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思い切って書いた。それは、神からわたしに賜った恵みによって、書いたからである」(15:15)。
パウロがローマ書の真理をローマにいる人々に書いたのは、彼らがこれらの真理に全く無知であったからではなく、その目的は既に知っていたそれらの真理を彼らに思いださせるためであった。これらの真理を強調し、解き明かし、適用させることが彼の目的であった。ローマの教会の人々がたといどんなによくキリスト教信仰の真理を理解していようとも、彼らの知識は、聖霊によって霊感され、神より直接に真理を受けているパウロの知識には遠く及ばないのである。
だからパウロがこれらの真理を書き送ったのは、彼の僭越の故でもなく、またローマの教会の人々の無知の故でもない。凡てのキリスト信者は、キリストの体である教会において、働くべき位置を持っているからである。
パウロの位置と働きは真理を語ることであった。ローマの教会の人たちがどんなに真理に通じていたとしても、なお彼らはパウロが書き送ったことから多くを学ばねばならないのである。すべてのキリスト者もこのように学ばねばならない。世界の動静が激動すればするほど、キリスト教は、世の動きと遊離しているように思われよう。しかし、それは早計な判断である。
神が聖書を通じて現代世界に向かって何を教えようとしておられるかを絶えず追及してゆかねばならない。この意味において、説教者は世界の動静を常に的確に把握して、聖書の真理を現代世界に向かって適切に宣教することが求められている。
聖書が神のみ言葉であり、信仰と生活の唯一の誤りない基準であるならば、現代に向かって語るべき真理を所有していることは当然であるのだ。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第96課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=
異邦人宣教師としてのパウロの働き・・1・・
・・・15:14~21・・・1・・・
パウロはローマ人への手紙が終りに近づくにつれて、キリスト信者としての立場と性格についての確信を、読者に確認させようと努めている。そして更に異邦人への伝道者としての彼の働きについて語る。そして将来の活動についての計画と目標も語ろうとしている。
「さて、わたしの兄弟たちよ、あなた方自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互い訓戒し合う力のあることをわたしは堅く信じている」(14節)
もちろん、この言葉はローマにいるキリスト信者たちが、キリストを通して与えられる神の恵みによって、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互いに訓戒し合う力のあることを意味しているのである。パウロは彼らがキリストを離れても、彼ら自身の中に善意に満ちていることがありうると言おうとしているのではない。
何故かと言えば、それはこの書簡の初めの部分の教え全体に矛盾するからである。パウロが彼らのことを「兄弟」、すなわちキリスト者として書いていることに注意したい。
彼らが善意にあふれていると言われることが出来るのは、彼らはキリスト者であるからだ。ここで言われている善意と言うのは、聖霊による聖化の恵みによって、彼らの生活の中に生み出される善意なのである。
現代社会において、このような善意が何ゆえに乏しくなりつつあるかに注意したい。しかし、パウロは彼らが善意にあふれていることより、さらにあらゆる知恵に満たされて、「互いに訓戒し合う力のあることを、かたく信じている」と述べていることに特に注目したい。
キリスト信者はその罪の咎を赦され義とされているが、罪に汚れた人間は依然として残存している。従って罪の行為を犯すことが不断にありうるのである。日々、神のみ許しを願いつつ生活しなくてはならない。キリスト信者たちは相互に善意に溢れつつ、戒め合い、勧めあって、ともに神に喜ばれる道を進むことができる力があると、パウロは堅く信じている。ここに教会の規律・戒規・訓練の根拠があるのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」