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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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  「小閑記」

 

こころおののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。

                      =イザヤ35:4=

 

キリスト者は、心が恐れ憂いにおののくとはどのような事であるかを知っております。人生の困難な道は、たびたびキリスト者を迷わせ、恐れしめ、多くのことが日常の生活に有形無形の激しい力で襲い掛かります。しかもそれが予期せぬ具合の悪い時に訪れ、心を不安と恐れに陥れるのです。しかし、真面目なキリスト者の心を最も不安にするものは、魂に罪を負わせる傷であり、霊の熱心をしばしば消そうとするかのような、死の力であります。

 

そのような時、自分の功徳的な精神に入ることはある面では容易かもしれません。それを修行と言い、人は、その時、過去の一つ一つの出来事を過過少評価し、安心立命の中に自分を置くのです。しかし、それは自己中心な思いです。しかし、シナイの山がカルバリよりもわたしたちに近い時、心は常に恐れおののき、審判はわたしたちの上にかかっています。なぜなら、人を自由ならしめるものは、ただ恵みのみですから。

しかし、冒頭のみことばにおける神の心は、すべての弱いおののく魂に、怯えおののくわが子に、逃れさせたいと願うよりも、もっともっと強く、慰めてやりたいという神の願う思いであります。それが胸躍らせることと知るなら、何と幸いなことでしょう。

 「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。」

神様に信頼する者には、人間的にはこころ騒がせることはあっても、あるいは、不安の中にさまよっていたとしても、それは人間の弱さであって、神の約束の不確かさではないことに立ち返ります。御子以外に頼り、信頼するもののないことを知らされているのもキリスト者なのです。「神への信頼」「神の約束の確かさ」、ここに立たせてくださる神様には、ただただ感謝の思いしかありません。

すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない。

すべてあなたに逆らい立って、訴える舌は、あなたに説き破られる。

これが、主のしもべらの受ける嗣業であり、

また彼らがわたしから受ける義である、と主は言われる。

・・・イザヤ54:17・・・

 

<讃美歌405>

1 かみともにまして ゆく道をまもり、  あめの御糧(みかて)もて 

ちからを あたえませ。

2 荒野(あれの)をゆくときも、 あらし吹くときも、 ゆくてをしめして、

たえずみちびみませ。

3 御門(みかど)に入る日まで、 いつくしみひろき みつばさのかげに、

たえずはぐくみませ。

(おりかえし)

 また会う日まで、 また会う日まで、

    かみのまもり、汝(な)が身を離れざれ。   アーメン

 

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 「小閑記」

 

あなたがたもまた、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。

この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
                    =エペソ1:13~14=

 

キリストにある信仰によって、神の子供となった者は、神の世嗣となり、キリストと共同の世嗣となったのです。神の持ちたもうすべては、キリストとその救われた人々との間で分かち与えられたからです。私たちの兄弟・姉妹と言われることを恥じられぬ主は、その世嗣を私たちと分け合ってくださるのです。

 

しかし、私たちがこの世にいる間は、この世嗣を受ける取ることは出来ません。神は、主の民が信仰によってこの世を通り抜けねばならないように、人生という道を用いて準備させてくださいます。信仰生活は、神様がお備え下さった道を、祈りと希望をもって歩むことでもあります。旧約聖書に記されていることですが、カナンへ至る荒野を通る道すがら、恵みのマナを空の器に毎日集めなければなりませんでした。その民たちは、これを翌日のために貯えることは出来ませんでした。神は新しい日が明けるとともに、恵みも新しくなる、と約束なさったのでした。

「主の祈り」にありますように、日毎の糧を今日も与えて下さったのです。しかし、まことの祖国へ入るまでは、嗣業は私たちのものとはなりません。

 

神様は決して私たちを空手のままで、この世を通らせはなさいません。神は封印の約束を私たちに送って下さって、ご自分につける者であるとの印を付けて下さいました。神様は、私たちが受ける嗣業の担保として、聖霊を賜ったのです。この印が私たちにある以上は、誰も私たちを神様から奪うことは出来ません。そしてこの保証を持っていれば、私たちは必ず嗣業を受けるのです。

今、私たちはこれを十分に理解してはおりません。ただ、言い表すことのできぬ大いなるものを備えられていることを知り、それを信仰によって感じることはできます。

 

私たちにとってこの事実は非常に重要なことで、封印と保証とを失わないことであります。私たちの祈りは、そのためにこそ、「主よ、あなたの聖なる霊を私たちから取らないでください」と日々祈らなければなりません。これが信仰の歩みだからです。

 

      遠く 遠く 遠く

 

父なる神の愛を 遠く 遠く 遠く 忘れて、

  むさしく生きるあの胸に み愛を慕う心を起こしたまえ

父なる神のみ旨に 遠く 遠く 遠く 背いて

  淋しく生きるあの胸に み旨を思う心を起こしたまえ

父なる神のみもとを 遠く 遠く 遠く 離れて

 悲しく生きるあの胸に みもとに帰る心を起こしたまえ  

 水野源三「信仰詩」

 


  「小閑記」

 

 そこで天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。

                          =へブル3:1=

 

 「聖なる兄弟たちよ」と言うこの呼びかけは、私たちにとって思いもよらない名称であり、招きの言葉と言えます。これほどの美しい名は他にありません。清さに欠けることの多い私たちにとっては、むしろ、相応しくない呼び名です。しかし、私たちを救い、清いものとして召して下さる方が、この「聖なる兄弟」という名をもって呼び、感謝の召しをもって私たちを取り扱ってくださるというのです。この名によってもたらされる恵みは数知れません。

 

わたしたちが大切にしなければならないことは、自分の心を支配している罪を素直に認めることです。これは、決して恥ではありません。神を喜び、敬い、従って生きる者とされたことは、ただ神の愛とイエスの十字架の死と苦しみと甦りの救いの御業です。この一つ一つを蔑ろにしたり、日々の生活の外の出来事として忘れる罪に気付くことです。この神の招き、信仰へのお導きのみ言葉から、御霊の導きを信じることです。

 

これらの言葉を用いた目的は何でしょうか。また、「そこで、・・・聖なる兄弟たちよ」。と呼びかけていますが、どうしてでしょうか。

ユダヤ人のキリスト者たちは、キリストから離れ去って、旧約の律法へ帰ろうとしておりました。「真実なものの影」が彼らの目をくらませたので、イエス・キリストのみ顔の栄光が見えなくなったのです。そこで彼らを親が子を教えるように熱心に、罪の惑わしに陥らないように勧めているのです。「聖なる兄弟たちよ、イエスを見て最初の確信を、最後までしっかりと持ちつづけなさい」と言われました。私たちの信仰と生活を惑わす様々な誘いに対抗し、最後までしっかりと持ち続けることを、信仰への励ましとしてお示しくださいました。

 

私たち信仰に生きようとする者のまわりには、巧妙な罠が仕掛けられています。その悪の誘いは強力です。不可能ですが、それに自分の力と意志で抗して生きることよりも、むしろ、イエス・キリストへの愛を探り、頂くことに熱心な人でありましょう。キリストを失うことは、永遠の栄光と命を失うことにほかなりません。


  「小閑記」

 

 見よ、世の罪を取り除く神の小羊

       =ヨハネ1:29=

 

 私たち人間にとって、否、全被造物にとって、罪は最大の不幸であります。ですが、この罪はいわゆる、刑事罰だけのことではありません。神様への背信行為、忘恩、人への偽善も含めてのことです。この罪が全被造物に、この世のすべての悲しみに、全ての不幸の原因であると、聖書は私たちに語ってきました。もし、罪がこの世から無くなったなら、と考えてみたのです。それは初めからわかっていたことで、「不可能」です。しかし、この不可能の中に生き続ける私たちの姿は、もっと悲惨です。惨めな希望のない姿を、神様はご覧になったのです。聖書の記述は、人類の悲惨と悲しみと絶望の世界の記録です。

 

神様はなはだ良かったと満足し、祝福された被造物に、罪のゆえに人間と被造物に神様は、再び救いのみ手を差し伸べて下さったのです。そのみ手と愛は、「神の小羊(イエス・キリスト)」をお与え下ったという事実が示しているのです。これ以上のものはありません。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。これ以上の慰めはありません。

 

この「小羊」は私たちが負うべき義務(罪の代価の支払い)を、キリストに背負わせ、「罪を取り除く小羊」に背負わせたのです。そればかりでなく、罪の負債を取り除かれたばかりでなく、信仰という恵みへと招き、信じる者へと導いてくださっています。

 

私たちのなすべきことは、神のみ前に日々の悔い改めの姿で立ち、感謝の思いをもって平伏すことです。「小羊・神の子」は、地上において、悔い改めるすべての者に、キリストの名において示されている唯一の権威、道、道しるべなのです。

 

 いと遠き、夕べの鐘の音のごとく イエスのみの 海山にひびけば

 重荷を負える幾千の魂は ひそやかに

 よき羊飼いなる主よ 疲れし足をなんじに向く

 イエスのみ使い 光のみ使いは 心よろこびもて 喜び迎えん 


 「小閑記」

 

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前に置かれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神のみ座の右に坐するに至ったのである。

           =へブル12:2=

 

このみ言葉には、イエス様の前に置かれている喜びのゆえに、戦う力と十字架に耐える忍耐を受けられることが記されています。この目にされたことを、私たちは主と仰いで、み言葉によって示され、聖霊の導きをいただいて、その信仰の体験を、信仰の勝利を得なければなりません。

 

それは、私たちの信仰心が強いからではありません。私たちの信仰心など云々できることではありません。信仰心とは、日々の生活の中で、信仰者として生きたいという思いで、主を見上げる信仰の生活の中で知らず知らずに明らかにされ、悟ることです。もし私たち信仰者の信仰心が固まったままであるなら、それは死んだ形式となってしまい、むなしい信仰者の姿に成り下がってしまいます。悪しき惰性な信仰、喜びのない信仰心は絶えず新たにされなければなりません。

 

その無感動・無感覚な信仰から、生き生きとした信仰に、年を重ねて与えられた知識に、祈りの中で得た主からの恵みは、ただただ主イエス・キリストとの人格的な交わりの中にあるのです。神は、私たちを勝利者としてくださるとお約束してくださいました。私たちが日々、救いの恵みに生きたいと望み、主イエスにしっかりと摑まっていたいと望むなら、それは不可能なことではないのです。確実に、本当に確実に可能なのです。

それを可能にするのは、イエス様のみ姿を日々の一つ一つの生活の中で新しく見させていただくことです。聖書の中で、祈りの時に、教会や個人の祈りや礼拝や主にある方々との語らいの中で知るのです。

 

 罪びとのために、ほふられたまいし 神の子羊を見よ。

 主の死をむなしくせず、 救い主として仰げ。

 主の貫かれし脇の みかげによらしめたまえ。


  「小閑記」

 

 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。

        =へブル13:8=

 

激流の中に立つ大岩のように、力ある救い主なるイエスは、人類の歴史の真ん中に立っていたもうお方です。日々、太陽が地球の上に昇り、光と暖かさと生命とを与えることを許されたこと以外に、何の要求も持たないように、イエス・キリストの恵みは、私たちの上に日々与えられています。イエス・キリスト以外のものは、全て夜であり、滅びであり、死であります。イエス・キリストの中にこそ光と生命と希望があり、私たちの日々に、人生に意義と目的を見出すことが出来ることはなんと幸いなことでしょう。

 

幸いなことよ 悪しき者の はかりごとに歩まず 罪びとの道に立たず 嘲る者の座に着かない人。 

主の教えを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ人。

その人は 流れのほとりに植えられた木。

時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。

悪しき者は、そうではない。 まさしく 風に吹き飛ばされる籾殻だ。

それゆえ 悪しき者は裁きに 罪人は正しい者の集いに 立ち得ない。

まことに 正しい者の道は主が知っておられ 悪しき者の道は滅び去る。(詩篇1:1~6)

 

この世の基がおかれる前から、イエス・キリストにあって私たちが選ばれたという聖なる奇跡を、誰も理解することはできません。それにもかかわらず、この事実が救いを不動のものとし、まったく恵みによるものであることを証明しています。

 

アダムによって破壊された創り主なる神様との正しい関係が、キリストの中に再び立て直されました。父なる神とキリストは生命、永遠の生命を与える三位一体の聖霊によって、アダムの種族のすべてが集められるかぎりのもの、主イエス・キリストを信じるすべてに、それを与えられるのです。

アダムが死の種をまいたところに、キリストは生命の種を植えられるのです。神に全幅の信頼をもって従う者には、永遠の滅びはありません。他のものすべては倒れ、滅ぼされても、イエス・キリストはその頼るべき堅き岩、闇の中の光、死の国にある生命であります。この神に生き、来る2023年でありましょう。

 

   ふたたび

 

御愛を忘れようとする わが魂にふたたび

 十字架の上で苦しむ キリストの御姿をば見させたまえ

みもとを離れようとする わが魂にふたたび

  十字架の上で語る キリストの御言葉をきかせたまえ

 御心に背こうとする わが魂にふたたび

  キリストの御血潮を 注ぎたまえ

         水野源三著 詩集より  

  「小閑記」

そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた。

       =ルカ24:45=

 

今の時代、幸いにも簡単に聖書は手に入れることが出来ます。しかし、聖書は、哲学や科学の本、文学に関する本とは異なります。

聖書のみ言葉、それが神様のみ言葉であるからというばかりでなく、神ご自身がみ言葉によって、み言葉への扉を開いてくださらなければ、そして、私たちの心に信仰という思いを、新しい光として下さらなければ、誰も、神のみ言葉として受け止めず、その意味する内容に、触れることはできないのが「聖書・神の言葉」なのです。

 

多くの人は、何らかの機会に聖書を手にする機会はありましたが、聖書をこの世的な眼で読む人は、奇跡やイエスがキリスト(乙女マリヤから生まれた救い主)であるという誕生の過程を知って、ただ馬鹿げたことの記録と一瞥するのです。

 

しかし、神の恵みによって聖書が開かれるところには、私たちがみ言葉の中に、命の御霊の法則を見出し、死んだ者に命を与えます。罪のあった者が自由にされ、神の側に生きる者に変えるのです。重い重荷は軽くなり、破れた心は癒され、全てが謎であったところに、主イエス・キリストに生きり道を見るのです。もし、神様が聖書の中の命、御霊の法則に通じる扉を閉じるなら、どれほど長い時間をかけて読んでも、光は射さず、解決も、恵みも、慰めも見いだすとは出来ません。

聖書の中には、このようなことが書かれています。エマオへ行った弟子たちと共に、私たちは心重く、謎の中を歩むでしょう。過去のことや、もはや現在でないことを思い悩んで、ただ歩くばかりしかありませんが、ご自身のみ言葉へのカギをお持ちなる神様が、私たちに開いてくださるなら、私たちは光を見出し、イエス・キリストのみ顔の栄光を見るのです。

 

私たちはみ霊によって聖書のトビラをお開き下さいと、祈らなければならないことを、お互いに何度も何度も指摘し合い、励まし合うことを止めてはなりません。励まし合い、支え合うことに遠慮は無用なのです。これこそ、信仰者の交わりなのです。そこに救いがあり希望があるからです。


  「小閑記」

決して行いによるのではない、だれも誇ることがないためなのである。

      =エペソ2:9=

 

2022年も残る日が日一日と少なくなりました。一年間の出来事を振り返るよい意味では、この11月は大切な時と言えます。

年の初めにはいろいろの計画を立て歩み始めました。思うのですが、結果はどうであれ、何かの目標を立ててそれに向かって歩んできたことに感謝して、2023年を迎える備えの月がこの11月になるなら、それは意味深いのではないでしょうか。

 

私たちキリスト者は何時も心の中に真剣に、神様との交わりの時が必要であると感じる者であると思う時と、不思議に思う時があります。

また、自分の救いが人生の大問題となる時も多々あります。大袈裟ではなく、日々の生活の中に、それがあるからです。そのような時、心を騒がせるのですが、それが「救い」への再確認、再認識へと導いてくださるのです。良い意味での「疑問、不安」であるとするなら、それは無駄なことではないと思えるのです。

そのために、先ず思うこととして、現在の自分の姿・信仰の心を点検させましょう。順風満帆、自信満々の時よりも、自分の在り方を問い直させる恵みの時が必要ではないでしょうか。今よりもより良き者にならなければならない、という思いが心の内に根を下ろし、改めて、信仰生活を省み、思いや心や性質が少しでも変わりたいと思わされるなら、その「今の時」を大切にしたいと思います。

「心をつくし・・・、全力をつくして」、時には立ち上がらなければならない時があります。それが今だとするなら、幸いな時です。

 

私たちが救われるということを信じる時、もしも主イエス・キリストを受け入れず、あるがままに救われると信じるとすれば、それは不可能です。また同様に、自分の努力で救いを頂く領域に自分を引き上げたり、変化させるということもまた不可能です。自分の力でその領域にいたるために何かをすることなど、全くないのです。むしろ大切なことは、その思いを捨て、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、感謝して生きることこそ、求められる道です。

 

もし、主イエス・キリストを救い主と信じる前のように、自分自身の善行という行為で救いと平安を得るのが救われる道だと思うなら、それは間違った道ですから、逃れなければなりません。不幸にしてそう思ってしまうなら、神の子イエスを否定し、十字架につけ、自分の義に生きたあのパリサイ人の仲間に加わっているのです。

私たちの唯一の救いへの道は、「わたしは命である。罪と滅びから救い出して下さる救い主イエス・キリストを信じる者だけが、神の国に入る」と言われた、この主イエス・キリストに生きることです。これこそ最高の恵みです。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるものである。これはあなた方自身から出たものではなく、神の賜物である」という事実を信じて生き続けましょう。

 

我がなす施しもいさおも、罪の一つだにあがないえじ。

 カルバリの丘に、我のがれん。神よ、あわれみたまえ。

 

************

 

紅葉の時期になりました。知人にアケビや柿をいただき、庭の山ブドウと一緒に玄関に飾りました。秋の恵みをお届けします(写真)。今年は山ブドウがよく育ったのでジャムにしょうと思っています。アケビの皮はアクが強いので、何度もアク抜きしゴボウと一緒にキンピラにしました。素敵な秋の味がしました。  「ジャーナル友」より皆様へ


  「小閑記」

もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして、真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。

    =ヨハネ8:32~32=

 

キリストを救い主と信じる信仰者の生活は、神のみ言葉の内に留まっていなければ、決して続けることはできません。聖書を捨ててなお、自分はキリスト者であると思う人は、うそ偽りの生活をしていると知らなければなりません。

しはし、神の言葉にとどまるということは、簡単に出来ることではありません。たんに聖書を読むということでもありません。それはまず徹頭徹尾、長続きしなくても、集中できなくても、とにかく、一日の中に、心に、日々の生活に、神の言葉のために時間と場を作り出し、それに基づいて生きることを、喜びとすることです。次に、神のみ言葉にとどまることです。自分の生活や考え方を、み言葉に立って振り返ってみることです。肩ひじを張って生きることではなく、むしろ、心から日々の生活の中に感謝があることに気づくことではないでしょうか。

 

家族の健康であることに感謝したり、一日の仕事を無事に終えた時に満足感を感じたり、友人と久し振りに会い食事や時には美味しいケーキを食べながら他愛のないのない時を過ごすことも、時を持つことは大切です。

 

イエス様のある弟子の人々の中には、出来ないことを要求し、裁きを宣告し、道を示す言葉を研究し、考え、自分に当てはめて自己満足したがることを好みますが、恵みと赦しのみ言葉については触れずにおきます。自分の思いのままに過ごしながら、人々からは、慰め、励まし、幸いにする言葉を知りたがります。こういう生き方は、一方的で危険をはらんでいます。

 

もし真理が私たちに自由を得させるならば、要求や審判や慰めは、全て私たちの心に、生活に場所と時間を見出すはずです。しかし、自分たちの考えが生活の中心に据えられ、それに従って生きるなら、慰めも励ましも、手にすることはないのであります。

 

キリスト者の生活を支配する根本的な掟は、罪と恵みについてのみ言葉の理解です。罪の認識・意識の欠落・希薄さが支配しているなら、また神の愛や罪の赦し、聖霊の導きや働きとは無縁に状態に陥るなら信仰の重病と言えます。これは知らず知らずに忍び寄るもので、常に目を覚ましていなければならない信仰生活のポイントとも言えます。

 

これからの日々を、改めてキリスト者として生きようと決心するなら、神のみ言葉のみが私たちを救うという恵みを頂く唯一の目標であると信じる時、私たちは自由にされます。

み言葉は、力ですから・・・。

 

 深くして、栄えあるみ言葉(神)よ、

  きよくして、永遠に生きたもう。

 罪人を招き、イエスの与えうる、

  命の勝利者足らしむる。 イエスこそ、天に行く道なれと。


  「小閑記」

あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。

          =申命記15:7=

このみ言葉は、キリスト教社会福祉事業やその仕事を志す人の原点を示すみ言葉の一つと言われています。

世の中には働かないので貧しい者が沢山いるのは事実です。人は言います。そのような人々の中には、貧困と怠惰の中にいることを生甲斐とし誇りとさえ思っている人たちだという声です。貧しい今の社会だからこそ、社会は責任を担い、富める者は支えることは義務だと言います。また、多くの人は「働こうともしない者は、食べることもしてはならない。怠ける者を助けることは、怠惰を認めることである」と主張する人もおります。

 

しかし、現実に貧しい人々の中の多くは、一生懸命に働いても、労してもそれに見合う賃金が得られない方は全世界には沢山おられます。もしそのような人に向かって、心と手を閉じているなら、私たちは重い神の裁きの下にあることを、このみ言葉は示しています。

 

この世界に貧しい人が今に生きていることを神様はご存知です。それは放置ではありません。ある目的があってのことです。神様は格差や差別を認めているのか、と言われる方がおられますが、そうではありません。富める者と貧しい者とは共におることを黙認しているのでもありません。すべては、神が造られたのです。

 

「貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ。その施しに主が償われる」ということを知ることは、とても大切なことではないでしょうか。この言葉を信じましょう。  

そうすれば私たちは貧しい者を助けることによって、ますます主に対して貸すことになるのです。それこそ信じ難いことではないでしょうか。

神様は私たちに、大切なことをお教え下さいました。日々、私たちの心の中に謙遜な憐みの心を、恵みに恵みを加えてくださる主に貸しを作るとするなら、感謝して、私たちは隣人に仕えることを喜びとする者へと育み成長させて下さっていることを確信し感謝しましょう。

 

 キリスト教福祉の本の中に、このような言葉のあったことを思い出しました。また、「つのぶえジャーナル」のカテゴリーで「キリスト教=社会福祉のあゆみ」を検索し、ご笑読ください。

  主をほめよ、主は汝の子の手のわざを栄えしめ、汝を守りたもう。

   主の恵みと憐みとは日ごとに伴う。

  思え、全能の主、その愛をもて、汝を助けたまわば、

   何をかなさざらん。

 


  「小閑記」

あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めているのに、魚の代わりにへびをあたえるだろうか。卵を求めるのに、さそりをあたえるだろうか。このように、あなたがたは悪いものであっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊をくださらないことがあろうか。

          =ルカ11:11~13= 

 

全世界に飢えに苦しむ人の多いことがニュースになり、私たちの身の回りにも多くの家庭や家族、子供たちのいることを知らされます。しかし、賞味期限とか、流行から外れた衣服は、廃棄物として大量に処分されています。このみ言葉は、単なるみ言葉ではありません。平和を求める人々に、大量の破壊兵器が悲劇と憎しみを人々の心に残してきたことは歴史が示してきました。

 

飢えた子供に、パンや魚の代わりに石やへびを与える親は、人間よりも悪魔に近い者でないかと思えるのは極端でしょうか。しかし、快楽にのめり込み、放置された子供の悲劇は、後を絶ちません。本当に悲しいことです。

イエス様もそのようよう親を考えることはできませんでした。だからこそ、何時でもイエス様は、私たちは悪い者ながら、子供たちに良い贈り物をするということを、私たちにお教えになろうとしています。主イエス様は、罪深い私たちを用いて、悪い者から、良い食べ物を与える者へと導いてくださると言われるのです。私たちの善意や親切な思いをお用い下さるために、お力を下さいました。

「天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊をくださらないことがあろうか。」

 

イエス様の下さる最高のものは、「聖霊」であると言われました。人は魚やパンを与えます。それも必要ですが、それとは比較にならない「聖霊」を下さるというのです。

 

「聖霊」で飢えや空腹は満たされないと人は言うでしょう。しかしそうでしょうか。人々に愛の心、分かち合う行動、共に流す涙と笑顔、これは神様が下さている「聖霊の賜物」そのものです。武器でもない、地雷でもない、核兵器の脅しでもない、小さな小さな一人ひとりの善意と言う宝がそうせずにはおれなくさせる働きです。

 

この美しくも小さな愛が、神様がくださる最大の贈物であることを知るなら、私たちは、貪欲なまでに願い求めようではありませんか。

「聖霊」は真理へと導き、光と悔い改めの願望を生み出します。日々の生活を振り返り、自分自身のためだけから、神様を信じる人々のために、そうしてすべての人々のために、信仰者として改めて日々「献身」の思いを強められたいと願い求めるなら、父なる神と子なる神と聖霊なる神様はお与えくださると信じます。

 

静けき光よ、来たりて満ちよ、わが胸の奥深く。人々の心にやどれや。

われらはみ光のほかに、よあけをしらず。きよき光を送り、われらの魂を照らし、さきわいたまえ。 


  「小閑記」

  恵みによって、心を強くするがよい。

             =へブル13:9=

 キリスト者が希望を持ち、静かに主の救いを待つことができるとは、何と素晴らしいことでしょう。み言葉は語ります。「人が若い時に、くびきを負うことはよいことである」。その「くびき」は、主がおはめになったと信じるなら、何と良いことでしょう。

その奥義に心を向け、静かに黙して祈り、感謝できるとしたら・・・、悲しみと不安で顔を下に向けている今こそ、実は「神の下さった恵みのくびき」なのです。「くびき」を、私たちの自由を奪う奴隷のような重荷とお思いなら、それは間違いです。「くびき」は正しい道に、希望に、救いに導く大切なものです。

 どうでしょうか、私たちが自由に何かをする時、喜びと感謝に満ちるでしょうか。私たちにとって自由は、神から離れ、罪の生活と放蕩へと誘う甘い蜜になるのではないでしょうか。

それを制御させるものが「くびき」と思い直してみませんか。あの聖書に記されている「放蕩息子」の教えは、「くびき」のない姿であり、彼の悔い改めは、「くびき」に生きようと決心してから始まりました。

 彼は放蕩から、生まれ故郷を学び、働くことを学び、父親の愛を知る機会となりました。神を信じることを学びました。これは「放蕩息子」の個人的な経験ではありません。私自身なのです。

 

 私たちの心には「人を妬みや羨む心」がいろいろの出来事の中に出て来ます。それは、人との比較や国と国との比較から生まれるものと言われています。貧富の差と言う富のバベルの塔、国土と国土の格差。不思議なことに、都会では高さを競い合い、ビルディングと言うバベルの塔を競って作っています。

 羨む心は、隣の芝生から生まれています。心に飾る美しいバラの花を握りしめているなら、野の花を愛でるでしょう。与えられている仕事や、悲しい災害での時や、人の喜びに関われる心の花を咲かせましょう。

 

 心を強くするために、人は努力します。それは素晴らしいことです。決して無駄なことではありませんが、「天に宝を積み」、地には平和と愛の花園を作ることができる日々へと導かれているなら、人は神様に感謝することでしょう。

「くびきを負う人生」のあることを知ろうではありませんか。

 

 主の導きにとりまつり ふたたび来ます平和の時まで、

  み名によりて、あだと戦わん。

 主来まさば、なやみはとに消ゆるなり、

  そのおもいのいかに楽しき。 

 

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ISBN978-4-535-55538-9
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森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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