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第79課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・29・・・
B キリスト者の市民的義務・・・15・・・
13:5~7・・・14・
「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・6・・
この政治的不同意という問題に対して、ローマ13:1~7が特に持っている意義を考えるにあたり、二つの誤解を排除しなくてはなりません。第一はローマ13:1~7は改革派長老教会の政治的不同意の立場を否定しており、私たちに現在の憲法の下で投票し、選ばれれば公職に就くことを要求しているという人々がいます。私たちは上に立つ権威に従うことを命じられているからには、投票し、選ばれれば公職に就くことは、私たちの義務でなければならないと論じるのです。
この議論は極めてもっともらしく聞こえますが、実は正当な論ではありません。何故ならば、それは混乱した思考に基づいているからです。それは市民的義務を上に立つ権威の機能と混同しています。法律に従うことと、税を納めること、上に立つ権威に従うこと、これらはみな市民的義務であります。これらは市民的、或いは民間の領域に帰属するものです。
他方、公職に就くことや、他人に公職に就くように投票することは、民間の領域に属することではなく、政治的な事柄です。公職に就いている者は、上に立つ権威に従っているのではなく、彼自身が上に立つ権威の一人に他ならないのです。投票する者も、公職も政府に従っているのではなく、彼ら自身が政府なのです。民主主義政治において、投票する者が支配者であり、すべての投票者が政府の一部なのです。政府の性格、政治、活動を決めるのは投票者であります。投票は政治活動であり、支配者の機能なのです。
神のみ言葉は「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである」と命じていますが、これは投票することや公職に就くことによって、上に立つ権威の一つになることが、キリスト者の義務であると言う意味では決してありません。もしキリスト者が投票したり、公職に就いたりすべきでない本当の理由があれば、これらの政治的行為を差し控えることがキリスト者の義務なのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第79課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・28・・・
B キリスト者の市民的義務・・・14・・・
13:5~7・・・13・
「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・5・・
国家権威への忠誠を内容とする制定された宣誓書が、国家の憲法に述べられたり、意味されている非キリスト教的原則の受け入れを含んでいるかどうかとかを確認することはキリスト者の義務です。もし、国家権威への忠誠の宣誓が明確に、もしくは必然的な含意によって、反キリスト教的・無神論的、或いは世俗主義的原則を支持することを要求しているならば、そのときはキリスト者は忠誠の宣誓を拒否しなくてはなりません。
国家権威への有罪的な忠誠の宣誓や、政府や反キリスト教的・無神論的主義諸原則に反対して、キリストこそ、すべての国家の上に権威を持っておられることを証言することは、キリスト教会の義務です。教会がその教会会議において、政府に対して忠誠を誓うことが、キリストへの忠誠を損なうこととなったり、政府の有罪的な諸原則を支持することにキリスト者を巻き込むことになるという決定を下すならば、教会はその会員に対して、そのような忠誠の宣誓を拒否することを要求しなくてはなりません。
指名であれ、選挙であれ、採用であれ、キリスト者が公職に就こうとする場合、教会がその教会会議において正規の手続きを経て、その場合、主への正当な服従以上のものを約束することにはならないし、また間接的にも直接的にも国家政府の非キリスト教的原則を受容することにならないと決定した場合のみ、国家政府への忠誠の宣誓を正当にすることができます。
選挙において、キリスト者は政府に関する聖書的原則に従っている人々だけに指示を与え、投票すべきです。もしキリスト者自身が選挙によって公職に就くことを求めるのであれば、自分自身がキリスト教的原則に堅く立脚した政治活動をすることを、支持を求める人々に明確に表明しなければならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第79課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・27・・・
B キリスト者の市民的義務・・・13・・・
13:5~7・・・12・
「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・4・・
ローマ書13:1~7の解説を終わる前に、参考として、改革長老教会(カベナンター)が掲げる「国家政府の憲法に対し不同意をとなえる権利について」と言う原則に対して、ここの聖句が持つ意義を見ておくことは有意義です。この問題についての改革長老教会の公式的な対話は、同教会の「証言集」の第30章に述べられています。この証言集は1963年の大会において交付されたものです。
改訂された第30章は、キリスト者は全て、国家の保持者であり支配者であるイエス・キリストの権威と律法とが明白に承認されるように祈り、また、そのために労しなくてはならないと主張しています。キリスト者は、彼らに与えられた市民としての権利を行使することが、キリストへの忠誠を損なうことがない限り、その権利を最高度に有効に行使すべきです。他方、キリスト者はキリストの王権を認めず、無視し、否定するようなことに加担するようなすべての権利・特権を放棄しなくてはなりません。
キリストへの不忠誠を含まない場合には、キリスト者は、神を恐れ、真理と
正義を愛し、国家政府に関する聖書的原則に即っていることが明らかな為政者を選択すべきです。キリスト者が、イエス・キリストへの至上の忠誠を損なうような、国家への忠誠を誓約することは罪です。また、キリスト者が自分自身良心に従ってすることができないような宣誓を要求されていることや役人や公務員を選ぶことに参与することも罪です。
すべての国家為政者に対して、キリスト者が約束することができる唯一の服従は、主にある正当な服従なのです。この範囲をこえることは全て有罪的です。公職に就く場合、この範囲を越える宣誓が要求される時は。キリスト者はその宣誓を拒否すべきです。個々の状況の中におけるいろいろな事実や環境が、宣誓することを有罪的にしてしまうことを宣誓することは教会の議会権能の中にあることです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第78課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・26・・・
B キリスト者の市民的義務・・・12・・・
13:1~7・・・11・
「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・3・・
「だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの仕事に携わっているのである」。(5~7節)
「彼らは神に仕える者として、もっぱらこの勤めに携わっているのである」(6節)。
ここで国家及び為政者たちは正当な機能を忠実に果たすことにおいて、神に仕えるのです。国家は彼ら為政者たちのためにあるのではなく、また政府も国家のためにあるのではありません。両者とも神のために存在するのです。この事は肝に銘じておく必要があります。
数多くの全体主義国家においては、官僚たちは極度に傲慢で尊大になってしまっており、その結果、小役人でさえもが傲慢かつ尊大な態度をとり、あたかも彼らが一般の人々に対して大きな恩恵を与えて、生存させてやっていると考えているかのようです。
これらの全体主義国家においては、役人たちは、国家は国民のためよりも彼らのために存在すると考えやすいのです。彼らは公共のために奉仕しようと努める代わりに、公共が彼らを支え、彼らに奉仕するために存在すると錯覚してしまうのです。このような考え方は完全に誤っています。
政府と役人は人々の利益のために存在するのです。彼らは神の僕であって、人のために存在するものです。このことは民主主義国においてのみでなく、いかなる政体の国についても真理でなければなりません。パウロがこの書を書いたとき、ローマ帝国は決して民主主義の国ではありませんでした。しかし、それにもかかわらず、為政者たちは民の利益のために働く神の僕であると、パウロは述べています。
為政者たちが神に仕えるという自覚を持っていない無信仰の人たちであったとしても、神のみ心においては、彼らは人間社会における神の御目的のいくつかを達成させる神の僕であると考えられるのです。非キリスト教国家の非キリスト者の為政者に対する時でも、キリスト者は神のこの観点から事柄を見なければなりません。
キリスト者は、為政者たちは悪を抑制するために存在させられているのですから、非キリスト者役人たちでも、その不信仰にもかかわらず、神によって神の御目的達成のために用いられているのであると考えるべきです。キリスト者は政府を政府そのものとしてではなく、人間社会における神の御目的達成の手段と言う観点から、聖書が見ているように政府を見なければならないのです。
「あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果たしなさい。すなわち、貢を納むべき者は貢を納め、税を納むべき者は税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい」(7節)。
為政者たちは人間社会の利益のために神に立てられているのですから、私たちは当然、彼らに対して義務を果たさなければなりません。このことはただ法律を守るというだけに留まるものではなく、もっと積極的に、経済的にも、また私たちの影響感化によってでも、彼らを支え、支持してゆかねばなりません。
ここでの「貢」とは不動産などに対する税を指し、「税」とはいわゆる「税金」のことです。また「恐れ」と「敬い」とは、程度の違いはあっても、「恐れ」は目上の者に対する特有の尊敬を表し、「敬い」は同等の者に対する適切な敬意を表す言葉です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第77課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・25・・・
B キリスト者の市民的義務・・・11・・・
13:1~7・・・10・
「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・2・・
「だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの仕事に携わっているのである」。(5~6節)
しかし、ここに唯一の例外、すなわち、キリスト者は国法に従うべきであるという原理に対して、唯一の例外があります。それは国法への服従が神の律法への不服従を含んでいる場合です。その時には、人に従うよりは神に従うというキリスト者の義務の原則に立つことになります。
例えば、かつての宗教団体法のように、神の福音を宣教するのに、政府の許可を得なくてはならないとか、政府が福音の宣教を禁止するようなことがあります。このような法律はキリスト者によって無視されねばならないものです。
その他、国家が迷信を強制したりするような場合もそうであります。靖国神社国有化問題なども、こうした方向への立法運動であります。このような法律は「神のものをカイザルへ捧げること」を強要するものであると言うべきことです。
私たちはキリストから福音を宣べ伝えることを命じられています。キリストの命令は国家の法律によって妨げられたり、国家によって許可されなければ従うことができないようなことはあってはならないことなのです。
同じように、迷信宗教を強制されるような法律も、ダニエルの三人の友人によってなされたように、服従を拒否しなければならないのです。また、信教の自由を拘束するような法律も服従拒否されなければなりません。神はすべての人々に対してキリスト者になることを命じておられます。ですから、いかなる法律もそれを禁ずることは出来ないのであります。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第77課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・24・・・
B キリスト者の市民的義務・・・10・・・
13:1~7・・・9・・・
「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・1・・
「だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの仕事に携わっているのである」。(5~6節)
パウロはここで為政者への服従と言うことが、国家によって市民に課せられている義務ばかりでなく、それが宗教的な義務である、すなわち、神への良心的服従の一部であるということを教えています。私たちが合法的な為政者の命令に服従しなければならないのは、そうしなくてはならないばかりでなく、そうすべき義務があるからなのです。
私たちが従うのは怒りを逃れるためばかりでえなく、すなわち、刑罰を恐れるためのみでなく、神への良心的な献身の問題であるからなのです。このことは私たちは違反に対して逮捕されたりする可能性や危険性があるときにのみでなく、そのような可能性にない時でも、常に遵法市民であるべきことを意味しています。私たちは結果に対する恐れではなく、それを容易に破ることができる場合でも、法律に従わなければならないのです。
このことは神のみ言葉に教えられているところであって、為政者に対するキリスト者の義務の崇高な理念なのです。このことが真剣に考えられて、キリスト者は常に遵法行為の模範でなくてはならないのです。例えば、所得税申告などにおいても、正確かつ誠実でなくてはならないのです。それは不正直に対する罰があるからではなく、所得税をごまかすことは、実は神に対して罪を犯すとだからです。
神のみ言葉は、私たちが公正であり正当であると信じる国法のみでなく、たとい不公正であり不当であると考える法律をも、それが法律である限りは、従うべきことを要求しています。個々のキリスト者は国家の法律の中から、どれに従うべきか、どれには従うべきではないかを選び決定する権威は、与えられていないのです。
キリスト者はすべての法律に従うべきであって、彼にとって不公平であり不当と見做されるものにも、従わなければならないのです。いずれの国においても、一部の人々や一つの階層の人々にとって不公平と思われるような法律があります。しかし、その理由でそれらを無視する権威はだれにもないのです。反対する人々は、それらを取り消すために、合法的な運動をする権利はあるけれども、それらが国法である限り、キリスト者の義務として従わなければならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第76課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・23・・・
B キリスト者の市民的義務・・・9・・・
13:1~2・・・8・・・
「政府の機能と権力」・・4・・
パウロはまた、為政者には悪を制し、悪人を罰するために、権力を行使する権威があるとも教えています。「彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである」(4節)。「剣を帯びる」ということは、権威、警察権、裁判権を意味します。正義の維持のためのすべての刑罰を意味します。もし国家が殺人者に死刑をもって罰すべき権威を神から与えられているとすれば、強盗や偽証や放火などに対して、罰金や懲役をもって罰する権威をも所有しているのです。
今日、死刑について感情的な反対論があります。多くの人々が宗教的人道主義的論拠から、これに反対します。しかし、殺人者に対する死刑は、旧約においても新約においても認められていることを覚えなければなりません。聖書は殺人者に対する死刑を認めているばかりでなく、それを要求しているのです。いかなる政府といえども、神のみ言葉の要求を変更する自由を持っていないのです。宗教的根拠から死刑に反対する人々は、明らかに罪の恐るべき実在性と神の聖と義を考慮していないのです。単なる情緒的な宗教観しか持っていないと言えます。
私たちが今考えている聖句は、また、平和主義に対しても意義を持っています。国際間の問題について軍事力を行使することは常に悪であると主張する人々は、この問題についての聖書の教えをよく理解していないと言わなければなりません。もし為政者が「いたずらに剣を帯びているのではない」のであれば、必要な時には、悪に対して力を行使する権威を与えられているのです。しかし、国内における核を抑制するために力を用いることと、国際間の悪を抑制するためにそうすることとの間に、原則的には区別はありません。
拳銃を発射しながら逮捕に抵抗する殺人者に対して、警察官が正当防衛のため射撃することが正しいと同様に、国家が外敵に対して自己を防衛するために、軍事力を使用することは正しい。すべての国際問題は軍事力の行使なしに解決できるとする考えは、人間の心の邪悪と罪の本質とを、聖書が教えているように理解していないものと言えます。
ここで注意すべきことは、私たちは力の行使については、あくまで慎重でなくてはならないし、自分だけが正しいとする偏見を厳しく排除しなければなりません。戦力の行使についても同様です。これは決して単純な問題ではなく、安易な決定を下してはならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第76課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・22・・・
B キリスト者の市民的義務・・・8・・・
13:1~2・・・7・・・
「政府の機能と権力」・・3・・
13章3、4節で、パウロは国家は善事をなす者を賞賛し、悪事を行う者を罰するためにあると述べています。「善事をするがよい。そうすれば、彼らから褒められるであろう」12:3b)。ローマ帝国は当時キリスト者を迫害していたのに、パウロは何故このようなことを言うのかといぶかる人々がいます。しかし、その理由は簡単です。パウロが言っているのは、例外的な環境や条件下の政府について述べているのではなく、通常の状態下の政府について語っているからです。
ローマ帝国は常時キリスト者を迫害していたわけではありません。聖書の解釈において、私たちはうっかりすると歴史的、時間的要素を忘れがちです。使徒行伝に描かれている初代教会において、ローマ帝国がキリスト者を保護していた時、キリスト者を迫害したのはユダヤ人たちです。また、エペソにおけるように、異邦人たちがキリスト者に対して迫害を加えることも時折ありました。しかし、記憶しておかなければならないことは、エペソの出来事は政府官憲によって扇動されたものではなくて、私的な妬みによるものであり、ローマ帝国に従う地方官憲によって鎮圧され、秩序が回復されたことです。
パウロは当時の暴動者たちが官憲によって、その騒乱行為について責任を取らなくてはならないとされたことを思い起こしているのです。このように、私たちはエペソの銀細工人たちによって、引き起こされた動乱に際して、ローマ帝国が正義と法と秩序を維持したことを見るのです。パウロのローマ市民権はユダヤ人たちの暴力から彼を再三にわたって保護しているのです。このような初期においては、ローマ帝国は多くの欠陥をもってはいましたが、正義と法と秩序を守る機能を果たしていたのです。
勿論、後になると、大きな変化が起きました。70年(AD)にエルサレムが滅亡すると共に、ユダヤ人たちは舞台から去りました。そしてローマ帝国はキリスト者の迫害計画にのり出してきました。パウロが「善事をするがよい。そうすれば、彼らからほめられるであろう」と言った時、勿論、彼はキリスト者を迫害する政府は一つもないだろうと言っているのではありません。現にパウロは善い事をしたけれども、ローマ帝国によって斬首されているのです。しかし、迫害は結局、例外的なものであって一般論においては、善いことをなし、法を守る者は、国家によって保護されるとういうことは真理なのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第75課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・21・・・
B キリスト者の市民的義務・・・7・・・
13:1~2・・・6・・・
「政府の機能と権力」・・2・・
勿論、国家は神が立てられた人間社会に存在する制度の一つに過ぎません。その他に神が立てられた制度には、家庭と教会があります。これらのものの何れも固有の領域をもっています(領域主権)。そして、それらの何れもが他の領域を犯すべきではないものです。もし、政府が教職(牧師・監督など)の任命権を要求するような立法を企てるならば、それは国家が教会の領域を侵害するものというべきです。また、国家が、もし両親に対して宗教教育を施すことを禁じるような立法をしようとするならば、それは家庭の固有の領域を侵すことになるのです。聖書によれば、国家の機能には限界があるのです。国家は教会や家庭の機能を奪うことは許されないのです。
過去と現在の全体主義国家においては、国家または為政者がすべてのものを奪おうとする悪い傾向が発展してきたのを見ます。全体主義国家は家庭や教会をますます狭い領域の中に押し込んでしまう一方で、人間生活の領域により広く支配権を伸ばしていきます。あらゆる組織や活動は、国家の偉大さと栄誉を増進するように志向することを、国家が要求するのです。このことをしないのは不必要と見做されて、禁止されたのです。
両親たちはますますその子供たちを国家の支配に服させるように強制され、教会は国家の意思するままにならなければ、その存在や活動を許されないのです(日本基督教団の成立事情を想起してください)。人間の自由は、すべてのものが全体主義国家の支配のもとに置かれていくに従って、ますます失っていくのです。
西側国家や日本のように民主主義国家においては、この傾向は全体主義国家に較べると少ないけれども、やはり国家官僚が支配力を及ぼす領域はときとしてステイティズム(国家の経済統制・共産主義に対比して言われる語)と呼ばれることがあります。国民の生活や行動をより多く統制しようとする政府の中に見られます。事業、農業、教育その他の多くの活動が、ますます政府の統制と支配の下に置かれるように進む傾向にあります。民主主義国家における官僚主義です。さらには国家が民間と競合して、企業活動をしようとする傾向も現れます(専売公社)。
国家が産業や事業を統制したり調整したりすることは、必ずしも悪いことではありません。それらをすることが正義の維持のために本当に必要で、ある程度までは、それらは合法的であり至当です。勿論、ここで言う正義とは、個人の不法行為を罰するというだけの狭い意味に解されてはなりません。人間社会における正義というのは、人と人の間、集団と集団との間の公平さを意味します。国家は人と人の間、集団と集団との間において、この正義が維持されるように、監視する裁定者なのです。もしある特殊な活動、例えば郵便等のような事業が政府の公営であることを、正義が要求するのであれば、それは国家がそのようにすることの保証となるのです。
しかし、国家がすべての領域の中に足を踏み込み、人間の生活の多くをますます奪うならば、それは確かに悪いことであり、啓示された神の御言葉にもなることなのです。このことは、個人のみならず家庭や教会が、神の与えられた権利と機能を持っており、国家はそれを奪うことが出来ないという事実から明らかです。
確かに全体主義や国家統制は、国家の機能や目的についての聖書の教えに反するのです。神は決して、政府や為政者が人類のすべての要求を満たす全能者としてはおられないし、人間の主の目的が国家の偉大さや勢力の伸長にあるとも言ってはおらません。国家は、人間社会の正義-すなわち、最も正当にして広い意味における正義・公平さ―を維持することによって、罪の結果を抑制するために建てられた神的制度なのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第75課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・20・・・
B キリスト者の市民的義務・・・6・・・
13:1~2・・・5・・・
「政府の機能と権力」・・1・・
「いったい、支配者たちは、善事をなする者にはっ恐怖ではなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである」(3,4)。
ここでパウロは為政者に対する服従のもう一つの理由を述べられています。すなわち、服従が私たちキリスト信者の義務であるばかりでなく、為政者たちの悪を抑制し、善を推進するという目的をもっているからです。この二つの節の中に為政者の機能についての聖書的教理が明示されています。要約して言うと、神によって立てられた為政者の機能は、人間社会における正義の管理です。
政府は罪の存在のために必要です。もし人間が罪に落ちていなかったとすれば、国家と言うような機構が出現していたかどうかという問題は議論のあるところです。国家に類するような何ものかが存在していただろうと考えることもできましょう。しかし、罪に汚れた現在の世界に存在するものとは非常に違ったものとなっていたでしょう。何故ならば、罪に汚れていない世界においては、権力の行使は不必要であり、罰すべき犯罪や邪悪は皆無であったと考えられるからです。
罪なき世界においては、国家は単に人類の有機的統一の表現に過ぎず、相互協力という目的のためにのみ存在し、邪悪の抑制のためではないのです。しかし、罪の世界においては、国家は邪悪の抑制のために存在するのです。国家は神が罪を抑制し、人間社会を守られる方法の一つなのです。
政府という制度についての最初の明確な啓示は、創世記9:6の「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」です。「殺人は死刑をもって罰せられる」というこの命令は、この命令を執行するある種類の制定された政府の存在を含意しています。
聖書を通じて、政府の存在とその役割についての多くの教えを見ることが出来ます。そして、政府の第一の機能が、人間社会に置ける正義の保持にあることを明確に教えています。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第74課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・21・・・
B キリスト者の市民的義務・・・5・・・
13:1~2・・・5・・・
「したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむくものである。そむく者は自分の身にさばきを招くことになる」(13:2)。為政者に対する服従が義務であれば、不服従は罪であり、罪を犯す者は罰を受けるのです。この「さばき」というのは、為政者による罰を言っているのではなく、神のさばきを指してします。何故ならば、パウロは服従を神が求められる義務として論じ、不服従を神に逆らう罪として論じているからです。
パウロがここで論じていることは、支配している為政者の権利ではなく、為政者に対するキリスト信者の服従の義務であるということを、私たちはしっかりと見極めておくことが重要です。為政者が支配権をもっているかどうかということと、キリスト者が、神の摂理のうちに現存しているすべての為政者に対して服従すべきであるということとは、別の事柄であります。
キリスト者が悪い為政者に服従する限界は何かということは、さらにもう一つの別の問題です。これら三つの別の問題が明確に区別されていないと、いたずらに混乱と間違いが生じてくるのです。13:1~7で、パウロは為政者の支配権を論じて、また、悪い為政者に対する服従を言っているのではなく、服従の限界は何かを論じているのではありません。パウロが述べているのは、上に立つ権威に服従することがキリスト信者の義務であるという単純な原則なのです。
為政者がよこしまな人物であって、神がその政府を取り除いて、代わりに良い政府を立てられることが神のご計画であるということも真理です。キリスト信者の為政者に対する服従には、或る正当な限界があることも全く真実です。しかし、パウロがここで教えているのは、神の摂理の下に存在する権威が存続する限り、その権威に服従すると言うことが、キリスト信者の義務であると言うことです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第74課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・20・・・
B キリスト者の市民的義務・・・4・・・
13:1~2・・・4・・・
13:1で、パウロが「上に立つ権威」は、神によって立てられていると教えられていることを見てきました。すなわち、ある意味で、それは神のご意思に適って存在しており、神の許容と摂理によって存在しているのです。たといそれが御子を崇め仕えることをせず、その故に、神を喜ばすものでないとしても、神はそれが存続し、人間社会において機能することを許容しておられるのです。
「この聖句(1,2節)は、君主政治、貴族政治、民主政治、また、それらの変形のあらゆる政治形態の下で生きている人たちに適用されることができるのである。権威の座にある者は、どのようにして、また、誰によって任命されたにしろ、その領域内においては服従されるべきなのである。存続している限り、神によって任じられているのが、上に立つ権威なのである。パウロにとっては、ローマ皇帝が、上院によって、軍によって、あるいは人民によって指名されていると言うことや、シーザーが皇帝権を持つのが正当かどうかということや、シーザーの後継者たちが正当な権威継承権をもっているかどうかということなどはあまり重要ではないのである。
彼が意図していることは、為政者は服従されるべきであるという単純な原則を提示することである。この服従の限界は各々の場合の性質から決定されるべきなのである。彼ら為政者たちは合法的な権威を行使する限り、服従されるべきなのである。パウロが妻たちに夫たちに従いなさいと命じる時、妻たちは夫としての彼らに従う事を求めているのであって、事業主とか君主とかのように、彼らに従うことを求めているのではない。子供たちは親としての親たちに従うことが求められているのではない。他のすべての場合においては、決して強力なものではない。・・・私たちが為政者に服従するのは彼らがその権威を神から受けているからである。政府というものは、神的制度であるばかりでなく、その政府が存続している形態や、その働きによってその政府が機能を果たしている人物などは、神の摂理によって決められているのである。どのような程度の為政者であろうと、すべて神の指定により行動しているものと見倣されるべきである。神が個々の為政者を指名されるということではないが、その為政者が存在すべきであることが神のみ旨であるからには、実際に権威をまとっている者はすべて、服従を要求する権威を持っていると見做されるべきであるというのが神の御意思なのである。
この聖句の命令には、服従そのもの範囲には限定はあるにしても、服従の対象に関する限り、限界はないのである。すなわち、私たちは現在上に立っているすべての権威に対して、それらの権威が合法的であろうと見做されたものであろうと、正当であろうとなかろうと、服従すべきことが命じられているのである 。実際に君臨している皇帝は、ローマのキリスト信者たちがその王権についてどう考えようと、彼らによって服従されるべきであった。しかし、もし、皇帝がその権威の範囲を越えて、偶像を礼拝することを要求するならば、彼らは人に従うよりは、神に従うべきであったのである。これこそ、すべての人間の権威の限界なのである。人間の服従が、神への服従と対立するときはいつでも、不服従が義務となるのである」。(C・ホッジ)
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」