2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
あなたに聖書を
篠田 潔
わたしたちの中には、誰か有名人に会ったことがあると、その人を知っていることを、誇らしげに言うことがあるように思います。またタレントとして知られている人と握手したり、その人からサインを貰っていたりすると、そのことを喜んで人に話すと思います。それは有名人と接触したことによって、そういう人が持っている優れたものに、自分があやかることが出来たという、心理的な満足感や、他の人が味わっていないことを自分は味わっているという優越感があるからだと思います。
ところで、イエス・キリストは、弟子たちを派遣するに当たって、「イスラエルの家の失われた羊の所へ行きなさい」と命じられました。「失われた羊」というのは、仲間から外れている者のことであり、共に生きる喜びを失っている人のことであります。有名人やタレントに触れることは喜んでいますが、失われた羊のような人の所へ行くことは、そういうことをしても何の得もありませんから、すすんでしようとはしないのが、わたしたちの実状ではないかと思います。
ところが、キリストは、みんなから失われている人のところへ行くように、と言われました。それは、キリストが心にかけておられたのは、有名人やタレントのような人でなく、失われた人たちであったからです、失われた人たちが「自分は失われていないのだ」と思うに至るのは、そういう人の傍らにいて、いつも「わたしがついているよ」と声をかけてくれる人がいることを知ることによります。
それは自分が愛されていることを知ることであります。自分が愛されていることを知る時、人は失われた存在ではなくなります。
ということを考える時、キリストが「失われた羊のところへ行きなさい」と言われたのは、失われた者を愛しなさい、という勧めに他ならなかったと思うのであります。それは、キリスト自身が、そのために、命をかけられたことであったからです。わたしたちの目の向く所、心の向く所、愛する対象が、キリストが言われているように、自分自身を含めて、この失われている者へと変えられることが、聖書が求めていることであります。
(参照聖句・マタイ福音書10:5~6)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
PR
あなたに聖書を
篠田 潔
新約聖書の中のマルコ福音書10章に、一人の青年がキリストのところにやって来て「先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたことが書いてあります。「自分探し」をしている若者や、「生きる意味は何か」を問うている人は、「本当に確かな自分とは何か」「悔いのない生き方は何によって得られるか」ということを問うているのでありまして、人間にとって永遠の課題であると言えます。
こういう問題については、多くの人が、それそれに様々な答えを出してきました。キリストを訪ねた青年も、何をしなければならないかについては、モーセの十戒に示されている戒めを、先輩たちから受け継がれている最も大切な教訓として知っており、実際に守り行ってきた人たちでした。
この青年に対して、キリストは「あなたの持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。これは、キリストが、この青年の真面目さを認めたうえで彼が「永遠の命」という本当に確かなものを、今の自分の上にもう一つ何かを加えることによって得ようとしていることの見当違いを指摘された上で、本当に確かなものはキリストに従うことにある、と答えられたことでした。
これは彼の人生に対する診断書と処方箋を出されたことであったと言えます。厳しくしかも適切であり、また親切な回答でありました。それは彼が全く新しい人、つまり永遠の確かさに生きる人へと変える秘訣であったからです。この青年はこの秘訣を教えられながら、自分が抱え込んでいるものを捨てることが出来ませんでした。宝の山のあり場所を知らされながら宝を得られなかったのでした。
本当に確かなものは、自分の考えや経験を越えて、キリストが示されるところにある、というのが、聖書が提供している福音の秘訣であります。
(参照聖句マルコ10・17~22)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
あなたに聖書を
篠田 潔
私たちには、様々な苦しみがあります。牧師である私は、「どうして、わたしがだけこういう苦しみに会わなくては成らないのか」と言う質問を受けることがよくあります。「そのわけが分かればこの苦しみに対応できるのに・・・」という気持ちが込められてのことです。が、はっきり言って、私には、こういう質問に対して、その方に納得出来るような答えを出せる自信がありません。
それは、基本的には、私は、その人の苦しみを理解出来る主人公ではあり得ないからです。
一般的には、苦しみにはその原因があることが考えられますし、何らかの意味があることも考えなくはありません。そういう点で、旧約聖書の中の「ヨブ記」の主人公であるヨブという人は、一瞬にして子供の全てを失い、財産も奪われ、健康も損なわれて、苦しみのどん底に突き落とされました。
こういうヨブが受けた苦難に対して、ヨブの友人たちは、この苦難の原因はヨブの側にあるのではないかとか、ヨブを鍛えるための試練ではないかとか、考えられそうな解釈や意味づけを代わる代わる述べました。しかし、ヨブには、どの説明も納得出来ないので、友人たちに「もう黙っていてくれ」と言いました。そして遂には神様に対して「わたしがこんな苦しみを理由もなくて受けなければならないのはどうしてですか」と問うた、というのです。
この問いはイエス・キリストが十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と言われたのと相通じるものがあります。
「そうしてわたしがこういう苦しみを受けなくてはならないのですか」という問いは、出口のない部屋のなかに閉じ込められているのと同じで、自分の側から答えを見いだすことは出来ません。外から、誰かが、その部屋をぶち破って、出口を作ってくれるしかありません。或いは、ひょっとすると、出口は既に設けられているのに、自分の目が悪いために、見えていないのかも知れません。
この短い時間の中での答えとしては、キリストは「わたしは戸の外で叩いて待っている。わたしの声を聞いて戸を開ける人があれば、わたしは中に入って、一緒に食事をしよう」と言われている方ですから、このキリストに聞くところに、問題解決の糸口があるというのであります。
(参照聖句・ヨハネの黙示録3:20)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
あなたに聖書を
篠田 潔
「目には目を、歯には歯を」という言葉は、よく知られています。これは旧約聖書の中にある言葉でありまして、他人の目を傷付けた人は、その償いとして、自分の目も同じように傷付けられる、ということを原則とするという考え方でありまして、今日では損害金や慰謝料によって相当額を支払うという形で行われています。
ところが、たとえば、人と争って、1つ殴られたら、同じように1つ殴り返すだけでは済みません。5つも6つも気が済むまで殴り返します。しかも後々までも、相手に対する恨みを持ち続けるということがあるものです。
この点について、キリストは「平和を実現する人々は幸いである。その人は神の子と呼ばれる」と言われています。ここで注意したいのは、キリストは「平和を求める人々は幸いである」とは言われていないことです。世界の平和を願っているのは、皆です。しかしキリストは「平和を実現する人々は幸いである」と言われるのです。
「平和を実現する」とは、どういうことでしょうか。具体的には、先ずは戦争をしないこと、そして戦争に反対することです。一旦戦い始めたら、個人であろうと国家であろうと、「目には目」なんかでは決して納まらなくて、徹底的に相手をやっつけるまでは納まらないものを人間は持っています。戦争となったら人間をそうさせてしまうものが働くのです。
キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。これが「平和を実現する者」のあり方であると言うのです。「そんなことが出来るか」と思います。しかし、キリストは自分を十字架につけて殺す人たちのことを、神が赦して下さるように祈られました。
ここに平和を実現する者の姿があります。これは「目には目」ではなく「敵に愛」ということです。
キリストが神の子と呼ばれる理由です。
(参照聖句・マタイによる福音書5章9、44節)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・
元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
あなたに聖書を
篠田 潔
新約聖書の中のヨハネによる福音書11章に、イエス・キリストが涙を流されたという記事があります。キリストが泣かれてということは珍しい記事ですが、それはラザロという男が死んだからでした。その有様を見た人たちは、キリストがラザロを愛していられてことを知りました。実際、愛している人であるからこそ、この死は悲しく泣けるのですね。
ところが、この様子を見ていた人の中には、キリストが、例えば目が見えななった人を癒して見えるようにしたというような、奇跡的な業をしたことを知っていて、「盲人の目を開けてこの人も、ラザロを死なないようには出来なかったのか」と言うものがいました。
こういうことは表現の仕方は違っても、私たちの間でよく言われます。例えば、病気が治るように一所懸命お祈りしても、結局、治らないで死んでしまった場合、「神様も助けて下さらなかった」もたいなことを思ったり、言ったりするのではないでしょうか。
この時、キリストは心に憤りを覚えて、死体を納めていた洞穴の蓋を取り除けさせて、大声で「ラザロよ、出て来なさい」と叫ばれました。すると、死後4日も経っていたにも係わらず、ラザロは、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。これが有名なラザロの復活の話です。
こういう話をどう説明したら良いか、そういうことって本当にあったか、と言われると、私には答えようがありません。しかし、ここで注意したいことは、キリストはラザロを愛しておられて、彼の死を涙を流して悲しまれた方でありましたが、同時に、その死に対して激しい憤りを覚えられたと言うことです。
その憤りをもって、死んだラザロに向かって、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたというのです。その叫びは、「ラザロを死んだままにしておいてたまるものか、生き返って来い」という叫びでした。こういう叫びを発する人の中では、人は決して死にっ放しではありません。必ず、叫んだ人のところへ帰って来ます。私は、キリストがラザロを復活させた話の真実性はそこにあると信じます。
(参照聖句・ヨハネによる福音書11章1~44節)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・
元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
篠田 潔
キリストが言われてた言葉に「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というのがあります。これを英語ではゴールデンルール、日本語では黄金律と言います。黄金の法律というのですから、人間が守られなくてはならないことの中で一番貴重なことであるというのであります。
「人にしてもらいたいと思うことをする」という言葉は、何かにつけ積極的に働きかけることのように思うます。しかし、私の場合、誰にも干渉されないでじっとしていたいことがありますから、そういう時に「人にしてもらいたいと思うこと」は、黙って、私を見守っていて下さることであります。あなたの場合もそういうことがお有りではないかと思います。そういうことから言って、何かをするということも、積極的に何かの行動をしないでただ見守っている、ということも、「する」ことの中に含まれていることであります。
但し、そうは言いますものの、自分が「人にしてもらいたいと思うこと」がどういうことであるかという問題があります。それは「してもらいたいと思うこと」が、本当に自分を生かすことになるという見定めが、きちんとつけられている自分であるのか、という問題です。これがそうされないままでは、自分も人も、甘やかされた・狭くて小さな自我の塊で終わってしまうことになりかねません。はっきり言って、私たちには、自分にとって本当に必要なものが何であるのかよく分かっていないと思います。
私は、聖書により、また教会へ行くことによって、キリストを知り、神様の御心が分かってくるにつれて、「わたくしは自覚してはいなかったが、わたくしの心の奥深くで求めていたものはこれだったのだ」と気付くに至りました。それは突き詰めて言えば、「わたくしがしてもらいたいと思うこと」とは、私が神様の愛に生かされることであったということです。
自分が人にしてもらいたいことと、人にしてあげることとは、以上のように深く繋がっています。どうか、あなたも、聖書によって、その深いところに触れてたいだきたいと願っています。
(参照聖句・マタイ7・12)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
あなたに聖書を
篠田 潔
長い日本列島ですから桜も今が満開のところ、もう終わったところ、これからのところもあるでしょう。桜の花を美しいと見るのは、多くの人に共通していることと思いますが、私たち日本人は、咲いている美しさだけでなく、散る風情も楽しみます。さらに、桜がぱっと散るその散り方を潔いと見て、潔い死に方の見本にもしております。
ところで、イエス・キリストは、マタイ福音書6章にある「山上の説教の中で、その話をされていた場所に咲いている野の花のことに触れられました。それは、人間が作った衣服の中では、栄華を極めた時のソロモンが着ていたものが一番素晴らしいとされているが、しかし、それとは比較にならないくらい、今、目の前に咲いている野の花は美しい。なぜかと言えば、そういうふうに神様が装っていて下さるからで、野の花がそういうことを私たちに示しているとすれば、まして野の花にまさる私たちのことを神様がみこころにかけていて下さらないはずがないのだから、何を着ようかと思い悩むことはないではないか、ということを話されたのでありました。
人間が作る美しさは、どれがより美しいか競い合いの対象になります。優劣がつけたれます。それをつけるのは人間の目です。
しかし、神様が造られたものは、それを神様が「良し」として造られたのですから、そのあるがままで全てよろしいのであります。キリストは衣服のことを語られましたが、私たちが身にまとうものは、肩書きや氏素姓、身分などいろいろです。そして、そういう身にまとうもののことで思い悩むことが少なくありません。
野の花が美しいのは、そのあるがままに咲いていることにあるのだとされたキリストの目を、私たちも持ちたいものです。そうしたら、自分も他人もまるで変わって見えてくるに違いありません。
(参照聖句・マタイによる福音書6章28~30節)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・
元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
あなたに聖書を
篠田 潔
近年、健康食品とか健康器具と健康のための食べ物や器具の宣伝がしきりになされています。健康であることや健康になることは、病気に罹ったり病気のままでいるよりは望ましいことであります。実際、この世の中は健康である人たちが主力になって動いていますから、病気の人や障害がある人は生きていくのに不都合であります。
聖書には、イエス・キリストはしばしば病人を癒されたり、生まれつき目が見えない人を見えるようにしたり、歩けないでいる人を歩けるようにされたことが記されています。それは、キリストにはそういう人たちに対する思いやりがあり、また、そういう人たちを癒す力を持っておられたからだと思います。こういうキリストの心を受け継いで多くの人が医者になったのも、素晴らしいことだと思います。
ところが、キリストはそういう風にして癒しの業をされた後、そういうことを他の人たちに言いふらすな、と厳しく口止めされました。どうしてでしょうか。普通に考えてみれば、健康体になれるなら嬉しいことですし、多くの人が次々に癒されて社会復帰が出来れば喜ばしいのですが、それをやっていたら、それだけで他のことが出来なくなるために、キリストとしては病気などを癒して健康体にすることもさることながら、その健康体でもって生きる生き方が癒されなくてはならないことを重大視しておられたからであります。
考えてみればお分かりのように、殺人や強盗や強姦などは大体が健康な人がやります。目が見えない人とか足が弱い人にはこういう犯罪は出来ません。こうなると体が健康であることは何と禍なことか、となります。そういうことから言って、人間存在そのものが健康でなくてはならないのでありまして、それは人間が神様を信じ、神様に従う者となることによってである、ということがキリストの伝えたい第一のことであったのであります。
(参照聖句・マルコ福音書7:31~36)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
あなたに聖書を
篠田 潔
「地の塩」という言葉を聞かれたことがおありでしょうか。これはキリストが「あなたがたは地の塩である」と言われたことから出ている言葉であります。「塩」というのはご存知のように味付けになくてならないものです。その塩分は体の健康に欠かすことが出来ません。
次に「塩」は、腐敗を防ぎます。塩付けした食べ物は長持ちがします。それから、例えば善哉や汁粉の甘味を微妙に引き立たせる隠し味の役目を果たしています。
こういうことかた言って、「地の塩」と言うのは、この世に味をつける人のことであり、また、この世を腐らないように清める人のことであり、さらに目立たないようにして他の人の持ち味を微妙に生かす人のことを言うわけです。そうして肝心なことは、そういう役割を、塩は自分が消えてなくなることによって果たす、ということにあります。
ところで、キリストはあなたがたは地の塩「であれ」といって、そうであるように努めなさいと言う勧めではなく、あなたがたは地の塩「である」と言っておられます。努力目標としてではなく、あなたがたの事実が「地の塩」であると言っておられるのです。これを聞いて「えっ!」と驚かない人はいないのではないでしょうか。とてもそんな役割は果たしていない、果たせそうもない自分であることをお互いに承知しているからです。
この問題を解く鍵は、ここで言われている「あなたがた」というのが、キリストに呼びかけられ、キリストを信じる者として、キリストと共にいるあなたがたということにあります。と申しますのは、先に示しました塩の役割は、キリストがご自分の命を全ての人のために差し出されたことによって果たされたのですから、このキリストを信じる者もまたキリストの命を受けてこの地上に生きている者である限り「塩」である、と言われているのであります。
キリストを信じて生きるなら、その人はこの地上においては塩の役割を果たすことになるのであります。
(参照聖句・マタイ福音書5:13)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教 者)
あなたに聖書を
篠田 潔
キリストが言われた言葉に「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」というのがあります。マタイ福音書6章にあります。これは人に施しをする場合の戒めでありまして、広い意味では人助けをする場合にも当てはめてよいと思います。施しをしたり、人助けをしたりすることは良いことで、出来る人は大いに、積極的にやればよいと思います。
ところが、その良いことをする場合に、いろんな動機とか目的などが入り込むことが少なくありません。例えば、選挙に立候補する場合、あのこともしました、このこともしました言えば、票集めに役立ちます。こういう場合は、右の手のすることを、左の手に知らせてないどころか、その反対に大々的に宣伝材料にするわけです。
そうなると、人に施しをするのも、その相手のためにということよりも、自分のためということになります。そこまでいかなくても、自分がよいと思ってしたことを、誰かが知ってくれて褒めてくれたら嬉しく思うのは、わたしたちに共通していることだと思います。
ところが、キリストは「右の手のすることを左の手に知らせるな」と言われます。それは右の手だけが覚えていればよろしい、ということでありますが、右の手だってそう全てのことを覚えているわけではありませんから、つまるところは、みんな忘れてしまってよろしい、ということであります。
ただし、キリストがそう言われるのは、その訳があってのことであります。それは、誰にも知られずにする良い業は、それがどんなに小さくても、隠れたところにいて隠れたことを見ておられる神様にはちゃんと覚えられているからだと、言うのであります。
わたしたちの世界には、こういう誰にも知られないままになされて、隠されている良い業があって、それがわたしたちの知らないところで支えとなり、また、そのままでは悪臭ふんぷんとなるこの世に、ほのかな良い香を放っているのではないかと思います。わたしたちも隠れたところにいて隠れたことを見ておられる神様を相手に生きたいものです。
(参照聖句・マタイ福音書6:1~4)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
あなたに聖書を
篠田 潔
わたしたちは「こんにちは」と言って人に挨拶しますが、そういう挨拶をする相手は、まずは親しい関係にある人、これから良い関係を結ぼうという人で、見ず知らずの人に「こんには」と言うことはまずありません。反対に、何となく警戒心を抱かせるような人や、まして常日頃から嫌っている人や、敵対関係にある人にはものも言わないのが普通ではないでしょうか。
イスラエルへ行きましたら、ある国の人たちから「シャローム」という挨拶を受けました。それは「平和であるように」という意味です。この人たちにとっては「平和」であり「安らか」であることが、お互いに最も喜ばしいこととされているから「シャローム」と言うのでしょう。
しかし、この人たちはパレスチナの人に向かっても、今日、皆同じように「シャローム」と言って挨拶するでしょうか。わたしの考えでは、ものも言わずそっぽ向くか、睨み合うのではないかと思います。「シャローム」と言うのと、実際の行動とは違っています。
このことは、何もイスラエルの人たちに限りません。ブッシュ大統領だってフセイン政権打倒のために戦争を仕掛けたのは「世界平和のためだ」と言うでしょう。小泉元首相だって「戦争」なんてことはひと言も言っておりません。恐らく、何処の国でも、誰でも、初めから「戦争だ!」という人はいないだろうと思います。皆「平和」を願っています。そうであるなら、平和と言う共通目的を実現するために知恵を出し合い、協力すれば良いのに、自分の利益や安泰を考えることを優先させるものですから、自己を防衛し相手をやっつけることになるのではないでしょうか。
イエス・キリストは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。平和を実現する人と言うのは、相手がどうあろうと忍耐強く語りかけ、良い関係を結ぼうとして止まない人のことを言うのでしょう。そうさせるものは、その人に愛があるからです。戦争は愛が無いから起こるのです。
と言って、わたしたちが愛の人に自分で自分を変えることができる者ではありません。キリストを知り、神様に愛されていることを知る者へと変えられていくことが、世界平和に繋がっていくことになると信じます。
(参照聖句・マタイによる福音書5章9節)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・
元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
あなたに聖書を
篠田 潔
クリスマスを迎える季節になりました。美しい飾りつけがなされ、賑やかな歌声も聞こえてきます。
しかし、マタイ福音書の2章を見ますと、キリストの誕生はお祝いどころか、大量殺人が行われるという、実に血なまぐさい結果を生んだことが記録されています。それは、キリストの誕生の時、東から3人の星占術の学者がエルサレムにやって来て「星を研究していて、ユダヤ人の王がお生まれになったことを知ったので、その方を拝みたいと思ってやって来たのですが、場所が分かりませんから教えて下さい」と言ったのを、当時の王であったヘロデが聞いたものですから、「その赤ん坊を生かしておいたら自分の王の位を奪われることになるかもしれない」というので、その頃、その地方で生まれた2歳以下の男の子を、1人残さず殺させた、ということです。
このことは、自分の立場を守るためには幼子を皆殺しすることができる王の権威というものは、一体何であったか、と考えさせられます。それはまたヘロデ王に限ったことではありません。自分の立場を守るためには、幼子に限らず多くの人を無差別に殺すことが出来る強さというものは一体何だろうということでもあります。
ブッシュ政権を始めとして、歴史を遡れば、この世の権威を握る者たちが、如何に多く、その立場を守るために人を殺してきたか、計り知れないものがあります。
これに比べて、キリストが守られた自分の立場というものは、どんな人でも全て同じように大切に愛されなくてはならない、ということでした。キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われ、その言葉どおりに生きた結果殺されましたが、私はこのことに生き抜かれたところに、キリストの勝利があった、つまり、人を愛してやまない揺るぎない権威を示されたと信じています。
クリスマスはこの方の誕生を祝うのです。平和の実現を戦争や武力によらないで、キリストが示しておられる方向で目指したいものです。
(参照聖句・マタイ福音書2・16)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
篠田 潔
クリスマスを迎える季節になりました。美しい飾りつけがなされ、賑やかな歌声も聞こえてきます。
しかし、マタイ福音書の2章を見ますと、キリストの誕生はお祝いどころか、大量殺人が行われるという、実に血なまぐさい結果を生んだことが記録されています。それは、キリストの誕生の時、東から3人の星占術の学者がエルサレムにやって来て「星を研究していて、ユダヤ人の王がお生まれになったことを知ったので、その方を拝みたいと思ってやって来たのですが、場所が分かりませんから教えて下さい」と言ったのを、当時の王であったヘロデが聞いたものですから、「その赤ん坊を生かしておいたら自分の王の位を奪われることになるかもしれない」というので、その頃、その地方で生まれた2歳以下の男の子を、1人残さず殺させた、ということです。
このことは、自分の立場を守るためには幼子を皆殺しすることができる王の権威というものは、一体何であったか、と考えさせられます。それはまたヘロデ王に限ったことではありません。自分の立場を守るためには、幼子に限らず多くの人を無差別に殺すことが出来る強さというものは一体何だろうということでもあります。
ブッシュ政権を始めとして、歴史を遡れば、この世の権威を握る者たちが、如何に多く、その立場を守るために人を殺してきたか、計り知れないものがあります。
これに比べて、キリストが守られた自分の立場というものは、どんな人でも全て同じように大切に愛されなくてはならない、ということでした。キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われ、その言葉どおりに生きた結果殺されましたが、私はこのことに生き抜かれたところに、キリストの勝利があった、つまり、人を愛してやまない揺るぎない権威を示されたと信じています。
クリスマスはこの方の誕生を祝うのです。平和の実現を戦争や武力によらないで、キリストが示しておられる方向で目指したいものです。
(参照聖句・マタイ福音書2・16)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
カテゴリー
ブログ内検索
バックナンバー
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
[PR]Samurai Sounds
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円