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第85課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・38・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・3・・・
「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれの心の中で、確信を持っておるべきである」(5節)。
ここで言われていることは、明らかに旧約の儀式律法にある種々の祭りの日に関してです。律法が清い肉と清くない肉とを区別したように、日についても区別していました。明らかに、あるユダヤ人キリスト者たちは、これらの日を従来の仕方で守らなければならないと考えていました。この信仰は誤っていました。それは彼らの弱い点でした。しかし、それは重大な事柄ではなかったので、それによって教会の統一性を損なわれることは許されないことです。
ここの個所は、ある人たちによって、安息日を守ることはキリスト者の義務ではなく、個人の好みにゆだねるべき選択的な問題であるとする議論の根拠として用いられてきました。しかし、これはここの個所のひどい曲解にほかなりません。文脈とガラテヤ書4:10やコロサイ書2:16のような並行聖句から見て明らかなように、ここでパウロはユダヤ教の祭りについて述べているのであって、その言葉をキリスト教の安息日に適用することは重大な誤りです。
ここの聖句が言おうとしているのは、「ある人はユダヤ教の祭りを守り、他の人は守らない」ということです。私たちの知るべきことは、使徒時代の教会において、週の最初の日、すなわち、主の日を守るべきことにおいて一致していた人々にさえもそのような事実があったということです(ホッジ)。
「各自はそれぞれの心の中で、確信を持っておるべきである」(5節b)。
ここでパウロは一人の人の良心が他人の行動を支配することはできないという原則を述べています。各人は自己の良心に従って行動すべきです。そして自分が間違っていると確信することを行うことは避けなければなりません。現代の教会においても、自分たちの良心に基づく確信を他人の行動の基準にすることに、神は定められておられると考えている人々がいるのです。このような人たちは他人に対して「君はこうしなくてはならない。何故ならば、私はそうすることが君の義務であると信じるからだ」とか、「君はそのようなことをするのを直ちに止めなければならない。何故ならば、私はそれが間違いであると思うからだ」などというような言葉を、あからさまに言わなくても、態度で示すのです。
これと同じような精神はパウロの時代のローマの教会に存在していたことは明らかであり、このような傾向に反対するためにパウロは「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と記したのです。もちろん、それは神のみ言葉によって正されるべきであって、他のキリスト信者の良心によって正されるべきものではありません。私たちは自分の道徳的問題を、だれか他人の確信を自分のガイドにすることによって解決することではありません。
私たちは自分自身の良心によって、神が私たちに要求しておられることは何かを確信させられなくてはならないのです。ある教会の人々が持っているこの考え、すなわち、神はとにかく他の兄弟たちの良心を支えるために、自分たちを指名されたのだとする考え方は大変な間違いであり、自惚れなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師
第84課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・37・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・2・・・
「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受け入れて下さっていたのであるから」(3節)。
「他人の僕を裁くあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」(4節a).
神は、その信仰において 正しく強いキリスト者が、その信仰において未熟であり、したがって臆病であるキリスト信者を裁くことを命じてはおられないのです。要するに、弱いキリスト者もキリスト者であり、したがって、キリストのものなのです。キリストこそ裁きの座に立つべき唯一の存在なのです。
パウロの時代もそうであったように、現代にあっても、教会の中には、自称「裁き主」が多くいるのです。そうして彼らは兄弟姉妹のキリスト者たちの意見や躊躇や迷いや行動について、裁きを下そうとするのです。そうして現代においては、弱い人々を強く裁くことだけでなく、その反対の状況をも見るのです。ですから、弱い者が強い者を裁くのです。キリスト教の筋道さえもよく知らない者が、傲慢にも長い信仰生活をしてきた人々を、その謙虚さに乗じて裁くのです。ある特定の事柄について躊躇している人々が、多くの強い人々によって寛容をもって、その未熟さを受け入れられていることによって満足しないばかりか、彼らの未熟な主張に全教会が従うことを要求するのです。そして、その線に従って不断に宣伝を続けて、教会の平和をかき乱そうとするのです。強い者であれ弱い者であれ、彼らすべてがパウロの問いかけに注目しなければなりません。
「他人の僕をさばくあなたが一体、何者であるか」(4節)。
「彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである」(4節b)。
神は弱いキリスト者をその弱い信仰と誤れる信仰にもかかわらず、救うことがおできになるのである。ここには、キリスト者兄弟に対する相互の寛容をもつべき理由が述べられています。ある人がたとい信仰においてどんなに弱いとしても、彼がキリスト信者であれば、私たちはその人を非キリスト者や部外者のような取扱ってはならないのです。
「兄弟たちは相互に責任を持つのではなく、また、教会に対して責任があるのでもないのです。神こそ良心の主なのである。神に対して応えなくてはならないのだ。神の前に彼らは立つのか倒れるのかなのである」(ホッジ)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師
第84課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・39・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・1・・・
「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受け入れて下さっていたのであるから」(3節)。
「ここでは、この問題について、キリスト者相互においてはなさねばならない寛容と忍耐とが教えられている。強い者は弱い人々を迷信的であるとか、程度が低いとか言って、軽蔑すべきではなく、また、弱い者も自らの躊躇や周到さを見過ごす強い人々を裁いたり、咎めたりしてはならない」(ホッジ)。
教会には、二種の人々がいます。一つは、信仰において強く正しい人々であり、他は信仰において弱く、誤っている人々です。しかし、それらの両方ともが存在していて、パウロは相互の寛容を命じているのです。
「神は彼を受け入れて下ったのであるから」。すなわち、神は弱い兄弟たちをも、その弱い信仰にもかかわらず受け入れて下さったのである。寛容の勧めは強い人々にも弱い人々にも適用されているのです。「恐らくユダヤ人改宗者たちは異邦人キリスト者たちを軽蔑し、異邦人キリスト者たちはユダヤ人キリスト者たちを裁こうとしていたと考えられる。パウロはそれらの双方に対して警告をしているのである。しかし、第1節や文脈から考えると、異邦人たちが主として対象にされていると考えられる」(ホッジ)。
現代の教会において、肉を食べるという特定の問題は重要ではありません。しかし、ここでパウロが述べている原則はすべての時代に有効でしょう。それ自体は良くも悪くもない問題―すなわち、聖書によって要求も禁止もされていない事柄―についての種々の見解は、キリスト信者の交わりを破壊するものであってはなりません。
現代に実例を挙げることは容易です。礼拝時刻が何時であるべきか、家庭礼拝における聖書朗読の計画などはその例です。主の晩餐の執行の回数などもそうです。このような例は幾つも挙げられます。このような事柄は正しいか正しくないかの明確な決定点を含んではいないから、キリスト教会の統一性や交わりを破壊する要因とならせてはなりません。
強い者は弱い者を軽蔑してはならないし、弱い者は強い者を裁いてはならないのです。
J.G.ヴォス著
第83課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・38・・・
第83課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・36・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・2・・・
「信仰の弱い者を受け入れなさい。ただ、意見を批判するためであってはならない」(1節)。ここでパウロは弱い迷っている信者たちを、その弱い未熟な信仰にもかかわらず、キリスト信者の交わりの中に入れるべきであると言っているのです。「信仰とは、ここでは真理の確信のことであって、人はある真理については確信を持っているが、他の真理については極めて弱い確信しか持っていないことがあります。初代キリスト信者の中には、イエスが救い主であることは疑いなく十分に確信していても、聖い食物と聖くない食物の区別が全く廃されたということについては疑念を抱いていた人々もいました。
これは当時のキリスト信者の生活における重大な欠点でした。それは義認の恩恵的性質についての知的な理解と確信の欠如に起因するものでした。しかしながら、この弱さはキリストへの真剣な献身と矛盾しないものでしたので、そのような人々も受け入れられるべきである」(C・ホッジ)。
「ただ、意見を批判するためであってはならない」(口語訳)。「その意見をさばいてはいけません」(新改訳)。
この箇所の解釈の鍵となる二つのギリシャ語があります。一つは「識別力」・「批判」・「眼識」で、もう一つが「人間の思考における、思想・疑い・躊躇」で、文脈を考慮して、「信仰の弱い人々を、キリスト信者として受け入れ、彼らに意見・見識を批判しようとしてはいけない」(ホッジ)と解釈するのが妥当なのです。
「ある人は、何を食べても差し支えないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる」(2節)。ある人は宗教的には何を食べても差し支えないと確信を持っている。しかし、他の人は信仰的に未熟なので、野菜類だけを食べるのです。このことは、すべての食物が同様に有益であるという意味ではなく、また、通常のキリスト者は健康のことを考えないで、何でも食べてよいという意味ではありません。
パウロは食物の健康上の善し悪しを言っているのではなく、宗教上における食物の問題についてビクビクしていることを述べているのです。宗教的根拠に関する限り、通常のキリスト者は何を食べても良いと確信しているのであり、どんな食物も宗教的根拠からは禁じられるべきではありません。すなわち、宗教的に腐敗を招くとか、汚れているとか言って禁止されるべきものはないのです。
旧約の儀式律法は野菜だけを食べることを要求してはいません。また、すべての肉を食べることも禁じてはいませんでした。ある種類のものは許され、あるものは禁じられていました。しかし、迷っていたユダヤ人キリスト者たちは特に異教世界の中で生きていたときには、すべての種類の肉を食べることや、調理された食物を食べることなどを恐れていました。それは律法に禁じられていた物を食べることによって、霊的に腐敗することを恐れていたからです。
彼らの食べ物を、口に入れる時に自然のままであるかどうかをよく確かめて食べ、そして野菜を食べることによって自分を制限していました。すべての潔くない肉や偶像に捧げられた食物を確実に避けるために野菜だけを食べていたのです。
J.G.ヴォス著
第83課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・37・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・1・・・
ここの個所においては、パウロは弱い兄弟たち、すなわち、それ自体は道徳的に中立であるいろいろの事柄について疑念や咎めを感じている人々に対して、キリスト者はどのように対処すべきかを述べています。私たちは、ここでパウロが論じている「弱い兄弟たち」というのが誰であるのかを正確に知ることではありません。
この点について諸説があります。しかし、最も妥当であると考えられる説は、弱い兄弟と言われている人々の多くは、ユダヤ人キリスト者たちを指しているのであって、彼らは食物についての儀式律法の命令を守っているばかりでなく、その命令の侵犯を恐れるあまり、行き過ぎてしまっている人たちであるとする説であります。
初代キリスト者たちの多くはユダヤ教的背景を持っていました。従ってキリスト者にとなった以後も、彼らは聖い食物、聖くない食物といった旧約の儀式律法を守らなければならないと感じていたのであります。食物の規則の他にも特定の祭りの日の規則などがありました。このようなことは明らかに諸教会の中に、特にローマにある教会の中に問題を引き起こしていました。もしこの問題が不注意に取り扱われたならば、深刻な事態が生じる可能性があったからです。
これを正しく理解するためには、先ず旧約の儀式律法に従わなければならないと考えている人々は間違っているということを理解しなければなりません。パウロはこの問題を両方とも正当であるとか、両方とも部分的には正しいとか言った問題として取り扱ってはいません。パウロは一方は正当で他方は間違っている問題として扱っています。そうして、正しい人の立場は誤った立場の人たちの取り扱いについて思慮を払わなければならないと言っています。
使徒行伝15章にある使徒会議は、儀式律法はキリスト者を拘束するかどうかという問題について、拘束しないという結論を下して決着をつけた会議でした。ローマ書14章において、パウロは教会において、儀式律法に従わなければならないと感じている人々は例外的存在であると見ています。パウロはこのような人たちを愛と同情と忍耐をもって取り扱わなければならないが、しかし同時に
それらの人たちのそのような考えは間違っていると言っています。
彼らは信仰における弱さのゆえに、そのような考えをするのであり、「弱い」というのは未熟の意味と考えてよいのです。弱い人々のこの考えは間違っているから、教会全体の上に課せられるべき教理や信条の中へ加えてはならないと言っています。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第82課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・36・・・
D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・
「あなた方は、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(14)。
ここでは、積極的な面が述べられています。キリスト者は闇の業を捨てるだけではなく、光の武具を着けなければならないのです。不節制や不潔や不和という、闇の衣を脱ぐだけでなく、その代わりに主イエス・キリストを着けなくてはならないのです。
「主イエス・キリストを着る」ということの意味は、「私たちの中にイエスが生きておられるのを、人々が認めるほどにキリストと密接に結びつく」ということです。それはまた、聖霊に満たされ、その導きの下にあって、私たちの生活が、周囲の人々に対して、キリストが生きておられることを示すようになることです。
「肉の欲を満たすことに心を向けるな」。
ここの「肉」を「肉体」と同一視する人がいます。しかし、それは正しくありません。「肉」という表現は不節制と不潔の罪を含むだけでなく、不和の罪をも含むものであると言わなければなりません。不和の罪は心の罪であって、肉体のみの罪ではないからです。パウロは、この書簡の他の個所で、「罪」を人間の人格のにおいで腐敗しているすべてのもの、すなわち、私たちの罪に汚れた有罪的人間性の意味で用いているのです。
ガラテヤ書5:19~21でパウロは、17節の「肉の働き」を列挙していますが、それらは肉体による罪だけでなく、心の罪をも入れています。すなわち、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、ねたみなどです。
もし「肉の働き」が心の罪をも含むのであれば、ここの「肉」を決して肉体の意味で、パウロが用いているというだけではない。それか私たちの罪に汚れた人間性全体を意味するものでなければなりません。従って、ここのパウロの勧め全体の意味は、「あなたがたの罪に汚れた人間性より出る欲望に、わが身を委ねてはならない」(ホッジ)ということです。
キリスト者はこれらの欲望を持っています。彼らは決してこれらの欲望から完全には解放されていません。それらはキリスト者にとっては依然として重荷であり、誘惑なのです。しかし、キリスト者はそれらに屈服してはならないのです。彼らは決してそれらの欲望に、自分たちの人生を牛耳らせてはならないのです。反対に、それらの欲望を屈服させ、制御し、十字架につけなければならないのです。そうしてこそ、夜明けを迎えることができるのです。キリスト信者よ、雄々しくあれ、キリストは私たちの首(かしら)として、すでにそれらに勝利しておられるのです。「勇気を出しなさい。わたしたちはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)のです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第82課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・35・・・
D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・
「それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」(12)。
永遠の夜明けが近づいているというキリスト者の信仰は、単に論理的な問題であるだけではありません。それはまた極めて実際的でなくてはなりません。もし「夜はふけ、日が近づいている」のであれば、個々のキリスト者は、どのように敬虔で熱心で真摯な生活を送るべきであるかを考えなくてはならない。人生とはなんと真剣な問題であるかを考えてみよ。もし私たちが「日が近づいている」ことを本当に信じるのならば、どうして自分たちの思考と注意を、自分自身の野心や快楽にのみ釘付けにして、人生を流浪することができるでしょうか。
パウロはここで「日は近づいた」という真理を、キリスト者は何故真摯で真剣な聖い生活を送らねばならないかの強力な理由として強調しています。「夜」と「やみ」と罪と悲しみを連想させ、「日」と「光」とは正義と喜びを想起させる。この世の悪はやがて過ぎ去り、永遠の喜びの朝が間もなく明けて来る。これが真理であるならば、私たちは闇の業を捨てて、光の武器を着けるべきである。私たちは恥とすることや、隠れて行うようなことを捨てなくてはならない。同時に、私たちは日の光にふさわしいものをもって自ら装うべきである。衣服を脱いだり着たりするという思想は、原語のギリシャ語から分かることである。「私たちは一揃いの衣服を脱ぎ捨て、もう一つの揃いの衣服に着替えなければならない。夜にふさわしい衣服を脱ぎ捨て、日にふさわしい衣服をもって装わなくてはならないのである」(C・ホッジ)。
「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」(13節)。
この個所は前節の思想の継続であって、どのような業をキリスト者は捨て去るべきかを指摘し、次の節においては、どのような業を身に着けるべきかを教えています。
パウロは先ず捨て去るべき三つの罪を指摘し、各々の罪に二つの用語を用いています。①宴楽と泥酔、②淫乱と好色、③争いとねたみ。①の類は不節制・放縦の罪、②の類は不潔の罪、③の類は不和の罪です。注目すべきことは、いかに広い範囲の罪が、ここで語られているかということです。ある人は罪はそのうちの一種の罪であり、また他の人の罪は他の種のものであるかもしれない。ある人は不節制の罪を犯さなくても、不潔の罪を犯しているかもしれない。また他の人はこれら二つの罪を犯していなくても、不和の罪を犯して、教会の平和を乱しているかもしれません。もし私たちが不断に不和の罪を犯して、神を悩まし、人々を不快に陥れているとするならば、たとい不潔や不節制の罪を犯していないとしても、神のみ前に決して喜ばれるものではありません。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第81課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・34・・・
D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・
「夜はふけ、日が近づいている・・・・」(13:12a)・・・2・・・
それでは、聖書の歴史観とは何でしょうか。聖書によると、キリストが十字架にかけられて死を遂げられ、次に死人の中から甦られた時、世界の終わりが始まりました。それ以前の全てのことは、カルバリの十字架のための準備的ものでした。それ以降の全てのことは、永遠を迎えるために、この世の事柄を完結させることの一部に過ぎないのです。Ⅰペテロ1:19~20.へブル1:1~2、9:26、Ⅰコリント10:11と比較すると良いです。
これらの聖句から、使徒たちや初代キリスト者たちは、神の日の数え方による終わりの日の中に生きていたということがわかります。私たちは今日は日常生活においてカレンダーの時によって生きています。しかし、もし私たちが聖書をよく理解しようとすれば、聖書の歴史観を把握して、神の時間の計り方を知らなくてはなりません。聖書の歴史観によると「万物の終わりが近づいている」(Ⅰペテロ4:7)のであって、キリストの再臨は近づき、彼は速やかに来られるのです。その理由は再臨は神のご計画における次の大きな贖いの出来事であるからです。更に、それは神の計画における最終の出来事であるとも言えるからです。それは、私たち一人一人の前方に巨大な軌跡として現れつつあり、それはこの世界歴史を実際に終止させるものなのです。
歴史の黄昏なのです。長くてもの憂い、罪と苦しみと戦いの時代は、ほとんど終わろうとしています。私たちはあとどれくらいの時間が再臨の前に残されているのかは知りません。しかし、それは構わないことです。この世界は現在のコースを終わりなく続けるのではありません。それは終末へと急ぎつつあるのです。時間は永遠に終結し、働きは休息に、信仰は現実となり、闘争は勝利に帰着するのです。
しかし、その終末はこの歴史の黄昏の彼方に、そして、その黄昏と長い長い夜は過ぎ去ろうとしています。新しい曙は近づきつつあります。それは永遠の曙であり、夜明けなのです。この世とこの世に属するものとは過ぎ去ろうとしており(Ⅰコリント7:31、Ⅰヨハネ2:17)、すべてのものが新しくされる永遠の世界が近づきつつあります。真摯なキリスト者はこの真理をしっかりと自覚して、日毎の生活を生きなくてはならないのです。「日が近づいている」ことを知っている者として生きなければならないのです。
永遠の夜明けについて考えることは、私たちを消極的になりやすい一つの原因は、聖書の歴史観を把握することに失敗しているからです。多くのキリスト者たちが主の再臨に与かることを熱心に望む代わりに、自分の計画や構想を完成させるまで、それを先送りにしようとするのです。私たちは自分の重要な仕事が進行中であるとき、人間の歴史の終末が今来ないことを願うのです。しかし、そのような態度こそ聖書の歴史観とは真っ向から背走するものです。
神の御思いは人間の思考に優っており、神の経綸は私たちの行動を越えています。私たちの計画の実施のために、私たちが神の贖いの出来事、すなわち、再臨や終末から、注視の目をそらすようになる時、私たちはもはや真の信仰的な態度ではなくなってくるし、また信仰によって歩んでいるとは言えないのです。神がしてくださる贖いの行為は、私たちの活動に優先するものです。私たちは自分たちの計画や働きを永遠の光に照らして行わなければならないのです。 永遠は絶対的に重要なのです。時間が相対的に重要であるに過ぎないのです。もし私たちが時間を永遠より重要であると見るならば、私たちはもはや聖書的な立場と聖書的な歴史観に立っているとは言えないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第81課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・33・・・
D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・
「夜はふけ、日が近づいている・・・・」(13:12a)
ここで言われている「夜と日」とは何かを考えてみなくてはなりません。一つの解釈は、「夜」とはユダヤ人たちがキリスト教を迫害することが可能であった時期を意味し、「日」とはAD70年におけるエルサレム陥落と共に来る新しい時を指すとする考えです。しかし、この解釈は余りにも狭すぎて文脈に合いません。その上、ユダヤ人の迫害の終結は初代キリスト者にとって本当の助けとはなりませんでした。その理由は、その迫害が終わると共に、引き続いてローマ帝国による長期にわたる、更に過酷な迫害がやって来たからです。
もう一つの解釈は、「夜」は現在のキリスト者の生活を指し、「日」は、永遠の生活を指すとするものです。この解釈は、先の解釈に比べて説得力があり、部分的には正しいと言えましょう。
第三の解釈は「夜」は、人間の堕落以来のこの世界の歴史を指し、「日」は罪とは絶対的に無関係な永遠の世界を指すとするものです。「日」「主の日」「かの日」など、パウロ書簡や聖書の中の用法を考慮すると、この第三の解釈が最も正当であると考えられています。
従って、「夜は更け、日が近づいている」という言葉の意味は、「この富の成果の長い歴史は終わりに近づいている。そして新しい永遠の時代の夜明けが近いている」ということです。勿論、これはキリスト再臨の実際の時が近づいているかを知るのに、ある手掛かりを提供するということではありません。「その日、その時は、だれも知らない」(マタイ24:36、マルコ3:32)のです。パウロ自身も現代の私たちが知っている以上のことを知ってはいないのです。それは人間には啓示されていないからです。ここで意味されていることは、私たちのカレンダーの時において、再臨が近いということではなく、聖書の歴史観による近さを意味しているのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第80課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・32・・・
D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:11~14・・
「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、このことに励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでに来ている。なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日は近づいている。・・・」(11,12節a)。
ここで「眠りより正に目覚める時である」と教えられていますが、ここでの「眠り」というのは、霊的無関心、または霊的無気力の状態の象徴です。世の楽しみや事業に没頭していて、神や自分の魂・永遠と言ったことについては、僅かしか、あるいは全く無関心である人々は、霊的睡眠の状態にあるのです。真のキリスト者でさえも、一時的にはこのような霊的睡眠の状態に陥ることは稀ではありません。彼らは神に関する事柄について無気力、無自覚的になることが時としてあり得ることです。
霊的に眠っている人々は目を覚まさなければなりません。パウロは今こそ目覚める時であると言うのです。その理由として、パウロは、私たちが初めて信仰者となった時より、今や救いは近づいてきていることを付言しています。
ここでの「救い」とは、私たちが死に際して罪より完全に救い出さていること、あるいは復活の時に私たちが罪とその結果の腐敗から、完全に救い出されることを意味しています。さらにこれら二つのことを共に含んでいると考えてよいのです。
私たちが主と共になる日、あるいは主の再臨の日のいずれを考えていようと、私たちが初めに主を信じるようになった日に比べて、大いなる救いが私たち一人一人に近づいてきていることは真実です。この思想こそ、すべてのキリスト者がそのキリスト者生活を不断に目覚めて生きて行くのに、大きな励ましとなるべきものです。
今日の教会の中において、ここでパウロは語っているような意味において、霊的に眠っている多くの会員たちがいます。これらの人々がみ霊によって再生しているかどうかは、神のみが確かに知っておられるのです。しかし、聖書の簡単な引照もできず、先の人の祈りの繰り返ししか祈ることが出来ず、礼拝にはごく稀にしか出席せず、出席しても上の空で会堂の中をキョトキョト眺め回している人々、ダビデ王がバプテスマのヨハネより先の人物か、後の人物かを言うことすら答えの出来ないような人々、このような教会員は霊的に眠っている人たちです。
これらの人々は、今こそ目覚めるべき時なのです。おそらく、そのような名前だけの教会員は救われていないかもしれませんし、ある人たちは生まれ変わってはいるが、長い間にわたって霊的成長が止まってしまっているのです。今こそ、このような人たちがその眠りから目覚めるべき時なのです。このような霊的睡眠の状態の教会員が存在することこそ、今日の教会が無気力化し、形骸化し、それと対照的に種々の異端や疑似教会がはびこる理由なのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙研究」
第80課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・31・・・
C キリスト者の社会的義務
「社会において果たすべき義務」 13:8~10
「互いに愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである」(13:8)。
パウロがここで、決して果たし切ることが出来ない義務である愛の場合を例外として、その他のすべての社会的義務は、これを果たすことがキリスト者の義務であること教えています。
この箇所をキリスト者は借金をしてはならないとか、何物も借りてはならないことを教えていると考える人たちがいます。しかし、このような考え方は、ここの箇所の意味を正しく把握していません。ここで命じられているのは、借りは返さなくてはならないということです。私たちは借りを放置しておいてはならないのです。もちろん、私たちは将来返済できる確かな見通し無しに、借財をするべきではありません。それは他の箇所において認められています。
「ここでの命令は、すべての負い目、租税、その他、何であれ、すべて負うているものは返しなさい。しかし、愛の義務だけは依然として返されないまま、残っていることを覚えていなさいと言うことです」(C・ホッジ)。
たとえ、お金や奉仕などのすべての負い目を返したとしても、依然として隣人に対する愛の義務だけは残っているのです。
「隣人に対する愛の義務」 13:9、10
「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する」(13:9)。ここの言葉と8節で言われたことを確認すると同時に、私たちの隣人に対する愛とは、彼らに対する単なる善意ということに留まらないで、隣人に対する私たちの行為の中に表れてくるものであることを教えています。
もちろん、これらの戒めは、単に「~するな」という消極的な意味にのみ解釈されるべきではありません。積極的に理解されて、反対の徳の実践を求めていることを銘記すべきです。他人に害を与えないばかりか、善を図らなければならないのです。
「愛は隣り人に害を加えることではありません。だから、愛は律法を完成さるのである」(13:10)。「愛はその対象となるものの幸福を喜ぶものであるから、自分の愛するものを害したりすることから私たちを守り、結果的に、私たちを導いて、すべての律法の要求するところを果たせるのです。何故ならば、律法は友人の最善の益とならないようなことは何も要求していないからです。だから、パウロは自分を愛すると同じような真摯な愛をもって隣人を愛する者は、律法を完成すると言うのです。自分が同じ環境の下に置かれたときに、してもらいと思うことを、隣人に対して行う者は、律法を全うするのです。だから、律法全体は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という一つの律法に置いて理解されるのです」(C・ホッジ)。
ここで言われている律法というのは、隣人に対する律法、すなわち、第5戒以下を指しています。律法には、神に対する直接的な義務を教える1~4戒がありますが、ここではそれらは論じられていません。隣人愛がキリスト教のすべてであるとする考えは誤りです。十戒の第一の石の板には神への愛、すなわち、直接的な神への義務が記されていることを忘れてはなりません。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙研究」
第79課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・30・・・
B キリスト者の市民的義務・・・16・・・
13:5~7・・・15・
「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・7・・
政治的不同意を唱えると言う改革長老教会の立場に対して、ローマ13:1~7が持つ意義を考えるに際して、避けなければならない第二の誤りは、この聖書の言葉は現代のキリスト者ではなくて、将来に実現されるべき理想的なキリスト教国家に適用されるべきものであるとする見解です。
この見解を取る人たちの論は、パウロが神とキリストとを正しく認識していない不道徳な政治に服従せよなどと、キリスト者に命じるはずはないと言うものです。このローマ13:1~7は、明白に、政府への服従を命じているのですから、パウロの意味する所は、キリスト者は未来に実現するキリスト教的政府に服従すべきであるということに相違ないと主張します。
私たちは既に以前に、このような解釈は不可能であることを第74課で指摘しました。パウロは「現在存在している権威」のことを語りました。ここの「上に立つ」「存在している」の原語(ウーサイ)は、現在分詞形であるであり、パウロはこの書簡を書いていた当時に存在していた権威以外を意味することは有り得ないことです。74課で学んだことをもう一度繰り返しますと、パウロがここで論じていることは、為政者の支配する権威のことでも、また邪悪な支配者への服従の正当な服従の限界のことでもなく、上に立つ為政者に服従することはキリスト者の義務であるという単純な原則なのです。
為政者が邪悪な人物であれば、その政府を取り除いて、代わりにより良い政府を立てることは、神のご計画であるということも完全な真理です。キリスト者が為政者に対してしなければならない服従に明確な限界があることも全く真理です。しかし、パウロが教えていることは、現在、上に立っている為政者が、神の摂理の中に存続している限り、彼らに服従することが、キリスト者の義務であるという根底的な真理でもあります。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」