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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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解説 ウエストミンスター信仰告白 (59)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

 

第28章 洗礼について・・・1・・・

1 洗礼は、イエス・キリストによって定められた新約の礼典であって(1)、受洗者をおごそかに見える教会に加入させるためだけでなく(2)、彼にとって、恵みの契約(3)、キリストにつぎ木されること(4)、再生(5)、罪のゆるし(6)、イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい命に歩くこと(7)のしるし、また印証となるためである。この礼典は、キリストご自身の指定によって、世の終りまでキリストの教会のうちに継続されなければならない(8)

  1 マタイ28:19
  2 コリント
12:13
  3 ロマ4:11、コロサイ2:11,12(*)  *ロマ4:11をコロサイ2:11,12と比較

  4 ガラテヤ3:27、ロマ6:5
  5 テトス
3:5
  6 マルコ
1:4
  7 ロマ
6:3,4
  8 マタイ
28:19,20

一 この定義を学ぶにあたって、わたしたちは前章で告白されていた「礼典」一般についての教えをよく覚えていなければならない。二つの礼典に共通な基本的な教えを、まずよく理解したうえで、洗礼という一つの特定な礼典について考えるのでなければならない。

 洗礼の第一義的な意味は、見える教会に加入させる(入会式)という点にある。けれどもそれだけではない。自分と神との恵みの契約、キリストとの神秘的結合、再生、罪の赦し(義認と言いかえてもよい)、新しいいのちに歩むためのイエスにあっての聖別(再生また聖化と言いかえてもよい)をも意味している。この最後の点は、さらに感謝と献身の意味を含むものとみてよいが、以上のような事柄の「しるし」であり、また「印証」である。

 これをひと口で言いかえると、この世の人の一人として、人間中心に生きていたわたしたちが、今やイエス・キリストの贖いに浴して、神のものとして信仰生活に入れられたことの信仰告白であるとともに、そのような信仰を与えられた、神の恵みの手段であり、その聖霊の働きの保証である。これが、二礼典中の一つであるのは、まったくマタイによる福音書28章にある復活の主の成文的なご命令に基づくのである。無教会主義が、洗礼の必要性をコリント人への第一の手紙1章17節などから否認するのは誤っている。

 

2 この礼典において用いられるべき外的な品は、水であり、当事者はそれをもって、合法的にその職に召された福音の教役者によって、父と子と聖霊のみ名において洗礼を授けられなければならない(1)

  1 マタイ3:11、ヨハネ1:33、マタイ28:19,20

二 礼典には、しるしと表象されるものとの二面がある(第7章2項参照)ように、外的要素と霊的恵みとがある。洗礼の外的要素は水であって、液体なら何でもそれに代用してよいのではない。その意味で、洗礼を「水の洗礼」と呼んでいる。また、洗礼において定められていることは、①「合法的にその職に召された福音の教役者によって」施行されなければならないこと。②「父と子と聖霊」という三位一体のみ名において洗礼を授けなければならない、ということである。

 第一の点は、前章の4項で学んだ通りである。第二の点については、マタイによる福音書28章の方は「父と子と聖霊のみ名によって」なされることが正しい。使徒行伝2章38節などで「イエス・キリストの名によって、バプテスマを・・・」となっている場合は、洗礼形式の問題ではなく、「キリストの権威による」という意味であり、キリスト教の洗礼(バプテスマのヨハネの洗礼などとの区別)という意味と思われる。とにかく、マタイによる福音書28章は唯一のこの事柄に関する明言的なみ言葉であるから、教会はこれを根拠として、洗礼が礼典であり、また、その形式についても、そこに言われている限りのことを守るべきである。

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解説 ウエストミンスター信仰告白 (58)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第27章 礼典について・・・3・・・

5 旧約の礼典は、それによって表象され表示される霊的な事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である(1)

  1 コリント10:1-4

五 新約時代と旧約時代は、同じ恵みの契約の二つの時期で、一方はキリストが来られた後であり、他方はキリストを待ち望んでいた時であって、別個の契約ではない。従って、旧約時代の礼典のしるしが表示した霊的事柄と、新約時代の礼典のしるしが表示していることとは別の事柄ではなく、まったく同一の霊的事柄であることは当然である。

 まず、わたしたちキリスト者がこの世で受けている救いの祝福(義認とか、子とされることとか、聖化などの恵み)と最後の審判において受ける究極的な救いの完成状態との関係を考えると、それは太平洋と海岸の入江の関係に比べることができよう。両者は、完全な状態とそれの初歩的な様相との相違であって、実質は同一の新しい命である。

 ところが、礼典のしるしが表示する霊的事物とは、普通には自分の掌中にすくい上げられたにも等しい一滴の水そのものである(場合によっては、太平洋そのものを意味するかも知れないが)。従って、この霊的いのちと、それを表示しているしるしそのものとは、決して本質的には同一物ではない。洗礼の水にしろ、聖餐式のパンやぶどう酒にしろ、それ自体はどこまでも被造物であり、朽ち果てる品物に過ぎない。

 しかし、この礼典を行なう場合、それにあずかったキリスト者の魂は、現実にそれが表示する霊的祝福、すなわち、永遠のいのちの一滴に浴しているのである。その効果は、何となく心がうるおう、というような気分的な問題ではなく、むしろ、主観的自覚を越えた客観的実効を伴うものである。

 もちろん、これにあずかった人が真に神の聖霊の働きに浴している場合のことであって、偽信者、偽りの一時的信仰の持ち主の場合には、受洗も、主の晩餐の陪餐も、少しもそのような祝福を伴わないばかりか、かえって、裁きを招くことになるのである。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (57)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第27章 礼典について・・・2・・・

3 正しく用いられる礼典の中で、またはそれによって、表示される恵みは、礼典のうちにあるどのような力によって与えられるのではない。また礼典の効果は、それを執行する者の敬けんあるいは意図によるのでもない(1)。それはただ、みたまの働き(2)、および礼典の使用を権威付ける命令と、ふさわしい陪餐者に対する祝福の約束とを含む礼典制定のみ言葉とによるのである(3)

  1 ロマ2:28,29ペテロ3:21
  2 マタイ3:11コリント
12:13
  3 マタイ26:27,28、マタイ28:19,20

三 ここでは、次の2点が留意されなければならない。

   ローマ・カトリック教会のサクラメンタリズムと呼ばれる誤り(すなわち、礼典の効力は、ローマ・カトリック教会の司祭による執行によって発効するという主張とともに、外的物質そのものに救いの恵みの効力が内在するために、たとえ不信者(動物でも)でも、これにあずかる時には、その効果に浴するとする誤り)。

  礼典の効果を、これを受ける者の側の主観的影響に取ると考える誤り(従って、その効果を、これにあずかる本人の信仰から生じるとする誤り)。

これら二つの誤見を排除して、礼典の効力は、聖霊の働きと、これを制定された神・キリストのみ言葉に根源する、ということの主張である。信仰とは、このように聖霊とみ言葉とによって、信者の側に生じる事柄に他ならない。

 

4 福音のうちにわたしたちの主キリストが命じられた礼典は、ただ二つ、すなわち洗礼と主の晩餐だけである。そのいずれも、合法的に任職されたみ言葉の教役者以外のだれによっても執行されてはならない(1)

  1 マタイ28:19コリント11:20,23コリント4:1、ヘブル5:4

四 ローマ・カトリック教会が7つの礼典を主張するのに対して、わたしたちは2つのみに限定する。結婚式や按手式などには、ある点、礼典的な要素のあることは、否定できないけれども、決して恵みの契約の礼典ではない。礼典はキリストの制定によるもので、特にみ言葉の使役者、すなわち、教師によってのみ執行されるものであり、これは、特に重大な一点である。ローマ・カトリック教会は、一方、彼らの司祭の執行する礼典のみに効力があることを主張しつつ、他方、緊急の場合には、助産婦による授洗を有効と認める。それはサクラメンタリズムの論理からくる自己矛盾である。

 しかし、ではなぜ礼典が教師によってのみ執行されなければならないのだろうか。福音の宣伝(教)は、キリスト者すべての義務であるのに、という疑問に対する答えは、礼典は地上教会(可見教会)に不可欠な事柄であり、可見教会は単に個々の信者の総和ではなく、一つの制度、組織を持つ団体である。公同礼拝の宣教が、教師(または説教免許者)によってのみ正規になされるように、礼典も教師によってなされるべきである。

 それは、礼典は可見的宣教に他ならないからである。さらに、なぜ、説教免許者は礼典を執行してはならないのであろうか。それは、礼典執行には会員の戒規と言う意味が付随するからである。

 教師といえども個人の資格でなすべき事柄ではなく、教会の役員として公式に行なうべきであるから、小会の委託によってこれをなすのである。

5 旧約の礼典は、それによって表象され表示される霊的な事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である(1)

  1 コリント10:1-4

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (56)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第27章 礼典について・・・1・・・

1 礼典は、神が直接制定された(1)恵みの契約のきよいしるし、または印証であって(2)、キリストとその祝福とを表わし、キリストにあるわたしたちの権利を確認し(3)、また教会に属する者とこの世の他の者との間に見える区別をつけ(4)、かつまた神のみ言葉に従って、キリストにあって神への奉仕におごそかに彼らを従事させるためのものである(5)

  1 マタイ28:19コリント11:23
  2 ロマ4:11、創世
17:7,10
  3 コリント10:16コリント11:25,26ガラテヤ3:27
(*)
     *ガラテヤ3:17が正しい。

  4 ロマ15:8、出エジプト12:48、創世34:14
  5 ロマ6:3,4コリント
10:16,21

一 ここは礼典の定義とその目的を述べているところである。業の契約についても、礼典ということが考えられてはいるが、教会で普通に用いられている場合、礼典とは、恵みの契約の礼典を意味している。

 「しるし」や「印証」という言葉は、礼典の二つの意義を総括するものである。合理主義的な考え方をしている教派では、一般に、礼典を単なるしるしでしかないと考えている。しかし礼典は、聖書で神(キリスト)が直接的に命じられた式典であるという点に、その権威と効用の根拠がある。この点については三項を参照する必要がある。

 礼典の目的、また効用については、次の4点があげられている。

 1 キリストと彼の恵みの表象

 2 わたしたちの関心の強化

 3 教会員と未信者との区別

 4 信者を神に奉仕させる

 1が、しるしとしての意義であるが、キリストと彼の恵みと言われているのは、キリストの人格と事業、すなわち、仲保者とその救贖・執り成しとである。

 

2 すべての礼典には、しるしと表象されているものとの間に霊的関係または礼典的一致がある。それで、一方の名称と効果が、他方に帰せられることになる(1)

  1 創世17:10、マタイ26:27,28、テトス3:5

二 前項で「しるしと印証」と言われているように、外的行為(物質)とそれが表象している霊的本体(主イエス・キリストと彼の恵み)との間の関連は、単に、しるしと表象されるもの、という関係だけでなく、そこには霊的関連、礼典的一致と呼ばれる連なりが、実在しているのである。

 これを信じ主張するところに、合理主義的見解と改革派教会的見解との重大な相違があるのである。この連なりが、単にしるし―表象の関係以上のものであるとするところに、礼典信仰ともいうべきものが成立している。ところで、その「・・・以上のもの」を、どのように理解しているかが、ローマ・カトリック教会、ルーテル派に対する改革派教会の独自性が明瞭になってくる。わたしたちは、その連なりを、霊的であり、礼典的であると主張するのである。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (55)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第26章 聖徒の交わり

1 みたまにより、また信仰によってかしらなるキリストに結合されているすべての聖徒は、イエス・キリストの恵み・苦しみ・死・復活・また栄光において彼との交わりにあずかる(1)。また彼らは、愛において互いに結合されて、相互の賜物と恵みをわかち合い(2)、また内なる人においても外なる人においても共に相互の益に貢献するような彼らの公私の義務の実行を義務付けられる(3)

  1 ヨハネ1:3、エペソ3:16-19、ヨハネ1:16、エペソ2:5,6、ピリピ3:10、ロマ6:5,6テモテ2:12
  2 エペソ4:15,16コリント12:7コリント3:21-23、コロサイ
2:19
  3 テサロニケ5:11,14、ロマ1:11,12,14ヨハネ3:16-18、ガラテヤ
6:10

一 教会と聖徒の交わりは、同一事の両面であるという理解にたって「教会すなわち聖徒の交わり」と使徒信条を読むことが主張されてきた。ローマ・カトリック教会などが、この二つを別のこととして、後者を「聖徒の交通」と訳して、死んだ聖徒との霊的交わりの意味と理解する誤りを排除しようとするもので、本信仰告白では、両者を区別している。しかし、決して別のことと認めているのではなく、教会におけるキリストと信徒との縦の交わりに対して、キリストにある信徒相互の横の交わりを主として意味していると理解するのである。キリスト者の主イエス・キリストとの結合を、聖霊と信仰と表明している点は、ウエストミンスター大・小教理問答の教えを総合調和しているとも言える。この縦の生命的結合こそ相互間の交わりの根源である。主の晩餐の礼典が、やはり「それはイエス・キリストの神秘体の肢としての信徒相互の結合の象徴である」(ベルコフ著・大山忠一訳「改革派神学通論」)とも言っている。 愛と奉仕は、神とキリストへの感謝・献身であるが、実際にはこの相互の建徳と助け合いという形をとるのである。ここに、教会の意義の最も重大な点が存在するのである。

2 信仰告白をした聖徒らは、神礼拝、またその他彼ら相互の建徳に資するような霊的奉仕の実行(1)、更にまた彼らのそれぞれの能力と必要とに応じて外的な事柄においても互いに助け合うことにおいて、聖なる交誼と交わりとを保たなければならない。この交わりは、神が機会を供えてくださるままに、主イエスのみ名を呼ぶ至る所のすべての人々に広げられなければならない(2)

  1 ヘブル10:24,25、行伝2:42,46、イザヤ2:3コリント11:20
  2 行伝2:44,45ヨハネ3:17コリント8,9章、行伝
11:29,30

二 教派の分立が、この意味の教会の公同性を阻害してはいけない。今日流行のエキュメニスム(合同主義)は、教派主義の一つの弊害を過大視しているようである。主の晩餐の参加資格や転入会の取り扱いについても、この点もう少し寛大が望ましいと思う。しかし、その教派が果たして、基本的信条を受け入ているか、否かは、さらに根本的な問題であろう。

3 聖徒らがキリストともつこの交わりは、どのような意味ででもキリストの神性の本質にあずからせず、またどのような点でもキリストと等しくならせるものではない。そのどちらを主張しても不敬けんであり冒とくである(1)。また聖徒としての彼ら相互の交わりは、おのおのが自分の財産や所有に対してもっている権利すなわち所有権を奪ったり侵害するものではない(2)

  1 コロサイ1:18,19コリント8:6、イザヤ42:8テモテ6:15,16、詩45:8(7)、ヘブル1:8,9(*)
     *45:8(7)をヘブル1:8,9と比較

  2 出エジプト20:15、エペソ4:28、行伝5:4

三 ウエストミンスター信条は全体に積極的告白であるが、ここには、他の少数の例外と共に、否定的な要素が記されている。一つは、キリストとキリスト者との絶対的性質的相違の主張であり、他は、私有財産制の肯定である。キリストは「人の中の最大の人」でなく、キリスト者は「小キリスト」ではない。キリストの神性に信徒が関与するのではない。キリストと神との同質性とキリストの人性とわたしたちの性質との同質性が根元的である。

 私有財産制は、教会の歴史上、決してひと時も否定されなかったことは、使徒行伝5章4節を見るとよく理解できるところである。共産制度や独裁制の行き過ぎに対する聖書的歯止めとしてこの告白文は重要性を持つのではないだろうか。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (54)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第25章 教会について・・2・・・

4 公同教会は、時によってよく見え、時によってあまり見えないことがあった(1)。またその肢体である個々の教会は、そこで福音の教理が教えられ奉じられ、諸規定が執行され、公的礼拝が行なわれている純粋さに従って、その純粋さに相違がある(2)

  1 ロマ11:3,4、黙示12:6,14
  2 黙示2,3章、コリント5:6,7


四 「見える公同教会」の公同性は「見えない公同教会」の公同性と本質的に同一である。従って、この公同性の濃淡からいって公同教会の可見性の程度ということが言える。この項では「公同教会は」となっている点に、まず留意しなければならない。つまり、ここでは「見えない」とか「見える」とかの区別ではなく、「公同教会」が問題となっているのである。

このことは、「見えない公同教会」「見える公同教会」という、まったく別種の二個の公同教会が存在すると考えることを許さない。「公同教会」は「見える」にしろ「見えない」にしろ、本来、唯一の公同教会なのである。従って、個々の教会は、単に「見える教会」の肢体であるばかりでなく、同時に、「見えない公同教会」の肢体でもある。それでより見えるとか、より見えない、という程度の問題と、この個々の教会の純正の度合いということも深く関係している。教会は、個人の敬虔の問題としてではなく、根本的に集団的な宗教行為の問題として、この純正の度合いが考えられている。

 もちろん、いかに時間が厳守され、礼拝中の秩序が一糸乱れず整然となされても、その礼拝者一人一人の信仰的内容・信仰態度が、福音の精神を知らず、異教的敬虔でしかないならば、その教会の公同礼拝は、きわめて純度の低いものと判断されなければならない。ローマ・カトリック教会のミサが、その代表的な場合である。わたしたちの教会の礼拝も、どこまでもそういう意味での内容が重大視されなければならない。

 

5 世にある最も純粋な教会も、混入物と誤りとをまぬがれない(1)。そしてある教会は、キリストの教会でなくサタンの会堂になるほどに堕落した(2)。それにもかかわらず、地上には、み旨に従って神を礼拝する教会が、いつでも存在する(3)

  1 コリント13:12、黙示2,3章、マタ13:24-30,47
  2 黙示18:2、ロマ
11:18-22
  3 マタイ16:18、詩72:17、詩102:28(29)、マタイ
28:19,20

五 個人のキリスト者の場合も同様に、教会としても地上では、完全なものはない。また、偽信者があるように、偽教会もあり、堕落教会もある。しかし、教会が全滅した時代はいまだかつてなかった。エリヤの危機にも7千人のイスラエル人があった。「会堂」はシナゴグの訳で、外見だけが教会の姿をしている、という意味である。

6 主イエス・キリストのほかに、教会のかしらはない。どのような意味ででもローマ教皇は教会のかしらではない(1)。その反対に彼こそは教会においてキリストとすべて神と呼ばれるものとに反抗して自分を高くするところの、かの非キリスト、不法の者、滅びの子である(2)

  1 コロサイ1:18、エペソ1:22
  2 マタイ23:8-10テサロニケ2:3,4,8,9、黙示13:6

六 一項で告白したように、教会は、ただ主イエス以外のいかなるかしらも持たない、ということが特色である。キリストのからだがあるのに、からだ自身に一つのかしらを持つとしたらどうであろうか。法王に対する名称を、聖書の黙示文学的名称を以ってすることは、一種の黙示録註解の手法を受け入れたものと誤解される恐れがある。アンチ・キリストが法王の予言であるかどうかは、別のことである。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (53)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

 

第25章 教会について・・1・・ 

1 公同または普遍の教会は、見えない教会であり、そのかしらなるキリストのもとに、過去・現在・未来を通じてひとつに集められる選民の全員から成る。それは、すべてのものをすべてのもののうちに満たしているかたの配偶者、からだ、また満ちみちているものである(1)

  1 エペソ1:10,22,23、エペソ5:23,27,32、コロサイ1:18

一 公同教会の別名はユニバーサル・チャーチである。普通は、ユニバースは広さにおいて普遍的という意味に考えられているけれども、ここでは、時間的にも古今を貫く意味を持ち、古今東西にわたる普遍性の意味である。教会はキリストを含むものではないし、キリストを離れてはありえない。

 キリストは教会の一部を構成しているのではなく、キリストは教会のかしら、教会はキリストのからだである。教会は自己完結的なものではなくキリストに接ぎ木され、キリストに統一されて存在するものである。

 キリスト者が一人でありえないのは、一方、キリストとともにあらねばならないばかりでなく、他方選ばれた者全体との有機的統一的結合においてのみありうるからである。見えない教会という名称は、一つには、それが普遍的であるという意味であり、他方には、選びという目に見えない事柄のうちに成立しているからである。「すべてのものを、すべてのものによって満たすかた」とは、エペソ人への手紙1章23節の言葉であるが、神が満ちるとは、神の恵みが豊富にあること、賜物が豊かに与えられていることと理解することができる。

 

2 見える教会は、(律法のもとにあった先の日のように、ひとつの民族に限られないで)聖日のもとでは、やはり公同または普遍の教会であり、全世界にわたって、真の宗教を告白するすべての者と(1)、その子(2)らとから成る。それは、主イエス・キリストのみ国(3)、神の家また家族(4)であり、そのそとには救いの通例の可能性はない(5)

  1 コリント1:2コリント12:12,13、詩2:8、黙示7:9、ロマ15:9-12
  2 コリント7:14、行伝2:39、エゼキエル16:20,21、ロマ11:16、創世3:15、創世
17:7
  3 マタイ13:47、イザヤ
9:7(6)
  4 エペソ2:19、エペソ
3:15
  5 行伝
2:47

二 ここでは、二つの単語について注意が必要である。第一は「福音のもと」と、「律法のもと」という言葉であるが、これは、旧約時代と新約時代と言われているものである(第7章「人間と神の契約について」参照)。第二は、ここでの公同的は、世界的と言い換えられている。原語は、「一項と同じユニバーサル」である。しかし、過去、現在という時間的普遍性の方面は言及されていない。5項で、この「見える教会」が断絶しない点が明言されているから、その面を否定してはいないけれども、ここでは主として、律法時代には一国民のユダヤ人に限定されていたことに対比しての世界的(国際的)の意味を持つように思える。

 なお、この「見える教会」は旧約時代にも存在していた。すなわち、旧約時代のイスラエルは「見える教会」の旧約的姿であったとする点と、信者の子女も会員であると認めることは、バプテスト派などに対する改革派教会・長老教会との相違点である。また、この「見える教会」に属さない場合、普通には救われないと考えることも、アナ・バプテスト派などと異なる主張である。

 ローマ・カトリック教会の「教会の外に救いなし」は、ローマ・カトリック教会、すなわち、神の国という主張であるが、改革派教会がここで言うのは、聖霊の救う働きは聖書と礼典という恵みの手段を用いてなされる、という点に関係している。

 なお、新約聖書の中で使用されている教会に対するいろいろな比喩的名称のうち、配偶者(妻)、または、からだ、というように、キリストとの神秘的結合を中心に考えられているのは「見えない教会」にあたり、国家とか、家族というように組織体としての面を指示している場合には「見える教会」への名称として認めることは、非常に重要な区別の原則である。

 

3 キリストは、世の終りまで、この世にある聖徒らを集めまた全うするために、この公同の見える教会に、教役者とみ言葉と諸規定とを与えられ、また約束に従って、ご自身の臨在とみたまとによって、それらをその目的のために効果あるものとされる(1)

  1 コリント12:28、エペソ4:11-13、マタイ28:19,20、イザヤ59:21

三 「・・・聖徒らを集めまた全うするために」とは、選んだ者を召し、召した者を義とし、義とした者に栄光を与えることを意味している。これは「見えない教会」、すなわち、キリストのからだをたてることであるが、それを達成する手段として「見える教会」が役立つのであって、「見える教会」が、この本来の奉仕を有効に達成するために、主は教職と聖書と礼典とを与えてくださったのである。

 「諸規定」とあるのは、宗儀とも訳される言葉であるが、それは、礼典のみでなく、見える制度としての教会がかならず守るべき秩序一般を含むもので、無教会主義的な考え方を排除するものである。キリストご自身が「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されたとともに「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(聖霊)を送って・・・」(ヨハネ4:16~18)とも約束された。

 キリストの臨在は、聖霊における臨在であると同時に、神性におけるキリストご自身の臨在でもある。み言葉も礼典も、すべてはこのキリストが用いられる手段となるとき初めて有効なのである。

 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (52)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第24章 結婚と離婚について・・2・・ 

4 結婚は、み言葉において禁じられている血族あるいは姻族の親等内でなすべきでない(1)。またこのような近親相姦的な結婚は、人間のどのような法律や当事者たちの同意によっても、そのような人々が夫婦として同棲ができるよう合法化することは、決してできない(2)。男子は自分の血族で結婚できるより以上に近い妻の血族とは結婚できないし、女子も自分の側でできるより以上に近い代の血族とは結婚できない(3)。 〔最後の一文は、日本基督改革派教会第17回大会削除〕

  1 レビ18章、コリント5:1、アモス2:7
  2 マルコ6:18、レビ
18:24-28
  3 レビ20:19-21


四 結婚は神の言葉で禁じられている血族、あるいは姻戚関係内ではすべきではない。そのような近親相姦の結婚は、いかなる人の法律をもってしても、あるいは当事者の合意をもってしても、そのような人々が夫婦として同棲できるように、合法化されることは決してできない。当時王室で行われていた愛欲にからむ無理を法的に認容する処置は実際にあった。

 一項での規定と同様に、旧約時代に行われていた習慣であって、しかも新約時代では、かならずしも明白な禁止はないけれども、キリスト教的分別から、性的乱れの防止―すなわち、結婚そのものの制定されている目的上―このようなことは禁じられるのは当然である。 

 レビ記18章の禁止命令は一夫一婦制への違犯、または、単なる一時的性欲による姦淫の具体的な例を記しているもので、このような姦淫や淫行は、きわめて機会が多く、また、それだけ隠れた遊戯としてなされえる性質のものであり、今日でも、ある地方では平気で行われている悪習の一種に属するものである。

 このような悪徳への厳しい良心が養われていないならば、家庭、社会の乱れは防止できない。性の純潔が姦淫を犯す相手の貞操であるのみでなく、自分自身の貞操を失う罪であることを男子も女子とともに十分に教えられる必要がある。近親間の結婚禁止は、聖書の言明というよりも、結婚制度が神によって立てられている本来の主旨への正しい理解からの推論と見るべきである。

 

5 婚約後に犯した姦淫または淫行は、結婚前に発見されるならば、潔白な側にその婚約を解消する正当な理由を与える(1)。結婚後の姦淫の場合には、潔白の側が離婚訴訟をし(2)、離婚後はあたかも罪を犯した側が死んだかのように、他の人と結婚しても合法的である(3)

  1 マタイ1:18-20
  2 マタイ
5:31,32
  3 マタイ19:9、ロマ
7:2,3

五 婚約後―婚約前でも淫行の事実が隠されていた場合も同様であろう―で結婚前に発見された場合にのみ、解消の正当性が認められる。解消や離婚は、このようは不倫行為の防止のためのみ許される一種の正当防衛、または、加罰手段と考えてよい。大切なことは、性の乱れを双方が常に真剣に予防しようとするところにある。


6 人間の腐敗は、神が結婚において合わせられた人々を不当に離すために、論議に苦心しがちなものであるが、姦淫以外の、または教会や国家的為政者によってもどうしても救治できないような故意の遺棄以外のどのような事柄も、結婚の結びを解消することの十分な理由ではない(1)。離婚する場合には、公的な秩序正しい訴訟手続が守られるべきで、当事者たちは自分自身の事件において、自分の意志と判断に任されてはならない(2)

  1 マタイ19:8,9コリント7:15、マタイ19:6
  2 申命記
24:1-4
六 正当な結婚が正当な理由で解消できる場合は、ただ二つだけである。① 一方の側の不貞 ② 一方の側の不貞が見捨てて、どう手をつくしても、復帰を拒む場合、である。

<結び>

結婚の神聖が口にされても、それが単なる恋愛至上といったロマンチックな感情が先行して論理の通らない場合が多い。ここで告白されている結婚観は、きわめて理詰めでって、先ず人間の地上生活の基本的な道徳として、十戒の中にある意味で不可欠なものである。しかも強制によることではなく、当事者の自由な判断による契約として成立すべきものである。

 自由な結婚と言っても、決して享楽中心的な事柄ではない。二人の一致協力による人間本来の使命の遂行としてなされるべきものである。従って。乱れを防ぐためのすべての注意が十分に払われた上でなされなければならない。軽率な結婚は、すでに不倫の素材となる。決してテスト的な気持ちでなされるべきでことではない。また、そんなに難しくて面倒で危険が多い冒険なら止めておくというように、消極的な態度もよくない。使命の達成という大きな決心でなすべきである。そして、一度結婚した以上、自分から解消を考え出すべきではない。何としてでも一致和合していくように努め、祈り、忍び、自分と戦い、相手に奉仕していかなければならない。

 また、相手に不倫があり、また見捨てられた場合、どこまでも十分な忍耐ある祈りと手続きとで、問題の正しい解決に当たるべきである。少しでも相手の落ち度を自分の口実に利用するようなところがあってはならない。

 事は二人以外に証人のない秘事であるから、良心的ということが根本である。お菓子をつまみ食いして、口をぬぐっておくとしても、現実に一つのお菓子が減っている以上、誰かに疑いがかかる。しかし、淫行は当事者らが隠す場合、証拠は残らない場合が少なくない。近しい者の間では、それが一層隠されやすい。良心と貞操観念のみが防止させるのである。

   

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (51)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第24章 結婚と離婚について・・1・・ 

1 結婚は、ひとりの男子とひとりの女子の間でなすべきである。どのような男子にとっても、ひとりより多数の妻を、またどのような女子にとっても、ひとりより多数の夫を、同時に持つことは合法的でない(1)

  1 創世2:24、マタイ19:5,6、箴2:17

一 結婚は一人の男子と一人の女子とのあいだでなされるべきものであって、男子が一人より多くの妻を、あるいは女子が一人より多くの夫を同時に持つことは、何れも合法的ではない。旧約時代はアブラハムやモーセやダビデのように偉大な人物でも、この規定に従ってはいなかった。しかし、新約時代には、この道徳は明確にキリスト者の間で普及したのである。唯一神教の確立がこのことに深く関係していたと見るべきかもしれない。

 

2 結婚は、夫婦お互いの助け合いのため(1)、嫡出の子供をもって人類を、またきよい子孫をもって教会を増加さすため(2)、また汚れの防止のため(3)、制定された。

  1 創世2:18
  2 マラキ
2:15
  3 コリント
7:2,9

二 結婚は、夫婦の助け合いのため、また嫡出の子女による人類の繁殖による教会の増大のため、また汚れの予防のために制定されたものである。

 結婚の目的は4つである。

1 相互扶助―これは単に家族のみでなく、社会一般の原則である。

2 人類の正しい繁栄のため。

3 教会は契約の子らによって増大する点が大きい。

4 性道徳の乱れは、あらゆる不道徳を伴うものであり、また、その原因となり、その結果となる。ローマ人への手紙1章18節以下を忘れてはならない。「制定された」と言う文句は、決して軽視されてはならない。これは、神の掟であり、人間生活の本来の道としての掟である。家庭なき社会と社会なき家庭は禽獣に等しい。

 

3 思慮分別をもって自分の同意を与えることのできるすべての種類の人々にとって、結婚することは合法的である(1)。しかし、主にあってのみ結婚することが、キリスト者の義務である(2)。それゆえ、真の改革派信仰を告白する者は、無信仰者・教皇主義者・あるいは他の偶像礼拝者と結婚すべきでない。また敬けんな人々は、生活におけるなうての悪人や破滅的な異端の主張者と結婚して、つり合わないくびきにつながれるべきではない(3)

  1 ヘブル13:4テモテ4:3コリント7:36-38、創世24:57,58
  2 コリント
7:39
  3 創世34:14、出エジプト34:16、申命7:3,4、列王上11:4、ネヘミヤ13:25-27

    マラキ2:11,12コリント6:14

三 自分の判断で同意を表わしえる、いかなる結婚も合法的であるが、この項での主張である。しかし、主にあってのみ結婚することがキリスト者の義務である。従って、真の改革派信仰を公言する者は、不信者、法王主義者、その他の偶像信者と結婚すべきではなく、また、敬虔な者が日常の生活で、名の聞こえた悪徒や、あるいは罰せられるべき異端思想の保持者と結婚して、つり合わないくびきを負うべきではない。

 「恋に上下の隔なし」と世は言うが、個人の自由が確立していない社会では、なかなかスムーズに行かない。そこでさまざまな無理が生じ悲喜劇が起きる。男女の一夫一婦の愛での結合という原則は、年齢や身分などの差異のために否定されてはならない。つり合わないというのは、ただ信仰的また人間として助け合って同一目的のために努力していくことについての言葉である。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (50)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第23章 国家的為政者について・・2・・ 

3 国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならない(1)。しかし、一致と平和が教会において維持されるため、神の真理が純正に欠けなく保持されるため、すべての冒とくと異端がはばまれるため、礼拝と訓練においてすべての腐敗と乱用が防がれ、あるいは改革されるため、また神のすべての規定が正当に決定・執行・遵守されるため、国家的為政者はふさわしい配慮をする権威を持ち、またそうすることが義務である(2)。このことを更に有効にするため、彼は教会会議を召集し、会議に出席し、またそこで処理されることが一切神のみ旨に従ってなされるよう準備する権能を持つ(3)
  [1787年合衆国長老教会総会改訂「国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならないし、信仰上の事柄に少しでも干渉すべきでない。しかし、養育する父親のように、ひとつのキリスト教教派を他派以上に優遇せず、およそすべての教会の人々が、暴力や危険なしに自分の神聖な機能のどの部分をも履行する十分な・解放された・疑う余地なき自由を受けるような方法で、わたしたちの共同の主の教会を保護することが、国家的為政者の義務である。そして、イエス・キリストはその教会に正規の政治と訓練とを定められたので、どのキリスト教教派の自発的会員の中での・自分自身の告白と信仰に従うその正当な行使を、どの国家のどのような法律も干渉したり、邪魔したり、妨害したりすべきでない。だれも、宗教または無信仰を口実にして、何か軽べつ・暴力・虐待・傷害を他人に加えることがゆるされないような効果的方法で、すべての国民の人物と名声を保護すること、またすべての宗教的教会的集会が、邪魔や妨害なしに開催されるよう、ふさわしい配慮をすることが、国家的為政者の義務である」。日本基督改革派教会第4回大会採択]

  1 歴代下26:18、マタイ18:17、マタイ16:19(*)コリント12:28,29
    エペソ4:11,12コリント4:1,2、ロマ10:15、ヘブル5:4
     *歴代下26:18をマタイ18:17・マタイ16:19と比較

  2 イザヤ49:23、詩122:9、エズラ7:23,25-28、レビ24:16、申命13:5,6,12(6,7,13)
    列王下18:4、歴代上13:1-9、列王下23:1-26、歴代下34:33、歴代下15:12,13
  3 歴代下19:8-11、歴代下29章、30章、マタイ
2:4,5

三 本項は、教会と国家との関係が相違する近代の米国では、次のように修正されている。

 「いやしくも信仰上に関する限り、特にそうあるべきである。しかし、国家的権威者の義務は、養い親に見るように、如何なるキリスト教の教派たりとも、取り分けて差別待遇することなく、全ての信者が暴力も危険も感じることなく、己が職務をあらゆる部門に於いて果たすように、完全にして自由な、しかも当然な自由権を享受し得るように、我らの共同に主の教会を保護することでなくてはならない。

 またイエス・キリストが己が教会に秩序ある政治と戒規とを定め給うように、キリスト教のどの教派に属するにしろ、己が信仰告白と信仰に基づいて、それらを正しく実施することに口出しし、障害や妨害となる如何なる国法もつくってはならない。

 また他の如何なる人物に対しても、信仰、不信仰を口実にして苦しみを受ける者のないように、また、如何なる侮辱、暴力、罵倒、あるいは損害を与えることに対しても、実力をともなう有効手段を以って、すべての国民の人権と名誉とを保護することが国家的権威者の義務である。また、宗教的、教会的なすべての集会が迫害を受けないように円滑に行われるようにすることが彼らの義務である」。

 原文は、国家が善意の保護者・監視者となることを主張し、修正文は、信仰、宗教、集会の自由を保護することが、その務めであると規定している。わが国のように異教国家の場合は、どちらも、そのまま当てはまるわけではないが、これは教会の信仰告白であって、国家に対して、このような見解に立てと要請する権利があるわけではないから、国家がどのような見解を採用しているにしろ、わたしたちは、こうあるのが聖書的であると宣言するのみであって、ただちに、そうしないからその国家を肯定しないとか、何か国家に対して政治的に交渉したり、勧告するというのではない。だから原文のままを採用することが不可能なのでないと思う。しかし政教分離の原則を聖書的と考える限り、修正文の方をよりよいものと認めなければならないと思う(日本基督改革派教会創立30周年記念宣言を参照されたい)。

4 為政者のために祈り(1)、その人物を尊び(2)、彼に税と他の納めるべき物を納め(3)、良心のためにその合法的な命令に服従して彼らの権威に服することは(4)、国民の義務である。無信仰または宗教上の相違は、為政者の正しい法的権威を無効にせず、為政者に対するその当然の服従から国民を自由にせず(5)、教職者も免除されない(6)。まして教皇は、彼らが支配している国の中での為政者に対し、またはその国民に対し、何の権能も司法権ももっていない。とりわけ、彼が彼らを異端者と判断しても、または何か他の口実に頼っても、彼らからその国や命を取り去ることは断じて許されない(7)

  1 テモテ2:1,2
  2 ペテロ
2:17
  3 ロマ
13:6,7
  4 ロマ13:5、テトス
3:1
  5 ペテロ
2:13,14,16
  6 ロマ13:1、列王上2:35、行伝25:9-11ペテロ2:1,10,11、ユダ
8-11
  7 テサロニケ2:4、黙示13:15-17

 

四 主権者が異端者であれ、共産主義者であれ、彼らがわたしたちの主権者であるという関係を無効にはしない。わたしたちは人間としての彼らにではなく、神よりこの国の支配権を正当に委任されているということによって、彼らに服従すべきである。と同時に、法王が信徒に対して、あるいは国民に対して現世的司法権を振るおうとするなら、わたしたちは、これを非聖書的な要求として否定すべきである。

 教会の牧師や小会が会員の家庭内の私事に対してもつ機能についても、同様であることが言われるべきである、と私は考えている。

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­­­=この「解説 ウエストミンスター信仰告白」」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1976年)で、出版社の許可を得て掲載しています。この本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (49)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第23章 国家的為政者について・・1・・ 

1 全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰を与えさせておられる(1)

  1 ロマ13:1-4ペテロ2:13,14

一 神は至上の主権者であられる。従って一切の支配権の唯一の保持者は神のみである。人間社会の統治権を霊的と現世的とに二分するなら、前者は教会に属し、後者は国家または公共団体に属する。両者ともに神から賦与されているものあり、お互いに補いあいうものであるから、自己の両域を越えないように、また、わたしたちもキリスト者であると同時に、国家社会の一員であるから、それぞれの事柄に関しては、どちらの支配権にも真面目に、忠実にこれを尊び認めて服従すべきである。

 なお、岩波文庫の中に、マルチン・ルター著「現世の主権について」の邦訳が出版されているが有益な本である。

 

2 キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり(1)、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので(2)、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる(3)

  1 箴言8:15,16、ロマ13:1,2,4
  2 詩2:10-12テモテ2:2、詩82:3,4、サムエル下23:3ペテロ
2:13
  3 ルカ3:14、ロマ13:4、マタイ8:9,10、行伝10:1,2、黙示
17:14,16

二 イエスは「あなたがたの中で・・・、指導する人は仕える者のようになるべきである」(ルカ22:24)と言われているけれども、それはキリスト者が社会的に主要な地位に立つことを否定してはいない。国家の主権を握る者が、この主権に当然付随している帯力(ひいては武力)を自分の権力内に持つことは当然であり、従って、この刀を抜く必要のあるときは、それを振るう機能も握っているのである。

 合法的とは、前章の場合にも用いられた用語であるが、神の言葉に矛盾しない、あるいは聖書の啓示に適うと言った意味とみてよい。ゲッセマネに向かうとき、イエスは「つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」(ルカ22:36)と命じつつ、耳を切った者に向かっては「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言われた。この二つのことに矛盾はないか、と問う人もあるが、わたしは前者の場合、なかなか事に危急性にめざめない弟子への警告と見るべきではないかと思う。

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­­­=この「解説 ウエストミンスター信仰告白」」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1976年)で、出版社の許可を得て掲載しています。この本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=

 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (48)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

第22章 合法的宣誓と誓願について・・3・・ 

5 誓願は、約束的宣誓と同じ性質のものであり、同じ宗教的注意をもってなし、同じ忠実さをもって履行すべきである(1)

  1 イザヤ19:21、コヘレト5:3-5(4-6)、詩61:8(9)、詩66:13,14

五 請願も宣誓と似ている。特に約束的宣誓との区別はつけにくい。マルコによる福音書6章26節にあるヘロデがバプテスマのヨハネの首を切らせた時の場合、どちらに入れるかは少し判断するのはむずかしい。しかし、パウロが誓願に従ってケンクレヤで髪をそった(使徒18:18)のは明白である。

6 誓願は、どのような被造物に対してもなすべきでなく、神のみになすべきである(1)。そして誓願が受け入れられるためには、自発的に、信仰と義務の良心とから、受けたあわれみに対しあるいはわたしたちの必要を得たことに対する感謝として、なすべきである。それによってわたしたちは、しなければならぬ義務や、適切にその助けとなる限り他の事柄を、一層厳密に果たすことを誓うのである(2)

  1 詩76:12(11) 、エレミヤ44:25,26
  2 申命23:21-23(22-24)、詩50:14、創世28:20-22、サムエル上1:11

    詩66:13,14、詩132:2-5

六 宣誓は、他人との問題で神を証人に呼ぶことであるが、誓願は神と自分との間のことである。「あなたがたの神、主に誓いを立てて、それを償え」(詩編76:11)。また、それは主として、特定な恩恵に対する感謝の表明の一種である。即座に感謝献金するのではなく、一定の期間の予約を申し出すようなものである。もちろん、教会を相手とすることではなく、神への誓いである。従って、普通の場合以上に約束に反することは許されない。

7 だれでも、神のみ言葉が禁じているどのようなことをも、あるいはそれが命じているどのような義務を妨げるようになることをも、あるいは自分の力の中になく、その履行のために神から約束や能力を得ていないことを、果たすと誓ってはならない(1)。これらの点において、終生の独身、公約した貧困、修道規則への服従という教皇主義者の修道誓願は、より高い完全の度合であるどころか、迷信的な罪深いわなである。キリスト者はだれも、このことにかかわり合うべきでない(2)

  1 行伝23:12,14マルコ7:26(*)、民数30:6,9,13,14(5,8,12,13)
     *マルコ6:26が正しい。

  2 マタイ19:11,12コリント7:2,9、エペソ4:28ペテロ4:2コリント7:23

七 ローマ・カトリック教会では、信徒として最高の徳と考えられているものが、実は大きな迷信であると断定されている。それは創造の秩序にも、罪ある人間性にも、無理な事柄である。AAホッジは、聖餐式には誓願の要素が含ま れていると註解しているから、受洗、結婚、任職などは、すべて宣誓的要素があると言える。

 小会戒規の場合、誓いという文字が使用されているにすぎない。異教の「願をかける」や「神にかけて誓う」という考え方には明らかに功利的な、また招魂的な、迷信がひそんでいる。このような要素を排除するとき、果たして宣誓や誓願の実用的意義がどれだけ残るのか私には疑わしい事柄であると思う。

 

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書籍紹介
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日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
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東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
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