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ビルマ
戦犯者の獄中記 (32) 遠山良作 著
昭和22年
3月31日
何も読むものもなく、退屈でしかたがないので、今日も聖書を開いてみるが、理解できないことばかりである。マタイ、マルコ、ルカ、同じようなことが書いてある。何故だろう。私のような学問のない者にはわけがわからない。どうも私には不要の本の様な気がする。 運動の時間が来たので本を閉じて外に出る。すでに東大尉も運動に出ておられたので、歩きながら次のことを東大尉に話した。
「私は日本の勝利を信じて戦って来たが、敗戦というこの現実の前に悲しみと無念で一杯である。だけど大和民族がこの地球上に生存している限り、五十年先か百年先か分からないが、この仇を討って、私たちの悲願である「八紘一宇」(はっこういちう)の理想の世界をこの地球上に実現することこそ、民族がなさなければならない使命であると思う」と話した。
東大尉は「なあ遠山、お前のような考えを持っていたら、この世界から戦いは絶えないぞ。これからの日本は軍備もない、平和な新しい日本を作ることが、敗戦日本が生き残れる唯一の道である。そのためには日本が総ざんげをする時である。そのときに新しい平和な日本が生まれるのだ」と諭してくださった。
今まで何一つ悪いことをした覚えもない。また間違ったことをしたとも思っていない自分である。今晩はゆっくりこのことを考えてみよう。
4月2日
運動の監視に来た今日の英兵はうるさくない。死刑囚を除いて全員を一度に出してくれた。時間も何時もより長い。お陰で林大尉と、歩きながら話が出来た。林さんは「モラロージジ」の創立者広池博士の門下生で、千葉の道場で修業し、また岡谷で製糸工場の経営をしていた部隊の将校である。彼は英語を勉強するために、英語の聖書を読んでいる。
私は「林さん、聖書に書かれている奇蹟は、全く信じることができないけれども、倫理の書物として読むならば、価値のある読物だと思います。だが内容には難しいことがたくさん書いてありますね。例えば「人が右の頬を打てば左の頬を向けよ」と書いてありますが、私にはその意味がよく分かりません。林さんはどう思われますか」。
林「俺にもよく分からないので、学者(いつも本を読んでいる英兵にあだ名)が来たら聞いてみたいと思うが、やはり「目には目、歯には歯」というのが自然だと思うよ。だがね君、聖書にはすばらしい言葉がたくさん書かれているよ。
あの片隅に小さな花が咲いているだろう。あの花をじっと見ていると、実に美しいことに気が付く。聖書の中に「ソロモン王が着飾っていた、美しい飾り物も、野に咲いている草花の美しさには及ばない」と書いてある。
人間がどのように精巧に作った飾り物でも、自然に咲いた花の美しさとは比較できないと言う意味だと思う。自然の花には生命があるから美しいのだ。聖書から学ぶことが多くあるが、奇跡や神話の記事も多く書かれている。「クリスチャン」になるには、聖書のすべてを信じなければ「クリスチャン」にはなれないよ、と言われた。
私はとてもクリスチャンにはなることは出来ないし、その気もないが、クリスチャンである加納衛生兵の優しい笑顔を思い出す。
註 「八紘一宇」=全世界を一つの仲の良い家とする。戦中、時刻の海外浸出を正当化するために用いた標語。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (31) 遠山良作 著
昭和22年
1月4日
どんな理由であるのか分からないが、二ヶ月近くいたこの西独房から、突然、東独房に移されることになった。4名(林大尉、小川軍曹、斉藤伍長と私)は、宮崎中将たちに別れを告げて、再び懐かしい東独房に移った。僅か二ヶ月の間であったが長い間どこかに行ってきたかのような気がする。どの友を見てもみんな懐かしい。何日まで続くか分からないが、厳しいこの獄での生活を共に過ごしてゆく決意を新たにする。
神に祈ろう
コンクリートに囲まれた獄房 光もない
くらやみの中で 一人坐っている
故郷のことが脳裏に浮かぶ
幼き頃の思い出の数々
戦の中で死んでいった友
敗戦の悲運に泣いている
大きな声で呼んでも 誰も助けてくれない
神様に祈ってみよう 助けて下さるかも知れない
3月25日
―聖書送られる―
「トヤマ」という英人独特の発音で私の名前で呼びに来た。取調べのためかなと思ったが、通訳がいないので変だな、と思うと、英人は手に持っている小さな包みを私に渡してくれた。
敗戦以来、一カ年半以上も祖国日本との文通は絶えていた。初めて受け取る懐かしい祖国からの贈物である。すでに封は切られていた。紙包みの中には一冊の新約聖書と手紙が入っている。差出人は生まれ故郷である恵那市長島町中野の伊藤庄太郎と書いてある。私の知らない人である。手紙には「あなたは今ビルマの刑務所におられる由、お母さまから御聞きしました。誠に御気の毒だと思います。この聖書もお母様から依頼されて送りますが、どうかこの聖書を読んで救われてくださることを祈る」等の内容である。
生まれて初めて見る聖書である。私たちが戦犯者として裁かれるに当たり、裁判官は先ず聖書に宣誓してから開廷したことを覚えている。そして今一つはモールメン刑務所において、クリスチャンであった加納衛生兵がひん死の重病患者の若林大尉を懸命に看護したことも覚えている。
聖書に対する不信とキリスト者加納衛生兵に対する好感が私の心の内を複雑な思いにした。母から依頼されて送られた聖書とは一体如何なることが書いてあるかと思って開けて見た。私はこの時聖書を読むというより、長い間日本語の活字に飢えていた心をみたしてくれたのである。
入獄以来一切の読物を取り上げられて、毎日二畳半程の独房での生活で何もすることがない生活をしていると、とにかく日本の文字は懐かしく感じるのである。
聖書の表紙を開くと「我らの主なる救主イエスキリストの新約聖書」聖書協会聯盟とある。一頁の「マタイ傳福音書」は一頁近くにわたって「カタカナ」で外国人の名前が書いてある。どうやら系図らしいが、何のために書いてあるのかわからず、飛ばして読む。続いて処女マリヤがイエスを生んだ記事である。処女が子供を生むことはあり得ないことである。日本の物語に出てくる神話と同じで、馬鹿らしくて読む気がしなくなる。それでもと思って続けて読むと、悪魔がイエスを山の上に連れて行って試みる物語である。ここもよく理解出来ない。そしてイエスが病人をいやしたことも書いてあるが、日本にもこんな神がかりな教祖が幾人もいたと思う。珍しくないことである。
今日読んだことで一番分からないことは、「悪しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば左を向けよ」「汝の仇を愛し汝らの責めた者のために祈れ」と書いてある。
もし理由もなく他の人が私の頬を打ったなら、私は当然相手の頬を打ち返すであろう。決して悪いことだとは思っていない。また、自分の仇として憎むのが人間の本来の姿であり、昔、武士の世界では親の仇を討つことは美徳とされていた時代さえあった。聖書は何故こんなことを書いているのか理解出来ない。
初めは母親から送られたことと加納衛生兵のことを思って読む気になったが、すこし読んだだけでもういやになってしまった。そして聖書をポンと閉じて片隅に置いた。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (30) 遠山良作 著
昭和21年
12月25日
残された容疑者は約400余名と共にクリスマスを迎えた。
キリスト教国である英国にとっては1年中で最も盛大にお祝いをする祝日である。私たちも何か「プレゼント」があるのではないかと期待をしていたが、平日と少しも変わらない。やはりこの刑務所にはキリストも、サンタクロースも来てくれない淋しい一日であった。
クリスマス 英兵の声は 高くして 獄房に響き 今日は暮れゆく
昭和22年
1月1日
西独房で敗戦後2回目のお正月を迎えた。私たち6名は宮崎閣下の音頭で天皇陛下万歳を唱え、東方に向かって宮城遥拝をする。そして戦死した将兵と絞首台で逝った戦友の英霊に対して黙祷を捧げて新しい年を迎えた。
祖国出て 9年経ちたり獄舎にて 父母を恋ひつつ
来し年も 心新たに いざゆかん 己が力を ふりしぼりつつ
我希望 唯一なり いのちもて 祖国に帰らん ことのみ思う
夜になると、宮崎閣下は今日も大きな声を張り上げて、自作の詩「恨みは深し」を歌われた。
恨みは深し
1 恨みは深しアノソ連野郎
ソレモソウジャナイカ
不信不法
不侵条約踏みに破り
火事場泥棒を
アア忘れられようアントナント
2 恨み重なる洋鬼野郎
ソレモソウジャナイカ
原子爆弾
無辜の同胞打ち☆る
暴虐無道を
アノ忘れよかナントナント
3 恨み積る英国野郎
ソレモソウジャナイカ
苛飲朱求
蛾に泣くのを
アノ見てられようかナントナント
4 恨みは深し皇国削減
ソレモソウジャナイカ開国以来
幾多先輩血を流し
アノ忘られようかナントナント
5 恨みを晴らせ御国の敗戦
ソレモソウジャナイカ有事以来
まだ受けない大恥辱
仇討たづに
アノ済ませれようかナントナント
老将軍の 恨みは深しの 歌声は 獄舎ゆさびり 闇に消えゆく
今宵は初夢を見る晩である。昔より一富士、二鷹、三茄子といって、この夢を見るとこの一年は良い年であると昔からの言い伝えがあるから、願いごとを書いて枕の下に敷いて寝ると良いと、林大尉の言葉に従って、せめて夢くらい良い夢を見たいものだと眠りについた。
見た夢は、銃殺されることになった私を縛って広い野原に連れて来た。英兵は銃を向けている。どうやら刑場のようである。いよいよ銃殺されると思い、先に処刑された戦友のように、天皇陛下万歳を叫んだが未だ発砲しないのでひょいと後ろを振り返ると、そこには父と母が立っている姿を見たので、今度はお父さん、お母さん万歳と叫んだが、まだ発砲しない。今度は大日本万歳と叫んだ時、はっと夢から醒めた。窓の外は既に朝日がさしている。全身盗汗をかき寝苦しい一夜であった。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (29) 遠山良作 著
昭和21年
12月15日
―いやな噂話―
「戦犯調査委員会は、戦犯容疑者の捜査を終了し、近く容疑のない者は出所するらしい」との嬉しい噂があったかと思うと、食事を運んで来た友から次のような情報もあり、との噂を聞いた。「戦犯容疑者として収監されている田島少佐(熊本県出身)なる人物は英軍のスパイである。一昨日、戦犯調査官と共に「モールメン」憲兵分隊員の補助憲兵、A曹長とS軍曹(時に名を匿)を伴いタキン党事件の捜査のためにモールメン方面に赴いた由である、との噂がある」と話してくれた。
戦犯調査委員たちが必死になって捜査を続けているタキン党事件は、昨年、モールメン刑務所で行った首実検で、ビルマ国軍将校は、「遠山がタキン党の幹部二十数名を刑務所から連れ出したまま彼等は帰って来なかった」と証言している。行方不明になった二十数名は殺されたと推定し、その鍵を握る者は私であると考え、繰り返し繰り返し何回も取調べを受けたが、私は知らないの一点張りで今日まで押し通してきた。私ばかりではない。東大尉以下全員もこの事件について取調べを受けたが、誰一人としてその真実について証言した者はいないはずである。
誰が何処で殺したのか証拠もなければ証人もいないのである。彼等はビルマに於ける憲兵の行った最大の事件であると言っているので、不起訴にするとは考えられないが、どのようにこの事件を処理するのか、われわれは重大な関心を持って見守っている、と共に彼等とわれわれとの戦いでもある。
噂の通り、もしこの事件の真相が発覚したなら東大尉以下、否、憲兵司令官をも含めてモールメン分隊員に多数の犠牲者が出ることは間違いない。
12月22日
戦犯容疑者として収監されている役1500名中、容疑のないもの者約1000名が出所した。容疑は晴れて多数の友が出所することは本当に嬉しいことであるが、私の心の奥にある一抹の寂しさを隠すことは出来ない。浅ましい己の心を見るような気がする。
しかし、新しい祖国再建のために必要な人たちである。無事祖国に帰って頑張ってくれることを祈るのである。
出所する 友の行く末 守りませ 祈りつつ仰ぐ 空の青さよ
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (28) 遠山良作 著
昭和21年
11月27日
―友軍の情―
この頃より給与は、改善され5オンスの米の量が12オンス(340グラム)に増加された。衰弱していた体力も回復して空腹の苦痛から免れることが出来たことは有難かった。この満たされた給食も刑務所側の厚意ではなく、外部にいる日本軍がわれわれの給与があまりにも悪いことを知って、各部隊にその実情を訴えて拠出し、差し入れていることを知らされた。
かつて無敵を誇り、連戦連勝のビルマの日本軍も、最後は物量と強力な英印軍の前に、兵器も弾丸もなく、食物すらなく、ボロボロの軍服をまとい、裸足でモールメンまで敗走してきた友軍の姿を思い出す。あの当時彼等にどれだけ親切にし、温かく迎えたことであろうか。統制を失った兵隊たちは、隊から離れ、民家に宿泊して隊に帰ろうとはせず、ぶらぶらしている兵隊を取り締まったのみであった。全てを失った彼等に慰めの言葉すらかけてやらなかった私は、本当に申し分けなかったとの自責の念で一杯である。
この部隊は今、各地区に別れてキャンプを張り、焼け付くような暑さと戦い、厳しい英軍の監督の下に強制労働に従事しているはずである。恐らく私たちと同様に充分な給与とは思われない。
温かい友軍の情に感謝して今日の夕食のはしを取った。
11月29日
-30歳の誕生日を迎えて-
昭和13年に祖国日本を後にして、中国そしてビルマの戦場に転線して8年が過ぎた。その間、自分の誕生日すら忘れ、否、考える暇さえなかったのかも知れない。戦いの明け暮れであったが、今静かに牢獄で、祖国を思い、父母を思う時、今日という日が自分の誕生日であることに気付いたのである。
戦犯の 烙印押され 吾れは今日 30の歳 獄で迎えり
隣の房にいる小川軍曹は、「遠山さん今日は誕生日だそうだがおめでとうとは言えないね。まだ一つ次の裁判が待っているから大変だね、きっと頑張って下さいよ」と励ましの言葉をかけてくれるとともに次の歌を一首贈ってくれた。
君が行く 山路は更に 遠ければ ひたにみからだ 愛(いと)ひまつらせ
友は有難い、まだ次の裁判が待っている。何日の日か分からないがその日に備えて頑張っていなければならない。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (27) 遠山良作 著
昭和21年
11月22日
―西独房と絞首台―
シャンユワ事件で判決を受けたムドン派遣所の5人がこの独房に来たので、私は林大尉、小川軍曹、斉藤伍長と共に西独房に移された。生死を共に誓った友人田室曹長と、一言の言葉さえ交わすことなく分かれることは後ろ髪を引かれる思いで東独房を出た。
この西独房は、房の中央が通路になっている。独房の広さは東独房より広い。通路の突き当たりに扉があり、外部に出られるようになっている。ここから外部に出たところに絞首台がある。死刑執行の前日にはこの独房に移されて一夜を過ごすのである。
ここでも一日に一回裏庭に出て運動させてくれる。広場の西の端に高床の木造で作られた古びた小さな建物がある。これが絞首台である。監視兵の隙を見て絞首台の階段を昇ってみた。死刑を執行されるためにこの階段を登って行った先輩や、戦友たちは、何を考え、どんな心境でここを登ったかを思うと、胸の高鳴りを覚える。
床の上には直径3センチ位の太いロープが三ヶ所から垂れている。ロープの真下にある床板(踏み台)を操作することにより二つに割れ、上にいる人間が下に落ちる仕掛けになっている。下を覗くと暗くてよく見えないが床から3メートル以上ある。この絞首台は既に5名の命を奪ったのである。
私は思わずつぶやいた。
「絞首台よ、お前はこれから幾人の命を奪うのか。俺も次の裁判で死刑の宣告を受けたならお前のお世話にならなければならないなあ」と心にささやきつつこの絞首台を降りた。監視兵は私の姿が見えないので捜しにやってきた。
11月25日
―宮崎中将入監する―
「ミイクテーラ」地区に於いて、英軍監視の下で労作業に従事していた「兵(つわもい)兵団(54師団)長の宮崎繁三郎中将(岐阜県出身)が戦犯容疑者として入監された。外部よりこの刑務所に入ってきた者に対する身体検査は厳重である。危険だと思われる品物は一切取り上げる。昨日閣下が入所された折に身体検査をした英兵が再び房に来た。検査した時、目を付けた閣下の所持品である時計、万年筆、白シャツ等を、強要し、奪おうとして取り上げ、その代償としてタバコ2箱を置いていった。
初めてこの刑務所に入る者にとって、何を所持していいのか、悪いのかよく分からないので、英兵が要求すれば致し方なくその要求に応じるのが常である。何時日本に帰れるか分からない今の閣下にとっては、大切な品物ばかりである。それから少し間を置いて、また英兵がやって来た。そして閣下の所持品を要求したのであるが、先の英兵に持っていかれたので何も奪うものがないと知るや、着ている軍服を脱げというのである。さすがこの要求はお断りになった。
この房でひと晩過ごされた閣下の顔や手など外に出ている部分は無数の蚊に刺された跡で痛ましく赤く腫れ上がっている。われわれのように毎日蚊に刺されていると免疫になっているので赤くなるようなことはない。慣れることは有り難いことである。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (26) 遠山良作 著
昭和21年
11月18日
―東独房の一日―(続き)
十時頃になると「お早うございます」と雨が降っても風が吹いても笑顔で温かい食事を運んで来てくれる友の声がする。食事を運んで来る時は必ず英兵(白人)がついて来る。ひと言でも話をすると「ヘイ」と言って怒るので話したいことは山ほどあれど、話しをすることがでない。ただ顔を見合わせて目と目で合図してお互い元気であることを確かめては安心するのである。
食事が終わると運動の時間である。死刑囚は一人ずつ出して運動させるが、われわれ有期刑のものは三人位ずつ出してくれる。薄暗い房から一歩外に出ると、眩しい太陽は「サンサン」と輝いている。ここで生活する者のみが知る太陽に有り難さ、十分か十五分くらいの運動の時間は一日の内で一番楽しいときである。外の空気はおいしい。澄んだ青い空、秋の気配を感じるそよ風は軽く頬をなでて通る。
やつれたる 腕思いきり 伸ばしけり 獄舎にあれど 強く生きんと
6本の鉄格子の間から見る空の視界は狭い。赤い獄舎の屋根の彼方に鷲が一羽高く弧を描いて悠々と飛んでいる。その姿は実に自由である。俺もあんなに自由に空を飛んでみたい。そして祖国まで飛んで行きたい。一羽の鷲は二羽になり風に乗って大きく旋回をして空を飛ぶ姿は雄々しく見事である。
さわやかに 澄みたるビルマの 秋の空 白雲一つ 浮くを目に追う
極むまで 澄みたる空の 下にして緑葉なびくを 見るはさやけし
やがて日が沈むと大きなねむの繁みに集まる鳥の囀りが始まる。隣りの房の友との話が聞き取れない。にぎやかな鳥の囀りが暫らく続く。次第に夜のとばりとともにあたりはやがて静かになる。
茜雲 たなびく彼方に 陽は落ちて 悔いなき今日の ひと日は終わる
夕さりて 獄庭の木枝の 群鳥の 楽しき語らい 聞くも羨しさ
囀りし鳥の 声ひそむ 夕べとなり 獄舎の庭に 蟋蟀の鳴く
歩哨の兵舎にこうこうと月の影がさす。今宵はきっと満月かも知れない。視界の狭いここから月を直接見ることは出来ない。「カツカツ」と歩哨の靴音のみが静かな闇をついて響いて来る。静かな夜の訪れである。低いながらも良く通る声で広瀬中佐の「死生命あり論ずるに足らず・・・」と永原大尉の歌う正気の歌が流れて来る。孤独と絶望の中にある独房生活の中にあって、勇気を与えくれる詩吟は、日本の歴史の中に生きている忠臣、勇壮な古武士(つわもの)の姿を詩の中に求めて誰しも口ずさむものである。
高級部員出田大佐の吹く尺八の音は、哀調を帯びた余韻を残して、四囲の静寂の中を流れて来る。この響きは何故か故郷を思い涙で頬を濡らす者は私一人ではなかろう。
そして流行歌を歌う者、故郷の民謡を歌うもの等、獄の中にあって荒みがちな心は和むひと時でもある。
歩哨する 兵の人影 尾を曳きて いざよいの月 皓々と照る
生還は すまじと心に 誓えども 父母思えば 咽ぶ吾かも
夜は更けて 獄舎に響く 音楽の音に 故郷の秋祭を 偲びつついる
手づくりの 暦に今日の一日を しかと消したり 囚人われは
小夜更けて 獄舎の庭に さす月を 賞でつ吟ずる 古武士のこころ
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (25) 遠山良作 著
昭和21年
―松岡大尉たち三名絞首刑になる―
11月10日
「チヤイトー」事件の関係者3名を絞首台に送り、空房が出来た。私は鈴木曹長のいた房に移された。房内はきれいに片付けられてあったが壁に「母」という一文字が生々しく書いてある。きっと国の母のことを思い、書いた文字であろう。この友も再び帰ることがない友の面影が浮かぶ。
刑死せる 戦友の独房に 移り住み 面影顕ちて心緊るも
死刑囚 君の残した 歌一首 その真心に 胸打たるなり
死に給う 君の 独房に ただ一字 「母」という字が 残してぞある
11月18日
―東独房に一日―
蚊に悩まされて眠れない時も明け方近くになると涼しくなってうとうと眠る。外は薄明るい。雀やこま鳥のさえずる声が木の繁みから聞こえてくる。
西の方から「ガチャン」と重い鍵が外れる音が響いてくる。既に外に出た友の「お早う」と朝の挨拶を交わす声、西の端から順番に三名ずつ出してくれる印度兵は「マスター、タテジャイガー」(旦那便所に行きますか)と言う。人のよい印度兵はわれわれをマスターと呼ぶ。バケツ(石油缶を半分に切り、洗面器、食器洗い、洗濯洗い等兼用)と便器を持って外に出る。
空は青く澄んでよく晴れている。空を仰いで深呼吸をして、房内のよどんだ空気を全部吐き出して、すがすがしい外気を腹一杯吸い込むのである。歩哨の前に立って先ず便所に行く、既に用便をしている友の下半身は丸見えである。便所には扉がないからである。ふだん便所は汚い場所であるが、ここの便所は楽しい憩いの場所である。要領のよい者は一日に2回も3回もここにくる。歩兵が咎めると腹が痛いという。便所に行くと言えば意地の悪い歩哨でない限り出してくれる。印度語を一言も知らなくても「タテジャイガー」(便所に行く)の印度語だけは誰でも覚える。お互いに顔を合わせて話のできる唯一の場所である。便はしてもしなくても便をするふりをして話をする。
監視の兵は「ジャルテイージャルティー」(早く早く)と大きな声でせきたてる。「今日の歩哨はうるさいから帰ろう」と話を打ち切って便所からでる。
暁ときの 獄庭の繁みの 群雀 かしましく鳴くも あたりは暗し
朝なれば 開かれて行く 音を聞き 便器を持ちて 鉄扉の前に立つ
そして洗面に行き食器を洗うと朝の行事が終わる。「ガチャン」と鉄の扉はしまる。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (24) 遠山良作 著
昭和21年
―松岡大尉たち三名絞首刑になる―
11月8日
鈴木喜代司曹長は判決を当日の日記に(原文のまま)
8月27日。運命を決する宣告の日だ。身を清めて如何なる判決にも動じない心の準備をして外に出る。何時もと変わらぬ英兵に迎えられて自動車に乗る。僅かな隙間から見る街の風景も当分、いやこれっきり見られないかも知れない。法廷に行く最後の階段を昇り乍ら、「お前は覚悟は出来ているか、最悪の場合の心構えは出来ているか」と何処からかささやく、ふと眼の前を母の幻が飛んでくる・・・・」(中略)
論告が終わった後、休憩があり。再び2時30分より開廷され、第一、第二告発別に福田上等兵を除き、全員に有罪を言い渡される。福田上等兵は先に帰される。彼のみ無罪になったのは喜ぶべきだ。このあと吾々を代表して、松岡分隊長が吾々の立場を陳べる挨拶があった。実に堂々たる立派な挨拶であった。そして十分の後、ついに断が下された。
分隊長、加藤と共に私も絞首刑を宣告された・・・中略
この死の宣告を受けた瞬間さしたる心の動揺もなかった自分が不思議であった。しかし、これが死の宣告を受けた者の自然の姿かも知れぬ。自分はこの死の宣告を下されることを予期していなかったし、勿論覚悟もできていなかった。ただ最悪の場合も考えていなかったが、それ程深刻に考えなかった・・・中略
ぐっと裁判長を睨んだ目、悲痛な面持ちで裁判長を見つめる弁護人(相門大差、斉藤通訳)を見た瞬間、これまで戦い、あれ程の努力が水泡に帰し、がっかりし、唖然とした姿に見え感情が高まると共に、己が身よりこの人に申し訳なく気の毒に感じられた。
8月28日。 昨夜はまんじりとも出来なかった。それは死刑の宣告を受けた者の感ずる悲しみからか・・・、寂しさに捕らわれて抜けきらぬためか・・・。そうではない、今はそのような感じでもない。故郷に残る母を思い兄を思い、友を思いか、それも確かにある。それは未練から来る思いでもない・・・中略
ただ私の最後を知ったとき、その人たちは如何に歎かれるだろうと思うと何とかして今の平静で少しも悔いない気持を伝えたい。そして少しでも悲しませたり、苦しませたくない今の気持である」。
と判決当日の気持を日記に残している。事件に関係なかった鈴木曹長はきっと口惜しいことであろう。(事件の内容は8月27日に記す)
三名の友を絞首台に送り、静かな夜を迎えた。小川軍曹が松岡大尉の残した痛恨歌を唄う。私は頬から流れる涙を拭いつつ共に歌った。
戦友だちは 天つみ空の 神となり 皇国護ると 和歌に残して
断頭の 露と消えにし 友がらを 偲ぶ今宵は 月も曇りて
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (23) 遠山良作 著
昭和21年
11月8日
―松岡大尉たち三名絞首刑になる―
大切な蚊帳を取り上げられてから二日目である。「チヤイトー」事件の松岡大尉、鈴木曹長、加藤曹長の三人の絞首刑が確定した。執行のために三名は、西独房に移されるために、この独房から出て行った。
「皆さん、いろいろ有難うございました。皆さんも元気で、さようなら」の言葉が西の方から聞こえて来た。死刑執行の前日には必ず西独房に移される。この独房の人たちと、最後の会話も許されて、一夜を過ごすのである。夜も明けきらない今朝、君が代を歌い、万歳を唱えて絞首刑の露と消えて逝かれた。三人の最後を見届けた西独房の人々は、その立派な堂々たる態度に感嘆すると共に悲痛の涙を流したとのことであった。
松岡憲郎大尉の辞世
断頭の 台に進みて 君が代の 弥栄寿ぎて吾はゆくなり
益良雄の 道を励みて 今更に 何をか言わん 罪問わるとも
鈴木喜代司曹長の辞世
敷島の 桜花ともなりて 武士の 散り行く時は さやかなりけり
加藤広明曹長の辞世
陰膳を 供えて待たるる 父母は 今日の処刑を いかに聞くらん
松岡大尉は私たちに言い残された言葉は、
「我々は武人としての最後を飾るに相応しい。我々は皇国の再建を祈り、七生報国を期す、君たちはあらゆる苦難に堪えて、無事祖国に帰還されんことを、あの大空で見守るであろう。そして俺の墓場で歌を唄ってくれ」と言い残された。
痛恨歌 松岡大尉作
1 如何で忘れむ我戦友よ
太平洋上波荒れて
妖雲襲う大八島
涙ととも益良雄が
矛を治めし痛恨は
ああ永久に尽きはせぬ
2 亜細亜民族解放の
高き理想の旗の下
使命半ばで死散りて
南十字の星影に
ねむれる友の痛恨は
ああ永久に尽きはせぬ
3 誉れも高き武士が
口に平和の米英と
裁きの庭に戦えど
驕る彼等の専断に
- れし友の痛恨は
・・・以下略
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記(22) 遠山良作著
昭和21年
11月7日
―蚊帳を取り上げられる―
雨期もようやく終わり、今は、ビルマ特有の暑い乾期である。昼でも薄暗いこの独房の片隅に幾匹かの蚊がいる。夜ともなれば、数知れない蚊の大群がブンブンと音を立てて入ってくる。これを防ぐために作った。手製の粗末な蚊帳で長い夜を過ごすのである。今日は突然この蚊帳を取り上げるというのである。理由は西独房に収監されている、山田中尉(未決囚)が自殺を図った。蚊帳があると夜間監視するのに困難であるからといって取り上げられてしまった。
ビルマのマラリヤは世界でも有名である。マラリヤを予防するには、蚊に刺されないことである。マラリヤにかかるより、蚊に刺されて眠れないことが一番辛い。夜になると幾千匹とも知れない蚊がやって来る。やつれた体の血を求めて襲う。毛布を頭から被ると息苦しい。その上暑くて眠れないのである。真暗な夜、時間の長いこと、そして一晩中蚊を追い続ける日がこれから続くのかと思うと、夜は嫌だ。夜は来ないほうが良い。
払えども 尚襲い来る 蚊の群れに むし暑き夜 眠る間もなく
今日の監視兵は英国の番犬だと言われているゴルカ兵である。彼等の祖国はネパールで始祖は蒙古民族であると聞いている。一般に印度人とは全く異なった民族であることは一目で分かる。印度人かむしろ日本人に似ていて、中には日本人そっくりな兵隊もいるほどである。英国はこの兵隊を傭兵として各戦線に送り込み、その勇敢さと忠実なる行動は、しばしば日本軍を悩まし、友軍も舌を巻いたとも聞いている。
今日は全員(死刑囚を除く)を房から一度に出してくれた。点呼(人員の点検)をとるためである。一列に並ぶように指示をし、班長(下士官)らしき兵が一人ずつ指を折り曲げて数えるさまは、子供が数えるのに似ている。点呼が終わると運動である。みんな一緒に顔を見合わせて話が出来ることは有難い。
この文章はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (21) 遠山良作 著
戦犯裁判は続く
9月5日
第8回目の裁判は山脇一二三憲兵曹長に対する拷問致死事件で死刑の判決であった。
9月15日はタボイ警備隊情報係、林善人大尉に対する判決で7年の有期刑があった。事件の概要は反乱ビルマ軍の関係者数名を逮捕し、部隊長の命令でビルマ警察署にこの犯人を処刑させた事件である。
9月25日
10回目の裁判である。藤森嵯憲兵准将と橋本幸男憲兵軍曹たちの判決があった。事件の内容は犯人を取調べ中に拷問したとの理由である。起訴状の内容が事実と違って針小棒大であったが、死刑になるような内容ではない。もし検察側の証人が法廷で如何なる証言をするか計り難いので、起訴状をそのまま認めたほうが良いのではないか、との弁護士の助言があった。本人たちも弁護士の言葉に従うことにした。その翌日判決があり、結果は二名とも3年の刑であった。事実行わなかった行為であっても、認めなければならない裁判が戦犯裁判である。
10月1日
当房寿憲兵軍曹にたいする拷問事件である。偽りと虚偽でつづられた起訴状の内容であった。この事件も弁護士の助言もあり、開廷と同時に「有罪」と答え、起訴状をそのまま認めた。今度は10年の判決であった。拷問事件としては今までにない重い刑である。
英軍軍事法廷は、如何なる行為が重いのか、軽いのか、裁判に臨んでその対策は皆無である。
10月20日
-死刑囚の一日―
死刑判決を受けて減刑になった者は未だ一人もいない死刑の判決を受けてこの独房にいる友は現在5人いる。やがて絞首台におくられるのであろう。
愛する祖国のために、父母や妻子と別れて、南国ビルマの最前戦で命をかけて戦って来たが、ついに敗れ、敗戦を迎えたのである。戦いが終わったならば当然祖国日本に帰れると思っていたのに、待っていたのは、刑務所であり、裁判と断頭台であるとは、誰が予想したでしょうか。しかしこの悲劇を敗戦国民が担うのは当然の運命として受け止め、今日一日を正しく生きようとしている友の姿を目のあたりに見ると痛々しく、慰める言葉を知らない。
限られた狭い獄庭で一日僅か十分位赦される運動の時間を黙々と走り者、或いは監視兵に隠れて自分の思いを遺書として書き残そうとしている友の姿を見る。
生きられる 日はあと幾日と 数えつつ 遺書かく君は 死刑囚なり
毎日毎日降り続く雨の庭を褌一つになって、裸足で走る大西軍医(死刑囚)の足取りは軽い。
「大西さん、あんたの走りぷりは素人の私が見ても見事だね。随分走った足のように見えますがね」
「うん私は四国の金比羅さんのある琴平町から、五里もある山奥で生まれたので、小学校へ通学するために毎日駆け足で通学したし、国体でも二位に入賞したこともありました。」と走り続ける大西軍医、何日処刑されるか分からないにも拘わらず最後まで身体を鍛える。
獄庭を フンドシ一つで かけている 死刑囚の友 雨降る中を
死刑囚松岡大尉は日記に、「死の予期者は、現在をどんな風に考えているだろうかとは、誰しも疑問に思っているだろう。私は真実のことをいうと、死に就いて深く考えていない・・・。私の生命の鍵を握る者に、延命を乞う気持は全くない。私の生命は木の葉が落ちるのと少しも変わらない。太陽が西に沈むのと少しも変わらないと私は思う。絞首台に登れと言われた時に堂々と登り、そして呼吸が止まり、心臓が停止した時が、私が天から与えられた生命の終わりであると考えている。
私には今一日のたつのが非常に早く感じられる。修養のために一分、一秒でも惜しい現在 の私なのだ・・・。中略・・・。私の肉体は亡ぶ、これは自然の法則だ。木の葉が落ち花は散る。これも自然である・・・。自然は美しい、自然は清い。自然はやさしい、自然は強い、この数日、私は、自然を眺めよう、自然に帰ろう、そしてまた御奉公するのだ、御恩に報いるのだ、ああ私は幸福だ」と書いている(原文のまま)。
尽せども 尚励めども 吾がつとめ 果せることの なかりけるかな
明日ありと 思うな今日の このときを 空しく過ごさじ 明日はまた明日
松岡憲郎作
自分の運命を達観しつつ、最後の日まで、自己を磨こうと努めている死を待つ友の姿を見る。
「註」 判決の確定は、判決後その書類はシンガポールの英軍司令部に送られ、書類審査を行い確定される。その間二ヶ月位の期間がある。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」