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解説 ウエストミンスター信仰告白 (25)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第11章 義認について・・2
4 神は、永遠の昔から、選ばれた者すべてを義とすることを聖定された1)。またキリストは、時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らが義とされるためによみがえられた(2)。とはいえ、聖霊が時至って実際にキリストを彼らに適用されるまでは、彼らは義とされない(3)。
1 ガラテヤ3:8、Ⅰペトロ1:2,19,20、ロマ8:30
2 ガラテヤ4:4、Ⅰテモテ2:6、ロマ4:25
3 コロサイ1:21,22、ガラテヤ2:16、テトス3:4-7(*)
*テトス3:3-7が正しい。
四 これは義認の時期をはっきりさせているところである。み旨のうちにあって、わたしたちは永遠よりすでに義とされているとも言える。また、キリストが客観的にわたしたちの罪のための完全な償いをなされたのは、すでに二千年前のことである。しかし、わたしたちが義とされたのは、召された時、信仰が与えられた時なのであると考えなければならない。
5 神は、義とされる者たちの罪をゆるしつづけられる(1)。それで彼らは義とされた状態から決して落ちることはできないのではあるが(2)、それでも彼らは自分の罪によって、神の父としての不興をこうむり、彼らが自らへりくだって、自分の罪を告白し、ゆるしを乞い、自分の信仰と悔改めをもう一度新しくするまでは、神のみ顔の光をとり戻せないこともありうる(3)。
1 マタイ6:12、Ⅰヨハネ1:7,9、Ⅰヨハネ2:1,2
2 ルカ22:32、ヨハネ10:28、ヘブル10:14
3 詩89:31-33(32-34)、詩51:7-12(9-14)、詩32:5、マタイ26:75、Ⅰコリント11:30,32、ルカ1:20
五 義認は、このように主観的に信仰が与えられることと、深く関係しているから、そして信仰とは、神の聖霊の働きであるから、一度与えられた義認は、一回で完了するのであるけれども、信仰が主観的に弱まることはたびたびあり、それに応じて、義認の自覚が弱まり、神との平和と喜びの自覚が消えることがある。そうであるから、悔い改めは、常になされる必要がある。しかし、義認は一度でよいのである。
6 旧約のもとでの信者の義認は、これらすべての点から見て、新約のもとでの信者のと同一であった(1)。
1 ガラテヤ3:9,13,14、 ロマ4:22-24、ヘブル13:8
六 ローマ人への手紙4章で明らかなように、アブラハムは信仰の父であり、従って義認された者の父でもある。旧約時代のまことの信者は、わたしたちと全く同様に、その信仰が与えられた当時から、すでに義人であった。ローマ・カトリック教会のように、キリストの復活の日までは、リンブス・パトムス(煉獄)におかれていたわけではない。
(補記) 昔のペラギウス主義は、自力救済を主張し、アウグスチヌス主義は、ただ恩恵主義を説いたが、中世カトリック教会は両者の中間をとって、セミ・ペラギウス主義を教えた。宗教改革期には、唯信仰、唯恩恵を説くルターやカルヴァン派に対して、セミ・ペラギウス的な後期メランヒトンやアルミニアンが現われ、それと呼応して、反律法主義とペラギウス的ソシニアンが出現した。近代主義は原理的にはこの反律法主義(神は愛であって、万人は救われる)という真宗的な安易な宗教観と、自力救済(カントのような倫理至上説)の外に救われる道はないという考え方が、主流をなしていると私は思う。そうであるだけに改革派信仰の正しい義認論が、今こそはっきり教えなければならない時ではないだろうか。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
解説 ウエストミンスター信仰告白 (24)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第11章 義認について
1 神は、有効に召命した人々を、また価なしに義とされる(1)。それは、彼らに義を注入することによってではなく、彼らの罪をゆるし・またその人格を義なるものとして認め受け入れることによってであり、彼らの中で・または彼らによってなされる何事のゆえでもなくて、ただキリストのゆえだけによる。信仰そのもの・信ずる行為・あるいはその他どんな福音的服従を彼ら自身の義として彼らに転嫁することによるのでもなくて、かえってキリストの服従と償いを彼らに転嫁し(2)・彼らが信仰によって彼とその義とを受け・それに寄り頼むことによる。この信仰も、彼ら自身から出るものではなく、これも神の賜物である(3)。
1 ロマ8:30、ロマ3:24
2 ロマ4:5-8、Ⅱコリント5:19,21、ロマ3:22,24,25,27,28、テトス3:5,7、
エペソ1:7、エレミヤ23:6、Ⅰコリント1:30,31、ロマ5:17-19
3 行伝10:44(*)、ガラテヤ2:16、フィリピ3:9、行伝13:38,39、エペソ 2:7,8
*行伝10:43が正しい
一 ローマ人への手紙8章30節に「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えてくださったのである」とあるが、これは、予定と召命と義認と救済の完成を述べた言葉である。それは、わたしたちの救いの始めから完了するまでの順序であり、これら一切は、神の恵みの働きである。
特に義認論は、ローマ・カトリック的セミ・ペラギュス主義やアルミニアン的神人協力主義に反対して「これも神の賜物である」と結論されている限り、救いにおける恵みの独占的活動を強調することによって宗教改革の精神を鮮明に告白しているところである。
この一項の中には、ローマ・カトリック教会の「注入恩恵論」または「義化論」。アルミニアンの「神人協力説」または「福音的服従論」の他に、「義認の律法を無視した理由、根拠のない宣告」と考える誤謬をも排斥しつつ、義認における信仰の役割と性質とを規定する告白が含まれている。
すなわち、神はキリストの義を根拠として、それを罪人のものと認め(これが転嫁である)、何ら罪人自身の実質的変化や行為を、前提や理由にせず、み旨のままに主権的に罪を赦されるのであり、信仰は、それを受ける手であり、また、それ自身神の賜物なのであるという告白である。
2 このようにキリストとその義を受け、これに寄り頼む信仰が、義認の唯一の手段である(1)。しかもそれは義とされる人物の中に孤立していることはなく、常にすべて他の救いの恵みを伴っており、かつ死んだ信仰でなく、愛によって働く(2)。
1 ヨハネ1:12、ロマ3:28、ロマ5:1
2 ヤコブ2:17,22,26、ガラテヤ5:6
二 これは、ヤコブの手紙2章の所説とガラテヤ人への手紙などの主張との関係を明確にするための付言であろう。
3 キリストは、彼の服従と死によって、このように義とされるすべての人の負債を十分に支払い、彼らのために、み父の正義に対して、当然で真実で十分な償いをされた(1)。とはいえ、キリストはみ父によって彼らのために与えられたのであって(2)、その服従と償いとは、彼らの身代りとして受けられたものであり(3)、ともに価なしにであって、彼らの中にある何事のゆえでもなかったのであるから、彼らの義認は、全くの自由な恵みによるものである(4)。それは、神の厳正な正義と豊かな恵みが、ともに、罪人の義認においてあがめられるためである(5)。
1 ロマ5:8-10,19、Ⅰテモテ2:5,6、ヘブル10:10,14、ダニエル9:24,26、
イザヤ53:4-6,10-12
2 ロマ8:32
3 Ⅱコリント5:21、マタイ3:17 、エペソ5:2
4 ロマ3:24、エペソ1:7
5 ロマ3:26、エペソ2:7
三 ここは一項の中で言われた点の再言であるとともに、最も重大な一点のより鮮明な告白である。すなわち、義認の一面は、キリストの完全な律法の要求への満足であり、もう一つの面は、罪人の無代価の義認である。この二つの面があるからこそ、神の義認と恵みとがともに発揚されているのである。救いを単なる神の愛の現われと見るのは誤りである。義認は神の律法を無視する不法行為ではない。
なお、一項にもあるように、律法に対するキリストの満足が、服従と死(または償い)と言われるのは、やはり改革派神学の特色の一つであって、キリストが単にアダムの犯罪の刑罰を償われたばかりでなく、アダムの失敗した業の契約の完全履行、すなわち、神の律法に立派に服従された点も、キリストの義の内容の大切なポイントである。前者を消極的服従と言い、後者を積極的服従と言う。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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解説 ウエストミンスター信仰告白 (23)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第十章 有効召命について(2)
3 幼少のうちに死に選ばれた幼児は、いつでも、どこでも、どのようにでも、自らよしとされるままに働かれるみたまを通して(1)、キリストにより、再生させられ、救われる(2)。み言葉の宣教で外的に召されることのできない他の選ばれた人もみな、同様である(3)。
1 ヨハネ3:8
2 ルカ18:15,16、行伝2:38,39、ヨハネ3:3,5、Ⅰヨハネ5:12、ロマ8:9比較(*)
*ルカ18:15,16と行伝2:38,39とヨハネ3:3,5とⅠヨハネ5:12とロマ8:9を比較。
3 Ⅰヨハネ5:12、行伝4:12
三 イエスの誕生のとき、ベツレヘムの幼児が多数ヘロデ王の命令により殺された事実に対し何か割り切れない思いを抱くのは人情である。信者の愛する子供が幼くして死ぬとき、果たして、この子供は天国に入れるのかと心配する。そこで、幼少のうちに死んだ者に対するいろいろな見解がある。
1・・幼少のうちに死んだ者は全部救われる。
2・・受洗している者はみな救われる。
3・・福音を聞いていないからみな滅びる。
4・・信者の子供は救われる。
しかし、わたしたちはやはり選民のみが救われるという点を主張し、同時に、神の救いにかかわる絶対主権的自由に基づいて、外的召命を絶対的条件とは見ないのである。
4 選ばれていない他の者たちは、たとえみ言葉の宣教で召され(1)、みたまの一般的な活動に浴しようとも(2)、決して真実にはキリストにこないし、それゆえ救われることができない(3)。とりわけ、キリスト教を告白しない人々は、たとえどれほど彼らが自然の光と自ら告白するその宗教の律法に従って、自分の生活を築きあげることに勤勉であるとしても、これ以外のどのような方法でも、救われることはできない(4)。また彼らが救われると断言し主張することは、きわめて有害で憎むべきことである(5)。
1 マタイ22:14
2 マタイ7:22、マタイ13:20,21、ヘブル6:4,5
3 ヨハネ6:64-66、 ヨハネ8:24
4 行伝4:12、ヨハネ14:6、エペソ2:12、ヨハネ4:22、ヨハネ17:3
5 Ⅱヨハネ9,11(*)、Ⅰコリント16:22、ガラテヤ1:6-8
*Ⅱヨハネ9-11が正しい。
四 前項とは反対に「福音と聖霊の恵みによらなければ救いに至る道」はないという厳しい断定は、予定論の一番人気のない要素であるが、苛立たずに本文を注意し冷静に読んでよく反省してもらいたい。
「選ばれていない他の者たち」とは誰を指すのであろうか。聖書には確かに名指しいて「放棄された者」のあることがあちこちに出ている。たとえば、テモテへの手紙第二・3章8節に「また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です」とある。
イエスを裏切ったイスカリオテのユダについては疑問の余地がない。しかし現実に、誰がユダであってペテロではないと、わたしたちに断定する資格があるだろうか。七度を七十倍にして赦して下さる恵みの父を信じることが肝要である。
<結び>
第八章で贖罪論を終えたので、ここから、救拯論(聖霊論)に入った。自力救済思想の否定、恩恵主義の徹底のために、まず自由意志の堕落によって生じた変化を明らかにしたいのである。ルーターはエラスムスとの論争で、「奴隷的意志」を書いた(ウオーフィルドの「宗教改革の神学」という論文に詳述されている)が、意志が自由を喪失したということは、少し誤解を招く表現であろう。むしろ。救いは、ただ聖霊の主体的自由な活動のみによるという主張と、その恩恵活動は罪人にとって、外部からの強制とか、内的必然というような、宿命論や決定論とは異なるもので、どこまでも自由の回復という方式で与えられているという告白である。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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解説 ウエストミンスター信仰告白 (22)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第十章 有効召命について(1)
1 神が命に予定されたすべての人間を、そして彼らだけを、神は、自ら定めてよしとされる時に、神のみ言葉とみたまとで(1)、生まれながらに置かれていた罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへ(2)と有効に召命するのをよしとされる(3)。それは、神のことを理解するために、彼らの心を霊的に、また救拯的に照らすことにより(4)、また彼らの石の心を取りさって、肉の心を与えることにより(5)、彼らの意志を新たにし、その全能の力によって、善にむかって決断させることにより(6)、また彼らをイエス・キリストヘと有効に引き寄せることによってである(7)。しかも、彼らは神の恵みによって自発的にされて、最も自由にくるのである(8)。
1 Ⅱテサロニケ2:13(*)、Ⅱコリント3:3,6
*Ⅱテサロニケ2:13,14が正しい。
2 ロマ8:2、エペソ2:1-5、Ⅱテモテ1:9,10
3 ロマ8:30、ロマ11:7、エペソ1:10,11
4 行伝26:18、Ⅰコリント2:10,12、エペソ1:17,18
5 エゼキエル36:26
6 エゼキエル11:19、ピリピ2:13、申命30:6、エゼキエル36:27
7 エペソ1:19、ヨハネ6:44,45
8 雅1:4、詩110:3、ヨハネ6:37、ロマ6:16-18
一 前章で、人間は自由意志が与えられているということと、罪人の自由意志は救いを自力で得る力を失っていることが明らかにされたが、本章は、救いを得ることが、まったく神の恵みの業によってのみ成り立つことを明らかにするための準備的告白である。
「有効召命」と呼ばれているのは外的召命と言うところの対比上名づけられたものであって、福音の宣教は罪人を救いに招くことであるが、それは外的、すなわち可見的な方法手段あって、かならずしも目的を達しないものである。宣教は万人に共通な呼びかけであるが、有効的(効果的)召命は、選ばれた人のみに限られた呼びかけである。
「神は、自ら定めてよしとされる時に」とは、神がよしと指定された一定の時期にそれが呼びかけられるという意味である。この招きは、神の「み言葉とみたま」とによるものであり、み言葉もみ霊もともに「キリストのみ言葉」、「キリストのみたま」と呼ばれ、天に昇られたキリストが地上において、救い主としての職務遂行をされるときの両手である。
罪人の覚醒がみ言葉だけで生じると見ることと、み霊の働きだけで生じると見ることに反対しているのである。「また彼らの石の心を取りさって、・・・」以下は、このみ言葉とみ霊によってなされる招きの業の具体的内容を語るもので、それは心の全部分に及ぶみ業であるが、特に理性と意志とに大きな変化を与える点を指摘し、また、その変化の第一歩から完成への全てに亘って、み言葉とみ霊が働かれることを明らかにする。また、前章の結びで述べたように、このみ業は、決して強制とか、必然的決定という形ではなく、自由という方式でなされるのである。
2 この有効召命は、神の自由な特別恩恵からだけ出るものであって、決して人間の中に予知される何物からでもない(1)。ここでは人間は、聖霊によって生かされ新たにされ(2)、それによってこの召命に答え、またそこで提供され伝達される恵みを捕えることができるようにされるまでは(3)、あくまで受け身である。
1 Ⅱテモテ1:9、テトス3:4,5、エペソ2:4,5,8,9、ロマ9:11
2 Ⅰコリント2:14、ロマ8:7、エペソ2:5
3 ヨハネ6:37、エゼキエル36:27、ヨハネ5:25
二 カルヴァン主義は、予知説に対して厳格に予定説を主張したが、ここでその意味と必要性とが明らかになるであろう。すなわち、神が主権的に召されるのであって、人間は召しだされる以前には、全く感知しないばかりでなく、人間の内には、何ら召される理由が存在しないのである。
キリスト者が持つ非キリスト者との相違の一切は、神の召命によってわたしたちの内に生じてくるものであって、その反対ではないのである。
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解説 ウエストミンスター信仰告白 (21)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校長)
第九章 自由意志について(2)
4 神が罪人を回心させて恵みの状態に移されるとき、神は彼を、罪のもとにある生まれながらの奴隷のきずなから解放し(1)、彼を恵みによってのみ、霊的な善を自由に意志しまた行為することができるようにされる(2)。そうであっても、彼の残存している腐敗のゆえに、彼は完全に、あるいはもっぱら善だけを意志しないで、かえって悪も意志する(3)。
1 コロサイ1:13、ヨハネ8:34,36
2 ピリピ2:13、ロマ6:18,22
3 ガラテヤ5:17、ロマ7:15,18,19,21,23
四 人間が神の恵みによって、有罪の状態から恵みの状態に入れられる時、初めて救いに至る霊的善を意志したり、行ったりする自由が回復される。つまり神の救いの恩恵によってのみ、人は救いに至る善を自由に意志することが可能となる。しかしながら、罪人はたとえ新生しても、地上では肉(罪ある人間性)のゆえに、完全には善のみを意志せず、依然として悪を意志することを止めない者である。ローマ人への手紙7章15節以下にあるように、二つの自分は一つの住宅に同居しつつ、内なる自分は神の律法を喜び、肉なる自分は罪の律法に従う現象をあらわしているのが、これが地上にあるキリスト者の姿である。
5 人間の意志は、ただ栄光の状態においてのみ、善だけを行為するように、完全かつ不変的に解き放される(1)。
1 エペソ4:13、ヘブル12:23、Ⅰヨハネ3:2、ユダ24
五 人間の状態には、エデンと罪と恵みと天国という4つの異なった状態があるように、意志の自由ということにも、4つの別々な状態がある。そのどの状態であっても、意志がまったく自由を持たないと言うのではない。罪の状態にあってもある意味での意志に自由はある。ただ救いに至る善への無能力という制限があるだけで、地上的善や悪への自由はある。一項で定義されたように、人間に意志が与えている限り、それは、無意志の被造物と異なり、他からの強制や本能の必然的衝動で行動するのではない。従って四項で言及した内なる自我が、神の律法に従う場合、恵みによると言ったところで、恵みに強制されたわけではなく、新生した自我の本性の必然的決定と言うわけでもない。どこまでも、自分の意志の自由な選択的行為として、それを行うのである。また、肉なる自分が罪の律法に従ったとしても、罪の律法の強制ではく、肉(罪ある人間)の本性的必然の決定でもなく、やはり自分の自由な意志の行為としてである。もし、それが恵み、または肉の強制や本性的必然的決定と言うならば、罪の責任を神に帰する大きな誤りに陥るばかりでなく、救いの恵みが機械的暴力と見なされることになる。この点に関しては、特に第三章の「神の永遠の聖定について」の一項を参照してほしい。
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解説 ウエストミンスター信仰告白 (20)
岡田 稔著
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第九章 自由意志について(1)
1 神は、人間の意志にあの自然的自由を賦与された。それは善にも悪にも強制されていないし、また自然の絶対的必然で決定されてもいない(1)。
1 マタイ17:12、ヤコブ1:14、申命30:19
一 人間には被造物ではあっても、他の動物などに見ることのできない尊さが、いろいろ与えられている。その中の一つに「自由意志」または「意志の自由」と呼ばれるものが含まれている。人間のに意志は善または悪のどちらかを欲するのであるが、どちらを選ぶにしろ、何か外からそうさせられるのではなく、自分がそうするのである。
しかも、それは本能的な絶対的必然によるのではない。つまり、自分の中からであるどうにもならない衝動というようなことではない。他者からとか、環境とかに支配されるのではないとともに、内的な力に左右されるのでもなく、どこまでも自分で反対の方向にも意志できるのに、自ら好む方向を決定すると言うのである。
猫が魚に飛びつくのは、内からの本能的な絶対的必然であり、馬が汗を流しつつ荷車を引いて坂を上るのは、御者の強制によるのである。しかし、人間が寝転んで新聞を読むのも、礼拝のために教会へ行くのも本人の自由意志によるのである。
2 人間は無罪状態においては、善であり神に喜ばれることを意志し、行なう自由と力を持っていた(1)。しかし可変的であって、そこから堕落することもありえた(2)。
1 伝道7:29、創世1:26
2 創世2:16,17、創世3:6
二 無罪の状態とは、創造されたままの状態であり、エデンでの状態である。人間が神より与えられたものの中には、不変的賜物と可変的賜物とがあった。可変的とは、自然に変化するという意味ではなく、神との契約に基づいて、試験期間が終了するとともに、より良いもの、または悪しきものへと変化する賜物のことである。自由意志は、このような可変的賜物であったから、現在、わたしたちの持って生まれた自由意志は、アダムが創造された時に与えられていた自由意志と同一のものではない。
3 人間は、罪の状態に堕落することによって、救いを伴うどのような霊的善に対する意志の能力もみな全く失っている(1)。それで生まれながらの人間は、そういう善からは全然離反していて(2)、罪のうちに死んでおり(3)、自らを回心させるとか、回心の方に向かって備えることは、自力ではできない(4)。
1 ロマ5:6、ロマ8:7、ヨハネ15:5
2 ロマ3:10,12
3 エペソ2:1,5、コロサイ2:13
4 ヨハネ6:44,65、エペソ2:2-5、Ⅰコリント2:14、テトス3:3-5
三 現在の人間は、まったく自由意志を持たないと言うのではない。ただ救いをもたらすための善を意志し、実行する力がないと言うのである。それが普通の人間には困難だというのではなく、一人も出来ないと言うのである。完成できないというのでなく、ぜんぜん準備することもできない。ただ、したいと思うのだができないというのではなく、したいとさえ思わない、むしろ、するものかと思うと言うのである。
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岡田 稔著
(元神戸改革派伸学校長)
第八章 仲保者キリストについて(4)
7 キリストは、仲保のみわざにおいて、両性に従って行動される。それぞれの性質により、それぞれに固有なことをされる(1)。しかし人格の統一性のゆえに、一方の性質に固有なことが、聖書ではときどき、他方の性質で呼ばれる人格に帰されている(2)。
1 ヘブル9:14、Ⅰペテロ3:18
2 行伝20:28、ヨハネ3:13、Ⅰヨハネ3:16
七 ここは一つの注意書きの性質を帯びた章であり、四項と関連する告白である。神観において神格と三位の人格と神の属性との関係を区別し、混合しないことが必要であるように、キリスト論において、人格と二性との関係を正しく区別することが大切である。
二性一人格のキリストは、人格という点からすれば、どこまでも三位一体の唯一神の第二格、すなわち、み子ロゴスである。人格は受肉によって変化を生じたのではない。ただ、この唯一の神である人格が受肉によって、神性と人性とを完全に自己のものとされた。
つまり、神性の持つ一切の属性と共に人性の持つ一切の属性を自己の属性となされたのである。すなわち、神性と人性とを混同したり、一方が他方に変化したりして一致を保つようになったのではなく、唯一の人格の下に、人格的に統一されたのである。
ペテロの第一の手紙3条18節で「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。・・・」と言う時、わたしたちは、神の死とか、三位一体の神の第二人格の神の死、ロゴスの死というように考えてはならない。
神は不死である。ただキリストの人間性はその肉体のみでなく、霊魂も十字架によって一度死を経験したのである。「神の痛み」とか「神の死」などと言う表現は正確ではない。
8 キリストがあがないを買いとられたすべての人々に対して、彼はそれを確実有効に適用し、伝達される(1)。それは、彼らのために執成しをし(2)、救いの奥義をみ言葉において、み言葉によって、彼らに啓示し(3)、みたまによって信じ従うように有効に彼らを説得し、み言葉とみたまによって彼らの心を治め(4)、彼の不思議な、きわめがたい配剤に最もよく調和する方途で、彼の全能の力と知恵により、彼らのすべての敵を征服することによってである(5)。
1 ヨハネ6:37,39、ヨハネ10:15,16
2 Ⅰヨハネ2:1,2、ロマ8:34
3 ヨハネ15:13,15、エペソ1:7-9、ヨハネ17:6
4 ヨハネ14:16(*)、ヘブル12:2、Ⅱコリント4:13、ロマ8:9,14、ロマ15:18,19、ヨハネ17:17
*ヨハネ14:26が正しい。
5 詩110:1、Ⅰコリント15:25,26、マラキ3:20,21(4:2,3)、コロサイ2:15
八 この一項は、神学体系上の区別からすると、むしろ、聖霊論、つまり信者がキリストの贖罪の恵みにあずかることに関する議論に入れるべきであり、第十章の「有効召命について」と直接関連し、第十章以下十五章への序論とも見るべきことが出来る。しかし、このことをキリスト論の一部として取り上げていることは、決して不適切なことではなく、むしろ、非常に巧みな、また改革派神学の主張を立派に提示するものである。
すなわち、聖霊の事業は、本来キリストが遣わされる聖霊の事業である。み言葉による救いということが、改革派信仰の大きな主張である。わたしたちが救われるのは、聖霊のみ業であり、恵みであることを十分に正しく認識するには、その聖霊、その恵みが、死にてよみがえり、神の右にいますキリストの聖霊であり、恩恵であることを知るまでは成立しない。
ヨハネの福音書16章7節「しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(新改訳)とあるように聖霊を信じる者は、主イエスの復活、昇天、父の右にいますことを信じるのが前提である。
いけるキリストと言う信仰は、こうした意味でのみ正しいのである。聖霊のみ業をそのまま地上のいけるキリストのみ業であると考える時、それは、誤った神秘主義であり、また復活のキリストをあたかも幽霊的存在と考えている誤りでもある。
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岡田 稔著
(元神戸改革派伸学校長)
第八章 仲保者キリストについて(3)
6 あがないのみわざは、キリストの受肉後までは、彼によって実際にはなされなかったのではあるが、それでもその徳力と効果と祝福とは、世の初めから引き続いて、いつの時代にも、約束・予型・犠牲の中に、またそれらによって選民に伝達された。そこにおいて彼は、蛇の頭を砕くべき女のすえ、世の初めからほふられて、きのうもきょうもいつまでも変わることのない小羊として啓示され、表象されていた(1)。
1 ガラテヤ4:4,5、創世3:15、黙示13:8、ヘブル13:8
六 仲保者キリストの二状態における三職(謙卑と高挙の状態と預言者、祭司、王の職)の期間は、受肉に始まるのであるが、その恵みはすでに旧約時代にも、恵みの契約に基づいて、選民に及んでいたと言う教理は第七章五項とともに、改革派信仰の特異点を形成する一要素である(ウエストミンスター小教理問23~問29、大教理問答問41~問56参照)。
キリストの仲保の祝福が選民に与えられる時期に関しては、ペンテコステを以って始められたと見る人々も多いようであり、キリストの受肉、または死、あるいは復活の時に始まると考える人々も少なくない。わたしたちは信仰義認の建前からも旧約時代の聖徒は「アブラハムは神を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記15・6)とある通り、その時からキリストの祝福が与えられたとするのである。ローマ・カトリック教会の煉獄思想、リンブス・パトロムの教理などは、この点の理解の相違から出た誤謬である。
なお、キリストが仲保者として三職を何時から始められたかの問題では、ウエストミンスター大・小教理問答の所説に一見不一致があるように感じられる。
小教理問答が明白に問23において「キリストは、私たちのあがない主として、その低い状態においても、高い状態においても、ともに預言者と祭司と王の職務を果たされる」と答えるのに反して、大教理の方は問43において「キリストは、すべての時代に、彼のみ霊とみ言葉によって、いろいろの施行方法で、教会員の建徳と救いについてのすべての事柄において、神のあますところのないみ旨を教会に示すことによって、預言者の職務を果たされる」と答えており、この「すべての時代」と言う主張の聖句証明は、ヨハネによる福音書1章1節であるところから、旧約時代を含むことは明白である。
本信仰告白の表現は、この点、大教理と一致している。これは契約の観点から説かれているのであって、恵みの契約の当事者として、キリストは贖罪の事業を完成するために受肉されたのであるが、すでに契約的にはその祝福を確保しておられ、これを分け与えられたのである。
従って、旧約時代にも真正なキリストの教会が、不可視教会として実存していた。イスラエルの集いも、ユダヤ教のジナゴグも、新約時代の地上的キリスト教会と同じ役割を不可視教会に対して果たしつつあった。異邦人キリスト教会は、オリーブの木に接ぎ木されたのであり、新約時代以後のユダヤ教会はオリーブの木より切り捨てられた枝である。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
解説 ウエストミンスター信仰告白 (17)
岡田 稔著
(元神戸改革派伸学校長)
第八章 仲保者キリストについて(2)
4 主イエスは、最も快くこの職務を請け負われ(1)、それを果たすために律法のもとにおかれ(2)、律法を完全に成就された(3)。その霊魂において、最もひどい苦しみを直接的に忍び(4)、その肉体において、最も苦しい痛みを耐え(5)、十字架にかけられて死に(6)、葬られて死の力のもとに留まられたが、朽ち果てなかった(7)。受難されたのと同一のからだで(8)、三日目に死人の中からよみがえり(9)、そのからだをもって天に昇られ、み父の右に座して(10)、執り成しておられる(11)。そして世の終りに、人間とみ使をさばくために再来される(12)。
1 詩40:8,9(7,8)、ヘブル10:5-10(*)、ヨハネ10:18、ピリピ2:8
*詩40:8,9(7,8)をヘブル10:5-10と比較
2 ガラテヤ4:4
3 マタイ3:15、マタイ5:17
4 マタイ26:37,38、ルカ22:44、マタイ27:46
5 マタイ26,27章
6 ピリピ2:8
7 行伝2:23,24,27、行伝13:37、ロマ6:9
8 ヨハネ20:25,27
9 Ⅰコリント15:3,4
10 マルコ16:19
11 ロマ8:34、ヘブル9:24、ヘブル7:25。
12 ロマ14:9,10、行伝1:11、行伝10:42、マタイ13:40-42、ユダ6、Ⅱペテロ2:4
四 これは謙卑と高挙(栄誉)の二状態についての、仲保者としてのあり方を対照的に語っているところである。「律法のもとに置かれ、律法を完全に成就された」は、積極的服従であり、「最も苦しい痛みに耐え、・・・十字架にかけられて死に、葬られて死の力のもとに留まられたが」までは、消極的服従ともいわれるものである。
積極的服従は、無罪者としてのイエスが業の契約の完全履行者として、その約束の永遠のいのちを受けられることを示し、消極的服従は、アダムとその子孫によって犯された人類の罪の罰として、この世と次の世における肉体と霊魂の双方に対する受苦、すなわち、律法の呪いとなられたことを示し、肉体も霊魂もともに受肉によって、マリヤより得た人間性であって、神性が受難にあわれたのではないのである。神の痛み、などと言う表現は、文学的には許される余地があるかも知れないが、神学的には不適切な表現であると思う。
5 主イエスは永遠のみたまによって、ひとたび神にささげられたその完全な服従と自己犠牲により、み父の義を全く満たされた(1)。そして和解のみならず、天国の永遠の嗣業を、み父が彼に与えられたすべての者のために買いとられた(2)。
1 ロマ5:19、ヘブル9:14,16、ヘブル10:14、エペソ5:2、ロマ3:25,26
2 ダニエル9:24,26、コロサイ1:19,20、エペソ1:11,14、ヨハネ17:2、ヘブル9:12,15
五 前項にある通り、わたしたちはキリストがわたしたちのためになされたみ業を、単に贖罪(和解)、罪の赦しという面に限定せず、もっと積極的な面、すなわち、永遠のいのちの獲得と言う点をも含むものであることを主張している。
罪の赦しが義認によって成立すると考えるなら、永遠のいのちの獲得を子とされること、また、世嗣(相続者)と呼ぶことができるが、改革派神学では、むしろ義認そのもののうちにこの両面を含め、さらに義認とは別に、子とされることの恩恵を教えるのが普通の論じ方のようである。
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解説 ウエストミンスター信仰告白 (16)
岡田 稔著
(元神戸改革派伸学校長)
第八章 仲保者キリストについて(1)
1 神はその永遠のご計画で、ご自身のひとり子主イエスを、神と人との間の仲保者(1)、預言者(2)、祭司(3)、王(4)、神の教会のかしらまた救い主(5)、万物の世嗣(6)、世界の審判者(7)に選びまた任ずることをよしとされた。彼に対して、神は永遠の昔から、ひとつの国民を彼のすえとして与えて(8)、彼により、時至ってあがなわれ、召命され、義とされ、聖とされ、栄光化されるようにされた(9)。
1 イザヤ42:1、Ⅰペテロ1:19,20、ヨハネ3:16、Ⅰテモテ2:5
2 行伝3:22
3 ヘブル5:5,6
4 詩2:6、ルカ1:33
5 エペソ5:23
6 ヘブル1:2
7 行伝17:31
8 ヨハネ17:6、詩22:30(31)、イザヤ53:10
9 Ⅰテモテ2:6、イザヤ55:4,5、Ⅰコリント1:30
一 聖書は厳格に唯一神教の立場を示しているので、神を世界や万物と区別することが、絶対的な第一の主張であり、神と世界を混同することは汎神論であるばかりでなく、一切の偶像教への入り口を開くことである。しかし、キリストを神の側に置くという、第二の絶対的主張を、これに加えることなしには、キリスト教は成立しない。
神は世界の創造者である、というのに対して、キリストは神と世界の仲保者であるといえる。三一神の第二人格である点は、すでに第二章の「神について、また聖三位一体について」で明白に規定されており、また、次項で詳しく論じられるのであるが、本項では、この三位一体の神の永遠の聖定(第三章)についての、み子の持っておられる被造物との関係を問題としており、それは次の4つの分類に従って語られている。① 神と人間一般 ② 神と教会 ③ 神と万物 ④ 神と世界
① 人間は道徳的、宗教的、政治的存在者として、特に神の知と聖と義に関係を持つ。
② 教会は選ばれた者の集いとして、キリストと特別に緊密な関係に置かれている。
③ その万物と④の世界との区別に対応する。世界という語は、聖書では世と訳される場合が多いが、その責任を問われなければならない被造物の総称であって、審判の対象となるものである。
この告白では「神は永遠の昔から」以下で②の点、すなわち、教会との関係を特に詳しく述べている。
2 三位一体の第二人格である神のみ子は、まことの永遠の神でいまし、み父とひとつの本質でまた同等でありながら、時満ちて、自ら人間の性質を(1)、それに属するすべての本質的固有性と共通的弱さもろとも取られ、しかも罪はなかった(2)。彼は、聖霊の力により、処女マリヤの胎に彼女の本質をとって、みごもられた(3)。そこで十全なそして異なった二つの性質、すなわち神たる性質と人たる性質が、移質、合成、混合なしに、ひとつの人格の中に、分離できないように結合されている(4)。この人格はまことの神またまことの人で、しかもなお、ひとりのキリスト、神と人との間の唯一の仲保者である(5)。
1 ヨハネ1:14(*)、Ⅰヨハネ5:20、ピリピ2:6、ガラテヤ4:4
*ヨハネ1:1,14が正しい。
2 ヘブル2:14,16,17、ヘブル4:15
3 ルカ1:27,31,35、ガラテヤ4:4
4 ルカ1:35、コロサイ2:9、ロマ9:5、Ⅰペテロ3:18、Ⅰテモテ3:16
5 ロマ1:3,4、Ⅰテモテ2:5
二 ここではカルケドン信条に告白された二性キリスト論が述べられている。キリストの人格が三一神の第二人格であること。そのために、父と同質、等位であること。その人間性が被造物に固有な有限性と律法の下にある弱さを持ちつつ無罪であること。処女降誕、神性と人性との結合の正しいあり方が、転化、合成、混合、分離という4つの異説に対して弁明され、特に人格的統一が強調されている。
「この人格はまことの神、またまことの人で、・・・」の表現は、誤解されやすい。キリストをその人格について言えば、ロゴス、すなわち、三一神の第二位であられるが、このことは受肉によっても変化しない永遠のロゴスでいます、ということである。しかし、その性質について言えば、このロゴスは受肉以前には、ただ神である性質のみを持っておられたが、受肉によって、その上に人間の性質もおとりになったのである(神である性質を捨てて、その代わりに人間性を取られたのではない)。
そして今や、二性のキリストとなられたのである。しかし、このことはキリストの人格が神的人格と人的人格を備えたという意味にはならない。「ひとりのキリスト」である、といの結びの言葉には、このことを明言するものである。人格と性質とを混同しないようにすべきである。
3 主イエスは、このように神性に結合された彼の人性において、限りなく聖霊をもってきよめられまた油そそがれ(1)、ご自身のうちにすべての知恵と知識の宝があった(2)。み父はすべての満ち足れる徳が彼のうちに宿るのをよしとされた(3)。それは、きよく傷なく汚れなく恵みとまことに満ちて(4)、仲保者と保証人の職務を遂行するために完全に備えられるためであった(5)。この職務は、彼が自らとられたのではなくて、み父の召命によるのであり(6)、み父が彼の手に一切の権能とさばきを委ねて、彼にそれを遂行するように命じられたのである(7)。
1 詩45:7(8)、ヨハネ3:34
2 コロサイ2:3
3 コロサイ1:19
4 ヘブル7:26、ヨハネ1:14
5 行伝10:38、ヘブル12:24、ヘブル7:22
6 ヘブル5:4,5
7 ヨハネ5:22,27、マタイ28:18、行伝2:36
三 これはヨハネによる福音書3章34節などの主張を骨子とする聖書の教えを、体系づけたものであって、キリストが三一神論にあって存在論的には父と同等であるということで、三位一体論での従属説(子を父より下位とみる)は堅く排斥されなければならないのであるが、その仲保者として、メシヤ的職能を果たすことに関しては、その任命、その任務の遂行など、すべて父の命令に従い、父の与える恵みと賜物によって、これを果たすと言うのであって、普通にこれを、メシヤ職能的従属の教理と言っている。この点に関して、キリストは神としてわたしたちの主であるとともに、新人類のかしらとして、わたしたちの長兄であられる。ローマ・カトリック教会が「われらの兄弟なるキリスト」と呼ぶのは、この点に関しては正しい。
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岡田 稔著
(元神戸改革派伸学校長)
第七章 人間との契約について(2)
4 この恵みの契約は、聖書で、しばしば遺言という名で表わされている。それは遺
言者イエス・キリストの死と、それによって譲渡される永遠の遺産とに、それに
属するすべてのものも含めて関連している(1)。
1 ヘブル9:15-17、ヘブル7:22、ルカ22:20、Ⅰコリント11:25
四 契約という語には、二つの意味または種類を含むところの、相互契約と一方的契約とがあり、一方的契約は特に遺言にその特色がよく現れている。聖書はこの遺言の方の意味で用いている。テスタメントは、この意味である。恵みの契約は、神と子の契約と同時に、キリストと選びの民との契約である。特に後者の観点から、遺言という言葉が適合する。
本告白第八章で学ぶのであるが、キリストは実に、この恵みの契約において、一方、神に対して契約の受益者であると同時に、選びの民に対して契約者の立場に立たれる。恵みの契約は、実に神にして人なるキリストにあって、神と人との間に結ばれているものである。かつ、それが恵みの契約であるのは、実に、キリストの死による血をもって贖われたことによって、遺産付与が一方的約束ごとであるというところにその根拠がある。
5 この契約は、律法の時代と福音の時代とで異なって執行された(1)。律法のもとで
は、それは約束、預言、犠牲、割礼、過越の小羊、その他ユダヤの国民に与えられ
た予型や規定によって執行され、それらはすべて来たるべきキリストを予示(2)して
いて、約束のメシヤヘの信仰に選民を教え育てるのに、その時代にとっては聖霊の
働きによって十分で有効であった(3)。このメシヤによって、彼らは完全な罪のゆる
しと永遠の救いを得ていた。それは旧約と呼ばれる(4)。
1 Ⅱコリント3:6-9
2 ヘブル8-10章、ロマ4:11、コロサイ2:11,12、Ⅰコリント5:7
3 Ⅰコリント10:1-4、ヘブル11:13、ヨハネ8:56
4 ガラテヤ3:7-9,14
五 第二の契約はいつ成立したのだろうか。それはアブラハムの選びと召命の時と見てよいであろう。この契約には、二つの明白な時代の区別がある。わたしたちが旧約時代・新約時代と呼ぶのはそれであるが、ここでは律法の時代・福音の時代と呼ばれている。ここで、律法時代と呼ばれているものを旧約すなわち律法、新約時代すなわち、福音と受け取ってはならない。旧約時代にも福音があり、新約時代にも律法が存在するが、旧約時代を律法の時代と呼ぶのは正しい。ここでは、もっぱら福音の時代との相違点を述べている。
それは主として、契約の執行に関する相違である。執行とは、約束の恵みを与える方法、すなわち、恩恵の手段と呼ばれているものであるが、また同時に、それに与る人間の相違も問題になる。けれども、恵みそのものは別ものではなく、まったく同一のもの、三項で言われたところの(いのちと救い及びそのための唯一の条件である信仰を与えること、また、信仰を生む唯一の有効な力である聖霊を与えること)ものにほかならない。また、旧約時代といえども、すでにキリストによる救いが与えられていて、従って、キリストの教会が地上にも天上にも存在していた。その意味でアブラハムこそ最初のクリスチャンであると言うことがこの告白であり、改革派教会の主張である。
6 本体であるキリスト(1)が現わされた時代である福音のもとでは、この契約が実施される規定は、み言葉の説教と、洗礼並びに主の晩餐の礼典の執行である(2)。それらは数が少なくなり、より簡単に見栄え少なく執行されてはいるが、それでもなお、この契約はそれらの中に、ユダヤ人にも異邦人にもすべての国民に(3)、一層十分に明確に、そして霊的効力をもって提示されている(4)。これが新約と呼ばれる(5)。だから本質上異なった二つの恵みの契約があるのではなくて、違った時代のもとに、同一のものがあるのである(6)。
1 コロサイ2:17
2 マタイ28:19,20、Ⅰコリント11:23-25
3 マタイ28:19、エペソ2:15-19
4 ヘブル12:22-27(*)、エレミヤ31:33,34
*ヘブル12:22-28が正しい
5 ルカ22:20
6 ガラテヤ3:14,16、行伝15:11、ロマ3:21-23,30、
詩32:1、ロマ4:3,6,16,17,23,24(*)、ヘブル13:8
*詩32:1をロマ4:3,6,16,17,23,24と比較
六 聖書には三種の宗教が記されている。偶像教(異教)とユダヤ教とまことの宗教である。異教は悪魔的宗教であり、ユダヤ教は次の二つの点で誤っている。
第一は、恵みの契約の下にあるのに、依然として、業の契約の条件で救いを得ようとしているという点と、第二は、福音の時代であるのに、依然として、律法時代の執行方式に固執している点である。へブル人への手紙やパウロ書簡で言われている旧約時代と新約時代の比較は、決して異教とキリスト教、またキリスト教とユダヤ教の比較ではない。旧約時代が神の啓示の宗教であることを肯定しつつ、新約時代が執行方式に関して勝ることを主張し、律法時代が今や終わったことを教えているのである。
(補注)
恵みの契約の始期については(1)創世記3章15節のいわゆる原福音 (2)律法時代の始期については、モーセによるシナイ契約(出エジプト記)と見ることもできるであろう。けれども、一般には、原福音は予言であって、歴史上アブラハム契約(創世記12章以下)が実際上その最初の発動であり、契約を聖定論の見地からみれば、永遠の契約、摂理論の問題とすればアブラハムから始まり、モーセの律法に対して、これを約束と呼ぶことは使徒行伝7章やガラテヤ人への手紙での呼び方である。
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岡田 稔著
(元神戸改革派伸学校長)
第七章 人間との契約について(1)
1 神と被造物とのへだたりはまことに大きいので、理性的被造物が創造主としての神に対して服従しなければならぬ義務があるとはいえ、彼らが自分の祝福や報いとして、神を喜ぶということは、神が契約という方法で表わすことをよしとされた神の側のある自発的なへりくだりによる以外には、決してできなかった(1)。
1 イザヤ40:13-17、ヨブ9:32,33、サムエル上2:25、詩113:5,6、
詩100:2,3、ヨブ22:2,3、ヨブ35:7,8、ルカ17:10、行伝17:24,25
一 道徳には二つの原則的な主張がある。一つは、善は絶対的になすべきもの、ということであり、二つは、善をなす者には善き報酬がある、ということである。前者のみを強調
すると厳粛主義になり、後者のみになると功利主義となる。キリスト教は両面を共に肯定している。
前者は、神は創造主であるから、絶対主権者である、という信仰を基礎としており、後者は、ここで告白されている神の契約ということを基礎としている。
イエスの倫理思想は、もっとも高遠な純粋なものであるにもかかわらず、一般に「山上の垂訓」と言われている教えの内にあって、報酬の観念が根本的になっており、ローマ人への手紙の倫理も、この点まったく同一のものと言える。
聖書で否定されているのは、功績の観念であって、報酬の観念ではない。恩恵の思想と矛盾するのは功績思想である。すなわち、人間が自力で善をなすことができる。神はその善に対して、救いとか永遠にいのちとかを代償として与える義務を負うという思想である。
しかし、報酬ということは否定されてはいない。神は公正な審判者である限り、善には善の悪には悪の公正な報酬を与えるのである。ところで、このような観念は造り主なる神という信仰とは調和しにくい。ここに契約という別の関係が存在しなければならない。契約はその事柄に関する限り、当事者間に一定の対等関係が存在する意味であり、この限りで神の側の謙遜ということが前提となる。
キリスト教倫理は、第一に人が神のかたちに造られたという事実、第二に神が人間の線まで降下されて契約関係をお立てになったという事実の上に成立していると言うべきである。
2 人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって(1)、それによって、本人の完全な服従を条件として(2)、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された(3)。
1 ガラテヤ3:12
2 創世2:17、ガラテヤ3:10
3 ロマ10:5、ロマ5:12-20
二 この契約は、まずアダムに対して与えられたもので、わたしたちはそれを、「業の契約」と呼んでいる。神がこの契約にそういう名称をつけられたというわけではないから、場合によっては、これを「いのちの契約」とも呼ぶ。
この契約の成立事項を記すと、
1 アダムとの契約であり、アダムをかしらとする全人類との契約である。
2 永遠のいのちを与える約束である。
3 自身の完全服従を条件とする。
4 その条件を果たさない場合は死をもって罰する。
5 神の律法への完全服従は、この場合「善悪を知る木の実を食べてはならない」という命令として試された。また、その期間は神のよしとされた一定の期間であったと理解されている。
わたしたちは、このような第一の契約の存在を創世記2、3章からのみ断定するのではな
い。むしろ聖書全体からの推論としてであって、それは第二の契約の成立から逆に断定さ
れるものである。また、前項で言ったように、道徳における報酬性という点から断定され
る。
すなわち、約束は契約なくしてはありえないのである。約束のあるところには、かなら
ず契約がある。永遠のいのちというものは、単に人間が空想し、自力で獲得しようと努力
して手に入れる、というようなものではなく、その始源において、人間への神の約束とし
て与えられた観念であると断定せざるをえない。
3 人間は自分の堕落によって、自らを、この契約によっては命を得られないものにしてしまったので、主は、普通に恵みの契約と呼ばれる第二の契約を結ぶことをよしとされた(1)。それによって、神は罪人に、命と救いを、イエス・キリストによって、価なしに提供し、彼らからは、救われるためにキリストへの信仰を要求し(2)、そして命に定められたすべての人々が信じようとし、また信じることができるようにするために、聖霊を与える約束をされた(3)。
1 ガラテヤ3:21、ロマ8:3、ロマ3:20,21、創世3:15、イザヤ42:6
2 マルコ16:15,16、ヨハネ3:16、ロマ10:6,9、ガラテヤ3:11
3 エゼキエル36:26,27、ヨハネ6:44,45
三 神は人間の堕落によって、第一の契約の罰則を発効した。しかし、神の無限のあわれ
みといつくしみとは、人類のすべてがこの堕落のうちに滅亡し去ることを求められなかっ
た。第一の契約の約束ごとであるいのちを与える第二の道を開かれた。この告白文をよく
読むと、いのちの約束としてではなく、むしろ、約束されたいのちの附与という新しい方
法として述べられていることが特色である。
第二契約を「恵みの契約」と呼ぶのも、かならずしも聖書にそのように名づけられてい
るからではなく、わたしたちの習慣である。なぜそう呼ぶかと言えば、第一に、すでに第
一の契約で失格したわたしたちへの再度の神の側の謙遜に基づくものであり、しかも、私
たちの側の行為を要求するのではなく、まったく神の自由な提供として与えてくださるの
であり、ただ信仰を条件としてくださるのであり、その信仰すらも神の賜物なのである。
すなわち、信仰するために己れの聖霊を与えるという約束なのである。いのちを与える
約束と言われる代わりに、いのちに定められた者に、聖霊を与える約束だと告白されて
いることは、大いに注意を要するところである(ルカ11:13を参照)。
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東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」