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ビルマ
戦犯者の獄中記 (67) 遠山良作 著
―「メイミヨー」の公判廷―・・・2・・・
11月4日・・1・・
―東 登大尉、中山伊作少尉の最後の日・・1・・
(これからの記事は東大尉たちの隣房にいた井出准尉が書いた記録の原文である)
西独房10号に東大尉たちの隣房にいた井出准尉が入房していたが、印度人の所長カーン大尉の好意により中山少尉は11号に移され、東大尉の房と相応してお互いに会話が出来るようにしてくれた。
中山 「ああこれで安心した。若い者がみんな助かった。願っていた通りになり、こんな嬉しいことはない。私たちが逝った後は若い者がやってくれるから何も心配ない。だが確定の言い渡しがあってあのまま別れてしまうのはちょっと寂しかったが、所長の情によってこのように心ゆくまでお別れができることは有難かったね」
東 「うんそうだ。まったく所長の好意には感謝している」
中山 「現在のような真実に満たされた心境で明朝絞首台に上りましょう」
東 「うん、仏印以来ずっといっしょだし、またいっしょに散って逝くあの世までしっかり手を握って満ちた心で逝く、若い者が助かり責任者の俺たちが逝くのだが俺一人で済むと思っていたが、今の君の気持の立派さを聞いてこんな嬉しいことはない。俺もやっと安心した」・・・中略
中山 「分隊長どうでしょうか、われわれの如くに死んでゆくのと、天寿を全うして死んでゆくのと気持の上でどうですか・・・」
東 「それは天寿を全うしたとしても心配はあるよ。妻子のこと、事業上の心配、その他いろいろな悩みがある。われわれのような7年も8年も故郷の親兄弟妻子と離れていると、忘れはしないが歌の文句にあるなあ、『思い出しても忘れずに』の通りの肉親の別れがないだけ楽さ。天寿を全うしたからとて人間の欲には限りがない。同じだよ」
中山 「そうですね。やっぱりそうですね。その点われわれには国のためという自負心か何と言いましょうか、何かがある。そうして国家再建の礎石として死んで逝くのだという大きなものがありますから安らかに逝かれます。戦友その他の人に見守られずに死ぬ人も沢山あります。その点われわれは情けある分隊員、その他の戦友に見守られて逝くのですから勿体ない位です」
東 「内地に帰って妻や子供のことを心配して死ぬより、現在のわれわれは、妻や子供は元気でいる(はっきり聞き取れないが)。また戦友のこの限りない愛と情けに抱かれて死んでゆくのではないか」
中山 「現在の私たちは実に美しく結ばれた戦友の愛に包まれて死んで逝く、実に有難いです。やっぱり天寿を全うして逝く人といっしょですかな」
東 「確定の言い渡しがある前に死んでゆくとき果たして死を恐れず逝けるかなと、心配であったが、今になって見ると何も心配なく逝けるよ。むしろ平然としてゆけるよ」
中山 「分隊長もそうですか、私もそうでした。人間はやはり同じですね。こうして二人とも手をたずさえて逝けるのですから、こんな幸せなことはない。冥土までもいっしょですね」
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (66) 遠山良作 著
10月11日
―「メイミヨー」の公判廷―・・・1・・・
運動のために外に出る。雨期も終わったのか、今日の空は高く、澄んでいる。すがすがしい内地の秋空が思い出される。灰色の壁に囲まれた薄暗い独房とは全く異なった外の空気は甘くおいしい。塀の片隅に生えているトマトの小さな青い実が光っている。誰も、もぎ取ろうとしない。みんなこの小さな一本のトマトに慰められているのかも知れない。
この狭い庭を僅かな時間であるが歩きながら、友と語るひとときは楽しい。またいろいろな話をする場でもある。山田大佐は、岡田通訳から聞いたと言って、次の話をしてくれた。メイミヨーの公判廷で「カーサーケース」として清水中尉、菅原准尉、橋口曹長、光安曹長の4名に死刑の判決があった。この即決囚をメイミヨーからラングーンに移送途中、光安曹長が逃亡したのである。手錠を掛けられたままよくも逃げられたものである。逃げるからには背後に彼を助けてくれる現地人がいなければ不可能である。どうか無事に逃げてくれ、と祈るのみである。
5月(22年)からラングーンの法廷の外に「メイミヨー」にも戦犯者を裁く法廷が設置され、ビルマ北部に於ける事件はこの法廷で裁判をしている。今までにこの法廷で判決を受けた者はすでに17名であるが、全員が西独房に収容されているので、詳しいことは分からない。
11月3日
午後3時半頃である。一人の英人が私と、タキン党事件の関係者を呼び出しに来た。彼の後について行くと、メインゲートの横の広場に来た。そこには既にタキン党事件で死刑の判決を受けて西独房にいる東大尉たちが来ていた。数人の英人将校は緊張した様子で私たちの来るのを待っていたかのようにタキン党事件の確定判決文を読み上げた。
15年の刑から10年に減刑された。東大尉たちの死刑の確定は、予期していたとはいえ、ハンマーか何かで脳天を打たれたような気がした。この悲しみの中にも7名の友の減刑は喜びである。
死の宣告を受けた東大尉に、分隊長殿と手を差し伸べて何か言わんとしたが、あとからあとから涙があふれて言葉にならない。また何と言って慰めたらよいか、その言葉さえ見つからなかった。ただ「あとのことは心配しないで下さい」とひとことだけ言う。
東大尉は「遠山、体だけは大切にしろよ。日本に帰ったら1日に5分で良いから日本の国のことを考えることだけは忘れるな」と言われた。中山少尉とも、涙で最後の別れをして東独房に帰った。
判決文死刑確定を平然と
読みあぐる英兵の 横顔かたし
言葉なく 堅き握手に別れきぬ
明日処刑の 東大尉と
死の決まる 宣言文を 聞きおわり
君は静かに 顔を上げたり
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
―落下傘諜者を追跡して・・6・・
これではB村に着くには夜になっても到着しそうもない。やむを得ず木を切り「イカダ」を組んで銃、衣類、食料を積んで裸になり「イカダ」につかまって下流に向かって泳ぐことにした。時は雨期である。茶褐色の河は水かさを増し、ゆっくりと流れている。30分も河に漬かっていると体が冷え切ってくる。そのたびに上陸しては焚火で体を温めては又泳ぐのである。3時間くらい泳いだと思う。
ようやく目的の部落が見えた。突然、バリバリと凄まじい大きな音に度肝を抜かれた。その音は40頭くらいの象の群れであった。部落民が作っていた陸稲を食べていたところを、突然現れた私たちに驚いて逃げていく音であった。
この部落には人一人住んでいなかった。再び「イカダ」につかまり、下流にある部落にたどり着いたときは、すでに日は暮れていた。ここの部落民に、B村より「イカダ」を組んで泳いできたことを話すと、驚いて「この河にはワニが棲んでいる。マスターたちは運がよかった。水浴する水牛など、14フィート(4メートル位)もある大きなワニに襲われることがある」
「だけどワニなど1度も見なかったよ」
「ワニは通常川底に潜んでいて獲物が来ると川底に引っ張り込んでしまう」と言う。ワニがいるとは知らずに泳いだ河は忘れられない。
この捜索にはいろいろの思い出がある。或る部落では、生まれたばかりの子象を毎晩襲いに来る虎から1ケ月も守った親象の話も聞いた。
逃げた彼らに関する情報がぱったり途絶えて久しく、タイ国に逃亡したとの情報もあったので、象を雇い背中に荷物を積んでビルマとタイ国境にそびえている嶮しい山脈を越えてタイ国境まで捜索に行ったこともあった。
この捜索が私の裁判の証人として立ってくれた警察官であったチヨミー、アオンチーたちとの出会いでもあった。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (64) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・12・
―落下傘諜者を追跡して・・5・・
逮捕した諜者は英印混血児である名をホード中尉だと言う。彼は足に負傷していたので逃げることができなかった。落下傘で降下するとき、落下傘が木に引っかかりその際負傷したとのことであった。彼の任務は無線士でインドに駐留している英軍と連絡する任務である以外のことは、一切自白しない。さすが英軍の将校である。彼は腹巻に金貨(10円銅貨大)98枚、地図、日本軍が発行していた軍票を持っていた。他に無線機一台、暗号書、拳銃一丁を押収した。明るくなったので逃げた二人を追跡したが、その行方は分からなかった。
浜田曹長は逮捕したホード中尉と押収品を持って、状況報告のため分隊に帰った。残った我々で二人の追跡を続けた。
二人の逮捕は時間の問題であると思っていたのにどこに消えたのかその後何の手がかりもないまま1カ月は過ぎた。
乾期もいつしか雨期になり、毎日降り続く雨との戦いの明け暮れである。一日に30キロから40キロは歩くのである。宿泊地は竹と木の葉で作った高床式のニッパ葺きの小屋である。上から下までズブ濡れになった衣類を乾かして、その日の夕食をするのである。その食事にも困った。米はどこの家にもあるが副食物がない。どんな家でも鶏は放し飼いにしているので、それを買い上げてそれを塩焼きにして食べた。
野鳥のように引き締まった肉の味はたまらなかったが1カ月も昼も夕食も食べていると鶏の肉を見ただけで食欲がなくなってしまう。現地人は木の芽、野草類を摘んで塩汁を作り、それにナピー(魚と唐からしを入れて塩から風にしたもの)が常食であるが、私たちの口にはなかなか馴染めない。野菜を作らず焼畑米作のみで生活している彼らから野菜を求めることは不可能であった。
とにかく早く彼らを逮捕して帰りたい。あせりの気持ちは私ばかりではなかったと思う。そんなある日のことであった。A村からイエ町に沿っている河の下流にB村があることを知った。まだ一度も行ったことのない部落である。現地の案内人を雇い20キロくらいあるB村へ行くことになった。河に沿っている道はだんだん細くなり、とうとうなくなってしまった。案内人は「ダ」(常時、携行している山刀)でジャングルを切り開いて進む。500メートル進むのに1時間もかかる。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (63) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・11・
―落下傘諜者を追跡して・・4・・
捜索を始めてから12日目であった。ユン村(カレン人部落)の近くの山中に諜者らしき者が3名潜んでいるという情報を得た。浜田曹長の班と合同して、夜明けを期して急襲することにした。
情報を提供してくれた現地人を案内人として、夜中からの行動である。これでも道かと思われる山路を歩くこと3時間、谷底からせせらぎの音が聞こえてくる小高い所に来ると、案内人は谷底を指差して「あの谷にいる」と言うのである。
彼らが潜んでいると思われる場所に行くにはただ一本の道が下方に向かってあるのみで、右も左も深いジャングルで覆われているので一歩も踏み入れることはできない。一本道をしゃにむに進む以外に方法はない。夜明けが近くなって、浜田曹長を先頭に、私たちは息を殺して這うようにして少しずつ進む。木の葉の間より黒いものが動いている気配がする。
まだ気付いている様子はないが、彼らがどんな武器を持っているのかの不安があった。こちらは警察官が持っているライフル銃4丁と私たちが持っている拳銃3丁のみである。撃ち合いになれば双方に犠牲者が出ることは必至である。
それを避けるためにも少しでも彼らに近づくことである。谷川のせせらぎと暗闇が幸いしたのか30メートル位まで近づいた時である。彼らの一人が何か叫ぶような声がしたと同時であった。先頭の浜田曹長の「突っ込め」の合図があったので発砲しつつ、彼らに向かって殺到した。
余りにも気づくことが遅かった彼らである。反撃一つせず1名を残して逃走した。残された1名を逮捕すると共に逃げる2名を追跡したが、あたりはまだ暗く不案内な地形のために見失ってしまったので、夜明けを待って追跡することにした。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (62) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・10・
―落下傘諜者を追跡して・・3・・
インドに逃亡中のカレン人の兵士が諜者として侵入した恐れもあり、カレン人部落を重点的に捜索することにした。附近一帯は広大なジャングルに被われた山林地帯である。点在しているカレン人の部落は隣りから隣りの家に行くにも2キロも3キロもあるのが普通である。
人ひとりようやく通ることが出来る山路を部落から部落へと目に見えない諜者を求めて捜索すること一週間、それらしい情報があると、夜でも現場に駆け付け情報の確認につとめたが、諜者が確実に潜入したとの情報を得るまでに至らない。捜索隊長である浜田曹長はこの事件は長期に亘ると判断して、長期戦に備えた。
応援のため部隊から来ている10名と補助憲兵2名、通訳もそれぞれの隊に返すことにした。危険を伴うとはいえ、少人数で身軽に行動することが相手にわれわれの行動を察知され難いとの判断から、班を二つに分けて、私と浜田曹長は互いに連絡をとりつつ別々に行動することにした。
浜田曹長はビルマ進駐以来の憲兵であるから日常会話のビルマ語は不自由しないが、私はビルマに来て間もないのでビルマ語を話すことが出来ない。頼りにしていた通訳のセンタンも隊に帰ってしまったからどうしてもビルマ語を覚えなければ身動き一つ出来ないのである。幸い私と行動を共にしてくれる警察官アオンチとチヨミー(裁判で弁護士側の証人であった)の二人は英語が出来る上に少しは日本語を話すことが出来たので、英語と日本語とビルマ語をチャンポンにして会話をする不自由さには閉口した。しかし用件だけは何とか通じ、事が足りるから不思議である。
捜索のためジャングル地帯に点在する民家に宿泊する毎日の生活である。夜になると遠くから虎の吠える声が叫ぶように聞こえてくることは珍しくなかった。
(註1) 焼畑農業とは、山林を焼き払いそのあと陸稲を栽培しては2、3年で移動しては新しい土地を求めて生活する農業である。
(註2) 浜田曹長、昭和20年戦病死 屋 伍長、鹿児島県奄美大島出身、昭和23年1月16日、シンガポール、オートラム刑務所にて戦犯者として刑死。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (61) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・9・
―落下傘諜者を追跡して・・2・・
現場はイエ町より5キロ程北方の部落である。村長たちの案内で落下傘を発見した場所に行った。そこは部落のはずれにある見通しの良い原っぱであった。発見した現地人の話によると、「当日農作業のため、たまたまここを通りかかるとあの木の枝に落下傘が引っかかっていたので村長に届けた」と高さ10メートル位の木を指差して説明してくれた。
現地附近に何か遺留品らしきものが落ちていないかを捜索したが、それらしいものは見付けることは出来なかった。しかし現場の状況から判断すると、確かに英軍の飛行機から何者かが降下したと判断されるが、ただ落下傘諜者が降下したならばなぜ落下傘を処分しなかったのかの疑問は残るけれども諜者が潜入した疑いが濃厚であるので、附近一帯の捜索を開始した。
先ず部落民を集めて英軍の諜者らしい者、あるいは、ふだん見かけたことのない者を見た者、食糧らしきものを部落の外に運んだ者はいないか等の聞き込みを始めた。
部落民たちは「この部落(ビルマ人)を除いてこの付近一帯はすべてカレン人の部落である。きっとあのカレン人の部落に逃げ込んだ」と言うのである。
カレン人は主に山岳地帯に住み、焼畑農業(註1)に従事している少数民族である。英国はビルマを支配する政策の一つとして多数派である仏教徒のビルマ人に対抗させるために、カレン人を優遇し、キリスト教を布教したので、彼らの大部分はキリスト教徒であり、親英的である。日本軍がビルマに進駐するや英軍に従って印度に逃亡したカレン人の兵士も少なくなかったとも聞いている。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (60) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・8・
―落下傘諜者を追跡して・・1・・
寝静まった獄房の中で一人
「神様、私のような者でもこの世の中で何かお役に立つことがあるならば生かして下さい。しかし生きていても何の価値もない人間であるならば、ここで死ぬるともやむを得ません。」と祈った。この祈りが聞かれたかも知れないと思うと、目には見えない神様からのみ手が重くのしかかって来る感じさえする。
そればかりではない。穴沢弁護士さん、戦友、証人に立ってくれたビルマ人の友情によって生きられたこの生命、大切にしなければならないと思う。
ビルマの友よありがとう。
日本の勝利を信じつつ戦った、当時のことが昨日のことのように思い出となって次から次へと脳裏に去来する。
北支那(中国)からビルマ野戦憲兵として転属してモールメン憲兵分隊に赴任したのは昭和18年1月であった。それから間もない4月の暑い日のことである。情報収集から帰って来ると、モールメンから南へ100キロ以上もあるイエ町附近の部落から来たと言う二人のビルマ人が、落下傘らしきものを持って、憲兵隊に届けに来たことがあった。
彼らの話によると、「3日前の月夜の晩であった。村の上空を低空飛行で、幾回も旋回して何慮かに去って行った飛行機があった。翌朝その附近の原野の木立の枝にこの落下傘が引掛かっていたのを村人が見つけて届けに来た」と言うのである。
それは確かに英軍の落下傘だと思われる。血みどろの戦いをしている前線では、夜間低空飛行は旋回しては飛行機から落下傘諜者を味方の陣地後方に降下させる例である。英軍からの落下傘諜者が潜入した疑いがあるので鈴木磯次郎分隊長は捜索隊を編成して現地に派遣することにした。
私と浜田曹長、屋(おく)伍長(北支五期生)、補助憲兵2名に捜索を命じた。なおビルマ人警官3名と、部隊から下士官以下10名の応援を得て、私たちはその翌日現地に急行した。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (59) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・7・
―タキン党事件に思うー・・2・・
インパール作戦に敗れてからの日本軍は優勢な英軍の前に撤退に撤退を続け、首都ラングーンの防衛さえ叫ばれる、敗色濃いビルマ戦況であった。この弱体な日本軍と行動を共にするより、むしろ英軍に協力することが彼らに有利だと考えたのかもしれない。しかし、今まで日本軍に協力してくれた彼らの行動を見るかぎり、英軍に寝返ることは、私には考えられないことであった。
日本軍がビルマに進攻作戦を開始するや、タキン党は直ちに独立義勇軍を編成し、日本軍の先頭に立って道案内をし、また武器をとって英軍と戦いつつ、モールメンに進撃した。このビルマ独立軍を迎えた民家は「ドバマ、ドバマ」と叫びつつ歓喜して迎えた様子を語ってくれる彼らの表情は明るく希望と喜びに満ちていたことを忘れることは出来なかった。
われわれ憲兵に対して、常に積極的に情報を提供してくれた彼らの行為は、支那大陸の戦線で冷たい支那民衆の目になれている私たちには、その違いをはっきり知ることができた。
どんな田舎の部落でも一人で情報収集に行くこともできた。彼らはみな“マスターよく来てくれた”と食事を出してくれる。ビルマの食事には必ず出してくれる「ナピー」と呼ぶおかずがある。強烈な悪臭は食欲をなくしてしまうが、馴れてくると臭いも気にならなくなる。
その材料は魚を塩と唐辛子で漬けた塩辛に似ている。目から涙が出る程辛い。それを指でつまんで分けてくれる。私たちも同じように5本の指でご飯を丸めて口に中に放り込んで食べるのである。彼らの言葉の中に「かつての英人は私たちとは決して一緒に食事をしなかった。彼らはわれわれを見下し、軽蔑していたが、日本人は違う。顔も似ているし、食事も一緒に食べてくれるから親しみ深く、好きである」とどのビルマ人もよく言う言葉である。
この親日的で底抜けに明るいビルマ人が日本軍を裏切るとは考えられないし、信じたくないのである。しかしタキンタントから提供された情報であるだけに確度としては信用のおける情報である。
この情報を藤原班長と東分隊長に報告した。分隊長は東南憲兵隊長及び司令部にも報告された由であったが取り上げられず、捜査すらしなかったが、その約一か月後にビルマ国軍が反乱したしたのである。
その後私は、カラゴン地区に駐屯していた印度独立義勇軍の動勢探査を命ぜられ、チャイマロ町にいた時に終戦を迎えたので、タキン党事件には直接関与しなかったが、その端緒とも思われる情報提供者である私が死刑の判決を受けずに、これからも生きようとしていることは何か重荷を背負わされている思いである。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (58) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・6・
-裁判-
―タキン党事件に思うー・・1・・
死刑は免れることはないと思っていた二回目の事件は、穴沢弁護士や、ビルマ人の友情によって助けられた。15年の刑を受けて東独房に帰って来た私を、運動に出ていた出田大佐たちは、「よかった、よかった。生きていればいつか必ず日本に帰れるからなあ」と肩を叩いて喜んでくれたのである。
今まで自分の裁判のことのみで死刑の判決を受けている東大尉たち10名の友が西独房にいることすら忘れていた自分が恥ずかしく、申し訳なかったと思う。
タキン党事件で死刑を受けている多くの友は、怒涛の如く攻め寄せる優勢な敵の包囲網を突破して、ようやくモールメンに辿りついた者たちである。タキン党事件で殺されたあのビルマ人たちが、日本軍に対してどのような役割をなしたのか、詳細には知らないと思う。ただ命じられるまま、現場に行き彼らを斬ったからである。
そもそもこのタキン党事件で彼らを逮捕したきっかけは私のような気がしてならない。否、張本人かも知れないのである。
昭和20年2月も終わりに近い暑い日の出来事であった。私と親交の深かったモールメン地区のタキン党の幹部であった、タキンタント〈印緬混血〉から、「明日の夕方6時に街外れにあるモッポのパゴダ〈寺院〉に通訳を連れず一人で是非来てほしい。話したいことがある」との連絡があった。私は唯事ではない・・・。「何かあるな」との予感がした。拳銃を懐に忍ばせ高鳴る胸の動悸をおさえて指定された場所に行った。日中の灼けつくような太陽はすでに西の空に沈み、僅かにそのあたりはぼんやりと明るさが残っている。
しかしパゴダの付近は薄暗かった。まだ早かったかなと思いつつ、塔の中央付近まで歩いて行くと、何処ともなく現われた大柄なタキンタントは人目を避けるようにパゴダの陰に身を寄せて、“マスター”と呼びかけて来た。そして私に思いもよらない情報を知られてくれたのである。
彼「ビルマのタキン党とビルマ軍は間もなく、日本軍を叛乱するであろう」
私「それは本当であるか」
彼「本当である。タキン党員でモールメン地区の責任者である私が言うのだから間違いない」
私「モールメン地区のタキン党員もその一味であるのか」
彼「そうです。ただ誰と誰がその関係者であるのかの名前は私の口が話すことではない。その人物はマスターの方で調査して下さい。これ以上詳細にお話しすることは出来ない」と一気に私に話してくれた。私は彼の言葉に驚きつつ、質問を続けた。
私「こんな重大な情報を何の理由で私に話すのか」
彼「私は同志を裏切るような行為は本当はしたくない。むしろ同志にはこころ苦しく思っているが、再び英軍がこのビルマに来ることだけは許せない。この英軍に協力しようとしている同志たちにときには憎しみさえ感じる」と言う。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (57) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・5・
9月26日
―裁判―・・2・・
二日目からは、"セヤオンバーの拷問致死″を立証するために、検事は証人モンピンを証言させた。彼は、「私は1945年4月11日セヤオンバーと共に憲兵に逮捕され、憲兵隊に留置されました。遠山がセヤオンバーを取り調べるために房から連れ出すのを何回も見ました。45年4月19日の22時頃、遠山と通訳センタンに助けられたセヤオンバーがよろめきながら房に戻って来たのを見ました。その翌朝、セヤオンバーが死んだ、といって二人の番兵が房から連れ出しました」。
続いて証人オンペイの証言は、「連合軍のスパイを助けたという疑いでセヤオンバーたちと共に憲兵隊に逮捕されました。セヤオンバーは私の隣りの房に入れられていましたが、遠山は彼を取り調べるために何回も房から連れ出しました。帰って来たセヤオンバーは、弱々しく疲れ切っていました。4月19日の夜、房に帰って来た彼は歩行困難で通訳と日本人に助けられ房に入れられました。翌朝、セヤオンバーの房内にいた一人が、番兵にマスター、セヤオンバーが死んでいる、とビルマ語で叫んだのを聞きました。それから二人の日本兵が来てセヤオンバーの死体を房から出したのを見ました」。
検事側証人の証言が終わると間髪入れず弁護士の鋭い反対尋問が行われる。検事から指導された証人も、答弁できず狼狽し、はっきり虚言であることが分かる証人もいた。
三日目を迎えた朝、私は警備に英兵に連れられて便所に行った。用便を済ませた時に、突然大便所の戸がパッとあいて出てきた者は思いがけない、センタン(検事証人元憲兵隊通訳)であった。私は思わず、「おお、センタンか、お前が調書に書いた通りの証言をしたら俺はきっと死刑になるだろう」と叫ぶように言った。センタンは無言のまま、私をじっと見つめて立ち去った。
センタンの供述している調書とは、「セヤオンバーは連合軍の落下傘諜者を助けた廉で憲兵に逮捕留置されました。遠山はある程度のビルマ語を話せたけれども、私を通訳に使いセヤオンバーを取り調べました。自白させるために、たびたび拷問をしたので歩行が困難になり、そして間もなく彼は、死にました」と供述し、調書に「サイン」をしていた。
センタンは検事側の最も有力な切り札とも思われる証人である。検事はセヤオンバーが死亡した原因は拷問の結果であることを立証するためにセンタンを証言台に送って訊問した。
センタンは「遠山は、セヤオンバーを取り調べたが、決して拷問しなかった。セヤオンバーは逮捕された時心臓が悪いと私に話したことがあり、病死であったと思う。彼の検屍に来た日本の軍医も病死である、と話していた」。と証言するセンタンに、検事は驚いた。机を叩き威圧するような大声で訊問をくり返した。センタンの証言は、ますます検事側に不利になるばかりであった。検事はついにあきらめ、途中で訊問を中止してしまった。
センタンの証言が、検事を裏切る、予期もしない証言をした理由の一つは、
終戦直後、わたしが戦犯容疑者としてモールメン刑務所の独房にいた頃のことである。日本軍に協力したとの理由で多くのビルマ人が逮捕され同じ刑務所に留置されていたが、「センタン」はその一人であった。日本軍に協力したために牢獄で呻吟している彼等の姿を見て私は哀れに思った。センタンに「戦争に敗れた俺たちがここに入れられるのは仕方ないが、お前たちまでこんな目に合わせて申し訳がない。英軍は何の取り調べをしているのか」。
センタン・・「戦争中憲兵はどんな悪いことをしたか、憲兵に協力した者は誰であるか等のことを調べている」。
私・・「憲兵の悪口なら何を話してかまわない。これから英軍に協力すると誓って早くここを出ることが大切である」と彼に話したことがあった。
センタンの調書は、その頃、英軍の取調官によって作られた調書である。検事側の全ての証人調べは終了した。続いて被告である私は証言台に立って次の証言をした。
「セヤオンバー及びアネーを取調べするに当たって一つや二つは殴打したと思うが、彼らが証言したような拷問はしなかった。セヤオンバーは老齢で、しかも病弱であった。死因は心臓病であると軍医は診断した」と証言した。
弁護士側の証人である、アオンチー、チョミーはビルマの警察官であったが、日本語を若干話すことが出来たので、憲兵隊に勤務させて、時には通訳として使っていた。
チョミーは・・・「遠山は取り調べを行う時、決して拷問などしたことは一度も見たことがなかった。セヤオンバーは病気で死亡した」。
アオンチーは・・「遠山はを取り調べた時、私も通訳をしたが彼は決して拷問をしなかった」と証言した。
他の三人のビルマ人も直接事件とは関係なかったが、「遠山は温和で立派な憲兵で住民は彼を尊敬し、慕っていた」と具体的な例を挙げて人格証言をした。
すべての証人調べは終わり、検事は論告を読み上げ死刑を求刑した。
大沢弁護士は「セヤオンバーの死因は検事側証人センタン及びアオンチーたちの証言で病死であることは明らかである。アネーを拷問したとの証言は彼等によって作られた虚偽の証言である」との弁論を読み上げ無罪であることを主張した。
裁判長の判定は致死を除き有罪を宣し、禁固15年を科した。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (56) 遠山良作 著
昭和22年
―タキン党事件の裁判の状況―・・4・
9月26日
―裁判―・・1・・
22日から「遠山良作ケース」として始まった。裁判は、毎日が生きられるか、死ぬのかの戦いであったが、今日はただ判決を待つのみである。いつものより早く目が覚めた。外はまだ暗い。歩哨の靴音のみが、カツカツと闇の中から響いて来る。
〝死の影″に怯えつつ過ごした牢獄の生活で、人間の弱さ、無力を知った。頼れるものはただ全能の神であることも知らされた。今朝も一人神のみ前に祈る。
「神様、私は裁かれることは致し方ありません。死ぬことも、生きられることも、すべては神様の御手にあります。けれども私は生きて両親が待っている日本に帰ることを願う哀れなる者であります。どうかこの願いを聞き入れてください」とひたすら祈る。
私に判決を下す裁判長は、重罪を科すことで悪評高い、ウオリッイ中佐である。法廷で証言する、証人の一言一句が、私の生命にかかわる証言である。弁護士と検事との論戦は激しく、すさまじい戦場での死闘の延長であるかのように思えた。
初日に検事は「アネーを拷問した事件」について、本人アネーを証言させた。アネーは「私は1944年(昭和19年)5月10日弟アロンたちと共に、ブリジヨン島で憲兵に逮捕されました。理由は、印度から潜入した英軍の諜者ISLD(ハロルド・ホーク)大尉と「ソーユーセイン」中尉(ビルマ人と支那人の混血)の二人を匿い、英軍の潜水艦で印度に帰したことを憲兵が探知したからです。
私は7月7日まで憲兵隊に留置され取り調べを受けました。その間、遠山をはじめ3名の憲兵からひどい拷問を受けました。
1 杖で頭部及び体をひどく殴打されました。
2 手をしばられて20分位天井からつるされました。
3 太さ3インチの鉄管で向こう脛を打たれました。
4 バケツの水を口から無理やりに注ぎ込まれて腹を蹴られました。
死ぬかと思うほどひどい仕打ちでした。1944年7月11日ラングーンに送られ、日本軍の軍事法廷で裁かれ、「インセン」刑務所で服役させられました。1945年4月26日、日本軍がラングーンから撤退したので、脱獄することができました」と証言した。
続いて「アネー」の証言を裏付けるために、「アネー」と一緒に逮捕した「インサン」が憲兵隊で留置されている時、遠山が「アネーを杖で打ったのを見たことがある」と証言した。
*文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」