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第95課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・52・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・3・・・
旧約の4つの違った個所からの引用によって、パウロは、ユダヤ人たちと同様に異邦人たちも救いを受け入れることが、古からの神のご計画であったことを示すのである。キリストが両方の部類の人々を救い、受け入れたという事実は、キリストの体である教会の中における相互の愛と調和を進める力強い動因なのである。
「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安を、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように」(13節)。
パウロはここでローマのキリスト信者たちのために祈りを捧げている。すなわり、彼らが単なる喜びにならず、あらゆる可能な喜びーすなわち、最高の喜びと最高の平安に満たされるように祈るのである。彼らは信じることに於いて、あらゆる喜びと平安に満たされ、聖霊の力によってのぞみに満ちあふれるのである。
信じることや望みに溢れることなどはローマのキリスト者たちの義務であった。しかし、なおもパウロは望みの神が、そのような恵みをもって彼らを満たしてくださるようにと祈るのである。
「聖書の中ではこのように責任と信頼とは常に密接に結びついているのである。私たちは自分の救いに向かって努力しなければならない。何故ならば、私たちの中にあって、私たちに意思させ行動させて、神のよしとされるところを為さしめるのは神であるからである」(ホッジ)。
「望みに溢れさせて下さるように」。
キリスト者における喜びと平安の旺溢は、彼らに「望みに溢れさせる」のである。そしてこれらすべての望みと賜物とは聖霊の力によるのである。聖霊こそあらゆる善と祝福の作者であられる。このようにして、パウロは、私たちはすべて全く聖霊の恵みに依存していることを思い起こさせながら、この部分を結んでいる。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第95課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・52・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・2・・・
「異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである」。「それゆえ、わたしたちは異邦人の中であなたに讃美をささげ、また、御名をほめ歌う」と書いてあるとおりである」(9節)。
それによって異邦人が神を崇めるようになる神の憐みは、キリストによる救いの恵みのことであって、それにすべての恵みと祝福が伴うのである。一言で言えば、異邦人たちに神を知らぬ状態、神の国は無関係の状態から変化させて、神の国の民とならせてくださった神の憐みを言っているのである。キリストは贖いの業によって、二つのことを成就して下さった。すなわち、第一に父祖たちの受けた約束を成就することによって神の真実を維持された。第二にキリストは異邦人たちを御国に入らせて、彼らも神の憐みを受けて、神をたたえ崇めるようにされたのである。
「それゆえ、わたしは異邦人の中であなたに讃美をささげ、また、御名をほめ歌う」(9節b)。
これは詩編の18:49の引用である。それは真の神を知り、礼拝することが、未来において異邦人にまで拡大されることを宣べた、多くの旧約の聖句の一つである。詩編18:49において歌っているのはダビデである。ダビデは、神に讃美を捧げている異邦人たちに取り囲まれている自分を考えているのである。そしてこのことは、彼らが神の礼拝者であるという意味なのである。
「また、こう言っている、『異邦人よ、主の民と共に喜べ』」(10節)。これは70人訳聖書(ギリシャ語訳旧約)による申命記32:48の引用である。そして詩編67:35がほとんどこれと同じである。
「また、『すべての異邦人よ、主をほめまつれ、もろもろの民よ、主をほめたたえよ』」(11節)。これは詩編117:1の引用である。
「またイザヤは言っている。「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」(12節)。
これはイザヤ書11:1、10の引用である。イザヤのこの言葉は極めて明瞭に、また決定的に来るべきメシヤは、ユダヤ人のみならず、異邦人の上にも臨まれることを述べている。パウロの引用は70人訳旧約からなされている。何故ならば、意味においてはヘブル語原文とあまり違いはない。「イザヤの約束は、腐敗して滅びたダビデの家より、一人の人物が起こり、その支配はすべての民を含み、ユダヤ人のみでなく、異邦人も彼に依り頼むことになるということである。この預言を成就するためにキリストが来られ、近くに、あるいは遠くにある人々に救いを宣べ伝えられたのである。二つの部類の人々がともに、このへりくだった救い主によって、あわれみのうちに受け入れられ、一つの集団の中に結合されたのである。だから、彼らは互いに裁いたりせず、また争うことを避けなければならないのである」(ホッジ)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第95課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・52・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・1・・・
「わたしは言うキリストは神の真実を明らかにするために、割礼ある者のしもべとなられた。それは父祖たちの受けた約束を保証するとともに、」(8節)
「ここでパウロはキリストがどのようにして読者たちを受け入れて下さったかを示そうと意図している。キリストが来られたのは、ユダヤ人に仕えるためであり(8節)、また異邦人たちをも神を崇めさせるためでもあったのである(9節)」。(ホッジ)
ローマにある教会はこれら二つの階層の人々によって成立していた。キリストはこれらの二つの階層の両方ともを受け入れられたことを示そうとするのである。
「割礼ある者のしもべ」という表現は、「ユダヤ人のところへ遣わされたしもべ」という意味である。「神の真実を明らかにするために」というのは「約束を果たすことに於いて、神が真実であられることを主張するために」の意味である。
「神の真実」というのは、神の「誠実」、神の「忠実」ということである。キリストは主、あるいは支配者としてではなく、「神の恵みの約束を成就するために、へりくだったユダヤ人のしもべとして来られたことによって、その最も大いなる謙虚とあわれみとを示されたのである。そのあわれみはユダヤ人にのみ限定されるのではなく、異邦人もまたその王国に受け入れられ、そして同じ条件でユダヤ人たちに結び付けられたのである。
キリストがこのようになさったことは、ローマの教会の人々にとって、手本であり模範であって、彼らはこれにならってユダヤ人も異邦人も互いに友情と友愛を養わねばならないことを強く教えられているのである」(ホッジ)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第94課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・52・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・2・・・
「こういうわけで、キリストもわたしたちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」(15:7)
ここでパウロはローマ教会の人々に、相互の交わりを勧めている。「受け入れる」という意味は、キリスト者の交わりに受け入れることである。教会の中にあって、あの兄弟やグループとの交わりを拒否するような個人やグループがあってはならないのである。このような相互の交わりはキリスト者の義務であることは明らかなことである。
しかし、現代の諸教会において、この義務が如何に無視されていることであろうか。キリスト者の交わりが、自己中心主義の愚かな心を持った一部の人々によって、如何に破壊されていることであろうか。時として教会の中のある人々に語り掛けようとしない。そして、語るときでも、むしろ沈黙している方が良いほどに冷たく形式的で、小馬鹿にしたような態度で話すのである。このような行動は、ここで教えられている「互いに受け入れよ」という命令にもとることであると言わねばならない。
パウロはここで、何故、キリスト者は互いに受け入れなければならないかについて、二つの理由を述べている。
第一の理由は、キリストが私たちを受け入れてくださったからである。私たちの救い主キリストは、その大いなる愛と憐みとによって、罪人である私たちを御自身の民として受け入れてくださったのである。この驚くべき恵みに与かっている私たちは、やはりキリストが受け入れてられる兄弟たちを受け入れることを拒むことは考えられない。もしキリストが私たちを受け入れてくださっているのなら、私たちも互いに受け入れ合わなければならないのである。
第二の理由は、私たちが互いに受け入れるべきことを神の栄光が要求しているからである。内紛や党派抗争によって分裂している教会は、決して神の栄光を現わすことはできないのである。いくらかの意見や見解の相違は避けることが出来ないであろう。しかし、神の栄光を現わそうと願うのであるならば、少なくともお互いの間に親切な思いやりのある友情的な気持ちがなければならないのである。
もし憎みや争いがあるならば、神の御霊を悲しませるのであって、神の栄光を現わすことはできず、むしろ栄光を傷つけるのである。「祭壇に供え物を捧げようとする場合、兄弟が自分に対してなにか恨みをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」(マタイ5:23,24)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第94課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・51・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・1・・・
「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互いに同じ思いをいだかせ、…」(15:5)。・・1・・
「互いに同じ思いをいだかせ」という表現は、教会の会員の間に意見の相違があってはならないという意味ではない。それは、会員は調和した感情と態度とを相互に持っていなければならないと言っているのである。小事についての意見の相違はあっても、お互いに調和ある態度をとることは可能なのである。「キリスト・イエスにならって」、すなわち、「キリストを手本にして」、または「キリストの命令に従って」の意味である。強い者と弱い者とは、食物についての意見が違うであろう。
しかし、その違いにも関わらず相互の関係において、両者は調和と一致を求めなければならないのである。
しかし、この調和と一致の態度は、人間に意思や計画によって来るものでは決してなく、神の賜物なのである。すなわち、忍耐と慰めの源であり作者である神によりあたえられるものである。だから、パウロはローマの教会の人々が互いに同じ思いをいだくことを神が許されるようにと祈っているのである。
私たちが現代の諸教会における分裂や分派精神を是正しようとするとき、このことをよく銘記しておかねばならない。真の調和と一致とは、人間の計画や立案によって来るのではなく、神によって与えられるものなのである。
「こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」(15:6)。
「キリスト者の間におけるこの調和と交わりとは、彼らが正しく神の栄光を現わすために必須なことである。神を正しく崇めるためには、人々の間に不必要な不和があってはならない」(ホッジ)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第93課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・50・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・3・・・
「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった」(15:13)。
第三に、ここの節は、私たちが熱心な聖書の学習者でなければならないことを教える。もし聖書がすべて私たちのための書かれたのであれば私たちはそれを学ぶのに常に熱心でなくてはならない。聖書は怠け者の書物ではない。私たちはそれを一日に数分間読んだり、あるいは1週間に数分間読んだりするだけのことでは、それから多くのものを得ようと期待することはできないのである。
もし私たちが聖書の勉強から多くのことを学ぼうと思うのであれば、その中へあるものを入れなくてはならない。すなわち、時間と努力と熱心と思索を注ぎ込まなければならないのである。私たちが直接霊感を受けたいなどという願望を退けて、聖書の中に記されている事柄を学ぶことによって、いくらかの大切な知識を獲得するように熱心につとめるべきである。私たちは知的真空の中では真の霊感を持つことは決してできないのである。
この節にある「のぞみ」は、もちろん、キリスト教的意味における「のぞみ」である。この世的な野心の対象、富や名誉を入手することを意味するものではない。キリストが私たちのために獲得してくださった全ての祝福を必ず受け取るという確かな確信を意味している。キリスト者の希望というのは、この世における生涯の間に、神の善い恵みを私たちに注がれ、永遠の神の家に住まうことができるという確かな確信である。そして、それは私たちが罪とその結果、すなわち、咎と腐敗、罪の力と悲惨から完全に贖われると言う確信である。積極面から言えば、永遠の栄光におけるキリストとの交わりを意味する。これこそが、私たちが忍耐深く聖書の中にある事柄を学ぶことによって、到達することができる「のぞみ」「希望」なのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第92課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・49・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・2・・・
「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった」(15:13)。
私たちは、このことが聖書について何を意味しているかをよく銘記しておかなければならない。第一に、それは聖書の歴史的真理性を意味している。もし、万一、聖書が真理でないとするならば、私たちは聖書から忍耐も慰めも希望も受けることはできないのである。古の神の民に対する全能の神の力強い働きと導きの記録が、もし真実でないとすれば、私たちには何の励ましにも助けにもならない。もし旧約の大部分が、自由主義神学者たちが言うように、信頼できないものであり、歴史的に偽りであるならば、それは宗教的意義も価値も全くないことになる。
現代の新正統主義神学者たちは、聖書は歴史的には偽りであるけれども、宗教的には真理であると主張する。これらの学者たちの一人の言葉がよく引用される。「エデンの蛇が実際に語ったかどうかというようなことは重要ではない。重要なことは蛇が喋ったかではなくて、蛇が語った事柄である」という言葉である。
私たちはこのような議論、聖書に対するこのような態度を不条理な詭弁であるとして拒絶するのである。聖書は歴史的に真理でなければ、宗教的にも無価値なのである。聖書の歴史的信憑性と宗教的真理性とは引き離すことは出来ないのである。そして聖書自身が聖書は真実であると主張しているのである。
第二に、この節は聖書の有機的一体性と統一性を教えている。それは、旧約聖書は新約聖書に劣らずキリスト者に対する神の直接的なみ言葉を伝える神の言葉であると言う意味である。聖書の一部分のみかではなく全体が、私たちを教えるために書かれたものである。
極端な神学者は、聖書のある部分を他の部分から引き離してしまう。すなわち、「この約束はイスラエルに対するものであって、教会に対するものではない」とか、「この部分はイスラエル人のためであり、この部分はキリスト者に対するものである」などと言う。このような考え方は誤りである。聖書のすべての部分がすべての人々のためのものである。「なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『然り』となったからである」(Ⅱコリント1:20)。
もし、神のすべての約束がキリストにあって「然り」となったのであれば、すべての約束はキリストにあるすべての人々のためのものでなくてはならないのである。 J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第92課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・49・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。・・・15:1~13・・・1・・・
「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった」(15:13)。
イエス・キリストは完全な非利己主義の模範であった。「キリストの模範は手本としてのみでなく、励ましとして常に私たちの前に掲げられている」(ホッジ)。
ここでキリストが手本として語られていることの中心主題は、その非利己主義である。キリストは自己を主張されたのではなく、ご自身の意志を天の父のご意志に従わせられた。彼は天の父の栄光のために自ら苦難の中を歩まれた。キリストに降りかかったそしりは、実は神へのそしりであったのだ。キリストがそれらのそしりを忍ばれたのは、父なる神のご意志と目的と、キリストご自身の意志と目的とは同一であると考えられておられたからである。
キリストの非利己中心主義について述べて、パウロは詩篇69:9を引用している。これはメシヤ預言の一つであって、メシヤとしてのイエス・キリストについて述べているものである。メシヤ詩篇として新約聖書の中に引用されている箇所はいくつかある(参照・ヨハネ2:17、15:25、19:28、使徒1:20)。
この事実は、詩篇の中にはキリストについては、何も語られていないと主張する人々が如何に間違っているかを示すものである。キリストが最高に自己中心であり、神のご意志に自らを従わせられたように、キリスト信者は、その兄弟たちの中に神のみ旨と目的とが完成されるように求めて、非利己中心的でなければならない。キリスト信者は自己の個人的なことについての配慮に勝って、他の兄弟たちの霊的福祉と教会の建徳を第一に考えねばならない。もし私たちキリスト者としての愛が本物であるならば、それは決して抽象的なものであってはならず、必ず具体的なものとなって現われるはずである。
「これまで書かれた事がらは、すべてわたしたちの教えのために書かれたものであって、それは聖書の与える忍耐と慰めによって、望みをいだかせるものである」(15:4)。「これまで書かれた事がらはすべて」という表現によって、パウロは明らかに旧約聖書全体を意味していることがわかる。
「これまで書かれた事がら」として表現されている旧約聖書は全体として(新約聖書ももちろんそうであるが)誤まりない神のみことばであって、神の啓示によって人間に救いと霊的福祉のために与えられたものである。だから私たちは聖書から忍耐を学び、慰めを受け、望みをいだかされるのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第92課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・48・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。・・・15:1~13・・・2・・・
「わたしたちひとりびとりは、隣人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである」(15:2)。
自分を喜ばすことを主張する代わりに、他人を喜ばすことを目指すべきである。「それ自体、何が正しいか、あるいは何に同意しうるかを問うのではなく、何が兄弟たちに益となり、喜ばすことが出来るかを問うべきである」(ホッジ)。「隣り人の徳を高めるために、その益を図る」ということは、私たちの兄弟たちが得を高める、すなわち、キリスト者として成長して、真の益を受けるように、私たちが行動するということである。私たちは兄弟たちを喜ばそうと試みるだけでなく、彼らの真の福祉と信仰的霊的利益を目指し、それらを求めなくてはならない。
勿論、兄弟たちの真の徳を建てるためには、彼らの迷い・疑念に応じるよりも、彼らの間違った考えに反対することによってできる場合もあり得る。私たちはこのような場合の典型的な事例を、同労者ペテロに関してパウロがとった行為に見ることが出来る。このことはガラテヤ書2章11~16節に記されている。
さらにこの出来事がきよい食物ときよくない食物に関してのことであったことは興味深い。ペテロは最初に異邦人と共に自由に食事をしていた。しかし、後になると「割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行った」のである(ガラテヤ2:12)。このような状況の中で、パウロは決して、次のようには言わなかった。すなわち、「ペテロは異邦人と食事を共にするという問題に関しては、弱いキリスト者であった。だから彼をつまずかせないように、アンテオケにいる間は私も異邦人と共に食事をすることを控えよう。私はこのような厄介な問題については触れないようにしよう」。パウロはそのようなことは決して言わなかった。それどころか反対に、彼はペテロを衆人の面前で非難した。非難すべきことがペテロにあったからである(2:11)。
しかし、この場合のパウロとその追従者たちの霊的益になろうとするパウロの真心とに動機づけられたものがあったことを銘記しなければならない。この場合は、真理への関心のみでなく、ペテロ自身の霊的益のためには、公然たる反論と非難が必要だったのである。他の場合には、パウロは他人の霊的益のために進んで自己を否定したのであった。
私たちの行動も、常に自己中心的であってはならない。私たちの意思も行動も、常に愛に満ちていなくてはならない。しかし、特別な場合には、状況によって、他人の建徳のためとなるための方法を考えて行動することが大切なのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第92課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・48・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。・・・15:1~13・・・1・・・
15章の最初の部分において、パウロが前章において教えた教理を、適切な理論によって確証して行く。15章は少しの区切りもなく、14章の議論を継続している。
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない」(15:1)。
この説は14章の議論の要約ともいうべきものである。ある種の食物を食べることが良いか悪いかということについての疑いや躊躇によって、煩わされない強いキリスト者たちは正しい。
これに対して、煩わされている弱いキリスト者たちに与える影響を無視して自分の思うままに行動しても良いということを意味することでは決してない。食物の合法性ということに関する限りにおいては、強いキリスト者は何でも好む物を食べる権利を持っている。しかし、弱いキリスト者に与える悪い結果を考慮しないで、その権利を行使することは利己的であって、キリスト者の愛の義務を無視することになるのである。
従って、強いキリスト者は「強くない者の弱さを担うべきであって」、自らから好むところを自己中心に主張して、行動すべきではない。すなわち、キリスト者の自己否定を要請される。そしてそれが要請されるならば、自ら進んで、また喜んでそれに応じるべきである。
ある人が、そのキリスト者の兄弟たちに対する態度において誤っているのであれば、彼が食物についての問題において、たとい正しくあろうとも、何の益になろうか。弱い兄弟たちの霊的な福祉に較べるならば、ある食物を食べるという自由などは、色褪せた無意味なものなのである。
しかし、このロマ書のこの部分を通じてわかるように、次のことをよく覚えておかねばなない。その考えには弱点があり欠点があるのである。すなわち、そのような考えは、彼らがキリスト教の原理を不完全にしか把握していないことから来ているのである。
悲劇的であるのは、彼ら弱い信者が、しばしば彼らの弱点を、反対に強い点だと見てしまうことである。彼らがそれを宗教的な原理の問題だと決め込んで、それを堅持するばかりか、彼らの考えを全教会に強制しようと試みるのである。道徳的には全く問題でない事柄について迷っていない強い信者の上にも、強制しようとするのである。
私たちはここで83課の文章を再度引用してみよう。14章でパウロは、儀式律法に従わなくてはならないと考えている人々は、教会の中においては例外と見ているのである。彼はそのような弱い兄弟たちには、愛と同情と忍耐とをもって、接しなくてはならないと説いているのである。しかし、同時に、これらの兄弟たちの考えは間違っているのであり、彼らが信仰において弱いことから来ているということを明らかにしている。弱い兄弟たちの考えが間違っているのであるから、それらの考えは教会全体の上に課せられる規則や信条とされてはならないのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第91課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・47・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23・・・
「しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である」(14:23)。
「その人が自分の行為を正しいとどんなに確信をもっているにしても、その確信に基づいて行動することを他人に期待してはならない。もしある人があることを悪いと考えているなら、その人にとってそのことは悪いのである。だから、神がある肉を食べることを控えるよう命じておられるかどうかについて人が、ためらいながらその肉を食べるならば、彼は明らかに罪を犯したのであって、自分を定罪の下に置いているのである。何故ならば、すべて信仰によらないことは罪であるからである。私たちがそれが正しいという確信がないことをするならば、それは私たちにとって悪いことなのである」(ホッジ)(14:14にも同じように教えていることに注意せよ)。
「罪に定められる(damaned)という訳語は正しい。しかしそれは永遠に滅びを意味しているものではなく、「有罪である」の意味である。弱いキリスト信者がもし、ためらいを感じている肉を食べて、自分の良心を欺く罪を犯しても、彼がその肉を食べる者は、救いの望みがないなどとは決して言っているのではない。
アルフォードは次のように解釈する。「キリスト信者がその中に生き、動き、また、願い、望んでいる大きな要素である信仰に根ざさず、したがって、それと調和しないことは全て罪である」。信仰と言う原則から出てこないことをキリスト信者が行なうならば、それはすなわち罪なのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第91課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・46・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23・・・
「あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい」(14:22a)。
「この言葉の中で、パウロは原則の譲歩や真理の放棄を要求しているのではないことを、今まで以上に強く主張している。彼は強い信者に有罪的でないものを有罪的であると信じることを求めたり、弱い信者たちの「ためらい」のために、彼ら強い信者にその良心を拘束せよと要求しているのではない。彼はただ 強い信者に、その自由を思慮深い寛大な仕方で行使しなさいと求めているに過ぎない。
だから、パウロは自分の信仰を神のみ前に、自分自身に持っていなさいと言っているのである(すべての肉の合法性を強く説得している)。すべての肉を食べることを止めないで、神のみ前にあるように、敬虔にそれを行使しなさいと言っているのである」(ホッジ)。
「自分自身に持っていなさい」(Have it to thyself)。この言葉は第一に私たちの信仰、すなわち弱い兄弟たちがためらいを感じている事柄は、実は合法的であるという確信をしっかりと持ち続けるようにとの教えなのである。強い信者たちはその信仰をしっかりと持つべきである。彼らはそれを捨てて、代わりに弱い兄弟たちのためらいを受け入れてはならないのである。
第二に、この言葉は、強い信者はその確信を公然と行動に移すことを主張すべきではない。すなわち、良心的なためらいを無視するという罪を犯さないでは、強い信者と同じ行動をすることができない弱い信者たちの面前では、強い信者はその確信を行動に移すべきではないことを教えている。強い信者たちは原則として、その信仰・確信を堅持することができる。しかし、弱い兄弟たちを霊的に傷つけてまで、それらの確信を行動に移すべきではないのである。
「神のみまえに」(14:22b)。これは「神の面前で」、「神が見ておられるところで」という意味である。「神が見ておられ、認識しておられるので、人々の前で見せる必要はないのである。それは私たちの心の中に密かに抱かれ、神に喜ばれ、受け入れられるような仕方で行使されるべきであり、これみよがしに、あるいは他人を傷つけるような仕方で行使されたり、誇示されたりすべきではない」(ホッジ)。
「自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである」(14:22b)。
やましくない澄んだ良心は大きな祝福であり、そのような良心を持つ人はさいわいである。良心が承認しない事柄を、自らおこなうことを許さない人は、やましくない良心を持っている人である。やましくない澄んだ良心はさいわいの根源であるから、22節の初めにある「信仰」、すなわち、ローマの強いキリスト信者が到達していた信仰は、まことに価値の高いものであって、決して放棄されてはならないものである。「自分自身が認めていることについて、少しもためらいを持っていないということはさいわいなことであり、その意味で信仰の強い人は羨ましがられるべき状態である」(アルフオード)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」