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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・25
問20・・3 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用される範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
<続き> では、神不在のままで人間は安らかでいられるか、という問題があります。それは人間は今あるままでしかないものの、そういう自分で本当に安心出来るかと言う問題です。規範はあってもそれが究極的普遍的な規範と言える根拠があるか、仮にあったとしても人間はそれを守り得るか、歴史に照らし、自己自身に即して言えば確信持って「然り」とは言えないのではないか。
そういう不確かな不安に似たものを存在の根底に覚えているところに、今日の人間もまたすべて「エデンの東」にいるのではないかと思います。しかもそこに住み慣れてしまうと、エデンの園を思い出すこともなくなっているのが実状ではないかと思います。しかし、エデンへの復帰を神の側から求めておられるというのも実状であります。
エデンが楽園であったのは、そこに神が主人公として厳然としておられ、人間がその神を神として崇めていたからですが、それは神による規範が「禁断の木の実からは取って食べてはならない」という戒めとして明らかにされており、人間がその戒めを守っていたからであります。聖書がいう「楽園」とは、そこに神が主人公として厳存しておられるところです。人間が自分の欲望を満足させて良い気分に浸っていられるところではありません。神が主人公としておられることを窮屈に感じたり煩わしく思ったりすることがあるかも知れませんが、それは人間の見当違いであり弱さの証拠であって、人間がすべてとなって営まれてきた歴史を見ればその結果は明らかです。
この神による規範内容、即ち「禁断の木の実」とは何かが詳しく示されたのが、「モーセの十戒」と呼ばれるものであるといえます。これはいわばイスラエル民族の憲法ともいうべきものでありまして、その施行細則を含めると膨大なものになりますが、聖書ではこれを「律法」と呼んでいます。
<1月のラジオ放送予定>
1月 4日 原科 浩 (日本キリスト改革派名古屋教会長老)
11日 原科 浩 (日本キリスト改革派名古屋教会長老)
18日 伊藤治郎 (日本キリスト改革派四日市教会長老)
25日 伊藤治郎 (日本キリスト改革派四日市教会長老)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・24
問20・・2 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
<続き> 「己が欲せざることをするなかれ」というのが人倫の基礎として教えられたのがわれわれ日本人ではなかったかと思います。これに対して「自分がして欲しいと思うことを人にもしなさい」というのがキリストの勧めです。こういう勧めに即して言えば、「自分がしてほしくないと思っていることを他人に対して行うことが罪」であり、また「自分がしてほしいと願っていることを他人に対して行わないことが罪」であるということになります。ということは、「罪」とは何を規範としているかによってきまってくることになるわけですが、ことは人間の側だけで、または人間の内側での確認にとどまるだけで良 いかという問題に及んできます。
法律と言い倫理道徳と言い、これらはいずれも人間が考えたり作り出しているものです。ですから人間相互間においてはこれを守らなくてはなりません。それから外れることは罪を犯すこととみなされます。「善悪」についても同様で、人間の側の判断によって相互理解していることであります。
ところで、聖書は、と言うことはキリスト教ではということになりますが、「罪」や「善悪」の判断をする主体を人間には置かないで、神に置いています。「神とは何か」という論議にはここでは触れませんが、すべての根源を人間を超えた神(超越者といい絶対者といってもよろしいが)に置いています。
アダムとエバの話はエデンの楽園から失楽園にいたる話としてよく知られています。あの話の重点は、神がこの二人に対して「何をしてもよいが、これだけはいけないよ」と言われたことにあります。こんにちの言葉で言えば「自由は規制の中でのこと」と言えますが、その規制とは「神がしてはいけないと言われたこと」で、神による禁断があった、そういう神と人間との間の関係が成り立っていたところがエデンと言われた楽園であったわけです。
で、二人がこの禁断の実を取って食べたと言うことは、神が定められた規範に背いたことであり、神の規範よりは自分たちの欲望を主にしたことですから、その途端に主客を転倒させたことになります。これが「神に対する罪」であります。
罪に対する罰は当然下されます。楽園追放と言う罰を神から受けました。物語り風に言えばそういうことになりますが、内容としていえば、神に背くと言うことは神を無視し自分たちの願いを優先させることですから、その途端に神との関係を自分の方から断ち切ったことになります。
神が主であった状況から、自分たちが主になるという状況を自ら選び取ったことになります。従って、そこにはもはや主である神は不在となります。エデンの東とは神不在の世界であり、それは彼らが自分でまいた種を刈り取ることになったと言うことであり、その責任はあくまでも人間の側に帰せられることであります。
<12月のラジオ放送予定>
12月 7日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
14日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
21日 金 起泰 (日本キリスト改革派犬山教会牧師)
28日 金 起泰 (日本キリスト改革派犬山教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・23
問20・・1 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
しかし、そのほかに法律違反でなくても「悪いことをした」とか「罪なことをした」とかいう場合があります。その場合には、法律上の適用対象にはならなくても、その人の内に、ということはその人が生きている社会において共通して「そういうことはしてはならない」と認められている規範があるからです。俗にいう「人の道」というものがあるわけで、倫理道徳と称せられているものはそれに該当するものでしょう。
上のように「してはならないことをする」ことが「罪」であって、この罪を犯した場合に法的に刑罰を受け、人々から非難され、自分で自分を責めるなど、罪に対する罰が課せられます。ただしそうは言っても、その規範が自分の内に規範となっていない場合には、罪が意識されることはありませんから、罪意識も無ければ罰せられて当然と思うこともないでしょう。それと、規範と言っても、時代と社会(国家、民族、ムラ社会など)における共通の価値観が認められていない状況においては、罪の内容理解も異なってきます。
そういうわけで、一口に罪といってもすべての人が共通して認める「してはならないこと」とは何かがはっきりしなければ、その違反も確定できないことになります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<11月のラジオ放送予定>
11月2日 志村 真(岐阜済美学院宗教総主事)
9日 志村 真(岐阜済美学院宗教総主事)
16日 笠井 恵二(中部学院大学特任教授・宗教主事)
23日 笠井 恵二(中部学院大学特任教授・宗教主事)
30日 西島麻里子(済美高等学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・22
問19 前回、「敵は愛すべき者」と見定めるところ、自他の救いがあると言われましたが、敵をそう見定めるなんてことができるでしょうか。
答 頭の中でそう考えていても、実際に敵が目の前に現れた時には、防戦に努めるか、敵をやっつけてしまわいことには納まらないでしょうね。敵がいなくなってはじめて安心と言うわけですからね。・・前回の続き・・
それは、例えば遺産相続を巡って兄弟間に争いが起こることがあります。場合によっては他人との間にも起こらないような憎み合いや仲たがいが生じます。裁判所での調停によってある程度の事柄の処理はされますが、それで必ずしもすっきりするわけではなく、その後、兄弟間の付き合いは全く絶えてしまうこともあります。
こういう時に、もし親が現われて、「遺産を残したのは子供たちのことを思ってのことであって、兄弟を仲たがいさせるためなんかでは絶対になかったし、すべての子供は同じように愛してやまない存在であって、そういう風に親が大切にしている者に憎しみを抱くなんて悲しいことをしてくれるな」と言ったとしたらどうでしょう。そういう自分たちの親の気持ちが分かって「ああ、そうだった。親の気持ちも考えないで自分のことばかり考えていて申し訳なかった。お互いに親の気持ちを大切にしよう」と言ったら、兄弟間の和解が成り立ちます。
この場合、親は子供たちを超えた者として存在し、しかも、子供たちを愛している者として存在しています。そしてまた子供たちは子の親の愛にふれて、自分たちが見当違いをしていたことに気付いて、自分たちを超えた親の思いに即して生きる、という新しい生き方をすることになります。この場合、親は絶対的な他者ではありませんが、少なくとも子供たちを超えている他者です。
この他者の思いが伝わった時、自己の思いを拠り所としていた自分に、自分を知る新しい目が与えられることになります。自己絶対化の自己から、自己を相対化させられます。親の側では「ああ、息子たちがわたしのことをわかってくれて嬉しい。救われた気持ちだ」ということになることでしょうし、息子たちの側でも「親が喜んでくれてよかった。もしそうならなかったなら、おれたちは救われないままだったろう」と言うことになります。
キリストは「敵を愛しなさい」と言われた時、その前提として「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方であると告げられています。子供が優等生だろうと落ちこぼれあろうと、親の子に対する愛情に変わりがないように、天の父である神は、人間の側で善悪や正不正の判断をしても、そんなことに関わりなく、すべてのものを愛しておられる。
そういうことから言えば、神は「あなたにとって敵である者もわたしにとっては大切な子である。あなたと同じように・・・」と言われているのである。そういうことが分かる時、人間は自分に即してしか考えていない自分から解放されて、神の側の視点によって自他を見ることが出来るようになります。このようにして今までの自己から解放されて神の愛による新しい視点を与えられることが「救われる」と言うことであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<10月のラジオ放送予定>
10月5日 横山良樹(日本基督教団半田教会牧師)
12日 横山良樹(日本基督教団半田教会牧師)
19日 佐藤秀吉(日本基督教団幸町教会牧師)
26日 佐藤秀吉(日本基督教団幸町教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・21
問19 前回、「敵は愛すべき者」と見定めるところに、自他の救いがあると言われましたが、敵をそう見定めるなんてことができるでしょうか。
答 頭の中でそう考えていても、実際に敵が目の前に現れた時には、防戦に努めるか、敵をやっつけてしまわいことには納まらないでしょうね。敵がいなくなってはじめて安心と言うわけですからね。
しかし、それは敵である相手側から見ても同じことなので、こちらが倒れるまでは安心できないでしょう。このことは武器をもって戦う戦争における事実です。要するに殺し合いなのです。相手を殺さなければ自分は生きておれないし、自分が殺されることによってしか相手が生きられない、つまり相殺を余儀なくさせるのが戦争なのです。
愚かと言えばこれほど愚かなことはありません。ですから自他共に生きるには戦争は絶対にしてはなりません。大切なことは共生なのです。この共生は、自分がしてほしくないことは相手にもしない。また、自分がしてほしいことは相手にもする、ということで成り立ちます。
これは単に自分のことを大切にするだけでなく、相手のことも大切にすることです。こういうことは、よく「相手のことを思いやる」こととして取り上げられますが、これはむしろ「自他のことを思いやる」ことではないかと思います。「自他」という相互関係を考える時、それを考える自分という者は、自己中心の自己から超えています。自己中心の自己から、自己を相対化する人間へと変えられているのです。
この自己中心の自己から、自他間の共生に焦点を合わせようとする自己へと変えられるということは、今までの自己から解放されることであり、「救われる」ということなのです。それは今までの自己を否定することでもあります。ただし、自己否定なんてことは起こりようがありません。
自己が自己であろうとする限り、他者を抹殺するしかない自己であることに気づかされることから始めて、そういう自己は否定されるべきであるという視点を与えられるのです。
「与えられる」と言いましたのは、そういう視点は、予め自分でそこへと到達すべきであると予想して、自分の力で得るに至るという性質のものではないからです。自己からの解放は自分ではできるものではありません。それをさせるものは、自己を超えたものです。ただし、それは単に他者を傷つけて何の痛みも感じない人もいますし、相手をやっつけたことをむしろ誇らしく語る人もいるくらいですから、そういう自分を超えてはいないのです。
そういうことから言って、真に望ましい自己否定をさせ自己から解放させる絶対的な自己超越者に出会うこと無しに、自他の関係は至難であると言えます。「敵は愛せるか」ということを巡って、以下のことはこの問題を考える一つの手がかりになるのではないかと思います。・・次回に続く・・
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
9月のラジオ放送予定
9月 7日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
14日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
21日 後登雅博 (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
28日 後登雅博 (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・20
問18 前々回マザー・テレサのことに触れ、彼女は「神に聞き従うことによって、人を愛する自由を得た人であった」と言われましたが、神に聞き従うことによってそういうことが出来るのですか。また「汝の敵を愛せよ」と言われていることが本当にできるのでしょうか。
「答」 「敵」はやっつける相手であって愛する相手ではありません。ですから古来敵はみなやっつけて来ました。そうでなければこっちがやられてしまいますから、敵を愛してなんかおれません。モーセの律法といわれているものの中に「目には目、歯には歯」という規定があります(出エジプト記21:23)。
これは損害賠償法とも言うべきものであって、同刑復讐の原則です。こういう規定を造った前提には、人間は他者を敵対視するものであるという人間理解があります。しかも、目を痛めつけられたら目どころではなく、相手の手も足もやっつけずにはおかないものであることをよく知っているために「目をやられたら、目をやり返すだけで止めておきなさい」という抑制をきかせている規定です。言われた方は「そういわれりゃそうだな、まあ、その辺で済ませるか」ということになります。こうして果てしなく報復をせねば落着けない人間に対するある程度のブレーキがかけられることになります。
ところが、イエス・キリストは「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人には手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました(マタイ5:38~44)。こうなると「とても出来ません」と言うしかありません。クリスチャンの多くはここで悩みます。キリストを信じていると言いながら、キリストが命じられているようにはなっていないからです。
しかし、ここで大切なことは、このように命じておられるキリストは、自分でその通りに生きられた方である、ということです。周知のように、キリストは自分を十字架につけた人たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らには自分のしていることが分かっていないからです」と祈られました。
ここには報復は一切ありません。あるのは赦しの愛です。言い換えると、キリストの側からすれば、自分を十字架につけた者たちを「敵と見ていない」ということです。また敵は「報復すべき相手ではなく、愛すべき相手である」と見ておられるということです。「敵は戦って打ち負かす相手でも、やっつけられて倒される相手でもなく、愛する存在である」となったら、事態は変わってきます。
そう見られていることが分かったら、相手も変わってくるでしょう。「敵」にこだわっている限り、敵はいつまでも存在します。愛することが出来るかどうかにこだわらないで「敵は愛すべき者」と見定めるところに、自他の救いがあるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
8月のラジオ放送予定
8月 3日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
10日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
17日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
24日 吉澤 永 (日本基督教団愛知教会牧師)
31日 吉澤 永 (日本基督教団愛知教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・19
問17 キリスト教でいう自由と一般的にいう自由とは違うように思いますがどうでしょうか。
答 自由というのは、何か拘束するものがあることが前提になっています。その拘束するものはさまざまですが、それが何であるにしても、人間が考えている領域においてのことです。これに対して、キリスト教の場合はイエス・キリストによって示された神との関係においてのことです。これはキリスト教に限りません。宗教が人間を超えたものとの関係で人間を問題にしている限り、どの宗教においてもことは同じです。
アダムとエバの話はご存知でしょう。禁断の木の実を取って食べたのでエデンの園という楽園を追い出されてしまった、という話です。あの場合「園のどの木からでも取って食べてよろしいが、園の中央にある木からは取って食べてはならない」という命令が与えられたのは神様でした。神様がいらっしゃるということが前提としてあったのです。
ところが、この二人は、その命令を無視し、この命令に背いて、禁断を犯しました。それは、神様に従うよりも、禁断の木の実を取って食べたいという欲望の方が勝ったからです。この自分たちの欲望が勝ったということで、これは実質的な神喪失です。神様の戒めとしてあったものを自分たちで破ってしまったのですから、自分たちで神様を無きに等しいものにしてしまったのです。
こうして「失楽園」という事態になりました。「あらゆることをやってみたいし、出来たらいいがなあ」という思いは誰の中にもあります。そして、それが出来ることをあらゆることについての自由だと考えます。しかし、人間が「出来ることは何でもやれる」と思っている自由というものは、自分を知らなさ過ぎます。その証拠に、何でも出来ることで高慢になったり、したいと思っていることが出来ないことで不満を覚えたりします。ことの判断をする主人公が自分でしかないからです。
「それくらいのことでいい気になっている自分」や「そんなことで不満になっている自分」を冷静に客観的に眺めることが出来ることが、自分に自由であるということです。そして、「よし、もっと本気で取り組むことに取り掛かろう」となったら、今までの自分を超える生き方へと変わることになります。
その「本気で取り組め」という声は自分で自分にかけられるものではありません。それは、自分を超えたものからです。その自分を超えたものを消すなら、人間は自分の位置を見失います。アダムとエバが禁断を犯して結果はそれです。神が厳としておられ、神の戒めが聞こえているところに人間の自由が確保され、楽園にいることが保証されるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
7月放送予定
6日 楠本 茂貴 (名古屋高等学校・中学校聖書科主任)
13日 大藪 博康 (名古屋高等学校・中学校宗教部長)
20日 高見伊三郎 (名古屋学院大学宗教部長)
27日 葛井 義憲 (名古屋学院大学法学部教授)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
=お知らせ=
サッカーWカップの試合の放送ため、時に放送休止の場合がありますが、その時は、順次繰り下げ放送で対応いたしますのでご了承ください。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・18
「問16」 前回の話では、「自由とは神に従うことである」とありましたが、それは何か窮屈な、自分が縛られることのように感じられますがどうでしょうか。クリスチャンになることも、何かに拘束されるような気がします。例えば日曜日には礼拝に出席しなくてはならないとか。
「答」 日本では、お盆休みになると、多くの人は親元へ帰ります。親に自分や家族の元気な顔を見せて安心して貰いたい、ということが帰郷の一つの理由でしょう。特に親が最近少し弱ってきているなど聞こうものなら、多少のことは差し置いてもそうするでしょう。
またその親が肺や気管支を患っているとしたら、好きな煙草も吸うことを差し控えるでしょう。そういうことはみな自発的な行為です。もし、そういう行為を眺めていて、「親がいるってことは大変なことだなあ」と思う人がいたとすれば、それは親の子に対する愛や、子の親に対する敬愛の情というものがよく分かっていないからではないでしょうか。
また、もし心から尊敬する人がいたなら、その人に喜んでもらえることは進んでするでしょうし、逆にその人が好まないことはしないように努めるでしょう。そのいずれも指示されてのことでなく、自由を拘束されているとは思っていないでしょう。
むしろ、場合によっては、禁欲することも辞さないでしょう。クリスチャン生活が、何かそうではない人に比べて窮屈そうに見えることがあったとしても、それは、当人たちにとっては、何でもなく、むしろ当然のこととして生きているのであります。キリストによって神との関係に生かされている喜びからであることを知っていただきたいものです。
以上のことよりももっと大切なことは、「人間は本当に自由な存在であるか」という問題です。「ある人は『手を上に上げろ』『足を前に出せ』『目をつぶれ』と自分に命令すれば、体はそのように動く。しかし、心は命令通りに動かない。しなければならないと思っていることも、そのようには出来ない。自分はなんと不自由な人間なのだろう」と嘆いています。
「善はなすべし、悪はなすべからず」と知っていても、そのようには生きられないのが人間の事実だと思います。自分の思うままに生きて、それを自由だと思っている人は、自分の思うまま以外のことは決して出来ない不自由さを知らない人です。自分を超えた存在に出会っていなければそうです。
キリストを知り、それによって神を知る時、この神を知らされ、その導きに従うところに、自分の見当違いとか限界を超えた命に生かされる道がここにあることを、見出して生き始めるのでありまして、これがクリスチャンが喜びをもって得ている自由というものであります。
マザーテレサのような人は、神に聞き従うことによって、人を愛する自由を得た人であった、と言うことが出来ます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
6月放送予定
1日 沖崎 学(金城学院高等学校宗教主事)
8日 沖崎 学(金城学院高等学校宗教主事)
15日 沖崎 学(金城学院高等学校宗教主事)
22日 後藤田典子(金城学院中学校宗教主事)
29日 後藤田典子(金城学院中学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
=お知らせ=
サッカーWカップの試合の放送ため、時に放送休止の場合がありますが、その時は、順次繰り下げ放送で対応いたしますのでご了承ください。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・17
問15 これまでの話で「聖霊は真理を知らせる」ということと、「真理は自由を得させる」ということが語られましたが、その辺りのことを説明して下さい。
答 「真理とは何か?」と聞かれて、「はい、これがそうです」と答えた場合、「それが真理であることは何によって証明されますか?」と問われたら、その答えは出ません。そういう性質のことであることを承知の上で答えるなら、キリストが「わたしは真理である」と言われたことが、その鍵になると言ってよろしいでしょう。
・・・前月号の続き
次に「真理は自由を得させる」という場合の「自由」ですが、これは法律で許されている自由とは拠り所が違います。普通、法律に引っかからなければ何をするのも自由と考えています。しかし、隣り近所に迷惑をかけて良いという自由は、社会生活上の中では許されないことでしょう。また、暴走族はスピード違反や騒音防止の理由で法的に取り締まられますが、暴走する人たちの心を占めている「自分の好きなことをしたい」という思いは取り締まれません。
この「自分がしたいようにする」を「自由に生きること」と考えている人は多いでしょう。従って、それは、自分を束縛しているものから解放されて生きたい、ということでもありましょう。
ドフトエフスキーの「罪と罰」という作品の中に出てくるラスコリニコスという青年は、「ナポレオンは沢山の人を殺したのに英雄と崇められている。だとしたら、貧しい人たちに金を貸して苦しませている強欲な金貸しばあさんの一人くらい殺すのは人助けになるのではないか」といってそのばあさんを殺すのですが、殺した途端、自分が殺したことがばれないように気を配ります。今まで平気で生きてきた世の中が、そうでなくなります。自分が自由だと思ってやったことが、自分を不自由にしてしまったのです。
「自由と規律」という言葉がありますが、右の例から言えることは、自由とはある規律の中でのことである、ということが出来ます。問題は、その規律の確かさにあります。例えば、昔は姦淫は重罪として処刑されました。が、今では不倫などと言って、せいぜい離婚理由か慰謝料問題くらいにされています。
多少のリスクは負わなければならないにしても、不倫することも自由だ、ということなのでしょうか。が、その自由は、欲望の奴隷でしかないのです。好きなことをすることだけを自由だと考えている人は、好きなこともしないでおれる自由こそ、本当の自由であることを知っていない人です。
母親は、飢えている子供のために、自分の食欲を抑止します。愛する者のためにはしたいこともしないのです。
この項での結論を言いますと、キリストは「全身全霊を挙げて神に聞き従い、また自分を愛するように自分の隣人を愛せよ」と言われ、その通りに生きられました。「真理は自由を得させる」とはこのことです。自由とは、自分中心の自分であり、死ぬことに定められている自分から解放され、キリストによって明らかにされた神の御心に従って生きることにあります。
福音の真理は、わたしたちを自己中心の自己から解放し、神の御心に従う生き方へと方向を変えさせるものであり、そうさせるものの根底にあるものは「愛」であります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
5月放送予定
4日 二宮 創 (日本キリスト改革派大田教会牧師)
11日 二宮 創 (日本キリスト改革派大田教会牧師)
18日 西堀則男 (日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師)
25日 西堀則男 (日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・16
問15 これまでの話で「聖霊は真理を知らせる」ということと、「真理は自由を得させる」ということが語られましたが、その辺りのことを説明して下さい。
答 「真理とは何か?」と聞かれて、「はい、これがそうです」と答えた場合、「それが真理であることは何によって証明されますか?」と問われたら、その答えは出ません。そういう性質のことであることを承知の上で答えるなら、キリストが「わたしは真理である」と言われたことが、その鍵になると言ってよろしいでしょう。
「真理」と言われているものには科学的真理とか呼ばれているものもありますが、聖霊によって与えられる真理というのは、人間の認識能力を超えたところから与えられるもので、「これが本当のことである」とか、「これが本当に自分を生かすものである」と確信を与えてくれるもののことです。釈迦は人生苦から解脱する秘訣を悟ったと言われていますが、そこで得た「悟り」というものは、人知を超えた真理ではなかったかと思います。
ところで、キリストによって神からこの世に与えられたものを「福音の真理」と言いますが「福音」という言葉の字義は「喜ばしい知らせ」ということでありまがす。何が喜ばしいことであるかというと、神様が共にいて下さるということが、キリストによって本当に確信出来るからであります。
わたしたちは生きる根拠を自分においています。しかし、その自分というものが本当に確かな存在であるかというと、甚だ怪しいのです。吹く風で折れてしまう葦のような弱くあやういものです。またどんなに頑張って見ても、遂には死の力に飲み込まれてしまうものです。にも拘わらす、そういう自分を拠り所としてしか生きられないのは、人間が大きな見当違い(それを聖書では神との関係における「罪」と呼んでいます)の結果のすべてを神から遣わされたキリストが担って清算し、そして、人間自体から生み出せない死なない命(これを「永遠の命」と呼びます)に生かすという喜ばしい消息(福音)が、キリストの十字架と復活において、われわれに示されているというのが、聖書が言うところの「真理」なのです。そしてこの真理は、人間の認識力によってとらえられるものでなく、聖霊によって与えられるものです(全くタダで)。
われわれがどういう人間であろうと「わたしはいつもあなたと共にいるよ」
と神様から保証されているくらい確かな拠り所はないでしょう。「わたしは真理である」といわれたキリストを聖霊によって信じることが出来る者とされた時、わたしたちの人生の土台は本当に確かなものとされ、自由を得るのです。(次月号に続く)。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
4月放送予定
6日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
13日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
20日 岩淵正樹 (日本基督教団高蔵寺ニュータウン教会牧師)
27日 岩淵正樹 (日本基督教団高蔵寺ニュータウン教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・15
問14 キリスト教では「三位一体」というそうですが、それはどういうことですか。
答 「位」というのは「位格」ということでして、神は「父、子、聖霊」という三つの位格を持って一体である、ということです。讃美歌の歌詞の中には「父、み子、みたま」という言葉で出てきますが、これは「神は父であり、子(イエス・キリスト)であり、聖霊であるという三つであって一つである」という神様理解を言い表している言葉でありまして、英語ではTRINITY(トゥリニテイ)と言いますが、キリスト教の信仰の独自性といえます。
理屈からいうと「三つが一つ」であり、また「一つが三つ」であるということはあり得ません。また「神様は神様だといっておれば良いのであって、どうして三位一体の神だなんてややこしいことを言うのか」という疑問や批判が出て来て当然です。
結論から言うと、神が三位一体の神であるということは、神が超然としていて人間や世界に関わりを持とうとしない方ではなく、本質的に、交わりの主であられるということです。つまり、神様は、御自分の方から人間に呼びかけ、人間と交わり、人間との関わりを求めておられる、ということです。
クリスマスは神の子の誕生のお祝いです。神の子が生まれたということは、父である神がその子であるイエス・キリストをこの地上の世界に、そして歴史の中に遣わされたということです。ところが人間はこういう事情が分かりません。こういうことを理解する能力を持っていないからです。
そこで神は、以上のことを分からせるために、聖霊を送って下さいました。この聖霊を受けたことによって、人間はキリストが神からこの世に遣わされた神の独り子であることがわかりました。
以上のことは、人間が神を知るのは、父である神が、子である神をこの世に遣わし、そのあと聖霊を送られたことによることを示しています。逆に人間の側から言えば、聖霊によってイエスが神の子であり、そのイエスを遣わされたのがイエスの父であることを知ることが出来るのであって、この「神が三位一体のかみであられること」(これを「神の三一性」といいます)が、神が人間への交わりを求めてやまない「愛」を本質としておられる方であることを表しているのです。
人間の場合でも、親は、生まれたばかりの子どもに、子どもに通じるように言葉づかいや仕草を変えます。子を愛し、子への交わりを求めてやまないからです。三位一体の神ということも、そういうことから理解の糸口が見出せないでしょうか。
=「聖霊に関するメモ」=・・・1
港で帆船を手入れをしている老人に、ある人が「爺さん、舟はどうしたら動くかね?」と尋ねました。爺さんは「わしゃそんなことは知らんよ。ただ風が吹いてくれりゃ動くことは確かだがね」といいました。
イエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」と言いました(ヨハネ3:8)。
クリスチャンは、風(へブル語では風も霊も同じ言葉です)に吹かれたので、「よし、それなら船出しよう」と停泊地(この世)から、神の国へと船出したようなものです。あとは、風に逆らわぬよう舵をとることです。
(篠)
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
3月放送予定
2日 辻 幸宏 (日本キリスト改革派大垣教会牧師)
9日 辻 幸宏 (日本キリスト改革派大垣教会牧師)
16日 木下裕也 (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
23日 木下裕也 (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
30日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・14
問13 聖霊は祈れば与えられると聞きましたが、どう祈ればよいのでしょうか。(2)
答 (続き) イエスは聖霊のことを「別の助け主」と言われました。それは、イエスが地上に弟子たちとともにいる間は助け主であるわけですが、この世を去られたら助け主はいなくなります。
それに対して、イエスは「わたしはあなたがたをみなし子にはしない。いつまでもあなたがたと共にいる」と言われました。それは「共にいる」という仕方が、今まではこの地上においての見え触れる仕方であったのが、これから先は見えたり触ったりは出来ないが、別の助け主として、またそうであるだけに永遠の助け主としてあなたがたと共にいると約束されたのです。それが聖霊です。
ですから聖霊を受けるということは、自分の内に、また自分の傍らに、助け主としてのイエス・キリストがおられることが確信出来ると言うことなのです。ですから、聖霊を与えられた人は、目には見えず手で触ることによって確かめなくても、それよりも確かなこととして共におられるイエスを信じて「主よ」「イエス様」と言うことが出来るのです。
この生きておられる主イエスにものを言うことが「祈る」ということです。そういうわけですから、祈るために特別な場所へ行かなくてはならないのとか、祈祷師のように祈れる人間になるために特別な修業をするとか、秘伝を授けられなくてはならないとかいう必要はありません。いつでも、どこでも、どんなことについても、今いるところで、あるがままの自分で、「イエス様」と呼びかけて祈ることが出来るのです。
こういうわけですから、無風状態にいるヨットマンが「風よ吹いてくれ」と願うように、固定化された地上と人間の世界に閉じ込められている者が「聖霊よ来たれ」と願うのは、時間と空間に中にいて、その中だけでしか考えたり行動する以外にない人間が、これを超えた永遠の世界に漕ぎ出し、そこに息づき、または羽ばたくことが出来る秘訣をイエスから、その世界の消息を聞かされているからです。
こうして、風にもなぞらえられる聖霊によって、神の支配される世界へと船出した者は、その船出をしたあとで、停泊中に聞かされていたことの一つ一つが「ああ、聞いていたことはこのことだったんだなあ」と確認するに至るのです。その停泊中に聞かされていたことというのが、聖書に記されている内容なのです。
そういうわけで、聖書に書かれていることは真理だなあと確認されるのです。従って聖霊を求める祈りは「聖書に記されている真理を分からせて下さい」と言う願いでもあるわけです。聖霊の方でも、それをわたしたちに分からせようと願っておられるのですから、われわれの願いが聞かれないはずはありません。目に見えず手で触れなくても、もっと確かに信じるに値する方として、聖霊は、祈りに応じて、われわれに最もふさわしい仕方で、来てくださるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
2月放送予定
2日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
9日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
16日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
23日 小室尚子 (金城学院宗教総主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」