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第73課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・19・・・
B キリスト者の市民的義務・・・3・・・
13:1~7・・・3・・・
主イエス・キリストである神の御子に授けられた権威と、獣に与えられた権威との間には、中間地帯的な権威の領域が存在します。その領域の権威は、ある意味においては、神から出ており、神によって定められていますが、最高の意味においては正当ではなく、神を喜ばせるものではないのです。現世に存在するが、主イエスを認めず、それに従わない政府の権威がそれであります。非キリスト教的政府は、最高の意味においては、神によって認められているものではなく、神に喜ばれるものではありません。
その理由は、彼らは詩編2:10~12に命じられているにもかかわらず、神の御子を認めず、それに従わないからです。他方、現世の政府と黙示録13章の獣の王国との間には大きな相違があります。現世の政府はキリストを崇めることをしません。しかし、一般的な意味においては現世の政府は市民政府としての機能を果たしています。
即ち、法律を維持し、秩序を保ち、犯罪者を取り締まるなどです。彼らが政府としての適切な機能を果たしている限り、それは神によって認められているものであって、その法律に従うことは、私たちの義務なのです。神の摂理のうちに、それは私たちにとって、上に立つ権威なのです。
パウロは13:1~7において世界に現存する非キリスト者政府のことを言っているのではなく、未来の理想的なキリスト教的政府のことを述べているのであるという人がいます。この理解は大いに誤っています。パウロは現存する政府のことを言っているのです。ギリシャ語は明らかに現存する権威を意味しているのです。
この言葉は現存しない未来の理想的政府を意味するのではない。唯一の解釈は、パウロはこの手紙を書いた時、現存していた政府(ローマ政府)について述べているのです。彼は一貫して現在形を使っています。読者に現存する政府に服従し、税を支払い、服従することを命じているのです。読者たちに服従せよと命じられているのは、その時代に存在していた政府なのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙」研究」
第73課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・19・・・
B キリスト者の市民的義務・・・2・・・
13:1~7・・・2・・・
キリスト信者は、上なる権威に服従するよう命じられているのです。さらに、パウロは「神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」と述べられています。私たちはこの言葉の意味を考えなければなりません。
神は全ての権威の究極的根源であられます。両親が子供の上に権威を持つのは、その権威が神に由来するものであるからであり、為政者が権威を持つのも同じ理由からです。このことは正当で道徳的な権威についてばかりでなく、サタンの権威についても言えるのです。ヨブ記を見ると、サタンは神より与えられている権威の外には、何らの権威も持っていないのです。或る意味において、神はサタンに与えていると言えます。
新約では、サタンとその王国の権威について語られています。サタンが如何なる権威を持つにしても、それは神より来ているのです。もちろん、このことはサタンのなすことが神を喜ばせ、神の律法に調和しているという意味では決してありません。
復活後、イエスはその弟子たちに言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18)。これは最高の道徳的意味における権威です。それは神に喜ばれる、神が承認される、神の律法に調和する権威です。他方、黙示録13:5は、海から上がって来た獣に与えられた権威について語っています。この権威は、究極的には神に由来するものですが、邪悪で不道徳で神の律法に反するものです。 J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙」研究」
第73課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・18・・・
B キリスト者の市民的義務・・・1・・・
13:1~7・・・1・・・
「上にある権威に対する服従」・・13:12~2・・1・・
第1節のギリシャ語は、「権威」と訳されるべきで、「力」とか「権力」とか訳されるべきではありません。力と権威とは同意ではありません。かつて、米軍の元帥が共産軍の捕虜たちに誘拐されたことがありました。この将軍は共産軍の手中にある間は、権威はあるけれども権力はないのです。共産軍は、この場合、権威はないけれども権力は所有しています。銀行で銃を構えている容疑者は、力はあるけれども権威はないのです。これを逮捕しようとしている警察官は権威と権力を共に持っていると言えます。このギリシャ語は単なる権力とか力とかの意味、すなわち、ある意味において、また、ある領域において承認された権威を意味しているのです。
この語は、常に、その最も高い意味における正当な権威、すなわち、神がそれを裁可され、その律法に合致する権威を意味するとする主張が試みられてきました。しかし、そのような試みは、権威と言う語の用法をよく検討する時に、誤りであることが分かりました。この語の用法は新約の中におけるサタンとその王国についても用いられているからです。
幾つかの例を挙げると、いずれの場合でもギリシャ語の権威の訳として、英語では力、日本語では支配・権力・権威が使われています。ルカ22:53「今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。使徒26:18「彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のもとへ帰らせ」。エペソ2:2「空中の権をもつ君すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って」。エペソ6:12「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威とやみの世の主権者」。コロサイ1:13「やみの力」。コロサイ2:15「もろもろの支配と権威との武具を解除し」。黙示13:4「龍がその権威を獣に与えたので」。黙示13:5「この獣には、また、大言を吐き汚しことを語る口が与えられ42か月のあいだ活動する権威は与えられた」。黙示13:7「そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた」。黙示13:12「先の獣の持つすべての権力をその前に働かせた」。
これらの例から、このギリシャ語は、神の律法に適合する権威に限定されるものではなく、サタンの権威にも用いられているのです。
従って、ローマ13:1「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」という日本語口語訳も、新改訳も、新共同訳も適正です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
第72課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・17・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・16・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・12:3、14~21・6・・
「愛する者たちよ、自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(19節)。
「愛する者たちよ」という呼び掛けは、結論を導く重大な内容を述べる時のパウロの手法です。私たちはここで再び報復や復讐を求めるべきではないという厳粛な禁止を見ます。世は不断に復讐について語っているけれども、キリスト信者として私たちはそのように考えるべきではないのです。戦争中の国家であっても復讐を求めるべきではないのです。復讐ということはキリスト信者の思想や精神からは程遠いものです。むしろ、私たちは神の怒りに道を譲り、復讐することは神に委ねることを命じられているのです。
慈しみ深くある共に絶対的に義である神は、悪を行なう者に対しては必ず報復をされるのです。神はその絶対的な正義に従って、悪をなす彼らに報復されるのです。如何なる罪といえども見逃されることはないのです。神は全ての人に対して、悔い改めてキリストにある神の恵みを求めない限り、彼らの業に応じて報いをされるのです。
「むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』」(20節)。
この言葉は箴言25:21,22から取られたものであり、その意味は明らかです。この言葉は、内外を問わず、公然たる敵に対して戦争がなされてはならないということを意味するものではない。戦いが終わった時、私たちはそれと戦うことが私たちの使命であり義務であったところのかつての敵であった人々の福祉を求めるべきであるという意味であります。そうすることによって、彼らを救いに導く魂のはげしい痛みを覚えさせるのです。憎しみに対して愛をもって接するならば、相手に大きな感動を与え、それが原点となり、悔い改めと救いに導く機会となるのです。
「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。まさに、崇高で堂々たる命令です。神の主権的統治を背後に明確に認識したキリスト教の道徳倫理の水準の高さを明瞭に示す命令です。初代教会のキリスト信者たちは、このような教えに立って日々の生活を生きていたのです。彼らは謙遜な勇気について教えたばかりでなく、それに立脚して生きたのです。
悲観論と絶望の中に、人生の大切さの確信を喪失してしまっている世界の中にあって、初代のキリスト者たちは道徳的な聖潔さと真摯さと勇気ある謙遜をもって、人生を生きたのです。彼らはこの世的な尊さと偉大さという観念に無関心であろうとし、また、それに挑戦したのです。世の人々はかれらの高潔な態度と人格に驚嘆したのです。神の恵みにより、私たちも彼らの足取りを辿ることができるものでありたいものです。 J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙」研究」
第72課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・16・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・15・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・5・・
「すべての人に対して善を図りなさい」(17b)(provide things honest in the
Sight of all men) Charles hodgeは英語の欽定訳聖書は、残念ながらここの箇
所の正しい意味を伝えていないと言います。彼によれば、「パウロは私たちに自分自身や家族に対して、正直で誠実な仕方で接しなさいと言っているのではなく、人々の信頼と好意を引き起こすように行動しなさいと教えているのである」。ギリシャ語訳旧約聖書の箴言3:4「あなたは神と人との前に恵みと、誉れとを得る」のギリシャ語は、ここの17節のそれと酷似していると言います。
「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」(18)。
この箇所は平和を維持することができないような場合があることを想定していると言えましょう。自国を防衛し戦わねばならない時もあるかもしれないし、また神の真理を護って戦うべき時もあります。「ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように」(ユダ3)。邪悪と戦わないことが裏切りとなるようなときもあります。私たちが必ずしも常に平和を維持することができるとは限りません。
時としては闘うことが義務である場合があります。しかし、戦争は常に悪なのです。時としてやむをえない、また避けられない悪かも知れません 。しかし、とにかく戦争は悪なのです。戦争のための戦争の存在を信じることは出来ませんし、論争のための論争のそれも信じることは出来ないのです。
理想は平和です。何を犠牲にしても平和をではなく、出来る限り平和を、なのです。「出来る限り」ということは、平和よりも貴重で重要なものを犠牲にしても平和をということではないという意味です。ここでパウロはすべての人と平和に過ごすことを語っているのであって、私たちの友人や隣人とだけの平和ではなくて、すべての人との平和なのです。すべての人というのは、私たちを嫌ったり、攻撃したり、害したりする人たちも含んでいるのです。
これこそが謙遜であり、柔和なのです。誤解されたり、臆病とみなされながらも、敢えて平和を図ろうとする謙遜な有機なのです。キリスト者は平和を愛する人たちであると人々に知られなければならないのです。戦争そのものをたたえるものでは決してありません。戦争を憎み、どうしても避けられない場合にのみ、それに頼るのです。個人的関係においては、良心に反して行動することなしに、そうすることができる限り、平和と善意を求めるのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙」研究」
第72課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・16・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・15・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・4・・
「高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい」(mind not high things,but conecend to men of low estate)(16a)。これらの言葉を自分の生活と性格の中に取り入れることができる人は、真に偉大な人格の持ち主です。アブラハム・リンカーン大統領は、その地位にありながら、少しも尊大さがなく、社会の底辺で生きている人々と語り合えることが出来る人でした。それが出来る人は真に立派な紳士であると言えましょう。
自分の体面や尊厳を保つことに汲々とする人は、このような事はできません。あまりにも自分を意識し過ぎているからです。
私たちは、キリスト者として、へり下って、低い地位にある人々と交わるべきです。結局、神のみ前には、私たちは皆、低い地位にある人間だからです。神に対して人間は取るに足りない者です。謙遜さと柔和さという恵みを受けているキリスト者は、自分自身の尊厳を保とうとすべきではありません。キリスト者は、他人と折り合ってゆくことを困難させるような、いかなる固定観念を持ってはならいはずです。
「自分を知者だと思いあがってはならない」(be not wise in your own conceits)。いい気になって、自分を知者だとするようなという意味です。「知性について誇ることや、周りの人々より自分が勝っていると思うことほど、有害な種類の誇りは他にありません。このような考えは、他人の見解を蔑視したり、自分自身に自惚れることを引き起こすのである。福音が私たちに求めている気質とは、幼児のような従順、謙遜、柔和さなのである」(ホッジ)。
「だれに対しても悪をもって悪に報いず」(Recompence to no man evil for evil)(17a)。ある時、一人の宣教師が、キリストの福音について僅かしか聞いていない人から、天国について質問を受けました。その質問の一つは、「この世にいる間に、自分をひどい目に合わせた人々を、天国において復讐することができるだろうだろうか」というものでした。
その宣教師は彼にこう答えて、「復讐しようなどと考えるような人は、天国に全く入ることは出来ない」と答えました。だれかに復讐しようという欲求は、罪の汚れた心の自然な傾向であろう。しかし、このような願いは邪悪なものであって、私たちはそのほかの罪に汚れた考えと共に、取り除かれねばないないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙」研究」
第71課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・15・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・15・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・3・・
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(15節)。
ここではキリスト者の同情が教えられています。視野の狭いキリスト者は自分のことだけに忙殺されていて、他の人々の事情や悲しみを思う余裕がありません。しかし、謙遜で柔和で自己中心的でないキリスト者は、自分のことのように他人の喜びを共に分かち合うのです。これは実に難しいことですが、主はこれを求められるのです。
「互いに思うことを一つにし」(16節)。このことは一致と同意が真理の道理に於いてなされて良いということでは断じてありません。もし教会の会員の一人が偽りの教理を教えて、聖書の真理を否定しているとすれば、私たちは彼と一致すべきではありません。平和と調和だけのために、神の真理を犠牲にして一致することは間違いであり、神の前に有罪なのです。現代の諸教会は外面的な和合と調和ののみを尊重するが、それは偶像礼拝に外ならないのです。それは真理と義を犠牲にしたうわべだけの一致を追及することです。教会の外面的和合のために、教理的または実際的諸問題をめぐる真剣な討議や討論を避けようとする人々があります。そのようなことをするとすれば教会の平和が乱だされるのではないかと彼等は心配するのです。また、そうした諸問題を正規に従って教会に付託することにも反対論があって教会の平和が乱れるのではないかと憂いるのです。どんなに犠牲を払っても達成すべきその様な和合というものは聖書の中に語られてはいないことを銘記しなければなりません。聖書は常に真理と正義を犠牲にして和合を求めることなどは決して命じてはいないのです。もし現代の教会が、外面的和合と一致の追及に熱心であるほどに、神の栄光を求めることに熱心であろうとすれば、期待をはるかに超える神の祝福が注がれていたことでしょう。
しかし、ここの聖句は確かに、私たちは反対を許容することができないような頑迷な心をもつべきではないことも教えています。私たちはすべてのことについて、ある雑誌に助言を求める一通の手紙が掲載されました。その手紙を書いた女性は、自分はいつでも自分の思う通りにしたいし、彼女の夫もまた彼の思う通りしたいと望みました。それで、彼らが幸せな家庭をもつためには、どうすべきかについて助言を求めているのです。しかし、幸せと和合という祝福を受けながら、同時に何時も自分の思う通りにすることを言い張る方法は存在しないのです。
私たちは、和合のために私たちの正しい主義原則を犠牲にすべきではありません。しかし、他方では、私たちは自分自身を主義原則と呼んでいるものが、実は自分の思う通りにするための単なる頑迷さと自己主義な願望に過ぎないのではないかを、常に確認しなければならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙」研究」
第71課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・14・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・14・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・2・・
さて、12章には謙遜と柔和とが強く勧められていることに注目しましょう。まず3節には「思うべき限度を越えて思いあがる」と、私たちが容易に逸脱して行くように誘われる状況が描写されています。注意深く考えてみると、このような巧みな誘惑に免疫である者は誰一人いません。
自己の素質、人格、業績、重要さについて過大な評価をしようとする誘惑から逃れることが出来る人はいない。もし、私たちがキリスト信者の謙遜を身につけているならば、神の恵みが私たちに、ますますこのような利己的な誇りと傲慢さとを征服させて下さるのです。
さて、14節には迫害下の行動について教えられています。「あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」。この言葉はキリスト信者にキリスト教迫害者の要求に屈服せよと教えられているのではありません。ここで教えられているのは、迫害者に対する私たち自身の態度・姿勢のことであって、私たちは彼らを呪う代わりに、祝福しなくてはならないと言っているのです。彼らが私たちに悪を行う場合、悪に対して悪をもってではなく、善をもって報いるべきであると教えているのであります。
キリストの死後260年に、ローマ政府によって不当に死刑に処せられた監督キプリアヌスが逮捕された時、ローマの法廷で裁かれ、ローマの神々に捧げ物を捧げるように命じられました。その時彼は断固としてそれを拒否しました。裁判官は彼に注意深く答弁するように忠告し、彼の答弁如何にかかっていることを告げました。その時キプリアヌスは、「あなたの義務を果たしなさい。このことは全く考慮すべき余地のないことです」と答えました。このため、彼は斬首の刑を宣告されたのでした。彼が宣告を聞いた時に言った唯一の言葉は、「神に感謝する」でした。死刑執行日には多くの群衆が集まっていました。その中の多くは彼の友人であり、彼の尊敬者たちでした。刀を構えた執行人はその執行にあたって、震えていました。キプリアヌスは膝を屈して祈りを捧げ、それから彼はその財産の中から25個の金貨を執行人に贈り物として与えることが彼の最後の願いであることを表明しました。こうして彼は誰にも憎悪を示めさなかったばかりでなく、キリスト信者にとっては死ぬことも益であるという真理を深く印象づけたのでした。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙」研究」
第71課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・13・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・13・・・
「キリスト信者の謙遜と柔和の義務」・・12:3、14~21・・1・・
この章ではキリスト者の謙遜と柔和について多く教えられています。しかし先ず柔和(meakness)と言うことの意味は何でありましょう。3節はその意味を殆ど余すところなく明らかにしています。「自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う、思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」。柔和は謙遜、慎み、心の低いことの意味です。また、穏やかさ、忍耐などもこの柔和という言葉に関連性があります。
謙遜と柔和ということは、実は一種の勇気、むしろ最高の勇気がいることでもあります。私たちは柔和や謙遜を勇気とは反対のことのように考えやすいものです。しかし、実際には、それらは最高で最も気高い勇気を要するものなのです。柔和と謙遜とは、人生のおける多くの現実に対して、毅然として直面してゆく静かな勇気なのです。それらは私たちに悪を赦すことが出来るようにする勇気であるとともに、自分から「すみませんでした」と言って、率直に自分の誤りを認めて許しを求めさせるようにする勇気でもあります。
更には、それらは、狼狽することなく、患難に直面させる勇気でもあり、重大な不正に直面しても、冷笑的、侮蔑的になることなく、冷静に対処させる勇気ともなります。
謙遜は偉くなろうとする野心を、敢えて捨て去り、低い所に甘んじ、その環境の中において、最善を尽くして、神を喜ばせることに、喜びを感じさせる勇気でもあり、また、自分を誇りや虚栄や自己中心主義を捨てさせ、謙虚な無私の態度をとらせる勇気でもあります。
私たちはみな生来、おそろしく臆病者なのです。私たちは人の下になることを極度に恐れ、自分のこの世的な誇りや野心を捨てることを極度に嫌がり、悪かったと自己の非を認めることをいたずらに恐れます。許しを求めることも苦しみに耐えることをも恐れるのが人間の生来の性質です。
私たちは道徳的に極度に臆病です。しかし、キリスト信者は謙遜と柔和の恵みを受けているのであって、あらゆる状況に直面しても、神の力によってそれらを乗り越えて克服してゆく力を与えられているのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
「ローマ人への手紙」研究
第70課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・12・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・12・・・
「キリスト教的勤勉愛の義務」・・12:11~13・・1・・
「熱心で、倦むことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい」(11~13節)。
ある人が「信仰のために生きることは、信仰のために死ぬことより、はるかに困難である」と言ったことがあります。確かにこの言葉は大いに真理性があるものです。現代の情勢下においては、そのようなことはありそうにもないと見えるかもしれません。しかし、鋭い情勢分析をすれば、そのようなことの危険性が絶無とは決して言えないのです。とにかく、私たちは信仰のために生きるように召されています。すなわち、霊に燃え、主に仕えるように召しを受けているのです。もし私たちが本当に救いに与っているのであれば、また、もし神の御霊が私たちの心と生活の中で働いていないのであれば、私たちは信仰の熱心さにおいて死んでいると言わねばなりません。
この勤勉と熱心さは、私たちの日常の生活の中において、また信仰の熱心さの中において表われて来るのみでなく、11節においてみられるように「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈る」ことにおいて表われてくるのです。私たちは常に深い幸福感に満たされているのです。それはキリスト信者の希望、すなわち永遠の栄光の希望があるからであって、これらのものは「目がまだ見ず、耳がいまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自身を愛する者たちのために備えられた」(Ⅰコリント2:9)と言われているものに他なりません。
この幸いは、現在私たちが持っている多くの患難に勝って、より深いものなのであります。私たちは神の摂理のうちに、患難に耐えるように召されているのであり、患難に耐えることによって、キリスト者の熱心を示すのであります。
一つの物語があります。サタンが商売のために外出して、最高の入札者に、その道具を売ろうとします。彼は競売をするに当たり、自分の最低値の値札を一つ一つの道具につけるのである。ほとんどすべての道具に通常の値札がつけられたが、一つだけ(木片に契)状の道具があり、それには非常な高値の札が付けられていた。一人の人がサタンに、何故、こんなありふれたものに、そんな高い値札を付けたのかと尋ねた。サタンは答えて、「これは特殊な道具で、全ての他の道具が出来ないことでも、これは必ず成功するのだ。それの名は失望というのだ。私は他の道具や方法や誘惑で影響を与えることが出来ないキリスト者の幸福を破壊するときには、いつでもこの道具、すなわち失望という道具を使用するのである」と言いました。
祈りの最大の敵は失望です。信仰とキリスト者の熱心によって、これは克服出来るのです。バンヤンの天路歴程の失望者の物語を思い出してみてください。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究
第70課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・11・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・11・・・
「キリスト教的勤勉愛の義務」・・12:11~13
「熱心で、倦むことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい」(11~13節)。
ここでは勤勉と言う言葉によって要約される8つのキリスト者の義務が語られています。
第一に、キリスト者は多忙な人でなくてはなりません。すなわち、仕事に怠惰であってはならないのです。日常の生活において、またその仕事において、積極的であり、勤勉に励む人でなければならないのです。このことは勿論、病気や高齢や障害のために働くことができない人々を除く、すべての人々について言われているのです。多くの資産や動産を所有する人たちもあるでしょう。しかし、もしその人がキリスト信者であるならば、怠惰や無為のうちに日を過ごしたり自己本位の快楽の中で埋没することはないはずです。
なぜならば、神はすべてのキリスト者に対して、多忙で勤勉な日を送ることを求めておられるからであります。生活のために働く必要のない人たちでさえも、神に仕え、神を喜ばすために、働かなければならないのです。働かないことは罪なのです。神は人間を働くように創造しておられるのです。「6日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ」というのは、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という命令と共に、神の戒めなのであります。怠惰と無為のうちに日を送ることは、安息日に不必要な業をすることと同じく、神の道徳律法を犯すものであると言わなければなりません。
次に「霊に燃え、主に仕え」とあります。「霊の燃え」とは熱心であるといえましょう。主に仕えることにおいて熱心でなくてはならないのです。私たちは自分の信仰について、果たして熱心であるでしょうか。多かれ少なかれ、それが不愉快な業務だと感じてはいないでしょうか。私たちは喜んで信仰のために命を捨てるだけの決心があるでしょうか。古の殉教者たちのように。
共産主義は世界の半分を獲得しています。そして誰もが、真の共産主義者たちがその共産主義信仰に熱烈であることを知っています。しかし、彼らがその奉じる主義・信仰のために喜んで犠牲を払い、必要とすれば生命さえも惜しまないという事実は厳然と存在するのです。現代のキリスト信者は闘うことを忘れつつあるのではないでしょうか。もしそうであれば、その理由は、共産主義者たちがその主義・信仰について考えているほど、真剣にキリスト信者たちがその信仰について考えていないことによると言わなければなりません。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
第70課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・11・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・11・・・
「キリスト教的愛の義務」・・12:9~10・・・2・・
「兄弟愛(フィラデルフィア)をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい」。
ここで特に私たちは他のキリスト者兄弟姉妹に対する愛を要求する命令を与えられています。「互いにいつくしみ、」〈kindly affectioned〉の原語は、御子との間の強い自然の愛情を表す言葉です。そして、この語はすべての種類の愛にも用いられている。「ここの意味は『キリスト者はもっと近い親族であるかのような真実と優しさをもって愛し合うべきであること』が求められているのである」(ホッジ)。
しかし、もしそうであるならば、この点について、わたしたちはどんなにか足らないことでしょうか。ある教会は殆ど憎悪と敵意のある壺と言ってよいくらいであって、会員は会員に対し、グループはグループに対して、敵意をもって向かい合っています。ときとして、会員になるだろうと思われる人が、このような敵意を内にもっていて会員となることを拒否するのです。
「進んで互いに尊敬し合いなさい」。これは謙遜の勧めです。しかし、「進んで」と訳されている言語は「導く、前を行く、手本にする」です。ホッジは「尊敬をもって、互いに人を自分より勝っていると思いなさい」と解説していて、さらに「これはただ礼儀正しさということのみでなく、全ての行為において、尊敬と親切とを優先させることである。他人が自分に対して尊敬や栄誉を帰するのを待っているのではなくて、私たちが先んじて尊敬の心をあらわさなくてはならないのである」と述べています。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」