2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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ビルマ
戦犯者の獄中記 (8) 遠山良作 著
昭和21年
5月20日
-原告のでたらめな証言続く-
証言台に立って陳述する。検事側の証人は連日にわたって、申し合わせたように私たちを指差しては、取調べの時、酷い拷問を受けたことを強調し、中には涙を流して、当時、拷問を受けた苦しさを訴えた者もいた。私は九名の証人より酷い拷問を受けた旨を指摘された。取調べをしたこともないのに、彼等は私より拷問を受けたという。全く身に覚えのないことである。それには理由があった。
彼等が逮捕される二ヵ月位前より「エデゴン」村に派遣され、部落民と部落に駐留中の印度国民軍の動静を捜索すべく東分隊長より命じられ、この任に当たっていた。そして間もなく二十数名のものが憲兵隊によって逮捕されたのである。彼等は私が逮捕したと思っている。至し方のないことである。私同様取調べをしたこともない者七名は、多かれ少なかれ拷問をした、と証人たちは証言した。一人の証人は出田大佐と東分隊長を指差して、「二人は直接手をくださなかったが、(中島軍曹を指差して)あの者に命じて、電気拷問、水責め拷問を行なった、と証言した」。司令部の高級部員が来て、直接取調べの指揮をするようなことはあり得ないことである。また、補助憲兵である中島軍曹が取調べをするようなこともない。憲兵隊の内部を知る者ならこんな証言が嘘であることははっきりしている。
憲兵側証人九人の証言は終わった。被告席にいる私たち八名のかなで一番少なく検事証人より指名された者は出田大佐、塩田軍曹、小川兵長(補助憲兵で東分隊長の運転手)であったが、三名の者より拷問したと指摘された。
5月22日
-私たちの証言-
でたらめな証人の証言が終わると私たちの証言が始まった。
弁護士の尋問は出田大佐より始められた。司令部の高級部員であり、高級部員が分隊に行って取調べを行うようなことはあり得ないこと、そしてモールメン憲兵分隊に一度も行ったことはないことを陳述した。東分隊長は「この事件については私は井出籠准将と、福田曹長の二人に命じて取調べを担当せしめた。しかし拷問をするようなことは命じなかった。遠山、小林、塩田は当時モールメン市にはいなかったので事件とは関係がない」と証言した。
中山少尉は「水責めによる拷問を二回行った」と正直にこれを認め、その状況を説明した。中島軍曹は補助憲兵であるから取調べをしたことはなく、留置場の監視が任務であること、そして取調べを行なったものは、井出籠准将と福田曹長であったことを述べた。私は当時彼等が連合軍のゲリラ部隊と密かに連絡をし、通敵行為のあった事実を、東分隊長に報告した。この報告に基づいて通敵容疑者を逮捕することに協力したが取調べ及び拷問をしたことのない事実を証言した。
私たちは当時取調べを行ない、拷問を行なった者などを正直に陳述し、検察側の証人がでたらめな証言であることが実証されたと思ったが、裁判官の裁定に不安があるとして、日本側の弁護団よりこの事件を一層明確にする必要があると、井出籠准将、福田曹長には気の毒であるが、実際取調べをした担当二人を証人として申請した。二人は関係のない友が、もし有罪になるようなことがあっては申し訳ないと言って、追加起訴されることを覚悟して証言台に立つことを承諾してくれた。
福田曹長は弁護人側の証人として「私は東大尉の命によりエデゴン村より逮捕した、通敵容疑者の取調べを井出籠准将と二人で行なった。取調べに当たって、真実をなかなか自白しないので、水責めや、電気による拷問をした。私は決して東分隊長から拷問せよと命じられたのではなかった。全ての責任は私たち二人にある」と堂々と証言した。
井出籠准将は病気入院中のため出廷出来ないので、戦犯委員会の聞き取り証書が提出された。文章の内容は「福田曹長と共に取調べを行なった。そして拷問をなしたが他の者は関係していない」旨の内容である。取調べに当たった二人が自分の不利を顧みることなく、事件の真相を恐れることなく証言してくれたことは喜ばしく涙が出た。
原告、被告の証言が終了し、検事の論告、そして弁護士の弁論も終わった。検事は全員に有刑の求刑をした。
15日間にわたる裁判は終了し、弁護団は「福田曹長たちの証言で有利になったけれども、責任者である東大尉と中山少尉は有罪であると思う。特にモールメン分隊と関係のない出田大佐は無罪であることはまず間違いないと思う」と言った。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (8) 遠山良作 著
昭和21年
5月20日
-原告のでたらめな証言続く-
証言台に立って陳述する。検事側の証人は連日にわたって、申し合わせたように私たちを指差しては、取調べの時、酷い拷問を受けたことを強調し、中には涙を流して、当時、拷問を受けた苦しさを訴えた者もいた。私は九名の証人より酷い拷問を受けた旨を指摘された。取調べをしたこともないのに、彼等は私より拷問を受けたという。全く身に覚えのないことである。それには理由があった。
彼等が逮捕される二ヵ月位前より「エデゴン」村に派遣され、部落民と部落に駐留中の印度国民軍の動静を捜索すべく東分隊長より命じられ、この任に当たっていた。そして間もなく二十数名のものが憲兵隊によって逮捕されたのである。彼等は私が逮捕したと思っている。至し方のないことである。私同様取調べをしたこともない者七名は、多かれ少なかれ拷問をした、と証人たちは証言した。一人の証人は出田大佐と東分隊長を指差して、「二人は直接手をくださなかったが、(中島軍曹を指差して)あの者に命じて、電気拷問、水責め拷問を行なった、と証言した」。司令部の高級部員が来て、直接取調べの指揮をするようなことはあり得ないことである。また、補助憲兵である中島軍曹が取調べをするようなこともない。憲兵隊の内部を知る者ならこんな証言が嘘であることははっきりしている。
憲兵側証人九人の証言は終わった。被告席にいる私たち八名のかなで一番少なく検事証人より指名された者は出田大佐、塩田軍曹、小川兵長(補助憲兵で東分隊長の運転手)であったが、三名の者より拷問したと指摘された。
5月22日
-私たちの証言-
でたらめな証人の証言が終わると私たちの証言が始まった。
弁護士の尋問は出田大佐より始められた。司令部の高級部員であり、高級部員が分隊に行って取調べを行うようなことはあり得ないこと、そしてモールメン憲兵分隊に一度も行ったことはないことを陳述した。東分隊長は「この事件については私は井出籠准将と、福田曹長の二人に命じて取調べを担当せしめた。しかし拷問をするようなことは命じなかった。遠山、小林、塩田は当時モールメン市にはいなかったので事件とは関係がない」と証言した。
中山少尉は「水責めによる拷問を二回行った」と正直にこれを認め、その状況を説明した。中島軍曹は補助憲兵であるから取調べをしたことはなく、留置場の監視が任務であること、そして取調べを行なったものは、井出籠准将と福田曹長であったことを述べた。私は当時彼等が連合軍のゲリラ部隊と密かに連絡をし、通敵行為のあった事実を、東分隊長に報告した。この報告に基づいて通敵容疑者を逮捕することに協力したが取調べ及び拷問をしたことのない事実を証言した。
私たちは当時取調べを行ない、拷問を行なった者などを正直に陳述し、検察側の証人がでたらめな証言であることが実証されたと思ったが、裁判官の裁定に不安があるとして、日本側の弁護団よりこの事件を一層明確にする必要があると、井出籠准将、福田曹長には気の毒であるが、実際取調べをした担当二人を証人として申請した。二人は関係のない友が、もし有罪になるようなことがあっては申し訳ないと言って、追加起訴されることを覚悟して証言台に立つことを承諾してくれた。
福田曹長は弁護人側の証人として「私は東大尉の命によりエデゴン村より逮捕した、通敵容疑者の取調べを井出籠准将と二人で行なった。取調べに当たって、真実をなかなか自白しないので、水責めや、電気による拷問をした。私は決して東分隊長から拷問せよと命じられたのではなかった。全ての責任は私たち二人にある」と堂々と証言した。
井出籠准将は病気入院中のため出廷出来ないので、戦犯委員会の聞き取り証書が提出された。文章の内容は「福田曹長と共に取調べを行なった。そして拷問をなしたが他の者は関係していない」旨の内容である。取調べに当たった二人が自分の不利を顧みることなく、事件の真相を恐れることなく証言してくれたことは喜ばしく涙が出た。
原告、被告の証言が終了し、検事の論告、そして弁護士の弁論も終わった。検事は全員に有刑の求刑をした。
15日間にわたる裁判は終了し、弁護団は「福田曹長たちの証言で有利になったけれども、責任者である東大尉と中山少尉は有罪であると思う。特にモールメン分隊と関係のない出田大佐は無罪であることはまず間違いないと思う」と言った。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
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ビルマ
戦犯者の獄中記 (7) 遠山良作 著
昭和21年
5月15日
今日から裁判が始まった。炊事の友だちは昼食用にと、各人に二個のにぎり飯をくれた。一日に水の多いかゆ二杯の食事であるだけに有難くて、友の心づかいに感謝するのみである。監視する英兵と共にローリー自動車に乗せられて裁判所に向った。沿道には美しく着飾ったビルマの乙女、忙しそうに歩いている人の群は自由を楽しんでいるように見える。二階建ての大きな建物の裏口らしきところに自動車が止まった。二階が、戦犯容疑者を裁く英国軍事法廷である。
正面の一段高いところが判事席である。向って左側が被告席で、判事席に向かい合って一段低くなっている場所が検事と弁護士及び通訳の席である。その後方が傍聴席で、傍聴人は7、8人とまばらである。
判事3名の入廷で全員起立する。判事は分厚い聖書に手を置いて誓約した。われわれも「事実を申し述べ、真実以外のことは何事も申し述べません」と誓約した。
起訴上の読み上げ、続いて、「有罪か、無罪か」と問われました。8名は「無罪」と答えた。馬場軍曹のみは「有罪」と答えた。馬場軍曹に対する起訴理由は、取調べ中一名の原告を「足で二つ蹴った」という理由であったので、弁護士より認めることがむしろ有利である旨の助言により、これを認めたのである。井出籠准将は病気入院のため出廷できないので、私たち8名の被告に対する裁判が始められた。
初日は二名の証人が、証人台に立って、検事より「当時(7月30日より8月15日の間)憲兵隊に留置され取調べ中に、誰から如何なる拷問を受けたか」との質問に、私を指差して「水責め、電気による拷問、木で何回も殴打された」と詳細にわたって、ひどい拷問を受けたと陳述し、また、他の被告をも指差して私と同様拷問を受けたと証言した。
証言が終わると、弁護士より原告証人に対して、「モールメン刑務所で陳述した(首実験による)証言と、今の証言とは、まるっきり違うがどちらが本当であるか」との問いに「両方とも真実である」と証言した。初日から、証人のでたらめの証言に私たちはビックリした。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (6) 遠山良作 著
昭和21年
4月25日
-上野大尉死刑の判決-
モールメン及びバンコク刑務所に収容されていたビルマの全憲兵と戦犯容疑者は漸次ここラングーンに集められ、戦犯容疑者に対する本格的な追求は日と共に厳しくなって来た。第二回目の裁判は、ラングーン埠頭憲兵部隊において、搭乗員である英軍の捕虜を死亡せしめた事件である。当時の分隊長であった上野正治大尉はその責任を問われて、絞首刑の判決を受けた。
5月10日
第三回の裁判は、憲兵司令部に留置中の捕虜の待遇が悪かったとして、責任者に対して次のような判決が下された。
憲兵大尉 水原 健造 4年
憲兵少尉 横田 正夫 2年
5月12日
-エデゴン村事件で起訴される-
第四回目の裁判は私の関係している「エデゴン事件」である。
起訴理由は「エデゴン村」の村民10名に対して拷問した事件である。この事件は、終戦直後に、連合軍のスパイ容疑者として「エデゴン」村村民20数名を逮捕し取調べた事件である。
モールメン刑務所において行われた首実験で、「マサメリ」たちを拷問したと称され私は指名された。20数名指名された中から、モールメン憲兵分隊員のみを選び出して起訴した。しかし、例外として、唯一人、モールメン分隊員でない憲兵司令部の高級部員出田大佐がいたことは、意外であった。起訴された者は全部で9名である。私はこの事件について、僅か20分位の取調べを受けたのみである。
取調官の訊問に対して「私は当時、モールメン市より約40㎞北方のチャイマロ町に派遣されており、モールメン市にいなかったため、事件に関係ない」旨を陳述した。東分隊長も、戦友も当時私がモールメン市に不在であったことを証言してくれたにもかかわらず起訴された。この事件は私ばかりでなく起訴された9人中、7名までが事件とは無関係な者である。モールメン刑務所で行われた首実験で指名した現地人の無責任な証言を唯一の証拠として起訴したのである。この事件の裁判の打ち合わせが始まった。担当弁護士は英人マクレガ大尉、バーンズ大尉である。この事件から初めて日本軍の法務官、相田大佐他2名が、アドバイザーとして、応援してくれることになった。
事件に関係していない者が多数いるという理由から事実は事実として、正直にその事実を法廷で証言して、公正な裁きを受けることが裁判を有利にすることであるとの、弁護側の意見に従うことに意見が一致し、弁護士との打ち合わせが終了し、裁判に臨むことにした。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (5) 遠山良作 著
昭和21年
1月1日
敗戦後、初めての正月を牢で迎える。出田大佐より「陛下より、すべて苦しみに耐えて、祖国再建に努めよ、との聖旨にお答えして、われわれは、今後いかなる苦しみにも耐えて、祖国に還るのだ」との訓示があり、「君が代」を歌い、皇居遥拝をした。
初春を 獄舎に迎え 君が代を 歌いまつりて 涙拭きえり
3月6日
入獄以来、24回目の首実験が行われ、その間に私は20名の現地人から指された。そのためか、ラングーンに送られることになった。他に24名の者と一緒である。まだここに残っている数多くの戦友たちから「頑張れよ」との励ましの言葉を後にして、10名のゴロガ兵(インド兵)に監視されて、「モールメン刑務所」を出た。
サルウイン河を「サンパン」(小船)に乗せられての渡河である。思い出多きモールメンの街、小高い丘にそびえる白いパゴダ(仏塔)を船の上から、何回も何回も振り返り、対岸マルタパンに着き、貨物列車に乗せられて、ラングーンに向った。
サルウインの 河渡りつつ 振り返る パゴダは白く 輝き立てリ
3月20日
-戦犯裁判始まる-
私たちがラングーン刑務所に着くのを待っていたかのように「カラゴン」事件の関係者に対する取調べが始まり、14名が起訴された。
今日は開廷初日である。
起訴の理由は
1 カラゴン村の住民500余名を虐殺した。
2 村民に暴行虐待した等である。
イギリス軍戦犯調査委員会は、ビルマ最大の残虐事件であると国の内外に宣伝し、ビルマに於ける最初の戦争犯罪の裁判である。戦争裁判とは如何なる裁判であるのか。われわれは重大な関心をもって見守る。
この事件は終戦直前に起きた事件で、その概要は、モールメン市の東北、ダリー森林地区にパラシュートにより降下した英軍アビー少佐の指揮するゲリラ部隊を援助しているカラゴン村村民を攻撃するために弓部隊の市川大隊は田中師団隊の命令によりカラゴン村のせん滅作戦を行い、村民五百数十名を殺害した事件である。
起訴された市川少佐たちは、これは作戦行動であり、師団-聯隊命令によって行動したことを主張した。
4月10日
今日はビルマ戦犯裁判第1回目の「カラゴン」事件の判決の日である。如何なる判決が下るのか、誰しもその結果は、と注目した一日である。その結果は次のような判決であった。
陸軍大尉 緑川 寿 銃殺刑
陸軍大尉 柳沢 泉 銃殺刑
陸軍中尉 田島 一郎 銃殺刑
陸軍大尉 坂巻 三郎 十年
陸軍大尉 大久保要壮 十年
陸軍中尉 竹井 省三 十年
憲兵准尉 藤原 良造 五年
憲兵軍曹 小林 宷 五年
憲兵軍曹 野本 金二 七年
他四名 無罪
死刑を宣告された、4名は東独房に一人ずつ収監された。この裁判で私が驚いたことは、命令者である田中信男師団長(33師団)と柄田連隊長は起訴さえされていなかったことである。師団-連隊-大隊と伝達される命令で行動する作戦が日本の軍隊である。
柄田連隊長は、法廷において「市川大隊長に敵に協力している村民は殺せ」と命令したことを証言している。命令した上官は起訴もされない。戦犯裁判とは一体如何なる行為をした者が裁かれるのか、理解出来ない・・・。
あるいは田中師団長が事件の責任を部下に転嫁したのかもしれない。「カラゴン事件」の責任者として英軍から召喚され、その挨拶に行った市川少佐等に、師団長は「お前たちがやった事件だから、お前たちでこの責任をとって他に迷惑をかけるな」とさとしたとも聞いている。命令者である師団長の言葉とは思われない。このような上官の命令で行動し、死刑の宣告を受けた4名の方々の気持ちは如何に・・・。
関係のない私でさえ口惜しい思いで今日の判決を聞いた。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
昭和20年
11月23日
-キリスト者との出会い-
ビルマ勤務の4年間に一度もマラリヤに侵されたことはなかったが、連日行われる厳しい取調べと、牢獄生活は、精神的にも、肉体的にも疲労を覚える。今日は朝から、ぞくぞくと寒さを覚えるので、取調べには応じられそうにない。軍医に診断を受けることを申し出た。熱は40度もあり、病室に入室することが決まった。病室は格子のある雑房内に寝台が置いてあるだけである。ありがたいことは、取調べや作業がないことである。医師は入獄者である山崎軍医(憲兵隊の軍医)と加納衛生兵が助手として勤務していた。
約40名いる患者の大部分はマラリヤのようである。この患者の中に若林大尉がいた。彼はマラリヤと赤痢に侵され、相当な重病人で高熱のためか、時々うめくような声を出して苦しんでいた。重病であるにも拘らず、彼は、われわれ患者にも、どなるように、あれをしろ!! これをやれ!! と命令的に言いつける。
誰も返事すらしない。「偉そうなことを言うな、戦争に負けて、その上刑務所に入れられてもまだ将校づらしている。あんな奴は、死んでしまえ」と、つぶやく者もいた。加納看護兵は、この若林大尉に、どなられても、叱られても、頭を冷やしたり、着替えをさせ、お粥を作ったりして、懸命に看護している。多くの者は「加納、あんな奴の看護などやめとけ」と言っても、彼は笑って取りあわない。ただ親身も及ばない看護を続ける。
私にはこの加納兵長の姿は異様とさえ感じられ、また驚きでさえあった。隣りに寝ていた林大尉に「加納兵長と若林大尉とは、何か関係があるのでしょうか」と尋ねた。
林大尉は「何もないさ、加納くんはクリスチャンだよ。彼が内地にいた頃、悲しみと苦しい経験のあまり、生きる希望を失い、2度までも自殺しようとしたが、「一粒の麦」を書いた賀川豊彦に助けられて、クリスチャンになったそうだよ」と話してくれた。
この話を聞いた私は、理解に苦しんだ。キリスト教徒とは、敵国英米の宗教であり、この宗教を信じる者は国賊であるとさえ教えられてきたからである。国賊であるはずの加納兵長は、一体何のためにあのようなことをするのか・・・。
牢獄の生活で、多くの者の心はすさんでいる。日本に帰るためには、信頼していた戦友ですら裏切り、戦犯関係の事件があれば、「俺は知らないよ」との態度をし、憎み合うことは珍しくない。これが人間の本来の姿かもしれないが、悲しいことである。
このような獄中生活にあって、加納兵長の行為は、どこか違う世界に生きている人間のように思え、私は心に深い感銘を覚えた。
(注)加納兵長の牢獄での出来事は生涯忘れることができないばかりか、私がキリスト者になるきっかけでもあり、動機でもあった。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
昭和20年
10月28日
-タキン党事件で指名される-
珍しく食事時でないのに、独房を開けてくれた。そして雑居房の広場に連れて行かれた。また首実験である。独房にいるわれわれは一般の者とは別の場所に並ばされた。首実験に来たビルマ人の中に日本軍に反乱したビルマ国軍の一味であったボミ-中尉がいた。
彼は私を指して英軍将校に「タキン党員20数名を殺した奴はこの者です。私がこの刑務所に入れられていたある夜、遠山は幾人かの部下を連れて来てタキン党員20数名を連れ出した。その後、彼等は一人も帰ってこなかったから遠山によって殺されたと思う」とビルマ語で証言した。私はこれ位のビルマ語は十分理解できたし、でたらめの証言である。しかし、この場で反論することは許されなかった。
この事件は、終戦直前に日本軍によって指導されていたビルマ国軍が突然反乱を起こし、各地でゲリラ戦を展開し、前線から敗退する日本軍を攻撃したので、軍に多くの犠牲者を出した。彼等はビルマ最後の拠点であるモールメン地区の日本軍を撹乱すべく工作をしていた。この反乱軍の一味であった県警察部長をはじめタキン党幹部20数名を逮捕し取調べたが、その事実が判明したので、分隊長は隊本部を通じて憲兵司令部に報告し、その指示を仰いだ。司令部より「厳重処分せよ」との命令があり、極秘に処刑した事件である。
東分隊長は、この事件の発覚することを心配して、もしこの件で英軍より取調べを受けるようなことがあったら「反乱国軍関係者は全員タイ国境近くで釈放した」と答えるように指示していた。
11月10日
10月28日のボミー中尉の首実験以来、イギリス人は私を「タキン党事件」の鍵を握る重要人物であるとの烙印をおした。取調べ以外は独房より一歩も出してもらえなくなった。食事も運んでくれるのである。今日は階下の房に幾人かのビルマ人が入監した。このビルマ人は日本軍がビルマに進駐して以来、憲兵隊や軍に協力してくれた者たちであった。日本軍が降伏するや、対日協力者の罪で逮捕されたのである。
この中に憲兵隊の通訳センタンもいた。彼等は着の身着のまま投獄され、寝るのに毛布も蚊帳もなく冷たいコンクリートの床の上でゴロ寝である。夜中になると、高い熱のために、うめき声にも似た声、かん高い声で口走る者等、彼等の苦悩を想像することができる。彼等にお詫びしたい気持ちでいっぱいであった。しかし、どうしてやることもできない。センタンもマラリヤに侵されている。秘かに戦友に頼んでマラリヤの薬を与えることができた。そして二枚持っていた毛布の一枚も分けてやった。
私は彼等に次のことを話した。「戦争に負けた俺たちが牢に入れられるのは仕方がない。しかし、お前たちまでこんな目にあわせて申し訳ない。もし俺たちのことで取調べを受けているのなら、俺たちをかばう必要はない。お前たちが釈放されるためになるなら、嘘でもよい、悪口でもかまわないから、ここから出ることを考えるべきである」と監視のすきを見て話した。取調官は対日協力ビルマ人についても繰り返し繰り返し訊問した。われわれのために働いてくれた彼等に不利になる事柄は避けて有利になる証言をしたことは、暗い獄生活の中にあって、私にとっては一つの慰めでもあった。
わがために 尽くせしビルマの 人々は われらと共に 獄に入りたり
マラリヤで 獄の中にて うめく声 われと共に 働きし現地人(ひと)
* このビルマ人は裁判で全員無罪であったことを後日聞いた。また、後日行われた私の裁判で、証人として私のために法廷に立ち、証言してくれたので、有利となり死刑を覚悟していた刑は有期刑の判決であった。
* 「タキン党」とは、英国の植民地であった当時、ビルマ独立を目ざして活動した秘密団体である。日本軍のビルマ進駐時は協力したが日本軍がビルマ戦線で不利になるや「ビルマから日本軍を駆逐せよ」との指令を出して反日闘争に路線を変更した。ビルマが独立するやこのタキン党により新しい政府を樹立した。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中記 (2) 遠山良作 著
昭和20年
10月23日
ビルマは乾期である。今日も強烈な太陽の直射を受けて所内の草むしりである。一列横隊で広場の小石を拾ったり、草を抜き取る作業である。流れる汗で上衣はすぐに水をかぶったようになる。草むしりのない日は、穴掘り、牢獄の格子戸や床板を光るまで雑布で磨くのである。入所して10日位しかたたないのに誰の顔にも疲労と日やけのため別人のように見える。
今日も幾人かの友が病で倒れた。これらの病人を収容するために獄の一部を病棟に当て、収容した。すでに30数名のものが入っていると聞く。馴れない苦しい作業を終えて夕暮れになると、千羽、幾万羽の鳥の群がどこかの寝ぐらへと飛んで行く。今日もやっと一日が終わったと東の空を眺めては故郷を思う。
疲れた身体に鞭打って監房に帰り、英兵の点呼を受けて“ガチャン”という施錠の重苦しい響きは自由の響きでもある。真っ暗な牢獄で友と体をくっつけてのゴロ寝である。隣の友のかすかな寝息すら聞こえてくる。
キラキラと 光る太陽 面に受け 作業するわれら 休むことなし
10月24日
10時頃、作業の途中、全員広場に並ぶように指示がある。一列に並んで首実験である。われわれの前を英兵に付き添われたインド人、カレン人、ビルマ人たち11名が一人一人の顔をのぞき込むようにして通る。時々、止まってはゆびで指し、指さされた者は、一歩前に出る。私は「マメサリ」(印度人)から指された。一瞬頬が硬張する思いである。終戦直前に通敵容疑者として、彼を逮捕したことがあった。マメサリは、私の他に、永田大尉、石沢曹長、塩田軍曹をも指名したが、事件とは関係ない者たちで、間違えて指名したものと思う。
マメサリはインド語で英人に何か話していたがわからない。私たちの他に、終戦直前に弓部隊が行った「カラゴン村」せん滅作戦に応援のため参加したモールメン分隊の小林曹長、野本軍曹、森本伍長は、カラゴン村民より指された。また、コーカレー地区に降下した空挺部隊を援助していたインド人から指された。私はコーカレー分隊員等、指された17名と共に独房に移された。
10月25日
この獄房は雑居房とは別棟になっている。終戦を迎える日までモールメン憲兵分隊が留置場として使用していた棟である。二階建てでまん中が廊下になっていて、その両側が独房になっている。部屋数は60、扉は鉄である。食事の時のみ開けてくれるが、終日一人で寝転んでいる。作業がないのがありがたい。
写真:出版記念会・筆者ご夫妻とご子息夫妻とそのお子さんたち
この文章の転載はご子息の許可を得ております。 ビルマ
戦犯者の獄中記 (1) 遠山良作 著
昭和20年
8月15日
-終戦を迎えて-
“敵の落下謀者潜入せり”との情報により「エデゴン」村(モールメン北方15kmにある部落)に出張、その捜査に当たっていたが、東分隊長(東(ひがし)登大尉)より、“捜索を中止して至急帰隊せよ”との命令を受けて帰隊した。分隊の庁舎は爆撃されて丘の上にあるパゴダ(仏塔)の寺院に引越していた。
分隊長より「日本軍は無条件で連合軍に降伏した。陛下よりは詔勅を賜り、祖国日本に帰るまでは軽率妄動してはならない」旨を伝達された。
一瞬、目の前が暗くなる思いである。決して負けることのない神州不滅の日本が負けた!最後まで祖国の勝利を信じて死んで逝った多くの戦友は、きっと地下で慟哭しているだろう。これからの日本は一体どうなることか。そして俺はどうすべきか、と不安と悲しみが脳裏をかけ巡る。
敗戦の 詔勅ききて 泣きの得ず 空を仰ぎて唇噛みぬ
忍べよと さとし給える 大君の詔勅の声 つつしみてきく
じっとしてはいられない。モールメン市が一望できるパゴダの丘に一人登る。市街は静かで平日と少しも変らない。ただ敵機がバラまいた宣伝文があちこちに落ちている。まだ日本軍の降伏を報じるビラは一つもない。雨期というのに今日は珍しく空は青い。遥か東の空をじっと見つめる。祖国日本のこと、父母は如何に、と心は祖国へと走る。
悲しみよりも憤りともつかない涙が急に頬に伝わる。拭えども拭えども流れる涙はどうしようもない。今まで祖国のために戦って死ぬことは当然と考えていたが、戦いに敗れたと知ると、生きて故郷に帰りたい。一日も早く日本に帰りたいとの思いでいっぱいになる。
遥かなる 東のかなた 見放けつつ 故郷を思えり 敗戦の夕べ
10月11日
-モールメン刑務所に入る-
憲兵全員(ビルマ派遣)はモールメン市より約30km東北にある、モン人の部落に分宿し、帰還船の来る日を心待ちにしていた。新しい日本に帰ったらこんな仕事をしようなどと、将来のことを友と語らう毎日の生活であったが、突然「ムドン町に移動せよ」との命令が出た。イギリス軍の指示である。
朝早く英軍が準備したトラックに分乗してムドン町(モールメンより東方13km位)の学校の広場に集められた。広い校庭に並んだわれわれを、武装した英軍が四方から囲んでいる。持っていた小銃、拳銃、軍刀等の一切は取り上げられ、一定の場所に積み上げられた。
武装解除が終わると直ぐに20名ごとにトラックに乗せられた。トラックには英兵が数名ずつ分乗し、前後左右から銃口をわれわれに向けている。どこへ連れて行かれるのか、外部が見えないので分らない。このままどこかで殺されてしまうのではないか、とさえ思えた。
数十分の後、自動車が止まり、下ろされた場所はモールメン刑務所の前である。入口では一人一人の身体検査が行われた。パンツまで脱ぎ、肛門まで調べる厳しさである。所持品として認められた物は毛布二枚、水筒、飯盒、衣類のみである。時計、書籍、筆記具等は全部取り上げられた。ここの警戒は実に厳重である。高い塀の監視所には機関銃が据えられている。全ての銃口は刑務所内のわれわれに向けられている。
私物検査をしている途中で通訳が久米憲兵司令官、東分隊長(私の上官)、藤原准将(モールメン隊付)たち6名の者を呼び出し独房に移した。おそらく戦犯容疑者として取調べるためであろう。
私は木造二階建ての格子戸のある雑房(60名位入れる)の1階に入れられた。入獄した憲兵は全部で372名である。この刑務所は私が所属している、モールメン憲兵隊が終戦の日まで留置場として使っていた場所である。敗戦とともに、戦争犯罪容疑者として監禁されるとは・・・。勝者と敗者の違いをこれほど身近に感じたことはない。昨日まで日本に帰ることを夢にまで見て、帰還する船を待っていたというのに、と思うと、前途は不安でいっぱいである。
われらみな 背に銃口を 感じつつ モールメン獄の 門をくぐりぬ
この文章の転載はご子息・遠山信和師の許可を得ております。
ビルマ
戦犯者の獄中日記 (1)
中日新聞昭和61年(1986年)1月30日(水曜日)
(記事掲載・変更横組みのみ)
元日本兵が「獄中記」でつづる・・恵那市の遠山さん
ビルマ軍事裁判秘話
「恵那」 第二次大戦のBC級戦犯として8年間の獄中生活を送った旧日本軍憲兵、遠山良作さん(68)=岐阜県恵那市大井町54、牛乳販売業=が、体験に基づきビルマでの英軍事裁判の実態をつづった反戦の書「ビルマ戦犯者の獄中記」を出版し、大きな反響を呼んでいる。外地における軍事裁判の実態は、これまでほとんど明らかにされていなかったが、遠山さんは、極秘に書きとめた日記を基に、裁判のズサンさ、無実の罪に泣いた戦友の姿を克明に描き出し、「戦勝国がいかに敗者を裁いたか、戦争がいかに人をくるわせるか、知ってほしい」と訴えている。
遠山さんは、昭和13年応召、17年にビルマへ赴任し、そして終戦を迎えた。憲兵軍曹だった。敗戦と同時に、遠山さんらは、イギリス軍によって武装解除され、戦争犯罪容疑者として、ビルマ・モールメン刑務所に監禁された。筆記用具は一切取り上げられたが、遠山さんは、水虫の薬を溶かしてインクを作り、僚友がこっそり差し入れてくれたペン先で、トイレットペーパーに、監視の目を盗んで日記を書き続けた。
遠山さんは、二つの事件で現地の英軍事法廷に起訴された。一つは、エデゴン村民20人に対する拷問容疑。まったく身に覚えがなく、拷問に立ち会った憲兵仲間も「遠山は無関係」と証言してくれたが、判決は、禁固6年。取り調べ時間20分。被害者が「この男も」と指さしたのが決め手で、無実の罪をきせられた。
二つ目は、拷問致死事件。英軍スパイをかくまった疑いでビルマ人セヤオンバーを取り調べた際、拷問で死なせたとして、死刑を求刑された。「拷問したか」「しない」。「縛ったか」「縛った」。それだけのやりとりで、拷問とされた。判決は禁固15年。遠山さんを慕っていたビルマ人5人が「遠山は拷問する男ではない。セヤオンバーは病死だ」と証言してくれたので極刑だけは免れた。
この間、遠山さんの上官や戦友たちの多くが、拷問や殺人容疑で裁かれた。証拠はなく何人もが、銃殺や絞死刑を宣せられ異国の土となった。
遠山さんは厳しい獄中生活を詳しく描き、処刑を待つ人たちの生きざまを書きとめた。辞世の歌も、可能な限り集めた。「みすずかる信濃の春の咲く桜花(はな)は散りてぞ清く思わるるかな」。銃殺された長野県出身の柳沢泉大尉の辞世である。
遠山さんは有期刑となり、昭和28年釈放された後、戦友らのために、本にしようと心に誓った。完成した「ビルマ戦犯者の獄中記」はB5版、かつての戦友、戦犯者やその家族等に無料で配った。
この本を読んだ元名古屋地裁所長の山口正夫弁護士(76)=名古屋市名東区=は「大変感動しました。今の司法制度では考えられないような、一方的な裁判で、処刑される。それを従容として受入れ、悠々と死に就く。立派な人たちがたくさんいたんですね」と激賞している。
=平和の大切さを知ってほしい=遠山良作さんの話 勝者によって敗者を裁くところに軍事裁判の愚かしさがある。英軍の裁判のズサンさも、戦争ゆえのことだと思う。平和がいかに大切かを知ってほしい。
=註記=
この本は、月刊「つのぶえ」に3年半連載したものです。出版当時の遠山良作さんは、恵那教会の長老として活躍されておられました。
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書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円