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ビルマ
戦犯者の獄中記 (43) 遠山良作 著
昭和22年
4月25日
―雨を待つ牢獄―
赤道に近いビルマは常夏の国である。日本のように季節の変わり目がなく、半年は乾期で、半年は雨季である。今が一番暑い乾期で、焼けつくような熱帯特有の、太陽の光は強烈で日本の比ではない。この独房は厚いコンクリートの壁に囲まれた、四畳半位の薄暗い狭い部屋で、北側に出入り口にあたる鉄格子の扉はあるが、南側には小さな明り取りの小窓があるのみで、風はほとんど入らない。房の中では褌一つでの生活であるが蒸れるように暑い。
昼はまだよいとしても、問題は夜である。蚊帳のない夜の房内は、無数の蚊がブンブンと人間の血を求めて外から入って来る。寝るためにはこの蚊を防がねばならない。顔も手も露出している部分は全部毛布やシャツで覆って眠るのであるが、顔を布で覆うので息苦しくてたまらない。昼は取り調べ、夜は蚊との戦いの毎日である。
雨でも降れば少しは涼しくなるのにと思う。同室の田室さんは「ビルマの水祭りも終わったからもう雨が降ってもよいのに」と独り言をいう。半年は降り続く雨、憂うつな雨期であっても、この暑さに比較すればまだましである。
雨よ早く降れと、祈る思いで鉄窓から夕空を仰ぐ。祈りが聞かれたように、遥かかなたに湧き上がる黒雲は低く、その動きは早い。目の前にあるねむの木の小枝は風に揺られてはらはらと枝葉を散らす。あたかも内地で見る夏の夕空にも似ている。
やがて大つぶの雨は歩哨の幕舎を強く打ち、軒のしずくは滴れる。長い間待ちこがれていた恵みの雨である。急に涼しくなった。この雨がしばらく続くと、今度は天井からポツポツと落ちてくる雨だれは部屋の真ん中に落ちて来た。「雨だ雨だ」と田室さんは叫ぶ。落ちる雨だれを石油缶で受ける。
この独房は英国の植民地時代に作られた平屋建ての古い建物であるから無理もない。涼しくなった代償は雨漏りである。狭い部屋で二人は今夜どうして眠ろうかと考える。
蚊に刺され 眠れぬ夜の 独房にて 生命のことを ただに思えㇼ
蚊帳なき ひとやにあれば 眠れ難く 目を閉じたまま 蚊を払うなり
***********
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (42) 遠山良作 著
昭和22年
4月15日
― 橋本氏ハンストに入る ―・・・続き・・・
大湖通訳より、外部からの差し入れがあった。そして、タバコの差し入れがあった。差し入れ人名には後藤一省とある。思いもよらない故郷の親戚の方である。彼がビルマ戦線に来ていることは、母よりの手紙で知っていたが、帰還船を待ってこの「ラングーン」「アロンキャンプ」にいることは驚きであり、また、喜びである。この刑務所から出所した友から私のことを聞いて、このタバコを差し入れてくれたことと思う。苛烈なビルマの戦場にあってよく生きてこられたものだと思う。
私は現在の心境と現状を書いて、家に届けてもらうべく依頼した。その内容の一部は ―中略― 私は昨年第一回目の裁判で6年の刑を宣告され、服役中であります。この手紙を後藤一省兄に依頼してお届けいたしますから、詳しいことは兄から聞いて下さい。
次に第二回目のケースとして、終戦直前に、敵の間喋容疑者を逮捕し拘留中に病気で死亡した事件で起訴されています。この戦犯裁判は形式的裁判でその実は政策であり、私たちの証言は一切採用されないのが今までの例であります。若し起訴されて、ケースが拷問致死であるとの判決があるならば、死は免れないと思います。しかし最後まで希望を棄てずに、正々堂々と日本人として恥ずかしからぬ態度で臨むつもりです。
神様が死ねとお命じなるなら死ぬでしょう。生きよとお命じなるなら生きるでしょう。全ては神様にお任せ致します。神とは、伊藤庄太郎先生(注・元大井教会牧師)より送って頂いた聖書の神であり、天地を創造された神、そして今も生きて働いて全てのものを御支配下さる本当の神様のことであります。
神様に全てをお任せしているとはいえ、この刑務所こそ私に相応しい死に場所かも知れません。今は聖書を唯一の読み物として、夜は祈りの時間にしています。敗戦、そして監獄での一カ年有余の生活は、私を人間的にも、正しく生きる道を教えてくれた、尊い修練の場でもありました。今は鉄窓さえ愛の窓であると思っております。
親は子供が戦犯の刑に問われて獄中にあることを聞いていたら、悲しみ、嘆かれることだと思います。しかし、戦犯者とは一般社会でいう罪人とは違って、連合軍の「ポツダム」宣言を日本政府は受け入れました。その義務を履行する者が戦犯者であります。
敗戦で苦しむ日本国民は、今こそ過去を反省し、目覚めなければなりません。全ては神が与え給うた試練であることを、率直に受け入れ、敗戦による苦しみを無駄にしてはなりません。これに逆らう時、日本は滅亡の道を辿るでしょう。
また、この戦いで多くの人々が死んで逝きました。この死も決して無にしてはなりません。今は、誰もが流さなければならない涙こそ尊く、その涙の中に光る希望こそ新しい日本の発見です。
今、私は何も言うことはありませんが、ただ神の愛を信じ、祖国の行く末が永遠に平和であることを祈るのみです。 以上
両親へ
***********
ビルマ
戦犯者の獄中記 (41) 遠山良作 著
昭和22年
4月13日
-橋本氏ハンストに入る-・・・続き・・・
両者の対立は暫く続いたが私は遂に結論を得た。―中略―
二人は己を捨てて俺を生かそうとしている。だが私の苦悶は大きく友が思う程価値ある人間ではない。内地に帰ってもつまらないことしか出来ないかも知れん。自惚れるな、自己をよく知れ・・・。
かくして私は遂に断食を決意した。真っ先に知らせねばならない兄等には、反対されることを恐れて知らせなかった。そうして所長に「ハンスト」を宣言してから知らせて、反対しても仕方がないようにした。
かくて一人で始めた断食闘争の経過は次の通りである。
先ずゴロツキ(英人)が夕食の半減食の飯を持って来たので私は、「お前の出鱈目の報告で俺は処罰された。取り消さねば死ぬまで喰わんぞ」と言った。ゴロツキは紙を出して、もう一度言えという。「お前は嘘つきだ、俺の処罰は正当ではない」。
ゴロツキはペンで書くことを止めたので、「俺が書いてやるから、紙と鉛筆をよこせ」と言った。
ゴロツキは立ち去った。次に営兵司令が来た。私は食事を喰わぬことを言ったので、司令は印度兵の少尉を連れて再び来た。私は彼に印度語で「私はガンジーを非常に尊敬している。死ぬまで英兵と闘うのだ。そしてガンジーのようにハンガーストライキをする」と言った。
私の言動は狂人に見えたかも知れませんが、私の不十分な初歩的英語とゼスチャーを交えて話したが通じたらしい。彼は煙草を1本くれた。歩哨からは、今までのことを聞いて、好意的に手を振りながら立ち去った。
次に森通訳を連れて印度兵の准将が来た。彼とは争いたくない。通訳を通して今までの状況を話した。彼は「飯は喰わねば死ぬよ。喰った方が好いでしょう」と言う。平凡ではあるが、確かに真理であるが、私は死は覚悟していると言った。その時である。所長が来た。准将からくわしい話を聞いたが私にはひと言も言わずに無言で私を見詰めた。私は所長の眼には今まで気付かなかったが弱々しさと苦悶を感じた。
所長は「明日まで待ってくれ、明日は何とかするから今夜だけは飯を喰ってくれ」と言う。私は「今夜だけは所長の言葉に従いましょう。しかし私は決して命を惜しんで食べるのではないことを理解して頂きたい」。所長は再び明日の昼まで断食を中止してくれるようにと言った。所長は自殺防止のためか房内に入って見回りしたが形式だけである。
翌朝私は再び断食を始めた。昨夜の所長の言葉で私の気勢を殺ぐためだと考えたからです。所長が約束した13日の午後2時に処罰された吾々3人は再び事務所に呼ばれた。そこには英人の曹長1名のみいました。彼は中山通訳を介して、以下の如く申しました。
「昨日の懲罰は所長より取り消された。所長は休暇のため当分帰国するのでその間代理の所長が来る。その申し送りに懲罰者がいることは具合が悪いからである」。
斯くして私の断食の意義を失い相手が断食のことに触れぬ以上待遇問題を持ち出すことも出来なくなりました。
結局断食は何の効果もありませんでしたが、この事件によって自分は真の友情を知ることが出来、価値ある男の涙を知ることが出来ました。又自分の信念を試すことも出来たと喜んでおります。」 橋本幸男より
田室、遠山兄へ
斯くして4日間に亘る彼等との闘いに終止符を打った。
「註」 橋本氏は仏教系の大学を卒業後僧侶の職にあった。
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この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (40) 遠山良作 著
昭和22年
4月13日
ー橋本氏ハンストに入るー
私は昨日断食闘争を書面を読んで、直ぐに、今は耐えていくべきであることを書いて二回も彼宛に送った。彼からは何の返事もないので心配していた。もし彼が断食闘争すれば、死ぬかも知れない。私は彼をどうしても死なせてはならない。彼の刑期は軽くあと二年か三年で釈放される身である。
彼こそ新しい祖国再建に必要な人物である。こんなことで彼を死なせることはできない。どうしても中止しない時は、われわれも彼のために断食して、彼一人を死なせないと心に誓いつつ、田室兄(同房)に私の真意を打ち明けた。彼は何の返事もしない。深い思いにひたっているようである。しかし彼の頬に白く光る一すじの涙を見た。長い沈黙の後ペンを執って何か書いている。橋本氏宛である。
私も橋本氏宛に断食を中止すべきことを書いている時、一名の英人が懲罰者三名を呼び出しに来た。それから十分位後に三名は帰って来た。その後である。橋本氏より次の手紙が届けられた。
「兄等は私のために流してくれたその涙が嬉しくもあり、また、怖くもある。私の人心は世間並みの生活を求める。道心は、大義の生活を要求する。そうして、道心を鞭打つのは、故松岡大尉(処刑さる)あり、桑原中佐あり、また兄等が加わった。そして兄等は私の将来を決定ずけんとしている。私は自己を裏切りたくない。そうして弱い一人の人間でしかない。その私に兄たちは私のために尊い涙を流してくれた。
私は4月12日に断食抗争を決意した時、或いは死なねばならぬぞと思った。若し自分の主張が通らず、おめおめと生きていたとしたら日本人の恥晒しとなる。―中略―
内地にはお前を待っている女性もいるぞ、また親や弟妹が待っているではないか、まだ誰にも「ハンスト」を宣言した訳でもあるまい。止める口実は幾らでもある。お前の同志は我慢しろと言っている。若しお前が斃れたら同志二名も死ぬかも知れない。それを口実にしろと人心はささやく。だが道心は叫ぶ。予定の行動ではないか、―中略―
「今度の抗戦は日本人が正直か、英人が正直かの戦いでもある。決して小さな意地ではない。例え他に迷惑がかかるとしても死によって償われるだろう」。だが同志は留めようとしている。「明日からパンを差し入れるとも言っているではないか。お前が死ねば同志も死ぬかも知れない。万一同志が行動を共にしないとしたら、友もお前のために汚名を受けるであろう。
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この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (39) 遠山良作 著
昭和22年
4月12日
―橋本氏一人でハンストを決意―
夕方である。橋本氏より鉛筆の走り書きで、次のような内容の書面が届けられた。
(原文のまま) 本日14時30分頃、所長に呼び出しを受け、半減食、並びに出房禁止10日間の懲罰を科せられました。その経緯は次のごとくであります。
今朝運動の監視に来た英人通称(ゴロツキの渾名あり)が頻りに訳の分からない怒り声を発して西側から順番に扉を開けて、運動と水浴をさせつつ、私の房に来ました。平常と違って運動の時間が長い者でも17、8分位だと感じました。規定では30分位ですから、その規定が改悪されたのかと思って、私は彼に英語で、「運動は何分ですか」と質問しました。私の言葉は平静であったと思いますが、彼は私を人間と思っていないので、しゃくに障ったらしく、数語の怒鳴り声を発して、何時ものポーズ(ボクシングの身構え)をとって私を威嚇し、「俺の勝手だ、何を文句言うか」と私には聞こえましたが、私は更に、「あなたの運動時間は非常に短い」と言った。私の態度は真剣でありました。その結果、私は運動を中止させられ房に入るように彼は言ったので、素直に服従しました。
その理由で所長より懲罰を受けたのです。所長は「故なく監視の英兵を撲ろうとしての身構えだ」というのです。私は本当のことを一生懸命に説明しましたが所長(印度人)は「お前は収容所監視の英人ともある者が嘘を言っているというのかと・・・」と決めつけてきました。ゴロツキの英人は傍らで平然と紳士づらをして立っているのです。
私は更に「私の言葉は真実です。もう一度彼に確かめて下さい」と言いました。所長は「黙れ・・・」と大声を発して私の発言を許さず、退出を命じました。私は格別腹も立ちません。むしろ、彼等の本質を哀れにさえ感じました。勝者である彼等の優越感を満足せしめたのかと考えると、戦犯裁判もこのように、審理され、成立しているのだと思いました。私はこの時、断食抗争を決意しました。
表面の理由は、「彼等の理不尽なる懲罰の取り消しを要求しての抗争でありますが、その折衝に当たって徒らに、我々を苦しめている「蚊帳問題」を取り上げます。「独生、独死、独去、独来」が世実なる相であるのです。私が起こした問題は私が解決しなければなりません。又私一人で充分すぎるほどです。
兄等は真に同志として、私の気持ちが良く分かっていただけるものと思います。若し私が斃れた時には然るべく処置を取って下さい。それまであくまで冷静なる態度でいて下さることをお願い致します。 橋本幸男より
田室、遠山大兄へ。
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この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (38) 遠山良作 著
昭和22年
―ハンスト計画の失敗―(2)
4月12日
橋本さんより、昨日の返事が来た。
「兄のお気持ちよく分かります。それは自分も同じ悩みに陥ったからです。昨夜は食事をとる勇気もなかったほどでした。しかし自分は、この棟に主義を同じくする者が確実にいることを知っただけでも無上の喜びです。断食抗争は私たちにとっては、最後の武器だと信じています。-中略-
在緬(めん)日本軍への覚醒と、各地の戦犯者、そして敗戦日本への警鐘を策した捨石的な計画であることはよく分かります。もし失敗すれば、死であり、成功しても、第二、第三の裁判を前にしている兄等に、彼等の報復を予期しての決意だと敬服します。
さてこの棟の空気を見ますと、おそらく、兄等の大いなる抱負を知っている者があるでしょうか。・・・・。知らないと思います。故に昨日賛同者が無かったことに対して絶望されることは、尚早です。まだ信じてよい人は多数あると思います。-中略-
今まで数ヶ月に亘ってこの独房で裸で交際し、信じ合って来た友人を、一朝の失意によって失うことは余りにも寂しいことです。それのみか、この棟が益々無力化してしまう結果を怖れます。私は今朝も英人と二回に亘り口論しました。英人は私を懲罰にすると言って名前を控えて行きました。
或る人はこのことを憂いて「みんなの迷惑になる」からと注意されました。要するに、この棟には二つの思想を持っている人たちがいると思います。共に必要だと思います。
-中略-
昨日の場合は、私は賛同者の一人であり、兄等は、発起人でありました。それが見事に失敗し、面目丸つぶれでした。しかし将来に対する自信も無くなり、無念さもあることと思いますが、水に流して貰いたいのです。-中略-
先回「「火の玉」の回覧を見ました。発起者の熱意に対して、反対者がどれ程あったか分かりませんが、あれも失敗しました。あの人等ももし真剣な考えであるならば、きっと裏切られたと思っているでしょう。英人に対する抗議で失敗するたびごとに貴兄たちのような失意者が増えて来ることを淋しく思います。
今の状態では何時かは爆発することと思います。私たちはまだ敗北者になる必要はありません。何時か好機が来たら再び行いましょう。又真に死を賭して呼びかけてくる者が出たら率先してその人たちに協力しようではありませんか。それまでは沈黙を守りたいと思います。-中略-
私の率直な気持ちを申し上げます。田室曹長にもお伝えください。橋本
遠山兄へ
橋本さん宛てに出した手紙の返事である。橋本さんは私に、もっと大きな心を持ちなさい、と私を諭しての手紙のように思える。「ハンスト」を実行することは、死ぬかも知れないということである。こんな重大な問題を、例え友人だからといって、そう簡単に賛成出来るはずがない。相手の心も考えずに感情的になった自分が恥ずかしい。橋本さん有難う。
憤懣の ここおさえて さりげなく もの言う吾は 淋しく思はゆ
我らみな 敗者されば ものを言う 権利さえなく 唯耐ゆるのみ
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この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (37) 遠山良作 著
昭和22年
4月11日
―ハンスト計画の失敗―(1)
殴打された事件解決のために、「ハンスト」を行うべきであることを独房にいる12名の者に呼びかけた。少なくとも7名以上の者が賛成してくれるものと思っていたのに、賛成者は橋本さん一人のみであった。この棟には現在29名いるのに、僅か3名で「ハンスト」を行っても負けであることは火を見るより明らかである。残念ながらこの計画を断念するより致し仕方がない。信じていた友に裏切られた思いである。
C君は運動の時に「遠山君よ。断食はどうしたよ」と問うた。
私は「3名ではどうにもならないから、中止です」。
C君「3名でやったらいいではないか」と言う。
私たちは死ななければならないかも知れないと、真面目に考えているのに、余興でもやるような、人を馬鹿にした言葉に私は胸の血は逆流する思いである。その思いをぐっとこらえて、平静をよそおい、「いやだめだよ」とやっとひと言返事ができた。
房に帰って、田室さんに憤りの言葉でそのことを話した。
彼は「それで良いのだ。分からない者には百言を費やしても、理解できないからなあ」と言う。
橋本さん宛てに次のことを書いて送った。
「昨日計画しました「ハンスト」は完全に失敗いたしました。今まで信じていた友に裏切られたようで口惜しく思います。友なんていざという時には、当てにならないとの思いで、無念でなりません。しかし、この事件で貴兄という友を得たことで満足です。
私は少なくとも7名位の同調者があれば「ハンスト」を実地すべきだと思っていたのに、貴兄は5名あれば決行すると言う。貴兄の意気込みには敬服します。
今後貴兄が死を賭して闘争するという時は、私は必ず協力するでしょう。しかし他の人が行う時は決して協力しないでしょう。
貴兄の刑は僅か3年です。後2年も辛抱すれば内地に帰ることが出来ます。貴兄の戦場は祖国日本です。祖国に帰って働いて下さい。私はそれのみ祈っております」。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (36) 遠山良作 著
昭和22年
4月9日
―ハンストを計画―(2)
こんなことを考えていた矢先に起きた昨夕の殴打事件である。私は同房にいる田室さんにもこの考えを話した。
田室さんは、島根県の出身者で北支の三期生で、私より一年先輩である。「シャンユウ事件」で3年の刑を受けているが、まだ他の事件で取調べを受けているので、近く
再び起訴されると思う。彼とはモールメン着任以来い共に行動し、また終戦直前には、もし日本軍が「ビルマ」から「タイ」国に撤退する時も近いその時は、「ビルマ」に残って、残置諜報の役をすることにして、その準備を進めてきた仲である。死なば共にと思っている。
お互いに気心もよく分かっているから直ぐ同意してくれた。私はその準備のために、今まで書いた日記は雑房にいる前原軍曹にこの決意を書いて、預かって貰うことにした。もし死ぬようなことがあれば、日記だけでも家に届けて頂くように依頼した。
この棟(独房)にいる友だちには「ハンスト」を実行する理由・目的を説明しなければならなかったが、監視が厳しいので、洗面場や便所で十分に話すことが出来ないので、文書を書くことにした。
監禁されている29名中の12名を選んで回覧し、同意を求めた。
文書の内容は
「今日まで戦犯者であることの理由で、英軍より不当なる取り扱いを受けてきました。今も蚊帳を取り上げられてこまっています。この件に就いては再三訴えてきましたが、取り上げてはくれません。それのみか、昨夕は英人によって友が殴打された事件さえ起こる始末です。私たちは黙ってこの事件を見過ごして良いのでしょうか。
いつも我々の背後にあって、力付け、応援してくれている日本軍もやがて日本に帰ってゆくでしょう。既に第一船、第二船は日本に帰ってゆきました。この友軍が全部帰って行った時、我々は心の支えを失うことになります。その時になってから、今まで以上の悪い処遇を受けるようなことがあっても、それに耐えてゆくか、或いは死を選ぶより道はないのです。
その時になってから私たちがどんな行動を起こしても、遅いと思います。一昨日の殴打された事件を契機として「断食闘争」する好機であると思います。戦犯者である我々が、断食した場合は、自然に「アロンキャンプ」にいる部隊にも知れることにとなります。例え我々の要求が刑務所側に受け入れられないとしても、内地に帰る部隊に、戦犯者が「断食闘争」をしていることを知ってくれたことのみでこの闘争の意義は十分に果たされると思います。生か死かの重大なる問題でありますが、私たちの趣旨を理解して賛成して頂きたいと思います。
この行動が幾人かの上級者にも相談せずに行うこと故、一時的には迷惑をかけるかもしれませんが、私たちの真意を理解して下さるなら必ず許してくださることと思います。
要求する事項は次の通りであります。
要求事項
1 歩哨が殴打した事件の解決
2 蚊帳を取り上げたことは、不当であるから返してくれること
右の趣旨に賛成者は氏名を書いてください
と独房にいる29名中12名に送った。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (35) 遠山良作 著
昭和22年
4月9日
―ハンストを計画―(1)
昨日夕方である。A軍曹と、その隣りにいるB上等兵とが話をしていたとの理由で、二人は房の外に出されて、英兵に殴打(5つ6つ)された上、罰として半減食にされた事件が起きた。
ここいる多くの者は、取調べ中に殴打したとの理由で裁判され、戦犯者の烙印を押されている。殴打されたB上等兵などは、捕虜を3つ叩いたとの理由で15年の刑を受けているのである。ただ話をしたからといって、殴打することは、戦勝国だからといっても許されないはずである。
敗戦以来われわれは英人に対して、自信を失い、どんな無理を強いられても、負けたのだから仕方がないと思って、言われるままに黙って従って来た。これで本当に良かったのかと、疑うことも、しばしばである。
今もこの獄房の片隅には沢山の蚊が昼でもいる。夜になると幾千の蚊が、私たちの血を求めて襲ってくる。この蚊を防ぐために刑務所は、防蚊油と「マラリヤ」の予防薬を毎日支給してくれる。夜になるとこの防蚊油を、露出している顔や手に塗って蚊を防ぐのである。防蚊油はいやな臭いがするので、蚊はぶんぶんと音を立てて、露出したあたりを飛び回るが決して止まることはない。しかしこの臭いも二時間位しか効力がないので、あとは上着や、じゅばんで顔や手を包んで防ぐのである。
雨期前のビルマの暑さは日本の夏と比較出来ない。その上、風通しの悪い独房であるから、たまったものではない。むし風呂に入ったようである。こんな日が幾日も続く。どの友を見ても、目に見えて痩せて行くのがよく分かる。私も不眠のためだと思うが食欲が減退して、15オンスの給与の食事も半分位しか食べることが出来なくなった。
この状態を刑務所側に再三訴え改善を要求した。また外部にいる部隊も、独房にいるわれわれに対する待遇改善について、交渉してくれた由であるが、一向に改善してくれないのみか、むしろ厳しくなるばかりである。
こんな状態が続くなら死んだほうが楽なような気さえする。捕虜収容所で捕虜の待遇が悪かったとの罪で所長であった田住大尉は無期の刑を受けている。この非道としか 思えない英軍に対して、これでもじっと耐えるべきか、それとも自らの力で何とか打開するかである。残された道はただ一つである。それは「ハンガーストライキ」で抗議する以外に道はない。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
昭和22年
4月7日
―過去の社会に思う―
敗戦は、大和民族が初めて経験する屈辱と悲しみに満ちた出来事であった。焦土と化した焼け跡の中に立って、国民の一人一人が過去に犯した罪について考えなければならない。
封建的な日本の社会は、地主と小作、金持ちと貧乏人、権力者と被権力者、支配者と被支配者等、秩序正しく保たれていたかのごとくであった。その実は、お互いの心の中は、不満と、不平に満ちた社会でもあった。敗戦の苦しみを通して、お互いが反省する時、敗戦の原因も自然に解明出来ると同時に、新しい日本を創造する鍵でもある。
明治維新から西洋の文明、文化を輸入して、西洋に追従し、西洋の真似による文明を築いて来た。そして富も力も世界の強国の仲間入りするまでになった。この著しい発展を遂げた物質文明は、物が全てであると信じるような風潮に陥り、精神面、心の問題が忘れられていた。
華やかな「アメリカのジャズ、ダンスホール」の隣りに神聖なキリスト教会があることに気付かなかった。金儲けをすることが人生の目的であり、幸福を得る唯一の手段であるとさえ考えていた人々も決して少なくなかった。私もその一人でさえあった。
正直でコツコツ働く奴は馬鹿者のやることだ、一攫千金の夢を見て大陸に渡った人、純粋で勤勉な農民の中にも、苦しい農村の生活を捨てて、華やかな都会にあこがれて堕落していった青年も少なくなかった。
明治政府は素早く、村々に学校を建てて学力の向上に努めた。その学問もいつしか生活の手段となり、能力、知識のみを尊しとして心の問題、人間性が無視された社会が生まれた。
そのように物質的なもの、目で見えるもののみを欧米から学びとり、その背後にあるキリスト教は欧米の宗教であると排斥して受け入れなかった。
中国の教えである儒教の教えを国是とし、国粋的な、排他的思想は間違った愛国主義へと駆り立てて戦争への悲劇の道を辿った。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
昭和22年
4月5日
―反省―(2)
林大尉は「鋭い反省である。過去に犯した罪の行為は、君ばかりではない。日本国民みんなが同じように犯したのだ。敗戦、そして牢獄の中にあって悩むだけ悩み、苦しむのだ。そのどん底に落ちて、心の毒素を流し、清めなければならない。そこから一歩一歩這い上がるとき本当に安らかな平和の世界があるのだ。それは君の努力によってのみ果たせる」と言われる。
東大尉は「お前はよくそれに気付いたなあ、それは尊い悩みである。お互いに自分の過去を振り返ってみると、その罪の深さに驚くが、その罪を神の前に「ざんげ」するとき、神は必ず許してくださる」と言われる。
自分では、心から悩み、苦しみ、目に見えない神に向かって、己の罪を「ざんげ」したつもりであるが、心の平安と、清い澄んだ気持ちになれないので、今日も東大尉にそのことを話す。
東大尉は「お前は神の限りない大いなる慈悲を信じないからだ。神の愛はあまりにも高く、無限であり悠久である。われわれの目に見えないから実感として迫ってこないのだ。親子関係について考えて見よ。親は子に無限の愛を与える。どんなに悪い道楽息子でも、親は可愛い。悪ければ、悪いほど可愛がるものが親の情である。
例えば道楽息子を、親は涙を流して諌めても、聞き入れず遊興費のために親の資産を蕩尽し、親を不幸に陥れても、その子が過去を反省し、今までの不幸を詫びたなら、親はきっとその子の罪を許してくれるだろう。神の愛も親子の関係と同じように無限である。
神は決して人間の罪悪を咎めるようなことはなさらない。ひたすら人間の進化・向上のみを願われるのである。陛下もわれわれ国民を赤子として、その幸福のみを願われるのである。大罪を犯した民でさえ咎めるようなことはなさらなかった。
明治天皇の御製に
罪あらば 我をとがめよ 天つ神 臣は我が身の 生みし子なれば
と自分を責めておられる。これが神の心である。神を信ぜよ。神の無限の愛を疑ってはならない。唯信ずるのだ」と噛んで含めるように、短い運動時間を利用して話して下さった。東大尉の温かい力のこもった言葉に、なんだか神の愛が分かるような気がする。
この宇宙を創造され、支配されている神。目では見ることが出来ないが確かにある。この神こそ聖書に書かれている神に違いない。
何か困った時、自分の力ではどうにもならなくなると頼む神、即ち、「困った時の神頼み」でお参りする、あちこちに祭られている神とは違う。人類を初め、全てのものを恵み愛してくださる神様が本当の神様である。
神を知らない生活は、人に自分を立派に見せようとする。世間の人から褒めて頂きたいと思い、自分を欺き、人をごまかしてきた醜い己の姿をハッキリ心の中に見た。
一年有半の独房生活の苦しみ、戦犯者として裁かれたこの生活は決して無駄ではなかった。神が与えてくれた試練でもある。悲哀と苦痛の涙の中に「神の愛を知った喜びと慰めの光」を見た。明日への希望をもって生きよう。
祖国よ「敗戦による苦しみこそ民族に与えてくれた神の愛である」ことを知るべきである。そこには真実の新しい日本が生まれる。憎しみと無念の思いを超えて新しい日本を目ざして立ち上がってくることのみを念ずる。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (32) 遠山良作 著
昭和22年
4月4日
―反省―(1)
東大尉は「もっと反省しろ」と言われる。林大尉は「かつての軍隊も、社会も、道徳的に全く腐敗していた。敗戦の原因はここにある。これからの日本人は、道徳が生活中心でなければならない」と言われる。聖書は、「義人なし、一人だになし」。「罪ある人間は、悔い改めよ」との言葉がくり返して書いている。今までなに一つ間違ったことをしていないと思っていたが、心のどこかで私に問いかける。お前は本当に今日まで大東亜民族のために生命を捧げて働いて来たのか・・・。 貧困にあえぐ、貧しい多くの現地の人々の姿を見て来たのに、優しい言葉や、救いの手を差し伸べたことがあったのか・・・。
酒に溺れ、女遊びに夢中になった。あの自堕落なお前が本当の姿ではないか。支那人やビルマ人に対して、己が出世のために人を人とも思わない行為も平気で行ったではないか・・・。と過去の罪の数々が思い出される。次から次へと、醜い自分の姿が心の鏡に映るようである。
9年前に応召を受けて、熱狂的な国民の歓呼の声で送られて出征した。祖国のため、陛下のために命をささげることが与えられた使命であると考えたこともあったのに。
憲兵を志願して北支那の張店分隊に勤務していた当時のことが思い出される。
「或る部落に共産党の地下組織(非合法であったため)があるとの情報があった。分隊は地区に駐屯している部隊の応援を得て、共産党員と思われる村民30余名を逮捕したことがあった。その取調べを、当時兵長であった私は、宇野伍長と担当した」。
憲兵を拝命して、初めて体験する事件である。連日厳しい取調べを行ったが、どうしても、容疑の事実が浮かんで来ない。首謀者はすでに逃亡したらしい。取調べの責任者である宇野伍長に「逮捕者の中には容疑者はいないようだから釈放する以外に道はない」と言った。宇野伍長は「俺もそう思うけれども長山曹長(仮名・分隊の責任者)は、(1)部隊の応援を得て多数逮捕したことと (2)大庭分隊長(仮名)がこの容疑者を逮捕する際、負傷(本当は病気)したので入院している等の理由があるから、2名でも3名でも軍法会議に事件送致しなければならない」と言う。
戦地ではありがちなことであるが、何一つ物的証拠はないので、どうしても本人の自白によってのみこの事件は出来る。逮捕した容疑者が自白しないので情報にある容疑事項の内容を調書に書いて三人を軍法会議に送致した(三人は死刑になる)。10名の者は上司に申請して、現地処分(死刑)にし、残りは釈放したことがあった。
この事件のことを思い出すとき、今自分が戦犯者としてこの裁判が不当な裁判だと声を大にして叫ぶ資格は私にはない、と気がつく。長い戦争の間に、ただ勝つことのみを考え、戦場で犯した数々の間違った行為があった。何と言うバカな自分であったのか、その恐ろしさに目の前が真暗になり、頭がぎりぎり痛む。
間もなく2回目の裁判を受けなければならない。起訴される理由は「一人のビルマ人を取り調べに際して拷問して死亡せしめた」との、事件である。この事件で死刑になるかも知れない。その時人は、私のことを犠牲者だと言うかも知れないが、既に死刑になった先輩や友の死とは違う。悪の限りを尽くしてきた俺の死は当然の死に値する。
天皇陛下万歳を叫んで死んでいった友の名を汚すことになるのではなかろうか・・・。
不安と焦燥で眠られない一夜は明けた。曙を告げる鳥の声も聞こえて来る。拭っても、拭っても流れる涙は頬に伝わる。
仰みきで、聖書(ふみ)読む独房(ひとや)の 天囲に やもりが二匹 蚊を喰みておる
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この文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」