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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (55)  遠山良作 著

昭和22年

 9月5日

 タキン党事件の裁判の状況・・3・・

 2回目の起訴

 2回目の事件で起訴されたなら、死ななければならない、と思い続けてきた事件は、ついに「遠山良作ケース」として一人だけ起訴された。

 担当弁護士は新しく日本政府から派遣された穴沢定志氏である。事務所に呼び出されて、彼から起訴状の内容について次のような説明があった。

    1  英軍の「スパイ」をかくまった容疑者「セヤオンバー」を逮捕し、調べをするに当たり拷問をして死に至らしめた。

    2  英軍の潜入喋者2名をかくまった罪で逮捕した「アネー」を取調べ、拷問した。この2つの事件である。

 私は穴沢氏に、「問題は、セヤオンバーの拷問致死の事件ですが、私が取調べ中に死亡しました。しかし死因は病死ですが公判で死亡した原因は病死であることを立証することは極めて困難です。私はもう駄目だと思います。死刑を覚悟しております」。

 穴沢氏「今から諦めなくともよい。とにかく裁判の対策を立てて病死であることを公判で立証することを考えましょう。それには、今までの判例から日本人の証言は少しも認めてくれないから、どうしてもビルマ人の証人を立てて争わなければなりません。誰か証人になってくれるビルマ人はいないでしょうか」。

 私「敗戦国憲兵のために証言してくれるビルマ人がいるとは思われません。日本軍に協力した者は、対日協力者として逮捕され、裁判にかけられているのです」。

 穴沢氏「この事件にはどうしてもビルマ人の証人が必要です。来るか来ないかは別にして、一度呼んでみようではありませんか」。

 その穴沢氏の強い要望に、無駄だとは思ったが、セヤオンバーが病死であったことを知っている、ビルマの警察官であった、チョミー、アオンチー他3人のビルマ人をモールメンから証人として呼び出すことを穴沢氏に依頼した。

 

9月12日

ビルマ人の証人

 弁護士と裁判の打ち合わせのために事務所に行く。驚いたことには、先日、証人として呼び出したけれども来るとは思っていなかったビルマ人5人がモールメンから来てくれたことである。懐かしい彼らとの再会、握手を交わす手のぬくもりが伝わる。

「マスター元気ですか、日本が戦争に敗けて大変なことになりましたね。マスターの裁判には私等が法廷で証言するから心配ない。きっと無事に日本に帰ることが出来るでしょう」と慰めてくれた。

現在ビルマを支配している為政者は、英軍であり、日本軍に叛乱をしたビルマ人のタキン党員である。彼等からみれば敵国人である私のために法廷で証言することは、彼等から何らかの報復を覚悟しなければならい。これを承知で証人になるというのである。

2年8ケ月、モールメンで勤務していた私は、彼等に一体なにをしてやったであろうか・・・。唯、戦争に勝つために、敵の情報を収集させ、利用してきた。だから彼等は、ことがあれば死をも恐れず勇敢に働いてくれた。

戦いが終わった今も忘れないでいてくれるビルマ人の友情に胸が熱くなるほど嬉しい。限られた短い時間内の打ち合わせ、積もる話も出来ないまま、再会を約束して別れた。 

    *文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

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 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (54)  遠山良作 著

昭和22年

 9月4日

  タキン党事件の裁判の状況・・2・・

 憲兵が住民のうちゲリラ活動の容疑者約80名を逮捕して取調べ、そのうち容疑のない者、容疑があっても軽微な者約54人を釈放し、容疑が証拠により明らかで、かつ重要な役割をした人物26名の処分についてビルマ方面軍参謀長四手井綱正中尉(終戦前印度チャンドラボースと共に飛行機事故で死亡)の命令で、やむを得ず憲兵が殺害に至った事情を立証した(中略)。93日、多数の英軍将校、および、遺家族らの傍聴するラングーン軍事法廷において、英軍の「ラーマン」中尉によって弁護団の作成した弁論が朗読された。

 弁論の要旨は、本件被告らによるビルマ人政治家26人を処刑した理由は、占領地の住民であるビルマ人らの日本軍に対する違法行為を中止させ、現に行いつつある違法行為を予防するためにやむを得ず戦時復仇として行ったのであるから、戦争犯罪とはならない合法的な行為である。もし戦時復仇が認められないとしても、本件の被害者26人はいずれも日本軍に対してゲリラによる敵対行為をなし、戦時犯罪を犯した者である。

 当時、憲兵はゲリラ活動の容疑者ビルマ人80人位を逮捕して取調べ、容疑のない者54人を釈放し、容疑が証拠により証明され、かつ重要人物26名だけをビルマ方面軍司令部の命令によって処刑したのであるから、その刑は減軽さるべきである。被告らに対しては、なにとぞ御寛大なる裁判をお願いします」。

 検事側論告の要旨は

 「本件の公訴事実については、検事提出の証拠書類の記載、検事側証人および被告人全員の証言によりその証明は十分である。本件の被害者26人は軍事裁判を受けることなく、すなわち弁護の機会を与えられることなく、被告人等に殺害されたのであるから、弁護人は戦時復仇を主張したが、本件被告人らによるビルマ人26人の処刑は秘密に行われたものであるから、戦時復仇は認められない。したがって被告人等を厳重に処罰すべきである。」

 弁護側はあらかじめ用意していた情状証人を出廷させて被告人等の情状を立証した。とくに、ビルマの貿易商ニザミ氏が被告久米大佐のために次の証言をした。

 「久米大佐は非常に立派な憲兵司令官でありました。ビルマ民衆をいたわってくれました。私が戦時中スパイの嫌疑を受け、日本軍憲兵に逮捕されましたが、久米大佐に助けられました。なにとぞ久米大佐をご寛大に御願い致します」と。その他被告のためにも情状証人を出して、各被告の情状およびその性格等を証言した。

 続いて裁判長は、被告人等に最後の陳述の機会を与えた。その際、被告久米大佐は裁判長に対して「私の部下達は私がビルマ人26名の処分の命令を下したため、これを実行したのであります。もし私が命令を下さなかったならば部下達はビルマ人26名の処分をしなかったのです。したがって責任は全て私にありますから、私はどのような厳重な処分を受けてもかまいません。部下達にはなにとぞ寛大にお願いいたします」と陳述した。これを受けて、部下の将校たちもその部下、下士官、兵ら被告をかばった。

 かくして23日間にわたる裁判は終了したのである。

 「註」 外山林一弁護士は現在甲府市で弁護士として開業中です。

*文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (53)  遠山良作 著

昭和22年

 タキン党事件の判決と裁判・・3・・

 9月4日

 タキン党事件の裁判の状況・・1・・

 昭和22年8月11日よりラングーン高等裁判所の大法廷に於いてタキン党事件の軍事裁判が開始された。武装したMP数人に警備され、法廷の正面に裁判官3人が着席した(中略)。検察側の証人の大部分が処刑されたビルマ人の遺族で、その内容は、家族が戦時中、日本軍憲兵により逮捕されて連れていかれた事実と、終戦後もその家族は帰って来ない事実を立証した。

 次に検事は、本件の検証調書を作成した係官を出廷させて、その検証調書を作成した状況を立証した後、被告人18人の供述調書の請求をした(中略)。

弁護人は次の諸点を立証した。被害者ビルマ人は日本軍に対しゲリラ活動をした事実を具体的に立証し、かつビルマ方面軍司令官より占領地の住民に対し「ゲリラ活動を止めよ。日本軍に反抗する者は厳重に処罰する」旨の治安命令が布告された事実を明らかにした。その後も反乱軍や住民ゲリラによって日本軍が各地で殺害され、その数は4000人以上に達し、憲兵だけでも90人が殺された。特に、ラングーンよりモールメン地区に退却のためシッタン河を渡らんとした日本人従軍看護婦20余名が反乱軍ゲリラのために全員惨殺された事実を明らかにした。

(中略)

 弁護人は英軍陸軍中佐ビルマ人ソチャードを証人として要請「昭和20年6月、7月、8月は英軍の爆撃が烈しく、日本軍は軍法会議を開くことが不可能な状態であった」旨を立証し、更に英陸軍大尉ビルマ人ソカイノを証人に要請、次の諸点を立証した。

 本裁判の始まる数週間前に、暴徒に殺されたビルマ国の国務大臣タキンミヤは生前「自分は本裁判につき、弁護側より証人として出廷し被告人等のために証言するのは自分の義務である」とソカイノ証人は語った旨を明らかにした。

 同証人はさらに「日本軍と同盟して英軍と戦ったビルマ軍が友軍である日本軍に反乱して日本軍を攻撃したこと。また本事件の被害者の中にはゲリラ活動をしなかった人もあったかもしれないが、大部分は反日活動をした者であるからこれらの人々が被告人等に処刑されてもやむを得ない」という人が多い趣旨の証言をした。

 弁護人は最後に、被告人全員を順次証言させ、各人の行動を認めた。(中略)

*文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (52)  遠山良作 著

昭和22年

9月4日

 タキン党事件の判決と裁判・・2・

 この事件を担当した、外山林一弁護士の調査報告記録によると、

 「本件の被疑者の内、補助憲兵安倍曹長と酒井軍曹はかつて田島少佐の部下でありました。それで田島少佐はその二人に対し、お前たちも何か戦犯の容疑があったら俺に話してみろ、俺が力になってやると、さりげなく話した。安倍曹長と酒井軍曹は、かつての上官であった田島少佐が、まさか英軍のスパイであろうとは夢にも知らず、二人は田島少佐に対し、本件のビルマ人26人を憲兵がトラックに乗せてチャイマロ山中へ連れて行き、日本刀をもって首を斬って殺した状況を詳しく話しました。

 田島少佐は二人から聞いた事実を直ぐに英軍調査官ダスチュゲス少佐に知らせたのです。同調査官は、安倍曹長を呼び出し、印度人通訳ワタン(戦時中日本憲兵の通訳)を使って取り調べました。安倍曹長はその取調べ内容から田島大佐に話した事実を密告されたことを悟りましたが、頑として否認しました。

 同調査官は止むを得ず取調室に田島少佐を呼び入れて、二人で安倍曹長を詰問しました。同調査官や田島少佐は「お前が最後まで否認するなら絞死刑だ。お前が自白しても検事側の証人には立てない。それのみか自白すればお前だけはすぐに日本に帰してやる」と脅迫、誘引、約束により自白を強要しました。

 安倍曹長は相当頑張りましたが遂に調査官に対して自白し、自白調書に署名指印しました。酒井軍曹も同じような取り調べを受けて自白し、詳しい供述書が作成されました。その翌日、安倍曹長と酒井軍曹は、ジープに乗せられ、調査官や田島少佐たちと事件現場であるチャイマロの山中に案内しました。二人は26人の死体を埋めた3箇所を指示しました。人夫がその3箇所を掘り起こすと合計26個の頭蓋骨が現われました。

 調査官はこれらを全部写真撮影し綿密な検証調査書が作成されました。調査官はその後も安倍曹長と酒井軍曹を取調べ、事件に関係している18名の被疑者等の行動を被疑者別に箇条書きにした供述の内容と、酒井軍曹の供述書が殆んど一致しておりました。

 事件の真相を把握した調査官はこれらの証拠を基にして、その他の被疑者を厳しく取り調べました。被疑者の将校4名と下士官2人を除き、全員が自白し、供述書が作成されました」。

*この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (51)  遠山良作 著

昭和22年

9月4日

 タキン党事件の判決と裁判・・1・・

 8月11日から開始されたタキン党事件の判決があった。

憲兵大尉  東  登  絞首刑

憲兵少尉  中山伊作  絞首刑

憲兵曹長  月館孝吉  絞首刑

他下士官  6名    絞首刑

憲兵上等兵 1名    絞首刑

憲兵軍曹  1名    7年

憲兵軍曹  1名    5年

補助憲兵  阿部曹長  2年

補助憲兵  酒井軍曹  2年   の判決である。

 死刑だけはないことを祈っていたことも空しく絞首刑10名の酷い判決に驚き、拭えども流れる涙は私だけではなかった。この事件は、英軍戦犯調査官たちがビルマにおける、憲兵が行った最大な残虐事件であると宣伝し審査に全力を傾けた事件でもあった。

 当時ビルマにおける日本軍の敗色は濃厚となり日本軍に協力し独立を目指して来たビルマ防衛軍は日本不利なりとの情勢を知るや、日本軍に対して反乱をし、各地においてゲリラ戦を展開した。

 昨日の友は今日の敵である。飢えと疲労で戦意のない敗走する多くの日本兵は殺害されつつあった。軍や憲兵隊司令部からも「反乱軍に関する情報を収集し、中心人物は抹殺すべし」との命令が発令されていた。

 モールメン憲兵分隊は、反乱軍と関係のある容疑者として警察本部長をはじめ有力なタキン党員たち約80名のビルマ人を逮捕し、取り調べた。容疑のない者、容疑が軽微な者54人を釈放し、ゲリラ活動の一味と決定した重要人物26名を、憲兵司令官久米大佐、東南憲兵隊長粕谷中佐の命令によって「全員、処刑した」。終戦20日前のことであった。

 さて、英軍当局は日本の憲兵を戦犯者に仕立てビルマ民衆の面前で裁判と言う裁きによって、民衆の反発心を日本軍に向け、英軍の権威の復活と民衆の心を把握する占領政策をとった。英当局は有力なタキン党員が殺された事件を民衆の前に明らかにすることが最も良い策であると、この事件の究明に懸命になった。彼等は終戦以来厳しい調査を開始したが、憲兵の口は固く、終戦後すでに一年有半を経過したが捜査は困難を極めた。

 英軍の調査官ダスチュゲス少佐は、戦犯容疑者として拘禁中の田島少佐が麻薬患者であり、英語を話せることに目をつけスパイとして刑務所内を探らせた。一年半も刑務所生活をしていた人が、なぜ麻薬患者であったのか。どうして麻薬を入手することが出来得たのか。ここに拭いきれない疑問が残される。

*この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (50)  遠山良作 著

昭和22年

6月27日

「ミヨンミヤ」事件の3名死刑さる

今日も朝から雨が降っている。時に激しく吹き付ける風は、真っ赤に咲いたネムの花を散らす。獄庭は赤い絨毯を敷き詰めたように染まっている。今朝も「ミヨンミヤ」事件の関係者3名の友が天皇陛下万歳と叫んで絞首台の露と消えて逝かれた。悲しい朝である。

昨夕のことである。あわただしい兵等の靴音がしたかと思うと、55師団工兵隊の岡見弘中尉、神野保孝中尉、片山四郎伍長の3名の死刑、大隊長村山大佐、塚本伍長、上甲上等兵の刑の確定を知らせる足音であった。

死刑の確定された3名は「皆さんいろいろと御世話になりました。皆さんもどうか元気で頑張って下さい。さようなら」の言葉を残して、この東独房から出て行かれた。この事件の内容はよく知らないが「ミヨンミヤ」に於いて墜落した英軍機の搭乗員を逮捕し、殺害した事件だと聞いている。

3名の死刑者を送る

激しく降る雨は獄を包む

赤く咲いたねむの花は

獄庭を赤く染める

今朝も微笑みて

断頭台に進みゆく3人の姿が

灼けつくように瞼に浮かぶ

こみあげて来る涙

ぬぐえどもぬぐえども頬に伝わる

すべては

明日を作る基礎(いじずえ)か

 

降り続く灰色の空を仰ぐ悲しい獄の朝である

「さようなら」の言葉残し、友3人断頭台に死に給うとは

*この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (49)  遠山良作 著

昭和22年

6月20日

 マカ不思議なところはこの独房である。検査をされて彼等から必要なものを取り上げられると、雑房にいる戦友(容疑者)は直ぐにその品物を整えてくれる。日記を書く鉛筆やトイレットペーパー、それに洗面兼用のバケツ代わりの、かんかんまで作って、食事を運ぶ度に少しずつ差し入れてくれるのである。本当に有難い。獄中の生活とはいえ無くてはならないものばかりである。監視する側の当局はこのことを知っているのか、知らないのか・・・、監視の歩哨たちもあまりやかましく言わない。実に大らかである。われわれ日本人との国民性の違いを改めて知らされた気がした。

 

 6月23日

 ­―戦友の出所­

 今日は戦犯者としての容疑が晴れて戦友が出所する日である。残された者は、私たち戦犯者、起訴中の者、取り調べ中の者の外に少数の残務整理(通訳者たち)の者のみである。今日まで1年半余の独房生活の中にあって、言葉では言い尽くすことの出来ない友情に涙を流したことは数えることは出来ない。空腹でどうにもならない時には、ジャングル野菜(雑草)を汁の中に入れてくれた。孤独と絶望の中に、生きる希望さえ失いがちの私を励ましてくれた友情は忘れることが出来ない。

 この友等が出所するのである。この友のために心から喜び、祝福しなければならないと思えども、今日まで支えてくれた友がいなくなるのである。これから一体俺等はどうするだろうと、不安と寂しさはどうすることも出来ない。心の底に渦巻く醜い己を覗いたような気がする。

 千藤君も今日出所する。彼は私の両親の住んでいる隣村(東野村)の出身者で、この刑務所に入るまでは一面識もなかったが、私が独房生活をしていることを知って、いろいろと御世話になった。耐えられない空腹の時に乾パンや煙草も差し入れてくれた。

 彼は「出所するから、両親宛に伝言があるなら伝える」と言ってくれたので、今日まで書いてきた「トイレットペーパー」の日記を家に届けて頂くことにした。しかし途中検査があって迷惑をかけてはと思ったが、彼は腹にでも巻き付けて持って行くから大丈夫だと言ってくれた。両親への手紙を、食事を運んできた食器の間に隠して持ち帰ってくれた。両親宛に手紙を書くことも、今日が最後かもしれない。

  出所する友に送る

 ビルマの前線で共に戦った友よ 

戦いに敗れた敗者への道は 

高い壁に囲まれた牢獄であった

毎日水の中に米が浮いているような粥

塩汁の中に幾すじかのジャングル野菜

何回も噛んで食べた

人間の生命の強さも知った

今日まで生きられたこともみな友の情けである

ゆるされて帰る友よ

憧れの祖国の山河は

君たちを力強く抱いてくれるであろう

死か生かの戦いの中で知り得た体験はきっと

焼野と化した焦土の中に立って

新しい日本を作ってくれることを信じる

 

ゆるされて 祖国に帰る 戦友達の 歌声高く 獄舎かけゆく

ともがらは みな帰りゆく 今日のわれ 淋しくもあり 嬉しくもある

帰りゆく 友に託せる 獄だより 我が帰る日を 知らせ難くも

手を振りつつ ゆるされてゆく 友がらを 独房にありて 我ら見送る

*この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (48)  遠山良作 著

昭和22年

6月19日

同期生・・2・・

 これ程まで勉強しなければならない理由は、成績の悪い者は元の部隊に返されるからであった。休日の日曜日なども外出する者は少なく、誰の顔を見ても目ばかりギョロギョロと光っていた。

 5月には教習隊創立記念日行事があった。余興に「酒は涙か吐息か」の劇で、光江の相手役、女給の役で私も出演したことがあった。外部からお祝いのために沢山の人が来た。その中に混じって美しく着飾った女給さんや芸妓さんの艶姿は眩ゆかった。彼女たちから着物の着付けや、化粧をした私の女装の女役に喝采されたこともあった。

 思い出の多い教習隊8カ月の生活を終えて、真新しい憲兵の腕章を巻いて、喜びと希望に胸ふくらませつつ、各々命じられた任地に赴任したことが昨日のように思える。

 私は仲の良かったS君と共に青島(チンタヲ)隊に赴任し、ビルマにも一緒に来たが隊が違い、会うこともなかった。風の便りに彼は戦死したとも聞いていたが、S君とこの刑務所で偶然にも会うことが出来た。

 私が「モールメン」から移されて間もない時である。棚一つ隔てた隣りの棟に英軍の捕虜(終戦前に英軍に捉えられた日本兵)が収容されていた。その中に彼を発見した。彼等は私たちと話すことを好まなかったので、私は大声で「S君」と呼んだ。彼は監視兵の隙を見て棚の近くに来てくれた。そして「戦闘中にマラリヤと赤痢のために人事不省に陥っていたところを部落民に捕えられて、英軍に引き渡されて捕虜になった」と話してくれた。

 彼はきっと悩んだことだと思う。だが、戦争も終わりお互いに無事であったことを共に喜んだ。われわれ戦犯容疑者と違って、彼等の給与は格段に良かった。煙草やチーズなどを棚の外から時折り投げ入れてくれた。その後、私が有罪になり、独房に移されてから彼は一度も連絡してくれなかった。彼にはもう昔の友情はなくなった。

 やはり英軍の捕虜である引け目からかも知れないが、生死を共にし、戦場で結ばれた友情だけに残念である。彼は。第一回の帰還船で帰って行った。青島隊で共に勤務した同期生の絹村も死んだ。小林もこの間5年の刑を受けてこの独房に来た。

 戦犯容疑者として取調べのために残されている同期生はまだ20数名いる。北支那からは100名近い同期生がビルマに派遣されて来たのに幾人の者が祖国の土を踏むことが出来るであろうか。

  一羽のつばめ

 日本に生まれたつばめの群れは 夢の国ビルマに来た

 ここは砲火の飛び交う戦場である そのために多くの仲間は死んだ

 やがて戦争も終わり 日本に帰る日が来たのに 

傷ついた一羽のつばめは飛ぶ力さえない

 

雨しぶく木陰に身をよせて 励ます仲間たちに言った

「日本の田や畑も荒れている つばめが来てくれる日を待っている

あの美しい自由の天地で 益鳥としての働きを」と

降りしぶく空を仰いだ

 

私はこの詩を書いて、同期生たちに送った。

「註」「急性肺炎」は特効薬ペニシリンが発見されるまでは死亡率の高い病気であった。英国のチャーチル首相の肺炎がこの新薬発見で助かったことは有名な話である。

*この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (47)  遠山良作 著

昭和22年

6月19日

同期生・・1・・

 北支那憲兵教習隊第4期卒業の同期生たちが「つばくろ会」を結成した。会の目的は「戦争犠牲者の遺家族及び戦犯者の留守家族を救済し、相互に助け合って、新しい祖国の建設に邁進する」ことを綱領に掲げての発足である。

 今までの独房にいる私たちのために残り少ない私物を監視兵とタバコに交換しては差し入れてくれた。また寄せ書きをして激励もしてくれた。いま家族まで援助してくれるというのである。思えば部隊から十数名の憲兵志願者の内か ら高井君と私が合格し、昭和十年十二月北京の憲兵教習隊に入隊した。当時の生活が今も走馬燈のように思い出となって瞼に浮かぶ。

 冬の北京は寒く、零下二十度以下になる。寒さと、厳しい訓練のために私はついに急性肺炎で倒れ、意識不明のまま北京陸軍病院の重病棟の個室に入院した。担当医師は山野軍医と看護婦は村崎恵都子という、若い看護婦さんであった。病院側の手厚い看護のお蔭で、四十度以上もあった熱が五日目には三十八度まで下がり、婦長さんは「もう大丈夫です」と言われた。死の一歩手前をさまよい続けた私の命は助けられた。

 入院一カ月、退院する日のことである。村崎看護婦は私に次のことを話してくれた。「私は今までに五人の肺炎患者の兵隊さんを看護しました。二人はこの病棟で死亡しました。二人は全快せぬまま病院船で内地に帰る途中、その一人は病気で帰ることは軍人の恥である、との理由で病院船から玄海灘に身を投じて自殺しました。全快してこの病棟から退院できたのはあなた一人です」と言って、泣いて退院を喜んでくれた。

 退院する私は、まだ上衣を着る時などは胸のあたりが痛くて我慢出来ないほどであったが、無理をして退院したので体力も十分でなく、実技(武術等)の訓練などは二ヶ月ほど免除された。疲れのためか教室でもよく居眠りをし、隣のS君が「教官が見ているぞ」と膝をつねって注意してくれたこともしばしばであった。だが入院の遅れを取り戻すために懸命に勉強した。

 消灯後に頭から毛布を被り外部に灯りが漏れないようにして、懐中電灯の光で支那語の勉強もした。ある時は寒さを耐えて、床から抜け出して便所の薄暗い豆電球の光を頼りに法律の条文を暗記したこともあった。そのために、すっかり眼を悪くして眼鏡を掛けなければならなくなったのもそれからである。 

     (写真は青島隊当時の筆者)

*この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (46)  遠山良作 著

昭和22年

6月18日

検査

 朝食が終わり、全員(死刑者を除き)運動に出してくれた。雨季に入っているので、空はどんよりと曇っている。みんなラジオ体操をしていると、所長が巡視に来たが、私たちは体操を続けていた。各房にかけてある名札を見ながら西側から東へと歩いて来た。そして私の房の前で足を止めたと思うと房の中に入って行った。所長について来た英兵が私の名を呼びに来たので体操をやめて房の中に戻った。所長は私の房の中にある、13個の「レーション」(英兵の携帯食料)を指差して「これはどうしたのか」と尋ねた。

 この「レーション」は東大尉が第二回目のタキン事件で起訴され西独房に移される日に、インセン刑務所(ビルマ人の監獄)に移されてから一年近くになる5名(カラゴン事件関係)とは全く連絡がないのでどんな生活をしているかも判らないが、「レーション」など支給されていないと思い、激励と慰問の目的でこの独房にいる全員から半分ずつ持ち寄り「インセン」刑務所に送る許可を刑務所側と交渉中であった。それまで保管するように依頼された品である。

 そのことを通訳を通して説明したが、所長は「インセン」刑務所に送ることは認めぬ、お前たちが食べなければ取り上げる。今後も支給しないと激しい言葉で言った。

 私は「この品は私個人のものではない。インセンに送ることがいけないのなら、出してくれた人たちに返却するから取り上げることだけはしないでくれ」と何回も頼んだので取り上げられることだけは許してくれた。今度は私の持ち物の検査である。50本入りの缶入り煙草と歯ブラシがあった。友たちが差し入れてくれた品物である。封も切らずに大切にしていたが、所長は支給品以外の品は所持してはならないと言って取り上げてしまった。再三返却をしてくれるように頼んだが無駄であった。隠して置いたペンも、鉛筆も発見されて取り上げられてしまった。

今まで何度も房の検査があったが、筆記具、日記等は破れた壁の間とか便器の下などに隠しておいたので何とか発見されずに過ごして来たが、今日は運動中であったので油断をしていた。書いた日記などはみな取り上げられてしまった。

所長はその時は私の房のみ検査をして帰って行ったが、しばらくしてから衛兵4人がきて両側から各房の検査を始めた。寝具、食器、水筒、衣類を除いて全部外に出すように命じた。私はトイレットペーパー、ローソク、日記、煙草7個(友よりの差し入れ品、)を押収された。

午後になって所長は英兵を連れて三度検査に来た。毛布と衣類、食器を除いてみんな取り上げられた。

 独房とはいえ一年以上生活していると、住居と少しも変わらず、掃除をするために雑巾や、洗面や食器を洗うための用器(缶)等はどうしても必要な品である。今日から日記も書けないと思うと情けなくなる。煙草は一週間に二個(十本入り)支給してくれるのに何故取り上げるのかその理由が判らない。

監視する側から見れば、自殺や逃亡のために使われるものは危険物として押収するのが当然であろうが、支給した煙草までも検査だといって取り上げるのである。ある友の話によれば「英兵たちも煙草の配給が少なくて不自由をしている」と聞いたが、本当かも知れない。病院から退院して来た者たちの私物を検査しては煙草を取り上げるという話を聞いたことがあるが、勝手な検査である。

我が書きし 日記便器に 隠せしを 気付かず英兵は 房を出て行く

「註」 「レーション」アメリカ製品で一個が英兵の一食分である。われわれには一日分として食事の代わりに支給してくれるが、内容はチョコレート、乾パンなどが入っているが量が少ないので空腹な食事である。

*この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (45)  遠山良作 著

昭和22年

5月18日

 母より三年ぶりに三通のハガキを受け取る。何べんも何べんも繰り返して読む一字一字が、温かい母の愛情を感じる。記憶にある子供の頃から、母は眼鏡を二つかけて筆を執っていた母の姿を思い浮かべる。幼い頃はよく洗濯に行く母について、村の小川について行った。浅い川辺にいる小魚をざるですくったものである。あの頃が懐かしい。母はまだ若かった。その母はいつも幻の中で孤独と絶望の中にある時、優しい声で私を励ましてくれた。戦犯者として遠い異国であるビルマの牢獄に繋がれている私のことを思い、どんなに悲しみ嘆いていることであろう。

  母より送られた歌

 目に見えず 声も届かぬ 遠き地を 吾子何時帰ると 心憂いて

 出征し子の 帰り来る日は 何日の日と 朝に夕なに 神に祈りて

 獄にいる 吾に届きし 母の文 しかと抱きて 今宵眠れり

 獄ぬ内の 吾に届きし 母の文 その筆跡の くきやかにして

 待ちいたる 母よりの手紙 届きたり 幾度もよむ 暗記するまで

 

6月16日

東大尉たちタキン事件で起訴

 タキン事件で久米憲兵司令官たち18名起訴された。その関係者である東大尉と中山少尉はこの東独房から西独房に移された。

 この事件は終戦直前に、ビルマ反乱軍である有力なタキン党員20数名を処刑した事件である。昨年、私たちがモールメン刑務所に収監されるや、東大尉は「反乱軍に関係した事件で取り調べを受けた場合は彼等はタイ国境で釈放したと答えよ」との緘口令を出していた。

 当時私はモールメン刑務所で行った首実検で、反乱国軍のボミー中尉はモールメン刑務所から「タキン」党の関係者を連れ出した時、「遠山」もいた。その後、彼等は帰らなかったから殺されたと思う、と私を指名したので処刑した容疑者の一人として何回も取り調べを受けたのである。

 誰一人としてこの事件について口を割る者がいないまま一年有余を経過した。焦った彼等は、戦犯容疑者としてこの獄に収監されていた田島少佐なる人物を懐柔し戦犯調査委員の「スパイ」として使い、モールメン憲兵分隊の補助憲兵であったA曹長とB曹長に甘言を以て接近し、ついに全てを自白せしめ、処刑した現場まで案内させ、全ては判明した。

 人間の弱さを巧みに利用した英軍の策に落ちた二人もまた犠牲者かも知れない。

  益良雄の 身をも忘れて 現蝉(うつせみ)の 己が身愛する 人もあるらし

  覚悟の上 髪を遺して 法廷に 立たる戦友の 決意思ほゆ 

*この文章の転載はご子息の許可を得ております。

 

 

 ビルマ

  戦犯者の獄中記  (44)  遠山良作 著

昭和22年

4月29日

天長節を迎えて

 灯のない夜の牢獄は長い。それだけに朝は待ち遠しい。まだ薄暗いと言うのに隣りの房から掃除をしている音が聞こえてくる。夜中、無数に飛び交っていた蚊も夜明けとともに何処かへ飛んで行き爽やかな朝を迎える。

 今日は天長節(天皇誕生の日)。昨日から今朝のために汲み置いた水で洗顔をし、残された唯一着の軍服を着ると、急に身が引き締まる思いである。高級部員出田大佐の指揮に従って、各房から一斉に「君が代」を歌い、そして東方に向かって遥拝と万歳を三唱して天長節を祝った。

 かつては大空に日章旗を掲げて陛下に弥栄をお祝いしたものである。今日は牢獄で祝う行事に感慨無量である。陛下も祖国の惨状を見てどんなにお嘆きになっていられることであろう。

 明けやらぬ ひとやゆさぶり 万歳を 今日の佳き日に 我等唱えり

4月30日

現地人の友情

 果てることもない苦しみの日々ではあるが、同房の田室さんは笑顔で、弁護士と次の裁判の打ち合わせから帰って来た。彼が戦争中に親交の厚かった「ユーセイ」(ビルマ人)は今も昔と変わることなく、彼のために協力を惜しまない。

 前の裁判(シャユワ事件)にも証人として証言台に立ち、彼のために弁護してくれた。今度の事件も弁護士側の証人として立つためにモールメンよりわざわざラングーンに来ている由である。我々敗戦国、しかも戦犯者の証人に立つことはビルマ国や占領国英軍にたて突くことを意味する。よほどの覚悟がなければ出来ない。当然、報復も予想されるからである。我々の仲間でさえ自分のために友を裏切ることさえ平気で行われている現状である。

 人間が落ちぶれて誰も相手になってくれない時、救いの手を差し伸べてくれるほど嬉しいことはない。現地人の証言のみを採用裁判であるから田室さんの公判もきっと有利になることと思う。「ユーセイ」よありがとう。

この文章の転載はご子息の許可を得ております。

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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