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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・37
<続き>
問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・3・・
答・・4 「菊と刀」という著書によって有名になったルース・ベネデクトは、欧米の文化は罪悪の文化であるが、日本の文化は恥辱文化であると述べています。罪悪文化というのは神に対する罪が人間の意識の根底にあってそれによって文化が生み出されているというのです。恥辱文化というのは恥の意識が人間の根底にあってそれがもとになって文化が作り出されているというのです。
最初読んだ時には「成る程」と思いましたが、今では必ずしもそうとは言い切れないのではないかと思っています。それというのも、例えば昔から「そんなことをしたんじゃ、お天とう様に申し訳ない」と言われるのを聞いていますし、親鸞が自分のことを「最悪深重」と言い「地獄は必定わが住家ぞかし」と言っていること即して言えば、日本人がただ恥だけを意識の根底においているとは言えないのではないか思えるからです。
親鸞が自分のことを罪深く救い難い人間であると自覚したのは、超越的人格的存在である阿弥陀仏との人格的関わりがあってのことと思います。しかもその救い難い人間であるとしか思えない者であればそうであるだけ救い出さなくてはならないとされるのが阿弥陀仏の本願であることを知らされたことが、親鸞にとって救いであったのです。
親鸞が仏教全体の中でどういう位置付けをされているのかわかりませんが、「善人なおもて救われる、まして罪人をや」という「悪人正機説」は、「キリストは罪人を救うためにこの世に来られた」ということと、救いの構造はよく似ています。ただし阿弥陀仏というのが超越的存在であることと、キリストは真の人としてこの世に来られたこととは違います。
ところで、先述したモーセの第一戒に背いた時どうなるかというと、そういう人は最も崇めなくてはならない方を冒涜したこととして、死刑に処されます。キリストが死刑に処せられたのはキリストの言動が神を冒涜しているからだというのが、その理由でした。実際はキリストは父なる神様のみこころを行うことに終始されたのですが・・・。
神のみこころを行うことに生きた人を神に背く者であると判定したのですから、これほど大きな見当違いはありません。しかもその見当違いに気付くどころか、自分たちこそ神のみこころにかなうことをしているのだと自負していたのですから、救いようがありません。
キリストが十字架の上で、父である神に「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分たちが何をしているのか分かっていないからです」と祈られたのは、この救い難い見当違いの一切を自分の死において担い切られたからです。人間の犯す最大の見当違い(罪)は、人間が自分の価値判断を絶対化することにありますが、その見当違いを命をかけて担う人がいて、赦しが成り立ちます。ここに救いの根拠があります。その根拠となるのが「愛」であると言えます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2016年1月のラジオ放送予定>
1月 3日 保科 義朝 (日本基督教団熱田教会信徒)
10日 保科 義朝 (日本基督教団熱田教会信徒)
17日 佐野悠紀子 (日本基督教団枇杷島教会信徒)
24日 佐野悠紀子 (日本基督教団枇杷島教会信徒)
31日 田口 博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・36
問20・・13 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> ・・大分前のことですが、ある人から「あなたは救われていますか」という質問を受けたことがあります。正直言って、これには困りました。わたしは牧師であり伝道者であって、人々にキリストによる救いを説いているのですから、「勿論救われています」と応えるのが当然だと思うのですが、その質問者に即答出来ず、答えるのにいささかためらいを覚えていました。
そのわけは、その人は当然「わたしは救われました」と言い、それに続けて、いつ、どこでどんなことを経験してその救いを確信するに至ったかを語られるに違いないと思ったからです。そこで、わたくしは「一口に『救われました』と言っても、何をもって「救われた」と言えるか、少し話し合って相互理解をした上でないと、見当違いになる恐れがありますね」みたいなことを言ったものですから、その人は「こんなはっきりしない牧師を相手にしていてもつまらん」と思われたのでしょうか、話はそこで終わってしまいました。
私が小学生の頃、救世軍というキリスト教の一派の人たちが、太鼓をたたいて、町の中を歩き回ったり、広場の一隅で伝道していました。その時よく歌われていたのは「十字架にかかりたる救い主を見よや、こは汝が犯したる罪のためただ信ぜよただ信ぜよ信ぜよ信ずるものは皆救われん(救われる、の意)」という歌でした。この歌は余ほど多くの人に知られていたのでしょう。漫才の中のギャグにも「信じるものは救われん」などと言って笑いを取っていたものです。
確かに「信じるものは救われん」です。ただし、これには十字架にかかりたる救い主」を見ることがなくては叶わないことです。そして、その十字架にキリストがかけられたのは、わたしたちが犯した罪のため(罪に対する審きを担うため)でした。
前にも触れましたが、罪に対応するものは罰であって、赦しではありません。この世において、罪を犯したものはそれ相応の罰を受けます。罰が課せられることなしに赦されることはあり得ません。場合によっては死刑が宣せられます。死ぬことによって罪が償われるのです。しかもその罪というものが、何に対しての罪(背反、無視、見当違い)であるかは問題です。大日本国憲法においては「天皇は神聖にして犯してはならない」存在でした。
ですから、この神聖性を汚すものは極刑に処せられました。神聖なものが存在しないなら、これに対する罪というものもあり得ません。ただ神聖という言葉は使わなくても、「人の命は地球よりも重い」という時には、命というものの価値を絶対化に近い評価をしているわけですから、命を侵害する罪に対する裁きとしての罰が極刑に近いのは当然と言えます。
モーセの十戒の第一戒は「わたしのほか何者をも神としてはならない」ということでした。この神が厳然として存在しておられる所で、神に対する罪が問題とされるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<12月のラジオ放送予定>
12月 6日 横山 良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
13日 横山 良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
20日 小林 光 (日本基督教団熱田教会牧師)
27日 小林 光 (日本基督教団熱田教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・35
問20・・12 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 一般的に言って「救い」とはどういうことでしょうか。先に「放蕩息子のたとえ話」について話しましたが、放蕩息子は父親の愛によって、赦されるはずはないと思っていた父から、叱りや怒りではなく、赦しを得たことによって、父親との関係を回復することが出来ました。こうして彼は「救われた人間」になりました。一方、兄息子は「救い」など必要ない模範生であり、親孝行息子であると自他共に認められている人でした。
しかし、放蕩息子を無条件に赦して最上の客を迎えるように歓迎した父親のやり方は承知出来なくて、むくれ返って家に入ろうともしませんでした。この場合「家の中」とは、単なる建物としての家というより、父親と放蕩息子との間に成り立っている赦しの関係、または和らぎと喜びに包まれている宴(うたげ)の場という意味を持っている所のことであります。「模範生の自負はこうして、劣等生が優等生の待遇を受けている場に同席することは、それでは俺は一体どうなっているんだ」と言わざるを得ないのですから、そういう「いやな場はお断り」となるわけです。これに対して父親は「いいじゃないか、わたしが赦しているんだから、お前もわたしの喜びを一緒に喜んでくれ」というのですが、兄息子はそういう父親には承服できないのです。
「救いとは関係における事柄である」ということは先述した通りですが、右の場合、父親にとって兄息子は、もともと自分との関係を失っていた人間であることが、弟息子を受け入れたことによってはっきりしたのですから、「あいつはいい息子だと思っていたが、やれやれこれでは困ったことだ。あいつにも何とかしておれの気持ちが分かってほしいものだ。そうでなければおれは死ぬに死ねない」という思いに満たされることになります。
これが父親の新たな悩みとなります。この悩みはいつになったら解消されるでしょうか。兄息子が模範生であり孝行息子であるという自負に拠り立っている限り、その日は来そうにありません。父親の嘆きはずっと続きます。兄息子が何と言っても「おれは問題ないのだから」と思っている限りにおいて、そうなのです。
父親という存在がなければ、こういう問題は起こりません。また父親が放蕩息子を受け入れて最上の客をもてなすように喜ぶ父親でなければ、兄息子の不平は出てきません。救われなくてはならないのは兄息子も同様であるということは、父親が「赦しの愛」をもって「赦されるはずのない者を赦す父」であることが分かっていないということにおいて言えることであります。
キリストが「放蕩息子の譬え話」をされたのは、神は丁度この話に出てくる父親のような存在であることと、従ってこの話を聞いている人のすべてに「神による救い」ということを考えさせるためではなかったかと思わされます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<11月のラジオ放送予定>
11月 1日 笠井 恵二 (中部学院大学特認教授・宗教主事)
8日 笠井 恵二 (中部学院大学特認教授・宗教主事)
15日 志村 真 (岐阜済美学院宗教主事)
22日 志村 真 (岐阜済美学院宗教主事)
29日 西島麻里子 (済美高等学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・34
問20・・11 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 一般的に言って「救い」という言葉についての受け止め方はいろいろです。例えば「救急車」とか「救命ボート」とかいう場合には、そのままにしておいたら死ぬかも知れない状態から救い出すことが考えられています。それで、こういう救急策が有効に働いて命が取り止められた場合には、その本人は「救われた」と言うでしょうし、家族の者たちからも「救われて良かったね」と言われるに違いありません。そういう人命救助を仕事としている人によって、多くの人が救われている事実があります。これは体の命についてのことです。
また、時に「災害救助法の適用」がなされる場合があります。これは災害によって被害を受けた人が、そのままでは立ち直ることが困難な場合、その困難さからの救いということが考えられているわけです。そのほか自力では回復出来ない状況にある場合、その状況からの解放が「救い」と考えられます。病気、借金、自分に対する悪評などからの解放を「救い」ということが出来ます。
そういうことから言って、右に述べたよう事情がない人にとっては「救い」など必要ありません。ですから、「救い」などという言葉は、そういう人には無縁でありまして、ナポレオンが「余の辞書には不可能と言う言葉はない」と言ったことをもじって言うと、「わたしには『救い』と言う言葉は不必要です」ということになります。「みんな間に合っています」というわけです。
「死ぬこと」についても「わが人生に悔いはありません。死ぬのも時が来れば自然に死ぬのですから、とりたててどうってことはありません」と言う人もいるわけです。以上のように、「救い」を必要としている人と、必要としていない人とがいる、ということになります。
「キリスト」という言葉は「救い主(ぬし)」という意味ですから、「救い」を必要としていない人にとっては、キリストは無縁の存在であるわけです。それでもキリストの誕生のお祝であるクリスマスを祝うのはどういうわけでしょうか。
釈迦は「生老病死」と言う四苦からの解脱(げだつ)を願った人です。この四苦はすべての人に共通して存在しているもので、釈迦はそれからの解脱を悟りによって得たと言われております。ですから仏教は人間の問題に対する救いの道を説く「救済宗教」であります。(「救済宗教」にたいして「ご利益宗教」と呼ばれるものがあります)。
キリスト教も救済宗教ですが、その場合の「救い」とは「罪と死からの救い」のことを言います。罪にしても死にしても、何か形に現された行為や現象のように受け取られやすいのですが、聖書で問題とされているのは、神との関係においてのことであります。したがって、神不在であるなら「罪」も「死」も「救い」も、問題にはなりません。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」
協力委員・ラジオ説教者)
<10月のラジオ放送予定>
10月 4日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
11日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
18日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
25日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
放送開始1952年10月放送開始
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・33
問20・・10 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 「放蕩息子の譬話」には母親は出てきませんが、この場合の父は、切る役を自分に課すと同時に、包む役も担っているのであって、父とか母とかいう言葉に限定されない、人間を超えた神の、人間への関わりを語っていると言うべきでありましょう。
「放蕩『息子』」という言葉は、その親があって成り立つ言葉でありますし、親があるから問題となります。親がいなければ「放蕩人」であっても「放蕩『息子』ではありません。それと、親がいても、親を無視して、自分の思いだけで生きている者は、親という自分の存在基盤から離れて生きているのですから、本人にその自覚はなくても、親からすれば、放蕩していることになります。
このことが親に対する見当違いな生き方(罪)です。放蕩という言葉は、普通にはふしだらな身を持ち崩した生活をしているような状況のことが考えられますが、本来、「拠って立っているべきところ」から離れて、自分の思いだけで生きているなら、それは、その本来的ものからは「放蕩」していることになります。ですからギャンブルに明け暮れていようと、社会的に立派な仕事をしているとみられていようと、親を無視して生きているなら、それは「放蕩『息子』」なのです。
同様に、神が存在しなければ、神に対する的外れの人間(罪人=罪人=)すなわち「放蕩人間」ということはあり得ません。ただし、親を無視して独走しているものに「放蕩『息子』」などという意識がないように、神がいても、神を無視して生きているものには、神に対する罪人意識などは起こりようがありません。
しかし、放蕩息子は、親から離れて自立したと思っての独走の結果、どん詰まりに至りました。自力では自分のことをどうすることも出来なくなったのです。助けが必要になったのです。これが「我に返った」ということです。「このままでは立つことが出来ない我」を自覚したのです。その時、彼は幸いにも、より頼むべき存在があること、自分のどん詰まりは、その存在を無視し、そこから飛び出したことにあると気付きました。こうして帰還が成り立ったのです。
人間は、自分の危機に直面せざるを得ないことがあります。太平洋をヨットで横断するという快挙を果たしたかつての堀江青年は、横断の手記の中で、荒れ狂う海の中でどうにもならなくなった時、「神様、仏様、キリスト様、金刀比羅様・・・」など、知っている限りの名前を呼んで、助けを求めたといいます。
助かったのは何によったかは別にして、「助けて!」というしかない時、初めて人間は、自分を超えたものに助けを求めるのです。罪人が罪から立ち返らなくてはならない時が来るのです。第二次世界戦争の結果、多くの人々は、人間の営みに希望を失いました。人間が危機にあることを自覚したのです。
しかし、そういう中でも小康を得て、またぞろ放蕩の旅に出ています。やがてどん詰りに至るのではないかと危惧や不安を抱きながらもです。そういう中でも、「帰るべきところはここだよ」との声を聴くことが出来る人は幸いです。キリストは、そういう呼びかけをし続けておられる方なのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<9月のラジオ放送予定>
9月 6日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
13日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
20日 上田正昭 (日本基督教団華陽教会牧師)
27日 上田正昭 (日本基督教団華陽教会牧師)
(放送開始19(日本キリスト改革派長久手教会牧師)52年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・32
問20・・9 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> イエスが語られた「放蕩息子の譬話」は「放蕩息子の父の譬話」であり、また「放蕩息子の兄の譬話」でもあります。この譬話によってイエスが語ろうとされたことは、イエスが「わが父」と呼ばれた神は、この放蕩息子の父のような方であるということです。即ち、神は神を無視して自分の思うままに生きている人間が神のもとへと立ち返るのを待っておられるというのであります。ということは、イエスにとって、神は、徹底した「赦し」の神であられるということであります。この「赦し」があるところに、すべての人が神のもとへと立ち返ることが出来る根拠があります。そして、そうであればこそ、
人間にとって、そこに、究極の安らぎまたは絶対に揺るがない心の基盤があるわけです。
ただし先にも述べたように、そういう赦しは甘過ぎるのではないかという批判があります。そういう甘さでは示しがつかない、父たるものはもっと厳しく毅然としていて「放蕩など赦さない」と言うのでなくてはならない、という声が上がりそうです。模範生をもって自認している兄息子に代表される考えがそうであります。
しかし、放蕩息子は、放蕩三昧に明け暮れしてきた自分が厳しい扱いを受けて当然と思っていたのに、その予想とは全く反対の大歓迎を受けた時、その「赦し」そのものが、自分に対する「徹底した裁き」つまり「オレが悪かった」ということを、骨身に徹するほどに自覚したに違いないのです。罪に対応するものは罰であって「赦し」ではありません。しかし、その罰を全部担ってくれる者(代罰者)があって赦しは成り立ちます。放蕩息子に対して当然要求してよいツケを、父がすべて担ってくれたことが分った時、その赦しによって、彼は「裁かれた!」ということを、痛感したに違いありません。「赦し」は、赦す側の犠牲を伴うこと無しには成り立たないのです。(このことはいずれキリストの十字架について触れます)
この譬話の中に、母親は登場していません。こういう話の筋道では、放蕩息子に対して「許せん!」と言って息子を家に入れようとしない父親とは反対に「よく帰って来たわねえ」とばかり裏口からこっそり招き入れて、「さあ、ひもじかっただろう。腹一杯お食べ、おとうさんにはそのうちわたしから上手に詫びてあげるから」という母親がいて、事が決着するものです。父親は「切る役」、母親は「包む役」を担うことによって、事が納まるのです。
人はみなこの母親を求めてやみません。マリヤや慈母観音や女神への思慕はいずれも、こうした人間のすべてを抱擁してくれるものを求めているからに他ならないと思います。
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みみずのたわ言ならぬ老木の呻き
「この道はいつか来た道、ああそうだよ、日の丸の旗がゆれる」
「大丈夫、大丈夫との御意見なれど、当方の声のかすれをいかに繕う」
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<8月のラジオ放送予定>
8月 2日 金原 義信 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
9日 金原 義信 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
16日 黄 敬 秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
23日 黄 敬 秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)
30日 相馬 伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始19(日本キリスト改革派長久手教会牧師)52年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・31
問20・・8 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> それを聞いた父親は「そうか、お前がそんな風に考えるとは思っていなかった。考えてみてくれ。お前には家もあるし、ここにある財産はみなお前のものなんだ。お前の自由になるものなんだ。そして、オレと一緒に働いてこれたんだ。だが、あいつ死んだと思っていたのに生きて帰って来たのだ。放蕩に身を持ち崩したのは良くない。がそれが悪かったと気付いて詫びに帰って来たのだ。オレは嬉しくてたまらんのだ。どうかオレと一緒に喜んでくれ」と言ったのでしたが、お兄ちゃんは「いいえ、わたしにはお父様のおっしゃることがよく分かりません」と言って、自分の部屋に入ってしまって、口を利かなくなってしまいました。勿論、弟に声をかけるなんてことはしませんでした。だって弟はもう弟ではなくアイツだったのですから。
さて、父親はここで新しい悩みを抱くことになりました。それは今まで一緒にいたと思っていると思っていた兄息子が、実は自分からは全く遠い所にいたことを知ったからです。兄息子は模範青年であり親孝行息子でありながら、その実、親の思いの届かない遠いところにいたのでした。
これが父の思いとは見当違いに生きている兄息子の的外れ(罪)であり、この模範生が、自分がいかに自分の父から離れているかを知るまでは、彼に悔い改めでも起こらねば、父の悩みも取り去られることはないでしょう。
「親の心子知らず」といいますが、「神のみこころ、人間知らず」ということもあります。キリストが語られた放蕩息子の譬え話は、神に対する人間の罪を、実に巧みに語られているものと思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<7月のラジオ放送予定>
7月 5日 楠本 茂貴 (名古屋高等学校・中学校聖書科主任)
12日 大藪 博康 (名古屋高等学校・中学校宗教部長)
19日 高見伊三郎 (名古屋学院大学宗教部長)
26日 葛井 義憲 (名古屋学院大学法学部教授)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・30
問20・・7 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> こういうことから言って、「救い」とは自力ではいかんともし難い状況からの解放であると言うことが出来ます。そのままでは一番大切にしなければならない父親との関係を失った見当違い(罪)で終わってしまいます。そして、父親から「死んだ者」としてしか見られないままで終わることになります。その罪が赦され、その死から解放されて新しい生きた関係に入れられることが「救い」なのです。
では「救い」とは、放蕩息子のように、自分の力ではどうしょうもないほどのどん詰りに陥った人だけに必要であるかと言うと、そうではありません。先述したよういに万事好調で「みんな間に合っています。救われなくてはならないなんてことは全くありません」という人もおります。が、そういういい気分でおられるのは富んでいるからであって、貧した時には鈍する自分の人間性を弁えていなかったり軽視しているからです。
これに関連して、放蕩息子の兄のことに触れますと、このお兄ちゃんは、長男としての責任を感じていたせいもあったかも知れませんが、弟と違って、家業に励んでいて、父親も喜び、近所隣り、親類からも模範青年と認められ、親孝行息子と評判にされていました。
本人もそのことでは「俺はアイツ(弟)みたいではないぞ」と自負するところ、があったでしょう。彼はある日、仕事から帰って来ると、家の周りがいつもと違って妙に賑わしく、近所のおかみさん連中が鍋釜をもって忙しく出入りしている。で家の中をちょっと覗くと何やらご馳走が沢山並べられていて、ただ事でないように見えたので、一人をつかまえて「オレ何も聞いていないが今日何事があったね」と聞いたところ、「実は、あなたの弟さんが帰って来られたというので、オヤジさん大喜びで、親戚や近所の人まで呼んで、「みんな一杯やってくれ」と言っておられるところですよ」という答えだったのです。
こういう時の兄息子の反応は大体見当がつくと思います。「まずは、怒ったのではないか」ということです。その通り、兄息子は、それと知って、呆れるのを通り越して、頭の中が怒りでかっかとしてきました。
そこへ、兄息子が帰って来たものの、表でただならぬ顔つきをしていると聞かされた父親が「いつもなら『ただ今』と言って家に入って来るのに、今日に限ってそうではないとはどうしたことか」と外へ出て見ると、何とまあお兄ちゃんが真っ赤な顔で「オヤジ、聞けばあんたの息子が帰って来たと言うことで、大喜びの大盤振る舞いをしていると言うじゃないの。あのあんたの息子はよ、貰うものはみんな貰って家をおん出て、自分勝手にやりたい放題のことをやってよ。噂では遊女と遊び暮らして、挙句の果ては豚飼いにまで落ちぶれ果てたと言うんじゃないの。親戚にだっていい面汚しだし、近所の人だって『どうしてあんな子が生まれたのかね』と言っているのを知らないの。故郷にぼろをまとって帰って来るなんて、どの面下げてそんなことができるというの。あんな奴、普通なら牛小屋に寝泊まりして冷や飯喰ってりゃ御の字というものよ。オレが友だち呼んで一緒に飯食った時には何のご馳走もしてくれなかったのに、放蕩野郎のアイツには子牛を殺して大ご馳走だと。オレ、もう言うことないよ。あなたの好きなようにやればいいよ。オレには関係ないことだから・・・」と言ったものでした(ここで「そうだ、そうだ、それくらいのこと言うのは当然だ、もっと言ってやれ」と言う声が聞こえてきそうです)。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<6月のラジオ放送予定>
6月 7日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
14日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
21日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
28日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・29
問20・・7 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> この話を聞いた人の中には、いろいろな感想やら批判を述べる人がいるだろうと思います。例えば「このオヤジさんは甘すぎる。いくら息子が欲しがったからと言って、早々に財産分けをしてやる必要なんかないんだ。それと自分の息子がどんな子か分かっているはずだから、それを承知でやるなんて、見識がなさすぎる。結果は目に見えている」という類です。
また「甘いといえば、息子が帰って来た時の迎え方だ。大体黙ってどこへ行くとも言わないで家を飛び出したばかりか、あんな姿で帰って来たのであれば、『どの面下げて帰って来たのか』と怒鳴り返して当然だ。それが自分勝手なことをした奴に対する見せしめだ。そうでなければ、真面目に働いている兄息子に対しても示しがつかないよ。放蕩三昧して挙句の果てに歓迎されると言うのであれば、放蕩した方がトクということになるよ。近所にも若者がいるんだ。ああいうオヤジさんのやり方では若者たちへの示しもつかない」という批判もあるでしょう。要するに、親不孝の放蕩息子に対しては、しかるべき凝らしめがあるのは当然ではないかと言う考え方です。
一方「あの息子は悪い奴じゃ。しかし、自分が悪かったことに気づいてよう帰って来た。そしてオヤジに謝ったところなど、これからが良くなるだろう。オヤジさんもそういうことを見越してよくあれだけの歓迎をしてやったものだ。あれだけのことをやってもらったら、あの息子にとってオヤジは大恩人になるし、二度と放蕩などしないに違いない。結構なことじゃ」と言う人や、また「ああいうオヤジを見ると、オヤジって者は、顔に出してはいないが心の中はみんなあんな風に息子のことを思っているんだ。俺もオヤジに心配かけちゃいかんな」と思う人もいるかも知れません。
ところで、こういう話を引き合いに出したのは、前からの引き続きで「罪とは何か」を説明するためです。父親は息子の性質をよく知っていたにしても、放蕩に使うことを願って財産分けしたのではありません。有効に役立てて欲しいという思いで、父親から独立して行こうとする息子に財産を分けたのです。
この父親の思いや意向を全く無視し、それとは見当違いの生き方をしたことが、彼の父親に対する罪(見当違い・的外れ)であったのです。しかもその罪がどんなに深いものであったかは、帰った彼に対する父親の予想もつかなかった歓迎に示された愛に接して、喜びと共に、涙を流して悔い改めずにおれなかったものであったといえます。
この話から言えることは、第一に、人間は自分の欲しいままに生きて遂にどんづまりにならない限り、見当違いに生きて来た自分に気づかないであろうと言うことです。人生には様々な浮き沈みがあります。万事快調でいい気分になっておれる時もあれば踏まれたり蹴られたりで、にっちもさっちもいかない時もあります。その結果、首をくくって死ぬ人もいます。富めば奢り、貧しくなれば鈍すると言われるように、貧富が人間性を変えてしまうことだってあります。
今取り上げている放蕩息子も、金があった時は取り巻きに囲まれ、したい放題のことが出来ていい気分でおれたでしょうが、豚飼いにまで落ちぶれてしまった時には、生きる意欲も失ってしまったことでしょう。こういう彼に起死回生の力を与えたのは、彼の父の愛でした。これが、人生のどん詰まりに陥った彼の救いとなったのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<5月のラジオ放送予定>
5月 3日 横山 良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
10日 横山 良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
17日 武井 恵一 (日本基督教団豊橋東田教会牧師)
24日 武井 恵一 (日本基督教団豊橋東田教会牧師)
31日 山田麻衣子 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・28
問20・・6 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 戒めは神からのものでありますから、戒めに背くことは、神に従うことをやめることになります。それは神よりも自分が主人公になるということです。主人公を持っていなければこういう事態は起こり得ません。罪を犯したという罪意識は起こりません。クリスチャンが罪の赦しを神に求めるのが何故か分からないと言う人は、自分が主人公になっているから、神を主人公とし、神の戒めに従うことが楽園にいる保障となっているということが分らないためにそう言うのでありまして、無理からぬところであります。こういう人に罪とはなんであるからを分かって貰おうとすれば、神のことを知って貰わなくてはなりません。
キリストが語られた話の中で「『放蕩息子』のたとえ」と呼ばれている有名な話であります。」
それは次のような話です。
「ある人に二人の息子がいた。弟が父に『俺が貰う分の財産は今すぐにくれ』とせっつくので、父親は相続分の生前贈与をした。貰った息子はそれを全部カネに替えて、『はい、さようなら』と、父親の干渉から全く離れた遠くへ行って、そこで、自分の好き勝手な生活をした。遂にカネがなくなった。放蕩にあけくれていた彼を雇ってくれる人はなく、やっとのこと当時みんなから一番嫌われていた豚飼いの仕事を与えられたが、腹が減ってたまらず、豚の餌を食べたいと思うほどになった。惨めさの極限に達したのだ。その時彼は我に返った。『どうして俺はこんなにまで落ちぶれ果てたんだろう』と思ったのだ。そうして得た結論は『俺がオヤジのことなんか構わずに俺の勝手に生き始めたところから、全てが狂っちゃったんだ。俺の今の惨めさはそのツケだ。オヤジのところへ帰れば、こんなひもじい思いはしなくても済む。あそこへ帰りたい。しかし、この俺が、どの面下げて帰れるか。身の程知らずもいいところで、みんなからも散々ののしられて当然だ。
でも、今となってはそんなことはどうでもいい。とにかくオヤジには地べたに頭をこすりつけて俺が悪かった、申し訳ないことをした、と詫びるしかない。それだって詫びて済むことではないから、もう息子として扱ってくれなくて雇人の一人として使ってくれ、と頼み込もう』という決心をするに至った。こうして彼は往年の彼とは全く見間違う落ちぶれ果てたしょぼくれ姿で、父の所に帰ったのであった。
一方、父親はというと、毎日『あいつはあんな風にして飛び出していったが、ああいう奴のことだ。きっと行き詰って帰ってくるしかないだろう。でも帰って来てくれさえしたら、消息不明なんて言うより安心出来る。帰ってこいよ。』という思いで、毎日家の外を見ながら、息子の帰るのを待っていた。だから遠くにどこの誰とも見分けがつかないような人影が見えた時『あ、あいつだ』と素早く見て取って、自分の方から走り寄って抱きかかえて迎えてやったものだ。
息子の方は、豚小屋を出た時からオヤジに謝る言葉を繰り返し心の中で反芻していたのであろう。オヤジに会うや否や『オヤジ、俺が悪かった。赦してくれ』と言い、それに続けて『俺はもう息子と呼ばれる資格はない・・・』と言うつもりだったのに、父親はそういうことを言うのを遮るかのように『よく帰ってきた。わしはお前が出たきりになっているので、もう死んでいるのではないかと思っていたんだ。それなのに帰ってきてくれて本当に嬉しい』と言うと同時に、召使いの者たちに、大声で『おお~い、いなくなっていた息子が帰ってきたぞ。こいつに一番良い着物を着せてやってくれ。そして、さあ、歓迎大祝賀会だ。近所の人もみんな呼んで最上のご馳走を振るまって、喜び祝おう』と言った。」
以上の話はルカによる福音書15章というところに記されている話です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<4月のラジオ放送予定>
4月 5日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
12日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
19日 小野静雄 (日本キリスト改革派多治見教会牧師)
26日 小野静雄 (日本キリスト改革派多治見教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・27
問20・・5 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 十戒の始めの4戒が神に関すること、あとの6戒が人間に関することですが、その内容は「父母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」など、別にモーセの十戒でなくてもどこでも誰にでも通用するような戒めなのです。要するにこういうことをきちんと守っておれば、この世の中は順調に平和にやっていけると認められることばかりなのです。
人間同士間でもこういうことは人倫の基本的なこととして認められるところですが、これが神からの戒めとして告げられているということは、神は人間相互間の平和と幸いを願ってやまないことから厳命として発せられているところに、この戒めに含まれている特別な性格があります。
少し言葉を換えて言うなら、これは「そんなことしないでおくれ」「大事なあなたたちにそんなことをさせてたまるか」「絶対にやってはいけないよ」と言う、親の子に対する切々な愛情から出る声に匹敵するものなのです。
戒めと言うものが、本来そういう神の人間に対する深い配慮と愛から出ているものであることが分かれば、「殺すな」と命令形で言われていることも、「殺すなんてことはできっこありません」とか「盗まなくてはならないようなことはありません」とか「姦淫なんてする必要のないことです」という風に、神に対する当然の応答としての、自戒となる性格のものでもあります。
アダムとエバは禁断の木の実を取って食べなくても幸せに生きておられたのです。エデンが楽園であったのはそういう理由によっていたのでした。ところが、残念なことに、彼らの幸せを言葉巧みに奪い取ろうとした奴がいて、彼らはまんまとその言葉に乗せられて、禁断を犯してしまいました。神に従わせないようにすることで生きているサタンの誘惑に引っかかりました。これが罪を犯すということです。
ですから戒めがなければ罪を犯すということはあり得ません。戒めがあるということは、そういう意味ではこれに背くことへと誘惑するものでもあります。戒めがなかったなら、罪を犯すということはあり得ません。また戒めを犯すなら、戒めがその罪を告発することになります。戒めというものは一方で人間に神の祝福を保証するものとなりますが、他方では罪を告発する呪いとなります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<3月のラジオ放送予定>
3月 1日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
8日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
15日 池田慎平 (日本基督教団金城教会牧師)
22日 池田慎平 (日本基督教団金城教会牧師)
29日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・26
問20・・4 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
<答えの続き> 詳しいことは省きますが「十戒」の第一戒は、神が「わたしのほか何者をも神としてはならない」ということです。こういう戒めを聞くと「聖書の神は随分独占欲や支配欲の強い神様だなあ」みたいに思う人がいることでしょう。特に日本人の多くがそうであるように、多神教世界と言われるように多神であることが自明の前提のようになっているところでは、「わたし」とはっきり自己表明をするような一神を知りませんから、こういう戒めとして聞こえないのは当然だと思います。
しかし、聖書において人間に語りかける神は「わたしはあなたに言う 」という風に、人格的に関わって、その関わりの中において人間を生かそうとする神ですから、この神との関係を破ることがないように求めてやまないのです。聖書の中には、神が「わたしは妬む神である」と言っているところがあります。「神が妬むなんてみっともない」という人がいるかも知れませんが、夫や妻の不倫行為に対して妬むのは、相手を愛しているからです。
また、聖書の中には神の「怒り」が随所に示されています。これも「神が怒るなんて神様らしくない」と言われそうですが、神が怒るのは人間に対して真剣に関わっているからです。相手に真剣に関わろうとしない人には怒りなんてものは出てきません。
以上のことから言って、聖書の神は多神教世界で言うところの神とは違うのです。断っておきますが、これは優劣比較というような次元のことではありません。神は唯一の神としてわれわれに語りかけられるというのが、聖書において明らかにされている啓示の神である、ということです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2月のラジオ放送予定>
2月 1日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
8日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
15日 小室尚子 (金城学院宗教主事)
22日 小室尚子 (金城学院宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」