2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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ビルマ
戦犯者の獄中記 (20) 遠山良作 著
8月27日
-チャイトー事件の判決-
チャイトー事件の裁判で判決を受けた松岡大尉たち7名もこの独房に収監された。
判決の結果は
陸軍憲兵大尉 松岡 憲郎 絞首刑
陸軍憲兵曹長 加藤 広明 絞首刑
陸軍憲兵曹長 鈴木喜代司 絞首刑
陸軍憲兵軍曹 小川 角次 12年
陸軍憲兵伍長 斉藤 健治 4年
陸軍憲兵曹長 川崎金次郎 3年
陸軍憲兵曹長 鈴木 勝夫 無罪
陸軍伍長 福田 安夫 無罪
(補助憲兵)
であった。
この事件は、終戦直前の事件である。チャイトー憲兵分隊は、ビルマ反乱国軍(終戦直前にビルマ国軍は日本軍に反乱した)の関係者を逮捕・取り調べた結果、罪状が明らかになったので首謀者7名を日本刀で斬殺した事件である。
戦場に於いて前線から撤退して来る日本軍を襲撃する、ゲリラ部隊である。しかるに、当時、戦況はわれわれに不利であった。繰り返し繰り返し空襲する敵機により、全ての輸送路は不通であった。犯人を後方に移送することは不可能に近い状況にあった。また、犯人を後方に送ることが出来たとしても、日本軍の軍法会議は、当時すでにタイ国に撤退していたので審理出来ない状態であった。分隊長である松岡大尉は犯人の処置について上司に申請伺いしたところ、「現地に於いて処分せよ」という指示であった。処分とは「殺せ」との意味である。7名を日本刀で斬ったのである。検事側は分隊にいたビルマ人を証人に立て、殺した人物を裁判所に於いて指名させた。証人は「加藤曹長、鈴木(喜)曹長が刀で斬ったことを見ていた」と証言したのである。
今まで行われた裁判の例を見ても、たとえその証言が間違っていても証拠として採用されている。弁護士団は罪もない二人を助けるためには、実際に実行した者、即ち、起訴裁判中の小川軍曹と斉藤伍長には気の毒であるが、その事実を証言させる以外に検事側の証言を覆すことは不可能である、との判断から事実を法廷で証言させることにした。
証言台に立った小川軍曹は「分隊長に命により私が、斉藤伍長と山田上等兵(二人は起訴されていない)を指揮して、犯人を日本刀で斬った。」と証言した。斉藤伍長も山田、山本両上等兵もそれぞれの事実を証言すると共に、加藤曹長、鈴木曹長はその場にいなかった、と証言した。
法廷は日本人の証言を一言半句も採用しなかった。僅か一名のビルマ人の間違った証言でも証拠として判決するのである。全く無茶な裁判である 。
死刑の判決を受けた松岡大尉は、「何のために一ヶ月も審理したのか理解出来ない。彼等は誰が死刑になるのかは問題ではない。お前たちのように裁判もせずに殺さないようにと、裁判という形式が問題であり、初めから作られたサル芝居に過ぎない。自分がこの裁判に臨んで如何に英国が老獪であるかを知った。起訴されて裁判が始まる時、既にこの事件は誰が死刑で、誰が有期で、誰が無罪であるかを順序正しく割り当てているに過ぎない。証人は事前に教育し指導して証言させている。こんな細工までして審理するのは日本人の真似の出来ない芸当である。」と言われた。
検事側の指導する証人が指をさす方にいた者が死の運命を辿るのである。裁判を受けた者のみが知る不当な戦犯裁判である。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (20) 遠山良作 著
8月27日
-チャイトー事件の判決-
チャイトー事件の裁判で判決を受けた松岡大尉たち7名もこの独房に収監された。
判決の結果は
陸軍憲兵大尉 松岡 憲郎 絞首刑
陸軍憲兵曹長 加藤 広明 絞首刑
陸軍憲兵曹長 鈴木喜代司 絞首刑
陸軍憲兵軍曹 小川 角次 12年
陸軍憲兵伍長 斉藤 健治 4年
陸軍憲兵曹長 川崎金次郎 3年
陸軍憲兵曹長 鈴木 勝夫 無罪
陸軍伍長 福田 安夫 無罪
(補助憲兵)
であった。
この事件は、終戦直前の事件である。チャイトー憲兵分隊は、ビルマ反乱国軍(終戦直前にビルマ国軍は日本軍に反乱した)の関係者を逮捕・取り調べた結果、罪状が明らかになったので首謀者7名を日本刀で斬殺した事件である。
戦場に於いて前線から撤退して来る日本軍を襲撃する、ゲリラ部隊である。しかるに、当時、戦況はわれわれに不利であった。繰り返し繰り返し空襲する敵機により、全ての輸送路は不通であった。犯人を後方に移送することは不可能に近い状況にあった。また、犯人を後方に送ることが出来たとしても、日本軍の軍法会議は、当時すでにタイ国に撤退していたので審理出来ない状態であった。分隊長である松岡大尉は犯人の処置について上司に申請伺いしたところ、「現地に於いて処分せよ」という指示であった。処分とは「殺せ」との意味である。7名を日本刀で斬ったのである。検事側は分隊にいたビルマ人を証人に立て、殺した人物を裁判所に於いて指名させた。証人は「加藤曹長、鈴木(喜)曹長が刀で斬ったことを見ていた」と証言したのである。
今まで行われた裁判の例を見ても、たとえその証言が間違っていても証拠として採用されている。弁護士団は罪もない二人を助けるためには、実際に実行した者、即ち、起訴裁判中の小川軍曹と斉藤伍長には気の毒であるが、その事実を証言させる以外に検事側の証言を覆すことは不可能である、との判断から事実を法廷で証言させることにした。
証言台に立った小川軍曹は「分隊長に命により私が、斉藤伍長と山田上等兵(二人は起訴されていない)を指揮して、犯人を日本刀で斬った。」と証言した。斉藤伍長も山田、山本両上等兵もそれぞれの事実を証言すると共に、加藤曹長、鈴木曹長はその場にいなかった、と証言した。
法廷は日本人の証言を一言半句も採用しなかった。僅か一名のビルマ人の間違った証言でも証拠として判決するのである。全く無茶な裁判である 。
死刑の判決を受けた松岡大尉は、「何のために一ヶ月も審理したのか理解出来ない。彼等は誰が死刑になるのかは問題ではない。お前たちのように裁判もせずに殺さないようにと、裁判という形式が問題であり、初めから作られたサル芝居に過ぎない。自分がこの裁判に臨んで如何に英国が老獪であるかを知った。起訴されて裁判が始まる時、既にこの事件は誰が死刑で、誰が有期で、誰が無罪であるかを順序正しく割り当てているに過ぎない。証人は事前に教育し指導して証言させている。こんな細工までして審理するのは日本人の真似の出来ない芸当である。」と言われた。
検事側の指導する証人が指をさす方にいた者が死の運命を辿るのである。裁判を受けた者のみが知る不当な戦犯裁判である。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
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ビルマ 戦犯者の獄中記 (19)遠山良作 著
昭和21年
7月15日
-カラゴン事件の4名処刑さる-
昨夜の夕食が終わりの間もない時である。房の入り口付近から、あわただいい靴音、ざわめきが聞こえてきた。ただ事ではない。カラゴン事件で死刑を宣告されている4名に死を告げるために来た英兵たちであった。刑の確定判決の宣告文を読み上げ、そして市川少佐は絞首刑、緑川大尉、柳沢大尉、田島中尉の3名は銃殺刑である。
市川少佐は西独房に移された。銃殺刑の宣告を受けた三人は、この棟の一番東端の房から一名ずつ別々の房に移された。三人の移された房は、私の房に近いので三人の話し声はなんとか聞き取ることが出来た。
三人の会話を聞いていると私の胸はしめつけられるような気がする。刑務所側の厚意から食べたい物があれば申し出るように、との取り計らいがあり、「コーヒー」「チョコレート」「ケーキ」等の差し入れがあったようである。
「久し振りのコーヒーは美味しいなあ」「ケーキもうまい」といって食べる三人。そして刑務所側の厚意で、カラゴン事件の関係者(有期刑)に最後の面会も許してくれた。英人にも武士の情けはある。鉄格子を隔てての会話である。
「無事に日本に帰ったなら、元気で死んで行ったと家族に伝えてくれよ。あとのことは頼む。みんな元気で頑張れよ」と、とぎれとぎれであるが、聞こえてくる。送られる友が送る友を励まし、最後の涙の別れである。許された時間も終わり、後ろ髪を引かれる思いで別れの言葉を残してそれぞれの房に帰る。あたりは急に静かになり、暗い中で監視兵の靴音のみが響いて来る。
やがて緑川大尉の声が聞こえて来る。「故国とわかれてから七年の間、支那、ビルマ、そしてインドのインパール作戦と戦い抜いてきた。その間幾人もの上官も戦死した。又同僚の多くの部下も戦いの中で死んで行った。自分もインパール作戦で左足を負傷し、後方に送られたが再び前線に復帰して戦列に加わり、傷つくこと五回、今から考えると夢のような気さえする。本当に今生きていることすら不思議である。当然あの戦いで死ぬべき命であった」と話す。各人互いに懐かしい戦場の思い出話の数々、追憶は尽きることがなく、会話は続く。
はっきりとは聞き取ることは出来ないが、死を前にして未練らしい言葉は少しも聞かれない。この三人は作戦命令に従って行動したことが罪に問われた。命令者である師団長、連隊長は起訴すらされなかった事件である。
きっと口惜しいことであろう。しかし、一言も不平らしい言葉を言うものはいない。明朝、何処かへ旅立つために、しばしの別れを惜しんでいるようである。死を前にしている人間の話とはどうしても思えない。「俺も次に来る裁判(取調べを受けている重大事件)で死刑になるかもしれない。死を前にしてこのような態度で一夜を過ごすことが出来るであろうか。俺にはきっと出来ない。狂ったようにうろたえてしまうであろう」。
三人の会話がうらやましい気持で鉄格子に耳をあてて聞き入る。
独房にいる私たちも、大きな声で励ましの言葉を送った。夜は次第に更けて、二時を告げる鐘の音が響いて来る。三人の上に死の時は刻々と迫る。一晩中殆ど寝ることなく語り明かす三人も、夜明け近くになって、話し声はとだえた。私もいつしかうとうとと眠ってしまった。東の空が白みかけた頃である。
「ああ少し眠ったようだ」との声。
「俺も少しは眠った。もう朝だな」との声もする。
私は三人の会話を一言も洩らすまいと、鉄格子に身をよせる。息詰まるような一夜は明けた。英兵のあわただしい靴音と共に幾人か私の房の前を通る。そして三人の房が開かれる音がする。外に連れ出されたらしい。
「皆さんさようなら」のひとことの言葉を残して、東の出口から刑務所内の中庭に設けられた刑場へと連れて行かれた。
私はズボン、シャツ等の持ち物全部を積み上げ、踏み台にして、塀越しに、三人の姿を見ようとしたが見ることができない。30名の英兵が三人がいると思われる方向に小銃を構えているのが見える。
「天皇陛下万歳」との叫び声が聞こえて来たと同時に、銃声は一斉にあたりにこだました。少し間を置いて又一発の銃声がした。
明日死ぬる 友の言葉を もらさじと 高なる 胸を おさえつつ聞く
死刑囚なれば 靴履くことも 許されず 銃殺されて 君は果てり
垢つかぬ 衣に替えて 死にゆくと 銃殺刑の 友語りたり
朝もやを つきて聞こゆる 銃声に 戦友万歳の 声を残して
吾が前で 三十人の 英兵に 銃殺されぬ ああ戦犯者君
緑川大尉の辞世
我も又 なき数に 入る 名を止め 南の果てに 散るをよろこぶ
柳沢大尉の辞世
みずすかる 信濃の春の 咲く桜花は 散りてぞ清く 思わるるかな
田島中尉の辞世
国破れ 愛児の帰り 待つ親に なんと聞かせん 銃殺の刑
と辞世を残されて逝かれた。
西独房に残された市川少佐は絞首刑である。西独房にいる戦友の話として、最後の様子が伝えられた。
「市川少佐は絞首台に連れ出されるため房から出る前にコーヒーを一杯グイーと飲み干して、扉より一歩踏み出して一本のタバコを口にして、英兵の肩を軽く叩いて『おい行くぞ』と先にたって行かれた」との話である。
運動の時間に市川少佐のいた空房を覗いた。片隅に空き缶を利用して植えてある雑草が小さな花を咲かせている。この雑草に水をくれた人は再び帰って来ることがない。
名も知らぬ 一輪の草花 植えてある 処刑されし 少佐の房に
7月22日
カラゴン事件の関係者6名は何の理由かわからないが「インセン」刑務所に移監された。幾つかの空房が出来たと思ったら「ラングーン」捕虜収容所事件で有期刑をうけて、西独房にいた田住大佐ら三人がここに移された。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
昭和21年
7月15日
-カラゴン事件の4名処刑さる-
昨夜の夕食が終わりの間もない時である。房の入り口付近から、あわただいい靴音、ざわめきが聞こえてきた。ただ事ではない。カラゴン事件で死刑を宣告されている4名に死を告げるために来た英兵たちであった。刑の確定判決の宣告文を読み上げ、そして市川少佐は絞首刑、緑川大尉、柳沢大尉、田島中尉の3名は銃殺刑である。
市川少佐は西独房に移された。銃殺刑の宣告を受けた三人は、この棟の一番東端の房から一名ずつ別々の房に移された。三人の移された房は、私の房に近いので三人の話し声はなんとか聞き取ることが出来た。
三人の会話を聞いていると私の胸はしめつけられるような気がする。刑務所側の厚意から食べたい物があれば申し出るように、との取り計らいがあり、「コーヒー」「チョコレート」「ケーキ」等の差し入れがあったようである。
「久し振りのコーヒーは美味しいなあ」「ケーキもうまい」といって食べる三人。そして刑務所側の厚意で、カラゴン事件の関係者(有期刑)に最後の面会も許してくれた。英人にも武士の情けはある。鉄格子を隔てての会話である。
「無事に日本に帰ったなら、元気で死んで行ったと家族に伝えてくれよ。あとのことは頼む。みんな元気で頑張れよ」と、とぎれとぎれであるが、聞こえてくる。送られる友が送る友を励まし、最後の涙の別れである。許された時間も終わり、後ろ髪を引かれる思いで別れの言葉を残してそれぞれの房に帰る。あたりは急に静かになり、暗い中で監視兵の靴音のみが響いて来る。
やがて緑川大尉の声が聞こえて来る。「故国とわかれてから七年の間、支那、ビルマ、そしてインドのインパール作戦と戦い抜いてきた。その間幾人もの上官も戦死した。又同僚の多くの部下も戦いの中で死んで行った。自分もインパール作戦で左足を負傷し、後方に送られたが再び前線に復帰して戦列に加わり、傷つくこと五回、今から考えると夢のような気さえする。本当に今生きていることすら不思議である。当然あの戦いで死ぬべき命であった」と話す。各人互いに懐かしい戦場の思い出話の数々、追憶は尽きることがなく、会話は続く。
はっきりとは聞き取ることは出来ないが、死を前にして未練らしい言葉は少しも聞かれない。この三人は作戦命令に従って行動したことが罪に問われた。命令者である師団長、連隊長は起訴すらされなかった事件である。
きっと口惜しいことであろう。しかし、一言も不平らしい言葉を言うものはいない。明朝、何処かへ旅立つために、しばしの別れを惜しんでいるようである。死を前にしている人間の話とはどうしても思えない。「俺も次に来る裁判(取調べを受けている重大事件)で死刑になるかもしれない。死を前にしてこのような態度で一夜を過ごすことが出来るであろうか。俺にはきっと出来ない。狂ったようにうろたえてしまうであろう」。
三人の会話がうらやましい気持で鉄格子に耳をあてて聞き入る。
独房にいる私たちも、大きな声で励ましの言葉を送った。夜は次第に更けて、二時を告げる鐘の音が響いて来る。三人の上に死の時は刻々と迫る。一晩中殆ど寝ることなく語り明かす三人も、夜明け近くになって、話し声はとだえた。私もいつしかうとうとと眠ってしまった。東の空が白みかけた頃である。
「ああ少し眠ったようだ」との声。
「俺も少しは眠った。もう朝だな」との声もする。
私は三人の会話を一言も洩らすまいと、鉄格子に身をよせる。息詰まるような一夜は明けた。英兵のあわただしい靴音と共に幾人か私の房の前を通る。そして三人の房が開かれる音がする。外に連れ出されたらしい。
「皆さんさようなら」のひとことの言葉を残して、東の出口から刑務所内の中庭に設けられた刑場へと連れて行かれた。
私はズボン、シャツ等の持ち物全部を積み上げ、踏み台にして、塀越しに、三人の姿を見ようとしたが見ることができない。30名の英兵が三人がいると思われる方向に小銃を構えているのが見える。
「天皇陛下万歳」との叫び声が聞こえて来たと同時に、銃声は一斉にあたりにこだました。少し間を置いて又一発の銃声がした。
明日死ぬる 友の言葉を もらさじと 高なる 胸を おさえつつ聞く
死刑囚なれば 靴履くことも 許されず 銃殺されて 君は果てり
垢つかぬ 衣に替えて 死にゆくと 銃殺刑の 友語りたり
朝もやを つきて聞こゆる 銃声に 戦友万歳の 声を残して
吾が前で 三十人の 英兵に 銃殺されぬ ああ戦犯者君
緑川大尉の辞世
我も又 なき数に 入る 名を止め 南の果てに 散るをよろこぶ
柳沢大尉の辞世
みずすかる 信濃の春の 咲く桜花は 散りてぞ清く 思わるるかな
田島中尉の辞世
国破れ 愛児の帰り 待つ親に なんと聞かせん 銃殺の刑
と辞世を残されて逝かれた。
西独房に残された市川少佐は絞首刑である。西独房にいる戦友の話として、最後の様子が伝えられた。
「市川少佐は絞首台に連れ出されるため房から出る前にコーヒーを一杯グイーと飲み干して、扉より一歩踏み出して一本のタバコを口にして、英兵の肩を軽く叩いて『おい行くぞ』と先にたって行かれた」との話である。
運動の時間に市川少佐のいた空房を覗いた。片隅に空き缶を利用して植えてある雑草が小さな花を咲かせている。この雑草に水をくれた人は再び帰って来ることがない。
名も知らぬ 一輪の草花 植えてある 処刑されし 少佐の房に
7月22日
カラゴン事件の関係者6名は何の理由かわからないが「インセン」刑務所に移監された。幾つかの空房が出来たと思ったら「ラングーン」捕虜収容所事件で有期刑をうけて、西独房にいた田住大佐ら三人がここに移された。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (18) 遠山良作 著
昭和21年
6月30日
-ビルマ新聞発刊さる-
在ビルマの日本軍の大部分はラング-ン、ア-ロンキンプに終結して、日本に帰る船を待っている。この部隊から発行される、ビルマ新聞が差し入れられた。藁半紙一枚のガリ版刷の新聞である。懐かしい日本のニュース、非合法であった共産党は、国会に五名の代議士を送り込み、「天皇制は封建的遺物であるから、陛下は速やかに退位しろ、官僚による統制は撤廃して、人民の管理に移せ、資本家は労働者の待遇を改善して、生活の保障をすべきである」等を叫び、人民戦線の統一による政府の樹立を目指している。
農民は米の供出を出ししぶり、商人は闇取引のみをする。野党である社会党は、政府の打倒をめざし、政権の獲得に懸命な努力を傾けている。政府は通貨の縮小、食料の増産のため、開墾による農地の拡大を奨励、統制の強化等の政策を打ち出し、荒廃した祖国の復興に努めつつある。
有史以来初めて経験する敗戦は、精神的にも物質的にも、予想以上に深刻さを国民に与えているようである。敗戦という悲劇を経験した苦しみの涙は尊く、そこになにかを見出してこそ美しい、戦争のない、平和な新しい祖国日本が生まれることだと思う。祖国よ、頑張れ、遠いビルマの獄中からただ一日も早く、立ち上がることを祈るのみである。
たは易く 敗るものか 敗戦の 祖国のニュースに 心みだるる
過激なる 文字にとまどい 新しき 祖国(くいに)のニュースを 獄舎にて読む
食すくなき日 続きいて ほそりたる 貌が映れり 澄みたる水に
7月10日
-死刑囚市川少佐-
「カラゴン村」事件の責任者である市川少佐は絞首刑の宣告を受けて、この独房にいる若い少佐である。私が大佐を知ったのは、モールメン刑務所の独房に入れられていた時である。たしか昨年の12月頃である。英兵に連れられて私の隣りの房に入れられた。それが市川少佐であった。彼は会津生まれで士官学校の生粋の軍人である。明るい気性と親しみ易い人であった。夜になるとよく詩を吟じた。「正気の歌」など吟じたり、又、私に草履を作ることを教えてくれた。恐らく農村の出身であろう。モールメン刑務所時代は、ほとんどその草履を履いて過ごした。
それから彼は私より早くラングーン刑務所に送られたのである。それから間もなくカラゴン事件で死刑囚となり、私はエデゴン事件で6年の刑を受けて、この独房に入れられ、数ヶ月振りの再会であった。監視が厳しくてなかなか言葉は掛けられないが、鉄扉を通して見るくらいである。一日に一回10分位運動のために出てくる少佐の姿を見ることがある。
死の宣告を受けた彼の上に、死は一刻一刻と迫りつつある。今日も房の外に出た少佐は、幾日振りかで晴れた青空を見上げて、大きく深呼吸をして、「おお、今日は久しぶりによい天気だ」と言って澄んだ瞳を輝かして運動する彼の姿、これが明日をも知れない人の姿であろうか、悟りきった仏に姿にも似ている。
処刑待つ 市川少佐は 獄庭に 空を仰ぎて 思いきり手を振る
夜ともなれば静かな闇をついて、張りのあるよく通る声で市川少佐の「魄たり二千六百州・・・」という長い国体篇の詩吟が聞こえて来る。声が余り大きいので監視の印度兵がとがめると、「俺は間もなく死ぬるから、お経唱えている」と言う。歩哨は「マスター、もっと小さな声で唱えてくれ」と頼む。
戦勝国であるはずの印度人は、私たちに「マスター」という、人のよい印度兵には異様に聞こえたかもしれないが、市川少佐はなかなか「ユーモア」のある反面もあった。
経読むと 印度兵に偽り 声を張り上げて 歌うは死刑囚 市川少佐
この刑務所内の炊事にいる友が一番気を使って作る食事は、死刑囚のための食事である。なんとか充分に食べさせてやりたいと思えども、絶対量が足りない給与である。特に肉類は皆無である。たまたま捕まえた野ねずみなどは料理して死刑囚のために差し入れられるのである。
ある日、市川少佐は私に「この肉は美味しかったから食べてみろ」と野ねずみの肉の煮付けをくれた。初めて食べる肉はやわらかくて、鳥の肉に似ている。ひもじい毎日の生活である。今まで食べたことのないほど美味しい肉の味、少佐に心から感謝したこともあった。
野ねずみの 一片の肉 わけくれし 少佐の情に 胃の腑をみたす
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (18) 遠山良作 著
昭和21年
6月30日
-ビルマ新聞発刊さる-
在ビルマの日本軍の大部分はラング-ン、ア-ロンキンプに終結して、日本に帰る船を待っている。この部隊から発行される、ビルマ新聞が差し入れられた。藁半紙一枚のガリ版刷の新聞である。懐かしい日本のニュース、非合法であった共産党は、国会に五名の代議士を送り込み、「天皇制は封建的遺物であるから、陛下は速やかに退位しろ、官僚による統制は撤廃して、人民の管理に移せ、資本家は労働者の待遇を改善して、生活の保障をすべきである」等を叫び、人民戦線の統一による政府の樹立を目指している。
農民は米の供出を出ししぶり、商人は闇取引のみをする。野党である社会党は、政府の打倒をめざし、政権の獲得に懸命な努力を傾けている。政府は通貨の縮小、食料の増産のため、開墾による農地の拡大を奨励、統制の強化等の政策を打ち出し、荒廃した祖国の復興に努めつつある。
有史以来初めて経験する敗戦は、精神的にも物質的にも、予想以上に深刻さを国民に与えているようである。敗戦という悲劇を経験した苦しみの涙は尊く、そこになにかを見出してこそ美しい、戦争のない、平和な新しい祖国日本が生まれることだと思う。祖国よ、頑張れ、遠いビルマの獄中からただ一日も早く、立ち上がることを祈るのみである。
たは易く 敗るものか 敗戦の 祖国のニュースに 心みだるる
過激なる 文字にとまどい 新しき 祖国(くいに)のニュースを 獄舎にて読む
食すくなき日 続きいて ほそりたる 貌が映れり 澄みたる水に
7月10日
-死刑囚市川少佐-
「カラゴン村」事件の責任者である市川少佐は絞首刑の宣告を受けて、この独房にいる若い少佐である。私が大佐を知ったのは、モールメン刑務所の独房に入れられていた時である。たしか昨年の12月頃である。英兵に連れられて私の隣りの房に入れられた。それが市川少佐であった。彼は会津生まれで士官学校の生粋の軍人である。明るい気性と親しみ易い人であった。夜になるとよく詩を吟じた。「正気の歌」など吟じたり、又、私に草履を作ることを教えてくれた。恐らく農村の出身であろう。モールメン刑務所時代は、ほとんどその草履を履いて過ごした。
それから彼は私より早くラングーン刑務所に送られたのである。それから間もなくカラゴン事件で死刑囚となり、私はエデゴン事件で6年の刑を受けて、この独房に入れられ、数ヶ月振りの再会であった。監視が厳しくてなかなか言葉は掛けられないが、鉄扉を通して見るくらいである。一日に一回10分位運動のために出てくる少佐の姿を見ることがある。
死の宣告を受けた彼の上に、死は一刻一刻と迫りつつある。今日も房の外に出た少佐は、幾日振りかで晴れた青空を見上げて、大きく深呼吸をして、「おお、今日は久しぶりによい天気だ」と言って澄んだ瞳を輝かして運動する彼の姿、これが明日をも知れない人の姿であろうか、悟りきった仏に姿にも似ている。
処刑待つ 市川少佐は 獄庭に 空を仰ぎて 思いきり手を振る
夜ともなれば静かな闇をついて、張りのあるよく通る声で市川少佐の「魄たり二千六百州・・・」という長い国体篇の詩吟が聞こえて来る。声が余り大きいので監視の印度兵がとがめると、「俺は間もなく死ぬるから、お経唱えている」と言う。歩哨は「マスター、もっと小さな声で唱えてくれ」と頼む。
戦勝国であるはずの印度人は、私たちに「マスター」という、人のよい印度兵には異様に聞こえたかもしれないが、市川少佐はなかなか「ユーモア」のある反面もあった。
経読むと 印度兵に偽り 声を張り上げて 歌うは死刑囚 市川少佐
この刑務所内の炊事にいる友が一番気を使って作る食事は、死刑囚のための食事である。なんとか充分に食べさせてやりたいと思えども、絶対量が足りない給与である。特に肉類は皆無である。たまたま捕まえた野ねずみなどは料理して死刑囚のために差し入れられるのである。
ある日、市川少佐は私に「この肉は美味しかったから食べてみろ」と野ねずみの肉の煮付けをくれた。初めて食べる肉はやわらかくて、鳥の肉に似ている。ひもじい毎日の生活である。今まで食べたことのないほど美味しい肉の味、少佐に心から感謝したこともあった。
野ねずみの 一片の肉 わけくれし 少佐の情に 胃の腑をみたす
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (17) 遠山良作 著
昭和21年
6月27日
-戦友の情に泣く-
空腹、そして神経痛の痛みなども、苦しい獄の生活であるが、今一つの苦しみがある。それはタバコがないことである。刑務所より一週間に10本入りのライオン(巻きタバコ)を2箱支給してくれるが、この数量ではタバコ呑みにはとても足りない。タバコが切れると、気持ちがイライラしてくる。こんな時に吸うタバコの美味は格別である。頭がスーとして天国にいるような幸福感を覚えて、牢獄にいることすら忘れてしまう。タバコを吸う者のみが知るタバコの魅力である。独房ではこのタバコを入手することは不可能に近いのである。
一般キャンプにいる戦友は、われわれにタバコを差し入れるために、僅かばかりの持物であるシャツやズボン等を印度兵の歩哨と交換するのである。このタバコは取り調べのため呼び出しに来る通訳たちにひそかに依頼し差し入れてくれるのである。それのみか、今日から戦友が食事を運んでくれるというニュースを聞いた。今まで私たちのために食事を運んでくれる兵隊は、戦争中に英軍に捕虜になった日本兵であったが、かねてから、一般キャンプの戦友側が運ぶことを再三にわたり刑務所側に交渉していたことが許可されたのである。
夕食時である。モールメン分隊の戦友たち、田室、前原、永田、森本、懐かしい友の顔、雨に濡れながら運んで来てくれた。鉄格子の扉の間からであるが、幾月振りかで見る。顔はやつれているが元気である。監視兵が付いているので言葉を交わすことは出来ない。ただ「有難う。元気だよ」とひと言だけでも言うことが出来た。
入所以来こんなに嬉しく、また心強く思ったことはない。
刑務所側より支給してくれる少ない材料の内から、私たちのために作ってくれたこの食事は、堅い飯で量も多い。おかずも今日は特別食だと思うが、「コロッケ」である。「地獄に仏」ということわざがあるが、仏どころではない。何だか体全体のどこからか生きる力が湧いて来たような気がする。お互いに定められた最低の量で、ひもじい思いは同じである。おそらく友は自分の食事を減らして、独房にいる私たちのために、こんな豪華な食事を作ってくれたのであろう。
一般キャンプ(雑房)でも米の量は少なく、籾が多く混じっているので籾選びの作業がある。籾選びをしながら生米を食べる者がいることが問題になり、この作業に監視者が付くのである。また、炊事場の溝に落ちている「ジャングル」野菜の残飯を拾って食べる人もいると聞いている。今この刑務所では、生きるためには恥も外聞も考える余裕はない。わが軍の撤退作戦には、食べる物も尽き果て、弱っている戦友の米を奪い取って逃げてきた兵の話も聞いている。生きるためには人間は動物以上に醜い争いが生じることはどこの世界も同じである。
誰もかれもがひもじい生活のなかにあって、あたたかい戦友の情に感謝して箸を取った今日の夕食である。
満たさるる ことなき胃の腑に 歯ごたえある 飯の美味さは たとえようなし
戦友の 運びくれたる 夕食は 盛り多くあり おがみて食む
それのみでなく、独房で苦悩の中にある私たちを少しでも慰め、励ますことが出来ればと「蛙の声」と題して寄せ書き(15、6枚)を書いて、監視兵の目を盗んで差し入れてくれた。
表紙は田室兄の「蛙」の絵が描いてある。内容は、随筆、和歌、詩等である。
降り続くビルマの雨期、薄黒く雲一つ見えない空、コンリートで囲まれた薄暗い部屋での生活で憂鬱な毎日でもある。差し入れられた「蛙の声」を何度も繰り返して読む。なつかしい友の一人一人の顔が浮かんで来る。監視の厳しい牢獄で禁止されている紙や筆記用具をどうして手に入れたのであろう。これからは一週間に一回くらい差し入れてくれるという次の「蛙の越え」が今から待ち遠しい。
トイレットペーパーに 日記かく 囚人吾は 英兵にかくれて
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (17) 遠山良作 著
昭和21年
6月27日
-戦友の情に泣く-
空腹、そして神経痛の痛みなども、苦しい獄の生活であるが、今一つの苦しみがある。それはタバコがないことである。刑務所より一週間に10本入りのライオン(巻きタバコ)を2箱支給してくれるが、この数量ではタバコ呑みにはとても足りない。タバコが切れると、気持ちがイライラしてくる。こんな時に吸うタバコの美味は格別である。頭がスーとして天国にいるような幸福感を覚えて、牢獄にいることすら忘れてしまう。タバコを吸う者のみが知るタバコの魅力である。独房ではこのタバコを入手することは不可能に近いのである。
一般キャンプにいる戦友は、われわれにタバコを差し入れるために、僅かばかりの持物であるシャツやズボン等を印度兵の歩哨と交換するのである。このタバコは取り調べのため呼び出しに来る通訳たちにひそかに依頼し差し入れてくれるのである。それのみか、今日から戦友が食事を運んでくれるというニュースを聞いた。今まで私たちのために食事を運んでくれる兵隊は、戦争中に英軍に捕虜になった日本兵であったが、かねてから、一般キャンプの戦友側が運ぶことを再三にわたり刑務所側に交渉していたことが許可されたのである。
夕食時である。モールメン分隊の戦友たち、田室、前原、永田、森本、懐かしい友の顔、雨に濡れながら運んで来てくれた。鉄格子の扉の間からであるが、幾月振りかで見る。顔はやつれているが元気である。監視兵が付いているので言葉を交わすことは出来ない。ただ「有難う。元気だよ」とひと言だけでも言うことが出来た。
入所以来こんなに嬉しく、また心強く思ったことはない。
刑務所側より支給してくれる少ない材料の内から、私たちのために作ってくれたこの食事は、堅い飯で量も多い。おかずも今日は特別食だと思うが、「コロッケ」である。「地獄に仏」ということわざがあるが、仏どころではない。何だか体全体のどこからか生きる力が湧いて来たような気がする。お互いに定められた最低の量で、ひもじい思いは同じである。おそらく友は自分の食事を減らして、独房にいる私たちのために、こんな豪華な食事を作ってくれたのであろう。
一般キャンプ(雑房)でも米の量は少なく、籾が多く混じっているので籾選びの作業がある。籾選びをしながら生米を食べる者がいることが問題になり、この作業に監視者が付くのである。また、炊事場の溝に落ちている「ジャングル」野菜の残飯を拾って食べる人もいると聞いている。今この刑務所では、生きるためには恥も外聞も考える余裕はない。わが軍の撤退作戦には、食べる物も尽き果て、弱っている戦友の米を奪い取って逃げてきた兵の話も聞いている。生きるためには人間は動物以上に醜い争いが生じることはどこの世界も同じである。
誰もかれもがひもじい生活のなかにあって、あたたかい戦友の情に感謝して箸を取った今日の夕食である。
満たさるる ことなき胃の腑に 歯ごたえある 飯の美味さは たとえようなし
戦友の 運びくれたる 夕食は 盛り多くあり おがみて食む
それのみでなく、独房で苦悩の中にある私たちを少しでも慰め、励ますことが出来ればと「蛙の声」と題して寄せ書き(15、6枚)を書いて、監視兵の目を盗んで差し入れてくれた。
表紙は田室兄の「蛙」の絵が描いてある。内容は、随筆、和歌、詩等である。
降り続くビルマの雨期、薄黒く雲一つ見えない空、コンリートで囲まれた薄暗い部屋での生活で憂鬱な毎日でもある。差し入れられた「蛙の声」を何度も繰り返して読む。なつかしい友の一人一人の顔が浮かんで来る。監視の厳しい牢獄で禁止されている紙や筆記用具をどうして手に入れたのであろう。これからは一週間に一回くらい差し入れてくれるという次の「蛙の越え」が今から待ち遠しい。
トイレットペーパーに 日記かく 囚人吾は 英兵にかくれて
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (16) 遠山良作 著
昭和21年
6月25日
-坐骨神経痛に悩む-
今、ビルマは雨期である。雨は毎日休みなく降り続く。英国の植民地時代からの古い建物であるこの独房も青いカビさえ生えている。天上の割れ目から雨だれがポツン、ポツンと落ちる。コンクリートの叩土にアンペラ一枚と薄い代用毛布一枚で寝るのである。体は冷え切ってしまう。
このような独房生活のため、腰のあたりにズキンズキンと痛みを覚える。寝返りをしても痛く、起きる時などは特に痛い。歩行さえ困難である。巡回して来る印度人の軍医にこのことを訴えた。彼は、「歳のせいだ」と言って薬さえくれない。原因は冷えから来る坐骨神経痛のようである。
一般キャンプにいる戦友と連絡を絶たれているこの独房ではあるが、私たちのために心の支えとなって励ましてくれる多くの戦友がいる。神経痛で苦しんでいる私のことを聞いて、大湖通訳に依頼して麻袋(米を入れる麻袋)を差し入れてくれた。この独房にいる出田大佐も小さな布団を貸して下さった。どうしようもなく、途方にくれている時の友情は、涙が出ほど嬉しいものである。
「落ちぶれて袖に涙のかかる時 人の奥ぞ知らるる」の昔の人が歌った和歌を思い出す。
監房に アンペラ敷きて 病む我に 戦友は励まし 麻袋をくれる
生きるとは 苦しきことと 思うなり 生きねばならぬ 我命思う
我が痛む 腰をさすりつ 雨の洩る 天井を見て 今日も暮れたり
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (16) 遠山良作 著
昭和21年
6月25日
-坐骨神経痛に悩む-
今、ビルマは雨期である。雨は毎日休みなく降り続く。英国の植民地時代からの古い建物であるこの独房も青いカビさえ生えている。天上の割れ目から雨だれがポツン、ポツンと落ちる。コンクリートの叩土にアンペラ一枚と薄い代用毛布一枚で寝るのである。体は冷え切ってしまう。
このような独房生活のため、腰のあたりにズキンズキンと痛みを覚える。寝返りをしても痛く、起きる時などは特に痛い。歩行さえ困難である。巡回して来る印度人の軍医にこのことを訴えた。彼は、「歳のせいだ」と言って薬さえくれない。原因は冷えから来る坐骨神経痛のようである。
一般キャンプにいる戦友と連絡を絶たれているこの独房ではあるが、私たちのために心の支えとなって励ましてくれる多くの戦友がいる。神経痛で苦しんでいる私のことを聞いて、大湖通訳に依頼して麻袋(米を入れる麻袋)を差し入れてくれた。この独房にいる出田大佐も小さな布団を貸して下さった。どうしようもなく、途方にくれている時の友情は、涙が出ほど嬉しいものである。
「落ちぶれて袖に涙のかかる時 人の奥ぞ知らるる」の昔の人が歌った和歌を思い出す。
監房に アンペラ敷きて 病む我に 戦友は励まし 麻袋をくれる
生きるとは 苦しきことと 思うなり 生きねばならぬ 我命思う
我が痛む 腰をさすりつ 雨の洩る 天井を見て 今日も暮れたり
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (15) 遠山良作 著
昭和21年
6月18日
四時頃である。激しく降った雨が少し小降りになった。棟の入口付近にあわただしい靴の足音がした。
「何かあったか」と誰かの叫ぶような声がする。
「上野大尉が連れて行かれた」と西の方から返事が返って来る。
物静かな上野大尉は、誰ともあまり会話がなかったので、事件の詳細な内容は、よく解らない。ただ英人の搭乗員が死んだ事件である。
明朝は、ビルマで初めての戦犯者として、断頭台の露と消えて逝かれる。私たち独房にいる者はみな泣いた。降り続く雨、悲しみの涙は冷たい鉄格子を濡らすのである。
君が代の 弥栄寿ぎて 散る君の 心や神に 通ひこそすれ
朝露と なりて消えぬる 君なれど 勲をわれ等 永久に忘れじ
6月20日
-ラングーン捕虜収容所の事件の判決-
上野大尉を断頭台に送った翌日である。ラングーン捕虜収容所事件の判決があった。
第5回目の裁判である。判決は、
陸軍軍医中尉 大西明男 死刑
陸軍軍医大尉 田住元三 無期
陸軍主計曹長 上野 清 3年
陸軍上等兵 上野桂月 15年
連合軍の捕虜を収容中に虐待し、病人に対して充分な治療をしなかったため、死に至らしめた。また、食事も充分に与えなかった等の罪状である。
人間の死は避けることは出来ない。戦場で医薬品の不足していることは、当時としてはやむ得ないことである。死亡した原因が軍医が充分な医薬品を与えず死に至らしめたと言う責任者である。6人目の死刑囚として、大西軍医もこの独房の人になった。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (15) 遠山良作 著
昭和21年
6月18日
四時頃である。激しく降った雨が少し小降りになった。棟の入口付近にあわただしい靴の足音がした。
「何かあったか」と誰かの叫ぶような声がする。
「上野大尉が連れて行かれた」と西の方から返事が返って来る。
物静かな上野大尉は、誰ともあまり会話がなかったので、事件の詳細な内容は、よく解らない。ただ英人の搭乗員が死んだ事件である。
明朝は、ビルマで初めての戦犯者として、断頭台の露と消えて逝かれる。私たち独房にいる者はみな泣いた。降り続く雨、悲しみの涙は冷たい鉄格子を濡らすのである。
君が代の 弥栄寿ぎて 散る君の 心や神に 通ひこそすれ
朝露と なりて消えぬる 君なれど 勲をわれ等 永久に忘れじ
6月20日
-ラングーン捕虜収容所の事件の判決-
上野大尉を断頭台に送った翌日である。ラングーン捕虜収容所事件の判決があった。
第5回目の裁判である。判決は、
陸軍軍医中尉 大西明男 死刑
陸軍軍医大尉 田住元三 無期
陸軍主計曹長 上野 清 3年
陸軍上等兵 上野桂月 15年
連合軍の捕虜を収容中に虐待し、病人に対して充分な治療をしなかったため、死に至らしめた。また、食事も充分に与えなかった等の罪状である。
人間の死は避けることは出来ない。戦場で医薬品の不足していることは、当時としてはやむ得ないことである。死亡した原因が軍医が充分な医薬品を与えず死に至らしめたと言う責任者である。6人目の死刑囚として、大西軍医もこの独房の人になった。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (14) 遠山良作 著
昭和21年
6月15日
-空腹なる3オンス給与-
私たちがこの独房に入った頃より給与は悪くなった。水の中に米粒が浮いているような粥が一日に二杯のみである。私たちはこの食事を3オンス(約米6勺)給与と呼んだ。
毎日朝十時頃と三時頃、この粥とジャングル野菜(草の葉)が二つ三つ塩汁に浮いている汁を運んで来てくれる。食器(缶詰の空き缶)を扉の間から出しておくと、空缶で作った杓子に一杯ずつ注いでくれるのである。
時には注いで行くうちに、その量も少なくなって半分位になる時もある。この薄い粥でも命を支えてくれる。毎日ひもじい日が続く。隣りの小林曹長は「腹一杯飯が食べたい、食べられたら何時死刑になってもよい」と言う。冗談とも本気ともとれる。
日が暮れて暗くなると、一層空腹を覚える。
「オーイ、聞こえるか」
「うん、聞こえるぞ」
「腹が減ったなあ、もう一ぺんあのにぎりずしをたべてみたいなあ」
「そうだな、俺も昨晩すしを食べた夢を見たぞ」
と食べることの会話が続く。
鉄の扉に頬を寄せてしゃべると、隣りの房にいる友と、なんとか話しが出来ることは有り難い。しかし長くしゃべると腹が減るので、いいかげんで話を中止する。空腹のあまり、水ばかりがぶがぶと呑むと腹がグウグウと鳴る。
便所には毎日行くが、便は一週間に一回位しか出ないのである。なんとか出ないかとふんばる。痛いが我慢して力むと血が混じった堅くて黒っぽい、うさぎの糞状に似た小さな固まりが三つ位出る。食べた物が全部消化されてしまうらしい。
誰の顔を見ても、日に日にやつれて行くのがよく分かる。眼ばかりギョロギョロと光る。太陽に当たらないので青白く、皮膚がたるむ、私の視力も減退し、歩行することさえ困難になる。
給与の悪いのは、この独房ばかりではない。一般キャンプ(雑居房)でも栄養失調が原因で患者が続出しだした。このままの給与が続くなら、生命の保証すら困難であると、軍医は刑務所側に給与の改善を申し込んだ。しかし、彼らの答えは「規定だからやむを得ない」との返事である。
水多き おかゆなれども 有難く 幾度も噛みて 吾は味わう
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (14) 遠山良作 著
昭和21年
6月15日
-空腹なる3オンス給与-
私たちがこの独房に入った頃より給与は悪くなった。水の中に米粒が浮いているような粥が一日に二杯のみである。私たちはこの食事を3オンス(約米6勺)給与と呼んだ。
毎日朝十時頃と三時頃、この粥とジャングル野菜(草の葉)が二つ三つ塩汁に浮いている汁を運んで来てくれる。食器(缶詰の空き缶)を扉の間から出しておくと、空缶で作った杓子に一杯ずつ注いでくれるのである。
時には注いで行くうちに、その量も少なくなって半分位になる時もある。この薄い粥でも命を支えてくれる。毎日ひもじい日が続く。隣りの小林曹長は「腹一杯飯が食べたい、食べられたら何時死刑になってもよい」と言う。冗談とも本気ともとれる。
日が暮れて暗くなると、一層空腹を覚える。
「オーイ、聞こえるか」
「うん、聞こえるぞ」
「腹が減ったなあ、もう一ぺんあのにぎりずしをたべてみたいなあ」
「そうだな、俺も昨晩すしを食べた夢を見たぞ」
と食べることの会話が続く。
鉄の扉に頬を寄せてしゃべると、隣りの房にいる友と、なんとか話しが出来ることは有り難い。しかし長くしゃべると腹が減るので、いいかげんで話を中止する。空腹のあまり、水ばかりがぶがぶと呑むと腹がグウグウと鳴る。
便所には毎日行くが、便は一週間に一回位しか出ないのである。なんとか出ないかとふんばる。痛いが我慢して力むと血が混じった堅くて黒っぽい、うさぎの糞状に似た小さな固まりが三つ位出る。食べた物が全部消化されてしまうらしい。
誰の顔を見ても、日に日にやつれて行くのがよく分かる。眼ばかりギョロギョロと光る。太陽に当たらないので青白く、皮膚がたるむ、私の視力も減退し、歩行することさえ困難になる。
給与の悪いのは、この独房ばかりではない。一般キャンプ(雑居房)でも栄養失調が原因で患者が続出しだした。このままの給与が続くなら、生命の保証すら困難であると、軍医は刑務所側に給与の改善を申し込んだ。しかし、彼らの答えは「規定だからやむを得ない」との返事である。
水多き おかゆなれども 有難く 幾度も噛みて 吾は味わう
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (13) 遠山良作 著
昭和21年
5月31日
-判決-
今日は判決の日である。私たちは弁護士の言葉でもあり、無罪を信じて判決にのぞんだ。その判決は
憲兵大佐 出田直也 8年
憲兵大尉 東 登 8年
憲兵少尉 中山伊作 8年
憲兵曹長 小林 崇 6年
憲兵軍曹 遠山良作 6年
陸軍軍曹 中島時善 6年
憲兵軍曹 馬場 満 1カ月
憲兵軍曹 塩田利弘 無罪
陸軍上等兵 小川 無罪 の判決である。
意外な判決にみんな驚いた。こんな無茶な裁判がどこにあろうか。全く一方的である。15日間にわたる裁判で、証拠としては、検事側のでたらめな証人の証言のみを採用し、私たちの証言は一考だにしない。彼等が「お前たちは戦争に敗けたから仕方がないよ」と言うなら裁判なぞ必要ない。彼等は、ただ裁判したよ、との形式を整えていればよいのであろう。裁判は名を借りて復讐しているとしか考えられない。
今後もこのような裁判が行なわれるとしたら、どんなことになるのか心配である。
6月2日
-東独房に入る-
判決のあった翌日、有罪になった私たち7名は東独房に移された。先に判決を受けた人たちが監禁されている房である。カラゴン事件で死刑の判決を受けている市川少佐たち4人と埠頭分隊事件の上野大佐たちの顔は薄暗い鉄の扉を通じてさだかではないが見ることが出来る。
この棟は24の房が北面に向って一列に並ぶ独房である。床も天井も壁も土とコンクリートで囲まれている。入口は鉄の頑丈な6本の鉄棒からなる格子戸がある。南側の上方に明りとりの小窓がある。一番奥に洗面器大の陶器の便器が備えてあるだけで電灯もない。
モールメン刑務所以来の独房生活には馴れているとは言え、囚人としての生活が始まるかと思うと孤独-寂寥-万感胸せまる。これから一体どうなるのか。自分で取調中に死亡したアオンバの事件、タキン党事件等、幾回も取調を受けているから、このままで終わるとは考えられない。
これを運命と言うのかもしれない。敗戦国民の誰もが負わなければならない責務でもある。これからまだまだ茨の道が続くであろう。だが、負けてはならない。全てを乗り越えて生きていかねばならない。新しい日本が生まれるまで生きるのだ、と自分の心に言い聞かせる。
戦犯の 刑受けたれど 我耐えん 日本男子の 任果たすまで
たまに来る 蟻みてをれど 薄暗き 独房の奥には 行かず戻りぬ
6月10日
寝られない。真夜中である。突然誰かの叫び声に飛び起きる。隣りの房から「N軍曹が発狂したらしい」という。望みのない暗い独房生活。そして連日厳しい取調が続くこの独房、人間の耐え得ることのギリギリの限界かも知れない。強く生きなければと誓う自分も前途のことを考えるとキリキリと頭が痛い。発狂しないのが不思議なくらいでもある。
何ごとか 解らぬ言葉 くり返す 独房の戦友 今日も狂えり
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (13) 遠山良作 著
昭和21年
5月31日
-判決-
今日は判決の日である。私たちは弁護士の言葉でもあり、無罪を信じて判決にのぞんだ。その判決は
憲兵大佐 出田直也 8年
憲兵大尉 東 登 8年
憲兵少尉 中山伊作 8年
憲兵曹長 小林 崇 6年
憲兵軍曹 遠山良作 6年
陸軍軍曹 中島時善 6年
憲兵軍曹 馬場 満 1カ月
憲兵軍曹 塩田利弘 無罪
陸軍上等兵 小川 無罪 の判決である。
意外な判決にみんな驚いた。こんな無茶な裁判がどこにあろうか。全く一方的である。15日間にわたる裁判で、証拠としては、検事側のでたらめな証人の証言のみを採用し、私たちの証言は一考だにしない。彼等が「お前たちは戦争に敗けたから仕方がないよ」と言うなら裁判なぞ必要ない。彼等は、ただ裁判したよ、との形式を整えていればよいのであろう。裁判は名を借りて復讐しているとしか考えられない。
今後もこのような裁判が行なわれるとしたら、どんなことになるのか心配である。
6月2日
-東独房に入る-
判決のあった翌日、有罪になった私たち7名は東独房に移された。先に判決を受けた人たちが監禁されている房である。カラゴン事件で死刑の判決を受けている市川少佐たち4人と埠頭分隊事件の上野大佐たちの顔は薄暗い鉄の扉を通じてさだかではないが見ることが出来る。
この棟は24の房が北面に向って一列に並ぶ独房である。床も天井も壁も土とコンクリートで囲まれている。入口は鉄の頑丈な6本の鉄棒からなる格子戸がある。南側の上方に明りとりの小窓がある。一番奥に洗面器大の陶器の便器が備えてあるだけで電灯もない。
モールメン刑務所以来の独房生活には馴れているとは言え、囚人としての生活が始まるかと思うと孤独-寂寥-万感胸せまる。これから一体どうなるのか。自分で取調中に死亡したアオンバの事件、タキン党事件等、幾回も取調を受けているから、このままで終わるとは考えられない。
これを運命と言うのかもしれない。敗戦国民の誰もが負わなければならない責務でもある。これからまだまだ茨の道が続くであろう。だが、負けてはならない。全てを乗り越えて生きていかねばならない。新しい日本が生まれるまで生きるのだ、と自分の心に言い聞かせる。
戦犯の 刑受けたれど 我耐えん 日本男子の 任果たすまで
たまに来る 蟻みてをれど 薄暗き 独房の奥には 行かず戻りぬ
6月10日
寝られない。真夜中である。突然誰かの叫び声に飛び起きる。隣りの房から「N軍曹が発狂したらしい」という。望みのない暗い独房生活。そして連日厳しい取調が続くこの独房、人間の耐え得ることのギリギリの限界かも知れない。強く生きなければと誓う自分も前途のことを考えるとキリキリと頭が痛い。発狂しないのが不思議なくらいでもある。
何ごとか 解らぬ言葉 くり返す 独房の戦友 今日も狂えり
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (12) 遠山良作 著
昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・4・・・
最後に遠山軍曹であるが、もしも証人たちの証言を信ずるならば、彼は本件の真の悪党である。最後に立った証人「ムサフラアーメット」は、彼は本人及び他の部落民から「恐れられていた」と陳述している。余は彼が彼らから恐れられていたということは、疑わない。何故ならば、彼は常に部落で行動したのみならず、彼の情報による結果彼ら証人が逮捕された。彼らが経験した虐待や苦痛は直接遠山が原因しているからである。
遠山が法廷に現われるや、如何なることが起こったか、証人は一人残らず彼を指名した。しかし「モールメン」刑務所での首実験の際は僅か一人のみ彼を指している。
我々には証人たちが、一見してよく知り得ることの出来る遠山が、被告席にいるのを見た時、如何なることを考えたかを想像し得る。彼らは「彼奴だ」“彼こそ全ての禍の因”「拷問の若干を彼の責任にしてやろう」と話したのではなかろうか、・・・然し弁護が進むに従い彼が刑務所にいたのは僅か10分位でそれも或る姓名を認めるためであったと聞いた証人たちは如何に失望したことであろう・・・・。中島軍曹は当時監視についていたのでこの点を認めている。
前記三名の行動は東大尉、中山少尉及び福田曹長たちにより裏書されている。余はここにこれら三名の人物が何ら本事件についての関わりのないことは全く疑う余地のないものであることを申し開き彼らの無罪を主張するものである。
法廷は福田曹長の証言の態度に印象づけられたであろう。彼は本法廷に現われることにより全てを失い、何等得るところは無いにも拘らず、彼は何の言い抜けもせずまた、何等躊躇することなく、透明的な、正直さをもって証言している。以て余は彼の証言に対し特別なる注意を払うべく法廷に乞うものである。
中山少尉以外は被告の何人といえども取調に参加せずと福田は断言している。更に福田の証言は証人たちの言明が如何に真実であるかを測定するに有効な資料である。「ハジ、モハマットサレー」は老人にして刑務所では特別の待遇を受けている。またこの老人が検挙された主な理由の一つは彼の同胞の邪推を除くためであった。更に重要なる点は虐待を受けた人間はこの二名であると言って、福田が指した者は本法廷の証人席において感動のあまり泣き出した二名の証人であることである。
他の留置人が如何なる待遇を受けたかについては、福田は何ら直接の証言は出していないが、取調官の間に連絡があったと言明している。
更に次の二点に興味がある。第一に福田は梁に吊るされた際には目隠しされて、足は地面についていなかったと言っている。第二に電気拷問に使用した器具は電話機であったことである。英軍の通信兵はその電話機の試験のため、自身に対しこの「拷問」を行なったものである。これは不愉快な気持ちを与えるのみで何等危険なものに非ず。意識を失うようなことはあり得ない。
次に私は被告人が転じてこの法廷において証言をした九名の証言に言及しよう。これら九名の如き不完全極まる人間はちょっと他にはないであろう。彼らの大部分の者は以前になした陳述書の中に述べるまでもないと考えた残虐無道なる拷問について長たらしい供述をした。これらは彼らが申立てをした時より証言台に立つまでの間に考えついた作り事であると判断するのは当り前のことではなかろうか。尚彼らの中で一人たりとも首実験において指したのと同一人(真に同一人だけ)を被告人の中に指した者はいない。
彼らの中のある者は首実験の際に一、二名より指していないにもかかわらず被告人席の全員を指した。―中略―この件に関し、検事は二つのことを立証しなければならなかった。(1)拷問の実在、(2)被告人がこれらの拷問を許可しあるいは目撃し或いは自身それを行なったか否や。しかるに彼は(検事)哀れにも失敗せり、この件は一転の疑問なきままに立証されねばならぬのに疑問は山程ある。証人の虐待に関する申立ては如何にも誇張されているため、何ごとかなさん。そしてこれは不可能であろう。
被告人たちも彼らの言が間違っていることが立証されるまでは他の者と同様に信用される権利を有する。而して被告全員は当法廷にて、彼らの中で中山少尉ただ一人が訊問を行なったことを証言している。取調は中山、井出、福田の外に一、二名の通訳によって行なわれたことは明らかになった。取調は彼らの専門の仕事であり彼ら以外の何者もこれに関与していない。
裁判長殿、最後に私は被告人に対するこの度の告訴は一点の疑問なきまでに立証されねばならぬ。そのため、私は全員に対し法廷は無罪の宣告を与えられんことを、自信を持って主張します。 (了)
「註」エデゴン事件の弁護士は英人「バーンズ」大尉であった。彼が裁判長に提出した英文を訳したもので、穴沢定志弁護士が入手し、ひそかに持ち帰ったのである。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (12) 遠山良作 著
昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・4・・・
最後に遠山軍曹であるが、もしも証人たちの証言を信ずるならば、彼は本件の真の悪党である。最後に立った証人「ムサフラアーメット」は、彼は本人及び他の部落民から「恐れられていた」と陳述している。余は彼が彼らから恐れられていたということは、疑わない。何故ならば、彼は常に部落で行動したのみならず、彼の情報による結果彼ら証人が逮捕された。彼らが経験した虐待や苦痛は直接遠山が原因しているからである。
遠山が法廷に現われるや、如何なることが起こったか、証人は一人残らず彼を指名した。しかし「モールメン」刑務所での首実験の際は僅か一人のみ彼を指している。
我々には証人たちが、一見してよく知り得ることの出来る遠山が、被告席にいるのを見た時、如何なることを考えたかを想像し得る。彼らは「彼奴だ」“彼こそ全ての禍の因”「拷問の若干を彼の責任にしてやろう」と話したのではなかろうか、・・・然し弁護が進むに従い彼が刑務所にいたのは僅か10分位でそれも或る姓名を認めるためであったと聞いた証人たちは如何に失望したことであろう・・・・。中島軍曹は当時監視についていたのでこの点を認めている。
前記三名の行動は東大尉、中山少尉及び福田曹長たちにより裏書されている。余はここにこれら三名の人物が何ら本事件についての関わりのないことは全く疑う余地のないものであることを申し開き彼らの無罪を主張するものである。
法廷は福田曹長の証言の態度に印象づけられたであろう。彼は本法廷に現われることにより全てを失い、何等得るところは無いにも拘らず、彼は何の言い抜けもせずまた、何等躊躇することなく、透明的な、正直さをもって証言している。以て余は彼の証言に対し特別なる注意を払うべく法廷に乞うものである。
中山少尉以外は被告の何人といえども取調に参加せずと福田は断言している。更に福田の証言は証人たちの言明が如何に真実であるかを測定するに有効な資料である。「ハジ、モハマットサレー」は老人にして刑務所では特別の待遇を受けている。またこの老人が検挙された主な理由の一つは彼の同胞の邪推を除くためであった。更に重要なる点は虐待を受けた人間はこの二名であると言って、福田が指した者は本法廷の証人席において感動のあまり泣き出した二名の証人であることである。
他の留置人が如何なる待遇を受けたかについては、福田は何ら直接の証言は出していないが、取調官の間に連絡があったと言明している。
更に次の二点に興味がある。第一に福田は梁に吊るされた際には目隠しされて、足は地面についていなかったと言っている。第二に電気拷問に使用した器具は電話機であったことである。英軍の通信兵はその電話機の試験のため、自身に対しこの「拷問」を行なったものである。これは不愉快な気持ちを与えるのみで何等危険なものに非ず。意識を失うようなことはあり得ない。
次に私は被告人が転じてこの法廷において証言をした九名の証言に言及しよう。これら九名の如き不完全極まる人間はちょっと他にはないであろう。彼らの大部分の者は以前になした陳述書の中に述べるまでもないと考えた残虐無道なる拷問について長たらしい供述をした。これらは彼らが申立てをした時より証言台に立つまでの間に考えついた作り事であると判断するのは当り前のことではなかろうか。尚彼らの中で一人たりとも首実験において指したのと同一人(真に同一人だけ)を被告人の中に指した者はいない。
彼らの中のある者は首実験の際に一、二名より指していないにもかかわらず被告人席の全員を指した。―中略―この件に関し、検事は二つのことを立証しなければならなかった。(1)拷問の実在、(2)被告人がこれらの拷問を許可しあるいは目撃し或いは自身それを行なったか否や。しかるに彼は(検事)哀れにも失敗せり、この件は一転の疑問なきままに立証されねばならぬのに疑問は山程ある。証人の虐待に関する申立ては如何にも誇張されているため、何ごとかなさん。そしてこれは不可能であろう。
被告人たちも彼らの言が間違っていることが立証されるまでは他の者と同様に信用される権利を有する。而して被告全員は当法廷にて、彼らの中で中山少尉ただ一人が訊問を行なったことを証言している。取調は中山、井出、福田の外に一、二名の通訳によって行なわれたことは明らかになった。取調は彼らの専門の仕事であり彼ら以外の何者もこれに関与していない。
裁判長殿、最後に私は被告人に対するこの度の告訴は一点の疑問なきまでに立証されねばならぬ。そのため、私は全員に対し法廷は無罪の宣告を与えられんことを、自信を持って主張します。 (了)
「註」エデゴン事件の弁護士は英人「バーンズ」大尉であった。彼が裁判長に提出した英文を訳したもので、穴沢定志弁護士が入手し、ひそかに持ち帰ったのである。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (11) 遠山良作 著
昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・3・・・
次は中島軍曹である。彼は8月5日より12日の間看守についた以外に、刑務所の内に立ち入ったことがない。一週間に看守は二名ずつ勤務するのである。彼は四津上等兵と看守についた。勤務は24時間で日夜を二つに割って1名が仮眠している時には他の一名は定地を離れることは出来なかった。検事は中島軍曹が仮眠している時、東大尉が刑務所に来たことについていろいろ質問した。これは大体1年前に行なわれた事件で、はっきりと日時を思い出すことは出来ない。
中島軍曹の言によれば、彼は証人を取調べに行ったことはない。通訳もしくは、取調官が留置場に連れて来るのである。中山少尉はこれを確言する。証人の中の誰一人も留置場から取調室へ看守が連れて行ったという者はない。本人を無罪とすることを願う。
次は小川上等兵です。彼は運転手(自動車)であり、(特に分隊長の)またときには伝令もしていたので他に勤務は与えられていなかった。もちろん刑務所の看守の勤務にはつかなかった。「エデゴン」に検挙の部隊を転送したのは彼であった。彼は遠山軍曹、塩田軍曹及び小林曹長を「エデゴン」村から連れ戻さなかったことを覚えている。彼は検挙には参加していない。帰隊してから4、5回刑務所に運転して行った。(その中3回は井出籠(ごもり)准将を同所に連れて行った)しかし刑務所の中には入っていない。-中略-右事情を考慮して予は本人の放免を主張する。
残る三人即ち、小林曹長、塩田軍曹、遠山軍曹は証人の取り調べ期間中は殆んど「モールメン」に不在であった。出田大佐及び小川上等兵と同様に彼らは完全な「アリバイ」を有するものである。他の人物(証人)が如何なることを言うとも疑う余地は全くない。彼らは現場にいなかったのである。
先ず小林曹長と塩田軍曹の行動を検討しよう。彼らは共に「チャイマロ」にいた。7月28日の夜、前日の爆撃その他の連絡のため「モールメン」に帰隊している。次の日彼は「チャイマロ」に帰らねばならなかった。そして中山少佐が「エデゴン」に行く予定になっていたので便乗し、「エデゴン」村に到着したら中山少尉は彼らをして、1、2名検挙せしめたのである。それが終わると彼らは馬車で「チャイマロ」に向って出発したのである。8月5日頃塩田は「マラリヤ」のため発熱していたので「モールメン」に戻った。そして軍医の命で約一週間寝た。その後も「ブラブラ」した病人であったので確かに刑務所には行かなかった。
小林曹長は「チャイマロ」に残り14日頃分隊に1回立ち寄ったのみで、終戦まで「モールメン」には帰っていない。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (11) 遠山良作 著
昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・3・・・
次は中島軍曹である。彼は8月5日より12日の間看守についた以外に、刑務所の内に立ち入ったことがない。一週間に看守は二名ずつ勤務するのである。彼は四津上等兵と看守についた。勤務は24時間で日夜を二つに割って1名が仮眠している時には他の一名は定地を離れることは出来なかった。検事は中島軍曹が仮眠している時、東大尉が刑務所に来たことについていろいろ質問した。これは大体1年前に行なわれた事件で、はっきりと日時を思い出すことは出来ない。
中島軍曹の言によれば、彼は証人を取調べに行ったことはない。通訳もしくは、取調官が留置場に連れて来るのである。中山少尉はこれを確言する。証人の中の誰一人も留置場から取調室へ看守が連れて行ったという者はない。本人を無罪とすることを願う。
次は小川上等兵です。彼は運転手(自動車)であり、(特に分隊長の)またときには伝令もしていたので他に勤務は与えられていなかった。もちろん刑務所の看守の勤務にはつかなかった。「エデゴン」に検挙の部隊を転送したのは彼であった。彼は遠山軍曹、塩田軍曹及び小林曹長を「エデゴン」村から連れ戻さなかったことを覚えている。彼は検挙には参加していない。帰隊してから4、5回刑務所に運転して行った。(その中3回は井出籠(ごもり)准将を同所に連れて行った)しかし刑務所の中には入っていない。-中略-右事情を考慮して予は本人の放免を主張する。
残る三人即ち、小林曹長、塩田軍曹、遠山軍曹は証人の取り調べ期間中は殆んど「モールメン」に不在であった。出田大佐及び小川上等兵と同様に彼らは完全な「アリバイ」を有するものである。他の人物(証人)が如何なることを言うとも疑う余地は全くない。彼らは現場にいなかったのである。
先ず小林曹長と塩田軍曹の行動を検討しよう。彼らは共に「チャイマロ」にいた。7月28日の夜、前日の爆撃その他の連絡のため「モールメン」に帰隊している。次の日彼は「チャイマロ」に帰らねばならなかった。そして中山少佐が「エデゴン」に行く予定になっていたので便乗し、「エデゴン」村に到着したら中山少尉は彼らをして、1、2名検挙せしめたのである。それが終わると彼らは馬車で「チャイマロ」に向って出発したのである。8月5日頃塩田は「マラリヤ」のため発熱していたので「モールメン」に戻った。そして軍医の命で約一週間寝た。その後も「ブラブラ」した病人であったので確かに刑務所には行かなかった。
小林曹長は「チャイマロ」に残り14日頃分隊に1回立ち寄ったのみで、終戦まで「モールメン」には帰っていない。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (10) 遠山良作 著
昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・2・・・
最初に法廷は医療の必要なるときは、与えられたることを認む。次に東大尉は、留置所の巡視に際し要求を受けたることなく、中山少尉は医療の必要なる者にはそれに即応するが如く処置したることを語れり。東大尉が「マラリヤ」に関してもその責任を問わるるが、「マラリヤ」は幾多の印度人の慢性病なり。19日間の留置中に証人は全部「マラリヤ」蚊に刺され「マラリヤ」にかかりたりと言えるは、「チャンチャラ」おかしい。
さて彼が拷問に立会い、かつ自ら手を下したと言う証言につき東大尉は、絶対的に訊問に立会いたることなしと言明し、かつ、分隊長は通常訊問せずと申し立つ。彼の行動をよく知る二名、即ち中山少尉と中島軍曹は彼の言を裏書す。中山軍曹は「東大尉は取調べに当り立会いと訊問を指導せず」と言う。-中略-部下の行動に関し命令或いは黙認せざる限り責任なし、ましてや人命に関するが如き犯罪的職務怠慢なく、留置場において誰も死亡せず、元気溌剌としてこの法廷に現われたり。よって東大尉は無罪たるべし。
次は中山少尉である。彼が言うには、現在被告とされている者の中で取調べの現場にいた者はいない。東大尉より取調べの要領について指示はなかった。彼自身第一日目に取調べをしたと言っている。そして水責めをしたこと、特に「ラーマン」及び「ノーメル」に対して行なった。本人は証言台に立つ前から事実を語るつもりでいた故、法廷一同は彼の言を特に注意して聞いてもらいたい。彼はやった事の半分を語っても何の意味もない、彼は全部真実を語っている。責任を逃れようともしていない。日本陸軍の少尉または、他国の少尉が「ハーグ」条約について知るよしもない彼は自分の徳義を守って語ったのである。
彼は国のために尽くすべく速やかに情報を出さなければならなかった。彼の行動は誤っていたかも知れなかった。面白半分にやったのではない。他に余り言うことはない。半「ヒステリ」の証人たちの言うことより彼の言うことを信ずるのがあたり前だ。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (10) 遠山良作 著
昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・2・・・
最初に法廷は医療の必要なるときは、与えられたることを認む。次に東大尉は、留置所の巡視に際し要求を受けたることなく、中山少尉は医療の必要なる者にはそれに即応するが如く処置したることを語れり。東大尉が「マラリヤ」に関してもその責任を問わるるが、「マラリヤ」は幾多の印度人の慢性病なり。19日間の留置中に証人は全部「マラリヤ」蚊に刺され「マラリヤ」にかかりたりと言えるは、「チャンチャラ」おかしい。
さて彼が拷問に立会い、かつ自ら手を下したと言う証言につき東大尉は、絶対的に訊問に立会いたることなしと言明し、かつ、分隊長は通常訊問せずと申し立つ。彼の行動をよく知る二名、即ち中山少尉と中島軍曹は彼の言を裏書す。中山軍曹は「東大尉は取調べに当り立会いと訊問を指導せず」と言う。-中略-部下の行動に関し命令或いは黙認せざる限り責任なし、ましてや人命に関するが如き犯罪的職務怠慢なく、留置場において誰も死亡せず、元気溌剌としてこの法廷に現われたり。よって東大尉は無罪たるべし。
次は中山少尉である。彼が言うには、現在被告とされている者の中で取調べの現場にいた者はいない。東大尉より取調べの要領について指示はなかった。彼自身第一日目に取調べをしたと言っている。そして水責めをしたこと、特に「ラーマン」及び「ノーメル」に対して行なった。本人は証言台に立つ前から事実を語るつもりでいた故、法廷一同は彼の言を特に注意して聞いてもらいたい。彼はやった事の半分を語っても何の意味もない、彼は全部真実を語っている。責任を逃れようともしていない。日本陸軍の少尉または、他国の少尉が「ハーグ」条約について知るよしもない彼は自分の徳義を守って語ったのである。
彼は国のために尽くすべく速やかに情報を出さなければならなかった。彼の行動は誤っていたかも知れなかった。面白半分にやったのではない。他に余り言うことはない。半「ヒステリ」の証人たちの言うことより彼の言うことを信ずるのがあたり前だ。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (9) 遠山良作 著
昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・1・・・
公判による各証拠の詳細を検討する前に、この弁論を如何になすかについてその概要を説明せんとするものなり。
まず公判にあらわれたる「小事」につき、次いで各被告に対するいろいろの証拠について、公判において述べたる、九名の証人の証言の確度につき、最後的観察を述べんとするものなり。自分は弁論を時間的に短くせんとすることをもって法廷は御安心ありたし。最初に検事の所謂「小事」に関し検事は証人は何処にて検挙されし被告の服装、各証人を誰が検挙し、各被告が何国証を用いたりやかに相当手数を費やしたり、加うるに友人「エイリー」大尉(検事)は「モールメン」刑務所の構造につき異常なる興味を払いたり。現在被告席の各人は「エデゴン」及び「ナングロウ」部落のある人間に対する虐待行為のみに依り告発せられたり、被告が何国語を語りまた、如何なる服装をせしやは被告の告発理由に関し、全く無意味なりと断言する。予は、再び繰り返す。被告の起訴の理由は虐待行為のみなり。
さて若しあるとせば果たして如何なる証拠か各被告を有罪化すべく表れたりや。まず出田大佐より。出田大佐は法廷が知る如く「モールメン」に所在せし憲兵司令部の高級部員にして彼の主任務は司令部内の業務にあり、また彼は司令部の次の単位たる第一、第二司令部(東南部)の連絡にも任じたるものなり。粕谷中佐は第二司令部の指揮者(隊長)にして、東大尉の「モールメン」分隊はその指揮下たり。法廷は既に知る如く、司令部(出田大佐の所属)は直接分隊を指揮せず、また出田大佐は直接分隊に命令を与え且つ報告を受けず、出田大佐も現地人の検挙、尋問の命令を与えたることは勿論、報告を受けたことなしと証言せり。この高級部員が下級の任務たる尋問、ましてや拷問を自ら行ないたると言う証言は笑止の至りなり。特に証人「ノルシー」氏は、出田大佐は検挙隊員の一員なりしと言においや。最後に出田大佐は「刑務所は勿論分隊に赴きたることなし」と証言せり。右両人は容易に責任を同大佐に転嫁する証言を為し得る者なり。予は法廷が前記をよく考慮し彼に無罪の宣告を与うることを要求するものなり。
次に東大尉。彼は検事の第二の目標なり。東大尉は後記の行動を為したる分隊の長にして彼は職務上留置人に対し左記のことをなしたると言う。
1 食事不十分
2 設備不良
3 医療を与えず
4 拷問をなす
ビルマ政府が留置人を収容するに適当なりと認めたる場所に、憲兵隊が借家としてその中に収容せられたる者は、彼ら自国の一般容疑者より待遇を期待し得ず、交戦国(日本)借家人は改善を要求する必要なきものなり。
この点一般に「占領地区住民に対する交戦国の義務」に関し軍刑法には、二頁の第364項を参照せられたし。法廷の証人は捕虜にあらず、しかして彼らの取扱法は捕虜に対するが如く判然かつ、整然たるものでなきことを考慮にいれられたし。即ちビルマ国自ら標準を定めたるもので日本がそれを採用せりとて責むることを得ず。証人は刑務所内の他の囚人と同じく、毎日二回十四「オンス」の米飯を含む食事を与えられたり。かつ食事は他の囚人と同じ炊事場において調理せられるものなり。
これ以上のものを東大尉に要求するは、果たして妥当なりや、寝具は与えざりしを認む。東大尉はこのことについて努力せしも成功せず。よって留置人寝具(食事も)を自宅より差し入れを許され、現に寝具の差し入れを受けたるものもあり。一般ビルマ囚人は寝具及び蚊帳を支給なきなり。医療に関し予は二点につき論ぜんとする。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (9) 遠山良作 著
昭和21年
5月30日
-「エデゴン」事件弁護の概要-(「バーンズ」大尉の弁論)・・・1・・・
公判による各証拠の詳細を検討する前に、この弁論を如何になすかについてその概要を説明せんとするものなり。
まず公判にあらわれたる「小事」につき、次いで各被告に対するいろいろの証拠について、公判において述べたる、九名の証人の証言の確度につき、最後的観察を述べんとするものなり。自分は弁論を時間的に短くせんとすることをもって法廷は御安心ありたし。最初に検事の所謂「小事」に関し検事は証人は何処にて検挙されし被告の服装、各証人を誰が検挙し、各被告が何国証を用いたりやかに相当手数を費やしたり、加うるに友人「エイリー」大尉(検事)は「モールメン」刑務所の構造につき異常なる興味を払いたり。現在被告席の各人は「エデゴン」及び「ナングロウ」部落のある人間に対する虐待行為のみに依り告発せられたり、被告が何国語を語りまた、如何なる服装をせしやは被告の告発理由に関し、全く無意味なりと断言する。予は、再び繰り返す。被告の起訴の理由は虐待行為のみなり。
さて若しあるとせば果たして如何なる証拠か各被告を有罪化すべく表れたりや。まず出田大佐より。出田大佐は法廷が知る如く「モールメン」に所在せし憲兵司令部の高級部員にして彼の主任務は司令部内の業務にあり、また彼は司令部の次の単位たる第一、第二司令部(東南部)の連絡にも任じたるものなり。粕谷中佐は第二司令部の指揮者(隊長)にして、東大尉の「モールメン」分隊はその指揮下たり。法廷は既に知る如く、司令部(出田大佐の所属)は直接分隊を指揮せず、また出田大佐は直接分隊に命令を与え且つ報告を受けず、出田大佐も現地人の検挙、尋問の命令を与えたることは勿論、報告を受けたことなしと証言せり。この高級部員が下級の任務たる尋問、ましてや拷問を自ら行ないたると言う証言は笑止の至りなり。特に証人「ノルシー」氏は、出田大佐は検挙隊員の一員なりしと言においや。最後に出田大佐は「刑務所は勿論分隊に赴きたることなし」と証言せり。右両人は容易に責任を同大佐に転嫁する証言を為し得る者なり。予は法廷が前記をよく考慮し彼に無罪の宣告を与うることを要求するものなり。
次に東大尉。彼は検事の第二の目標なり。東大尉は後記の行動を為したる分隊の長にして彼は職務上留置人に対し左記のことをなしたると言う。
1 食事不十分
2 設備不良
3 医療を与えず
4 拷問をなす
ビルマ政府が留置人を収容するに適当なりと認めたる場所に、憲兵隊が借家としてその中に収容せられたる者は、彼ら自国の一般容疑者より待遇を期待し得ず、交戦国(日本)借家人は改善を要求する必要なきものなり。
この点一般に「占領地区住民に対する交戦国の義務」に関し軍刑法には、二頁の第364項を参照せられたし。法廷の証人は捕虜にあらず、しかして彼らの取扱法は捕虜に対するが如く判然かつ、整然たるものでなきことを考慮にいれられたし。即ちビルマ国自ら標準を定めたるもので日本がそれを採用せりとて責むることを得ず。証人は刑務所内の他の囚人と同じく、毎日二回十四「オンス」の米飯を含む食事を与えられたり。かつ食事は他の囚人と同じ炊事場において調理せられるものなり。
これ以上のものを東大尉に要求するは、果たして妥当なりや、寝具は与えざりしを認む。東大尉はこのことについて努力せしも成功せず。よって留置人寝具(食事も)を自宅より差し入れを許され、現に寝具の差し入れを受けたるものもあり。一般ビルマ囚人は寝具及び蚊帳を支給なきなり。医療に関し予は二点につき論ぜんとする。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
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エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円