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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 わたくしたちは、それぞれ、プライドを持って生きています。その場合のプライドというのは「自尊心」のことであり、また「自分についての誇り」を言うのでありまして、その意味では、人に「プライドを持って生きなさい」と勧め、自分自身についても「プライドを持って生きるように」と言い聞かせています。
 
 ただし、その場合、問題となるのは、それが、多分に他の人との比較・対照でのこととなることがあります。たとえば、他の人が持っていないようなブランド物を自分が持っている場合には、プライドが満足させられますが、多くの人が持っているのに自分が持っていない場合には、プライドが傷つけられると言うことがあるわけです。これは何もブランド物に限ったことではありません。持ち物全てについてのことであります。他の人が持っていないものを自分が持っていることを自慢することがあるということであります。
 
「プライド」という言葉のもともとの意味は「高慢」であり、「自慢」であります。これは、自分を他人よりも高い者でありたいという利己心であります。また、それが、虚栄心を生むことにもなります。わたくしの場合、買ったものの読まないで終わっている本が沢山ありますが、これなども、自分はこういう本を持っているのだという自分自身への虚栄心を満足させるに過ぎないのではないかと思うことがあります。
 
パウロは、フィリピの信徒への手紙の第2章で「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と勧めています。
これは、神様の前には自慢できるようなものは何一つ無いわたしたちを、神様は愛していて下さるのであるから、誇るならこのことを誇り、このことに揺るぎないプライドを与えられている者として、お互いを大切にしようではないかという勧めであります。
 
篠田 潔
 
(参照聖句・フィリピの信徒への手紙2:3)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
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  あなたに聖書を
 
 わたくしたちの大部分は見える目を持っています。したがって、この世の中は、見えることを前提としています。そして、その目がどれだけ良く見える目であるか、視力検査をします。その結果、0.1とか0.2とかでは、視力が十分でない、と言われます。そして、こういう人は、良く見える目の持ち主でないと勤まらない仕事場では、使ってもらえません。
 
 ということから言って、目が見えない人は、見えることを前提としている世界からは、取り残されています。ですから、みんな、良く見える目を持っていたいと願うわけです。キリストは、そういう人の目を癒されました。それは、見えないでいる人からその苦しみを取り除こうとされてのことでした。
 その働きは、今日においても医者の働きとして受け継がれておりまして、まことに喜ばしいことであります。
 
 しかし、そのことは、目が良く見えたらよい、とは必ずしも言えない問題をはらんでいます。それは、人間の目は、肉眼としての視力だけでは捉えきれない問題を孕んでいるからです。それは、例えば、同じものを見るにしても嫉妬心をもって見るのと、喜ばしいこと、祝福として見るのとでは、大きく違います。
 
 キリストは野原に咲いている一輪の花の美しさは、人間は造ったあらゆるものの美しさに優るものであるということと、そこに神の計らいに委ねるものの美しさが秘められているのではないか、と言われまして、こういう風に見る目は、視力検査で計ることができるものではありません。逆に、視力が衰えても自分と人の人生を祝福されるものとしてとらえることができる眼力を持っている人もいます。bcd3fa97.jpg
 「見える」と思っている自分の目が、その実、本当に見るべきものが見えていない目であることを知ることと、隠されている神の働きの素晴らしさを見ることが出来る目を与えられたいと願うものです。
 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・ヨハネ福音書9:39)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
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 私は、ホスピスに入院しておられる方々とお話をする役目を与えられています。いろいろな質問を受ける中で、時に「死んだらその後どうなりますか」と聞かれることがあります。それは、間もなく自分が亡くなることを予想されてのことであります。この先、自分がどうなるか分からないのが不安である、というところから出される質問であります。しかし、これは癌末期にある人だけでなく、全ての人にとっての問題であろうと思います。
 
 さて、こういう質問に対して、私は「私にはわかりません」と答えています。それは、死んだ後のことについては確かめようがないからであります。もちろん、これについて、例えば地獄・極楽のことなどを含めて様々な説明をされた方や、今もされる方がおられます。また、それを信じている方もおられます。それは、それぞれが想像したり、何かの示しを受けてのことであろうと思いますし、それを信じて人生を送っておられる方もあるかと思いますから、どういう答えが正しいとも正しくないとも言えません。
 
 ところで、聖書の中に出てくるアブラハムという人は、神様から「生まれた故郷を離れて、わたしが示すところへ行きなさい」と言われたとき、住み慣れたところを離れ、行き先のことは知らないまま出発しました。75歳のことでした。無謀と言えば無謀です。しかし、アブラハムは、行く先のことはよく分からなくても、旅立ちを促したのは神様ですから、神様が責任を持って下さると信じて出発しました。
 
 最初に言いました「死んだらどうなりますか」という質問に対しては、私は、「アブラハムは行く先どうなるか分かっていなくても、神様に促されての旅を続けました。だから、あなたも、この先のことはよく分からなくても歩き続けられてよろしいのではありませんか」と答えることにしています。 
 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・へブライ人への手紙11:8)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
 あなたに聖書を
 
 私は、子供の頃、子供同士で何かの取り決めをした際に、「指切りげんまん、ウソついたら針千本飲~ましょ」と言い合ったのを覚えています。また「ウソついたら、地獄で閻魔さんに舌を抜かれる」ということとか、「ウソつきは泥棒の始まり」とかいう言葉を、特定の誰かに言われたわけではありませんが、子供の時からよく聞かされたことを覚えています。それは恐らく世の中を生きていくために必要な基本的戒めとされていたからであろうと思います。
 モーセの十戒の中にも「隣人に関して偽証してはならない」という戒めが神様からの戒めとしてありますが、これは、私たちが、この世の中を安心して生きて行くことができるための必要条件であるからであります。
 
7ead2f81.jpg ということは、逆にいうと、人間はウソをつくものである、という前提があるということであります。実際、今日私たちの国は、ウソで塗り固められていると言ってよいほどの状況であります。国会での議論の中で、食品の表示の中に、また身分や資格を示す肩書きにおいて、そのほか振り込め詐欺や、建築設計や工事における偽りなどがそうであります。そして、これから先も、そういうウソツキはなくならないであろうと思わざるをえません。
 
 では、どうして人はウソをつくのでしょうか。考えられることの一つは、自分を守るためであります。本当のことを言うと、自分にとって都合が悪くなることが予想されるからです。しかし、自分にウソをつかせるように命令する・自分の中にいるもう一人の自分は、それをよいとするでしょうか。ウソつきの自分をそのままにしておいてよろしいでしょうか。それが、自分を大切に守ることになるでしょうか。
 人間は、時に、自分のしていることが分からなくなることがあります。そういう意味で、どんな時にも、「ウソをついてはならない」ということを、絶対命令として聞かなければならないと思うのであります。 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・出エジプト記20:16))
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 あなたに聖書を
 
 新聞やテレビなどで、運勢占いや人生相談がなされています。こういうことは昔から後を絶ちません。といことは、人間誰しも自分の人生について、どんな場合にも、「これで良し」といえるような自信を持っていないからではないかと思います。それで、自分以外の人や、自分が知らない方法で、何か権威があって確かにそうなものに依り頼み、その答えによって自分の行き方を決める、あるいは自分の生き方を決める参考にする、というので運勢占いや人生相談がなされるのでしょう。
 
 こういう点について、イエス・キリストは、非常にはっきりと、人生を生きる基本的なあり方を語っています。それはマタイ福音書第6章の中で「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」と言われていることであります。その意味は「人生において一番大切なことは、神様の御心が実現するように願うことと、神様から『よろしい』と言われるように生きなさい」ということであります。s-IMG_0014.jpg
 
 考えてみますと、運勢占いにしても人生相談にしても、そういうことをするのは、自分の幸せや、自分の都合のことを先ず考えてのことであります。ですから、先ず神様のことをと言われると 面食らってしまいます。しかし、イエス・キリストは、何よりも神様の御心を大切にしなさい、と勧められます。
 
 それは、神様は「すべての人を正しく生かす」ことを願っておられます。それは、神様の御心を一番大切にするなら、自分の都合だけでなく、自分以外の人の都合も考えなくてはなりません。そうなった時、わたしたちは「隣人と共に生きる」者となります。また、そうすることは、自分のことしか考えていなかった自分から解放され、自由になり、救い出されることであります。
 
 占いや人生相談に頼らなくても、聖書はイエス・キリストによる人生の基本指針を示しています。これに従って生きるところに、自分も他人も共に生きることが出来るものでありまして、これが、神様からの祝福であります。
 
 
篠田 潔
 
(参照聖句マタイによる福音書6・33)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
 あなたに聖書を
 
  篠田 潔
 
 聖書の中に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という勧めの言葉があります。こういう言葉を聞きますと、「そういうことが出来れば良いとは思うが、とても出来そうもないなあ」というのが、先ず大方の反応ではないかと思います。
 
 と申しますのは、わたしたちの人生には、悲しい時や悩んでいる時もあるのですから、そう「いつも喜びなさい」というのは、それは無理なことではないか、と思うわけです。また「どんなことにも感謝しなさい」と言われても、感謝できないこともあるのですから「おっしゃるようには参りません」というのが私共の事実であります。まして「絶えず祈りなさい」なんてことは、「とても出来ません」としか言えません。そうなると、聖書の言葉は、結局、人間が頑張っても出来そうもないことを勧めているのかということになります。42248d8b.jpg
 
 この言葉はパウロという人物がテサロニケという町にいるキリスト信徒に宛てて書いた手紙の中に出てくる言葉でありますが、それに続けて「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と述べています。この「キリスト・イエスにおいて」というのはどういうことかと言いますと、キリストを知ると言うことは、神様がいつも共にいてくださると言うことが分かることなのですね。
 
 喜んでいる時も、悲しんでいる時も、悩んでいる時も、また絶望している時も、死ぬことを恐れている時も、自分独りではなく、神様が共にいて下さることが分かれば、それは喜んで良いことであり、感謝すべきことであり、また祈ることが出来ることではないか、ということなのです。
 
 つまり、自分の思い煩いの全てを委ねることが出来る方がおられるかということであります。キリスト・イエスを知ると言うことは、そういうことが分かり、またできる理由であり、秘訣でもある、というのが聖書が告げていることであります。
(参照聖句・テサロニケの信徒への手紙一 5:16~8)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
 あなたに聖書を
 
  篠田 潔
 
 「目からうろこ」という言葉を聞くことがあります。今まで考えてもいなかったようなことを知らされて、「はっ」と驚くような経験をした場合に使われる言葉でありますが、これは、もともと新約聖書の使徒言行録9章に記されているパウロの経験したことが表現されている言葉でありまして、それが、その後諺のように多くの人に使われるようになったものであります。
 
 そのパウロの経験と言うのは、この人はもともとイエスという人物を神の子であり救い主であると信じるなんてことはもってのほかで、神様を冒涜するのも甚だしいこととして許しておけないというので、クリスチャン撲滅運動をしていた人でした。それが神さまに仕えることであると信じて、何のためらいもありませんでした。
 
 00998fb4.jpgところがある日、ダマスコという町にいるクリスチャンを迫害しようとして出かけた途中、復活のイエスに出会うという不思議な体験をしました。その時パウロは地面にぶっ倒れて、ものも言えず目も見えず食事も出来ないくらいのショックを受けたと言います。
 
 それは、今まで自分が正しいと信じて生きてきたこと全てが、キリストとの出会いによって、まるで違っていたのではないかと思わされるに至ったからです。これは、パウロにとっては、今までの自分がまるで死んでしまうような出来事でした。こういう状況から立ち上がることは、自分では出来ません。幸いアナニヤという人がいてパウロのために祈ってくれたことによって、自分が体験したことが何であったかを知らされました。
 この時の経験が「目からうろこのようなもの」が落ちて、全てのことがはっきり分かるようになった、というのであります。
 
 このパウロの経験に即して言いますと、わたしたちも自分では気付いておりませんが、自分の目で見ている自分ではなく、キリストによって知られている自分を見出することによって、新しい自分に変えられることの大切さを思うのであります。あなたの目からも、キリストを知ることによって、目からうろこが落とされるという幸を得られるようにと願っております。
 
(参照聖句・使徒言行録9:10~19)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
 あなたに聖書を
 
  篠田 潔
 
 ただ今は車社会でありまして、家庭の主婦なども買い物に行くのに自動車に乗って行くなどは、ごく当たり前のことになっています。比較的手軽に乗れるというので軽自動車が使われるのが多いようでありますが、これが同じ会社の社宅に住んでいて、部長夫人が国産軽自動車で、その部下の夫人が外車の高級車を乗り回していたりすると、何となく話題の種になりそうです。それは総理大臣がトヨペットに乗っていて秘書がリムジンを使っているのと同じように何かバランスを欠いているように感じられるのでないでしょうか。
 
 ところで、イエス・キリストは、エルサレムの都に入城される時も、まだ誰も乗ったことのないロバの子を使われました。王様や軍隊の司令官などは、こういう時には立派な馬を使います。日本でも昭和天皇は白馬にまたがっていました。皆、そういう乗り物がその人に相応しいからです。ロバの子では何とも様になりません。しかし、キリストは違っていました。自分の乗るには子どものロバが相応しいとされたのでした。
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 これは何を意味していたのかと言いますと、先ず「まだ誰も乗ったことのない子どものロバ」というのは、どれほど役立つか分かっておりません。人間で言うと業績や資格を証明する経歴書みたいなものはないのです。事実、キリストは取り立てて優れたところのない、そしてキリストの働きにどれだけ役に立つかは全く未知数の人たちを弟子にされました。そうして、キリストの働きに用いられました。
 
 次に、子どものロバは戦争に使われることはありません。ブッシュ前大統領は軍馬にまたがったキリストを思い浮かべたから戦争を仕掛けたのでしょうが、これは明らかに見当違いですし、幻想のキリストにほかなりません。正真正銘のキリストは、軍事力を持たず人々の思いを和やかにするロバの子に乗ったことによって、平和の実現者として都入りされたのでした。
 このキリストに用いられて、私たちも平和の担い手となりたいものです。
 
(参照聖句・ルカによる福音書19:28~38)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
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   篠田 潔
 
 少し前から「自分を見つめる」とか「自分探し」とかいうことが言われるようになってきています。「自分とは何者なのか」ということはずっと以前からの変らない人間についての探究課題でありますが、今日また改めて問題になっているのは、自分を見定め難い状況になってきているせいではないかと思います。これは大正末期から太平洋戦争時代に、全ての国民が、自分は国家のため、天皇のために生きるのだと信じ込まされていたことに比べると、良いことであると言えます。
 しかし、自分と言う存在を確かめられないのは不安でありますから、何とかしてこれを確かめたいと思うのは当然であります。
 
 自分は自分として立つことを主体性の確立と呼ぶことが出来ます。論語を書いた孔子は「30にして立つ」と言いましたから、30歳にもまれば、主体性が確立していなくてはならないということでしょう。しかし、30過ぎた人は皆主体性が確立していると言えるでしょうか。主体性というのは、自分が自分の主人公であることを言うのでありますが、自分がそうなっているかどうか甚だ怪しいと思われる点が少なくありません。吹く風のように絶えず変るのが事実であるからです。
 中には、「おれは大丈夫だ」とか、反対に「わたしなんかダメです」とか、自分のことは自分が一番よく知っているかのように言う人もいますが、そういう自己判断をしている自分の確かさを裏付けるものは何かと問われたら、答えられないのではないでしょうか。要するに、自分は揺るぎのない確かな主人公となる自分ではあり得ないということであります。
 
 自分探しと言い、自己探求と言い、自分を見つめると言いますが、それは自分だけで出来ることではなく、自分を超えたもの、それも揺るぎなく確かなものとの出会いがなくては叶わないことでありまして、人は全てそういう出会いを求めてきたと思うのです。
 
 これについて聖書は、「イエスは主なり」と告げています。この主を自分の内に迎え入れるところに自分の主体性が確立されると言うのが、あなたへの聖書のメッセージであります。
 
(参照聖句・フィリピの信徒への手紙1:21)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
 あなたに聖書を
   篠田 潔
 
 「1年の計は元旦にあり」と言われています。1年の始めには、その1年をどう過ごし、どう生きようかについてじっくり考えることが大切である、ということでしょう。その他、「何事も始めが肝心」とか、「初心忘るべからず」とか言います。
 いずれも、事を始めるに当っては、最初に十分な計画と心構えをしておきなさいと言う勧めであります。
 
b4ce12df.jpg ただし、そうは言っても、最初の決心が三日坊主に終わってしまうことは少なくありません。それは自分についての捉え方が甘いからでしょうし、事の始めにそれほど慎重に考えていなかったせいもありましょう。それと、どんなに慎重な計画をもって始めてたとしても、自分を取り巻く状況が全く思いもよらないように変ることによって、挫折することもあります。
 
 更には、1年の計にしても初心にしても、それは自分が自分で決めなくてはならないことではありますが、その自分というというものがどれだけ確かな自分であるか、という問題もあります。1年の運勢を占ってもらったり、おみくじを引いて、その年が吉か凶かを見てから考えたりするのも、自分の考えだけでは心もとないからでしょう。
 
 ところで、マルコ福音書1章35節には、「朝早く、まだ暗いうちに、イエスは起きて、人里はなれた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と記されています。これが毎朝のことであったか、また、たまのことであったかは分かりませんが、それは1つには初心と言うべきものの確認をしておかないと自分が失われてしまうという危機意識を持っておられたからではないかということと、いま1つには、その認識を自分の中だけでしないで神様との対話の中でなされことであったと考えられます。2a934fb7.jpg
 「祈っておられた」というのは神様を相手にされていたことであるからです。このキリストに倣うところに、わたしたちの1年の計や初心と呼ばれるものの確かさが保証される鍵があると思うのですが、どうでしょうか。
 
(参照聖句・マルコ福音書1:35)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
 あなたに聖書を
 
  篠田 潔
 
 こんなことがありました。安部内閣の発足に当たって、安部首相は「美しい国日本」を目指す、と言いました。「汚い国日本」なんていうものを誰も目指したくありませんから、「美しい国」を目指すというのは、誰も反対しませんし、反対できません。むしろ、本当にそうあって欲しいと願うことであります。
 
 しかし、どういうことを「美しい」と見るか、また考えるか、となると、これには様々な問題が出てきます。例えば、運動会や体育祭での整然とした集団体操などは「美しい」と見ることができますが、北朝鮮の軍隊の一糸乱れぬ行進振りも同じように「美しい」と見えるでしょうか。キム・ジョンイルは「美しい・見事だ」と見るでしょうが、わたくしには薄気味悪く思えます。あなたは如何でしょうか。079fd895.jpg
 
 パウロは「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と言っています。自動車などなかった時代、喜ばしい知らせを伝えようと走って来た人の足は、埃だらけで、かすり傷もあって、お世辞にも「美しい足」とは言えなかったに違いありません。しかし、この人によって嬉しい知らせを聞いた人にとっては、その足は、美しく貴いものに見える、ということをパウロは述べているのであります。
 
 同じように、髪を振り乱し、汗や埃にまみれた女性の顔であっても、それが子供のために必死に生きている母親の顔であれば、それはこの上もなく「美しい」と言えるのではないでしょうか。
 
 「美しさ」には自然のものもあれば人間の力によって作られたものもあります。しかし、何をもって「美しい」と見るか、その基本となる事柄を正しく捉えていないと、見せかけのものだけで判断してしまうことになります。人を喜ばせようと走って来て汚れた足や、子供のために疲れている母の顔に秘められているものが「愛」に他ならないことを思いますと、この「愛によって生み出され現されているもの」を「美しいと見る目」が必要であります。
 
 「美しい国」とは、そういう意味で、一人一人が本当に愛し愛されている国のことを言う、という基本的な考えを、お互いにしっかり持っていたいものです。
 
(参照聖句・ルカ福音書2:11)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
 あなたに聖書を
 
  篠田 潔
 
わたしたちの間では、誕生日のお祝いが行われます。バースデーケーキやプレゼントを用意したりして祝います。楽しい祝いです。いうまでもないことですが、誕生日のお祝いは、その日に生まれてその日を祝われる人があってのことであります。
 
 その人に向かって「おめでとう」というのであります。その人がいなければ誕生日のお祝いをすることはありません。また、その人が自分と親しい関係にあり、その人をよく知っているからお祝いするのでありまして、親しくもなく、知ってもいない人のために誕生日のお祝いをすることなどありません。
 
 こういう分かりきったことを言うのは、今、クリスマスシーズンだからであります。ご承知のようにクリスマスというのはキリストの誕生のお祝いであります。ところが誕生を祝われるキリストのことを知らなくて、したがって、キリスト抜きでその誕生を祝うというのは、何ともヘンなことではないかと思うのですが、如何でしょうか。
 
 ところが、実際には11月の終わり頃からデパートのクリスマスセールが始められ、ホテルでのクリスマスディナーショウのパーテイー券が売り出され、町のあちこちにイルミネーションが輝いたりして、クリスマスムードが盛り上げられています。
 
 c744f9ff.jpgですから、これはクリスマスそのものを祝うと言うよりも、楽しいこと、お金が儲かることのために作り上げられたクリスマスという名前のムード作りがなされ、そのムードによって得られるものを喜んではいないかと思えてなりません。
 
 しかし、クリスマスはキリストの誕生のお祝いであります。キリストというのは「救い主」という意味の言葉であります。何を「救い」というかについてはいろんなことが考えられるでしょうが、聖書がいう「救い」は、本当のものでないものや事柄に取り付かれていて、その自覚もないままに、本来の自己と言うべきものを失っている状況から解放されることであります。その解放者がキリストであります。
 どうか聖書によってその救いをもたらしてくださるキリストを知って、クリスマスが祝われるようにと願っています。 
 
(参照聖句・ルカ福音書2:11)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
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森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

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電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
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東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
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