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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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  あなたに聖書をs-s-IMG_0147.jpg
 
 わたくしは、青年時代に「人類愛」という言葉を聞いたことがあります。わたくしは、それは美しい良い言葉に聞こえました。が、考えてみると、それは言葉の響きが良いだけで、実際に人類なんて抽象的な相手に会うわけではありませんから、人類愛を説いたって何にもならないと思うに至りました。
 
 「人類愛」よりももっとよく聞いたのは「隣人愛」という言葉です。「人類」に比べると「隣人」の方が具体的で、身近に感じられて、「隣人愛」を説かれて、「それはそうだなあ」と思ったことでした。しかし、考えてみると、「隣人」という言葉も、「では誰が隣人なのか」と言うことになると、ある特定の人に予め決めておくわけにはいきませんから、これもやはり抽象的な表現であって、「隣人愛」という言葉も、言葉としてあるだけのことで、実際には何の力にもなっていないのではないかと思っているのですが、如何でしょうか。
 
 この点について、キリストは、「隣人になりなさい」と言われています。ということは「隣人」とは、どこかに誰かとして存在しているというような性格のものではなく、「自分が隣人になる」ものであるということ、したがって、自分が隣人にならなければ、隣人になるものは存在しない、というわけです。これなら分かる話ですね。つまり、隣人になって欲しいと求めている人がいれば、その人の隣人になりなさい、ということです。
 
 ただし、そうと分かっていても、ではそう言う隣人になれるかという問題があります。その問題は、自分の中に「愛」があるかどうか、という問題です。つまり、愛があれば隣人になりますが、愛がなければ隣人になるということは起こりません。そして、その愛は、自分が愛された体験を持っていなければ、どうすることが愛することなのかということも分らないのです。
 聖書から得るものは、この愛を学び知ることであると思っております。
  
篠田 潔
 
(参照聖句・ルカ福音書10:25~28)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
 
11月 7日  小野 経男  (岐阜済美学院学院長)
    14日  笠井 恵二  (岐阜済美学院宗教総主事)
    21日  志村  真  (中部学院大学短期大学部宗教主事)
    28日  西島麻里子  (済美高等学校宗教主事)
    
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 
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 CBC放送をキー局にして、多い時は国内6局、海外2局で「キリストへの時間」を放送しておりました。南米ブラジルに移住された方からのお便りもありました。放送を聞いて下さる度毎に、感想や今までの苦難の生活などを感慨深く知らせてくださいました。残念なことですが、郵便事情か治安・盗難かでしょうが、ご希望の本や聖書などはほとんど届きませんでした。今はインターネット時代ですからトラブルや問題はあまり起こりませんが、数十年前はそれが当り前でしたから、唯一の手段は手紙でした。政治に翻弄されたこともありました。キリスト教放送を行っている放送局の内容が反政府的と見做されると放送が禁止されたり、制限されたり政府のPR放送に利用されることもありました。今日のインターネット事情も本質的には変らないと言いえます。「言論・表現の自由」の権利の大切さを痛感します。
                                (O・H)
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  あなたに聖書を
 
 最近は「メタボリック症候群」という言葉は普通の言葉になりました。それは、体が肥満体であることからくる健康障害への警戒であってのことであります。この問題を、本人が自覚して、自分なりの対策を講じることはよろしいことでしょう。しかし、「メタボ」の人が増えると、医療費がかかって、それに伴う国の医療費補助額も増えて困るから、「メタボにならないようにしなさい」ということだとすると、本人の健康のことよりも、国の経済のことを優先させることになります。
 太平洋戦争中、敵の国の言葉を使うのは非国民とされました。その結果、学問に必要な国際的な成果を踏まえるための英語圏の文献を読む道を、国は閉ざしてしまいました。文化的鎖国国家になってしまったのです。先細りするのは当然の結果です。そういうところに、国の都合が優先される場合の問題点の一つがあるように思います。
 少し前から、「ゆとりある教育」ということが、国の教育方針として掲げられました。その結果、学力が低下したというので、全国一斉の学力調査が行われるようになりました。「ゆとりある教育」は蔭が薄くなってしまいました。
 今、一般市民の間では無差別殺人だけでなく、高級官僚や社会的責任を担っている人たちの間での収賄、汚職、欺瞞による問題が次々に起こっています。これは体の「メタボ」の問題どころではなく、乾いて、やせ衰えて、見る影もなくなった、貧しい「心」の問題ではないでしょうか。しかも、もっと問題なのは、そういう自分の「心の貧しさ」に気が付いていないことであります。
 それが逆に言うと「本当に豊かなもの」に触れていないからではないかと思います。今、食べ物は豊かにありますが、それが人間の中味を豊かにしてはいませんし、貧しさの補いにはなりません。こういう問題を一挙に解決できるとは思いませんが、少なくとも本当の豊かさがどこにあるかと言うことを考えさせ、その方向を示すものが聖書であり、イエス・キリストの生涯を知ることにあると思っています。
 篠田 潔
 (参照聖句・マタイによる福音書5:3)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
 
10月  3日  横山良樹  (日本基督教団半田教会牧師)s-P7020128.jpg
    10日  横山良樹  (日本基督教団半田教会牧師)
    17日  加藤幹夫  (日本基督教団阿漕教会牧師)
    24日  加藤幹夫  (日本基督教団阿漕教会牧師)
    31日  加藤幹夫  (日本基督教団阿漕教会牧師)
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 
=ピラカンサ=
☆ このラジオが教会に行くきっかけになり、もう30年になります。聞き逃したことは数回で、この放送から一週間が始まるようになりました。   名古屋市 W・Tさん
☆ 病院生活8年目、教会に行けなくなったのも8年になります。ふとしたことで聴くようになり、礼拝の順番のようで、とても嬉しいです。三年前から「つのぶえジャーナル」もいただけて、外出できない私には、各地におられる方の声や様子に接し、つい孤立しがちな病床生活に楽しみがふえて感謝しています。       岡崎市  H・Hさん
  あなたに聖書を
 
 「いのちは大切にしなければならない。」ということが言われています。また「いのちは地球よりも重い」と言って、いのちの大切さが語られています。これは交通事故による死傷者が多いことや、麻薬などによって身体も心も蝕まれていく人がいることや、自殺・他殺が後をたたないことなどを憂えてのことでありまして、すべての人の命が、不注意や無責任によって損なわれるようなことがあってならない、という戒めであります。
 
 ただし、「いのち」というものは、体のいのちのことに限らないのではないかと思います。今から60年前、私が青少年の時代には軍歌で「東洋平和のためならば何の命が惜しかろう」と歌い、この目的実現のために戦争で死ぬことを讃えたものです。これは今の自爆テロが、自分たちの願っている理想実現のために命を捨てることは善いことだと信じているのと同じで、それとは違った考え方や方法があることに思いを寄せることが出来ない頑なさのせではないかと思います。
 
 そういうことから言って、わたしたちの命はなぜ大切にしなければならないのか、また命をかけてでも本当に大切にしなければならないものは何か、要するに人生の基本指針というべきものが、改めて問われているように思います。
 
 その点について、イエス・キリストは「先ず、神の国と神の義とを求めなさい」と言われています。そして、その言葉と業とによって、それを求める生き方を示されました。それは、単純に言えば、神を信じ、人を愛することであります。
 
 しかし、そういうことがそう単純には出来ないところに人間の問題があります。が、その問題の解決のためにイエス・キリストが来られたのであるから、キリストを信じ、キリストに従って生きなさい、というのが、聖書が伝えていることの重点であります。 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・マタイ6:33)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
    「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
 9月 5日  大西敏雄  (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
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   12日  大西敏雄  (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
   19日  木下裕也  (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
   26日  木下裕也  (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 
この放送事業に関わらせて頂いて40年ほどになります。多くの方とお便りの交換をさせて頂きました。二代に亘る方もおられますし、心の病で入院生活30年の方は毎月2回はお便りくださいます。長い入院生活ですから、入退院も多いのですが、自分は何時も取り残されてしまうと、心の淋しさを便箋に何枚もしたためて下さいます。継続を考えます時、ラジオも文書も人の業ではなく、神様のみ業であることを深く改めて教えられます。(主事・長村)
 
  あなたに聖書を
 最近、「国家の品格」とか「女の品格」とか言って、「品格」という言葉が、よく使われています。広辞苑によりますと、「品格」と言うのは、第一に「物の良し悪しの程度」のこと、第二に「品位。気品」のことを言う、とありました。そしてこの言葉の使用例として、「品位や気品のある女性」という言葉が載っていました。
 これを読みまして、広辞苑の編集者には、「品位」という、男性よりは「女性」にふさわしい表現と考えられたのかなあ、と思いました。しかし、「品位を保つ」とか「品位を落とす」とか言うこともありますから、「品格」とか「品位」とかは、男女を問わず、大小の集団、更には民族や国家のも適用される言葉ではないかと思いますが如何でしょうか。
 
 ところで、近時、牛肉など食品の偽装がありました。また政府役人の収賄や汚職問題、また、無差別殺人なども問題となりました。こういうことは、ことの大小を問わず、昔から絶えず起こっている人間の問題でありますが、これは正に「人間の品格」は問われている問題でありまして、今日、いろんな品格が取り上げられている中で、私は、「人間の品格」ということは、最も基本的に取り上げられ、問題にされなくてはならないのではないか、と思うのです。但し、この品格と言うものが、何に基づいて決められるのか、また何を目指しているかによって評価されるのか、ということが基本的な問題ではないかと思うのです。
 
 戦後、「期待される人間像」が議論されました。最近では「教育基本法」が変えられました。これは、日本人の人間の品格のありようが決められたことになりますが、しかし、そういう限定で良いのかという問題が残っています。
 この点に関して、イエス・キリストは「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」と言っています。神とは絶対的なもの、また究極的な存在であります。この神との関係において絶えず自分を問うて生きていく、というところに、人間として相応しい品格が養われる、と言うのが、聖書が伝えているところであります。 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・マタイ6:33)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
    「キリストへの時間」放送予定P7010122.jpg
       (放送開始1952年10月)
 9月 5日  大西敏雄  (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
    12日  大西敏雄  (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
    19日  木下裕也  (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
    26日  木下裕也  (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
 
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 
 
  あなたに聖書を
 
 わたくしたちは、様々な仕方で、自分というものを知らされています。鏡を見ること、他人の姿や書物に触れること、様々なテストや試練を受けること、災害や危機に遭遇することなどによって、自分を知らされます。
 
 ところで、あなたには、誰かに自分が見られているという、自分以外の人からの視線を感じたことが無かったでしょうか。最近問題になっている、自分を不愉快にするストーカーの視線は嫌な視線です。しかし、恋愛関係が生まれる時の相手の視線は好ましい視線です。そういう風に、自分が好ましいものとして見られている自分であることを知らされる時には、自分という者の捉え方や生き方が、その相手に相応しいように変ってきます。
 
 この点に関して、パウロは、ガラテヤの信徒の手紙の中で、この人たちに「あなたがたは今神を知っている、いや、むしろ神に知られているのではないか」と言っています。パウロという人は、ユダヤ人としてはエリートとして、またキリスト教大反対、クリスチャン撲滅運動の先頭に立っている人として知られていた人です。こういう自分であることにいささかの疑いを持たず、むしろそういう自分であることを誇りにしていた人でした。
 
 ところが、その撲滅運動のさなかで、復活して生きているキリストから声をかけられ、パウロを、キリストのことを伝える有力な人物として用いることにしているということを告げられました。自分のことを、自分が考えているような捉え方ではなく、こういう思いもよらないような期待で見られている自分であることを知らされたのが、「目から鱗のようなものが落ちた」ということでした。見られている者としての自分を知ったのでした。
 
 聖書は、あなたに、キリストによって、「神様から見られているあなた」のことを知らせる書物です。これによってあなたも、今までとは違った自分についての理解をされ、新しく生きられるようにと願っています。
 
篠田 潔
 
 
(参照聖句・ガラテヤ4:9)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
      ::::::::::::::
 
     「キリストへの時間」放送予定
      (放送開始1952年10月)
 CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送bc86c952.jpg
 
7月 4日 楠本茂貴 (名古屋高等学校・中学校聖書科主任)
  11日 大藪博康 (名古屋高等学校・中学校宗教部長)
  18日 大宮有博 (名古屋学院大学商学部准教授)
  25日 葛井義憲 (名古屋学院大学人間健康学部教授・宗教部長)
 
 この放送は「日本基督教団・日本キリスト改革派教会・金城学院・名古屋学院・岐阜済美学院・米国南長老教会と皆様の献金」で提供されています。
 
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 わたくしは、人生の終わりに近づいていると思っておられるような方から、「自分に人生には悔いはない」とおっしゃるのをお聞きすることがあります。その都度、わたくしは「それは結構ですね」と言いますが、心の中では、「どうしてそういうことが言えるのかなあ」と思うことがあります。というわけは、「悔いのない人生」とは、何を基準にしてそういうことができるか、ということと、むしろ、人生には様々な悔いがあるのではないかと思うからです。
 昔から「性善説」と「性悪説」とが説かれてきました。が、それは、人間の性質は、そのどちらかでもある、ということではないかと思います。新聞などで、よく犯罪者の近くにいた人の感想として、「あんなに真面目な人があんなことをするとは信じられない」と述べられることがあります。まことにそうでありまして、人間は「時に天使に近いようになることがあるが、同時に悪魔のようになる者でもある」からであります。
 ある人は、「自分の人生に悔いはない」と言い、またある人は、「自分の人生に悔いのみ残る」と言われます。いずれも、その人にとってはそうでありましょうが、いずれもその人の主観によるものでありまして、本当にそれを定める基準があってのことではありません。
 聖書という書物は、ある意味において「あなたは何者であるか」という質問と、その答えを出している書物であります。コリントの信徒への手紙1の4章の中で、パウロは「わたしは自分で自分を裁くことすらしません。何もやましいところはないが、それで自分がよろしいとされるわけではありません。わたしを裁くのは主です」と言っています。
 宗教の根本問題は、この自分を裁くことが出来るものは誰か、ということにあります。
 どうか、あなたも、聖書によって、自分にとってのまことの裁き主が誰であるかを知り、それによって、揺るぎない自分として生きる秘訣を知り、そういう自分として生きていただきたい、と願っています。
 
篠田 潔      (写真:ヤマツツジ)
 
(参照聖句・Ⅰコリント4・3~5)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
 
  あなたに聖書を
 
 わたくしたちは「おめでとう」という言葉をよく使います。自分が人にいう場合もありますが、人から言われる場合もあります。基本的な一つは学校へ入学した時でしょうね。その時からあと数年間、学校での教育を受けるということは、それだけ様々な点において成長するわけですから、入学ということはそういう成長コースに入れたということで、めでたくないはずは
ありません。
 旧約聖書の中に「コヘレトの言葉」というのがありまして、その第7章8節には、「事の終わりは始めにまさる」といわれています。終わりの方が始めよりまさっている、というのは、さっき言った入学の時より卒業の時の方が目出度いということから言って、まことにそうだと思いますね。
 考えてみますと、わたくしたちは、生まれた時「おめでとう」と声をかけられたと思います。それは、人生という学校に入学したようなもので、その時から、あらゆることを吸収して成長するに至る人生コースのテープが切られたことですからね。
 とすれば、そのコースの終わりは「死」ですから、「死ぬこと」が一人一人の人生学校の卒業式に当るわけです。「おめでとう」という性質のことではないでしょうか。もちろん履修単位が決まっているわけではありませんから、卒業認定もありませんが、事柄としては、「コヘレトの言葉」のように、「事の終わりは始めに比べたらはるかにまさっている」と言えるのではないでしょうか。そして、その意味では、昨日より今日が、いつもまさっている、と言えるのではないでしょうか。
 但し、そういうことが言えるのは、この人生学校の校長先生が、本当に責任を持って指導し、育ててくれる方でなくてはならなりません。それが神様であり、イエス・キリストである、ということを、聖書は伝えているのであります。 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・コヘレトの言葉7章8節)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 284efd66.jpg あなたに聖書を
 
 イエス・キリストが言われた言葉の一つに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というのがあります。疲れた者、重荷を負うものへの招きの言葉であります。今日では「疲れた者」に対しては「温泉につかってゆっくりしなさい」とか「疲労回復のドリンクを飲みなさい」とかいう指示がなされますし、「重荷を負う者」に対しては、社会福祉制度の中での様々な面で、その重荷を軽くするための働きがなされ、それ相応に担われています。
そういう点で、疲れた者や重荷を負っている者に、キリストが必要と言うことはありません。私も疲れた時にはその疲れを癒すための工夫を自分でしますし、重荷を背負う時には誰かに助けを求めて、軽くすることを考えますから、別にキリストの助けを求めません。
 
ところで、釈迦が出家したのは生老病死という4つの苦しみからの解脱(げだつ)を求めてのことであったと言われています。それが出来れば安心出来る、つまり心休まる、ということであった
わけです。それが、悟りを得る、ということに伴うことであったと理解しています。
そういうことから言いますと、疲れとか重荷とか言うものは、その時々のことではなく、むしろ生きていること自体にあるものといえるのではないか、そして、それは、自分の力やこの世にある力によって解決できるものではないのではないか、と思うのです。
キリストが、そういう人は「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけておられるのは、「わたしはあなたの疲れや重荷を一緒に引き受けるよ」と言われていることに他なりません。どうにもならないでいる自分の傍らに、本当に頼りになる人が居てくれることくらい、心休まることはありません。
あなたにとって、キリストとはそういうお方であると言うことを、聖書は告げているのであります。 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・マタイによる福音書11:28)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
  あなたに聖書をs-2010021112230000.jpg
 
 聖書の中の「山上の説教」の中で語られている言葉の一つを前月号でお知らせしましたが、イエス・キリストは「心の清い人たちは幸いである」とも言われています。「清い心でありたい」ということは、みんながそうありたいと願っていることではないかと思います。特に自分の子供や、若い人たちについては「いつまでも清い心を持ち続けていて欲しい」という願いがあるのではないでしょうか。
 
 しかし、はっきり言って、そういう願いは叶えられそうにありません。というわけは大人の大部分は「心の清らかな人」ではないからです。人里はなれたところに住んでいる人や、世間から隔離されてまるで純粋培養されているような人はともかく、わたしたちは、泥にまみれた世界に生きており、自分だけは全くそれに汚染されていないとは言えません。「清い」という字は、「水が澄き透っている有様」を言うそうです。「混じりけがなく純粋な」ということでしょう。そういう心の状態を考えて、それを目安に「清くなろう」、または「清くならなくてはならない」と考えたり願ったりしても、それは出来ないことです。
 
 キリストが言われた「心の清い人」というのは、自分にとって一番大切なことに心を向けて一途な人、ひたむきな人のことを言うのであります。そうすれば、それに応じた結果を得られます。ただ、この場合、自分にとって何が一番大切なことであるかが問題であります。キリストは、それを明らかにする人として、人間を超えた神の側からこの世に来られた方であります。
 
 従って、キリストによって示されることを信じて、これに生きることを一番大切にする人は、その結果「神を見るに至るであろう」、そして、そのことが、キリストが語られた「幸いな人」であります。あなたにとって、「どういう人が幸いな人」であるか。考えていただくきっかけになれば幸いです。
 
 
(参照聖句・マタイによる福音書5章8節)
 
篠田 潔
 
 
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
  あなたに聖書を
 
09d9dd2b.jpg 聖書の中の、マタイによる福音書に、「山上の説教」と呼ばれている箇所があります。その中で、イエス・キリストは「心の貧しい人は幸いである」と言っておられます。わたくしは「心が豊かであってこそ幸いである」と思っておりましたから、キリストが「心が貧しいことが幸いである」と言われても、納得出来ませんでした。この言葉を聞いた他の方々、そして、恐らくあなたの感想も同じではないかと思います。
 
 わたくしたちは、自分の心が、豊かさに満ち溢れている自分であるとは、言えない自分であると思っています。しかし、反対に自分の心がどうしようもなく、貧しい人間であるとも思っていません。ですから恐らく、こういう自分として生きて行くであろうと思い、そしてまた、そういう自分で終わるだろうと思っていました。
 
 ところが、「幸せな人というのは心が貧しい人である」と言われて、はたと行き詰まってしまいました。そこで問題として考えさせられたことは、心が「貧しい」というのは、何を基準としてそう言うのか、ということであります。もちろん物差しで計るような基準はありません。ただ、「心が貧しい」ということは、「いつまでもそのままの状態にとどまってはいたくない」ということですから、そうなった時の自分と言うものは、自分の状態以外のものに心が開かれるようになった自分であるわけです。当然、新しいものが入ってきます。
 
 わたしのことを言いますと、イエス・キリストを知ったとき、「心の豊かな人」というのはこの方である、と知りました。そして、同時に自分の心の貧しさを知らされました。しかし、この自分の心の貧しさを知らされたことは、本当に幸いでした。その幸いは、キリストを通して、天の神様の御心の豊かさ、つまり「天国」がわたしのためのものであることを知らされたからであります。
 (参照聖句・マタイによる福音書5章3節)
 
篠田 潔
 
 
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
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日本人の殆んどの人は「クリスマスは終わった。さあ次はお正月だ」という風に考えているのではないかと思います。若者たちも含めて大人たちもクリスマスパーティを楽しみ、また新年宴会も楽しんでいます。子供たちも、クリスマスプレゼントの後、お年玉ももらえると思っています。そういう時の流れの中で生きているのが、こんにちの一般的な時の捕らえ方ではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 
しかし、聖書を書いた人のとらえ方は、それとは違うんですね。例えば、新約聖書の中の「コリントの信徒への手紙2 5:17」ですが、これを書いたパウロは「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じる」と言っています。「キリストに結ばれる人」というのは、「キリストの命」または「キリストだからもっているもの」を、自分の内に、自分のものとして、受け入れている人のことをいうわけです。
 
とすれば、その時から、自分という者は、今までの自分とは変ったものになっているわけです。今までは自分流に、またこの世の中の流に生きてきた自分が、キリスト流に生きる者に変った、というより変えられたのであります。これが、「新しいものが生まれた」ということであります。
 
クリスマスはキリストの誕生を祝うことでありますが、その誕生によって、自分がキリストに結びついて、新しい者にされるということであるから、祝うのであります。ですから、逆に、自分の内にキリストが誕生されていなければ、自分にとってクリスマスということはないわけです。また、自分の内にキリストが誕生されることというなら、クリスマスは12月25日に限ったことではありません。その人にとってのクリスマスがあるわけです。
 
いずれにしても、そういうこととしてのクリスマスは、キリストの誕生によって、私が新しい自分として生き始める日でありまして、そういう内容を持ったクリスマスを、同時に、新しい歩みを始める日、すなわち新年として祝いたいものであります。
 
篠田 潔
 
(参照聖句・コリントの信徒への手紙2 5:17)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
  あなたに聖書を
 
 68b57f45.jpgクリスマスシーズンであります。クリスマスツリーが飾られたり、サンタクロースが登場したりしますが、
これらは外国から始まったものであります。日本の教会では、明治の
初期、集まってきた子供たちに、(かみしも)を着た人が、篭に入れた蜜柑を配った、という記録があります。
日本風サンタクロースでした。クリスマスケーキというのも日本風のよう
です。クリスマスは喜びの時でありますから、その喜びはさまざまな仕方
で現わされてよろしいでしょう。
 
 クリスマスと言うのは、言葉の上から言えば「キリストの祭り」であります。このキリストの誕生が、どういう意味で、自分にとって喜びであるのか、ということは、改めて考えてよいことではないかと思います。そうでなければ、単に年中行事の一つとして終わるだけで、自分自身へのこととはなりません。私はこれが、全ての人にとって、心からの喜びとなるようにと願っています。
 
 マタイによる福音書一章の中に、天使が乙女マリアに現われて、彼女が男の子を産むであろうという、いわゆる受胎告知をする場面があります。その時、天使は、その子の名は「インマヌエルと呼ばれる」と告げました。「インマヌエル」というのは「神は我々と共におられる」と言う意味です。その神がどういう神であるかはイエス・キリストの全生涯によって知らされるところでありますが、キリストの誕生によって、神が天の高みかどこか、遠い所におられる方ではなく、私たちと共におられる方であることが分かるようになった、ということにおいて、これはもうかけがえのない喜びを与えられたことであります。
 
 キリストの誕生は、あなたの人生がどのようであろうと、神様が常にあなたと共にいて下さる方であることの約束のしるしなのであります。全くの一人ぽっちでしかない時でも「神は共にいて下さる」方です。こんな力強いことはありません。クリスマスのプレゼントは、この「インマヌエル」という神様からの約束でありまして、これにまさる喜びはありません。
 
篠田 潔
 
(参照聖句・マタイによる福音書1:18~23)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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