2023年7月号
№193
号
通巻877号
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…二人静…
鈴鹿の病院に入院して2年ほど経ったでしょうか。毎月長男と暁美さんが、お見舞いに来てくれるのを待っておりました。暁美さんが、いつもより、嬉しそうに、ある方からのお手紙を持ってきて、読んで聞かせてくれました。その方を診察したのは、10年以上も前のことでしたが、よく覚えておりました。
その方が、私の診察室に入ってきた時、私は、触診をする前にお顔を診ることにしていましたが、大変、顔色が悪く、失礼な言い方ではありますが、どす黒く見えました。これは、かなり重篤な病にかかっておられると、直感しました。触診すると、すぐに誰が触ってもわかるほどの大きなものを胃に持っておられました。
私は、すぐに、ふるさと(鳥取)に帰って、鳥取大学で、詳しく検査を受けるよう促しました。大事な仕事を持っておられた方でしたから、とても悔しがっておられましたが、病気が治ったらまた仕事に復帰できるのだからと説得いたしまして、故郷へ帰ることに応じてくれました。
その方が、鳥取大学で、無事手術を受け、すでに10年経った今もお元気で、大正琴や、他の趣味に生き甲斐を感じながら、過ごしているとのお手紙でした。そして、あの時、私に説得してもらわなかったら、今の元気な体は無いというような内容でした。
医療に携わる事をやめて、ずいぶん経ちますのにこのようなお手紙を頂くことができて、私は、とても嬉しくなりました。今、医学は、日進月歩で進んでおります。それは、それで、素晴らしく、尊いことではありますが、私は、人間の体は、やはり神様がお創りになられたものだと、信じていますので、恐れ多くも、その体を人間が、医師が創りかえるかえるようなことは、人間の傲慢さの表れだと思います。
生体間移植のニュースを聞くたびに、背筋が寒くなるのです。昔の医者ですから、偉そうなことは言えませんが、私は、漢方に興味を持ったのですが、自然治癒力を大切にしている者でしたので、よく、新薬でアレルギー反応が出た時など、使わせてもらいました。
それで、効を奏した方もいましたが、あまり効き目の無い方もおりました。医学の難しさを痛感いたしたのです。
今回をもちまして、終わらせていただきます。長い間、つたない者の独白をお読みくださいまして感謝いたします。代筆してくれた嫁の馬場暁美さんに感謝しています。
森三菜子
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「地域の人々と共に生きて」 その10
…二人静…
78歳で医師としての仕事を離れ、やっと自分の時間を自由に使えることができるようになりました。何をしようかと考えましたが、人と関わる緊張の連続の日々であっただけに、今まで、鍬、かまなど持ったことはありませんでしたが、家の裏庭を開墾して、畑作りをしてみようと考えました。
土をいじっていると、今までの辛いことも、すべて忘れることができ、とても楽しい時となりました。何でも、し始めると夢中になるタイプですので、夕方になっても家に帰るのを忘れて、家の者を心配させたことも度々でした。
一番初め手がけたのは、かぼちゃです。これは、初めてのひとでも出来ると本に書かれてあったからです。次に、なすです。これは、ちょっと難しかったですが、自分で作った野菜が食卓に出ると満足感で満たされました。次第にきゅうりもうまく作れるようになり、そのきゅうりで奈良漬けを作るのがとても楽しみになり、奈良漬けをたくさんつくっては、旧友に送って喜ばれるのが嬉しく、楽しみになりました。
料理は、生まれつき苦手でしたので、お嫁さんに任せていました。すべて、三度の食事は、お嫁さんにまかせて、楽しく余生を送っておりましたが、また、自分の頭が、変に物忘れがひどくなったり、目の前にある服を自分の力で着ることが出来なくなってきました。
暁美さんに助けてもらわなければ、外出の準備すら不可能になってきました。
若い時に勤めていた岡波病院で診てもらっても、たいしたことがないと言っていただきましたが、自分の病は、どんどん進んでいくように思われ不安でした。
思い切って、榊原病院を訪ね、診てもらったところ、やはり、認知症の始まりだと言われ、しばらく入院することになりました。85歳の時でした。病院の生活は、想像していた以上に苦しいものでした。自分が医師として、働いていた時、患者さんのことをあまり考えていなかったことが悔やまれました。
昔のことは、しっかり覚えているので、看護師さんや医師の医療に対する曖昧な態度に、憤慨することもありました。ですから、看護師さんや医師には余り好かれませんでした。その後、あちこち入院先が変りましたが、今は、鈴鹿におりますが、少し落ち着いております。
森三菜子
…二人静…
地域の方々とともに歩んで70歳を過ぎたころから、自分自身の体に異常が起きてきているのがわかりました。それは、緊張すると手が震えるのです。注射針を持って、いざその方の腕を抱えると手の振るえが出てくるのです。患者さんは、大丈夫かなという目で、見ていますし、私も、なんでこんなに手が震えるのか不安でした。でも、長年の経験が注射をするときになると、ピタととまり、何十人の児童の予防注射も、ひとつのミスもなく、終えることができていました。
後でわかりましたが、パーキンソン病のはじまりだったのです。その手の震えに気が付いた村人たちは、心配して私を辞めさせようとしていたようです。
ある時、はしかの予防接種のために村中回っておりました。その内の一人が、副作用で、発熱、下痢嘔吐などが出て、往診に来るようにとの連絡が入りました。往診に行くと、すでに、症状は治まりほっといたしました。わたしは、このように説明いたしました。どのような予防接種でも、その時の体の具合によって、きつく副作用が出る場合があります。でも、もう大丈夫ですと。
それで、一件落着したかのように思えましたが、そう甘くありませんでした。あれは、医療ミスだと役場の村長さんにまで、訴えられました。医療ミスという言葉は、54年間、医療に携わってきた者にとって、耐え難い言葉でした。村長室に呼はされ、医療ミスをした医者は、診療に携わってもらうわけにいかないと言われたのです。人生で、最も悲しい時でした。
いくら、言葉をかえて説明いたしましても、聴いてくれません。仕方なく、その夜は、引き下がりましたが、これは、きちんとしておかねばと思い、もう一度、その熱の出た方のお家をたずねました。そして、発熱したのは、医療ミスではないことを理解してもらおうと説明に苦心いたしましたが、その家の人が出てきて、もう何も言わんでええんや。わしらは、お前の顔も見たくない。お前に何時までも、診療所で、勤めてもらいたくないんや。ただ、それだけや。そう言われてなすすべもなく、しばらくは、そのまま勤めさせてもらいました。考えてみますとその気持ちも少しずつ理解できましたが、その一年後の3月31日、満78歳で診療所を退職いたしました。
このような高齢な私が地域の方々の健康を考えて歩むことが出来ましたことに、深い感謝を覚えています。
私にとりましても、家族にとりましても、とても辛い最後でありましたが、今は私は常に最善を尽くしてきたと誇りに思っています。このこと以来、息子が医師として、働いていますが、何時も医療ミスと言われないように最善の注意をしてと、日々お祈りする毎日です。
森三菜子
…二人静…
昭和61年11月。40年近く地域医療に携わってきた、この私に文化勲章瑞宝章受章の知らせが届きました。ただひたすら、人並みの医療を続けてきただけですのに、このように評価していただき、身に余る光栄と、感謝して受けさせていただきました(当日の記念写真)。
新しい診療所が建設され、医師も若くて、新しい医学を学んだ方に、お譲りするのが本意でありました。それで満70近くにもなったことですし、いったん退職いたそうかと考えまして、村長さんの考えを伺いにまいりました。ところが、新しい若い医師に来てもらうとなると、相当多額の給与を支払わねばならず、今の村の経済では、そんな医師を雇う事ができないので、たのむから、健康が続く限り、勤めて欲しいと懇願され、今まで以上に給与は安くしてもらうために、嘱託医として勤め続けることになりました。名前が変わっただけで、仕事の中味は、今までより厳しくなってきました。高齢化が進み、診療所へ来ることすら出来なくなった方が増えてきましたから、午後からは、毎日、往診です。しかも、中には、入院治療しなければならない方が数名いましたが、在宅治療を家族も、本人も望んでいるということで、往診に行くときは、入院患者の病棟を回るのと同じでした。
しかし、医療器具は整っておらず、流動食の注入、痰の咳き込みを防ぐ始末など、とても神経を使いました。私は、医療法に基づいて、注射、点滴針などは、看護婦にまかせることなく、どんな忙しいときでも、医師である私がしてまいりました。疲れのあまり、手が震えることもありましたが、神経を集中させて、患者さんや家族の方とともに、歩んでまいりました。
森三菜子
「地域の人々と共に生きて」 その7
…二人静…
昭和54年、長い間願っていた波多野診療所が建設されることになりました。これは、私のためでなく、次にこの村で働いてくれる先生のために、施設を整えておかねばという村の考えでした。私も、建設にあたって委員の一人に加えさせてもらいましたが、計画が進められていきました。
私は、診療所の第一の立地条件は、陽当りのよいこと、湿地でないことを掲げましたが、この二つとも聴きいれられず、どこからも、陽が差さないしかも池を埋め立てた場所に建てられることになりました。しかし、この中には、今まで取り揃えられなかったレントゲン、エコー心電図の機械がおかれ、一応、すべての医療が可能になりました。この頃、若いお母さん方は、車の免許をとり、ほとんど車で上野市内の病院に子供をつれて、診てもらっていました。せっかく良い診療所が建てられましたのに、患者の数は減る一方でした。年寄りだけの診療所になっていきました。そこで、私の定年問題も絡んできましたが、私は断固として村長の辞めるまでは、私もやめません、と言い張って、診療を続けました。
そんなおり、3歳児検診が村の主催で行われました。いやでも全員私の診察を受けねばなりません。一人のこどもの心臓の音が妙に雑音が入ってくるのです。今まで聴いたことが無いほど大きな雑音でした。これは大変と異常ありの旨を母親に伝えますと、非常に怒って、このやぶ医者、早くやめろ、とどなられましたが、奈良医大に紹介状を書いて、持っていって、もう一度、専門医に診てもらうようにだけ伝えました。その時は怒っていた母親でしたが、たしかに、ミルクの飲み方も少ないし、自分もおかしいと気が付いていたとのこと。
すなおに、聴いてくれて、手術を受け、今ではまったくどこにも異常がみられず、また、結婚もして、子供も与えられたと喜んで伝えにきてくれた時、田舎の医師冥利につきると胸がいっぱいになったのでした。
森三菜子
…二人静…
子供たちは、それぞれの道を歩み始め、私の勤めも、そろそろ定年を迎えるころでした。夫が59歳で、くも膜下出血で倒れ、救急車で、岡波総合病院に搬送されましたが、意識は戻ることなく、奈良県立病院に転送されました。
しかし、好転することなく、一年あまりの入院生活の甲斐もなく、息をひきとりました。その間も、私は、診療所を休むわけにはいきませんでしたので、土、日の二日間だけしか、看病に行ってやれませんでした。夫の異常に気付くことが出来なかった自分にとても、自責の念を感じたのでございます。
血圧を測っても、普通より、少し高いだけでしたので、大丈夫かと考えておりました。今から思い返せば、よく頭が痛いと言っておりましたので、その時に注意して、血圧を下げるために食事療法をしていれば、あんなことにならなかったのではと、悔やまれてなりませんでした。
他人様の病気の異常を見つけて参りました。それなのに、自分の家族、最愛の夫の異常に気が付かなかったのは、無念でした。夫を失った私は、60歳という定年を延長してもらって、医師として、がむしゃらに働くようになりました。それは寂しさを紛らわすためにでもありました。
今まで多くの患者さんの、死亡診断書を書いてまいり、検死に立ち会うこともありましたが、家族、特に、夫の死を前にして、何もできず、ただただ、泣き崩れるばかりでした。
そして、私に代わって、夕飯の準備をよくしてくれていた夫に申し訳ない思いで、いっぱいになりました。
惨めな、弱い一人の人間に過ぎないのだ。反省することばかりでございました。夫が、私の務めに理解を示し、協力してくれたお陰で、長い間、仕事に専念できたのでございます。今でも、夫には感謝しております。
森三菜子
「地域の人々と共に」 その5
…二人静…
診療所に勤めながらも、やはり母として、3人の子供たちには、出来る限りの愛情を注いでやりたいと思っておりました。ですから、休日には、手造りのおやつ、ほうらくだんご(ホットケーキのようなもの)を作ってやったり、鈎針で、子供たちのチョッキなどを作って、楽しみました。また、遠足、運動会には、かならず、巻き寿司や押し寿司を朝早くから、作ってやりました。
3人の子供たちには、無理に自分と同じ道を進んで欲しいとは、思いませんでしたが、やはり、一人くらいは、医師として医療に携わってくれたらという願いは、ございました。
長男は、神経質で、体も強いほうではありませんでした。次男には、少し、期待をかけましたが、2回ほど医学部を受験いたしましたが、うまくいかず、教師としての道を歩ませました。三男は、中学までは、まったく勉強をしていませんでしたが、高校(県立上野高校)に入ってからは、どこの塾へ行くわけでもなく、一日多いときで、14時間の勉強を上野で、下宿をしながらし続けていたようです。
本人もその気になっておりましたので、母としても、願っておりました。しかし、開業医でもない家では、私立の医学部には、とても出すことはできません。三重大学医学部一本にしぼって、駄目だったらもう一度と、思っていましたが、本人の努力が実って難関を突破してくれました。やはり、母と同じ、道を歩んでくれることは、喜びでございました。
三重大学では、第2内科を選択しました。
安い月給では、国立の医学部ですら、仕送りに苦労しました。そこで、日本育英会から、奨学金を借りながら、6年間を無事、終了できました。しかし、母は、博士号を取得していない惨めさを十分に味わったので、子供には、博士号をとらせてやりたいと、同じ三重大学の博士号を取得して、やっと一人前の医師として、尾鷲の方の病院に勤務しはじめました。ミスなく、診療できるか、とても不安でした。なんとかやりこなしていると聴いてほっとしたものでした。
=写真=関西医大8回生同窓会(昭和57年9月25日 於・箕面加古川旅館)後段右側4人目が筆者=
森三菜子
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「地域の人々と共に」 その4
…二人静…
医療に携わって小児科医の資格を取得し、医師として専念して仕事に取り組み始めたのもつかのま、昭和22年に、次男が誕生いたしました。昭和27年には、三男が誕生が与えられました。仕事を続けながらも、育児にも携わらねばならず、忙しい日々が続きました。これは、私だけではございません。農家に嫁いだ女性は、農家の仕事、子育て、妻として、嫁として当然のことでございました。
しかし、幸いなことに、実の両親が、協力してくれ、3人の子供たちは、両親が育ててくれたようなものなのでございます。母乳がほしくなれば、診療所まで子供をつれてきて、診察の合間に母乳を与えたこともたびたびございました。子供たちを育てていく上で、最も、しんどいと思ったことは、一日の診療を終え、子供と一緒にゆっくりできるころ、往診の依頼が入ってくることでございました。往診といっても、今のように、車はありませんので、ご近所の方々か、ご家族が歩いて迎えにくるか、リヤカーで、迎えに来るかのどちらかでごさいます。
往診用のかばんは、6キロぐらいの重さでございましたから、かばんは持ってもらいましたが、一度、呼び出されると、ほとんど一晩かかりでございます。それは、患者さんは、一番不安になるのは、夜だからです。
ご家族と一緒に容態を見守るには、時間が必要です。あせってしまうとミスをしかねません。どんな時にも、あわてないこと。きっちりと消毒をすること。これだけは、鉄則でございました。ある患者さんは、手を握って、脈を計っているうちに、落ち着いてくるときもありました。うれしい時でございます。朝、明るくなるころ自宅にもどり、また、次の日は、普通の診療が待っています。自分でいうのもなんですが、本当に体が強かったから、医師として勤められたのでございます。
そして、医師として、大切なことは、耳がよくなければなりません。この研ぎ澄まされた耳から聞こえる異常が発見できなくなったときには、自分は、医療を辞めなければならないといつも、考えていおりました。
森三菜子
「地域の人々と共に」 その3
…二人静…
地域の医療を担うためには、気持ちだけでは出来ません。資格・技量が求められますし、経営能力も求められすのでございます。その第一関門は、小児科医の資格を取得でございました。先ず波多野診療所に、役場職員の一人として勤務をさせていただくことになりました。私には内科の資格しか持っていません。山添村には、5つの小学校と2つの中学校がありました。それらの校医を勤めなければならなくなりました。それには、小児科の資格がなければ勤めることができません。そこで、母校にお願いして通信教育のような形で、毎週土曜日の午後、天理まで出向いて、講座を聞き、送られてくるレポートを完成させ、3年余りかかりましたが、小児科医としての資格を取ることができました。
診療所でも、この小児科の資格は、とても役に立ちました。全国どこでも同じでしょうが、毎日の生活に追われのが普通でございました。今のような教育を受けられない年若いお母様たちですから乳幼児健診にも、学んだことを生かすことができ、早めに異常を発見し、大きな病院に紹介し、一命を取り留めたこともございました。私の役目は、専ら治療でなく、異常を見つけて大きな病院へ患者さんを紹介することにありました。人の命は尊いものでございます。自分の力で治せる病はひとつも無かったのです。
患者さんが直って、何やら、お礼として菓子折りなど付け届けにきますと、必ず受け取らず、直ったのは、あんたにその力があったからや。私は、薬で、補助をしただけやと言って、患者さんのご好意を受けだけで十分でした。また、患者さんには、必要最低限の薬しか手渡さず、しかも国立の病院が使っている質の良いものしかお渡しいたしませんでした。それは、診療所の経営の赤字につながることでございました。
村の方々のお気持ちもよく分かりました。しかし、黒字にするようにいわれると、決まって、私の給料を下げてくれたらいいから、お願いいたしました。今も昔も同じでございます。地域医療は、赤字になるにが、当り前なのでございます。地域が、日本は貧しいのですから。誠実にしていたら、儲けは、難しいとよく、役場職員と言い争っていました。
森三菜子
…二人静…
昭和19年3月29日、待ち望んでいました長男隆道が与えられました。戦時中にしては、体重も2千グラムを超える、しっかりした大きさでした。お腹にいるあいだ鳥のかしわをよく食べたから、そのようなしっかりした骨格の子供が誕生したのだと思っています。
これからが私の地域の方々との日々が始まるのでございます。
子供が生まれて、山添村に帰ってきてまいりましてからは、お近くの患者さんが絶えず家にやって来るようになりました。山里に住む方にとっては、どのような病気でも不安であり、私のような若い医者でも頼りにされることは嬉しいことですが、責任も感じました。家はまるで診療所のようになってしまいました。今でこそ思えることですが、大病院でも、町の診療所でもロビー、待合室は世間話をする社交場なのでしょう。
昼となく、夜となく、先生診てやってくれへんか、と信頼してやってくる多くの患者さんのために、時間をゆっくりかけて、患者の納得いく診察を続けることを大切にいたしました。そうは申しましても、家にあるのは、往診カバン一つ、その中にあるのは、聴診器、血圧計、注射ばり、あとは、これは本当に大切な自分の10本の指です。触診をもっとも大切にしいたしました。これも大切なことでございますが患者さんの顔色とお話を聞くことも診断の大切な要素なのでございます。
今では考えられないことでございますが、街中でも病院・診療所などございませんでした。ましてや、小さな山村にはございませんでした。患者さんを背負って家族の方は山を越え川を渡って来られるのです。私の村も同様でございます。山添村、波多野地区には無かったので、役場へ申し出て、波多野診療所を建設して欲しいと、村長、役場役職に頼みに行く日々になりました。しかし、簡単ではございません。なかなか承諾してもらえず、診療所建設は出来ないが、農協の事務室を一部屋借りて、診療をしても良いとの許可が与えられたのでございます。昭和20年のことでございます。岡山さんという看護婦さんは診療の手助けに来てくださいました。
その当時の一番の危険は、いろいろの要因が重なって肺結核が猛威をふるい、山添でも、何人かが結核に罹ったため、それを食い止めなければなれませんでした。そのために、奈良保険所から、応援に来ていただき、患者さんの家を一軒一軒消毒に回りました。しかし、結核菌は、なかなか簡単には納まらず、消毒も完全に菌をなくすところまでは行かず、とても苦労し、辛く悲しい思いをいたしました。
森三菜子
「地域の人々と共に」
その1
人にはふと自分を振り返る時があるといわれています。大勢の方々と共にひとりの医療人として歩んできた54年でした。大正7年1月31日、奈良県の小さな村に生まれました。大和茶として知られ、神野山(こうのざん)を遠く眺め、四季を通じて、美しい自然の地でございます。昭和31年に3つの村が合併して出来たところです。人の数も92年には5600人でしたが、今は4400余人と言われている所でございます。
父は、奈良師範を卒業後、教師として勤めていました。従兄弟のハルと結婚し、男の子を二人をもうけましたが、血縁の濃いゆえか、二人とも幼くして死亡し、その後に生まれたのが私でございます。父の期待に沿って、医師になることを、こころざすことになりました。それから医療に携わって、54年になりました。
山添村の教育では、医学部に入学するのは困難と考え、奈良育英高等学校で医学部入試にむけ勉学にはげむことになりました。幸いにも、努力した甲斐あって、大阪高等女子医学専門学校に合格することが出来たので御座います{現、関西医科大学}
そこで内科医をこころざし、24歳で、伊賀市の岡波総合病院の研修医として、院長宅に下宿しながら、医師としての最初の一歩を歩みだしたのでございます。不思議なことに、奈良育英高等学校で、私は、キリスト教と出会うことになりました。賛美歌、聖書を手渡され、学校の勉強の間を縫って聖書の話に耳をかたむけていたのでございます。
岡波総合病院で勤務する傍ら、私は、院長先生の奥様から女性としての教養を身につけるべく、お花、お茶、料理の手ほどきを受けることになりました。是は後の私の宝物になりました。いわゆる花嫁修業でもございましたから、厳しく伝授されたました。
ある日、奥様に一人呼び出され、”ミツコさん、あなたの鼻をもう少し、たかくしてやりたい。あんたが人並みのべっぴんさんやったらな…と言いながら、一枚の男性の写真を見せられました。それが、夫となる、京一でございます。京一は、伊賀市、大山田村マシノの出身で、旧姓は、森という姓でございます。京一とは、一度の見合いで、すぐ結婚が決まりました。その時代は当り前で、今では考えられないことでございます。
京一は、三重師範を出て、伊勢の二見で教師をしていたました。私は、結婚のため、岡波総合病院を2年で、退職し、伊勢で京太との結婚生活をはじめました。しかし、医師として働きたいという思いは強くなりまして、伊勢にある宇治山田日赤病院に勤務医として勤め始めることになりました。昭和18年のことでございます。
昭和18年といえば、まさに、太平洋戦争の真っ最中でございますから、食料がなく、家で、家畜を飼って、それを伊勢の宇治山田まで送ってもらって、食事を整えて生活しておりました。病院勤務と家事の両立は、当時でも大変厳しく、私は山添村から家事を手伝ってくれる女中さんにきてもらい、助けてもらっていた。しかし、伊勢神宮に近いため、空襲は激しくなり、伊勢での生活は、出来にくなり、私は、子供を身ごもった体で、山添村に帰ることになりました。
夫は、一人でしばらく伊勢にのこることになるのでございます。
(両親と私・昭和6年・奈良市にて)
森三菜子
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〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円