2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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最後の預言者
「アンナ」
預言者アンナについては、聖書は僅か3節しか書いていませんから、聖書をよく注意して読まないと、彼女のことを見落としやすいのです。ルカ福音書2章36節から38をよく読んで下さい。この3節から次のようなことがわかります。
1 アンナは84歳に達する老いた女預言者でありました。
2 彼女の父はパヌエルと言って、イスラエルのアセル族の人でした。皆様もよくご存知と思いますが、アセルと言うのは、昔のイスラエルの12部族の一つで、おもにガリラヤ地方に住んでいました。だから、アンナはガリラヤ人でありました。
3 彼女は気の毒な身の上で、若い時、ご主人を亡くしたのですが、その後、再婚もせず、彼女の長い生涯を全く神に捧げ、神の宮で神様の御用を勤めました。彼女の毎日の生活は、どうであったかと申しますと、夜も昼も祈りと断食をもって神に仕える生活でありました。
ここで、わたしたちの気付くことは、何百年にもわたって、預言者がなく精神的にも、
政治的にも乱れ切ったユダヤの国に、再び預言者が現れたということは不思議であります
が、これは神の愛のみ摂理と言うものでありましょう。
たとえ預言者アンナが老齢であったとはいえ、イエス様を救い主キリストと認め、まだ
幼いイエス様を待ち望んできたメシヤとして受け入れ、神様に感謝いたしました。そして
アンナはこの幼な児こそ救い主であることを、救いを待ち望むエルサレムの人々に語り伝
えたのです。
もしユダヤ人の祭司たちや宗教家たちが、このアンナの言葉を聞いて、素直に受け入れ
ていたなら、ユダヤの国のその後の歴史は、もっと幸いな、かわったものとなっていたこ
とでしょう。しかし、残念なことには、祭司も指導者らも心のかたくななために、精神的
に耳の聞こえない者となり、アンナの預言に耳を傾けようともせず、ついに神よりの救い
の恵みに与ることができませんでした。
さらに残念なことには、アブラハム・カイパー博士が語っておられますように、預言を
通しての教えは、これが最後でありました。この最後の恵みの預言を彼らが拒否し、退け
たのであります。この女預言者アンナ以後は、預言の必要がありませんでした。なぜなら、
預言の通り、既に救い主がお生まれになったのですから。
アンナが、イエス様にお目にかかったのは、ある日のこと、宮の内においてでありまし
た。イエス様の両親は、子供が生まれてから6週間目に宮に行き、神に捧げるユダヤの律
法に従って、イエス様をエルサレムの宮にともない、そこで神に幼な児を捧げる儀式をい
たしました。ちょうどその時、シメオンという信仰深い老人がいましたが、聖霊に導かれ
て宮の内に入り、この幼な児のイエスこそは、わたしたちの待ちに待った救い主であるこ
とを示されました。そしてシメオンは彼の腕にイエス様を抱きかかえて、神様を褒め称え
て言いました。
「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕をやすらかに去らせてくださいま
す。わたしの目が今、あなたの救いを見たのですから。この救いはあなたが万民のまえに
お備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」と
申しました。この時、老女預言者アンナが近寄って来て、この子こそは、主イエス・キリ
ストであることをあかしし、神に感謝を捧げたのであります。
このお話しで、わたしたちが学びたい教えが3つあります。
1 老齢者の神に対する奉仕が、いかに大切であるかということであります。この84歳にもなるアンナの信仰と、彼女の祈りの生活は実に素晴らしいものでした。普通、老齢者の方々は自分の老齢に心がとらわれて、この老いの身が何のお役に立つだろうかと、思われるかも知れません。しかし、いかに老いたりとは言え、熱心に祈ることは誰にでもできます。また老いたる者の熱祷が神に聞かれ、若い人たちを奮い立たせた実例が、たくさんあります。また逢う人毎に、すべての人々にみ言葉を語り伝えることができるはずです。
2 神の良き器となるために、わたしたちは絶えず祈り、常に神のお導きを求めなくてはならないことです。アンナとシメオンはどうして、イエス様がキリストであると信じることができたのでしょうか。それは、彼らが絶えず祈り、常に神のみ声に心の耳を傾けていたからであります。
3 神の教会は、すべての信者の交わる奉仕の場所であることです。ガラテヤ人への手紙3章28節に「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」とあります。このように教会では老若男女の差別はありません。アンナのような老女の意見や奉仕も、実に大切であり、女たちの意見も同じく大切であります。だから、若い人は、年老いた人の意見を尊重し、年老いた人も、若い人たちの意見を重んじ、キリスト者として、老いもきもそれぞれの立場で一致協力し、神の栄光を現わし、み言葉の証しをいたしたいものであります。
(アブラハム・カイパー博士(1837~1920)、オランダの改革派の神学者で政治家でもありました。アムステルダム自由大学の創立者であり、初代総長になりました。1901年から5年までオランダの首相を務め、1908年からは終身国務大臣でした)。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
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神の約束を信じたサラ
(創世記18章)
「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた」(ヘブル11:11)
アブラハムの妻サラは、聖書の中に出て来る婦人の中で、特別な存在であると言えます。それはエバの時からサラまで、信仰のあった婦人が現われなかったため、私たちに淋しい思いを抱かせました。そのような時、サラが登場してまいりまして、信仰の美しい花を咲かせたからです。サラは聖書にありますように、心から神が約束に忠実なお方であることを信じていましたので、彼女の信仰が認められ、年老いた後にも子供を生むことが出来ました。だから、ペテロもこのサラを模範として、全てのクリスチャン婦人が見習うように勧めております(Ⅰペテロ3:5~6)。
聖書に記されていますサラの話は、アブラハムとの結婚に始まっております。彼らの住んでいたカルデヤのウルという町は、チグリス、ユーフラテス河の流域で、土地は豊かに肥えていました。迷信に満ち溢れた堕落した町でした。ウルの多くの人々は月を神として崇めていたということです。神はこの不信仰の環境から不思議な摂理で、アブラハムとサラの夫婦をお選びになり、彼らをカナンの新しい地に旅立たせて、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:2)と、お約束なさいました。ここで私たちは、1、2の大切なことを教えられています。
第一に、サラが夫と共に、誤った宗教を振り捨てて、真の神様の声を聞き、これに従順に従ったことが、彼女の信仰の第一歩であったことです。
サラはアブラハムとともに、神様がお命じになりましたカナンの地に移住いたしました。「あなたがたを大いなる国民とし・・・」というお約束は、サラに子供がいないために、すぐに実現されず、彼女は思い惑い、あせって不信仰に陥り、自分のはした女ハガルを夫に与えて、彼女によって子供を得ようといたしました。これは当時の多妻主義の習慣で、普通のことでしたが、神のお約束を何度も受けて分かっている彼らにとっては、神様の前に不信仰をあらわした大きな罪であることには間違いありません。
その結果、サラは自分の不信仰な行いのために、自ら自分をどれだけ苦しめたことでしょうか。ハガルにイシマエルが生まれるようになり、サラの悩みは一層ひどく、アブラハムの家の大問題となりました。サラは神様のお約束を待たないで、焦ってしたことで失敗し、いたずらに悶えと苦痛が彼女に生じただけでした。
第二に、創世記18章10節を読んで下さい。サラは初めから大きな信仰の持ち主ではなかったことがわかります。神より「あなたの妻サラには男の子が生まれるでしょう」と告げられました時、彼女はこの言葉を信じないで、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえましょうか」と、心の中で笑ったほどのはかない信仰でした。しかし神様は彼女を導き助け、聖霊により彼女の信仰も一歩一歩強められ、心より神様のお約束を信じ、やがて約束の子イサクが与えられました。神様には、「主にとって不可能なことがありましょうか」とある通りです。信仰の第一歩は、自分の知識、自分の考えを捨てて、全てを神様にお任せして、従順と謙遜に従うことです。
今日の日本の多くの婦人方は、初めのサラのように、間違った考えを持って、神様でないものを拝み、命のない宗教や習慣に囚われておられるようです。早く間違った宗教や習慣から逃れて、新しい約束のカナンへ旅立とうではありませんか。
自分の知恵やこの世の知識は、信仰に何の役にも立ちません。これら全てを捨てて、素直な謙った心で、真の神様を求め祈るべきです。神様のお約束はサラに対するように、すぐには果たされなくとも、絶えず祈る謙遜な心に「女よあなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)と、神様はお約束を成就して下さいます。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
われらの主の母
マリヤ(Ⅱ)
わたしたちは、ルカによる福音書1章によって、イエス様の母マリヤについて考えました。そしてわたしたちは、マリヤの謙遜と彼女の神への服従を強く教えられてまいりましたが、さらに彼女について学びたいと思います。
マリヤと彼女の夫は、ナザレから遠く離れた南のベツレヘムまで、戸籍登録のために長い旅をしていました(ルカ2:1以下)。この旅は臨月であるマリヤにとっては、実に無理であり、困難なものであったと思います。けれども、皇帝カイザルの命令でどうしても、彼女は自分の先祖の地、ダビデの町のベツレヘムへ行かなければならなかったのです。
さて不思議な神のみ摂理で、彼らがベツレヘムにいるあいだに、マリヤは月が満ちて、イエス様を生みました。神のひとり子が、宿屋に部屋が無かったとはいえ、こともあろうに、むさ苦しい馬小屋でお生まれになったこと、また、イエス様の最初のベッドが、飼い葉桶であったことなどを考えます時、わたしたちは神の御心の計り知れない深さを、強く教えられるのであります。余りにもこの世のことに捕らわれているわたしたちの心も、神のひとり子がこのような環境にお生まれになったことを考えます時、神様の本当の御心がわかるような気がいたします。
しかし、イエス様のお誕生の夜の中心問題は、イエス様のお生まれになった環境の良し悪しではなく、天の使いの歌ったように、救い主の誕生であります(ルカ2:11)。その夜、エルサレムの郊外で羊の群を守って寝もやらず、夜露に打たれて野宿していた羊飼いたちがおりました。羊飼いたちは、天使の歌う歌を聞き、急いでベツレヘムに行きました。彼らは馬小屋で、マリヤとヨセフを尋ね当て、飼い葉桶に眠っている幼児のイエス様を見つけ、心からイエス様を拝みました。そして、天使がこの幼児について自分たちに告げてくれたことを、彼らは詳しく、人々に語り伝えたのであります。この態度は、わたしたちクリスチャンの見習うべきことで、わたしたちは救い主のご来臨のこの善き音ずれ(福音)を、多くの人々に伝える大切な使命を与えられているのです。
羊飼いたちの話を聞いたマリヤの気持ちは、どんなものであったでしょうか。ことの不思議さと喜びで、彼女の心はいっぱいであったでしょう。聖書には、マリヤがこれからのことをことごとく、心に留めて思い巡らしたとあります。その後のマリヤのことについて、聖書に15回彼女の名前が出てきます。今、そのうちの1、2を挙げてみましょう。
1 ルカによる福音書2章41~54節です。イエス様が12歳の時の話しです。イエス様は両親にともなわれ、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに上って行かれました。祭りが終わって両親はイエス様も一緒にいるものと思いましたが、実は、イエス様はエルサレムの宮に居残っておられることに気付かず、ナザレへの家路を急いでおりました。彼らは夕方近くになって、イエス様が自分たちのグループの一団の内にいない、見当たらないことに気付きました。ヨセフとマリヤは驚いて、探しながら都エルサレムへと引き返しました。そして3日目に、彼らは、イエス様が宮の中で教師や学者に囲まれ、彼らの話を聞いたり、また彼らに質問したりしておられるのを見つけたのです。
マリヤはイエス様に、「どうしてこんなことをしてくれたのです。お父さんもわたしも心配して、あなたを探していたのですよ」と叱るかのように言いました。するとイエス様は、「どうしてわたしをお探しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存知なかったのですか・・・」。と答えられました。イエス様が、自分は神のひとり子であることを、初めて明らかにされたのですが、両親はそのことを悟ることが出来ませんでした」(ルカ2:50)。
2 使徒行伝1章14節をみますと、マリヤとイエス様の弟子たちが、初代キリスト教会の人々と一緒にひたすら祈りをしています。初めてイエス様が神の子であることを語られても信じることが出来ず、イエス様の伝道の門出をさえ思いとどめさせようとした彼らです。しかし後は、このようにイエス様をメシヤ(救い主)と信じるようになりました。このことによって、マリヤもクリスチャンとなったことがわかります。
初 代教会の使徒たちで、マリヤの名を説教に取り入れ、彼女の偉大さだとか、奇跡的能力を持っていたなどと伝えた人は、一人もありません。有名な使徒パウロも、マリヤの名を一度も使っていません。このように申しましたからといって、わたしは決して、イエス様の母マリヤを軽視する考えではありません。ただローマ・カトリック教会や、ギリシャ正教会、また一般社会が彼女に対してとっているようなマリヤをキリストと同格に扱ったり、それ以上に見ることが非常に誤っていて、そのようなことは聖書に基づいていないことを指摘したいだけであります。
マリヤも、わたしたち世の人間と同じように悩みもし、いろいろな苦しみを味わい、人生を過ごした婦人です。彼女には深いキリストの教えが分からなかったかも知れません。しかしやがては彼女も召されて、イエス様が真の神であることを信じ、主のみ足跡に従って、自分に定められた苦き杯を、何の不服も言わずに受けました。わたしたちも、彼女のように素直な信仰に導かれたいものであります。
『旧・新約婦人物語』(3)
マリヤ(Ⅰ)
おとめマリヤは全世界に一番よく知られているクリスチャン婦人です。しかし残念に思いますことは、マリヤについて多くの人々に知られていること、また信じられているところ、それは聖書に基づいておらず、おもに迷信であって、わたしたちはよく気を付けて、主の母マリヤのことを研究しなければ、いろいろと間違った考えに陥る危険があります。
ルカによる福音書1章26節以下に、マリヤのことが記されています。わたしたちがここで教えられることは、
1 彼女の生まれはガリラヤのナザレであること。
2 彼女はダビデの家のヨセフと言う人と婚約の間柄であったこと。
3 神の不思議な摂理によって、彼女はすべてのユダヤの婦人の内から、主イエス・キリストの母として神に選ばれたこと。
4 神がこの喜びの知らせを天使ガブリエルをお遣わしになって、彼女にお知らせになりました。その時、マリヤはひどく驚き胸騒ぎしましたが、この知らせを信じ、主のはしためとして、聖霊の不思議なお力でみごもっている子の生まれるのを待ち望んだこと。
これらの事柄を考えて見ますと、マリヤ自身は完全なものであったとは、聖書には書いてありません。何の罪もなく、清いおとめであったから、イエス様の母として選ばれたとは言えません。またマリヤ自身の善い行いの報いとして、イエス様の母となれたとも記されてもいません。ただただ神の不思議なお恵みによって、イエス様の母として選ばれたのです。
ガブリエルの言った言葉、「恵まれた女よ、おめでとう・・・」(28)をよく味わって下さい。この本当の意味は、わたしが申しました意味と同じだと思います。マリヤは実に世の婦人の内、最も恵まれた女性です。神のひとり子を暫くの間でも、自分のお腹に宿し、イエス様が赤ん坊の時から彼女は「お母さん」と呼ばれ、あの十字架の最後の時まで、彼女を母として愛したのです。
しかし、主イエス・キリストの母としての尊い務めを果たすその喜びも大きかったでしょうが、反面、その責任の重さと、神への犠牲の大きさも、わたしたちの想像も及ばないものがあったと存じます。
このところで皆様に考えていただきたいことは、マリヤの特徴はどこにあったかということです。
1 彼女の謙遜であります。彼女は自分をいやしくし、「わたしは主のはしためです」(38)と答えております。彼女には別に人目をひくような能力も、世の人が考えているような清さもない、小さな片田舎のおとめにしか過ぎなかったのです。
2 この謙遜なおとめが、喜んで神のお言葉を聞き、それを信じて服従した時、彼女は全世界の婦人の内で、一番恵まれた者となったのです。
しかし、謙遜だけでは足りないと思います。たとえいかなる犠牲を払っても、わたしたちは勇気を持って神に服従して行かなければなりません。マリヤの場合、服従はかえってやさしいことで、彼女の妊娠に対する村の人たちの誤解と非難はどんなであったでしょう。夫のヨセフでさえも一時は、彼女を離婚しようとしたほどです。わたしたちは、マリヤのこの謙遜と神への服従に、彼女の涙の苦闘があったことを忘れてはなりません。
どこまでも神に従って行くことの難しさが、つくづくと感じさせられます。
「兄弟たちよだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである」(Ⅱペテロ1:10~11)。
わたしたちは皆選ばれた者です。選ばれた者として、神から命じられた使命があるはずです。その使命が大であれ、小であれ、わたしたちは懸命に果たすべき責任があります。あなたは今、選ばれた者として、神よりの務めをどのように果たしておられるでしょうか。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
『旧・新約婦人物語』(2)
バプテスマのヨハネの母
「エリサベツ」
(ルカによる福音書1:5~44)
新約聖書で真っ先に出てくる婦人は、祭司ザカリヤの妻エリサベツです。ルカによる福音書1章5節以下をお読みになった方は、エリサベツのことや、イエス様の母マリヤとの会話などが絵のように、また詩のように美しく描き出されていることに、お気づきと思います。
エリサベツは祭司の娘で、祭司ザカリヤと結婚しました。残念なことには、二人の間には子供は恵まれませんでした。そのような悩みの内にも、この夫婦は正しい人で、神の戒めと定めとを何の落ち度もなく守って、信仰生活を続けていました。ところで彼らの住いはエルサレムの南、ユダの山里である、ある小さい町でした。
彼らが年老いてからのある年のこと、ザカリヤの組が祭司の務めの当番に当り、彼は喜んでエルサレムの宮に出かけました。祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、ザカリヤが一人聖所に入って香をたくことになりました。祭司として、一生に一度あるかないかのことで、彼の生涯のクライマックスになることでした。年取ったザカリヤが主の聖所で香をたき、静に祈っておりました。一方、多くの民衆は外で祈りを捧げていました。その時、主の使いがザカリヤに現われ「あなたの祈りが聞きいれられたのだ、あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい・・・。彼は主のみまえに大いなる者となり、・・・イスラエルの多くの子らを主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう」(13、15、16)と語りました。
ザカリヤは余りのことに恐れおののき、み使いの言葉を素直に信ずることは出来ませんでした。するとみ使いは「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは、このことの起こる日までものがいえなくなる」(20)と告げられました。ザカリヤは務めの期日が終わり、ものがいえないまま家に帰りました。彼を迎えた妻のエリサベツは、どんなに驚き悲しんだことでしょう。
しかし、エリサベツは夫が書き板に天使の言葉を書き示した時、そこに約束された預言をすべてそのまま信じ、神の大きな恵みに感激して自分の子供の生まれる日を喜び待ったのであります。彼女が身ごもって6ヶ月目のある日、親戚のマリヤというおとめが、はるばる遠いナザレから彼女を尋ねてやってまいりました。
マリヤがエリサベツに話したところによりますと、数日前のこと天使ガブリエルが神の使いとしてマリヤに現われ「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を生むでしょう。その名をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に、父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」(30~33)と告げたのです。
マリヤはこの言葉を聞いてひどく驚きました。「生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています」(35~36)という天使の言葉を聞き、マリヤは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」(38)と、信仰をもって答えました。そして彼女は大急ぎでエリサベツを尋ねたのだと語りました。
マリヤのこの挨拶を聞いたとき、エリサベツは自分のおなかに宿っている子がおどるのを感じました。そして聖霊に満たされて、彼女は「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところに来てくださるとは、なんという光栄でしょう」(42~43)と、声高く叫んだと、聖書は記しています。
ここにエリサベツの信仰生活の本当の偉さがあります。まだイエスがお生まれになっていない時から、イエスを預言し、マリヤの生む子をユダヤ人の久しく待ち望んだメシヤ、すなわち救い主であると深く信じたのです。これは聖霊のお導きがあったことはいうまでもありませんが、エリサベツが神の戒めと定めとを固く守っていた婦人として、この預言は真にふさわしいものでした。これこそ信仰の素晴らしい華ではありませんか。
ここで、あなたにしっかり学び取っていただきたいことは、ただ一つ、それは37節の「神には、なんでもできないことはありません」とのみ言葉です。神は全能のお方であって、何でもお出来になるのです。あなたもこの真理を深く信じて下さって、エリサベツの持ったこの信仰の上に、あなたの生活を築いていただきたいものでございます。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
『旧・新約婦人物語』(1)
「すべての人間の母エバ」
創世記2章
旧約聖書に登場してきますいろいろな人物の中から、主な婦人たちについて、考えつつ学びたいと思います。この研究によって、少しでも、お互いの信仰が強められ、励ましとなれば幸いです。
さて、この研究で第一番に取り上げられる婦人はもちろん聖書の一番初めに現われてまいりますエバであることは、言うまでもないことです。では、エバはどういう婦人だったのでしょうか。どこに住んでいたのでしょうか。親は一体誰であったのでしょうか。
ご記憶下さい。エバには私たちの両親のような親はなかったのです。彼女には赤ん坊の時も、少女時代もなく、エバは神によってアダムの次に、大人として完全な人として、この世に造り出されたのでした。これは神様の聖なるみ業の一つでした。創世記2章20節と23節を見ますと、「そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠ったときに、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへつれてこられた。そのとき、人は言った。『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう』・・・」。
この創造の順序が非常に大切です。神が第一にアダムを造り、その後にアダムの助け手として、エバをお造りになったのです。パウロもテモテへの第一の手紙2章で「アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した」と同じことを言っています。ここで2、3のことについて学びましょう。
第一は、この20、21世紀におきまして、男女同権ということがやかましく叫ばれ、女の人も男の人と同様、権利・義務を持つべきだといわれて言われてきました。ここで私たちは聖書の与えている教訓を静かに考えねばならないと思います。男は男らしく、自分に任された範囲において、自分の責任と義務を果たさねばなりませんし、女は女らしく自分に与えられた範囲において、女としての義務と責任を果たすのが一番理想です。
第二は、皆さんもご承知の通り、このアダムとエバの二人が住んでいましたのは、エデンの園でした(創世記2:8)。この園はペルシャ湾の北西に当る美しい谷と川のあったところだと言われています。創世記2章14節を見ますと、2つの川の名が出てまいります。ヒデケルは現在のチグリス河であり、ユフラスはそのまま今もユーフラテス河と呼ばれています。それでエデンの園は、この2つの河の流域であったと思われます。
神様はアダム、エバの二人にこの園を治め、守らせになりました(2:15)。また神様は、彼らが何不自由なく住めるように、すべてを備えられました。彼らはエデンの園で自由に生活することができましたが、ただ一つの条件として、園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはいけないということでした。彼らは自由を与えられ、恵まれた境遇におかれていました。しかし彼らは自由を濫用し、神の戒めに背いて、「食うべからず」と命じられています木の実を悪いことと知りつつ、悪魔に誘われて先ずエバが食べ、アダムもついで食べたのです。
この悪と知りつつ犯した罪の報いを、彼らは免れる術はありません。彼らは犯した罪のために、エデンの園より追放されました。神から離れた彼らは、死ぬまで額に汗して日々の糧を得なければなりませんでした。しかも地は神の呪いのために、あざみと茨が生じたとあります。その上、女は生涯苦しんで子供を生まなければならなくなりました。「罪の支払う報酬は死である」とある通り、恐ろしいことです。
第三は、この恐ろしい悲惨な希望のない状態のうちにも、ただ一つの望みが彼らにありました。それは暗闇の灯とでも言いましょうか、暗い部屋に細い一本のローソクが燃えているような、かすかな望みでした。この希望というのは創世記3章15節に記されています。
「・・・彼はおまえのかしらを砕き・・・」という神様のお言葉です。いつかエバの子孫から悪魔の頭を砕く力のある者が出て、彼らを罪の苦しみより救うと言う神様のお約束です。きっとエバはその日を待ち望んだことでしょう。その内にカインが生まれました。エバはこの子こそサタンの頭を砕くものと思い「わたしは主によって、ひとりの人を得た」と喜びました。しかしそれは虚しい喜びでした。カインは自分の弟を殺すような大罪を犯してしまいました。
このサタンの頭を砕き、悪魔を征服して下さる救い主を待ち望む思いは、彼らの子孫によって永く受け継がれてきましたが、ついに、今から二千年程昔、ベツレヘムの馬小屋に生まれたもうたキリスト・イエスによって、そのお約束が成就されたのです。
このアダムとエバの罪(原罪)のために、永遠の命を失い、神の国への道をふさがれてしまいました。私たちはキリストの十字架の死による贖いによって、永遠の命を得ることができ、再び神に帰り、失われていた神との交わりを回復し、神の国に入ることが出来るのです。
ヨハネによる福音書10章10節には「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」とあります。愛する読者の皆様はどうですか、この命の道をしっかりお歩きになっていますか。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
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書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円