2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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キリスト者の生活綱要 (37・最終回)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第5章 この世の生の正しい用い方
5 欠乏のなかで忍耐ぶかく、足ることを知ろう
1 もう一つの原則は、貧しい人々が、欠乏の中で忍耐を学び、富への思いによって悩まされないように、ということである。この節度を守る者は、主の学校で少なからぬ進歩をし、この進歩の見られない者は、キリストの弟子としての証しが殆んど出来ない。
2 地上の物に対する情熱は、他の殆んど全ての悪徳を伴うばかりでなく、貧困の時に忍耐の足りぬ者は、豊な状態になると、その反対の悪徳を現わすのが普通である。つまり、みすぼらしい服装を恥じる者は、華美な服装を誇るということである。つつましい食事で満足しない者は、美食を望んで心安まらず、何か機会があるや否や、暴食にさえ陥ってしまう。
窮乏と貧困を不安と不満で我慢している人は、ひとたび名誉への道を走ると、横柄と尊大とを防ぐことが出来ないであろう。
それで、信仰生活において真実でありたいと願う者は皆、「飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも」処し得るように、熱心に使徒を手本に習うように努めよう。ピリピ4:12
3 聖書はまた、地上の物の使用を制限する第三の原則について語っている。この点は自己否定の教えを述べた時に記されている。
これら地上の物はすべて神の好意によって、われわれに与えられ、われわれの利益のためのものであるが、それらは同時に、われわれに任された預金のようなものであって、それらに対して、何時の日にか、われわれは勘定の説明をしなければならないのである。そのため、われわれは「あなたの会計報告を出しなさい」という警告を、間断なく聞いているように、それらを取り扱わなければならない。
4 さらに、誰がこれを命じておられるかも忘れないようにしよう。その方は、自制と謹厳と倹約と節度とを非常に強く勧められる。その方は、奢偧や放漫や、みせびらかしや虚飾を非常に嫌われる。その方は、愛による以外に、われわれが神の祝福を取り扱うことを認めようとされない。その方は、われわれを貞節や純潔から導き出し、愚か者にしてしまうような、すべての快楽を咎められる。
ピリピ4:12、ルカ16:2
6 神の召しに忠実であれ
1 最後に、主は、われわれ一人びとりが、生涯の全ての行動において、召命に忠実であるように命じておられることに注意すべきである。主は、人間の心が、落ち着きなくあちらこちらと迷い、多くのものを一時に握りしめようという、飽くことを知らぬ野望のあることを知っておられるからである。そのため主は、われわれの愚鈍と奔放とから、生み出されるそうした混乱を防ぐために、それぞれ人に異なった領域で特別な義務を果たすようにされた。
それで、だれも自分の限界を無謀に超えてしまうことのないように、主は、そのような人生の諸領域を「召命」と呼ばれた。したがって各自の領域は、彼が生涯不確かに歩きまわらないように、主によってその人に与えられた立場である。
この区別は非常に重要で、われわれの全行動は、主の眼からは、この召命によって量られ、しばしば人間的な理性や哲学の判断とは非常に異なったものとなる。
2 哲学者の中でさえ、自分の国を圧制政治から解放するのは、最大の英雄であると言う。しかし、天の審判者の声は、暴君を殺す個人を明白に罪と定める。実例を枚挙することは、われわれの範囲ではないが、市民としての行動で、何が正しい行為かという原理と基準は、主の召命が何かということを知るだけで十分としよう。
主の召命を軽視する者は、自分の仕事の義務を果たす点で、決して正しい道を歩み続けることができない。時には、彰讃に価するように見える何らかの行為に成功するかもしれない。しかしながら、人の目にはそれがどんなに良く見えても、主の王座の前には受け入れられない。なおその上、その人の生活の各部分には統一性がないであろう。
3 したがって、われわれのこの世の生は、常に召命感を心に持つことによって、最も良く統制される。そうすれば、自分の限界を越えることは悪であることを知るから、だれも、召命と矛盾することを敢えて企てるような、無謀をしてみたいと思わなくなる。最前列にいない者は、自己の任務を果たすことで満足し、主が配置してくださった場所から逃げ出すべきではない。
心配や労苦、災難やその他の重荷の中にある時、これら全ての点で、主gの導き手であられることを知ることは、決して小さな慰めではない。あ そこで為政者は、いっそう快く自分の職務を遂行していくであろう。一家の父は、一層勇気を持って、自分の義務を果たすであろう。そして各人は、その肩の上に置かれた任務を、神によるものと確信する時、だれもかれも、それぞれの生の領域で、いっそう忍耐を示し、人生における困難や気苦労、悲惨や心配事に打ち勝つのである。
もしわれわれが、神の召命に従うなら、神の前に真に尊ばれず、たいして重要でない卑賤な職業などと言うものは存在しない、というこのユニークな慰めを受けるであろう。(神の御前で!コラム・デオ)。
創世記1:28、コロサイ1:1以下。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第5章 この世の生の正しい用い方
5 欠乏のなかで忍耐ぶかく、足ることを知ろう
1 もう一つの原則は、貧しい人々が、欠乏の中で忍耐を学び、富への思いによって悩まされないように、ということである。この節度を守る者は、主の学校で少なからぬ進歩をし、この進歩の見られない者は、キリストの弟子としての証しが殆んど出来ない。
2 地上の物に対する情熱は、他の殆んど全ての悪徳を伴うばかりでなく、貧困の時に忍耐の足りぬ者は、豊な状態になると、その反対の悪徳を現わすのが普通である。つまり、みすぼらしい服装を恥じる者は、華美な服装を誇るということである。つつましい食事で満足しない者は、美食を望んで心安まらず、何か機会があるや否や、暴食にさえ陥ってしまう。
窮乏と貧困を不安と不満で我慢している人は、ひとたび名誉への道を走ると、横柄と尊大とを防ぐことが出来ないであろう。
それで、信仰生活において真実でありたいと願う者は皆、「飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも」処し得るように、熱心に使徒を手本に習うように努めよう。ピリピ4:12
3 聖書はまた、地上の物の使用を制限する第三の原則について語っている。この点は自己否定の教えを述べた時に記されている。
これら地上の物はすべて神の好意によって、われわれに与えられ、われわれの利益のためのものであるが、それらは同時に、われわれに任された預金のようなものであって、それらに対して、何時の日にか、われわれは勘定の説明をしなければならないのである。そのため、われわれは「あなたの会計報告を出しなさい」という警告を、間断なく聞いているように、それらを取り扱わなければならない。
4 さらに、誰がこれを命じておられるかも忘れないようにしよう。その方は、自制と謹厳と倹約と節度とを非常に強く勧められる。その方は、奢偧や放漫や、みせびらかしや虚飾を非常に嫌われる。その方は、愛による以外に、われわれが神の祝福を取り扱うことを認めようとされない。その方は、われわれを貞節や純潔から導き出し、愚か者にしてしまうような、すべての快楽を咎められる。
ピリピ4:12、ルカ16:2
6 神の召しに忠実であれ
1 最後に、主は、われわれ一人びとりが、生涯の全ての行動において、召命に忠実であるように命じておられることに注意すべきである。主は、人間の心が、落ち着きなくあちらこちらと迷い、多くのものを一時に握りしめようという、飽くことを知らぬ野望のあることを知っておられるからである。そのため主は、われわれの愚鈍と奔放とから、生み出されるそうした混乱を防ぐために、それぞれ人に異なった領域で特別な義務を果たすようにされた。
それで、だれも自分の限界を無謀に超えてしまうことのないように、主は、そのような人生の諸領域を「召命」と呼ばれた。したがって各自の領域は、彼が生涯不確かに歩きまわらないように、主によってその人に与えられた立場である。
この区別は非常に重要で、われわれの全行動は、主の眼からは、この召命によって量られ、しばしば人間的な理性や哲学の判断とは非常に異なったものとなる。
2 哲学者の中でさえ、自分の国を圧制政治から解放するのは、最大の英雄であると言う。しかし、天の審判者の声は、暴君を殺す個人を明白に罪と定める。実例を枚挙することは、われわれの範囲ではないが、市民としての行動で、何が正しい行為かという原理と基準は、主の召命が何かということを知るだけで十分としよう。
主の召命を軽視する者は、自分の仕事の義務を果たす点で、決して正しい道を歩み続けることができない。時には、彰讃に価するように見える何らかの行為に成功するかもしれない。しかしながら、人の目にはそれがどんなに良く見えても、主の王座の前には受け入れられない。なおその上、その人の生活の各部分には統一性がないであろう。
3 したがって、われわれのこの世の生は、常に召命感を心に持つことによって、最も良く統制される。そうすれば、自分の限界を越えることは悪であることを知るから、だれも、召命と矛盾することを敢えて企てるような、無謀をしてみたいと思わなくなる。最前列にいない者は、自己の任務を果たすことで満足し、主が配置してくださった場所から逃げ出すべきではない。
心配や労苦、災難やその他の重荷の中にある時、これら全ての点で、主gの導き手であられることを知ることは、決して小さな慰めではない。あ そこで為政者は、いっそう快く自分の職務を遂行していくであろう。一家の父は、一層勇気を持って、自分の義務を果たすであろう。そして各人は、その肩の上に置かれた任務を、神によるものと確信する時、だれもかれも、それぞれの生の領域で、いっそう忍耐を示し、人生における困難や気苦労、悲惨や心配事に打ち勝つのである。
もしわれわれが、神の召命に従うなら、神の前に真に尊ばれず、たいして重要でない卑賤な職業などと言うものは存在しない、というこのユニークな慰めを受けるであろう。(神の御前で!コラム・デオ)。
創世記1:28、コロサイ1:1以下。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
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キリスト者の生活綱要 (36)
ジャン・カルヴァン
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第5章 この世の生の正しい用い方
3 まことの感謝は、濫用からわれわれを守る
1 したがって、絶対的に必要でない限り、被造物の使用をまったく許さないという非人間的な哲学を、投げ捨ててしまおう。そういう悪い考えは、神の好意を正当に喜ぶことを、われわれから奪ってしまう。そして、そのような考えを実際に受け入れることは、われわれから全ての関係を剥ぎ取り、無感覚な木や石にしてしまわない限り、不可能である。
他方、われわれは、全く同じ熱意をもって、肉欲と戦わなければならない。なぜなら、非常に厳しく制限されないと、肉欲はあらゆる枠を越えようとするからである。すでに見てきたように、放蕩にはその擁護者がいる。自由という口実の元に、全てのことを許容するものがいる。
2 何よりもまず、われわれの情熱を拘束しようと思うなら、全ての物は、その造り主を知り、感謝する目的で造られたということを、まず思い起こすべきである。地上の物に見られる主のご好意を、われわれは感謝をもって讃えるべきである。
しかし、もし美味や酒に酔いしれて、祈りや仕事の義務を遂行できないほど怠惰に成っているなら、われわれの感謝はどうなるであろう。もし肉体の放縦が、われわれを卑しい情熱に駆り立て、不浄に心を染ませ、もはや善と悪との判断も失わせるなら、神への感謝はどこにあるだろう。もし自分の贅沢な服装のゆえ、他人を見下げ、自分自身に見とれているなら、着物のことで神に感謝するその感謝は、どこにあるだろう。
もしわれわれが不貞のために、着物の上品さや美しさで飾るなら、神への感謝はどこにあるのだろう。服装のきらびやかさに、われわれの思いがとどめられるなら、神への感謝はどこにあるのだろうか。
3 多くの人々が、熱狂的に快楽を求め、自分の心を奴隷にしてしまっている。多くの人が大理石や黄金や絵画を喜んでいて、自分たちがあたかも立像になったかのようである。彼らは、言わば金属に変り、描かれた偶像に似てくる。肉の味や匂いの甘さは、ある人々を霊的なことにはどんな関心も持たないような愚かな者にしてしまう。このことは、その他のあらゆる自然物の濫用にもみられることである。
したがって、この感謝という原則が、神の祝福を濫用する欲望を明らかに抑制する。この原則は、パウロの「肉の欲を満たすことに心を向けるな」という法則の裏付けとなる。なぜなら、われわれが生まれつき持っている欲望の手綱を自由にしてしまうと、その欲望は、節度の中庸の垣をすべて越えてしまうからである。
ローマ13:14
4 節度をもって生活しよう
1 しかし、われわれの目をこの世の生から離して、天での不死を思うにまさって、(感謝に至る)確実で近い道は他にない。
このことから、二つの一般原則が出てくる。
第一は、パウロの教えによるもので、「妻のある者はないもののよう、買う者はもたない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りないようにすべきである」というものである。
その第二は、われわれが、貧困を静に忍耐深く担い、富を節度をもって楽しむことが出来るようになることである。
2 この世を用いるには、あたかもそれを用いないかのようにせよ、とわれわれに命じた使徒は、単に飲み食いにおけるあらゆる不節制や、家具や家族や服装における過度の快楽、野心、自慢、より好みを禁じるばかりでなく、われわれの霊的水準を引き下げ、祈りを破壊するような、あらゆる心づかいと情欲とを禁じている。
このことは、肉体の外見については多くの関心があるのに、徳と言われるものには大変無関心である、と昔、使徒によっていみじくも喝破された。また、古い格言に、身体に深い注意を払う者は、一般に精神をなおざりにする、と言うのがある。
3 したがって、外的な物に対する信者の自由は、非常に厳格な規律では制限されないとは言っても、その自由は、溺れることができるほど多くあってはならぬというルールに従うべきことは確かである。これと反対に、われわれは、すべて余分に所有することを避け、贅沢の虚しい見せかけをしないよう、常に断固として努力すべきである。
神がわれわれの生活を豊にするために与えてくださった物が、躓きの石とならぬよう、常に、熱心に警戒すべきである。
Ⅱコリント7:29~31
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第5章 この世の生の正しい用い方
3 まことの感謝は、濫用からわれわれを守る
1 したがって、絶対的に必要でない限り、被造物の使用をまったく許さないという非人間的な哲学を、投げ捨ててしまおう。そういう悪い考えは、神の好意を正当に喜ぶことを、われわれから奪ってしまう。そして、そのような考えを実際に受け入れることは、われわれから全ての関係を剥ぎ取り、無感覚な木や石にしてしまわない限り、不可能である。
他方、われわれは、全く同じ熱意をもって、肉欲と戦わなければならない。なぜなら、非常に厳しく制限されないと、肉欲はあらゆる枠を越えようとするからである。すでに見てきたように、放蕩にはその擁護者がいる。自由という口実の元に、全てのことを許容するものがいる。
2 何よりもまず、われわれの情熱を拘束しようと思うなら、全ての物は、その造り主を知り、感謝する目的で造られたということを、まず思い起こすべきである。地上の物に見られる主のご好意を、われわれは感謝をもって讃えるべきである。
しかし、もし美味や酒に酔いしれて、祈りや仕事の義務を遂行できないほど怠惰に成っているなら、われわれの感謝はどうなるであろう。もし肉体の放縦が、われわれを卑しい情熱に駆り立て、不浄に心を染ませ、もはや善と悪との判断も失わせるなら、神への感謝はどこにあるだろう。もし自分の贅沢な服装のゆえ、他人を見下げ、自分自身に見とれているなら、着物のことで神に感謝するその感謝は、どこにあるだろう。
もしわれわれが不貞のために、着物の上品さや美しさで飾るなら、神への感謝はどこにあるのだろう。服装のきらびやかさに、われわれの思いがとどめられるなら、神への感謝はどこにあるのだろうか。
3 多くの人々が、熱狂的に快楽を求め、自分の心を奴隷にしてしまっている。多くの人が大理石や黄金や絵画を喜んでいて、自分たちがあたかも立像になったかのようである。彼らは、言わば金属に変り、描かれた偶像に似てくる。肉の味や匂いの甘さは、ある人々を霊的なことにはどんな関心も持たないような愚かな者にしてしまう。このことは、その他のあらゆる自然物の濫用にもみられることである。
したがって、この感謝という原則が、神の祝福を濫用する欲望を明らかに抑制する。この原則は、パウロの「肉の欲を満たすことに心を向けるな」という法則の裏付けとなる。なぜなら、われわれが生まれつき持っている欲望の手綱を自由にしてしまうと、その欲望は、節度の中庸の垣をすべて越えてしまうからである。
ローマ13:14
4 節度をもって生活しよう
1 しかし、われわれの目をこの世の生から離して、天での不死を思うにまさって、(感謝に至る)確実で近い道は他にない。
このことから、二つの一般原則が出てくる。
第一は、パウロの教えによるもので、「妻のある者はないもののよう、買う者はもたない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りないようにすべきである」というものである。
その第二は、われわれが、貧困を静に忍耐深く担い、富を節度をもって楽しむことが出来るようになることである。
2 この世を用いるには、あたかもそれを用いないかのようにせよ、とわれわれに命じた使徒は、単に飲み食いにおけるあらゆる不節制や、家具や家族や服装における過度の快楽、野心、自慢、より好みを禁じるばかりでなく、われわれの霊的水準を引き下げ、祈りを破壊するような、あらゆる心づかいと情欲とを禁じている。
このことは、肉体の外見については多くの関心があるのに、徳と言われるものには大変無関心である、と昔、使徒によっていみじくも喝破された。また、古い格言に、身体に深い注意を払う者は、一般に精神をなおざりにする、と言うのがある。
3 したがって、外的な物に対する信者の自由は、非常に厳格な規律では制限されないとは言っても、その自由は、溺れることができるほど多くあってはならぬというルールに従うべきことは確かである。これと反対に、われわれは、すべて余分に所有することを避け、贅沢の虚しい見せかけをしないよう、常に断固として努力すべきである。
神がわれわれの生活を豊にするために与えてくださった物が、躓きの石とならぬよう、常に、熱心に警戒すべきである。
Ⅱコリント7:29~31
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリiスト者の生活綱要 (35)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第5章 この世の生の正しい用い方
1 極端を避けよう
1 聖書はわれわれに、天を終着地として指し示すと同様に、地のもろもろの祝福を正しく用いることも十分に教えている。これは生活の規範を問題にするとき、見落としてはならない点である。
われわれが生きるには、生活に必要な手段を用いなければならないからである。必要というよりもむしろ楽しみに役立つ物を避けることさえ出来ないのである。しかし、きよい良心からそれらを用いるためには、必要のためであろうと、楽しみのためであろうと、節度を守るべきである。
2 主が弟子たちに、この世で生きることは天国に向けて旅をし続けている巡礼のようなものであると教えられた時、み言葉の中でこのことを語っておられる。この地上が単に旅の入口に過ぎないとしても、われわれの旅が遅らされるよりも前進させられるように、もちろん地上の祝福を用いるべきである。
それでパウロが、この世をあたかも用いていないように用い、所有物を売る時と同じ心で買うように、忠告しているのは理由のないことではない。
3 しかし、これは論議の余地のある問題であり、二つの相反する過ちに陥る危険性があるので、安全地帯を進み、両極端を避けるようにつとめよう。というのは、他の点では善良できよい人でありながら、放縦と奢侈の点になると極めて厳しく制約されないと、あらゆる肉的拘束を投げ捨ててしまうような人々がいるからである。
彼らは、そうした有害な悪を矯正したいと思って、自分たちが適当と思う唯一の方法を採った。それは、ただどうしても必要である時だけ、地上の祝福を用いることを許容したのである。
このやり方は意図としては良いが、極度に厳格すぎる。というのは、彼らは、主のみ言葉において設定されているよりも厳しい規則を、他人の良心に負わせるという、非常に危険な過ちを犯したからである。必要という枠の中に人々を閉じ込めてしまって、どんなものに対しても禁欲を押し付けることになってしまった。
彼らによれば、乾いたパンと水以外の物を食い飲みすることは、ほとんど許されないのである。テーベのクレートのように、他の人々にはさらに厳しいことを求めた。そうしなければかえって自分がそれに滅ぼされるという恐怖から、自分の財産を海の中に投げ捨ててしまった、と彼について言われている。
4 その反対に、外的な物を過度に用いる口実を求め、肉の欲望にふけることを願っている者が、今日、大勢いる。そのような人々は、いかなる制限によっても、自由はまったく束縛されてはならないと思っている。しかし、このような考えに、われわれは決して同意できない。そのような人々は、自分にふさわしいと思う限り、自由を用いることが、各個人の良心に任せられるべきであるとわめいている。
5 他の人々の良心を非常に厳格な規律で縛ることは、正しくないし、また出来ないことを認めなければならない。しかし、聖書は、地上の物の正当な用い方について、ある一般的な原則を示しているので、われわれはそれに従うべきである。
Ⅰコリント7:30~31
2 地上の物は神の賜物である
1 先ず第一の原則として、われわれが考えなければならないことは、造り主御自身が造り定められたのと同じ目的に用いられている限り、神の賜物を用いることは、間違っていないということである。神は、地上の祝福をわれわれの利益のために造られたのであって、われわれの害のために造られたのではないからである。
したがって、忠実にこの目的に従う人が、正しい法則に最も従っていることになる。
2 例えば、なぜ神がいろいろな種類の食物を造られたかということを学べば、ただ単にわれわれの必要を満たすためだけでなく、同時に喜びや楽しみのためでもあることが分かってくる。着ることでも、神は、単にわれわれの必要ばかりでなく、礼節や体裁も心にとめてくださった。草、木、果実などについても、各方面に有用であるばかりでなく、神は、また美しい外観と快適な香りとして、人間を喜ばせようと企てられた。
そうでないならば、詩篇の詩人は、神の祝福の中に、「人の心を喜ばすぶどう酒、その顔をつややかにする油」というように、教えはしなかったであろう。また、聖書が至る所で、人間が神の好意を讃美するために、これらすべてのものを神から賜わったのであると宣言することはなかったろう。
3 事物の本来の性質ですら、どんな目的のために、またどんな限界まで、それを用いてかまわないか、そのことを示している。主は、われわれの視覚を花の美しさに、嗅覚をそのよい香りに、引きつけるではないか。それなら、それに見とれることは罪であろうか。主は、色彩を造ることさえなさって、あるものを他よりも美しくされたではないか。主は、金や銀や象牙や大理石に美しさを与えられ、他の金属や石よりも貴重なものとされたのではないか。
ひと言でいえば、われわれの主は、多くのものを必要からだけでなく、それ以上に、われわれの注目に価するものとして造られたのである。
詩篇104:15
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第5章 この世の生の正しい用い方
1 極端を避けよう
1 聖書はわれわれに、天を終着地として指し示すと同様に、地のもろもろの祝福を正しく用いることも十分に教えている。これは生活の規範を問題にするとき、見落としてはならない点である。
われわれが生きるには、生活に必要な手段を用いなければならないからである。必要というよりもむしろ楽しみに役立つ物を避けることさえ出来ないのである。しかし、きよい良心からそれらを用いるためには、必要のためであろうと、楽しみのためであろうと、節度を守るべきである。
2 主が弟子たちに、この世で生きることは天国に向けて旅をし続けている巡礼のようなものであると教えられた時、み言葉の中でこのことを語っておられる。この地上が単に旅の入口に過ぎないとしても、われわれの旅が遅らされるよりも前進させられるように、もちろん地上の祝福を用いるべきである。
それでパウロが、この世をあたかも用いていないように用い、所有物を売る時と同じ心で買うように、忠告しているのは理由のないことではない。
3 しかし、これは論議の余地のある問題であり、二つの相反する過ちに陥る危険性があるので、安全地帯を進み、両極端を避けるようにつとめよう。というのは、他の点では善良できよい人でありながら、放縦と奢侈の点になると極めて厳しく制約されないと、あらゆる肉的拘束を投げ捨ててしまうような人々がいるからである。
彼らは、そうした有害な悪を矯正したいと思って、自分たちが適当と思う唯一の方法を採った。それは、ただどうしても必要である時だけ、地上の祝福を用いることを許容したのである。
このやり方は意図としては良いが、極度に厳格すぎる。というのは、彼らは、主のみ言葉において設定されているよりも厳しい規則を、他人の良心に負わせるという、非常に危険な過ちを犯したからである。必要という枠の中に人々を閉じ込めてしまって、どんなものに対しても禁欲を押し付けることになってしまった。
彼らによれば、乾いたパンと水以外の物を食い飲みすることは、ほとんど許されないのである。テーベのクレートのように、他の人々にはさらに厳しいことを求めた。そうしなければかえって自分がそれに滅ぼされるという恐怖から、自分の財産を海の中に投げ捨ててしまった、と彼について言われている。
4 その反対に、外的な物を過度に用いる口実を求め、肉の欲望にふけることを願っている者が、今日、大勢いる。そのような人々は、いかなる制限によっても、自由はまったく束縛されてはならないと思っている。しかし、このような考えに、われわれは決して同意できない。そのような人々は、自分にふさわしいと思う限り、自由を用いることが、各個人の良心に任せられるべきであるとわめいている。
5 他の人々の良心を非常に厳格な規律で縛ることは、正しくないし、また出来ないことを認めなければならない。しかし、聖書は、地上の物の正当な用い方について、ある一般的な原則を示しているので、われわれはそれに従うべきである。
Ⅰコリント7:30~31
2 地上の物は神の賜物である
1 先ず第一の原則として、われわれが考えなければならないことは、造り主御自身が造り定められたのと同じ目的に用いられている限り、神の賜物を用いることは、間違っていないということである。神は、地上の祝福をわれわれの利益のために造られたのであって、われわれの害のために造られたのではないからである。
したがって、忠実にこの目的に従う人が、正しい法則に最も従っていることになる。
2 例えば、なぜ神がいろいろな種類の食物を造られたかということを学べば、ただ単にわれわれの必要を満たすためだけでなく、同時に喜びや楽しみのためでもあることが分かってくる。着ることでも、神は、単にわれわれの必要ばかりでなく、礼節や体裁も心にとめてくださった。草、木、果実などについても、各方面に有用であるばかりでなく、神は、また美しい外観と快適な香りとして、人間を喜ばせようと企てられた。
そうでないならば、詩篇の詩人は、神の祝福の中に、「人の心を喜ばすぶどう酒、その顔をつややかにする油」というように、教えはしなかったであろう。また、聖書が至る所で、人間が神の好意を讃美するために、これらすべてのものを神から賜わったのであると宣言することはなかったろう。
3 事物の本来の性質ですら、どんな目的のために、またどんな限界まで、それを用いてかまわないか、そのことを示している。主は、われわれの視覚を花の美しさに、嗅覚をそのよい香りに、引きつけるではないか。それなら、それに見とれることは罪であろうか。主は、色彩を造ることさえなさって、あるものを他よりも美しくされたではないか。主は、金や銀や象牙や大理石に美しさを与えられ、他の金属や石よりも貴重なものとされたのではないか。
ひと言でいえば、われわれの主は、多くのものを必要からだけでなく、それ以上に、われわれの注目に価するものとして造られたのである。
詩篇104:15
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリスト者の生活綱要 (34)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
6 主は栄光のうちに来られる、マラナタ
1 信者の群れ全体は、地上にあるかぎり、そのかしらであるキリストにますます似るために、事実、「ほふられる羊のよう」でなければならない。そのために、信者たちが思いを天に向け、過ぎ行くものを超えて、この世の地平線の彼方を見るのでなければ、彼らは、彼らの状態はまことに悲惨なものである。
2 不信仰な者たちがその富と栄誉を増し、彼らの言う心の平安を楽しむなら、そのままにさせておこう。彼らにその繁栄と奢侈とを誇らせ、喜ぶままにしておこう。彼らが、光の子らを自分たちの悪をもって悩まし、高慢をもって辱しめ、貪欲をもって奪い、まったくの無法で挑発したいなら、そうさせよう。
しかし、信者たちがこのような目に会うとき、彼らの目をこの世より上にあげさせよう。そうすればそのような災害の中でも、心の平安を保つのに困難なことはなかろう。主が、忠実なしもべたちを、主の平和の国に受け入れられる日を、信者たちが待ち望むからである。その時、主は彼らの眼の涙をことごとく拭い、喜びの衣をまとわせ、勝利の栄冠をもって飾り、限りない喜びをもって楽しませ、御自身の栄光にまで彼らを高め、御自身の幸福の共有者としてくださる。
3 しかし、この世で大きな者であった悪人は、恥の深い淵を嘆きながら落とされる。主は、彼らの喜びを苦痛に、笑いと歓喜を涙と歯がみに変えられる。主は、彼らの平安を、良心の恐ろしい呵責をもって乱される。主は、彼らをその不義とともに消えぬ炎の中に投げ込み、彼らは信者たちに服従する者となる。信者たちの忍耐を悪用したからである。
パウロによると、主イエスが天より現われる時、聖徒たちを苦しめた者たちに罰をもって報い、苦しめられた者たちに安息をもって報いるのは、神にとって正しいことだからである。
4 これがわれわれの唯一の慰めである。もしこのことがわれわれから奪われるなら、絶望の中に沈むか、この世の虚しい喜びで自らを慰めざるを得なくなるか、そのいずれかである。
詩篇の詩人ですら、この世の悪人たちの繁栄についていぶかった時、迷ったことを告白しているからである。彼は聖所に入り、義人と不義な者との最後を見とどけるまでは、平静を取り戻せなかった。
結局はこうである。キリスト者が、復活の力を見つめるために、その目を上にあげる時だけ、キリストの十字架が信者の心に、悪魔と肉、罪と悪に対して勝利を与えるのである。
ローマ8:36、Ⅰコリント15:19、イザヤ25:8、黙示録7:17、Ⅱテサロニケ1:6~7、詩篇73:2以下。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
6 主は栄光のうちに来られる、マラナタ
1 信者の群れ全体は、地上にあるかぎり、そのかしらであるキリストにますます似るために、事実、「ほふられる羊のよう」でなければならない。そのために、信者たちが思いを天に向け、過ぎ行くものを超えて、この世の地平線の彼方を見るのでなければ、彼らは、彼らの状態はまことに悲惨なものである。
2 不信仰な者たちがその富と栄誉を増し、彼らの言う心の平安を楽しむなら、そのままにさせておこう。彼らにその繁栄と奢侈とを誇らせ、喜ぶままにしておこう。彼らが、光の子らを自分たちの悪をもって悩まし、高慢をもって辱しめ、貪欲をもって奪い、まったくの無法で挑発したいなら、そうさせよう。
しかし、信者たちがこのような目に会うとき、彼らの目をこの世より上にあげさせよう。そうすればそのような災害の中でも、心の平安を保つのに困難なことはなかろう。主が、忠実なしもべたちを、主の平和の国に受け入れられる日を、信者たちが待ち望むからである。その時、主は彼らの眼の涙をことごとく拭い、喜びの衣をまとわせ、勝利の栄冠をもって飾り、限りない喜びをもって楽しませ、御自身の栄光にまで彼らを高め、御自身の幸福の共有者としてくださる。
3 しかし、この世で大きな者であった悪人は、恥の深い淵を嘆きながら落とされる。主は、彼らの喜びを苦痛に、笑いと歓喜を涙と歯がみに変えられる。主は、彼らの平安を、良心の恐ろしい呵責をもって乱される。主は、彼らをその不義とともに消えぬ炎の中に投げ込み、彼らは信者たちに服従する者となる。信者たちの忍耐を悪用したからである。
パウロによると、主イエスが天より現われる時、聖徒たちを苦しめた者たちに罰をもって報い、苦しめられた者たちに安息をもって報いるのは、神にとって正しいことだからである。
4 これがわれわれの唯一の慰めである。もしこのことがわれわれから奪われるなら、絶望の中に沈むか、この世の虚しい喜びで自らを慰めざるを得なくなるか、そのいずれかである。
詩篇の詩人ですら、この世の悪人たちの繁栄についていぶかった時、迷ったことを告白しているからである。彼は聖所に入り、義人と不義な者との最後を見とどけるまでは、平静を取り戻せなかった。
結局はこうである。キリスト者が、復活の力を見つめるために、その目を上にあげる時だけ、キリストの十字架が信者の心に、悪魔と肉、罪と悪に対して勝利を与えるのである。
ローマ8:36、Ⅰコリント15:19、イザヤ25:8、黙示録7:17、Ⅱテサロニケ1:6~7、詩篇73:2以下。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリスト者の生活綱要 (33)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
5 死を恐れず、頭を上げるべきである
1 キリスト者であると誇らしげに言う多くの者が、死を待ち望む代わりに、死の恐怖に満たされて、あたかも死が、彼らに起こりうる不幸であるかのように、死のことが言及されるたびに恐れ震えるのは、情けないことである。この世の生からの別離を告げるとき、生まれつきの感情が恐怖に陥るのは、不思議なことではない。
しかし、キリスト者の胸中に、あふれる慰めによって、すべての恐怖を抑えることができる光と信仰がなければ、耐え難いことである。もし、この不安で、腐敗し、死ぬべき、はかない、衰えていく肉体の幕屋が、その後、堅く完全で腐敗しない、天の栄光に回復されるために、解体されるのを考えるなら、われわれの信仰は、生まれつきの性質が恐れるものを、むしろ熱心に求め支えるのではなかろうか。
死によって、追放の状態から家庭へ、天の祖国へ呼び戻されることを思えば、われわれは慰めに満たされるのではなかろうか。
2 しかし、永遠に存在し続けたいと望まない者は、この世にひとりもいない、ということも言われるであろう。なるほど、それは確かなことである。しかし、そうであるからこそ、われわれは本来の不死を望むべきである。そこでは、この地上に見られない、安定の王国を得ることができるからである。
それで、パウロは信者たちに、この身体を脱ぐためではなく、新しい衣を上に着るために、死を慕い求めるように明瞭に教えている。野の獣や無生物、石塊や岩石にいたるまで、現在の空しさに目覚め、神の子たちと共に空しさから開放される、最後の日の復活を望み見ているのであれば、まして、生来の理性の光と、さらに、はるかにまさる神の御霊の啓明に恵まれたわれわれは、未来の自分の存在を考えるとき、この世の腐敗を超えた彼方に思いを向けるのである。
3 しかし、死の恐怖というような、まったくの邪説を論駁することは、私にここでの目的にとって不要であるし、ふさわしくない。私は、日常の問題について、面倒な議論には立ち入らないことを、はじめにいっておいた。異教徒たちでさえ、死を蔑視しているのを知って赤面したいなら、哲学者たちの書を読むほどのこともないが、せめてキプリアヌスの書いた、死についての論文を読むことを、臆病な人には強く勧める。
しかし、死の日と最後の復活の日とを、喜んで待ち望まないようであるなら、その人はキリストの学校で少しも進歩してこなかったというように、はっきり断言されても仕方がない。
4 なぜなら、パウロはこの印をすべての信者に刻印したし、聖書も、まことの喜びの動機を与えようとするとき、しばしばわれわれに注意を向けさせてきた点だからである。
「身を起こし頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから」と主は言われる。
キリストが、われわれを喜びで満たし、はっきりと目を覚まさせるために企てられたことが、悲哀と狼狽だけを引き起こすに過ぎないと考えるのは、正しいことであろうか。もしそうであるなら、なぜわれわれはキリストをなお主とほめたたえるのか。
だから健全な判断に立ち返り、われわれの肉の盲目で愚かな望みの反抗があるにせよ、すべての事柄の中でも、最も感動的なこととして、主の再臨を熱心に何の躊躇もなく待ち望もう。また、単にそれを待ち望むだけでなく、(審判の日を)切望し慕い歎こう。
主は救い主として、すべての悪の悲惨の底なしの大混乱の中から、われわれを救い出すために来られ、主の命と栄光のすばらしい嗣業の中に、導きいれてくださるからである。
Ⅱコリント5:4、テトス2:13、ルカ21:28
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
5 死を恐れず、頭を上げるべきである
1 キリスト者であると誇らしげに言う多くの者が、死を待ち望む代わりに、死の恐怖に満たされて、あたかも死が、彼らに起こりうる不幸であるかのように、死のことが言及されるたびに恐れ震えるのは、情けないことである。この世の生からの別離を告げるとき、生まれつきの感情が恐怖に陥るのは、不思議なことではない。
しかし、キリスト者の胸中に、あふれる慰めによって、すべての恐怖を抑えることができる光と信仰がなければ、耐え難いことである。もし、この不安で、腐敗し、死ぬべき、はかない、衰えていく肉体の幕屋が、その後、堅く完全で腐敗しない、天の栄光に回復されるために、解体されるのを考えるなら、われわれの信仰は、生まれつきの性質が恐れるものを、むしろ熱心に求め支えるのではなかろうか。
死によって、追放の状態から家庭へ、天の祖国へ呼び戻されることを思えば、われわれは慰めに満たされるのではなかろうか。
2 しかし、永遠に存在し続けたいと望まない者は、この世にひとりもいない、ということも言われるであろう。なるほど、それは確かなことである。しかし、そうであるからこそ、われわれは本来の不死を望むべきである。そこでは、この地上に見られない、安定の王国を得ることができるからである。
それで、パウロは信者たちに、この身体を脱ぐためではなく、新しい衣を上に着るために、死を慕い求めるように明瞭に教えている。野の獣や無生物、石塊や岩石にいたるまで、現在の空しさに目覚め、神の子たちと共に空しさから開放される、最後の日の復活を望み見ているのであれば、まして、生来の理性の光と、さらに、はるかにまさる神の御霊の啓明に恵まれたわれわれは、未来の自分の存在を考えるとき、この世の腐敗を超えた彼方に思いを向けるのである。
3 しかし、死の恐怖というような、まったくの邪説を論駁することは、私にここでの目的にとって不要であるし、ふさわしくない。私は、日常の問題について、面倒な議論には立ち入らないことを、はじめにいっておいた。異教徒たちでさえ、死を蔑視しているのを知って赤面したいなら、哲学者たちの書を読むほどのこともないが、せめてキプリアヌスの書いた、死についての論文を読むことを、臆病な人には強く勧める。
しかし、死の日と最後の復活の日とを、喜んで待ち望まないようであるなら、その人はキリストの学校で少しも進歩してこなかったというように、はっきり断言されても仕方がない。
4 なぜなら、パウロはこの印をすべての信者に刻印したし、聖書も、まことの喜びの動機を与えようとするとき、しばしばわれわれに注意を向けさせてきた点だからである。
「身を起こし頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから」と主は言われる。
キリストが、われわれを喜びで満たし、はっきりと目を覚まさせるために企てられたことが、悲哀と狼狽だけを引き起こすに過ぎないと考えるのは、正しいことであろうか。もしそうであるなら、なぜわれわれはキリストをなお主とほめたたえるのか。
だから健全な判断に立ち返り、われわれの肉の盲目で愚かな望みの反抗があるにせよ、すべての事柄の中でも、最も感動的なこととして、主の再臨を熱心に何の躊躇もなく待ち望もう。また、単にそれを待ち望むだけでなく、(審判の日を)切望し慕い歎こう。
主は救い主として、すべての悪の悲惨の底なしの大混乱の中から、われわれを救い出すために来られ、主の命と栄光のすばらしい嗣業の中に、導きいれてくださるからである。
Ⅱコリント5:4、テトス2:13、ルカ21:28
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリスト者の生活綱要 (32)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
4 天と比較したら、地とは何か
1 われわれが、この世の生を罪深く愛することを止めれば、それだけより良い世界への望みが増すことになる。実に、異教徒にとって最大の祝福は、生まれてこなかったことであり、次善の道は直ちに死ぬことである。
神とまことの宗教についての知識がなければ、彼らはこの世の生に、不幸と悲惨のほかに何を見るのだろうか。近親の子の誕生を悲しんで涙し、葬儀を厳粛に祝ったスキト人の行為のどこに、不合理なところがあるのだろうか。
しかし、彼らの習慣がどうであれ、役に立たなかった。というのは、キリストへのまことの信仰がないため、それ自体では祝福にも望ましいことでもないものが、どうしたら熱心な者たちの益になり得るかと言うことを、理解しなかったからである。そのため、異教徒たちの見解は絶望に終わるだけであった。
2 したがって、信者が目標としなければならないことは、死ぬべきこの世の生を考えて見た時、それは現実に悲惨のほか何物でもないというように理解することである。そうしてこそ、人々は勤勉に、ますます快活かつ進んで、次に来る永遠の生を考えるようになるからである。
天と地を比較する時、われわれは、この世の生を忘れることができるばかりでなく、それを蔑み、謗りさえするであろう。もし、天がわれわれの祖国であるなら、この地は流刑の場所でなくて、何であろう。またこの世の生は異国の旅でなくて、何であろう。もし、この世を去ることが、まことの生に入ることを意味するなら、この世は墓以外の何であろう。
この罪の地上に住むことは、死の中に埋没すること以外の何であろう。
身体から解放されることが、完全な自由を意味するなら、この身体は牢獄以外の何であろう。神の臨在を喜ぶことが、幸福の頂点であるならば、それがなければ悲惨である。なぜなら、この世を出て行くまでは、われわれは、「主から離れている」からである。
それで、地上の生が天上のそれと比較されるなら、それは確かに軽いものと見られ、不首尾と見なされるべきである。
3 しかし、罪に服従させられることがない限り、この世の生は憎悪されたりしてはならない。また、その憎悪ですら、生そのものに向けられるべきではない。われわれが非常に疲れ、この世の生を軽蔑するようになり、その終わることを願うようになっても、主がよいとされない限り、その中に留まるよう心がけなければならない。
言いかえれば、われわれは疲れても、苛立ったり、忍耐を欠いたりしてはならない。この世の生は、主がわれわれを置いた場所であり、主に呼び出されるまで、そこに留まらなければならないからである。
パウロは、彼が望んだよりも長く、肉体の束縛の中に閉じ込められている運命を悲しんで、実にその解放を熱烈に願った。そして同時に、彼は、神の御心のうちに安んじ、この世に留まるにも去るにも、いずれの備えも出来ていると言う。
彼は、生きるにしても死ぬにしても、神の御名を崇めなければならないことを認め、神の栄光のために、何が最も都合がよいかを決めるのは、主のなさることであると告白している。
4 それゆえ、「生きるのも死ぬのも主のため」と言うのが、ふさわしいことならば、われわれの生死の限界を神のよしとなさる御定めに委ねよう。同時に、やがて来る不死と比べて、この世の生(の空しさ)を軽蔑しつつ、死を熱心に望み、絶えず瞑想しよう。そして罪への隷属にあるからには、神がよいとされる時に、何時でもこの世の生を去ることを望むようにしよう。
Ⅱコリント5:6、ローマ7:24、ピリピ1:20、ローマ14:7~8。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
4 天と比較したら、地とは何か
1 われわれが、この世の生を罪深く愛することを止めれば、それだけより良い世界への望みが増すことになる。実に、異教徒にとって最大の祝福は、生まれてこなかったことであり、次善の道は直ちに死ぬことである。
神とまことの宗教についての知識がなければ、彼らはこの世の生に、不幸と悲惨のほかに何を見るのだろうか。近親の子の誕生を悲しんで涙し、葬儀を厳粛に祝ったスキト人の行為のどこに、不合理なところがあるのだろうか。
しかし、彼らの習慣がどうであれ、役に立たなかった。というのは、キリストへのまことの信仰がないため、それ自体では祝福にも望ましいことでもないものが、どうしたら熱心な者たちの益になり得るかと言うことを、理解しなかったからである。そのため、異教徒たちの見解は絶望に終わるだけであった。
2 したがって、信者が目標としなければならないことは、死ぬべきこの世の生を考えて見た時、それは現実に悲惨のほか何物でもないというように理解することである。そうしてこそ、人々は勤勉に、ますます快活かつ進んで、次に来る永遠の生を考えるようになるからである。
天と地を比較する時、われわれは、この世の生を忘れることができるばかりでなく、それを蔑み、謗りさえするであろう。もし、天がわれわれの祖国であるなら、この地は流刑の場所でなくて、何であろう。またこの世の生は異国の旅でなくて、何であろう。もし、この世を去ることが、まことの生に入ることを意味するなら、この世は墓以外の何であろう。
この罪の地上に住むことは、死の中に埋没すること以外の何であろう。
身体から解放されることが、完全な自由を意味するなら、この身体は牢獄以外の何であろう。神の臨在を喜ぶことが、幸福の頂点であるならば、それがなければ悲惨である。なぜなら、この世を出て行くまでは、われわれは、「主から離れている」からである。
それで、地上の生が天上のそれと比較されるなら、それは確かに軽いものと見られ、不首尾と見なされるべきである。
3 しかし、罪に服従させられることがない限り、この世の生は憎悪されたりしてはならない。また、その憎悪ですら、生そのものに向けられるべきではない。われわれが非常に疲れ、この世の生を軽蔑するようになり、その終わることを願うようになっても、主がよいとされない限り、その中に留まるよう心がけなければならない。
言いかえれば、われわれは疲れても、苛立ったり、忍耐を欠いたりしてはならない。この世の生は、主がわれわれを置いた場所であり、主に呼び出されるまで、そこに留まらなければならないからである。
パウロは、彼が望んだよりも長く、肉体の束縛の中に閉じ込められている運命を悲しんで、実にその解放を熱烈に願った。そして同時に、彼は、神の御心のうちに安んじ、この世に留まるにも去るにも、いずれの備えも出来ていると言う。
彼は、生きるにしても死ぬにしても、神の御名を崇めなければならないことを認め、神の栄光のために、何が最も都合がよいかを決めるのは、主のなさることであると告白している。
4 それゆえ、「生きるのも死ぬのも主のため」と言うのが、ふさわしいことならば、われわれの生死の限界を神のよしとなさる御定めに委ねよう。同時に、やがて来る不死と比べて、この世の生(の空しさ)を軽蔑しつつ、死を熱心に望み、絶えず瞑想しよう。そして罪への隷属にあるからには、神がよいとされる時に、何時でもこの世の生を去ることを望むようにしよう。
Ⅱコリント5:6、ローマ7:24、ピリピ1:20、ローマ14:7~8。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリスト者の生活綱要 (31)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
3 この世の祝福を軽蔑してはならない
1 それにもかかわらず、この世の評価を低めようとしてなされる間断ない努力が、この世の生活を憎み、神の恩を忘れさせるようであってはならない。この世の生は数え切れない悲惨に満ちているとはいえ、軽蔑されてはならない神の祝福の中に数えられる価値を持っている。
それで、この世の歩みに神の好意を少しも見い出さないなら、われわれはすでに、神に対して少なからぬ忘恩の罪を犯していることになる。しかし、特に信者にとって、この世の歩みは全て信者の救いの前進のためのものであるから、明らかに神の好意の証しである。
2 なぜなら、神は、われわれに永遠の栄光の嗣業を全て明らかに示すのに先だって、それより劣る事柄で、われらの父であることを示そうとされるからである。すなわち、それは日々われわれの上に注がれる賜物の祝福のことである。
したがって、この世の生が神の好意を数える働きをしているのに、その中にひと欠片の良いものもないかのように、あえてこの世の生を軽蔑すべきであろうか。われわれは十分な思慮深さと感謝の思いをもって、この世の生を投げ捨ててはならない神の愛の賜物と考えなければならない。
というのは、数多くあって、しかも明瞭なのに、もし聖書の証言が不足しているかのように言うなら、生命の光を与え、それをさまざまに用いさせ、またそれを保つために必要は手段を与える神に感謝すべきことを、自然そのものさえ、われわれに求めているからである。
3 さらにこの世の生が、天国の栄光を受けるために、われわれの準備に役立つことを考えるなら、さらに大きな感謝をすべきである。なぜなら、天において栄冠を与えられる者は、まず地上で善き戦いをするように定められ、戦いの困難を実際に克服し、勝利を得るのでなければ、天での勝利を祝えないようにされたからである。
もう一つの理由は、われわれは、地上で神の好意の前味を味わい、それによって神の好意が完全に現われる時の素晴らしさに、いっそう大きな望みと憧れを持つのである。
4 この世でなされるわれわれの歩みは、神の恵みの賜物であり、それは神のおかげであるのみで、感謝をもって心に留めておくべきことであるという結論に達したなら、次は、その悲惨なことについて考えるのがよかろう。
そうしないと、すでに見てきたように、われわれは、生まれつきの傾向である、この世の生の過度の享楽から解放されないからである。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
3 この世の祝福を軽蔑してはならない
1 それにもかかわらず、この世の評価を低めようとしてなされる間断ない努力が、この世の生活を憎み、神の恩を忘れさせるようであってはならない。この世の生は数え切れない悲惨に満ちているとはいえ、軽蔑されてはならない神の祝福の中に数えられる価値を持っている。
それで、この世の歩みに神の好意を少しも見い出さないなら、われわれはすでに、神に対して少なからぬ忘恩の罪を犯していることになる。しかし、特に信者にとって、この世の歩みは全て信者の救いの前進のためのものであるから、明らかに神の好意の証しである。
2 なぜなら、神は、われわれに永遠の栄光の嗣業を全て明らかに示すのに先だって、それより劣る事柄で、われらの父であることを示そうとされるからである。すなわち、それは日々われわれの上に注がれる賜物の祝福のことである。
したがって、この世の生が神の好意を数える働きをしているのに、その中にひと欠片の良いものもないかのように、あえてこの世の生を軽蔑すべきであろうか。われわれは十分な思慮深さと感謝の思いをもって、この世の生を投げ捨ててはならない神の愛の賜物と考えなければならない。
というのは、数多くあって、しかも明瞭なのに、もし聖書の証言が不足しているかのように言うなら、生命の光を与え、それをさまざまに用いさせ、またそれを保つために必要は手段を与える神に感謝すべきことを、自然そのものさえ、われわれに求めているからである。
3 さらにこの世の生が、天国の栄光を受けるために、われわれの準備に役立つことを考えるなら、さらに大きな感謝をすべきである。なぜなら、天において栄冠を与えられる者は、まず地上で善き戦いをするように定められ、戦いの困難を実際に克服し、勝利を得るのでなければ、天での勝利を祝えないようにされたからである。
もう一つの理由は、われわれは、地上で神の好意の前味を味わい、それによって神の好意が完全に現われる時の素晴らしさに、いっそう大きな望みと憧れを持つのである。
4 この世でなされるわれわれの歩みは、神の恵みの賜物であり、それは神のおかげであるのみで、感謝をもって心に留めておくべきことであるという結論に達したなら、次は、その悲惨なことについて考えるのがよかろう。
そうしないと、すでに見てきたように、われわれは、生まれつきの傾向である、この世の生の過度の享楽から解放されないからである。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリスト者の生活綱要 (30)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
2 われわれはこの世を高く評価し過ぎがちである
1 この地上の生活を低く評価するのと、過度に愛するのと、この両極端の間には中庸はない。それで、永遠について関心があるなら、この世の鎖から自分自身を自由にするため、われわれは熱心に最大限の努力をしなければならない。
さて、この世には数多くの魅力的なものがあり、われわれを喜ばせる楽しさ、美しさ、甘美の見せかけがある。そのため、その魅惑に連れ去られてしまわないよう、しばしばそれから呼び戻されることが、われわれの最高の関心事にとって、非常に必要である。
というのは、もしもわれわれがこの世の生活の祝福を楽しむことに、常に幸福感を味わっているなら、その結果はどうであろう。そういうことであれば、絶えず悪に引き回されてしまい、その不幸を十分考えるよう高められることさえ出来なくなる。
2 人生が霧か影に過ぎないと言うことは、ただ学識ある人に知られているだけでなく、一般の人々さえ、そうした格言を多くもっている。彼らは、この知識がきわめて有用だと思っているので、人生について、またその虚しさについて、多くのうまい警句や詩をもっている。しかし、こうしたものぐらい、われわれが疎かにし、記憶から直ぐ消えてしまうものはないのである。というのは、われわれは、あたかも自分が死なないことを願っているかのように振る舞うからである。
葬式を見、墓の間を歩いて、眼前にはっきりと死の姿を見ると、われわれは、生命の虚しさについて哲学するようになる。しかし、それすら毎日は起こらないため、われわれは、全く心を動かされないことがよくある。
たとい心を動かされても、われわれの哲学は短命で、われわれが歩み去るや否や消滅して、ごく小さな足跡さえも後に残さない。劇場の中の劇に対する拍手のように、消え去ってしまう。
3 われわれは死を恐れるばかりでなく、あたかもそんな事については何も聞いたことがないかのように、われわれが死ぬべき者であるという事実を忘れてしまい、永遠に生きるかのような愚かな夢を持ち続ける。
そんな時、誰かが、人はほんの一日だけの生き物に過ぎないという格言を思い出させてくれると、われわれは進んでこの真理を認めようとするが、それでいて心の中に、いつまでも生きているかのような思いがあるため、それほど気にも留めないのである。
4 したがって、この世の生が悲惨に満ちていることを、単に言葉によって警告されるだけでなく、できればあらゆる証拠によって確信させられることが必要である。このことを誰も否定出来ない。
あまつさえ、このことを悟らされた後でさえ、人生は大きな祝福の累積したものであるかのように、愚かにもそれに憧れるのを、どうしたらやめられるか分らずにいる。しかし、神に教えられなければならない場合、この世に背を向け、心を傾けてやがて来る世を瞑想出来るよう、神が語り、われわれの重い腰を上げさせようとなさる時、神に耳を傾けるべきで、これもわれわれの義務である。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
2 われわれはこの世を高く評価し過ぎがちである
1 この地上の生活を低く評価するのと、過度に愛するのと、この両極端の間には中庸はない。それで、永遠について関心があるなら、この世の鎖から自分自身を自由にするため、われわれは熱心に最大限の努力をしなければならない。
さて、この世には数多くの魅力的なものがあり、われわれを喜ばせる楽しさ、美しさ、甘美の見せかけがある。そのため、その魅惑に連れ去られてしまわないよう、しばしばそれから呼び戻されることが、われわれの最高の関心事にとって、非常に必要である。
というのは、もしもわれわれがこの世の生活の祝福を楽しむことに、常に幸福感を味わっているなら、その結果はどうであろう。そういうことであれば、絶えず悪に引き回されてしまい、その不幸を十分考えるよう高められることさえ出来なくなる。
2 人生が霧か影に過ぎないと言うことは、ただ学識ある人に知られているだけでなく、一般の人々さえ、そうした格言を多くもっている。彼らは、この知識がきわめて有用だと思っているので、人生について、またその虚しさについて、多くのうまい警句や詩をもっている。しかし、こうしたものぐらい、われわれが疎かにし、記憶から直ぐ消えてしまうものはないのである。というのは、われわれは、あたかも自分が死なないことを願っているかのように振る舞うからである。
葬式を見、墓の間を歩いて、眼前にはっきりと死の姿を見ると、われわれは、生命の虚しさについて哲学するようになる。しかし、それすら毎日は起こらないため、われわれは、全く心を動かされないことがよくある。
たとい心を動かされても、われわれの哲学は短命で、われわれが歩み去るや否や消滅して、ごく小さな足跡さえも後に残さない。劇場の中の劇に対する拍手のように、消え去ってしまう。
3 われわれは死を恐れるばかりでなく、あたかもそんな事については何も聞いたことがないかのように、われわれが死ぬべき者であるという事実を忘れてしまい、永遠に生きるかのような愚かな夢を持ち続ける。
そんな時、誰かが、人はほんの一日だけの生き物に過ぎないという格言を思い出させてくれると、われわれは進んでこの真理を認めようとするが、それでいて心の中に、いつまでも生きているかのような思いがあるため、それほど気にも留めないのである。
4 したがって、この世の生が悲惨に満ちていることを、単に言葉によって警告されるだけでなく、できればあらゆる証拠によって確信させられることが必要である。このことを誰も否定出来ない。
あまつさえ、このことを悟らされた後でさえ、人生は大きな祝福の累積したものであるかのように、愚かにもそれに憧れるのを、どうしたらやめられるか分らずにいる。しかし、神に教えられなければならない場合、この世に背を向け、心を傾けてやがて来る世を瞑想出来るよう、神が語り、われわれの重い腰を上げさせようとなさる時、神に耳を傾けるべきで、これもわれわれの義務である。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリスト者の生活綱要 (29)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
1 十字架なしに栄冠はない
1 どんな種類の試練に苦しもうとも、われわれは常に、ゴールから目を離してはならない。すなわち、来るべき世を思うために、今の世の生(の空しさ)を軽蔑することに慣れることである。われわれが生まれつき、この世の盲目的に、否、肉的にさえ愛する傾向があることを、主は知っておられるので、非常に優れた手段を用いて、われわれを呼び戻し、重い腰を立ち上がらせ、われわれの心がそのような愚かな傾向に引きつけられないようにして下さる。
2 誰でも、天の不死を、生涯をかけて情熱的に追い求め、それに到達しようとする。なぜなら、死後の永遠を望まないなら、恥ずかしいことには、われわれの状態より少しも劣っていない、物言わぬ動物に比べ、われわれが優れているとはとても言えないからである。
しかし、一人一人の野心的な計画や企てや行動をよく調べてみると、みなこの地上の城を出ていないことがわかるであろう。そのため、われわれの思いは、富や権力や名誉といった外面的輝きに眩惑されて愚かになり、それを越えたものを見ることができないのである。
心も、貪欲や野心やその他の悪い欲望に占有されて、それ以上高く昇ることができないのである。ひと言で言えば、魂全体が肉的喜びに包まれて、幸福をこの地上に求める、ということである。
3 これに対して主は、悲惨というさまざまの厳しい教訓によって、その子らに、この世の生の空しさを教えられます。そのため、安易で快楽的な生活を期待しないよう、戦争、叛乱、掠奪、あるいはその他の災害によって、彼らがしばしば悩まされ、傷つけられることを、主はよしとされる。
また、過ぎ去るはかない富を貪欲に追い求めたり、所有しているものに頼ったりしないよう、主は彼らを、時には追放により、時には地の不作により、また時には他の手段によって、貧困の状態に引き戻したり、少なくとも普通の富の状態に留めさせたりなさる。
主は、彼らが結婚生活おいて、あまりにも満足して喜び過ぎないため、配偶者の欠点で彼らを悩ませたり、悪いことをする子によって彼らを謙虚にさせたり、あるいは子がなかったり、失ったりすることによって、彼らを悩ますことをする。
しかし、こうしたことにおいて、神が彼らにさらにいっそう憐れみ深いなら、彼らが虚しい栄誉によって膨れ上がらないように、病気や危険によって、全ての朽ちるべき定めにある祝福がいかに不安定ではないかを示される。
4 したがって、この世の生活自体が、不安と困難と悲惨に満ちていて、どうみても決して真に幸福ではなく、また全て祝福と呼ばれるものは、不確かではかなく、虚しく際限のない災いと混じり合っていることを知るようになると、われわれは、十字架によって訓練を与えられ、その訓練によってだけ真の利益を刈り取ることになる。
この結果、この世には争い以外になにも求めることも期待することもできず、栄冠を見るためには、目を天に向けなければならないという結論になる。しかし、この世の虚しいものを捨てることを、何よりも先ず十分に学んではじめて、われわれの心が、やがて来る世を真剣に求め、それに思いを馳せるようになることを認めなければならない。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
1 十字架なしに栄冠はない
1 どんな種類の試練に苦しもうとも、われわれは常に、ゴールから目を離してはならない。すなわち、来るべき世を思うために、今の世の生(の空しさ)を軽蔑することに慣れることである。われわれが生まれつき、この世の盲目的に、否、肉的にさえ愛する傾向があることを、主は知っておられるので、非常に優れた手段を用いて、われわれを呼び戻し、重い腰を立ち上がらせ、われわれの心がそのような愚かな傾向に引きつけられないようにして下さる。
2 誰でも、天の不死を、生涯をかけて情熱的に追い求め、それに到達しようとする。なぜなら、死後の永遠を望まないなら、恥ずかしいことには、われわれの状態より少しも劣っていない、物言わぬ動物に比べ、われわれが優れているとはとても言えないからである。
しかし、一人一人の野心的な計画や企てや行動をよく調べてみると、みなこの地上の城を出ていないことがわかるであろう。そのため、われわれの思いは、富や権力や名誉といった外面的輝きに眩惑されて愚かになり、それを越えたものを見ることができないのである。
心も、貪欲や野心やその他の悪い欲望に占有されて、それ以上高く昇ることができないのである。ひと言で言えば、魂全体が肉的喜びに包まれて、幸福をこの地上に求める、ということである。
3 これに対して主は、悲惨というさまざまの厳しい教訓によって、その子らに、この世の生の空しさを教えられます。そのため、安易で快楽的な生活を期待しないよう、戦争、叛乱、掠奪、あるいはその他の災害によって、彼らがしばしば悩まされ、傷つけられることを、主はよしとされる。
また、過ぎ去るはかない富を貪欲に追い求めたり、所有しているものに頼ったりしないよう、主は彼らを、時には追放により、時には地の不作により、また時には他の手段によって、貧困の状態に引き戻したり、少なくとも普通の富の状態に留めさせたりなさる。
主は、彼らが結婚生活おいて、あまりにも満足して喜び過ぎないため、配偶者の欠点で彼らを悩ませたり、悪いことをする子によって彼らを謙虚にさせたり、あるいは子がなかったり、失ったりすることによって、彼らを悩ますことをする。
しかし、こうしたことにおいて、神が彼らにさらにいっそう憐れみ深いなら、彼らが虚しい栄誉によって膨れ上がらないように、病気や危険によって、全ての朽ちるべき定めにある祝福がいかに不安定ではないかを示される。
4 したがって、この世の生活自体が、不安と困難と悲惨に満ちていて、どうみても決して真に幸福ではなく、また全て祝福と呼ばれるものは、不確かではかなく、虚しく際限のない災いと混じり合っていることを知るようになると、われわれは、十字架によって訓練を与えられ、その訓練によってだけ真の利益を刈り取ることになる。
この結果、この世には争い以外になにも求めることも期待することもできず、栄冠を見るためには、目を天に向けなければならないという結論になる。しかし、この世の虚しいものを捨てることを、何よりも先ず十分に学んではじめて、われわれの心が、やがて来る世を真剣に求め、それに思いを馳せるようになることを認めなければならない。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリスト者の生活綱要 (28)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第3章 十字架を負う忍耐
11 十字架はわれわれの救いに必要である
1 さて、十字架を負うことの理由が何よりも神の意志であることを示したので、最後に哲学者の忍耐とキリスト者の忍耐との相違を、簡潔に指摘しなければならない。われわれが苦しみを受けるのは、神の御手によるものである、という崇高な理解に達するとか、神の意志に服従するのがわれわれの義務である、という結論に達した哲学者は、極稀だからである。
そしてそこまで達した者たちでさえ、諦めが必要である、という以外の理由を口にしない。これは、神に逆らう努力は、してみても虚しいから、神に服従しなければならない、と言っていることに過ぎない。
もし必要からだけ神に従っているのであれば、神から逃げ出すことが出来るや否や、われわれは従わなくなるであろう。
2 しかし、聖書はわれわれに、異なった光の中で、神の意志を考えるように命じている。すなわち第一に、(神の)正義と公正とに一致するものとして、第二に、われわれの救いの完成を意図したものとしてである。
したがって、キリスト者がもたなければならない忍耐への勧めは、次の通りである。貧困、追放、入獄、非難、疾病、親族の死、あるいはこの他の同じような苦しみに合っても、これらのどれ一つとして、神の意志と摂理なしには起こり得ないこと、さらに、神が何時もの正義を用いずに、なにもなさらないということを、われわれは思い起こさなければならない。
神が恵みのために、われわれに科す懲らしめよりも、日ごとに犯す数限りないわれわれの罪は、もっと厳しく重い多くの懲らしめに価するのではなかろうか。肉の衝動が、われわれから最善のものを奪い、われわれを放縦の中に追いやらないために、肉が抑えられ、軛に慣れさせられるのは、至極当然のことではなかろうか。
神の正義と真実は、われわれの罪のために、保つ価値がなくなっているのだろうか。われわれが呟いたり反逆したりすれば、必ず不義を伴う。必然性には従わなければならない、という哲学者の冷たい決まり文句を、これからは聞かずに済むであろう。そしてその代わりに、反逆することは悪であるから、服従しなければならない、という生意気に満ちた効果のある提言を聞くことなのである。短気は神の正義に反抗することであるから、忍耐をもって忍ばなければならない。
3 自分の利益となり、自分の繁栄に役立つことしか、われわれは喜ばないので、最も憐れみ深い天の父は、われわれに十字架を与えて、救いを促進させると教えて、慰めてくださるのである。逆境がわれわれにとって明らかに益であるのに、なぜそれを、感謝と平和に満ちた心で忍ばないのか。
逆境を忍耐をもって忍ぶなら、必然性に服しているのではなく、われわれ自身の益のために服しているのである。
以上の考察の結論は、われわれが十字架によってしめつけられれば、しめつけられるほど、霊的な喜びはそれだけ満ち溢れるということである。そして、この喜びに感謝が必然的に伴う。
主に対する讃美と感謝は、快活で喜びに溢れた心からだけ生じることができるのであれば─そして、そのような感情を制すべきは何もないが─明らかに神は、十字架の苦しみを、聖霊が与える喜びによって、和らげてくださるであろう。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第3章 十字架を負う忍耐
11 十字架はわれわれの救いに必要である
1 さて、十字架を負うことの理由が何よりも神の意志であることを示したので、最後に哲学者の忍耐とキリスト者の忍耐との相違を、簡潔に指摘しなければならない。われわれが苦しみを受けるのは、神の御手によるものである、という崇高な理解に達するとか、神の意志に服従するのがわれわれの義務である、という結論に達した哲学者は、極稀だからである。
そしてそこまで達した者たちでさえ、諦めが必要である、という以外の理由を口にしない。これは、神に逆らう努力は、してみても虚しいから、神に服従しなければならない、と言っていることに過ぎない。
もし必要からだけ神に従っているのであれば、神から逃げ出すことが出来るや否や、われわれは従わなくなるであろう。
2 しかし、聖書はわれわれに、異なった光の中で、神の意志を考えるように命じている。すなわち第一に、(神の)正義と公正とに一致するものとして、第二に、われわれの救いの完成を意図したものとしてである。
したがって、キリスト者がもたなければならない忍耐への勧めは、次の通りである。貧困、追放、入獄、非難、疾病、親族の死、あるいはこの他の同じような苦しみに合っても、これらのどれ一つとして、神の意志と摂理なしには起こり得ないこと、さらに、神が何時もの正義を用いずに、なにもなさらないということを、われわれは思い起こさなければならない。
神が恵みのために、われわれに科す懲らしめよりも、日ごとに犯す数限りないわれわれの罪は、もっと厳しく重い多くの懲らしめに価するのではなかろうか。肉の衝動が、われわれから最善のものを奪い、われわれを放縦の中に追いやらないために、肉が抑えられ、軛に慣れさせられるのは、至極当然のことではなかろうか。
神の正義と真実は、われわれの罪のために、保つ価値がなくなっているのだろうか。われわれが呟いたり反逆したりすれば、必ず不義を伴う。必然性には従わなければならない、という哲学者の冷たい決まり文句を、これからは聞かずに済むであろう。そしてその代わりに、反逆することは悪であるから、服従しなければならない、という生意気に満ちた効果のある提言を聞くことなのである。短気は神の正義に反抗することであるから、忍耐をもって忍ばなければならない。
3 自分の利益となり、自分の繁栄に役立つことしか、われわれは喜ばないので、最も憐れみ深い天の父は、われわれに十字架を与えて、救いを促進させると教えて、慰めてくださるのである。逆境がわれわれにとって明らかに益であるのに、なぜそれを、感謝と平和に満ちた心で忍ばないのか。
逆境を忍耐をもって忍ぶなら、必然性に服しているのではなく、われわれ自身の益のために服しているのである。
以上の考察の結論は、われわれが十字架によってしめつけられれば、しめつけられるほど、霊的な喜びはそれだけ満ち溢れるということである。そして、この喜びに感謝が必然的に伴う。
主に対する讃美と感謝は、快活で喜びに溢れた心からだけ生じることができるのであれば─そして、そのような感情を制すべきは何もないが─明らかに神は、十字架の苦しみを、聖霊が与える喜びによって、和らげてくださるであろう。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリスト者の生活綱要 (27)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第3章 十字架を負う忍耐
10 十字架は従順を促進する
1 わたしがこれらのことを言うのは、敬虔な人々が絶望に陥らないようにするためである。すなわち、彼らが悲しむという生まれつきの傾向から抜け出ることが出来ないとして、忍耐への熱心を直ぐに放棄してしまうことがない様にするためである。というのは、忍耐を無感覚とすり替え、人間が感覚のない物体となるとき、強く勇気がある、と主張する者たちの行きつくところが絶望だからである。
それに引き換え、聖書が聖徒たちの忍耐をたたえているのは、彼らが逆境に激しく苦しめられながらも、砕かれず、打ち負かされず、ひどく悩まされながらも、霊的な喜びに満たされ、さらに憂いのために心重く、疲れきっているのに、神の慰めによって、喜びおどっているときである。
2 しかし同時に、彼らの心の内には、戦いがある。というのは、われわれの生まれつきの感情には、敬虔に反することを避けるし、恐れるからである。ところが、敬虔を求める熱心は、この困難の中で戦って、神の意志に従おうとする。
この戦いのことを、主はペテロに次のように語られた。「あなたは若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし、歳をとってからは、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところへ連れて行くであろう」。ペテロが、その死によって神の栄光をあらわすように召されたとき、いやいやながら抵抗してそうしたのではおそらくなかったであろう。もしそういうことであれば、彼の殉教は少しの賞賛にも価しなかったであろう。
しかし、最高度の熱心をもって、神の意志に従ったとしても、彼は人間としての感情を捨てしまったわけではないから、内面的な戦いによって心乱されたのである。つまり、自分のために準備されている流血の死を考えた時、恐怖に怯え、逃れることを望んだであろう。しかし、神が自分をそれに召されていると思った時、彼はこの恐怖を抑え、むしろ進んで、否、喜びをもってそれに服したのである。
3 したがって、キリストの弟子であろうと願うなら、神を大いに敬い、服従の思いで心が満たされるよう願わなければならない。そうしてはじめて、反対する一切の感情に打ち勝ち、神の計画に服することが出来る。どのような苦しみを担うことがあっても、最も深い心の苦悩の中にあっても、こうして忍耐を常に保つのである。
逆境は、常に棘(とげ)をもって、われわれを傷つけるからである。
病気で苦しめられると、呷き嘆き、回復を祈り求める。
貧困に抑えつけられると、孤独と悲しみを感じる。
中傷され、軽蔑され、腹を立てさせられると、平安を失う。
友の葬儀に列席しなければならないとき、涙を流すのである。
4 しかし、われわれをその御旨に従わせるために、主が悲しみを企てられるという慰めに、常に帰ってこなければならない。悲しみと呷きの涙の苦しみの中にあってもこのことを思って、自分を励まさなければならない。それは、嵐が頭上を吹き過ぎて行く時、われわれの心が喜んで耐えるためである。
ヨハネ21:18
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第3章 十字架を負う忍耐
10 十字架は従順を促進する
1 わたしがこれらのことを言うのは、敬虔な人々が絶望に陥らないようにするためである。すなわち、彼らが悲しむという生まれつきの傾向から抜け出ることが出来ないとして、忍耐への熱心を直ぐに放棄してしまうことがない様にするためである。というのは、忍耐を無感覚とすり替え、人間が感覚のない物体となるとき、強く勇気がある、と主張する者たちの行きつくところが絶望だからである。
それに引き換え、聖書が聖徒たちの忍耐をたたえているのは、彼らが逆境に激しく苦しめられながらも、砕かれず、打ち負かされず、ひどく悩まされながらも、霊的な喜びに満たされ、さらに憂いのために心重く、疲れきっているのに、神の慰めによって、喜びおどっているときである。
2 しかし同時に、彼らの心の内には、戦いがある。というのは、われわれの生まれつきの感情には、敬虔に反することを避けるし、恐れるからである。ところが、敬虔を求める熱心は、この困難の中で戦って、神の意志に従おうとする。
この戦いのことを、主はペテロに次のように語られた。「あなたは若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし、歳をとってからは、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところへ連れて行くであろう」。ペテロが、その死によって神の栄光をあらわすように召されたとき、いやいやながら抵抗してそうしたのではおそらくなかったであろう。もしそういうことであれば、彼の殉教は少しの賞賛にも価しなかったであろう。
しかし、最高度の熱心をもって、神の意志に従ったとしても、彼は人間としての感情を捨てしまったわけではないから、内面的な戦いによって心乱されたのである。つまり、自分のために準備されている流血の死を考えた時、恐怖に怯え、逃れることを望んだであろう。しかし、神が自分をそれに召されていると思った時、彼はこの恐怖を抑え、むしろ進んで、否、喜びをもってそれに服したのである。
3 したがって、キリストの弟子であろうと願うなら、神を大いに敬い、服従の思いで心が満たされるよう願わなければならない。そうしてはじめて、反対する一切の感情に打ち勝ち、神の計画に服することが出来る。どのような苦しみを担うことがあっても、最も深い心の苦悩の中にあっても、こうして忍耐を常に保つのである。
逆境は、常に棘(とげ)をもって、われわれを傷つけるからである。
病気で苦しめられると、呷き嘆き、回復を祈り求める。
貧困に抑えつけられると、孤独と悲しみを感じる。
中傷され、軽蔑され、腹を立てさせられると、平安を失う。
友の葬儀に列席しなければならないとき、涙を流すのである。
4 しかし、われわれをその御旨に従わせるために、主が悲しみを企てられるという慰めに、常に帰ってこなければならない。悲しみと呷きの涙の苦しみの中にあってもこのことを思って、自分を励まさなければならない。それは、嵐が頭上を吹き過ぎて行く時、われわれの心が喜んで耐えるためである。
ヨハネ21:18
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
キリスト者の生活綱要 (26)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第3章 十字架を負う忍耐
9 十字架はわれわれを無感覚にしない
1 忍耐と節制を身につけていくなかで、悲しみから生じる、信者たちの生まれつきの感情との戦いを、パウロは次のように十分述べている。「わたしたちは、四方から艱難を
受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない、迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない」と(Ⅱコリント4:8~9)。
十字架を忍耐深く負うということは、われわれが無感覚になったり、悲しみを感じなくなったりすることではない。ストア派の哲学者たちの古い考えによれば、偉大な人とは、人間らしさを捨てて、逆境にも幸運にも心を動かされず、喜びや悲しみにすら左右されない、冷たい岩のような人のことだそうである。このような高慢な知恵に、何の益があるだろうか。
彼らは、人間のうちに、まだ見い出されたこともないような、存在することさえ出来ないような忍耐について、空想を描いているのである。至高の忍耐を見い出そうとして、それを人間生活から遊離させてしまっているのである。
2 現今のキリスト者のなかにも、呻いたり、涙を流したり、孤独な中に悲しむことさえ、罪悪と考える新しいストア派がいる。そのような乱暴な考えは、通常、夢想家から出るのであって、実際的な人からは出てこない。したがって、そうした者たちは、幻想以外のなにものも生み出すことが出来ない。
3 主であり師であるイエスが、言葉と模範によって罪と定めたところのこのような過酷で厳しい誓言とは、われわれはなんの関係もない。というのは、主は、自らの不幸も、他の人々の不幸と同じように、悲しみ、涙されましたし、弟子たちに、それ以外の道を教えなかったからである。
主は、「あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう」と言われた。そして、だれも悲しみを悪と呼ぶことのないように、悲しむ者に祝福を宣言された。
4 これは少しも奇異なことではない、もし主が、すべての涙を罪であると言われたのであれば、ご自身の身体から血の涙を流された主ご自身を、われわれはどう裁くべきなのであろうか。すべての恐れが不信仰という烙印を押されるなら、イエスを気落ちさせ、恐れさせたあの不安のことを、どう呼んだらよいのか。
全ての悲しみが好ましくないと言うのであれば、その魂は、「悲しみのあまり死ぬほど」であった、というイエスの告白を、われわれはどう認めることができるのだろうか。
ヨハネ16:20、マタイ5:5、ルカ22:44
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第3章 十字架を負う忍耐
9 十字架はわれわれを無感覚にしない
1 忍耐と節制を身につけていくなかで、悲しみから生じる、信者たちの生まれつきの感情との戦いを、パウロは次のように十分述べている。「わたしたちは、四方から艱難を
受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない、迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない」と(Ⅱコリント4:8~9)。
十字架を忍耐深く負うということは、われわれが無感覚になったり、悲しみを感じなくなったりすることではない。ストア派の哲学者たちの古い考えによれば、偉大な人とは、人間らしさを捨てて、逆境にも幸運にも心を動かされず、喜びや悲しみにすら左右されない、冷たい岩のような人のことだそうである。このような高慢な知恵に、何の益があるだろうか。
彼らは、人間のうちに、まだ見い出されたこともないような、存在することさえ出来ないような忍耐について、空想を描いているのである。至高の忍耐を見い出そうとして、それを人間生活から遊離させてしまっているのである。
2 現今のキリスト者のなかにも、呻いたり、涙を流したり、孤独な中に悲しむことさえ、罪悪と考える新しいストア派がいる。そのような乱暴な考えは、通常、夢想家から出るのであって、実際的な人からは出てこない。したがって、そうした者たちは、幻想以外のなにものも生み出すことが出来ない。
3 主であり師であるイエスが、言葉と模範によって罪と定めたところのこのような過酷で厳しい誓言とは、われわれはなんの関係もない。というのは、主は、自らの不幸も、他の人々の不幸と同じように、悲しみ、涙されましたし、弟子たちに、それ以外の道を教えなかったからである。
主は、「あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう」と言われた。そして、だれも悲しみを悪と呼ぶことのないように、悲しむ者に祝福を宣言された。
4 これは少しも奇異なことではない、もし主が、すべての涙を罪であると言われたのであれば、ご自身の身体から血の涙を流された主ご自身を、われわれはどう裁くべきなのであろうか。すべての恐れが不信仰という烙印を押されるなら、イエスを気落ちさせ、恐れさせたあの不安のことを、どう呼んだらよいのか。
全ての悲しみが好ましくないと言うのであれば、その魂は、「悲しみのあまり死ぬほど」であった、というイエスの告白を、われわれはどう認めることができるのだろうか。
ヨハネ16:20、マタイ5:5、ルカ22:44
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
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書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円