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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・49・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・16 ホスピスに入院している方から時々「死んだらどうなりますか」と言う質問を受けることがあります。勿論、火葬に付されて墓に入れるという死体の処理のことではありません。
死ぬということは自分の体がなくなることではありますが、体だけが自分ではありませんから体が死ぬことが同時に自分というもののすべて消え去るのか、それとも何らかの形で永続するのか、永続するとすればどういう仕方で永続するのか、という問であります。正直言ってわたくしには「それはこうです」とはっきりした答えを出すことは出来ません。それは死後のことについて、死後状態を知っていない生者が、死後世界のことについて何か言うということ自体が僭越至極であるからです。
ですから、この種の質問に対しては、基本的には「分かりません」としか言えません。質問される方は、わたくしが牧師であることを知っておられて、「牧師なら死後のことについてもちゃんと答えてくれるだろう」と考えられたうえでの質問でしょうが、わたくしが「分かりません」などと言うものですからがっかりされるようですが、しかし生者が、未経験の死後世界のことについて明快な答えを出し得るはずがないし、仮に出したら、そのこと自体がおかしいじゃないかと言うと、大抵は納得されます。しかし「分からない」と言うことは、依然として不安であるわけです。
こういうことに関して言えば、人間はみな死ぬことが定まっているのですから、早くから「死とは何か」とか「死後どうなるのか」など予めきちんと自分なりの答えを出していなくてはならない、と思います。泥縄式の対応や他人からの答えでは必ずしも納得は出来ないのです。とは言うものの、何らかの答えを自分なりに得ないままでは不安ですから、出来るだけその人が自分で答えを見出されるようお手伝いをしているのが現状です。
ただし、この問題は、ことがらの性質上、万人が納得できるような客観的普遍的な答えを出すことは出来ませんので、「自分はこう信じている」と言う答えを持っているかどうかにかかっているように思います。相手がクリスチャンの場合には基本的に話がかみ合う要素をもっていますし、他の宗教などによって、かねてから、自分なりの死後観に立っておられる方には、比較的同一方向についての対話が成り立ちますが、無前提の方とはなかなか同じ方向に向き合えないもどかしさを覚えます。
ホスピスに入院しておられる方から発せられる声には「いずれ死ぬと分かっているのにただ無意味に死を待っているのは苦痛ですから、早く死なせて欲しい」というのがあります。こういう方の本心は生きていたいのです。しかし、生きていることが耐えられない苦痛であるので、それで早く死なせて欲しいというわけです。聖書の中には「死にたいと思っても死ぬことが出来ず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」という言葉があります(ヨハネ黙示録9:6)。死ねない苦しみというものがあるのです。
「死の世界」というものが考えられるとしたら、どういう世界のことが思い浮かぶでしょうか。先ずは「し~んとしていて、何一つ動くものがない世界」ということが出来るでしょうか。あるいは「時間とか空間とかが関係しない世界」と言ってよいかも知れません。実際死んだ人は、ず~っと静まり返っていて、時間や空間に左右されていません。永久にそれっきりの世界であるといえます。
これに比べると、わたしたちは「生の世界」にいます。私たちが生きている時は絶えず変わって行きますし、空間も変わって行きます。浦島太郎の話は、竜宮城という時間にもこの世という空間にも絶縁していた世界から、時間と空間が変わって止まない世界に帰った時いっぺんにその間の変化分を清算させられたということでしょう。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2017年1月のラジオ放送予定>
1月 1日 小幡 伸幸 (日本キリスト改革派豊明教会長老)
8日 小幡 伸幸 (日本キリスト改革派豊明教会長老)
15日 青山昭一郎 (日本キリスト改革派犬山教会長老)
22日 青山昭一郎 (日本キリスト改革派犬山教会長老)
29日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・48・・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・15 アダムとエバが禁断の木の実をとって食べたのは、「あれを食べると目が開けて、神様のように事の善し悪しをちゃんと決められるようになれるんだよ、食べてみてはいかが」とそそのかのす奴(サタン)がいて、それにまんまと引っかかっちゃったからです。人間はうまいこと言っておだてられると引っかかって大事なものを失ってしまうのです。こうして「失楽園物語」が生まれるに至るのですが、この話の中核となっていることは、神の戒めに従って神と共に生活していた者が、神よりも自分たちの思いを優先させたことによって、神との関係に生きてきた自分ではなくなってしまった。
つまり、神を無視して生きる人間になってしまったということです。こうして、彼らは、神に従って生きてきた今までの自分を失いました。「あれを取って食べると死ぬよ」と言われていた通り、神との関係に生きてきた自分は、神からの禁断を犯した途端に、そういう関係存在でなくなりました。神に対しては死んだものとなったのです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とはこのことです。つまり神様という「的」を外して、自分の思いに「的」を絞った結果を受け取るのは「死」なのです。
わたしたちは「死」と聞くと「体の死」のことを考えます。ただしそれは物理的現象であって「死の意味内容」を含んでいません。これは「生」についても同様であって「体が生きている」と言うだけでは、その意義が捉えられていません。
しばしば述べてきましたように、人間は、その字の通り関係存在です。この関係が失われて回復されないところに死別の悲哀があります。アダムとエバは、神の戒めに従って生きることを止めて、自分たちだけで生きる者となりました。
これは確かに生きていることではありますが、神に対しては死んだものになってしまったのです。神を抜きにした人間の独走は、こうしてアダムとエバがトップランナーとなりましたが、そのあとに続く人間も皆同じバトンを受け継いで、「エデンの東」を走り回っているだけです。
ということは、アダム同様、わたしたちすべては、このままでは究極の責任者により頼むことが出来ないまま、従って「あなたのみ手に委ねます」と言う相手を失ったまま死ぬしかありません。存在の根底を支える真の主を失ったままこの世を去るのですから、不安であるのは当然です。自分が主となっている限り、それで終わりです。どこまで行っても自分しかいないとなるのが、神様抜きで生きる者の当然の帰結です。
死を恐れるのは、人間の生死を超えて、しかもそれを包み込む神の永遠の命を知らないからです。こういう人間に、新「エデンの園」へと招き入れるために来られたのがイエス・キリストです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年12月のラジオ放送予定>
12月 4日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
11日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
18日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
25日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・47・・
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・14 さて 聖書によれば、人間は初めから死ぬことが定められていたとは見ていません。むしろ死などないものとされています。それは、人間は神によって、神にかたどって造られた者であると見ているからです。「神はご自分にかたどって人を創造された」というのがそれです(創世記1章)。これは「神との人格的関係に生きるもの」として造られたということでありまして、神が永遠である以上、その関係に生きる者に死はないという理解です。
「エデンの園」の話は以前にも触れました。ここは「楽園」(パラダイス)であったとされています。何が楽園であったかというと、そこは神によって設定された場所であったからです。このことは聖書を理解する上で極めて重要なことですが、楽園というのは、究極の支配者が責任をもって人間を生かしておられる場所なのです。つまり神不在の楽園などというものはあり得ないということです。
このエデンの園に、アダムとエバは、生きる者とされました。そしてこの園の管理を委ねられました。「大地を耕し、そこになる木の実は自由に食べてよい」と言われました(この話、つまり「創世記」を書いた人は、どうやら果樹栽培の地域に生きていた人のようです)。ただし、それには一つの条件がつけられていました。それは「善悪の知恵の木からは、決して食べてはならない」ということでした。どうしてかというと「それを食べると必ず死んでしまう」という理由からでした。
この話にはいろいろな解釈がなされていますが、要するに、「エデンの園」というところは一つの条件を守ってさえいれば、そのほかのことは人間が全く自由に生きてよいとされているところであったということです。その条件とは「禁断の木の実はとって食べてはならない」ということであり、その木の実とは「善悪の知識の木」になる実というのですが、これが分かりにくいのです。
通俗的には林檎のことみたいに言われていますが、これは一種の比喩的抽象的表現でありまして、その内容は「善悪についての究極的な判断をなし得る者となること」と言ってよろしいでしょう。昔の帝王のなかには「余の決定は正しい」と言った人がいました。大日本帝国時代には「朕帷フニ」といえばそれは最高の決定となったのでした。こういうことを言うことが出来る立場としての「お山の大将」や「亭主関白」などはそのミニ判と言えましょう。要するに自分がトップの位置につきたいというのは、自分が究極的な位置を占めたということで、それは本来神様が占めておられる場であるのに、それにとって代わることが出来るというのは、何とも魅力的は誘惑です。この誘惑に、多くの専制者や独裁者志願の人たちがイチコロで引っかかりました。そしてその結果は惨憺たるものです。歴史はそういう人たちの夢の跡です。
神様が「禁断の木の実」をエデンの園に置かれたのは、そういう意味において、人間に、人間の位置を失わせまいとしての、不可欠にして実に周到な配慮に基づくものであったと言うことが出来ます。以前に述べたことの繰り返しになりますが、「エデンの園とは神の戒めのもとにあっての自由な世界」と言うことが出来ます。それが「神と共に生きる世界」であるわけです。ところがアダムとエバはこの禁を犯しました。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年11月のラジオ放送予定>
11月 6日 笠井 恵二 (中部学院大学特任教授・宗教主事)
13日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)
20日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)
27日 西島麻里子 (岐阜済美学院高等学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・46
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・
答・・13 この主流が「死んだらおしまいだ」とか「力が衰えてきたからもうダメだ」みたいなことを言わせるのです。主流に逆らうことにエネルギーを消費する必要はありませんが、少なくとも「自分にとってのいのち」について、既成のものに取り囲まれているだけでは、結局その既成のものに支配され、その影響をもろにかぶった自分による以外に、自分を意識し得なくなってしまうのです。
周知のように、価値観は時代の変遷と共に移り変わりました。わたくしたちの国では、太平洋戦戦争での敗戦前後では、全く変わりました。それは今までいのちとして大切にしていた価値体系が一挙に変わってしまったことで、このことへの対応には難渋しました。
その最たるものは神であった天皇が人間宣言されたことです。この変化への対応に皆難渋しました。それでもこの状況を切り抜けたのは、とにかく食うことが先決で、このことへの取り組みでエネルギーの大部分が消費されてしまったからです。
では、飽食時代といわれるこんにちどれだけ揺るがない価値観に立っているかと言えば、これがはなはだ怪しいのです。つまり、あらゆる意味において死は恐るべきものであり避けたいことであることに変わりはない、ということです。人間がすべて死ぬべき存在であることは誰でも分かっていますが、これを直視して何かが生まれてくることは期待出来ませんから、みな避けます。死の力はすべてのものは呑み込まれてしまうからです。
死に向かう人間は、初めから、この点については負け戦をしていることがはっきりしています。「死にたくない」と叫んでも、死の力は確実に、人間を呑み尽くしてしまうのです。不老長寿の妙薬を手に入れようとしたり、体の再生を願って保存法を極めたりしてきましたが、みな儚い抵抗でしかありません。そのように確実に死ぬということが分かったなら「では死ぬ前にやりたいことはみんなやって悔いのない人生を生きよう」というので、生きている内に楽しみを追及したり、この世での存在意義を自認できる働きに専念するなど各自各様の対応をしています。が、それでも「死とは何か」「死ですべては終わりか」という問題は依然として未解決のままです。釈迦は「死からの解脱」を悟った人であると言われていますが、すべての人がそれを聞いて「分かりました」と言うことが出来るか疑問です。
以上のことを踏まえて「では、キリスト教では、確実に死に打ち勝つ力をくれると約束するのか」と問われたら、これも直ちに効き目の有る妙薬を提供するような仕方での応答をすることは出来ません。ただ、聖書全体を通して、特にイエス・キリストによって語られ示されていることの紹介と解説は出来ますから、それを死について考え、かつそれを通して何らかの死に対する方向付けを得ていただければ幸いです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年10月のラジオ放送予定>
10月 2日 杉本和道 (日本基督教団各務原教会牧師)
9日 杉本和道 (日本基督教団各務原教会牧師)
16日 辻 順子 (日本基督教団鳴海教会牧師)
23日 辻 順子 (日本基督教団鳴海教会牧師)
31日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・45
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・12 死とは自分のいのちがなくなることであり、そのいのちとは自分の存在を意義あらしめているものであることは、先述した通りです。そして、それは、自分の意識においての問題です。意識がない人には、死は問題になりません。肉体にしても、社会における位置などにしても、また家族などとの関係においても、そこにいのちを見出しているから、その喪失が意識される時に、その喪失状態としての死が問題となるのです。
そしてそれは「人間」という日本文字が「人と人との間にある存在」であることを示しているように、自分以外のものとの関係において始めて問題となるのです。全く孤立している人間というものはあり得ませんが、仮にあるとしたら、その人は生きている自分について何らかの意識を持つと言うことは有り得ないでしょう。
今あるわれわれというものは、今まで関わって来た他者との関係において造り上げられてきた自分であって、その自分が今の自分に対する判断を下すのです。「死んで花実が咲くものか」という判断はそれです。「もっと長生きしたい」というのも「この世に生きている方が良い」という価値判断、逆に言うと「死んだら何もかもおしまいだ」という価値判断があるからです。もっとも「こんなに芽が出ないのなら、見切りをつけた方が楽で良い」という判断もあります。
更には「死ぬことは益である」という聖書が告げている価値判断もありますが、要するにわれわれは、純粋に単純に自分というものを作り上げてきたわけではなく、殆ど自分以外の他者との関係の中で築き上げられてきている自分なのです。そういう既成の自分が、今の自分や変わって行く自分に診断を下すのです。「こんなに物忘れがひどくなって来たのではダメだ」とか「皺だらけになってどうしょうもないわ」などという自己意識を待つようになるのです。もし「だんだん物忘れがひどくなっていくのは高齢化の特権であって、若い時には忘れて良いものまで覚えていて、そのために禍が起きるのだ」とか「皺が増えるようになれば必死で人目を引くようにお化粧に時間や費用をかけることもないし、あるがままでいいのだから、こんないいことはないよ」とかいうような価値判断が自分の内に作り上げられていたなら自分についての否定的判断を下すことなどなくて済みます。
ところがどっこい、この世の中で主演を演じている価値判断は、どうもそれとは違うようですし、大勢の前にたじろいでしまうわれわれは、いつのまにか主流に押し流され、飲み込まれてしまうのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年9月のラジオ放送予定>
9月 4日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
11日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
18日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
25日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・44
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・11 体は生きていても、存在意味は見出せないとなれば、そういう自分に見切りをつける、ということでしょう。そして、これは、自分を取り巻く人々との関係の中、もっと広く言えばこの世の中での、人間存在についての価値判断、特に今日では有用性ということと結びついてのことと言えます。「役立たず」ということが、人間の存在意義を失わせるものであるなら、様々な面での役を担って来て、それを生きていることの拠り所としてきた人にとっては、その力の喪失が自己自身の喪失となるのは当然の帰結です。
そういう場合に「いや、そんなことでわたしは失われはしない」「どっこいオイラは生きている」と言うことが出来る人は、この世の価値判断の中にいながら、それを超えたところに自分の拠り所を置いている人か、一旦死に体となった自分に新しい生き体のあることを見出した人であるかのいずれかでしょう。
「生々流転」といい、「世は移りゆくもの」とも言われて来ました。聖書は「世と世にあるものとは滅び失せる」と告げています。この世だけでなく、その中にある自分が、移りゆくどころでない、滅びるものであることを踏まえるなら「いのちとは何ぞや」「死とは何か」ということが、改めて問われているのではないかと、思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年8月のラジオ放送予定>
8月 7日 岩淵 正樹 (日本基督教団高蔵寺ニュータウン教会牧師)
14日 岩淵 正樹 (日本基督教団高蔵寺ニュータウン教会牧師)
21日 田口 博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
28日 田口 博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・43
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・10 現に今も全世界において何人かの人が死んでいるのですが、統計的に一時間に何人の割合で死ぬということを知っても、それは現象としての理解であって、それが自分の存在に響くものではありません。
しかし、例えば自分の家族の一人が死という場合には、それも現象であるには違いありませんが、その現象は自分を大きく揺さぶります。嘆き、悲しみに包まれます。それは自分にとって掛け替えのない大切なものが失われたことであるからです。その大切なものというのは、人格的関係と言ってよろしいでしょう。つまり、今までは「わたし」に対して「あなた」であった関係が、「あなた」と呼ぶことも、逆にそう呼ばれることもなくなってしまって、いくら呼びかけても何の応答もなくなってしまった、ということです。人格的関係がない人の死は、現象であるだけですが、関係における死は、大切なものの喪失という意味を持つのです。
「死」は「命が失われること」という意味内容を持つことは、先述した通りですが、その「いのち」というものが掛け替えのない自分の子どもであったり、伴侶であったりする場合には、その死は、自分が命としていたものを失うに至ったこととして、もはや今までの自分ではなくなることになります。
昨日までの自分と、「自分のいのち」を構成していたものが失われた今日の自分とは違うのです。この違いに耐えられないところに、悲しみがあり嘆きがあるのです。「もう一度生き返って来て」との切なる願いがあっても叶わないところに、この「いのちの喪失」が「自分の喪失」ともなるのです。
ただし「いのちの喪失」は、自分にとって「何をいのちとしているか」ということと関連します。それは「自分の存在を意義あらしめているもの」が何であるかという問題です。それはこの世における自分の存在の評価とも関連することでもありまして、例えば政治家なり学者なり技術者なり主婦なり、そのほかの何かであっても、そのことが自分の生きている生きがいであり、存在を支えているとすると、そういう役割を果たせなくなった場合には、自分の存在の意義がなくなってしまうわけですから、身体的現象としてのいのちはあるものの、そのいのちの意義内容となっているものは喪失したことになります。いわゆる「役立たず」人間になってしまうわけです。
そういうことから言って、政治家としての死、技術者としての死など、その人が自分の一番大切にし、拠り所としていたものの喪失が、自分の死ともなるのです。この死に耐えられないので死を選ぶ人もいます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年7月のラジオ放送予定>
7月 3日 大藪 博康 (名古屋高等学校・中学宗教部長)
10日 大藪 博康 (名古屋高等学校・中学宗教部長)
17日 高見伊三男 (名古屋学院大学宗教部長)
24日 文 禎顥 (名古屋学院大学経済学部准教授)
31日 葛井 義憲 (名古屋学院大学法学部教授)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・42
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・9 釈迦が「生老病死」の四苦からの解脱を願ったことは既に述べましたが、この方が「死」を「苦」と受け止めて、この苦からの「解脱」を願ったと言うことは、誰でも共感出来ることではないかと思います。但し、その「解脱」ということが、修行や瞑想などを積み重ねていった結果到達出来たことなのか、それとも、そういう人間の側からの何かによるのではなく人間を超えた側からの働きかけによって得るに至ったことなのか、よく言われる言葉でいう「自力」か「他力」か、ということになるのでしょうが、ただ「死の苦」からの解脱は誰でも願っているに違いありません。
但し、この場合、「苦」と見る「死」とは何か、ということが、問題であると思います。わたしたちが普通「死」という場合の死は「肉体の死」のことを言うのではないと思います。「あの人、死んだ」という場合は、明らかにそれです。それは「現象としての死」であります。現象であれば、どういう現象をもって「死」と認めるかについての、客観的に正しいと認められるか、その判断基準がなくてはなりません。
ヘンな話ですが、こういうことが問題になるのは、わたしたち人間が何らかの帰属集団の一員であるからです。具体的には国家の構成員であるからです。それは誕生の時から始まります。一人の人間が誕生すると、出生届を出さなければなりません。しかも出産を証明できる資格を国家が認めた証明人(医師、助産師)による「出産証明」を添えてです。同様に、死亡についても、国家が承認した「死亡診断」をなし得る資格を持った医師による「死亡診断書」が提出されて初めてその人が死んだことになるのです。
要するに、わたしたちの生死を確認するのは国であると言うことです。自分の生死を国に認めてもらわなくてもよいし、国としては国民に人数が増えたか減ったかという数字の問題であって、私という人格とかかわることではないのです。この人格とかかわることがないとは、死が現象としてのことであるからです
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年6月のラジオ放送予定>
6月 5日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
12日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
19日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
26日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・41
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・8 パウロという人は「わたしにとっては、あなたがたから裁かれたようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と言っています(Ⅰコリント4:3~5)。
「義とされる」ということは『「よろしい」』と認められることですから、パウロは、自分でそういう風に自分を評価しないし、他人からいろんな評価を受けようとそういうことは問題にしていない、というのです(これに比べたらわれわれは何と他人の評価を気にし、また自己評価をして一喜一憂していることでしょうか)。
パウロがこういうことを言うということは、彼に対してのいろんな批判や中傷などが聞こえていたからでしょう。そして、自分でも「こんなことじゃダメだ」とか「これくらいならまあまあ」とかの自己評価をしたことがあったかも知れません。
そういうことを踏まえた上で、「わたしを裁くのは主です」「主がなされる裁きは正しいのですから、それに先立って自他を裁くのは僭越至極で、してはならないことだ」と承知しているのです。「宗教の根本問題は、自分を裁くまことの権威を持っている者を誰に見いだすかにある」と言った人がいますが、パウロはその問題に対して「主がまことの裁き主であられる」という答えを得ているのですから、究極の権威に触れて、そうでないものに捕らわれることなく、これから解放されているのです。
また、自分に取り付いているあらゆる既成の価値観や人間が作り出している思考枠に捕らわれない自由を得ているのです。その根拠は、ことのすべてを判断し評価する主体(裁き主)を、「主」と呼ぶ自分以外の超越的な方イエス・キリストに見出しているからです。正確に言えば、この「主」の方からパウロに「わたしがいるよ」と声を掛けられたことによって、自分のことを評価し究極的に位置づけられる方がおられことに目覚めさせられた、ということが出来ます。「目から鱗のようなものが落ちた」というのはこの時のパウロの偽らざる体験でありまして、今までは自分が主であって自分以外の他を、神をも含めて客体化していたのが、今や、神が主であって、自分を含めて神以外のすべては客体であることに気付かされたということです。
ここで「知っている自分」ではなく「知られている自分」として自分を相対化または客体化することが出来る者とされるということが起こったのでありまして、この主客が転倒されることをもって「救い」というのであります。ここで、モーセの十戒の第一戒「わたしのほかに何者をも神としてはならない」というのが、禁止命令というより、「まことの主はわたしなんだよ」と言って、自分やこの世の富などにより頼んでいる見当違いからの解放を促しておられる主なる神の語りかけに他ならないこと知ることができるように思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年5月のラジオ放送予定>
5月 1日 二宮 創 (日本キリスト改革派太田教会牧師)
8日 二宮 創 (日本キリスト改革派太田教会牧師)
15日 西堀則男 (日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師)
22日 西堀則男 (日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師)
29日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師) (放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・40
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・5・・
答・・7 ヒトラーは「ユダヤ人は生かしておいてはならない」という考えで、数百万人を殺しました。そういう考えに捕らわれていたからです。もちろん本人は捕らわれていたとは思っていなくて、そうすることが正しいと信じていたのでしょう。そういうことから言うと、「正しいと信じていること」の問題性を思わずにおれません。他人事ではありません。わたしたちの国日本においても、日中戦争が始まって以来、「必ず勝つ」という信念を持っていました。
「いざとなったら神風が吹いてきて敵をやっつける、何と言っても日本は神国だから・・・」と信じていました。そういう「共同幻想」に捕らわれていたと言えるでしょう。こういう信念というものは、固ければ固いほど、内部結束という閉鎖力を強め、それとは違ったものを排除する強い力となって働きます。
「必勝の信念」をもって「一億一心」となった、かつての日本が、異常な力を発揮したのは、こういう点で納得出来ます。しかし、その力は、本来発揮されてはならないものに捕らわれていたからであって、その捕らわれから解放されることこそ、必要なことではなかったか、と思うのです、捕らわれるなら、むしろ「すべての人が生かされなくてはならない。そのためには絶対に『殺してはならない』という信念」でなくいてはならない、と思うのです。
イエス・キリストが活動された時代のユダヤ人社会は、神から与えられたものとしての律法を厳守する信仰共同体でした。したがって、この律法を知らない異邦人はもとより、ユダヤ人であっても律法に沿わない生き方をしている者は、神の祝福に預かれない者として排除されました。この限りにおいて、神は律法を厳守する者だけを受容する閉鎖的な神となってしまう傾向を帯びることになりました。もちろん、神は閉鎖的な方ではなく、すべてのものを祝福の対象とされている方でありますが、この神を閉鎖的な神のように仕立てたのは、律法主義という、信仰についての枠付けをしてしまった人間でした。そのトップを切る担い手がパリサイ派と称せられた律法厳守主義者たちでした。
イエス・キリストの言動は、以上で述べたように、神は全ての人を、そのあるがままにおいて受け入れて、差別したり排除したりする方でないことを明らかにするものであり、しかもそれが律法の本来の精神に沿うものであることを明らかにすることとして、なされました。そういうことを宣言し、そのような事実に生きることをもって、人間が造り出していると考え、もっと言うと人間自身の内にあって人間を支配しているものからの解放を意図されたものでした。
聖書が言う「救い」とは、この人間が、人間が抱いており、また人間が造り出している人間をその中に閉じ込めているものからの「解放」を言うのです。人間を超えた神の御心に即して生きるようになる、これが「救い」であります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年4月のラジオ放送予定>
4月 3日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
10日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
17日 阿部 啓 (日本基督教団豊橋中部教会牧師)
24日 阿部 啓 (日本基督教団豊橋中部教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・39
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・4・・
答・・6 キリストは「あなたの目が罪を犯させるなら目をくりぬいて捨ててしまいなさい」といわれました。同様に「あなたの手や足が罪を犯させるなら、切り取ってしまいなさい」とも言われました。宝石泥棒や強盗などは目が見えるからすることです。「他人の目の中にあるおがくずはよく見えても、自分の目の中にある丸太棒が見えない人」の目は取り替えてもらう必要あるのではないでしょうか。指先の器用な人間が、スリや金庫破りをするのです。頭の良い人が、巧妙に人を騙すのです。口の達者な人が、口下手な人の口を封じてしまうのです。耳の良く聞こえる人は、噂話や他人の悪口がすぐに聞こえて来て同調するのです。そして、人にもそれを蒔き散らします。五体満足、頭脳明晰であることが禍の元となるのです。不老長寿は幸いとされてきました。が、人生内容は問われなくて良いのでしょうか。
カネを持っていることも幸せと見られてきました。が、そのカネを得るために搾取したり、貧しい人のことなど無頓着な人の幸せとは何でしょうか。
キリストはまた「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。「富」とは自分を豊かに生きさせるものであり「宝」でもあります。「あなたのおたからは?」と尋ねられた時、「これです」とさし出すことが出来るものが、その人にとっていちばん大切なものであり、こころはいつもその宝に寄せられています。「子宝」とはよくいったもので、「子」が宝である人は、子によって豊かにされるに違いありませんし、いつも子のことに心が寄せられます。同様にカネ、名誉、権力、家庭、などなどを宝とし自分を豊かにしてくれる富としている人もいることでしょう。
こういう点について、次のように述べている人がいます。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えました。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。
これはパウロという人が語っていることですが、この人が授かっている「秘訣」というのはこの人にとっての「宝」であり「富」でしょう。注目すべきは、この「富」は自己本位でなく自分に執着していないことです。前述した宝が自分に即したものであるのに比べ、この人が一番大切にしているのは、自分を超えているものです。「秘訣」であり「授かっている」ものです。
とらわれている自分から解放されている人であることがうかがえます。聖書が言うところの「救い」というものが、こういうことが言えるようになることの中にあることを、先ずは知っていただきたいのです。要するに、この世とその中にある自分に即して生きている自分でない、新しい自分とされている「秘訣」を授かることにあります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年3月のラジオ放送予定>
3月 6日 木下裕也 (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
13日 木下裕也 (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
20日 梶浦和城(日本キリスト改革派春日井教会牧師)
27日 梶浦和城(日本キリスト改革派春日井教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・38
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・3・・
答・・5 今回はキリストに触れて「救われた」と思ったであろう人、また他人から見て「あの人はあれで救われたなあ」と思われたであろう人のことを、新約聖書の記事の中から選び出して考えてみます。
一人は中風を癒されました。それまでは手足が思うように動かなくて、いらいらし、世をはかなんでいたかも知れません。また、家族や周りの人たちからも世話がかかるために敬遠されていたかも知れません。ですから「中風でなかったらなあ」と思っていたに違いありません。そういう人をキリストは癒して、自由に動く体にされるのですから、この人にとっても、この人のことを知っている人にとっても、これは救われたことと認められたに違いありません。
もう一人はハンセン氏病を癒されました。キリストの時代には、この病気に罹った者は「穢れた者」とされて、隔離された所に住まわされました。一般の市民生活や社会活動の一切を禁じられていました。日本でも「天刑病」つまり「天からの刑罰を受けた病気」などと言われ、隔離された島などに収容されました。こういう人を、キリストは癒して、社会復帰をさせられました。この人にとっても、このことは「救われた」ことであったでしょう。
またある人は、生まれつき目が見えなかったのを、キリストによって癒されて見えるようになりました。この人も「救われた」と思ったことでしょう。
以上のようなことがキリストによって次々になされましたから、キリストには「治癒神」のように見られた一面があったことは否定できません。ただし、そうであるなら、医者と同じです。勿論、こういう癒しが、病人や障害を持った人にとって必要なことは言うまでもありません。キリスト教病院やクリスチャンドクターは、キリストの働きを担っている面があります。
しかし、病気や障害を癒された人たちのその後の人生の歩みがどうであったかが問題です。見えるようになったため、醜悪なものを見てしまって、「見えない方が幸せであった」ということがあるのです。また「あの人、体が元気になったため、やりたいことをやり放題だ。あんなことなら病気のままだった方が周りの迷惑が少なくなって良かったわ」と言われることだってあります。
そういうことを考えると、救いと言うことは、病気などの癒しにとどまたず、むしろどんな状況の中でもたじろがないでおれる自立性を確立されることと、関わる全ての人と平和を保つことが出来る調和性の根拠である「愛」に根ざした自己に変えられるという、人間そのものに関することを負いのであると言うことがお分かりいただけるのではないかと思います。そして、そのことは体が健康な人についても同様に言えることです。病気の人より健康な人の方に犯罪行為が多いのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年2月のラジオ放送予定>
2月 7日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
14日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
21日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
28日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」