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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(5)
 「切支丹灯籠への思い」(4)
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙すれば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
=日本海新聞=
(平成19年11月6日)
 
キリシタン灯籠守りきる                   41c688b5.jpg
半世紀ぶり聖神社へ
鳥取・松田さん父子
 寄贈依頼を快諾
 
戦後の混乱期、鳥取県外に手放されようとしていた聖神社(鳥取市行徳2丁目)のキリシタン灯籠を、一人の男性が必死の思いで食い止めたエピソードがあった。それから50余年、市内の民家の庭に場所を移して観光振興に役割を果たしてきた灯籠が、半世紀ぶりに聖神社に帰ってくる。
 
「父も『よかった』と喜んでいると思います」と、松田章義さん(73)は穏やかに語った。鳥取市西町2丁目にある松田さんの自宅の庭には、キリシタン灯籠がひっそりとたたずんでいる。
 戦後間もない1951年ごろ、聖神社は所有する灯籠を京都の骨董品業者に売却する話を進めていた。
 当時全国キリシタン研究会会長を務め、キリシタン研究に尽力していた松田さんの父、故・重雄氏は「貴重な文化財を県外に出してはならない」と神社に県内での保存を要請したが、売買取引は成立。やむなく重雄氏は身銭を切って業者から灯籠を買い、自宅に引き取った。中学校校長だった重雄氏の給料3ケ月分の額だったという。
 庭に置かれた灯籠は1957年に県の保護文化財に指定され、案内板が添えられ市街地の観光マップに掲載されるスポットになった。11年前に重雄氏が亡くなった後も、松田さんは時折立ち寄る観光客にキリシタン弾圧を伝えてきた。
 今年春、聖神社の氏子による敬神会から「元の場所に移転してもらえないか」との打診があった。氏子たちが灯籠の歴史的な価値を見直し、灯籠を信仰した人々の末裔が神社への移転を望んだことから出された提案だった。
 松田さんは寄贈を快諾し、今月7日に灯籠の移設工事が着工される。神社境内に設置され、一般にも公開されるという。敬神会の梶尾勇平会長(81)は「灯籠を保護してくれた松田さんには感謝の気持ちでいっぱい。大切にしていきたい」と決意を述べている。
 松田さんにとって中学生のころからともに過ごし、重雄さんの形見とも言える灯籠への愛着は強い。「寂しいが、56年間預かった灯籠を返せることに安堵している。元の場所で、たくさんの人に歴史を語ってほしい」と、晴れ晴れとした笑顔を見せた。01766f44.jpg=注記=
2007年11月8日の朝日新聞にも同様の記事が掲載されています。また、移設式典として、7日、日本基督教団鳥取教会牧師 橋原正彦師によって執り行われています。
写真は、新聞二誌と松田章義さんと庭にある燈籠。
 
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松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(4)
 「切支丹燈籠への思い」(3)
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
   石が語る(3)
『昭和47年6月1日 毎日新聞』松田章義氏提供
 島原の乱と鳥取藩士
 信徒側に投じた武士も
 「因伯キリシタン」松田氏が近く出版                        ac774938.jpg
 
『長崎』宗教戦争として知られる‘島原の乱,(1637-1638)には、まだ解明されていないナゾの部分が多いが、戦役に従軍した鳥取藩士にまつわる2つの史実が元鳥取県立美術館長松田重雄氏(64)=鳥取キリシタン研究会長=と長崎県島原市宮ノ丁、郷土史家渋江鉄郎さんの手で明らかにされた。3万7千人のキリシタン信徒が殉教した長崎県南高来郡南有馬の跡に残る鳥取藩士の墓碑と、戦陣を抜け出してキリシタン軍に投じたナゾの武士―。2つの話題は近く松田氏が出版する「因伯のキリシタン」で発表する。
 戦死した鳥取藩士の墓石は、原城(国指定史跡・文化財)本丸跡に、信徒側の総大将天草四郎時貞の墓と並んで立っている。高さ80センチの自然石の右側に小さく廿七日、中央には大きく五字がそれぞれ刻んであり、佐分利九までは読めるが、最後の一字は判読不能。土地の言伝えによると、原城総攻撃に参加した鳥取藩士の墓らしいというだけでそれ以上のことはわからず、鳥取でも郷土史家さえ藩士の墓が原城などの真ん中に残っていることを知らなかった。
 たまたまキリシタン研究を通じて知り合った渋江、松田両氏が文通を続けるうちに、鳥取藩遠征軍の行動が次第に明らかになり、佐分利九允(きゅういん)の子孫が、鳥取市東町に現存していることもわかった。
 両氏の研究によると九允は三百石取りの物頭(歩兵隊長)鳥取藩の第二次派遣隊88人の隊長だった。寛永15年(1638)2月27日の原城総攻撃に参加したが、信徒側に撃たれて重傷を負った。力を振りしぼって、近くあった石に刀で日付と名前を刻んだが、途中で力が尽きた。乱平定後、攻城軍の勇士がその勇敢な最期をたたえて、特に敵の大将の横にこの石を移した-という。
 このほど島原を訪れた松田氏は、渋江氏の案内で佐分利墓碑に参拝、写真と拓本をとって鳥取に持帰った。
 また松田氏の話によると、佐分利が率いてきた第二次派遣隊の中に、キリシタン武士がいた事実がわかった。まだ名前はわからないが、原城総攻撃の前夜、同僚に「自分がいなくなったらこれを両親のもとへわたしてくれ」とフロシキ包みを預けたまま翌朝、突然行方不明になり、それっきり帰ってこなかった。遺品は家族に渡され、現在もこれにまつわるキリシタン灯篭が、鳥取市内の聖神社にあるという。
 この武士はキリシタンであったため、脱走して城内の信徒軍側に加わったものと推定される。鎮圧のため西国各藩から派遣されて攻城軍武士の中から、信徒側に投じた武士がいたという話が明るみに出たのははじめて。
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(3) 
 
 「切支丹灯籠への思い」(2)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 石が語る(2)
 科学にしろ、歴史の研究にしても実証する手段、資料が重要視されます。しかし、残されている資料そのものに疑いのある場合があります。特に、歴史に関する場合の戦勝記録などはその類でしょう。戦国時代の絵巻物や書き残されたものの多くは勝者のもです。歴史は勝者の側だけでなく、敗者の側からも考えることは大きな意義があると思われます。
 切支丹という言葉の後に続くのは『迫害・弾圧』です。事実、日本の歴史の中で起こった島原の乱に係わる出来事は切支丹にとっては迫害そのものでした。その凄惨さは過酷きわまるもので、島原半島の領主有馬重政の行為は残酷非道なものであったと言われています。権力者・為政者にとって不都合な者に加えられるものはその類でした。
 
89612a39.jpg 島原の乱最後の舞台となった『原城』の発掘調査が360年あまりにわたって封印されていた闇から歴史の中に登場されてきました。
 外山幹夫氏(長崎大学名誉教授)は、「原城といえば、いわずと知れた「島原の乱」の舞台である。私はこの保存管理・調査整備に関わって、かれこれ30年近くになる。ここ数年、発掘によって、乱に関する多くのものが出土してわれわれの眼を驚かせている。一方、この城は天正期以前、肥前最大の戦国大名であった有馬氏の抱城(かかえじろ)として長い歴史がある。有馬晴純入道仙岩の時に全盛期を迎え、島原半島を中心とする高来郡の他、藤津・小城・杵島各郡に及び、天文8年当時、肥前守護職(しき)の地位にあった(大館常興日記)。日野江城を本拠としながら、家臣の増大に伴いより大規模な原城を持つ必要があったのである。こうした観点からも城の構造は注目されるのである。そして元和元年の一国一城令、また乱後一揆の拠点へ、幕府当局の憎しみによる二度の破却の有様も注目される」と記しています。
 「島原の乱」はなぜ起きたのでしょうか。一連の発掘資料から、土からの声として、その原因を悪政、すなわちよそ者(松倉重政)によって地元の人を経済的にも精神的にも圧迫した純粋な農民一揆であったとも言われています。
 土は語ります。宗教者の争い。切支丹王国・有馬領では、40を超える寺社が破壊され、仏像はことごとく薪としてくべられてしまったのです。
 …。島原半島においては、キリシタン迫害の歴史ばかり強調されるが、キリシタン大名・有馬晴信の時代では立場はまったく逆だった。そこは仏教徒のほうが異教徒とみなされキリシタンの王国だった。天正8(1580)年、晴信がキリシタンに改宗したおり、3ヶ月で40を超える領内の寺社が破壊され、僧侶たちはキリシタンへの改宗か、この地を去るかを迫られた。そして、領内の主要な寺社とその地所はイエズス会の教会やセミナリヨ(神学校)へと変わった。当時、佐賀の龍造寺氏の侵略に悩まされていた晴信は改宗し、イエズス会と結ぶことに自らの命運を託した。天正12(1584)年、晴信は龍造寺氏との戦いに勝利し、領地を確保することができたが、イエズス会では自分たちの援助なしには晴信の勝利はなかったとまで言っている。一転、迫害される身となった僧侶たちは口之津近くの小島(岩戸山)に各地から集めた仏像を隠したが、宣教師たちはこれをいやおうなく摘発した。「折から寒い季節のことで、口之津の我ら司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。これらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役立った」(フロイス・日本史)とある。
 これもまた、南島原市南有馬町古園の土中から発掘されている宝篋印塔群(ほうきょういんとうぐん)から、仏教徒によりひそかに丁重に埋められたものと推測されている。
詳しくは「南島原市の原城跡関連のホームページ」で検索してください。
 
 何時の時代、何処の国にも信仰・宗教間の争いにはその大切にしているものへの攻撃・破壊がありました。徹底的破壊か見せしめ的なものがあります。近年ではタリバーンによると言われているバーミヤン遺跡の破壊、1868(慶応4)年の神仏分離令に拠って起こった仏教排斥運動の「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)などを見ることができます。 
 
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(2) 
 
 
「切支丹灯籠への思い」(1)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 石が語る
 私たちの燈籠についての関心事は、多くの場合その姿形でしょう。石の美しさ、構成された曲線美、全体のバランスなどは、心の平穏、安らぎを覚えるものがあります。しかし、素朴な線、野趣に富んだ姿の戦国末期から江戸時代にかけて、祈りを込めて作られた切支丹石燈籠は、茶人たちにどのように受け止められたのでしょうか。そこから少し違った視点で見ることもまた趣があります。637357e6.jpg
 
松田重雄に戻りましょう。「燈籠に使用されている石材が、どの地方から産出したものであるか、それを探ることは研究上一つのヒントを得、切支丹燈籠の手がかりをつかむことがある。かつて岡山県御津町金川妙覚寺の燈籠は長崎から運ばれ、三次市および呉市佐々木家に残る燈籠は京都から運ばれたとか、四日市市の常徳寺・瀬戸市の堀内家のものは平戸から持ち帰ったなど、他の地方から持ってきたものが所々にある。…。たとえば、このような話がある。その石は北海道では産出しないものであるが、松前藩主家の墓地に切支丹燈籠がある。その理由は、郷土史家の調査・研究で昔松前船・弁財船で能登方面から石材を運んだことが分かった。これらの船は江戸時代越前三国港に寄港して越前米を積み、能登方面からその他の物資を積荷し、北海道に回送していた。寛永5年(1628)千軒岳に金山が開発され、800人余の人夫が各地から来ている。千軒金山や松前の大沢金山には、多くの潜(かく)れ切支丹たちが潜り込んでいたのである。「蝦夷切支丹」と呼ばれている」。
 何時の世でも、どこの国でも人の考えることは共通しているようです。新約聖書の迫害下にあったキリスト者、中世の改革者たちはその時々にいろいろな知恵と方途の中で耐えました。そこには信仰がありました。集まりもありました。
 弾圧・迫害が厳しくなった頃、み言葉(聖書)を持たない人々の拠り所は何だったでしょうか。それはその仲間だけが知る礼拝物を作り、それをどうして守り抜くかでした。指導者・信者たちは日夜腐心したことでしょう。日本人は仏像を模してマリヤとキリストを仮託した物を作りました。乳房のあるマリヤ観音・マリヤ地蔵・切支丹燈籠・納戸神などはそれです。このうち切支丹燈籠には他の石造物や織部燈籠とは異なる作為のあることがわかります。江戸時代に盛んであった観音信仰・地蔵信仰・道祖神信仰・天神信仰に習合し、ご尊像をそれに似せたり、また、故意に折ったり、尊像を削り取ったり、または周囲を壊したり、土中に埋めたりするなど、人目を避けさせ、関心をそらすなど用意周到にカムフラージュしていたことが分かります。70e1a0b0.jpg
 燈籠は庭作りには大切なものでした。作庭と石燈籠とは深い関係を持っていました。前述しましたが、もともと石燈籠は神社・仏閣の御光として献納されたものがその始まりでした。 
写真=京都市右京区嵯峨・天竜寺 「花のいえ」の庭にある燈籠=松田章義氏撮影07-11-1
=記= 
「…」内の文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。 長村
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(1)
 
 はじめに
 
松田重雄は40年余の教職生活で、さらにその後のライフワークとして、いくつかの調査・研究のテーマをもっていたが、その中でも特に2つのことに心と時間とエネルギーを注いでいた。
 1つは、1951(昭和26)年からの「円通寺人形芝居」のこと、もう1つは、全国を行脚して取組んでいた「潜れ(かくれ)キリシタン」のことであった。本人はことばにはしなかったように思うが、この2つには、濃い共通性があると強く感じていた。それはマイノリティーの問題としてである。016ef41a.jpg
 いわれのない偏見と差別、さまざなな抑圧に苦しみながらも、たくましく生き抜き、江戸時代からの伝承文化を守りつづけた円通寺の人びと。そして、江戸時代、厳しい禁制と執拗な迫害の中で殉教し、なお信仰を守り通したキリシタンたち。ともに、政策的につくられた社会体制によって社会の底辺に押し込まれ、疎外されながらも、痛み苦しみに絶え、人間として優しく誠実に生き、、そして自らの信念、信仰をひたむきに守り通した人びとである。
 その人とびから、松田重雄はなにを見通し、なにを学び、なにが言いたかったのか。書き残した伝承文化とキリシタン関係の9冊の著書、数々の研究資料などの文章の行間にあるものをまさぐり、1つひとつの文言の奥底にあるものを改めて推しはかってみた。
 たどりついた伏流水脈の1つは、現在から未来永劫につながる解放への願いと願望、永遠の命に己をゆだねる心の平安、燃えるような熱い「祈り」であった。高潔な生きざま、優しくもたくましく行き抜く意志、そこから生まれた人間としての尊厳、崇高な「誇り」であった。しかも、この2つの水脈は、しっかりと結合し、華やかに高らかに噴きあがる潜在力を蓄えていた。

                
                     松田章義著「円通寺人形芝居」に見たものー民衆の祈りと誇りー
                (日本基督教団鳥取教会役員)
 



「切支丹灯籠への思い」
 
 切支丹燈籠を訪ねる前に、皆さんご存知のことと思いますが、燈籠について少しお案内いたします。今日の私たちの日常生活に燈籠は余り係わりが無い様に思いますが、例えば夜道に街灯がなかったとしたら、を想像してみてください。欠くことのできないものであることが理解できます。「常夜灯」と言う言葉がありますように、生活の一部であったものの1つです。b1488097.jpg
 燈籠は仏教と共にわが国に伝わったものと言われています。それがやがた神社にも及び、私たち日本人の信仰や生活の上で欠くことのできない存在となりました。当初は、仏道や社殿の前にただ1基設けられていたものが、やがた左右一対になり、次第に今日見るような列立するようになりました。燃灯供養や献灯の意味が次第に境内の荘厳的な目的をも兼ね備えるようになってきました。そのために、灯りとしての石燈籠の重要な部分である火袋も縮小されて、石燈籠全体の感じが変質してきます。
 また、室町時代の末期から茶庭にも取り入れられるようになると変形物が珍重されてくるようになりました。それ以降では、裕福な庶民の庭園にも設けられるようになります。そのために庭園の中には不釣合いな巨大なものや奇抜なものが現れるようになりますが、燈籠は庭園の景観に欠くことのできないものとして大きな役割をもっようにもなりました。
 
 
石燈籠の用途としては、1)献灯 2)照明器具 3)供物 4)景物 5)道標(茶席への道案内) 6)里程標 7)灯台 8)墓標 9)その他
 燈籠の構造と各部分の名称を覚えておくことも参考になりますので、一般的なこととしてご紹介いたします。①宝珠(ほうじゅ) ②笠 ③火袋(ひぶくろ) ④中台(ちゅうだい) ⑤竿(さお) ⑥基礎(きそ)となり、それぞれに時代・作者の思いが込められています。また、3983c4b1.jpg時代の中でもその形態は異なりますので比較して観るのも楽しいものがあります(マイノートにスケッチするのも一つの楽しみ方です)。また、PCで「石燈籠」「切支丹燈籠」で検索して形態、目的、時代背景など理解されると、次回からのシリーズが楽しみになるでしょう。
 
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    8858e3b6.jpg
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東京大学大学院法学政治学研究科教授
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東京大学大学院人文社会系研究科教授
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