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第69課 キリスト者生活の実践的義務
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・10・・・
「キリスト教的愛の義務」・・12:9~10・・・1・・
「愛には偽りがあってはならない」(let lave be without dissimulation)
Dissimulationとは猫かぶり・偽善の意味であります。9節の「愛」は全ての人に対する愛を指しており、10節の「兄弟愛」はキリスト信者同志への愛が語られています。従って、私たちは人々に対する愛において、真実で偽りがなく、偽善があってはならないと教えられているのです。
ただ言葉だけで行いの伴わない一種の愛のようなものが存在します。それは単なる装いであり、見せかけに過ぎないのです。私たちは隣人に対する愛について百万言も語ります。しかし、彼らの必要に対しては目を閉じて、良きサマリヤ人の例え話の中のレビ人のように傍らを通り過ぎてしまう者なのです。真のキリスト者生活に中には偽善や偽りの入る余地はないのです。人々に対する私たちの愛は真摯で純粋でなくてはならないのです。
「悪は憎み退け、善には親しみ結び」。ここの「悪」と「善」という言葉は、道徳的な善悪を意味していると理解されています。そしてこの勧めは一般的なものであるとされています。しかし多くの注解者たちは文脈上から、限定的な意味に解して、前者を非道なこと、後者は親切という意味の理解しています。従ってこの箇所の意味は、「愛は真実でなくてはならない。他人を傷つけるようなことは避け、親切で益になるようなことをするように努めよ」となります。いずれの意味にも取りうるけれども、文脈上からは後者の方が良いと考えられています(C.ホッジ)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
第69課 キリスト者生活の実践的義務
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・9・・・
「兄弟姉妹たちの助けになろうとの配慮」・・12:4~8・・・2・・1
時として、他の人が間違いを犯したり失敗をしても、また彼が私たち自身ならばできると思うほどうまくその働きができなくても、私たちは気にかけてはならないのです。神が私たちを置かれた個々の立場において、私たち各人は神への各自の奉仕にひたすら心を用いるべきなのです。もし私たちが教会において特別な役職にあるならば、その職務について忠実に神に仕えねばなりません。もし私たちがそのような役職にないのなら、私たちは置かれた個々の立場において、他の兄弟たちのために役立つように心を用いるべきなのです。
教会内で起きる種々の紛争の多くは、少数の人々の干渉好きなこころによって起こされるのです。「他人のことにおせっかいをする」ことは、神のみ言葉において禁じられており、殺人や盗みと同列に置かれているのです。「あなたがたのうち、誰も、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人を干渉する者として苦しみに合うことのないようにしなさい」(Ⅰペテロ4:15)。
この罪はけっして稀なものではなくて、悪魔をして教会破壊させる機会となるべきものです。時々、教会員の中の一人か少数の者が、絶えず牧師や長老・執事たちの欠点探しをすることがあります。彼らの行動が害を及ぼして、教会全体が沈滞してしまうことがあります。しかし、こうしたあら探し屋たちはキリスト教会の奉仕は何一つしていないのです。それどころか、彼らのお節介が教会を破壊してしまうことがあります。
もし正当な不満や批判があるならば、個人的に友情と尊敬とをもって直接に言うべきであります。もしそれらが聞き入れられなければ、正規の手続きに従って教会の法廷に提示されるべきです。しかし、密かな陰口や批判は有罪であることを銘記しなければなりません。
ここで私たちは一つの例を挙げることが出来ます。自動車を例にしましょう。全ての部品は、それぞれの機能を果たすように製作されています。スパークプラグはキャブレターの働きをすることは出来ないし、キャブレターはハンドルの役目を果たすことは出来ない。各部品はそれぞれ独自の機能を持っています。各部品が調整して機能を果たすときのみ、自動車は安全に走行出来るのです。従って、運転者は全ての部品を調整して十分に機能させることによって、安全な運転が約束されているのです。
自動車が走行不能になるのは、微細なトラブルによることが多いのです。一本のワイヤーが切れていても車全体の安全な走行を確保することは出来ません。一滴か二滴の水がディストリビューターの内側に入るだけでエンジンが不調になってしまいます。2、3人の教会員が躓きを与えたり、教会全体のために奉仕することを怠ることによって、どんなに多くのトラブルが教会内に起こることでしょう。教会員全体が互いに助け合い調和を保って機能することは極めて大切なことなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
第69課 キリスト者生活の実践的義務
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・8・・・
「兄弟姉妹たちの助けになろうとの配慮」・・12:4~8・・・2・・
神の栄光は、キリスト教の教職者のみならず、キリスト信者の農夫・事業家・教師たち、すべて合法的な職業をもって人生を歩んでいる人たちによっても現されているのです。すなわち、キリスト教信仰を真剣に奉じ、日常の生活の中に聖潔を保ち、常に進んで人々を助けることに努力する人々によって、教職者に劣らず、神の栄光は現されるのです。
J・G・ヴォスの経験によると、中国に伝道していた多くの宣教師たちは教職者になろうとする人々を失望させなければならなかった経験を多く持ったでしょう。多くの中国の人たちが回心して、直ちに神学校に行き、伝道者になろうとしています。それらの人たちがキリスト教に回心することは、直ちに公的に献身に召されることではないということを、彼らの心に教えることが極めて必要なことでした。そして、教会においては教職者になろうとする以外に、神に仕える多くの方法があることを教えなければなりませんでした。
キリスト教実業家、医師、農夫、公務員、母親、主婦によっても、教職者と全く同じく、神の御名は崇められ、栄光は現されるのです。パウロはキリスト信者の聖潔は他人を助けることにおいて現されることを強調しています。彼はいろいろのキリスト教的活動や義務を挙げています。すなわち、預言・教えること・勧めること・与えること・治めること、慈善などです。
ここで預言と言われていることは、現在では宣教と言われていることと同意であると考えてよいでしょう。説教したり、集会において語り合ったりすることです。奉仕(ministry)は教会のおける種々の奉仕義務を指しています。教えることや勧めることは前述のことと特に区別する必要はありません。いろいろの見地から見た同じ働きと考えてよいでしょう。
ここで注意すべきことは、パウロが私たち一人一人に自分自身の働きによって仕えるように命じていることです。教える者は教えることによって仕え、勧めをする者は勧めることによって仕えることです。すなわち、私たち一人一人に神が為すように委ねておられることを、私たちは専心実行するべきなのです。私たち各人が、自分自身の為すべきことと他人の役に立つことが出来る機会とに絶えず注意を払っていることを命じているのです。
神が各人に為すように委ねておられる働きに厳しく意を用いることに勝って、教会を助け、神を喜ばすことは他にないのです。ペテロがヨハネについてイエスに、「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねた時、主が言われた言葉、「・・・あなたにはなんの係わりがあるのか。あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:21~22)を覚えているべきです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (124)
第68課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・7・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・7・・・
「兄弟姉妹たちの助けになろうとの配慮」・・12:4~8・・3・・
ここで私たちは二つの一般的な誤りを上げて、それらを警戒しなければなりません。第一は、私たち一人一人が果たすべき役割をもつべきであるということを意味するものではありません。聖書のこの箇所は広い意味で述べていることであって、制度としての教会における役職、例えば牧師・長老・執事・教師などのことを指しているのではないのです。これらの役職は一部分のことであって、全体的なことではありません。
パウロがここで語っているキリスト者の助け合いと言うことは、教会の公的な役職よりももっと広くて包括的なものです。例えば、8節で「寄付するものは惜しみなく寄付し」と言われていますが、これは必ずしも役職の機能を言っているのではなく、すべてのキリスト者が困っている人々や貧しい人々のために寄付したり、教会のために献金すべきことについて述べているのです。
また、「慈善をする者は快く慈善をすべきである」とありますが、これは明らかに教会の役職よりももっと広い意味で言われていることです。私たちは役職に就かなくても、神に忠実に奉仕することができるし、また兄弟姉妹を真に助けることもできるのです。
このことは、現代には、各信者は教会内で何かの公的な役職に就かなくてはならないと考える傾向がみられるから、特に強調しなくてはなりません。このような考えは聖書的な理念ではないばかりか、実際に多くの害を生み出すのです。役職に就くには、それに相応しい資質がいるのであって、そうでない者がそれに就くときには、キリスト教の奉仕ということについて誤った理念を持ったり、神が彼らに求めておられる真の奉仕をおろそかにしてしまうことになるからです。
またこの傾向はいたずらに多くの役職や委員会を作って、結局、良い働きができなくなってしまうのです。教会の組織は簡素で機能しやすいものでなくてはならない。組織をいたずらに多くしたり、複雑化したりすることは感心できない傾向です。船に例えれば、船は誰でもが船長になれるようには作られてはいません。船の目的は多くの人々と貨物とを目的地に運ぶことにあるからです。組織というものは教会のすべての人々を忙しくさせるために作られるのではなく、真の必要のためにのみ作られるできなのです。
第二に、すべてのキリスト信者は他の人々と全く同じような仕方で、奉仕の働きをするべきだとする誤った考え方を持つ人が多いのです。ある一人の賞賛されている牧師の働きを標準にして、他の牧師たちの働きを計ろうとする人々がいます。長老の場合も同じです。しかし、個々のキリスト者の能力や資質はみな百人百色です。「与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物をもらっている」(6節)のです。私たちは各自、自分独自の賜物を聖霊によって与えられているのです。従って、他人と同じ賜物を与えられるように求めたり、うらやんだり、自分の賜物について不平を言ったりすべきではありません。
それどころか、私たちは神が私たちにどのような独自な賜物を与えて下さったかを発見して、それを神の栄光と兄弟姉妹たちのために役立てるべきなのです。これこそ真の奉仕なのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (123)
第68課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・6・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・6・・・
「兄弟姉妹たちの助けになろうとの配慮」・・12:4~8
第3節は謙遜と柔和を教えていますが、この章の後の節と共に学ぶことにします。
4~8節は兄弟姉妹のキリスト者に対する私たちの関係について教えている箇所です。他の人たちを助けるという気持ちと心構えがなくては、私たちは聖潔を身につけることではありまん。言い代えるならば、聖化の恵みに預かりつつある者は、真に困っている人々を助けようという気持ちが自然の発露として出てくるのです。数世紀前までは、多くの人たちが聖潔ということについて誤った考えを持っていました。
彼らはこの世から逃避して、僧院の中に入りこの世に対して戸を閉じたり、あるいは草庵を結んで社会から孤立して新カトリック教会の修道士や修道女ばかりでなく、今もこのように考える人々が、プロテスタントの中にもいます。これらの人々も聖ということについて、上述に近い考え方を持っています。しかし、聖書的な聖潔観はそのようなものではありません。真の清潔は世から自らを孤立させることではなく、進んで他の人々を助けることです。
もし私たちが真に聖潔であるならば、他の兄弟姉妹の福祉と進歩に関心を持つべきなのです。私たちキリスト者は自分一人では、キリスト者生活をすることは出来ないということを認識すべきです。教会は一つの有機的な全体なのです。キリストをかしらとする生命体であり、私たちはこの身体の肢々なのです。そして個々のキリスト者生活は、多くのキリスト者たちの生活と密接な関係があるのです。
私たちの各々が、この体、すなわちキリストの体なる教会の肢々として行動しなくてはならないのです。私たちはキリストにあって一つの体であると共に、互いにその肢々なのです。各自の果たさなければならない機能があるのです。神は個々のキリスト者をキリストの体における一つ一つの地位と機能に召されたのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (122)
第67課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・5・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・5・・・
「聖潔の根源」・・12:2
「あなたがたの心を新たにすることによって、造り変えられ―」新しい心と新しい思いを受けることによって造りかえられます。救われていない人々は、神に関する事柄についてはすべて誤って理解します。しかし人が心を新たにされて造りかえられるとき、神はその人の心を正しい軌道の上に乗せて下さり、彼はそれらの事柄を正しく考えることを始めます。すなわち、彼は今までの罪を悔い、かつて愛したことを今度は憎むようになり、かつて憎んでいたことを愛するようになります。神はこのように人の心を一新されるのです。
しかし、私たちは心を新たにされることにより、どのようにして造りかえられるのでしょうか。これは私たちが独力でなしうることではありません。機関車は全ての機能が正常であるときに走ることが出来るが、もし脱線していれば何もなすことは出来ません。機関車は自力で軌道に戻って走行し始めることは出来ないのです。
先ず第一に他の力によって軌道に戻されなければなりません。そして始めて走行することが出来るのです。私たちも自力では自分を造りかえることは出来ません。自分の力で自分の心や精神を造りかえることは出来ません。私たちは自分の力で、生来愛したものを今は憎むように、また、生来憎んでいたものを今は愛するように、自分自身を変えることは出来ません。
聖書は有名な設問でこの真理を強調しています。すなわち、「エチオピア人はその皮膚を変えることができるでしょうか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる」(エレミヤ13:23)。
私たちはこのことを自らの力ですることは出来ません。しかし、そこに一つの方法があります。このような変化は、神の奇跡的な全能の力によって、人間の生涯に生起するのです。それは奇跡的であって、分析することも説明することもできません。「風は思いのままにふく。あながたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみなそれと同じである」(ヨハネ3:8)。それは神秘的ではあるが、厳然たる事実であり、しかも強力です。それは明らかな効果をもたらすものです。それは迫害者サウロをキリスト者・使徒パウロに変えました。多くの未開の人たちを開花へと導きました。聖霊によって心の更新は現実の事実であり、驚嘆すべき結果をもたらすのです。
この変化は神の御霊の働きであるからには、私たちは常にこの変化を神に求め、神に栄光を帰さなければなりません。あなたがたは世とは違ったのであるから、あなたがた自身の中にその保証を求めてはなりません。もしあなたがたがこの世に倣らわないで、心を新たにすることによって造り変えられるならば、決して、その功を自分自身に帰すべきではありません。エチオピア人はその皮膚を変えることは出来ないし、豹はその斑点を変えることは出来ません。私たちも自らの性質を自分で変えることは出来ないのです。
救われていないこの世と私たちとを違ったものにすることが神です。神のみがこの功と栄光と誉れをお受けになるのです。私たちは神の作品であり、キリスト・イエスにあって良い業をなすべく造られたのです。私たちは神によって予め定められたように、良い業をして生きるのです。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのある。神はわたしたちが良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。(エペソ2:10)
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (121)
第67課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・4・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・4・・・
「聖潔の根源」・・12:2
12;2は聖潔の根源についての秘訣を教えています。第一に、この世にならうことによって、聖潔を得るのではありません。(and be not conformed to this world)「この世にならうものとなってはいけない」「この世と調子を合わせてはいけません」。実際において、この世の性格、すなわち世の人々、キリストによって救われていない人々の性格は、この章に述べられているキリスト信者の性格の正反対であります。この世の性格は不潔、自己中心、傲慢、不親切、その他であります。
キリスト者たちが、間違っていると知っていたり、有罪であるとする事柄を、この世の人たちは正当であると考えるのです。例えば、主の日の聖別ということを例に取っても分かることであります。キリスト者が正当と考え義務と考えることを、世の人たちは愚かでばかばかしいことと見ます。例えば、敵を愛するということは、キリスト者の義務であります。しかし世はそれを愚かなことであると見なすのです。私たちは世にならったり、世の標準に従って、それに甘んじたりすることによって、聖潔を獲得するのではありません。
もし私たちが善悪についてのこの世の標準を受け入れるならば、神に対して罪を犯すのであり、私たち自身を傷つけることになるのです。行為と良心の問題について、世は大きく誤っているのです。もし私たちがこの世に従うならば、神の不興と正義の裁きを受ける危険にさらされているのです。宗教と道徳の問題について、大多数の意見に従うならは、それは正しいことでも安全なことでもないのです。
2節は更に進んで、私たちがどうすれば聖潔を獲得することが出来かを示します。この世にならうことによってではなく、心を新たにする、自己を一新することによって、それは可能となるのです。しかし、これはどういうことなのでしょうか。それは次のように理解することが出来るでしょう。「あなたの生活をこの世の仕方にならわせないで、新しい心を与えられることによって、あなたの人格と生活を一新しなさい。そうすれば神の御旨に従って生活を送ることが出来るようになるでしょう。
「あなたがたの心を新たにする」、すなわち、「新しい心を持つこと」とは、新生、新たに生まれかわることと同じことです。心の一新ということは、一回的なことではなく、生涯を貫いて継続することです。それは新生に始まり、キリスト者の生涯を通じて継続することです。新生は人の一新に始まりであり、聖化は人間の心の一新の継続です。生物の生涯と同じように、キリスト者の生涯も新生または再生に始まり、成長がそれに続くのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (120)
第67課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・3・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・3・・・
「神への聖別」・・12:1
聖さと言うことは、人格や生活のすべての個々の特質を含むものです。聖さと言うことは決して抽象的なことではなく、分離されるようなものではありません。聖さは柔和、親切、熱心、その他のことと同列に置かれることでなく、むしろ、それらのものを全て含むのです。それらはキリスト者の生活における聖さから出てくる果実なのです。
聖さということは、神への聖別、奉仕、礼拝なのです。これこそ「霊的な礼拝」なのです。神が私たちに「なすべき」こととして期待しておられるのは正にこれなのです。
聖さということが、12:21で要約されていることがわかります。「悪にまけてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」。この世界における悪というものは、決して想像の産物ではなく、実在のものなのです。それは強力なのですが、私たちはそれに直面しなくてはなりません。私たちは食うか食われるかなのです。悪に負けるか、善をもって勝つかです。私たちには中立はあり得ないのです。悪との戦いにおいて戦わないでいることは出来ないのです。私たちが悪に戦いを挑まねば、悪が私たちを征服するのです。しかし、神の恵みによって、私たちは悪に対して戦いをなし、善をもって悪に勝利を得ることが出来るのです。
聖さと言うことは、それのみを私たちが所有しうるような抽象的なものではなく、この章の中で見るような具体的なキリスト教的徳目の形を取るのです。聖さとは神への完全な献身であり、善をもって悪に打ち勝って行くことなのです。聖さは柔和・寛容・熱心などとなって発現します。もし私たちがこれらの徳目を欠くならば、キリスト者の聖さを持っていないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (119)
第66課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・2・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・2・・・
「神への献身」・・2・・
「聖さ」ということは、もしそれが偏っているならば正しくありません。それは完全であり、よくバランスがとれていなければ正当ではありえないのです。 例えば、ここに素晴らしい教会の役員がいるとしましょう。しかし、この人は家庭においてはとても気難しく怒りっぽくて、家族がいつもみじめで不幸せであるならば、この人はキリスト教信者としての聖さを持っているとは言えないのです。
また、ある人は家庭においては理想的な夫であり妻であり、また両親であるとしましょう。しかし、その人が教会において、神のために努力したり奉仕したりすることを進んでしないとすれば、それは真のキリスト者の聖さを所有しているとは言えません。なぜならば、それは全く一面的でバランスを欠いているからです。
航空機のプロペラは高速回転をして機体を引っ張るのですが、その羽根は完全なバランスをとって入念に製作されています。もしそうでない滑らかな高速回転をしないなrば、機能は発揮できません。一人の操縦士が不時着をして、プロペラの羽根のほんの一枚の数センチでも破損させたら、もはやプロペラは円滑な回転をしなくなり、機体は飛ぶことは不可能となっていまいます。キリスト者の聖さについても同じことが言えるのです。
その性格においてバランスを失っている片寄ったキリスト教信者が少なくないのです。彼らはどうすべきでしょうか。彼らはファンの羽根の一枚を損傷してしまった故障車の運転者のように、反対側のもう一枚を取り去るようなことをすべきではありません。破損したもう一枚を修理して4枚とも完全にしなければならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (118)
第66課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・1・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・1・・・
「神への献身」
この章の以下において語られる言葉は、キリストを信じる人々に対するものであって、非信仰者に対するものではありません。救われていない人たちは、ここで述べられているような種類の生活を始めることさえできないのです。そのような生活を送ることは未信者にとっても義務です。しかし、彼らは神の恵みによって救われ、そのように生きることを願うようになり、そのように生きる力を与えられるまでは、そうすることは出来ないのです。故に、救われていない人々に対して、キリスト者の生活やキリスト者の人生を生きるように呼びかける現代のいわゆる福音伝道はまことに愚かであると言わなければなりません。このような伝道活動は、その中に福音を含むのではなく、単なる倫理的教訓の形を採った助言ないしは忠告の類に過ぎないのです。
使徒パウロはここでキリスト者の生活における実践上の多くの義務を挙げています。この章はほぼあらゆる種類のキリスト者の義務を含んでいます。しかし、それらは無関係な事柄の単なる羅列ではありません。それらはキリスト者の人格と行為の特質として、相互に関係をもっています。
これらのキリスト者の人格の特質は共に考えられるべきであって、個々の一つだけ切り離して考えるべきではありません。どれか一つだけ抽出して強調し、その他のものを省略したりすることは出来ないのです。例えば12:16a
「互いに思うことをひとつにして」と言う言葉は、12:9aの「悪は憎み退け、善には親しみ結び」を打ち消すものであってはならないのです。これら二つの義務は共に取り上げられなければならず、常に相互にバランスを保つようにして守らなくてはならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (117)
第65課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (28)
「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
11:34~35
アルミニウス主義は今日の世界の福音主義的・根本主義的諸教会に広く浸透しています。この問題は、アルミニウス主義は純粋に学術的間題のものであり、実際上には大したことはないと言う人たちがいます。しかし、アルミニウス主義の考えによれば、悔い改めてキリストを信じるように決定する要因は、聖霊の有効召命と不可抗的恩恵の働きを受けていない罪ある人間の力の中にあることになります。このことは、更に、生まれながらの人間が事実上、全的には堕落していない、すなわち罪と罪科の中に死んではいないことになるでしょう。だから、アルミニウス主義は重大な結果をもたらすことが分かるのです。
人間は神を如何なる束縛の下に置くことも出来ません。何故なら、神ご自身こそ万物の根源、原因、目的であるからです。「万物が存在するのは、神の御性質が現されるためであり、被造物は神に比べるならば無に等しいのです。人間の知識も力も徳も、神の栄光の輝きの反映に過ぎないのです。
だから、この宗教体系、すなわちカルヴィン主義こそ、神の御性質、人間の性質、宇宙の目的に最もよく適合するものです。カルヴィン主義によれば、まさに万物は神からいで、神のよって成り、神に帰するのであり、それは直ちに人をして『すべての栄光は、私たちにではなく、神にある』と言われるものです」(ホッジ)。
ここで、私たちはローマ書のいわゆる教理部分の学びを終わるのです。ここまでの11の章で、神の救いの計画が提示され、聖書の他のどのような部分よりも完全に弁証されてきました。「すべてを貫く指導原理は、神がすべての良きものの根源であり、堕落した人間の中には如何なる功績も能力も無く、従って、救いはすべて神の恵みによるのであるということである。『万物は、神からいで、神によってなり、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アーメン』」(ホッジ)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (116)
第65課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (28)
「神は完全に、また絶対的に人間から自立しておられる」。
(11:34~35)
「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
11:34~35(3)
「第一に、真理の全体をとらえるために、カルヴァン主義とアルミニウス主義の双方は結合されて相互に補い合うべき理想体系であると見るのは、全く愚かなことです。この両者間の論争の歴史についていくらかでも知識のある人ならば、この二つはその相違点のすべてにおいて、相互に全く相いれない体系であることを知っているのです。
16世紀の始め、レモンストラントと呼ばれるオランダのアルミニウス主義者たちが、オランダ教会の信条を5か条に関して疑義を表明して文書を発表しました。これに端を発して論争が起こり、それに決着をつけるために特別に大会が開催されました。それが1618~19年に開かれたドルト会議でした。ドルト会議はアルミニウス主義の5つの論点を定罪して、真理を述べた5か条を採択したのです。ドルト会議の5か条はアルミニウス主義の5つの論点と相補関係にあるどころか、相容れないものなのです。カルヴィン主義とアルミニウス主義とは同じ絵の両面であるなどと言う論は途方もない誤りなのです。
第二に、カルヴィにズムとアルミニウス主義との相違点は、前者は神の主権性を信じており、後者は人間の自由・責任を信じているということではなく、真の相違は、前者は神の主権性と人間の自由と・責任の両方を完全に信じているのであり、しかも、この二つを合理的に調和させようとしていないのに対して、アルミニウス主義はこのパラドックスを調和させなければならないとし、人間の自由・責任に執着して、神の主権を否定するのです。
本当の相違はこのパラドックスに対する両者の態度にあるのです。アルミニウス主義はこのパラドックスに合理主義的な姿勢で接して、どうしてもそれは解決されなければならないとします。このことは神の主権性の否定を含むことになり、従って、自分の意思で悔い改め、キリストを信じるに至ることを予知される者を、神はお選びになるのだとするのです。一方、カルヴィニズムは、このパラドックスに対して畏れと敬虔をもって接し、それは主なる神に属する奥義であって、私たちはこれを解明する必要はないのだとするのです。私たちは充分に調和させることができないこれらの二つの真理の両方について、聖書が教えるところに忠実でありさえすればよいのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」