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「ローマ人への手紙」研究 (115)
第65課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (27)
「神は完全に、また絶対的に人間から自立しておられる」。
(11:34~35)
「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
11:34~35(2)
神は永遠からすべて起こり来ることを予定しておられるが、この予定は予知に基づくものであると主張する人たちがいます。罪人の救いという問題について、この考えによると、神は永遠からある人々を永遠の生命に選んでおられるが、この選びは、その人たちが人生のある時点において自らの意思によって悔い改め、キリストを受け入れることを、神が予め知っておられたことに基づいてなされたのであると考えるのです。
勿論、この考えは神の永遠の予定と選びが真のものではなく、また効果的でもなく、単なる言葉の上での作り事であるということを婉曲に述べたに過ぎません。もし救いを望むようになることを神が予め知っておられる人たちの救いを神が予定されているのであれば、神の予定は作り事に過ぎなくなってしまいます。これは、神が永遠に聖定において人生の永遠の問題を、罪ある被造物の人間の自由意志に委ねてしまわれ、ご自身は人間がその自由意志によって決定するところを、単に承認されるだけであると言うことと同じです。これは正確に言うと、「神は自ら選ぶ者を選ばれる」という教えだと言ってもよいのです。これは人間の選択が真に有効であって、神の選択は人間の選択の単なる批准に過ぎないことになります。
このような神の主権性と自立性の否定は、聖書の入念な釈義からは決して出てこないものです。このような見解を持つ人たちと話してみると直ちに、彼らが一種の人間中心の推理に立って立論していることが分かります。彼らは神の主権性と人間の自由、責任を調和させることができないので、神の主権性を事実上否定して、人間の自由性を擁護することによって、このパラドックスから逃れようとするのです。
私たちの教会が立っている改革派神学は、畏れつつこのパラドックスを未解決のままにしておくのです。このパラドックスは聖書の中に深く座を占めていることを知って、それら両者のいずれをも犠牲にすることなく、双方とも主張するのです。
この問題を巡って極めて粗雑な論議がなされている。時々、カルヴァン主義は神の主権性を教え、アルミニウス主義は人間の自由と責任を教えている。私
たちはカルヴァン主義とアルミニウス主義の両方を取り入れて、真理を全体的に捉えならなければならないと言われる。このような考え方は、ある人々に訴えるものをもっており好評を博しているのです。そのような事実が現実にあるので、ここで反論しておかねばなりません。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (114)
第65課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (26)
「神は完全に、また絶対的に人間から自立しておられる」。
(11:34~35)
「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
11:34~35(1)
これらの2節の中で、34節は、そのご計画と目的における、神の絶対的独立性または自立性を教えています。主の計画とは神の計画であり、如何なる意味においても、被造物の中の何者にも依拠するものでは断じてありません。「だれが主の心を知っているか。だれが主の計画にあずかったか」という問いは、勿論、反語であって、「誰もない」という答えを含んでいます。
従って、この節の教えは、神はその計画と目的において、絶対的に自立自存であり、そのどの点においても被造物よって制限されたり、限界づけられたりすることは決してないことです。
これが神の主権の教理なのです。この教理は聖書の中においては、「神はそれらをよしとされた」、「主はそれをよしとされた」(It pleased God)とか、「神の御旨のよしとされることに従い」(According to the good pleasure of his Will)というような言葉で表現されています。ウ信仰告白や小教理問答書にも、同じような表現で繰り返し神の主権が述べられています。神の御計画と目的において、神は絶対的な自立性と至高の権威を所有しておられるのです。
現代において、神の主権性と自立性という教理は、強く反対されています。第一に、有限なる神を信じる自由主義神学者や近代主義神学者たちによって反対されます。無限者なる神のみが、その計画において自立的ありうるのです。第二に、神は人間を創造されたときご自身を制限されたので、創造後はもはや至高の存在でも自立的存在でもないのだと主張する人たちによって反対されます。
これらの人々は公然と、神は被造物の自由意思によって限定され束縛されると主張します。彼らは「神の御手は縛らている」とか、「神はあなたを救おうとされているが、あなたが決心をしないかぎり、何ともなすすべがないのだ」とか、「神にチャンスを与えよ」などと平然と言います。人間が先ず最初に行動を起こすのです。
「神は御自身なしうることは全てしてしまわれた。今やあなたが決心するときである」などと言う大衆伝道者がいます。これらの言葉はすべて生まれながらの人間に迎合することです。その背後には神の自立性と主権性の否認があり、神の栄光と尊厳が傷つけられているのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (113)
第64課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (25)
「神は無限に偉大かつ善なる方であるばかりでなく、人間の心には測り知ることのできない方である」。
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は、そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」。(11:30)(2)
無限者なる神という教えは、人間の心によって分析解明され得ないからという理由で、人々はこれを拒否します。それは常に私たちを迷わせるものです。私たちはその周囲を円で囲んで、それを理解したということは出来ません。自分が十分に理解し分析し得るものでない限り、如何なる神をも礼拝しないという人々は、決して聖書の神を礼拝しようとはしないのです。
実のところ、彼らは自分の心を神の代わりに礼拝しているのです。木や金で造った偶像を礼拝した異邦人たちと同じく、彼らも偶像礼拝者なのです。真の神は人々の心を迷わせ悩ますものです。しかし、その理由は、神は真の神であるからなのです。もし私たちが神を理解し尽したとすれば、その神はもはや神ではなく、私たちももはや被造物ではなくなるのです。
「私たちは神を崇め、憧れることができるだけである。神を理解し尽すことなど決してできないのだ。そしてそれは当然のことなのである。私たちによって理解され尽くすものは、有限な存在である。充分に把握されるものは、もはや神ではない。神が知識と祝福の限界なき無限の根源であるのは、神が存在において無限であり、その裁きと道において極め難く、また測り難い神であられるからである」(ホッジ)。
私たちが銘記すべきことは、私たちのキリスト教信仰は神秘に終わるということです。私たちが神の啓示によって所有し得る小さな知識は、やがて神秘との境界まで私たちを導くでしょう。そして、その境界に立って、私たちは、ホッジのように、「私たちは神を崇め、憧れることができるだけである」と言うのであって、決して理解することなどできないのです。
キリスト教は18世紀の合理主義の侵略によって、手痛い打撃を受けてきました。合理主義は現今にもその結果を及ぼしています。18世紀の合理主義の目標と狙いは、全ての実存の完全な理解でありました。この故に人間の心によって完全に理解され、解釈されることができないキリスト教信仰におけるすべての事柄は拒絶されたのです。
合理主義の中には、聖書の神の拒絶と人間の心のイメージで作られた偽りの神とが含まれているのです。この理性の宗教という偽りの宗教に対して、私たちは聖書の畏敬すべき、測り知ることのできない、神秘の神、すなわち、生ける真の神を信じるのです。
神の「さばき」と「道」とは微妙な区別があります。ここにあるものは神の裁き、神の計画、聖定を意味しています。これらのことは「窮めがたい」と言われています。すなわち、人間の研究や調査の及ぶところではないというのです。それらは神の神秘の領域に属するものであって、人間は近づくことができず、調べることができないのです。
神の道(ways)とは、神の御計画(聖定)が創造と摂理の業において実行に移されるときの方法を指しています。これは「測りがたい」と言われています。ギリシャ語の「足あと」と言う語の形容詞形です。神は創造と摂理の業において、その計画を実行に移されるのであるが、その時の方法や過程は、人間の知識や調査研究を越えたものです。私たちは神のなされる方法について、ごく僅かの限定された知識しか持ち得ないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (112)
第64課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (24)
「神は無限に偉大かつ善なる方であるばかりでなく、人間の心には測り知ることのできない方である」。
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は、そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」。(11:30)(1)
この節の最初の部分は「富」すなわち、「豊かさ」を「知恵」と「知識」とに並行させて、「ああ、神の豊かさと知恵と知識の深いことよ」と訳すことができます。このように訳すと、「神の豊かさ」とは罪人に対する神の恵み・慈しみを意味することになります。英語欽定訳では、口語訳のように「神の知恵と知識との富は」と訳しています。文法的にはどちらの訳も採ることができますが、C・ホッジは、ここの主題が、神の恵みであるからには、前者の読み方の方が好ましいとしています。H・アルフォードもピリピ書4:19の「神ご自身の栄光の富」という聖句を参照しつつ、ここでは、「豊かさ(富)を」を「知恵」と「知識」とに並行させて、神の属性の一つと解するのが良いとしています。彼は「富」「豊かさ」を神の善性の豊かさと説明しています。
神は無限の存在者であられます。神は存在においても属性においても、無限なお方です。すなわち、神には限界性はないのです。ウ小教理問答書の問4の答えに「神はその存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊である」とあります。近代宗教の多くが有限なる神を信じているのに対して、聖書には神は無限者であると教えているのです。すなわち、スーパーマン乃至は人間性の投影と考えます。現代の著名な教会人たちが公然と「今日、人々が求めているものは、有限な神であって、道徳領域を例外として、絶対者のごときものを尊敬することなどできない」と言います。
また神は、人々に他人を愛するように助けることはできるが、それ以上のことはできない。従って祈ることなどは無用だとさえ言う人たちもいるのです。これらはみな有限の神という近代主義神学の考え方の例です。近代主義神学の有限の神に対して、聖書に御自身を啓示されている無限者なる神は驚くべき優れた方です。
神は真実に存在される生ける神であって、人間の想像や創作の断片の一つでは決してないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (111)
第63課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (23)
ここでパウロは贖いの計画の論述を終わりに導いています。次の4節(33~36)は神の知恵と知識、善と恵みの荘重な論述です。「神がすべてであり、人間はとるに足りないものであるという思想を述べる力強さと荘重さにおいて、ここの聖句に比肩する節は、全聖書の中に僅かしかない」(C・ホッジ)。H・アルフオードもこれらの4節について、「神の恵みと知識を目の当たり見て力づけられたパウロは、霊感された聖書の中にこの荘重きわまる聖句を語ったのである」と述べています。
ここで当然、一つの問題が起こります。すなわち、ローマ書の中でこれらの4節が占める位置は何であるかということです。これらの節は、9~11章、すなわち、神がユダヤ人を退け、異邦人を招かれたという事柄に特に関係しているのでしょうか。それとも、ここまでのローマ書の全体の教理に関係しているのでしょうか。または、ユダヤ人の未来における回心という特殊な事柄について、この言葉は語られているのでしょうか。ホッジは、直接つなげるべき文脈を指示するどのような指示もないので、これらの素晴らしい讃美と讃美の言葉は、ここまでに述べられたローマ書全体の救いの計画について語られているのであると結論しています。
33~36節で語られる三つの主要な思想は、次のとおりです。
1・・・神は御自身の存在と御業において、無限に偉大で善なる方であるのみでなく、人間の理解を超えた存在であられる。神は人間の理解を超越した方である。
2・・・神は人間から完全かつ絶対的に自立した自存者である。
3・・・神は一切のものを知っておられる全知者である。なぜならば、神は全ての存在の根源、手段、目的であられるからである。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
「ローマ人への手紙」研究 (110)
第63課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (22)
「あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今はあわれみを受けるためなのである」(11:30~31)。
これら二つの節において、パウロは今まで述べてきたことを繰り返し確認して、ユダヤ人の場合と異邦人の場合との間の顕著な類似性を示しています。異邦人たちはかつては不従順であったが、ユダヤ人たちの不従順を通じてあわれみを受けたのです。ユダヤ人たちは今は不従順であるが、異邦人が救われることによって、彼らもあわれみを受けるのです。これは両者の場合、あわれみを受ける機会が同じではないので、正確な類似とは言えません。しかし、その相似性は極めて顕著であると言えます。
「あなたがたが、かつては神に不従順であった」。ギリシャ語の原文はhave
refused belief and obedience です。これは聖書は、信仰とは神への従順の業であり、不信仰は神への不従順であるとしている真理を明らかにしています。人はキリストを信じるように招かれているのみでなく、キリストを信じることを命じられているのであり、信じない者は神の命令に不従順とされるのです。
「すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」(11:32)。
「この主張は、神はその摂理と恵みの経験によって、異邦人とユダヤ人のすべてが、次々と罪人としての彼らの性格を明らかにし、歴史上において自らを不信仰なものと告白するように導かれたのである。・・・彼らすべてが自身をこのように明らかにするために、神が許容されたのではなく、神が直接に支配し導いて明らかにされたのである。人間を罪にゆだねたことにおいて、神が主権を取られたのは、刑罰的な性格を持つものであり、人間に自由と責任と両立するものであって、神ご自身の聖さとも矛盾するものではない。
神が彼らの罪の原因となられたのではない。神は摂理の業によって彼らの罪が表わされ、それらがあらわにされる様式をも決定されるように計らわれたのである。神が異邦人とユダヤ人を同様に扱ってこられたことを示すことも、パウロの意図の中に入っていると考えられる。ユダヤ人も異邦人も同じ立場に立たされている。
彼らは共に神の主権的な恵みのみが救い出すことが出来る状態の中に沈んでいたのである。すべての者が同じく惨めで望みの無いものであったから、神はユダヤ人も異邦人も共にすべての者の上に、恵みを注ぐことと、キリストの羊の群れの中に入れることとを決定されたのである」(ホッジ)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (109)
第62課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章28~29節 (21)
「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについていえば、父祖たちのゆえに、神に愛される者である。神の賜物と召しとは変えられることがない」(11:28~29)。(2)
「選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている」。神の愛に対する敵意は持っており、福音について神の敵であるとして取り扱われている一方、彼らは別の違った意味において、神に愛されている、すなわち、彼らは選びについて言えば、祖父たちのゆえに神に愛されていたのです。福音について神の敵であったそのユダヤ人たちが、なおも神によって注意深く見守られ、集団としてメシヤであるイエスに回心するその日まで守られているのです。
不信仰の中にある者はすべて滅びなくてはなりません。しかし、或る意味で、彼らはその子孫が来るべき日に、メシヤに回心する民族として、神になおも愛されているのです。
「神の賜物と召しとは変わることがないからである」。これは、罪人が救われるためには、その罪を悔い改める必要がないといった意味ではありません。「変わることがない」と訳されている原語の直訳はwithout repentance であるからです。Repentqnceとは「悔い改め」の意味ですが、ここでの意味は「神の側におけるみ心、あるいは目的の変化」ということです。
パウロは神の恵みの目的は変わることがなく、取り消されることがないということを述べているのです。Calling(召し)は、ここではelection(選び)と同じ意味です。神が永遠の生命にお選びになった者は、確実に救われるからです。しかし、もし神がある民を特別な民とするためにお選びになったのならば、彼らはそのような民として残るのです。神の恵みの目的はかわることがないからであります。
集団としてのユダヤ人の選びは、その集団の中の特定の個人の救いを意味するものではありません。神がユダヤ人の大部分が救いに与ったという意味ではありません。神がユダヤ人をご自分の民としてお選びになった時、それは旧約の或る時代のユダヤ人の大部分が救いに与っていると主張する粗雑な謬論が現代も存在しています。もちろん、これは全く根拠がなく間違った論です。
神が或る人たちを民としてお選びになることと、個人を選びお救いになることとは別のことです。何れの場合においても、神はその目的とみ心を変えられることはありません。しかし、私たちは或る民族が選ばれて諸関係や特権に与ることと、個人が選ばれて救いと永遠の生命に与ることとを混同してはならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第62課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章28~29節 (20)
「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについていえば、父祖たちのゆえに、神に愛される者である。神の賜物と召しとは変えられることがない」(11:28~29)。
この二つの節は、パウロがユダヤ人の拒否と未来における彼らのキリストへの回心について、ここまで述べてきたことの要約です。「文脈全体から見て、パウロはユダヤ人の個々の人について述べているのではなくて、集団としてのユダヤ人の拒否と回復について述べていることは明らかであるから、パウロが今ここで考察している召命と選びも同様に、集団としてのユダヤ人について言われていることであって、個々のユダヤ人の救いについて言われているのではないことも明らかである」(ホッジ)。
このことを銘記しておかないと、この二つの節の正しい意味を把握することはできないのです。もし、召しと救いと選びとが個人について言われているとすれば、ここにあるように同じ人が福音については敵であり、神の賜物と召しは変えられることがないので、同時に愛されているものであるということは言えなくなってしまうのです。しかし、パウロが集団としてのユダヤ人の拒否と未来における回心ということを述べているということを念頭に置けば、すべてが明瞭になるのです。
「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされている」。ユダヤ人たちは不信仰のために退けられたのです。彼らは良いオリブの木からは切り取られた枝でした。このように彼らは切り取られることによって、救いは異邦人のところへもたらされました。異邦人を救うために、神はユダヤ人たちを敵と見做し、そのように扱われました。もちろん、このことは罪の中に死んだ人々が永遠に滅びたことを意味します。彼らは唯一の救いの方法を拒否した。すなわち、メシヤであるイエスを拒んだのです。
使徒行伝とパウロの書簡から私たちはユダヤ人がキリストの福音の手厳しい敵であったことを知ることが出来ます。しかしながら、「彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされている」という表現は、多分、彼らの父祖のゆえに愛されるのが神の御旨であるからには、彼らは神の敵であるという意味であろう。神の敵であるから、彼らは福音の敵であり、福音の忠実な宣教者たちの敵でもあったのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (107)
第61課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (19)
「こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう・・・・」(26節)
パウロは26節の後半で、今まで述べてきたことを支持するために、旧約の聖句を挙げています。彼がここで引用している旧約の聖句がどこから来ているかについて少しく難解な点があります。パウロの引用文に最も近いと思われるのは、イザヤ書59・20でしょう。C・ホッジは、パウロはいくつかの聖句、すなわち、イザヤ59・20~21、27・9、エレミヤ31・31~34、詩篇14・7などを短く要約したのだと考えています。
「パウロは、古えより約束され、上述の聖句でイザヤが言及していた救いというのは、降臨時のキリストを信じた比較的少数のユダヤ人の回心以上のことを含んでいると教えているのである。この約束、すなわち、ヤコブの家より不信心を取り除くという約束の完全な成就とは、ユダヤ民族全体の主キリストへの回心が考えられているのである」(C・ホッジ)。
私たちはここでユダヤ人たちのパレスチナ帰還の可能性については何も述べられていないことに留意しなければなりません。その理由はパウロがそのことについては何も言っていないからです。この点について、アルフォードは「私たちはこの預言とユダヤ人のパレスチナ帰還の問題とを混同してはならない。ここでの問題は彼らが神の教会に受け入れられることである」と述べています。
「そして、これが、彼らの罪を取り除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」(27節)。
これは明らかにイザヤ59:21と27:29の引用であり、後者は七十人訳(ギリシャ語訳旧約)のままの引用です。これはパウロが述べていることの旧約からの立証です。「パウロが立証しようとしているすべてのことは、預言者たちの言葉によって明らかに立証されているのです。彼の先祖、人々との神の契約は確かなものです。彼らの背教とそれに続くバビロン捕囚、彼らの離散とキリスト拒否の後、彼らの罪の究極的除去とメシヤの王国への民族としての回復が来るのです。彼らの民族的回心の預言はゼカリヤ12:10にも述べられており、そのほかにも多くの旧約聖句の中にもある」(ホッジ)。
私たちが未来におけるユダヤ人たちのキリストへの回心について語る時、それはユダヤ人の個人一人一人が、キリスト信者になるということを意味しているのではないことを、よく認識すべきです。「勿論、今パウロはキリストが来られるとき、ユダヤ人すべてが救われるということを意味してはいない。もしそうなら、彼らはすべての異邦人も救われると考えていると言われても仕方がない。彼が11:12で、イスラエルの罪過が「世の富み」「異邦人の富み」となったと語っているが、そのことはすべての異邦人の回心を意味していないのと同じように、彼は「イスラエル人はすべて」によってすべてのユダヤ人の回心を意味しているのではないのである。とにかく、万人救済という思想は聖書には全くないことを銘記すべきである」(David Freeman:The Bible and Things to come.p69)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (106)
第61課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (18)
「こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう・・・・」(26節)
前課において、26節の「イスラエルはすべて」の意味について種々の見解を見てきました。未来におけるイスラエル民族の回心について、イエスが何も語っておられないと考えられるから、この言葉はイスラエル民族を意味するものではないとする主張をも考察してきました。そのように主張する人たちが挙げている聖句(マタイ19・28、ルカ21・21)は実は、未来におけるイスラエル民族の回心という当面の主題とは無関係か、あるいは大いに疑問視されるべきものです。しかし、マタイ23・39は、決定的にユダヤ人たちのキリストへの回心を預言している聖句なのです。
「文脈から見て、ここのイスラエルはユダヤ人たち、すべてのイスラエル人、ユダヤ民族全体を意味していなくてはなりません。民族としてのユダヤ人は今は拒否されています。しかし、彼らは民族として回復されるのです。彼らの拒否は民族としてであったけれども、それは各個のユダヤ人の拒否を含むものではないように、彼らの回復も同じく民族としてであるが、各個のユダヤ人の救いを含むものととる必要はないのである」(c・ホッジ)。
ホッジはさらに、「イスラエルはすべて」とは、(1)すべての神の真に民を指すのでも、(2)恵みの選びによる残りの民を指すのでもないと主張します。このホッジの見解こそ正当であると考えられています。
未来におけるユダヤ人たちの回心という考えを拒む人たちは、この節の初めにある言葉、すなわち、“And so”(口語訳では「こうして」)を重視します。彼らは、パウロは“And so”といっているのであって、“And then”とは言っていないのだと指摘します。彼らによれば,ここの意味は「異邦人は悉く救われる間に、イスラエル人は救われる」であると言います。私たちは、勿論、“And so”と“And then”との間に相違があることは認めますが、“And so”と訳されている原語は、必ずしもユダヤ人の未来におけるキリストへの回心という考え方を排除するものではありません。
この原語は“And then”と訳することも十分出来るからです(口語訳ではそのように訳して「こうして」としています。アルフオードはこの言葉を、「この条件を満たされた時」、「25節で述べられている条件が完成する時」、すなわち「異邦人がことごとく救われる時」の意味で説明しています。これはこの言葉の最も正当で筋の通った解釈です。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「ローマ人への手紙」研究 (106)
第60課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (18)
この問題に関して、取り上げられるもう一つの聖句は、ルカ21:24「・・・そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らは踏みにじられているであろう」です。この聖句はユダヤ人の回心または回復について述べているとする考え方に対し、これは異邦人の時期が満ちるまで、エルサレムが踏みにじられているということを教えているというだけであって、その後に変化がおこるということまで意味するものではないと主張されています。
この主張は正しいかもしれないが、他方において、その意味が単に、エルサレムが世の終わりまで異邦人によって踏みにじられているだろうというだけのことであるとすれば、そのことを異邦人の時期が「満ちる」という表現で言っているのは、特異であると見られるべきでありましょう。通常の読み方をすれば、この聖句は「エルサレムは異邦人の時期が満ちた後は、もはや踏みにじられることはないであろう」と言う意味になります。しかし、この聖句は、エルサレムの未来について語っているのであって、ユダヤ人のキリストへの回心について述べているのではないから、私たちが今論じている問題には、あまり意味をもっていないものとして、退けられるべきでしょう。
しかし、この問題について、決定的な意味をもっていると考えられるイエスの御言葉があります。すなわち、マタイ23:39「わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」です。言うまでもなく、ここでイエスは、イエスを軽蔑し拒んで、やがてこの後で、彼を十字架につける不信仰なユダヤ人のことを語っておられるのです。
イエスは彼らに、「主の御名によってきたる者に祝福あれ」という時まで、再びイエスを見ることはないと告げられています。このことは個々のユダヤ人が、教会の歴史を通して、個別に行う回心のことを言っておられると取ることができるでしょうか。これらの言葉は確かにユダヤ人が集団的にイエスをメシヤとして受け入れる時がくるということを意味しておられると考えるべきでしょう。
もちろん、この聖句はユダヤ人がそのように言う時がいつであり、どのような状況の下であるかを明らかにはしていません。しかし、いずれの時にか、彼らがそのように言う時が来るという事実について、この聖句は明らかに告げているのです。従って、これはユダヤ人の未来におけるキリストへの回心のことを語っている預言と言い得るのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第60課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (17)
「こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう・・・・」(26節)。これはローマ書の中で最も難解な言葉の一つであります。難解な箇所は「こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう」です。「イスラエル人はすべて」という句は何を意味していたのでしょうか。3つの解釈があります。
1 集団的なイスラエル人を指す。
2 ユダヤ人と異邦人の両方からの選ばれた民。
3 あらゆる時代のユダヤ人の中の神の選民。
第一の解釈、すなわち「イスラエル人はすべて」とは、ユダヤ人を集合的に意味しているとする考えは、ホッジ、アルフオード、ジェッド、ヴォスなどの解釈です。第二の解釈、すなわち、それはユダヤ人と異邦人の両方から選ばれた選民を意味しているとする考えは、オーガスチン、カルヴァン、モーローなどの解釈です。第三の解釈、すなわち、それはすべての時代のユダヤ人の選民を意味するとする考えは、バビンク、ヘンドリクセン、ハレスビー、ベルコフなどの解釈です。この三つの解釈の評価は、ヘンドリクセン教授の「イスラエルと聖書」という小冊子の中に要約されています。ヘンドリクセン自身は26節の「イスラエル人はすべて」とは、5節の「恵みの選びによって残された者」とは同意であると結論しています。
第一の解釈に対してなされる反対論の一つは、イエス・キリストが、未来におけるユダヤ人の回心という事柄について、何事も語っておられないということです。ユダヤ人の回心について、イエスが預言しておられるということの証拠として取り上げられる聖句は、マタイ19:28「イエスは彼らについて言われた、『よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族を裁くであろう』」です。しかし、この聖句がわたしたちが今論じている問題とは無関係であることは、すぐにわかります。それは、キリストの再臨の後に栄光の御国において起こる事を述べているからです。従って、再臨前のユダヤ人の回心という問題については何の意味ももっていないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」