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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・61・・・
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・4・・
「復活ということがあり得るか」という議論は、答えは出そうにはありませんが、パウロは次のようなことを言っています。
「わたしたちは、四方から苦しめられても生き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(Ⅱコリント4:8~9)。四方から苦しめられたら行き詰ります。途方に暮れたらもう望みはありません。虐げられるままでは見捨てられているとしか思えません。打ち倒されたらもうそれっきりです。
それなのに、こういうことが言えるのは、パウロという人が百戦錬磨の勇士みたいな人であったかと思われますが、彼はその秘訣を「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために、わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬ筈のこの身にイエスの命が現れるために」(同前10以下)、つまり、どんなことがあってもへこたれないでおれるのは、イエスの復活を信じているからだ、と言うのです。
ここで明らかなように、パウロは、自分の中にどんなことがあってもへこたれない力があるからだとは言いません。パウロは、「もうダメだ」というしかないどんな事態の中にあっても、それでダメになってしまわないでおれたのは、イエスの復活の事実の中に示されている事実、すなわち、神の大能は、死者を甦らせているのであるから、イエスを信じイエスに従って生きている自分にも、その力が働くことを信じているからだ、と言っているのです。誰かを信じているということは、その誰かの持っているものに自分もあやかれます。「いよいよとなった時には「あの人に頼めば良い」という信頼がありますから、多少の動揺はあるにしても、「もうダメだ」ということにはなりません。
つまり、ことは信仰にある、ということになります。パウロにとって、どんな時にも失望せず挫折することもないのは、イエスを死人の中から甦らせた神が自分の神であるからだ、と言っているのです。
こういうことから言って、パウロは洗礼を受けたことについて「あなたがたは知らないのか、キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と言っています(ローマ6:3~5)。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2018年1月のラジオ放送予定>
1月 7日 杉本美由紀 (名古屋キリスト教社会館チャプレン)
14日 杉本美由紀 (名古屋キリスト教社会館チャプレン)
21日 山田麻衣子 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
28日 山田麻衣子 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・60・・・
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・3・・
キリストの復活を現象として納得出来るように説明することは出来ませんが、神の愛の力は死者を今に生かし、しかも永遠である神の命の中へ生かしてくださったことは信じられるし、信じてよいことだと言うことが出来ます。永世といい、不死といい、不老長寿と言いますが、それは、愛されている喜びがあって意味があることであって、愛のない世界へは生き返るにも生き返りようがないというものです。
キリストの復活は、以上の意味において、死者を「死なせたままにはさせておかないぞ」という神の愛の力を示していることとして、キリストを信じる全ての人に示されている秘儀であるということができます。
「復活」を「生き返ること」のように思う人は「そんなことはありえない」と言われるに決まっています。その通りでありまして、生き返るのであれば、完全に死んではいないからであります。そして、「死ぬ」ということは、生き返ることのない事態であるからです。「復活」という字は「また生きる」ということを意味しますから、「再生」と同じように受け止められるかもしれません。が、そうではありません。「死」は全く「生の断絶」でありまして、その先に何かに連続されたり、新しい何かが生み出されるということではありません。「虚無の深淵」に落ち込んで終わりです。
聖書が伝える「復活」は、「神による創造」というべき出来事でありまして、こういう出来事を実現させる力のことを「神の大能」といいますが、この力によって、死んだ者に、まったく新しい命を与えられて、この命の支配の中に置かれることであります。それが「死んで、葬られ陰府に下ったイエス」を死人の中から甦らせたことにおいて示された出来事であります。
「そんなことがあり得るか」というのが、すでに述べたように万人の思いであります。しかし、この驚天動地とも言うべき出来事がイエスにおいて起った、言い換えれば、神はイエスを復活させたことを信じるということから、キリスト教が始まっているのであります。それは、この信じ難きことを信じさせる力を神が与えられたからです。
そういう意味からすれば、クリスチャンもキリスト教会も、神のよる創造の業の実現の印ということが出来ます。以上のようなイエス・キリストにおいて示された神の力とその支配を信じることによって「すべてのことを御手に委ねます」ということが出来るのであります。これが、キリスト教が「イエス・キリストによる啓示の宗教」と言われる理由です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年12月のラジオ放送予定>
12月 3日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
10日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
17日 草地大作 (日本基督教団名古屋中央教会牧師)
24日 草地大作 (日本基督教団名古屋中央教会牧師)
31日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・59・・・
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・2・・
キリストの復活という出来事の以前に、キリストが死者を復活させられたと言う話がヨハネ福音書に記されています(11章)。それはラザロという男が死んで墓に入れられ、死後4日経っていたのに、イエスが「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれたところ、ラザロは起き上がって墓から出てきた、という話です。イエスがラザロを生き返らせた話として有名です。
この話をどう受け止めるか、どう説明したらよいか、難渋します。人によってはラザロは仮死状態だったと言いますが、死んでから4日も経ってのことで匂ってもしたと言いますから正真正銘の死であったと言えます。
キリストの復活の場合は、それがキリストだとは分からなかったと言いますから、復活ということは生きていた時の姿の延長態ではなかったのですが、ラザロの場合はそれと分かる仕方での復活でした。その後、ラザロはどうなったのか、戸籍簿にどう記載されたか興味を惹くところですが、死んだ人が生き返る経過の観察記録など皆無ですから事態の説明のしようがありません。ただ、この話の中で考えさせられることは、ラザロが死んだことを、その姉妹たちが泣いているのをキリストが見て、心に憤りを覚え、興奮された、と言うことについてです。
普通親しい人が死んだ時、泣きはしますが、憤って興奮すると言うことは先ずありません。がイエスは憤られた、というのです。これは私の解釈になりますが、この憤りは「ラザロをこのままにしておいてなるものか」と言う激しい思いからであり、これがラザロを生き返らせる力となったのだと思うのです。
事実、わたしたちも愛する者を失った時、「死なせっ放しにさせてはおかない」という思いがあって、それが死者を今に生き返らせているという事実があるのではないでしょうか。それが死者に対する愛であり、この愛の中へ死者は何時も甦ってくるのではないでしょうか。
そういうことを思うと、ラザロの死に対してはイエスの、イエスに対してはその父なる神の愛が、死の壁を破って、新しく生かす力となって現れるのは、むしろ当然のことではないかと思われるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年11月のラジオ放送予定>
11月 5日 高木総平 (岐阜済美学院総主事・中部学院大学宗教主事)
12日 高木総平 (岐阜済美学院総主事・中部学院大学宗教主事)
19日 志村 真 (中部学院大学短期大学部宗教主事)
26日 西島麻里子(済美高等学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・58・・・
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・1・・
「復活」という言葉は、それ自体に、そういう言葉を語る人にも聞く人にも、何らかの先入観を抱かせるようです。例えば「敗者復活戦」とか「あの人をもういっぺん復活させよう」などと言うことがありますが、その場合の復活は、一度退けられた者にもう一度生かすチャンスを提供することを意味しますが、命が断たれた上での復活ではありません。また「復活なんてことがあり得るか」と言う人には、復活と言うことを、完全に死んだ人の蘇生として受け止めておられるから、そういう批判をされるわけです。
そのほかにも、復活ということについてはいろいろな理解の仕方や批判があって、そのどれもがもっともなことと言えますが、ただし、聖書が語っているのは、復活の一般論ではなく、神が、神の力をもって、イエスを死人の中から甦らせたこととしての復活であります。
そうは言うものの、この復活ということが理解しがたく信じられないのは事実です。先に述べましたように、イエスが復活されたことは、復活のイエスに出会った人たちがほかの人たちにそのことを話しても誰も信じなかった、と言います。またパウロがアテネで人々の求めに応じて彼らにとって新しい教えとして興味を抱いて聞いていた話の中で、ことがキリストの復活に及ぶと「ある者はあざ笑い、ある者は『そういう話はいずれまた聞かせてもらおう』と言ってその場を立ち去った」といいます(使徒言行録17:32)。アテネといえば知者の集まる所として自負していた町ですから、復活のことは、彼らの理性や知性によって一笑に付されたわけです。
ことほどさように、復活ということは「聞いても分からない」という性質のことです。それは、わたしたちが何かについて「分かる」というのは、わたしたちに分解・総合する力があってのことです。「分かる」と言えるのは、わたしたちが、その対象となっている物事を把握する主体となっているからです。ただ、そうは言っても、この主体には限界がありました。自分を超えたものについては、分かりようがありません。死後のことなどそうです。
死後のことについていろいろ分かっているかのように言う人がおりますが、どうしてわかったと言えるのか、疑問です。クリスチャンはキリストの復活を信じていますが、この「信じる」ということも、わたしたちの中に「信じる能力」があってのことではありません。ことはキリストの復活に限りませんが、こういうことを「信じられるか」と問われたら、「信じられません」というのが正直なわたしたちの事実です。しかし、そういっている自分が逆転するのもまた事実です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年10月のラジオ放送予定>
10月 1日 金原信義 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
8日 金原信義 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
15日 金 起泰 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
22日 金 起泰 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
29日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・57・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・16 「陰府」というところは、死んだ人が赴く最終箇所であります。「地獄へ落ちる」ということを言いますから、その「落ち込む果て」と言ってもよいでしょう。「そんなところがあると確証できるか」という人もおられるでしょうが、「地獄へ落ちるのではないか」と思っている人間の真実性があることは否定できません。そういう前提の上で言いますと、イエスは死んで葬られ「陰府に下った」というのですが、死後人間が行き着く究極の場まで行ったということになります。前回触れた「使徒信条」には「陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り」とあります。これはイエスが「死から復活された」ということです。
ここで少し聖書の記事に触れますが、イエスの伝記とも言うべき福音書には、復活のイエスに最初に出会ったのは、数人の女性であったといいます。その話を聞かされた弟子たちは誰も「そんなことが信じられるか」と、彼女たちの言うことを信じなかった、と言います。それは今日に至るまで同じことでありまして、イエスが死人の中から甦ったなどは、まともに受け止めようとはしません。むしろ、そういうことは信じることが出来ないということが当たり前で、信じるという方がおかしいとされます。
ところが、この「おかしい」とされていたことが、おかしくなくて真実となったというのが、福音書に記されている弟子たちの証言でありますし、その後、クリスチャンになった人たちの証言でもあります。
キリスト教会が日曜日に仕事を休んで礼拝の日としたのは、日曜日が復活の日であったことに因ります。逆に言うと、イエスが復活されなかったなら、日曜日を礼拝の日として仕事を休むということはあり得なかったということになります。
では、イエスが復活されたということはどういうことであったかと言いますと、先ず言えることは、人間にとってその生の最後に立ちはだかって、それから先へと進ませないという壁がイエスによって打ち破られた、ということであります。勿論、そのことは人間の体がいつまでも死なないということではありません。体は死ぬことは確実です。イエスも死なれたのです。
しかし、その死が終わるのではなく、神によって新しい命へと変えられる、ということがイエスの復活において示された、とうことであります。
このことが、「死は勝利にのみこまれた。死よ、お前の勝利はどこにあるか」という根拠であります(コリントⅠ、15:54~)。
この項の始めに「陰府」のことに触れましたが、イエスの復活は、この「陰府を支配している力が破られたことでありますから」、「陰府に閉じ込められていたすべての人の陰府からの解放」が実現したのでもあります。「死からの解放」としての「救い」がここに実現しているということであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年9月のラジオ放送予定>
9月 3日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
10日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
17日 尹 成奎 (日本基督教団津島日光川燈台伝道所牧師)
24日 尹 成奎 (日本基督教団津島日光川燈台伝道所牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・56・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・15 こういうことが言えるのは、イエス・キリストを信じているという信仰によってのことであります。では「キリストを信じることによってそういうことが言える根拠は何か」と問われたならキリストが十字架につけられたことと、三日目に復活されたことにあります。
戸籍の記録が残っているなら「ナザレのイエス・○○年○○月○○日エルサレム、ゴルゴタ刑場にて死刑により死亡」とあるはずです。日本の寺のように過去帳があれば埋葬の記録もあるはずです。その後、その遺体が、アリマタヤのヨセフによって引き取られ、彼の墓に納められた。ということも、当時新聞記者がいれば事実として読者に伝えたに違いありません。これらのことは、歴史上の事実であるからです。イエスの伝記を書いた福音書の記者もこのことは記しています。
ところが、キリスト教のエッセンスともいうべき「使徒信条」には、イエスについて「死にて葬られ」に続いて「陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り・・・」というひとくだりがあります。これは史実としては記録されません。もし記録されるとすれば「イエスの弟子たちは、イエスの死後、イエスは陰府に下って、三日目に死人のうちより甦って、更に天に昇った、と信じているそうだ」ということになるでしょう。それは、まさにその通りでありまして、イエスが陰府に下ったとか、復活したとかいうことは、誰にも納得できるような確証を提供することができない事柄であるからです。
そういうことから言って「使徒信条」というものは、信仰を言い表したものであって、史実の確認文ではないことは明らかです。
「そうだとすると、信仰といったって、それは単なる思い込みに過ぎないのではないか」という批判が出ることだろうと思います。しかし、そういう批判は、すべてを合理性と客観性に合致しなければ認められないとする、科学によってだけ事柄を捉えようとするところから出てくるのであって、科学ではとらえきれないものが沢山あるのに、それを無視していることに因ると言わざるを得ません。
例えば、出会い頭に人とぶつかった場合「目から火が出た」と言います。また、ある時、今まで全く気付いていなかったことを「はっ」とするような仕方で気付かされた場合に「目から鱗が落ちた」と言います。こういう時、第三者には「目から出た火」や「目から落ちた鱗」が見えるわけではありません。それは客観性を持っていないし、科学的に証明できることでもありません。だからといって「それは単なる思い込みではなかったか」と言われてれも当事者は承服できないことだろうと思います。それは、その人にとって真実であるからです。また、批判した人が後に同じようなことを体験した場合、以前批判したことが見当違いであったことを体得するに違いありません。それは「真実」というものがそういうものでもあるからです。
信じていることに対して「それは非科学的である」とか「客観的普遍性を持っていない」と批判することは容易でありますが、そういう批判が「真実」を見過ごすことになってしまうことになりかねないことを、先ずは知っておく必要があると思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年8月のラジオ放送予定>
8月 6日 黄 敬秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
13日 黄 敬秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
20日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
27日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・55・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・9・・
答・・14 では「永眠」というのは本当に永遠の眠りであって、朝起きるように、時が来れば再び眠りから覚めるかどうか、ということが問題になりそうです。この点、わたしたちが子供のころから仏教説話で聞かされてきた内容は、三途の川を渡ること、しかも渡し賃が要ることを始めとして、飽きないくらい多様な世界が死後段階的に展開されるというものでありました。勧善懲悪を教えることに現実性がありました。
こういう説話をどう受け止めるかは別として、この説話では死んだら永眠とはならないわけです。生きていた時のツケは四十九日までに、遺族が代わってきちんと始末しなければならないとされています。仏教の門外漢であるわたくしには誤解があるかも知れませんが、見た所ではそんな感じがします。即身成仏ということも言われていますから、成仏ということは有り得るわけです。
こういうことに比べると、キリスト教では、成仏とか成神とかは有りません。死んだ人にも等しく神の支配の下で、神と共にある、ということです。そして、そのことは、イエス・キリストを信じている者に示されていることである、ということです。
ただし、ここで明らかにしておきたいことは「××に成る」ということはないにしても、キリストを信じる者は、現に今生きているこのままで「神の子とされている」ということがあります。「神の子とされている」というのは、本来神の子ではなく、神の子と呼ばれるには全くふさわしくない者が、神の側の一方的な意志によって(それが恵みというものですが)「あなたをわたしの子とした」と宣言されたことによって成り立っていることなのです。
これはわたしたち人間の側の精進潔斎修行努力の結果与えられた身分ではなく、わたしたちが神の子として遇されるためにしなくてならないことの一切をキリストが引き受けて下さったことによって実現されている事実です。
神は永遠の方で、神を信じる者は、この永遠であられる方に受け入れられているのですから、この地上という空間と時間の制約のある世界に住みながら、すでに永遠の世界に繋がれているのです。ですから、死んで改めて神と共にいるようになる、ということではありません。死ねばこの世にはいなくなりますが、神と共の生きるということは、生きている時から変わりなく続いているのです。
さきに「死んだらどうなるか」と問われる方があったことを述べました。ここでこの問いに答えるなら「どうかなるというものではありません。今がそうであるように、死んでからも神様と共にいることに変わりはありません。そして、神様が計画されていることを、わたしにされるでしょう。そしてそのことがなによりも一番良いことだと信じています」と答えたらよい、と考えています。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・54・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・8・・
答・・13 日本人は昔、死んだ人は山へ帰ると信じられていたようです。山ふところに抱かれて永遠の眠りにつくなど、自然でいいなあという思いがあります。土葬にすることは、人間のからだが遂には土の成分に吸収されてしまうことですから、聖書記者が「神は人間を土から造られた」と言っているのは、その意味では適切な表現であると言えます。事実人間には自然的な存在であるという一面があります。
ただし、こんにちでは死者が「山へ帰る」という思いにはなかなか繋がりません。中には「山に帰りたい」とか「海へ帰してほしい」という人もあって、そういう場所へ散骨する人もいますが、大抵の人は墓場か納骨堂へ、それも骨だけで納まることになっています。帰る場所が人工的になりました。死後納まる場所が人工的になり、しかも狭い場所に限定されることになってしまいました。
以上は場所のことですが、それだけではありません。神道では亡くなった人は神になりますし、仏教では仏になります。靖国神社に神として祀られたり、祭神が大昔の誰かであったりするのはその現れであり、死人のことをホトケサマなどというのもそれです。更には死んだ人に戒名に現されているような位階がつけられます。そういう風に、わたくしたちの間には「成神」とか「成仏」とかいうように、死者を拝むということも何ら問題なくなされています。
以上のような伝統的でまた一般化されている死者や死後観に対して、「ではキリスト教ではどう考えているか」と問われて先ず言えることは、聖書では、死ぬことを「眠りにつく」と言っているということです。日本語でも「永眠」という言葉は定着しています。この表現はなかなか言い得て妙だと思います。というのは、わたくしたちは、朝、目覚めて、それまで眠っていたことを知ります(もっともそういうことを毎朝考えているわけではありませんが、事柄としてはそうです)。
目覚めなければ眠っていたということは分りませんから、「永眠」と言うことになります。ただし、その眠っている状況が本人においてどうであるかは、第三者には分かりません。生きている人間が「あの人はお眠りについた」という言い方であっても「死んだ」ということを言い表している、ということです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年6月のラジオ放送予定>
6月 4日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
11日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
18日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
25日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・53・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・7・・
答・・20 わたくしが幼稚園児であった時です。先生が部屋の中に入ってきた時、紙くずが床一面に散らかっていました。先生は厳しい顔つきで「こんなこと誰がやったのです?」とみんなを睨みつけました。誰も何も言いません。沈黙の時間が流れました。すると一人の園児が身をかがめて紙くずを拾い始めました。「あなたがやったの?」と先生が問いました。彼は一言も答えず、黙々と紙くずを片付けました。「しょうがない子ね。今度やったら承知しないわよ」と言って、彼を叱りつけました。
わたくしは、やったのは彼でないことは知っていました。彼がそんなことをするような子ではないことを知っていたからです。恐らく先生も彼がやったのではないことを知っていたと思います。しかし、なされた結果については厳しく咎めなければなりません。そうでなければ、先生が平素から注意していることが、どうでもよくなってしまいます。だから厳しく咎めたのだと思います。わたくしは、その時、彼にちょっとした嫉妬心を抱きました。
わたくしも一緒に片付けに加わっていたらちょっとカッコよかったなと思いました。しかし、わたくしは見ているだけで何もしませんでした。ほかの連中も皆そうです。しかも、紙くずを蒔き散らした子に「やめろ」ときつく制止する子はいなかったのです。更に悪いことには、その子が紙くずを蒔き散らすのをはしゃぎ立てた子もいれば、黙ってみていた子もいたのでした。そういうことから言えば、全員がられて当然だったと言えます。が、実際には紙くずを万座の中で一人かがんで拾い集めた子に、集中的なお叱りが下ったのでした。
キリストは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちのやっていることがわかっていないのですから」と言って、自分を十字架につけて殺す側にいるすべての人のために、神からの赦しを求められました。本来、許しを求めなければならない側の人間の無頓着さを担って、自分の命をかけられたのです。
罪に対するものは何であっても赦しはありません。罰せられて初めて赦しが成り立つのです。その意味では、キリストが十字架の上で父である神から見捨てられたのは、すべての人が受けるべき神からの遺棄という罰を、代わって担われたということが出来ます。キリストによって代罰、代苦ということが成し遂げられたことによって今やすべての人が神に赦された者として、キリストが神の子であられたと同じように、神の子として遇されるという恩恵に与かることができるに至っているのです。
この事実を贖罪と言い、このことによって得られたことが「神との和解」と言われていることであります。ですから、このことを信じている者はすべて「天の父なる神様」と言って、まるで子が親に向かって言うように語りかけることが出来る者とされているのでありまして、これが「神なき世界」からの解放であり、救いであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年5月のラジオ放送予定>
5月 7日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
14日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
21日 西村 清 (中部教区巡回牧師)
28日 西村 清 (中部教区巡回牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・52・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・19 この点について、遠藤周作の夫人順子さんは「夫の宿題」という手記のなかで、「夫は手術室へ入って行く時、それまで付き添っていたわたくしも、そこへは入って行くことができなかった。しかし、そこから先はあの方がついて行ってくださるのだ、と思った」という旨のことを書いておられました。以上のことから言って、死後はどうなるかということよりも、生きている今も、死ぬ時も、死の彼方にも、神は共にいて下さるという信仰をもって生きることの方が大切なことではないかと思います。
一般的に言ってわたしたちの多くは神についてなにがしかの思いを抱いております。しかし、それは、こちらからの一方的な理解であり、畏怖の対象ではあっても、「オヤジに叱られるのは怖い」という場合のように、神との人格的関係があってのことではありません。ですから、何か身辺に悪いことが起こると「神様のバチが当たった」みたいなことを言いますが、直接「お前に罰を与える」と言われるのを聞いているわけではありません。ですから「神様に見捨てられた」と言うことがあったとしても、自分でそう思っているだけのことであって、はっきりと「見捨てられた」と言えるほどの、人格的な親しい交わりがあったわけではありません。すべては、神様抜きで、人間の側で考えたり決めつけているに過ぎません。想念としての神以上ではないのです。
そういう事情の中でしかないものですから、キリストが十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれたことに対しても、「ああいう苦しい状況に置かれたら、誰だって神様に見放されたと言いたくもなるよ」という受け止め方で終わってしまいそうです。所詮、見物人の所感です。
しかし、キリストの場合は、神の子として、この地上の世にありながら、地上を超えた天におられる父である神との人格的な交わりを常に持っておられたのでありまして(―そこはわたしたちの預かり得ないところですが―)その父である神から見捨てられる筈などあり得なかったのですが、それが十字架の上で見捨てられたのですから、「どうして・・・」と問わずにおれなかったのだ、と言えます。
例えば親密な関係にある一人が瀕死の状態にあれば他の一人は最期まで看取ることでしょう。それが、これからが本当に看取ってほしいと願っている時に、突如、その相手が、「もうあなたのことなんか知らんよ」と言って立ち去って行こうものなら、「どうして?」と言わずにおれないでしょう。しかも、その問いに対して全く応答のないまま死ななければならないとしたら、耐えられない絶望のまま死んで行くかありません。キリストの叫びは正にそういう叫びでした。
聖書記者の一人は、キリストは、最後に「成し遂げられた」と言って息を引き取られたと告げています。「すべては終わった」とも訳せます(ヨハネによる福音書19章30節)。これから先はわたくしの解釈が入りますが、キリストが「すべてが終わった」と言われたのは最終的には父である神から見捨てられたということの中に、ご自分がこの世に父である神からこの世に遣わされた役目があったことが、腹の底から分かった。だから「成し遂げられた」と言われたのではないかと思います。
言い換えると、「見捨てられた」ということがなかったなら「すべては終わった」と言うことができなかった、ということになります。では、そこで「成し遂げられた」のは何についてであったかが問題となります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年4月のラジオ放送予定>
4月 2日 後登雅博 (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
9日 後登雅博 (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
16日 辻 幸宏 (日本キリスト改革派大垣教会牧師)
23日 辻 幸宏 (日本キリスト改革派大垣教会牧師)
30日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・51・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・18 わたしたちが「死」を恐れるのは、死によって自分が失われ、自分がなくなってしまうと思うからです。死んでも失われない何かに継がれることが信じられれば、その失われない何かに託して死ぬことが出来るかもしれません。太平洋戦争において、若い学徒たちは戦場に駆り出され、自分の死を「悠久の大義に生きる」ことに位置付けて死んでいきました。「悠久」とは「変わりなく続く」ことであり、「大義」とは「究極の関係に生かすもの」のことと言ってよいでしょう。
とにかく、そういうものに継がれることを信じることが出来なければ、自分の死はそれっきりで無に帰するしかないし、それではたまらないと思ったからでしょう。彼らだけでなく人はすべて死に対するなんらかの意義付けをしなくては死にきれないのではないかと思います。ただ、その場合、そのようにして意義付けをする自分が、どれほど確かな存在であるかという問題は依然として残ります。
話が一足飛びにイエス・キリストの場合に移りますが、キリストは、十字架につけられて死ぬ直前「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。「わが神」というのは、自分にとって究極の存在であり、自分を超えて自分を位置づけ、意義あらしめるものです。そういう神から見捨てられるということは、自分というものの存在の一切の基盤を奪われることであり、耐え難いことです。
「悠久の大義」についても、それが虚構であり幻想でしかないと分かったからなら、死ぬにも死ねないということになるでしょう。一人相撲を取っているに過ぎないことが分かることも、辛く耐え難いことですが、究極の拠り所としている相手から見捨てられるということは、絶望以外の何ものでもありません。親しい関係にあった人から見捨てられるようなことがあれば「どうして?」と問いかけます。それに対して答がなかったらどんなに辛いことでしょう。しかし、わたしたちは生まれて以来「わが神」と言えるような、神様との親しい関係の中に生きて来ていません。ですから、「神に見捨てられた」という関係の断絶事態は、体験のしようもありません。
旧約聖書に中には、「死んだ」ことを「眠りについた」という表現で言い表していることがしばしばあります。考えてみれば、眠りから覚めるのが生きている証拠でありますから、眠ったまま覚めないことは死んだことになるわけです。そういう意味において「永眠」とは良く言ったものだと思います。では死んだあとはどうなるかというと、これについて何かを述べていることはほとんどないようです。それは当然のことです。ただし死後のことについての信仰や希望を語っている人はいます。
例えば詩編23編の記者は次のように言っています。
「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる」。この人は、死後どうなって行くであろうかなどの推測はしていません。また、ヨブは次のように告白しています(ヨブ記19:25~26)。
「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう」。
ヨブの場合も、死後の自分がどうなるかについての詳細は語っておりません。ただ確実なこととして言っていることは、自分が死んだ後も、仰ぎ見ることができる神様は生きておられるということであって、これは信仰によってのことです。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」とヘブライ人への手紙の著者が述べているのは、以上のような人たちのことを総括してのことでありまして、死後の状況についての説明はしていません(11:23)。そういうことから言って、「死んだらどうなりますか」という問いに対しては、「神様がずっとついていてくださいます」という信仰に基づく答えをすれば良いし、それに尽きると思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年3月のラジオ放送予定>
3月 5日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
12日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
19日 高橋 潤 (日本基督教団中京教会牧師)
26日 高橋 潤 (日本基督教団中京教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・50・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・17 わたしたちが生きているということは、絶えず変化しているということです。血液は絶えず流れております。細胞の死と増殖活動は休むことなく続けられています。昨日までの自分と今日の自分とは変わっているのです。今日生きている自分は昨日まで生きていた自分とは違っているのです。その違いについてのこの世での評価に正負があっても、変わり続けていることは事実です。言い方を換えれば、昨日の自分は死んで、一夜の眠りのあと新しい自分になっているのです。
ただし、以上のことを認めない人もいます。明日までの自分をいつまでも引きずったまま今日を迎える人です。相変わらずの自我によって生きる人、背負い込んでいる荷物を一切降ろそうとしない人、過去の栄光だけを頼りに生きている人です。こういう人にとっては、今日という日は旧態依然であって、新しくも何ともないことでしょう。
人間誰しも死ぬことを好んではおりませんが、しかし、以上述べたことから言うと、人間誰しも死ぬべき死を死ななければ、新しい自己は生まれて来ないのです。その意味で、パウロが「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされて生きます」(コリントの信徒への手紙2・4:16)と言っていることがよく理解できるのではないかと思います。
病院では4の発音は死に繋がるという理由で、4号室という室番号を付けていないところが多いようです。しかし、前述したように日々に古い自分は死ななければ新しい自己の誕生はあり得ないという理由から言えば、むしろ日々に古い自分に死んで別れを告げなくてはならない、ということも出来ます。むしろ「死ぬことは益である」(フィリピの信徒への手紙1:21)ということができます。
となれば、逆に「死なない自分であること」「いつまでも今のままで生きている自分」であることが問題となります。
「あの子、生きているのか死んでいるのか分からない」という嘆きの声を聞くことがあります。音信不通で、消息を得たいと思っても手がかりが掴めない時に、そういう声が発せられます。更には「あいつはもう死んだ」ということがあります。体は生きていても、自分の方から関係を断ち切って、二度と関係の修復が望めない場合です。前にも触れましたが「死」とは関係の断絶を意味するからです。パウロは「罪が支払う報酬は死です」と言いますが(ローマの信徒への手紙6:23)、それは、本来信頼関係にあるべき者が、その信頼関係に生きるべきことを無視して、自分だけで生き始めるという見当違いを犯すなら、その途端に関係が断絶するという意味での「死」を問題しているからです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年2月のラジオ放送予定>
2月 5日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
12日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
19日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
26日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」