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「キリスト教百話」・・・13
問13 聖霊は祈れば与えられると聞きましたが、どう祈ればよいのでしょうか。(1)
答 誰かに何かを「下さい」と願う場合、その願いの相手が、自分の願っているものを与えてくれる人であると信じているからお願いするのですね。それと、その願う事柄が分かっていてのことですね。聖霊のことが何も分からず、「下さい」と願う相手のことも分からずにお願いするというのは、「下手な鉄砲でも数打てば当たる」とはなりません。「当たる」のは的があってのことですから、的が定まっていないのにむやみやたらに打つのでは何をしているのか分かりません。
ですから、聖霊を求めるには、求める相手が、この求めにちゃんと答えてくださる方であるという信頼がなくてはなりません。それと聖霊というものがどういうものであるかが分かっていなくては「下さい」ということ自体がおかしなことになります。それでは、まるで空中に訳もわからず拳を振り回していることになります。
この点について、イエスは聖霊について、弟子たちに「それはあなたがたを真理に目覚めさせるものであるから、それが与えられるまで待っていなさい」と告げられました。弟子たちはこのイエスが言われたことを信じ、それが実現することを祈りました。その結果、聖霊を与えられました。
それは、十字架につけられて殺されたイエスがキリスト即ち救い主であることを真理として受け止めることが出来たということです。その場合、弟子たちは、イエスが言われた聖霊のことを聞きはしましたが、それが与えられた時の内容体験ではありません。ただ彼らは自分により頼むものを持っていなかったため、イエスの言葉に従って、イエスが約束されたものを待つしかありませんでした。
ここが非常に大切なところですが、自信満々の人は、祈るなんてことはしません。自分の内側は自分のもので詰まっていますから、それ以外のものを必要としません。ことは自分だけで済みます。その自分は動きません。何かを待つということもありません。当然祈るなんてこともしません。ところが、祈って待っている人というのは帆を上げて風が吹いてくるのを待っている人と同じです。
風はいつどのように吹いてくるのか、こちらで思うように操作できるものではありませんが、吹いてくれば、舟は動き出すのは確実です。今まで停泊していたところから、別のところへ動き出すのです。動かなかった自分の位置から、違うところへ動き出すのです。このことが自由を得るということです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
1月放送予定
5日 中村 仁(日本基督教団金城教会員)
12日 中村 仁(日本基督教団金城教会員)
19日 ヨシダ ゴウ(日本基督教団金城教会客員)
26日 ヨシダ ゴウ(日本基督教団金城教会客員)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・12
問12 キリスト教でいうところの信仰が聖霊によって与えられるものであるという説明は分かりましたが、聖霊のことについて、もう少し詳しく話して下さい。
答 例えば、君の部屋の中から外を見ていて、電線が揺れたり木の葉が飛んだりするのが見えたら、風が吹いていることが分かります。風は見えないものですが、風以外のものの動きによって風の存在は分かります。身体に感じることによってもそうです。
同様に聖霊そのものも見えるものではありませんが、ある人が「イエスを神の子キリストと信じます」と言い出したら、それはその人に聖霊が働いた結果であることが分かると言うものです。その意味で、キリスト教会が存在していることは、建物や組織のことではなく、それがキリストを信じている人たちの集団でありますから、聖霊が働いている証拠である、ということが出来ます。
人間の場合でも、誰かを信じると言うことは、信じられる何かがあってのことですが、その何かというものは目に見えるものではありません。人格的関係における信頼は、目に見える何かの媒介を通してではありますが、見えない何かがあって、そのしるしとして見える何かが現れてくるという性質のものでありましょう。贈り物をする時に「これはほんのおしるしですが・・・」と言うのは日本人の慣用句でありますが、そこでは、そのしるしを読み取りますから「有り難うございます」というお礼の言葉が発せられるわけです。
同様にして、誰かが「これからキリストを信じて生きてゆきます」と言い出したなら、それは、それを見ているクリスチャンに対して「この人も聖霊という贈り物が届けられましたよ」というしるしを示されたことでありますから、「有り難うございました」という感謝の言葉や、神への讃美が歌われて当然でしょう。
風の力は濁った空気を新しい空気に入れ替えます。植物の種を遠くへ運んで、見ることのなかった人々に美しい花を見せます。また電力へと変えて、闇に光を点じます。聖霊も、人間の内を支配していた濁りを清めます。マザーテレサのように遠くインドへまで運ばれて愛の花を咲かせます。
聖霊と同じ発音で精霊という言葉もあります。森の精霊などといいます。またあらゆるものの中に霊が宿っていると信じる人もいます。日本は多神教といわれるのも、霊と呼ばれるものが沢山あると信じられているからです。
その諸霊の優劣などを比較してみても大して意味はありませんし、採点する基準が無い以上比較のしようもありません。ただ聖霊について言えることは、これを受けることによって、人間が神に対して神の子キリストの持っておられるものを同じように受けることが出来るということです。神に全幅の信頼を持って、祈って神の導きの内に生きることが出来るということです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
12月放送予定
1日 木下 喜也 (日本基督教団金城教会牧師)
8日 木下 喜也 (日本基督教団金城教会牧師)
15日 横山ゆずり (日本基督教団半田教会牧師)
22日 横山ゆずり (日本基督教団半田教会牧師)
29日 田口 博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
あなたに聖書を
「キリスト教百話」・・・11
問11 イエス・キリストによって啓示された神をまことの神と信じるのがキリスト教の信仰だと言われますが、その信仰ということがどうして人間の内に起こるのでしょうか。
答 これは「問7」で、神が人間の想念によって作り挙げられるものでないのであれば、神の方から「わたしはこういうものだよ」といって自分を紹介してくれなければ知りようも信じようもない、ということを述べました。事柄はまさにその点にかかっているものでありまして、例えば目の前に神が現れたとしても、その方を神だと認め、かつ信じることが出来る認識力を人間が本来持っているか、ということが問題なのであります。
キリストの第一弟子のペトロは「あなたは活ける神の子救い主です」とキリストに対する信仰を告白しましたが、そのあとで、キリストから「悪魔よ、退け」と叱りつけられました。それは、ペトロの考えていた神の子キリストは、当時のユダヤ人を占領下においていたローマ帝国の支配から開放する力ある王であったからです。そういう王の出現はユダヤ人のすべてが期待していたものでした。
キリストの力ある話や奇跡的な力を発揮しての業を見た人たちが、そういう期待を寄せたことは、よく理解出来そうです。しかし、そういう考えは、キリストの側からすれば、悪魔のそそのかしであって「父」から出たものでない故、これをサタンの割り込みと見て取って「退け」といわれたのでした。「見ても見えない」というのは、こういう人間の側の先入観や思い込みがあるからに他なりません。
では、どうしたら「見たら見える」のか、また「今まで見えていなかったものが、どうして見えるようになるのか」ということになります。答は「聖霊によって」であります。「聖霊」というのは「神の霊」のことです。これは、言い換えると、神に関することが分かるようにさせられる・神から与えられる認識力というべきものです。
知性、理性、悟性、感性等は人間が生来持っているものですが、神認識を可能にする霊性は持っておりません。全く無いとは言えなくて、多少は残っていると言っても、全然役に立たないのが事実であると言えましょう。
パウロは聖霊を受けた時、「目から鱗のようなものが落ちた」と言っています。今まで自分の内にあって、自分の考えや行動を律して来て自信満々であったものが、音を立てるようにして崩れ落ち、今まで全く気付かないでいたことが見えるようになった、という体験が、こういう表現で言い表されているのです。
「松のことは松に学べ」とは明言です。こちらの計らいを主にしないで、先方から語りかけてくるのを待つ姿勢が求められるというわけです。神のことは神の側からの働きかけとしてのイエス・キリストを、聖霊によって知らされることが、信仰と言うものも、自分で獲得するものでなく、聖霊によって与えられるものであるということが分かれば、聖霊を求める祈りの大切さが分かろうと言うものです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
11月放送予定
3日 笠井恵二 (中部学院大学宗教主事)
10日 笠井恵二 (中部学院大学宗教主事)
17日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)
24日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
あなたに聖書を
「キリスト教百話」・・・10
問10 イエス・キリストによって啓示された神がまことの神であるという言い分は分かりましたが、すべての人に通用するのか、キリスト教の排他性・独善性ではないかと思います。
答 日本に初めてキリスト教が伝えられた時、仏教の僧侶とキリスト教の宣教師との間で、論争が交わされたことがあります。この論争が、お互いの特徴を披瀝し合うという意図にとどまっていたのであれば、それなりに意義があったでしょうが、それぞれの宗教の優劣を争う意図が潜んでいた限りにおいて、これは無益な営みに終わったとしか思えません。
というわけは、こと信仰に関する限り、比較対象が出来ないからです。例えば、結婚している人が、自分の配偶者以外の異性の方が結婚相手として良い等という比較は、出来ることではないからです。それは相手を信頼して人格的関係にある者にとっては出来ないことであるからです。
結婚という関係は排他性を本質的に持っています。そうであることを前提として、この排他性を脅かさない限り、より広い交流関係を結ぼうとする夫婦のありようは、望ましく喜ばしいものであると言えます。
ただし、その場合、「信じていると言うが、それは騙されているのではないか」という問いがありますから、これにどう答えるかという問題もあります。これはなかなか難しい問題でありまして、今日では「マインドコントロールされているものをどう解くか」という問題でもあります。
この点、例えば親鸞は弟子から「師は『南無阿弥陀仏』と称名念仏すれば救われるとおっしゃるが、それは本当か」と聞かれた時「わたしは師の法然からそう教えられ、そう信じているのであって、この教えが瞞しごとであって、そのため地獄に落ちるとしてもそれは本望だ」という旨の答をしたと聞いていますが、信じるということがそういう性格を帯びていることは否定できません。
そういうことを踏まえて言えば、キリストによって神を信じてきた人たちは、騙され続けてきたのではないか、という問いが発せられそうです。しかし、その正否を断定する根拠は自分の側にはありませんので、答えようがありません。あるのはこの2000年にわたってキリストによって神を信じて生きてきた多くの人がいたし、今もいるという事実です。キリストを信じると言いながら、キリストの意図に反することを繰り返してきた事実もありますが、キリストを信じるが故に愛に生きた人が大勢いたことも事実です。
見物席からの批評はいくらでも出来ます。ただしクリスチャンはキリストという人生の名監督に出会い、その父である方を神と信じることが出来た者として、このように生きているのです。見物席から降りて、舞台を共に踏むことから、ことは始まるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
6日 橋谷英徳(日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
13日 橋谷英徳(日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
20日 相馬伸郎(日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
27日 相馬伸郎(日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・9
問9 神を知ることがイエス・キリストによるのである、ということについて、もう少し分かりやすく話して下さい。
答 『イエス・キリストによらなければ神を知ることは出来ない』というのはキリスト教徒の言い分であって、他の方法によってだって神を知ることは出来るし、現にキリストのことを知らなくても、神様を信じている人は大勢いるよ。キリスト教だけが神様の専売特許というわけではあるまい」と言う人は沢山おられます。が、これからお話しすることは、そういう方との論争やそういうご意見との比較対照でのことではありません。
こういう問題についてお答えするとすればただ一つ、キリストが祈られた時にはいつも「父よ」と呼びかけられたことがあります。「祈り」についてはいずれ触れることになりましょうが、一言で言えば人間を越えたものとの対話です。わたしたちが祈る場合、大抵はこちらからのお願いをするだけですが、それでは対話ではなく、自分の側からの願いを一方的に押し付けるだけのことになり兼ねません。
対話であれば、こちら側からのことも言いますが、相手側のことも聞きます。これが人格的交流と言うものです。その結果、自分の考えや生き方が変えられるということがあるものです。キリストの生涯についての紹介文書である福音書によれば、キリストは朝夜が明ける前、暗い内に起き出して、寂しいところで祈るのが常であったと伝えています。
祈りが自分を超えたものとの対話であることから言えば、キリストは一日を始めるに先立って、先ずは「父」と呼ばれる方の意向を問われたのであったと言えます。従ってキリストの一日一日は、この「父のみ心」に従う実践の日々であり、キリストの生涯は、この「父のみ心」に従い抜く生涯であったということが出来ます。
ではキリストの言動とその根底にあった「父のみ心」とは何であったかというと、集約して言えば「義と愛」に適うことであると言えましょう。「義」というのは、「何が正しくて何が正しくないかを裁くことが出来る権威」です。また「愛」とは、「他者を生かす力」です。キリストはこの世で権力を握っているものの権力支配が権力者自身のためになされていることに対して「ノー」と言われました。
権力は、すべての人を生かすために仕える力として意味を持つこと、従って権力者だけでなく、自分を上位において他者を差別する側に立つすべての人のあり方に「ノー」を宣言し、逆に、この世で「失われている者」とされている人を探し出し、この人たちを、神の祝福に与るものと宣言されました。
こういう言葉と行為は、この世を支配している権威構造に反することとして、キリストは十字架の死刑を宣せられるに至りましたが、このようにキリストを生き抜かせた「キリストの父」こそ、まことの神に他ならない、と信じざるを得ないというのが、キリストによって啓示された神を信じるということなのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
9月放送予定
1日 横山良樹(日本基督教団半田教会牧師)
8日 横山良樹(日本基督教団半田教会牧師)
15日 前田和之(日本基督教団豊橋教会牧師)
22日 前田和之(日本基督教団豊橋教会牧師)
29日 前田和之(日本基督教団豊橋教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・8
問8 イエス・キリストによって神を知るってどういうことですか。そういうことによってしか神を知ることは出来ませんか。また本当にそうだと言い切れる根拠はありますか。
答 「分け上る麓の道は異なれど同じ高嶺の月を見るらん」と歌った人がおりまして、世にはいろんな宗教があっても、最終的には一つのところに至るというこの考えには、多くの人が賛意を表しています。そうであったら良いがなあとは誰もが思うところでしょう。
が、それは願望ではあっても、未だそれを確かめた人はいません。第一、麓の道の違いがあっても必ず高嶺に到着するものやら分かりようがありません。ひょっとすると硫黄谷へ落ち込むことになるかも知れないのです。
ここで、問題は信仰に関わることであることが、予想されるでしょう。イエス・キリストによって神を知るということは、イエスが「わたしを見たものは父を見たのである」と言われたことによっています。人間の場合でも、子供を見ればその親を知ることが出来ます。子供のことを見ないで、また知らないで、その子の親を知る手がかりはありません。場合によっては、親の代理として子が遣わされることがあります。そういう場合は、その子によってその親のことがよく分かります。
勿論、顔と顔とを付き合わせて分かるという分かり方にまでは至りませんが、子供が、見えていない顔を知る唯一の手がかりであることは確かです。イエスは神のことを「父よ」
と呼ばれました。「お父さん」「父上」ということです。その父からこの世に遣わされたものとして、父の代理としての役目を果たされました。
その代理としての役割がどんなものであったか、また、どのように果たされたかは 、イエスの生涯、即ち、語った言葉と、なされた行為によって、示されています。イエスが地上に生きておられた時は、直接イエスに出会った人にはそれが分かった筈です。今のわたしたちはそれと同じ仕方では出来ませんが、聖書の中のイエス伝とも言うべき福音書によって、イエスが伝え、また与えようとされたものにふれることが出来ます。
ただし、そこにも問題があります。それはこれが信仰に関わることであると先述したことであるからです。それはどういうことかと言いますと「わたしを見たものは父を見たのである」とイエスが言われたものの、その通りイエスに接してイエスの父を神として信じた人と、イエスを見たがイエスが父と呼ばれた神を知ることなく終わった人がいたからです。
「見てみた人」と「見ても見えなかった人」とがいたのです。この違いはどう説明したら良いでしょうか。各人の宗教的資質の違いみたいなものによるのか、見方がたりなかったことによるのか。ただここで注意すべきは、弟子を含めて、生前のイエスに触れた人のすべては、イエスにおいて神を知った人はいなかったということです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
8月放送予定
4日 梶浦 和城 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
11日 梶浦 和城 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)
18日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
25日 長谷川 潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・7
問7 人間の認識力ではとらえることが出来ない神様をどうやって知ることが出来ますか。
答 自然宗教という言葉を使わなくても、またそういうことを考えていなくても、古来人間は自然を神とし、また、自然の中にあるものを神として崇めてきました。これはお互いに何の説明も無しに、無前提の共通理解として抱いていたものであったからです。
しかし、これは、人間の側から、人間を越えたものに対する畏敬の念によって発せられたものであって、神様の側から「わたしはこういうものであるぞよ」と言われて、「はい、分かりました」というような、人格的関係においてのことではありませんでした。この点、釈迦は、生老病死という人生の四苦からの解脱(げだつ)を得る道を探るために出家した人でしたが、それは自然を対象としてのことではなく、この問題を抱えている自分に対して、自分を超えた所からの究極的な答を得ようとしてのことであったと思います。
わたくしは仏教に関しては門外漢ではありますが、釈迦が得た「悟り」というものは、前記の問題に対する答を得たことにほかならないのではないかと思っております。しかも、その場合、「悟りを得た」というのは、悟りを得る力を本来自分がもっていたからそうなったというより、「悟りを得させる何者かが働いた結果、得させられた」という性質の事柄ではなかったか、と思っております。
こういうことを言うのは、わたしがクリスチャンであるからに外なりませんが、キリスト教の場合、神様を信じているということの前提は、神様の方から「わたしはこういう者であるよ」という自己紹介があります。これを「神の自己啓示」と言います。「啓示」というのは、「開いて示す」ということで、今まで隠されていた顔が、ヴェールを外すことによってはっきり見えるようになることです。
旧約聖書に出てくる人物として有名なモーセの場合、神は「わたしは「有って有るもの」という名前のものである」という神の名の紹介を受けました(これがもと「エホバ」と訳され、今「ヤハウエー」と正され「主」と日本語に訳されています)諺に「名は体を表わす」と言います。名前はその人の本質を言い表すものであるということです。
「有って有るもの」という名は、「どんなことがあっても存在する。たとい天地が失せ去ろうとも有る」という存在の確かさを示している名前です。名前を聞いて安心する例は少なくありませんが「有って有るもの」という名を聞くなら、これくらい心安まることはありません。モーセがエジプト脱出という難事業に取り組む力を得たのは、この神の名前を知らせてもらえたからに他なりません。
神の方から、それまで隠されていた神の名前を自己紹介されたことが、神名啓示と呼ばれることで、モーセの場合この神名の秘儀を知ることによって、神そのものを知ったわけです。キリスト教では、この神を「イエス・キリストの父なる神」として知らされ、信じ
ているのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
尚、トラック1(1965年)+トラック4(1964年)放送分は、その当時の技術では1個のマイクロフォンで収録した音を1個のスピーカーで再生すること(モノフォニック)しかできませんでした。そのために、今の機器で再生すると右のスピーカーでしか再生されません。右のスピーカーが故障で聞けない状態で再生しますと、無音になります。その場合イアホンなどで聞いてみて確認して下さい。
放送予定
7月
7日 楠本 茂貴(名古屋高校中学聖書科主任)
14日 大藪 博康(名古屋高校中学宗教部長)
21日 大宮 有博(名古屋学院大学商学部准教授)
28日 高見伊三男(名古屋学院大学スポーツ健康学部教授)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・6
問6 まことの神様と言うのはどのようにして知ることが出来ますか。キリスト教ではこの点についてどう考えていますか。
答 その場合、先ず「知る」と言うことがどういうことかという問題があります。例えば、子供は、おもちゃが動くのを不思議に思って、分解することがあります。ところが、もとのように組み立て直すことは出来ません。「知る能力」が備わっていないからです。大人は分解した後、組み立てることが出来ます。構造を知ったからです。「知る」とは、そういう風に、物事を分析し統合することが出来る能力があってのことです。
この知的能力は、科学的面においては、非常に高度に発達してきました。月の世界にまで飛ぶ知識を得て、「兎が餅をついている」神秘性は剥ぎ取られています。昔神様の働きだと信じられてきたことも、神様の働きではないことが明らかにされてきました。男女の生み分けから遺伝子の組み換えさえも出来るようになってきました。こうして、神様のヴェールは剥ぎ取られ、人間の認識能力の中のこととなりました「知る主体」としての人間の知的能力は、分析総合することが出来る能力として、これからも更に豊かなものとなっていくことでしょう。
そこで、もし「神様を知る」と言うことが、人間の認識能力や理解力で分かる神様と言うことになりますから、崇められる方ではなくなります。そこで出て来る問題は「神様は、いったい、人間の認識能力で捕らえることが出来る方か?」と言うことになります。
これは何も神様のことに限りません。ソクラテスが「汝自身を知れ」と言ったように、人間は自分が何者であるかという問に答えることが出来ません。それは、自分を知るには自分を超えた視点を持っていなくてならないからですが、人間は自分で自分を超えた視点を持つことが出来ないからであります。
「自分のことは自分が一番よく知っている」と言うものの、その「一番よく知っている」と言える根拠の正当性が自分にあると、どうして言えるでしょうか。「それは単なる錯覚か思い上がりではないか」と問われたら、答に窮するのではないでしょうか。人間は、自分の内に、自分を正しく知ることが出来る客観的な認識力をもっていないからです。古来、多くの人が「自分は何者であるか」「人間とは何か」を問うてきました。それに対する答はまだ出ていません。出した人がいないわけではありませんが、その正しさを保証する鍵を共有出来ないからです。
「理解する」という言葉を、英語では「アンダースタンド」と言います。直訳すれば「下に立つ」ということです。事柄を「上から見る」のではなく、その「下に身を置く」ことには、知る秘密がありそうです。神様を知るということも、この視点が大切では・・・。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
6月
2日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
9日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
16日 沖崎 学 (金城学院高等学校宗教主事)
23日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
30日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・5
問5 人間の側で「神様!」と言って崇めているのが人間の考えている神様だとすると、本当の神様って何ですか。
「答」「本当の神様ってのは誰か」とは「本当の神様ってのは本当にいるのか」と言う質問には答えようがなくて、本当に困ってしまいます。と言うわけは、例えば「あなた、わたしを本当に愛しているの?」と聞かれて、「ああ、本当に愛しているよ」と答えたら、まずは大抵そのことは済みます。しかし「それって本当?」と問い直されたらどう答えますか。「いや、本当だってば、本当の本当だよ・・」といくら本当であることを繰り返して言ってみた所で、その本当さを裏付ける確証が無ければ信じてもらえません。そして実際にその確証を示すわけにはいきません。
このことは神様についても同様に言えることで、「ほんとうの神様」と言ってみても、何をもって「ほんとう」と言うことが出来るか、その決め手はありません。ですから「信じて下さい」と言ってみても、「鰯の頭も信心からだからね」と言われたらそれで終わりです。
日本は多神教の国だといわれますが、それは一神教との比較においてそう言われているのであって、日本人の多くは、生まれつき多神世界に生きてきて、それが皮膚感覚のようになっていますから、改めてそのことを意識したり、問題視したりすることはないように思います。だから改めて「本当の神様ってのは誰か」など問うこと無しに済んでいるように思います。
少し抽象的な言い方をしますと、「神様とは最高に崇められる方」であり「究極的な方」であると言えましょう。そういう点から言うと、一人ひとりにとって、それは自分自身ではないでしょうか。外側に表わす態度がどうであれ、内面においては、一人ひとりが、誰にも席を譲らない王様のように振舞っているのではないかと思います。それは、最高に崇められなくてならないものが自分であるからです。ということは、自分を神様の位置に据えているということに他なれません。
そういうことから言って、「神様は本当にいるかいないか」ということではなく、また「本当の神様とは誰か」と言うことでもなく、「自分にとって神様とは誰か」と言うことであり、また「自分は誰を神様としているか」と言うことが問題なのであります。
「誰がどう言おうと自分が一番大切な存在である」と思っている人は、自分を神様の位置に据えている人です。明治憲法以来敗戦時まで、日本と言う国の建前では神様は天皇でした。が、天皇にしても自分にしても、これが最高に崇められ、究極的な存在であり得るかと問えば、答えは明白であり、更に「では、神様として崇められ信頼出来る方がいなくても構わないのか」、「あなたは神様がいなくても平気か」と問われるわけです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
5月
5日 石田聖実 (日本基督教団尾陽教会牧師)
12日 石田聖実 (日本基督教団尾陽教会牧師))
19日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師))
26日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・4
問4 神様は、人間が勝手に造りあげたものだということで結論づけていいでしょうか。
答 志賀直哉が、「小僧の神様」という作品に中で取り上げていることは、この小説の主人公である小僧が神様だと信じたのは、彼がかねてから願っていた寿司を、誰とも分からない人の手配によって腹一杯食べさせてもらったことがあって、一体誰が自分の心の中で願っていることを知って、しかも自分みたいな小僧にご馳走してくれると言うのはどう考えても納得が行かないので遂に、「あれは神様でしかない」と結論付けた、という話です。
志賀直哉は、この小僧にかこつけて人間が神様だと言っているのも、結局は小僧のように、自分の願望を満たしてくれるものを神様といって崇めているのではないか、という批判をしているわけです。実際人間は自分の願いを神様にぶつけます。その願いが適ったら「神様!」といって神を崇めますが、いくら願ってもその願いが実現しなかったら、「神様はわたしの願いを聞いて下さらなかった」と不満に思い、はては「神様なんか当てにしたってしょうがないよ」となり、ひいては「神も仏もあるもんか」と言うことになります。
こうして、人間は、神様を崇めたり、逆に文句を言ったりします。つまりは、人間が神様の品定めをしたり、ご利益が有るか無いかの採点をします。また神様の仕分けをし、神様の専門職を決めたりして、人間の欲望の数くらい沢山の神を祭り上げています。こういうことから言えば、神様と言うのは、人間が造りあげたものだと言う批判は一つの真実を衝いていると言えます。
「アイドル」と呼ばれる人たちは、人間によって作り出されたもので、時が来れば消えていって、「昔のアイドル」になります。この「アイドル」という英語は「偶像」とも訳されます。辞書で「偶像」を引けば、「木・石・土・金属などで造った像。信仰の対象となる像」とあります。木や石で造られなくても、心の中で描いている映像があれば、これも偶像と言えます。
これは人間が造りだしたものですから、神様の実像ではなく、「虚像」です。虚像という言葉はありますが、虚像と言うものは実在しません。その虚像を何か確かなものであるかのように崇めていることを「偶像崇拝」と言いますが、人間がしていることは結局「偶像崇拝」でしかないのでしょうが、神様批判であり、宗教批判であります。
「神様」という言葉を使っても、以上のような批判に照らせば、人間を超えた存在ではありません。神といい宗教といっても、みな人間の限界内のことでしかありません。要するに自己満足に過ぎないのです。自己満足できればそれはそれで良いかも知れませんが、本当の神様がおられるなら、以上のことはみな見当違い、人間の独りよがりに過ぎません。そして人間の中には、何をもって信実とみなすかと言うことが出来る究極の確かさはありません。
この不確かさを抜きにしての神様談義や宗教論は不毛に終わることは確かです。「神様」について何か語るにしても、以上のことが前提になります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
4月
7日 大西敏雄 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
14日 大西敏雄 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
21日 高内義宣 (日本キリスト改革派津島教会牧師)
28日 高内義宣 (日本キリスト改革派津島教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・3
問3 教会では神様を礼拝すると言いますが、神様というのがよくわかりませんね。
答 おっしゃる通りです。元旦には初詣といって神様をお参りに行きますが、その神様ってどんな方かと聞かれても「神様は神様だよ」と言う程度で、それ以上に説明はなかなか出来ないし、第一そういうことを考えてお参りしていないのが普通ではないかと思います。それと、神様と言うのは見えないものですから、この見えないものを、分かるように説明するのはなかなか出来ません。
ある人は子供の頃、近くに神社の神殿の扉を開けて見たら、中にあったものは石ころ一つだったので「神様なんていないんだ」と思ったそうです。子供らしい受け止め方のようですが、大人だって「神様がいるなら、出て来て見せてくれ」と言いますから、神様の姿を見て確かめたいのでしょう。
但し、もし神様が目の前に現われた時、「やあ神様、よくいらっしゃいました」と言えるかどうか怪しいものです。例えば「西郷隆盛さん、いらっしゃったら出て来て下さい」と叫んだ時、その西郷さんが出てきたなら「やあ、よくお出で下さいました」と言えます。西郷さんを知っているからです。
それと同じように、神様について知っていれば神様が現われた時「よく来て下さいました」と言えますが、神様について何も知らず、神様との親しい関係が無ければ、現実に神様が現われたとしても、それが神様だと分かるものをわたしたちは持っていないのです。ですから「神様、出て来て下さい」ということは出来ても、その神様について何も知っていない以上、分かりようがないのです。
そういう風に、人間は、神様については無知なのです。にもかかわらず、人間は、神様のことをあれこれ考えます。昔から、山の荘厳さ、海の計り知れない深さ、吹きまくる風の強さ、突如として襲いかかる地震の力など、人間の力や知識では捉えることが出来ないものに神秘的な何かを覚えて、山の神、海の神、風の神、大地の神などがいると信じてきました。
太陽神とか火の神とかもそうですが、これらはすべて自然神でありまして、こういう自然を神として崇めることを自然崇拝と呼び、こういうあり方全般を自然宗教と言います。海開き、山開き、地鎮祭などの神事は、古代から一貫してわたしたちの中にある自然への畏敬の念の現われでしょう。
形は変わっても、こういう自然崇拝は、宗教としての何かを行っているという意識は無くても、世界のすべての人種や民族に共通してなされています。また、人間は、自分の力では実現出来ないことを可能にして下さる方として神様のことを考えています。 病気の癒し、安産、商売繁盛、交通事故からの守り、受験合格などなど、人間の願望を満たして下さる方としての神様を考え、神様にそういう期待を寄せています。
「人間が神様だと言って崇めているものは、人間の欲望の客観的投影である」と言った人がおりますが、まさにその通り、神様というのは、人間が造りあげたものに過ぎないと言えます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
3月
3日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
10日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師)
17日 南 吉衛 (日本基督教団桑名教会牧師)
24日 南 吉衛 (日本基督教団桑名教会牧師)
31日 南 吉衛 (日本基督教団桑名教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「キリスト教百話」・・・2
問2 教会ではどんなことがなされていますか。
答 お寺や神社へは「お参りに行く」と言いますね。そして、お参りしている姿は、外から誰にでもよく見えますし、多くの人は子供の時からそういうことになじんでいますから、とくにこのことについて疑問を持つことは無いでしょうね。中には、教会に行く人に「今日はお参りですか」と尋ねられる人もいますが、こういう人は、教会の中でなされていることがどういうことかは分からなくても、「お参り」に変わりがないことと思っておられることでしょう。
「お参りに行く」ということが「拝みに行く」ということであるなら、教会へ行くことも神様を拝みに行くことと言ってもよろしいでしょうし、事実、教会でなされていることも日曜日の「礼拝」でありまして、これを行っていないなら教会とは言えません(なぜ「日曜日」かについては、別の機会に述べます)。
そういう風に、教会では神様を礼拝することを一番大切なこととして行っておりますが「礼拝」という字が「礼をして拝む」ことを意味していると言いましても、教会での礼拝では形の上で手を合わせたり頭を下げると言うことはありません。そういう形でなされていることを意図的に退けているわけではありませんが、キリスト教会での礼拝は、神様に向き合ってのこととして言えば、懺悔をし、感謝をし、お願いをし、そして何よりも神をほめたたえることを、讃美歌を唄い、祈りを献げることによって、行っているのです。
それと、その「神のみこころ」が何であるかが分からなければ、懺悔も感謝も見当違いになりますから、神の言葉としての聖書が朗読され、その内容が解き明かされることとして、牧師による(牧師だけに限りませんが)「説教」がなされます。要するに、「礼拝」ということは、神様がどういう方であるかがその都度明らかにされ、それに対する人間の側での応答がなされることとしてなされているわけです。
教会が何をする所であり、教会へ行くことが何をするためであるかと言うなら、することとしては以上のことでありますが、但し、これはすること自体を目的としてのことではなく、神様がどういう方であり、その神様との関係において、自分がどんなに祝福されているかを知り、従って、このことに応じて、自分がどう生きることが最もふさわしいことであるかをその都度確認して、自分の歩みを新しくしていくことが、神の側からも人間の側からも求められていることとして、日曜日ごとの礼拝をし続けているのです。
礼拝のほかにも、聖書を学ぶ会、祈り合う会、婦人会、青年会、日曜学校など様々な会がありますが、どの集まりも、キリストよって明らかにされている神のみ心を、より深く知り、生きる方向が正しくされることを願ってのことであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「キリストへの時間」放送予定
2月
3日 深井智朗 (金城学院大学宗教主事)
10日 深井智朗 (金城学院大学宗教主事)
17日 落合健仁 (金城学院大学宗教主事)
24日 落合健仁 (金城学院大学宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」