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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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f8001d0e.jpeg 解説 ウエストミンスター信仰告白 (13)
               
                    岡田  稔著
                  (元神戸改革派伸学校長)
第六章 人間の堕落と罪、および罰について(2)

5 この本性の腐敗は、この世にある間は、再生した者の中にも残存する(1)。それは、キリストによってゆるされまた殺されはするものの、それ自体もそのすべての活動も共に、まことにまさしく罪なのである(2)。

  1 Ⅰヨハネ1:8,10、ロマ7:14,17,18,23、ヤコブ3:2、箴20:9、伝道7:20
  2 ロマ7:5,7,8,25、ガラテヤ5:17


五 ここでは、聖化の地上での未完成と腐敗そのものが罪である(すなわち、原罪または性質罪)点を告白している。神との交わりより落ちた者が、キリストにつぎ木されて新しいいのちが育成されつつあるけれども、古い性質は死滅してはいないのである。地上の生活は、本来この古いいのちの源より生かされているものである限り、罪人の腐敗性は残存しているのである。
 罪はキリストにあって義とされている限り、それは赦させた罪であり、聖化の対象である限り、日々に死につつある罪ではあるが、それ自身が罪であることには変わりはない。そこが罪を行為としてのみ見る現代倫理学(観)と聖書との根本的な相違である。罪とは、罪の行為であるばかりでなく、罪の状態、罪の性質も含むのである。ローマ人への手紙7章20節で言われている「わたしの内に宿っている罪」は、この意味である。
 地上のいのちと永遠のいのちとは、同じいのちでも別な源を持つのである。すなわち、ヨハネによる福音書1章4節の「この言葉にいのちがあった」のように、永遠のいのちは、すべてキリストを源とし、聖霊の賦与者としてわたしたちに与えられているけれども、地上のいのちは、創造に起源を発し、一般恩恵に支えられたいのちであって、神の審判に服さざるをえないものである。すなわち、いつかは死ぬのである。
 キリストは創造と贖罪と審判の業をなされる。同一のキリストを源とするいのちも、創造の業に発する地上のいのちと贖罪の業に発する復活のいのちとは異なるものである。罪の性質は、その地上のいのちと運命をともにするものであるために、肉体の死、または、キリストの再臨に日まで生きている人間に残存するものである。減少はしても絶滅はしない。

6 原罪も現実罪も、罪はことごとく、神の正しい律法への違反であり、それに反するものであるから(1)、それ自身の性質上、罪人の上にとがをもたらし(2)、罪人はそれによって神の怒り(3)と律法ののろい(4)のもとにおかれ、その結果、霊的(5)、一時的(6)、また永遠的な(7)すべての悲惨を伴う死(8)に服させられている。

  1 Ⅰヨハネ3:4
  2 ロマ2:15、ロマ3:9,19
  3 エペソ2:3
  4 ガラテヤ3:10
  5 エペソ4:18
  6 ロマ8:20、哀3:39
  7 マタイ25:41、Ⅱテサロニケ1:9
  8 ロマ6:23

六 この項は前述の諸項の要約であり補いである。ウエストミンスター小教理問答では「堕落は人類をどのような状態にしたか」(問い7)の問に対して、「・・・罪と悲惨の状態にした」と答え、罪の方に原義の喪失と性質の腐敗をかぞえ、悲惨の方で交わりと喪失と死とを教えるのみでなく、罪責の転嫁を前者の方に、怒りと呪いを後者の方に記している。この項での告白では、このような二分法を用いず、罪と悲惨とを統一的な事柄として、そのより根源的なものから論理的順序で、より現実的なものへの関連を示そうとしている。
 この論理的順序から見ると、死と性質の腐敗とは、同一事の過程と終局と考えられる。しかし、二項で言われている「罪の中に死んだ者」と六項の「すべての悲惨を伴う死」とは、やや意味が異なる。二項の方は、再生において回復されるところの霊的死であり、六項は、最後の審判で復活体としての人間が、捨て置かれる死の状態を指している。従って、それよりの救いは、義とされた者の最後の審判での永遠のいのちへのよみがえり以外にない。

<結び>
 この第六章は、ごく簡単であるが、聖書的罪観をよく表現した名文である。罪の責任が人間にあって、神にも悪魔にもないということ(悪魔は彼自身の罪の責任を負う)、罪は人間によって犯された事実でありつつ、神の聖定が混乱したのではなく、神はすべてにおいて絶対的主権者であること、罪は対神、対世界、対自身の三つの面に深い結果を及ぼしていること、アダムの罪が全人類に転嫁と遺伝の両方式で波及していること、行為のみが罪ではなく、罪を生む性質そのものが罪として、罪責、罰にあたいすること、こうして、罪人の救いが如何に重大事であり、従って、自力救済が望みのないことであるかを、また、キリストの贖罪と聖霊の活動がいかに大いなる恩恵であるかを、明瞭にするのである。 
  
 
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛

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8ece9a13.jpeg 解説 ウエストミンスター信仰告白 (12)
               
                    岡田  稔著
                  (元神戸改革派伸学校長)

第六章 人間の堕落と罪、および罰について(1)

1 わたしたちの始祖は、サタンの悪巧みと誘惑にそそのかされ、禁断の木の実を食べて罪を犯した(1)。神は、彼らのこの罪を、ご自身の賢いきよい計画によって、ご自身の栄光に役立てる目的をもって、許容することをよしとされた(2)。

  1 創世3:13、Ⅱコリント11:3
  2 ロマ11:32

一 これは罪と聖定との関係を明らかにすることである。

1 人間の責任と悪魔の誘惑との関係
悪魔の存在や活動も、神の許容する限りにおいて悪魔自身の自由意志に基づく事柄であって、神が悪魔を創造したのではなく、悪魔が永遠より存在したのでもなく、天使のある者が自己の自由の悪用によって悪魔と化したのである。アダムたちはこの悪魔の活動によって、罪を犯す機会を与えられた。しかし誘惑は、必ずしも犯罪の父ではない。キリストは荒野での試みに負けはしなかった。誘惑すること自身は悪であるから、その責任を神は問うであろうけれども、それによってアダムたちの犯罪の責任が少しでも軽減されるものではない。
今日、児童教育に関して、教唆罪が重視され、児童本人の責任は軽くみられていて、むしろ児童は謝った教育の被害者であるかのように呼ばれているのは、はなはだしい誤りではないだろうか。

2 悪魔の誘惑とアダムたちの犯罪とは、ともに神の聖定との関係から考えると、三つの点を明確に知らなければならない。
  ① 神の聖定以外に何事も何人によっても発生しないこと。もし、そういう事件が起きるとすると、神の世界支配権が犯される。
② 聖定の目的は、すべて神の栄光のためであって、人の利益や神の恥のためになされたものではないこと。 
③ 罪に関する聖定は、特に許容であって、強制または黙認ではない。行われてからの事後承認でもない。許容という用語は、一方では物理的には神の意志が原因でありつつ、他方倫理的には人の責任が問われることである。わたしたちがこの告白文を見て、悪魔を憎み、アダムに同情したり、神に同情するならば、それは、自己とアダムとを無関係であるとしているとともに、神の支配を客観的に眺めているという誤りに陥っているのである。

2 この罪によって、彼らは原義と神との交わりから堕落し(1)、こうして罪の中に死んだ者となり(2)、また霊魂と肉体のすべての機能と部分において全的に汚れたものとなった(3)。

  1 創世3:6-8、伝道7:29、ロマ3:23
  2 創世2:17、エペソ2:1
  3 テトス1:15、創世6:5、エレミヤ17:9、ロマ3:10-18(*)
    *ロマ3:10-19が正しい

二 これは罪の人間に及ぼした結果についての告白である。「堕落し、死んだ者となり、全的に汚れたもの」とは三つの結果である。「・・・ものとなった」と言うことは、神の律法との関係を基準にしてのことであるから、律法の下にありつつ神のかたちをもち、神との交わりにあづかっていた者が、今や神の怒りと律法の呪いの下に落ちたということである。
 その当然の結果は死(霊的)である。あるいは死という状態の中へ落ち込んだとも言える。そして全機能が破損し、汚れたのである。破損がひどかったから死んだと言うよりも、死の状態に落ちたから汚れたのである。罪は人間に、神との関係と環境と内部構造(性質)との三つの面にその結果をもたらした。この三つは同時的に生起したことであるとともに、論理的には一は二の、二は三の原因というべきものである。

3 彼らは全人類の根源であるので、彼らから普通の出生によって生まれるすべての子孫に、この罪のとがが転嫁され(1)、また罪における同じ死と腐敗した性質とが伝えられた(2)。

  1 創世1:27,28、創世2:16,17、使徒17:26、ロマ5:12-19(*)、
    Ⅰコリント15:21,22,45,49(**)(***)
     *ロマ5:12,15-19が正しい  **Ⅰコリント15:21,22,49が正しい
     ***創世1:27,28と創世2:16,17と使徒17:26を、ロマ5:12,15-19および
       Ⅰコリント15:21,22,49と比較
  2 詩51:5(7)、創世5:3、ヨブ14:4、ヨブ15:14

三 ここはアダムたちとわたしたちとの関係についてである。前項の犯罪の結果である三つのものが、ここでは罪のとが、死、腐敗と言われている。原義と神との交わりは今や罪のとが(罪責)にとってかわったのである。すなわち、単に失ったと言うことではなく大いなる負債を負ったのである。そして罪責は転嫁という方式をもって、死と関係している。「罪責における死」とは悲惨であり、全性質の腐敗とは、原罪のことである。この二つは遺伝によってわたしたちに関係してくる。しかし、罪責は義認により、死は再生により、腐敗は聖化によって回復させられるのである。

4 わたしたちをすべての善に全くやる気をなくさせ、不能にし、逆らわせ(1)、またすべての悪に全く傾かせている(2)ところのこの根源的腐敗から、すべての現実の違反が生じる(3)。

  1 ロマ5:6、ロマ8:7、ロマ7:18、コロサイ1:21
  2 創世6:5、創世8:21、ロマ3:10-12
  3 ヤコブ1:14,15、エペソ2:2,3、マタイ15:19

四 この項は、原罪と現行罪との関係についてのものである。三項でのように、罪責と死と腐敗とは同時的でありつつ、因果関係を持つものとして考えると、現行罪の生じる根元は、性質の腐敗であるとみなければならない。
 同時に、その腐敗が聖化されるためには、さらに根元にさかのぼって、再生と義認がこれに先行しなければならない。ローマ・カトリック教会の注ぎの恩恵という教理は、現行罪と性質罪の関係のみを考えて、性質罪の根元を問わない誤りといえよう。  
 
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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315f9548.jpeg 解説 ウエストミンスター信仰告白 (11)
               
                    岡田  稔著
                  (元神戸改革派伸学校長)
第五章 摂理について(2)

5 最も賢い正しい恵みある神は、しばしば、ご自身の子らをしばらくの間、いろいろな試みと自らの心の腐敗とに任せておかれる。それは、前に犯した罪に対して彼らを懲らしめるため(1)、あるいは腐敗のかくれた力と心の不誠実さとを悟らせて、謙そんならしめるためであり、彼らの援助のために、より近く絶えず神に寄りすがるように導くため、また将来のあらゆる罪の機会に対して警戒させるため、その他いろいろな正しいきよい目的のためである(2)。

  1 歴代下32:25,26,31、サムエル下24:1
  2 Ⅱコリント12:7-9、詩73編、詩77:1,101,12(2,11,13)(*)、
    マルコ14:66-72、ヨハネ21:15-17(**)
     *詩77:1-12(2-13)が正しい。   **マルコ14:66-72とヨハネ21:15-17を比較。

五 ここでは罪の伝播、存続の意義、効用を説いている。一切が神の栄光を目指すように、現在わたしたちが日々に経験する罪悪的事柄も、いちがいに無益有害であると認めるべきでなく、神の摂理によって、すべての罪悪とその結果も、わたしたちを神の栄光に仕えさせるために有益に働くのである。
これは六項と対比して、一面選ばれた者に関する、罪の摂理の意義を述べたものであるとともに、他方、すべての罪の摂理にかかわる神の側の意図を、啓示面から述べているものと考えられる。神の究極の目的に対して、歴史に啓示される時間的目的とも言うべきものがある。選びのみ旨は動かないが、捨てられた者にも警告と外的召命とは与えられているのである。摂理とは、本来この時間の中で働く神のみ業であり、この意味で神は常に愛である。

6 正しい審判者として神が、今日までの罪のゆえに盲目にし、かたくなにされたところの悪い不敬けんな人々について言えば(1)、彼らの理解を明らかにし、彼らの心に働いていたはずの神の恵みを、彼らに賜わらぬばかりか(2)、時には、すでに持っている賜物さえも取りあげ(3)、彼らの腐敗によって罪の機会となるような対象に彼らをさらされる(4)。その上、彼らを自分自身の肉の欲、世の誘惑、サタンの力のなすに任され(5)、それによって、神が他の者らの心を和らげるために用いられる手段によってさえも、彼らは自らをかたくなにすることさえ起こってくる(6)。

  1 ロマ1:24,26,28、ロマ11:7,8
  2 申命29:3(4)
  3 マタイ13:12、マタイ25:29
  4 申命2:30、列王下8:12,13
  5 詩81:11,12(12,13)、Ⅱテサロニケ2:10-12
  6 出エジプト7:3、出エジプト8:11,28(15,32)(*)、Ⅱコリント2:15,16、
    イザヤ8:14、Ⅰペトロ2:7,8、イザヤ6:9-10、行伝28:26,27(**)
    *出エジプト7:3と出エジプト8:11,28(15,32)を比較
    **イザヤ6:9-10を行伝28:26,27と比較

六 ここでは、しかし滅びる者にとって、かならずしも救われるために有益なものとはならない。神は誘惑にあわせられないけれども、罪人は己が悪しき心のために、神の正しい審判に従って、より悪しき状態へと導かれて行くのである。カルヴァンがエジプトの王パロの頑固について極力主張したように、神はその摂理によって悪人を頑固にされるということが結論されている。
悪人が滅びに落ちるのは、神が悪人を審判し、その審判に基づいて処刑するからである。悪人が自身の力で滅びるのではないのである。神は悪人が滅びるのを許容し、見過ごすのでもなく、神が悪人を滅ぼすのである。神のエソウに対する聖定にあたっての憎しみは、やはり、そのまま摂理として歴史に実現するのである。
7 神の摂理は、一般にすべての被造物におよぶと共に、最も特別な方法で、神の教会のために配慮し、万事をその益となるように処理する(1)。

  1 Ⅰテモテ4:10、アモス9:8,9、ロマ8:28、イザヤ43:3-5,14
七 摂理は万物、万人を対象とするもので、悪人といえども、その例外ではないことを述べたが、しかし、また、わたしたちは神が愛する者たちのために、特にみこころを配りたもうことも告白するのである。教会は、神の子どもの地上的団体として、歴史は教会を中心として摂理されるということを信じるのである。聖書の伝達、教会の世界化、地上教会の不滅などの信仰は、この告白に基づいているともいえるところである。
摂理と予定(聖定)とは、特に深くからみ合った教理であるから、パウロはローマ人への手紙9章から11章でこの二つの点を一つのユニットとして語っている。そして10章で予定と摂理という二大問題をつなぐ、もう一つの課題として、福音宣教論を取り上げている。
救拯史とかキリスト教歴史観というものは、これら三つの問題を要素として成立しているから「すべてのことは神から出、神よって成り神に至る」と栄光の一切を神に帰することになるわけである。

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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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6c671513.jpeg 解説 ウエストミンスター信仰告白 (10)
               
                    岡田  稔著
                  (元神戸改革派伸学校長)
第五章 摂理について(1)

1 万物の偉大な創造主である神は、すべての被造物、行為、また事物を(1)、大小もらさず(2)、最も賢い、きよい摂理によって(3)、無謬の予知と(4)、ご自身のみ旨の自由不変のご計画に従って(5)、その知恵と力と義と善とあわれみのご栄光の賛美へと(6)、保持し(7)、指導し、処理し、統治される。

  1 ダニエル4:34,35(31,32)、詩135:6、行伝17:25,26,28、ヨブ38,39,40,41章
  2 マタイ10:29-31
  3 箴15:3、詩104:24、詩145,17
  4 行伝15:18、詩94:8-11
  5 エペソ1:11、詩33:10-11
  6 イザヤ63:14、エペソ3:10、ロマ9:17、創世45:7、詩145:7
  7 ヘブル1:3

一 これは摂理の定義である。摂理の対象と根源と目的と内容とが述べられている。被造物が存在し、行為し、変化することの一切は摂理であり、神の不変な永遠の予知と予定に基づいてなされ、神ご自身の栄光のためになされる。摂理という時に保持と指導と処理と統治とが含まれている。創造されて世界が存続するのは保持であり、法則に従って運行し、進化し、移動するのは指導、処理、統治などのみ業によるものである。
世界と神との現在関係を総称する言葉が摂理であって、有神論的世界観は創造と摂理のうち、特に後者において、その本領を明示すると言える。自然神教(理神論)は、創造を肯定しつつ、摂理を否定する。キリスト教が超越神を主張しつつ、神と世界の現在関係を汎神論同様に強調しえるのは、実にこの摂理の教理による。従って、摂理を少しでも限定する時、それだけ真正な有神論ではありえなくなる。

2 第一原因である神の予知と聖定との関連においては、万物は不変的かつ無謬的(むびゅうてき)に起こってくる(1)。しかし同一の摂理によって、神はそれらが第二原因の性質に従い、あるいは必然的に、あるいは自由に、または偶然に起こってくるように定められた(2)。

  1 行伝2:23
  2 創世8:22、エレミヤ31:35、出エジプト21:13、申命19:5(*)(**)
     *出エジプト21:13と申命19:5を比較
     **改革派教会訳は、列王上22:28,34、イザヤ10:6,7を欠落している。

二 これは第一原因、すなわち、神の予知と聖定、第二原因の法則と人間の自由意志と機会というものとの関係を明確にする。永遠の制定を歴史の上で実現するための方法が、必然、自由、偶然の三様に異なるのは、第二原因の種類によるのである。祈りが聞かれるのは、この点から理解される。神の予知や予定がところによって変更されるのではなく、神の深い聖定のうちに確定しておられるみこころを祈りを通して、初めて実現してくださるのである。雀が落ちるのも、聖定に基づく摂理であり、罪人が回心(宗)するのも聖定に基づく摂理である。
カルヴァン主義は、最も徹底した有神論であると言われる。そのために摂理の教理を尊重する。しかし、すべては摂理だと言うことと、摂理によって生起する事物が一様の経過をたどるのではなく、ある時は必然的に、ある時は偶然的に、ある人はあたかも人間の自由意志のままに出来たかと思われるような、多様な様相をもって生じるということと少しも矛盾しない。

3 神は、通常の摂理においては、手段を用いられる(1)。けれどもご自身がよしとされる場合には、手段を用いないで(2)、それを越え(3)、またそれに反して(4)自由に行動される。

  1 行伝27:31,44、イザヤ55:10,11、ホセア2:21,22(23,24)
  2 ホセア1:7、マタイ4:4、ヨブ34:20
  3 ロマ4:19-21
  4 列王下6:6、ダニエル3:27

三 摂理には、第二原因を通してなされる場合とそうでない場合とがある。そして後者を奇跡と言う。神は常に超越者である。摂理という内在的行動についても、神が一切の法則や関係に対して自由であるということを、わたしたちは忘れてはならない。奇跡は一見ありえないこと、あってはならないことのように思われつつ、実は、最も神に相応しい事柄である。

4 神の全能の力、窮めがたい知恵、無限の善は、その摂理の中によく現われ、最初の堕落やその他すべてのみ使と人間たちの一切の罪にまでおよんでおり(1)、しかも単なる許容によるものではなくて(2)、多様な配剤において、神ご自身のきよい目的のための(3)、最も賢い力ある制限や(4)、その他の秩序づけと統治がそれに伴っている。しかもなおその場合の罪性はただ被造物からだけ出て、神から出るのではない。最もきよく正しくいます神は、罪の作者でも是認者でもないし、またありえない(5)。

  1 ロマ11:32-34、サムエル下24:1、歴代上21:1(*)、列王上22:22,23、
    歴代上10:4,13,14、サムエル下16:10、行伝2:23、行伝4:27-28
    *サムエル下24:1を歴代上21:1と比較
  2 行伝14:16
  3 創世50:20、イザヤ10:6,7,12
  4 詩76:11(10)、列王下19:28
  5 ヤコブ1:13,14,17、Ⅰヨハネ2:16、詩50:21

四 これは摂理と罪との関係についてで、摂理論の一番大きな問題である。カルヴァンは「キリスト教綱要」一巻の終わりでこの点を詳述している。罪だけは摂理外のことと考えてはならない。罪もまた摂理されたのである。単に許容として片づけてはならない。確かに罪の罪たる性質は神より出たことではないので、その限りでは許容という用語が使用されるのは止むをえないのであるが、罪によって生起した一切は、神の摂理によって生起したのである。
人間は罪を犯したけれども、何一つ人間だけの力や行為で、歴史を変化させたのではない。アウグスチヌスが罪が非存在と称したのも、こうした心からだと思われる。一切は神より出て神によって成り、神に帰すという大原則を人間の罪は決して破りえない。わたしたちは罪を作るということが何者かを存在させたり、変化させることではない。一切の物と行為と出来事とは依然として神の摂理によると告白しなければならない。
わたしたちの告白は、人間の理論的用語にあてはめにくい場合がある。それは矛盾と言う表現で片づけるとごく簡単であるが、神は統一と平和の神であるから、矛盾と言うものは人間の理解の不徹底、または表現の不十分さに他ならない。わたしたちは罪の摂理を、このような意味で許容的摂理と言う。単なる許容ではなく神の摂理であるが、一般的摂理と異なるのは、その道徳的責任が罪を犯した人間の側にある点である。

この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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4fb10a42.jpeg 解説 ウエストミンスター信仰告白 (9)
               
                    岡田  稔著

第四章  創造について(2)

2 神は、他のすべての被造物を作られたあとで、人間を男と女に(1)、理性ある不死の霊魂をもち(2)、ご自身のかたちに従って知識と義とまことのきよさとを賦与され(3)、心の中にしるされた神の律法(4)とそれを成就する力をもち(5)、しかも変化しうる自分自身の意志の自由に委ねられて、違反する可能性のある者として(6)創造された。彼らは、心にしるされたこの律法のほかに、善悪を知る木から食べるな、という命令を受けたが(7)、これを守っている間は、神との交わりにおいてしあわせであり、もろもろの被造物を支配していた(8)。

  1 創世1:27
  2 創世2:7、伝道12:7、ルカ23:43、マタイ10:28(*)
     *創世2:7を伝道12:7、ルカ23:43、マタイ10:28と比較のこと。
  3 創世1:26、コロサイ3:10、エペソ4:24
  4 ロマ2:14,15
  5 伝道7:29
  6 創世3:6、伝道7:29
  7 創世2:17、創世3:8-11,23
  8 創世1:26,28

二 ここでは、次の真理が明らかにされている。
 1 人間は被造物であって、その肉体も霊魂も永遠者ではない。
 2 人間は被造物中で最後に創造された。
 3 人間は男女二性に創造された。
 4 人間は他の動物などと次の点で相違する特有性を持っている。
① 不滅の霊魂を持つこと。ここでの「不滅」とは「無始」という意味の永遠性を意味しない。創世記2章7節の「命の息をその鼻に吹きいれた」とある「命の息」を、神の聖霊と理解するのではない。霊魂はその吹きいれられた神の聖霊そのものであるとすると人間の霊魂は、神の分身だと言うことになる。これは最も聖書的でない思想である。従って、「命の息を鼻に吹きいれ」という動作は、神が人間を創造された時の創造の方法を述べているのであって、「光あれ、と言われた。すると光はあった」。神はまた言われた「水は生き物の群れで満ち」とあるのと対比すると、単に言うのみで創造されたのと異なり、特別に入念に創造されたことを示すと言えよう。
    伝道の書12章7節に「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に   
    帰る」も霊魂を神の分身とするプラトン主義や汎神思想から理解してはならない。 
    不滅は永遠性、特に自存性の意味ではなく、死という現象、すなわち自己崩壊、
    分裂をしょうじないということである。
    霊魂は単一性を特色とするから、死に際して肉体のように、ばらばらになって分  
    裂しないで、依然としてそれ自身の統一を保持している。この点を主として指し  
    て言われているようである。また、霊魂の形容詞として、理性的という言葉がつ 
    けられているが、これはウエストミンスター小教理問答で、イエス・キリストの
    受肉を述べる際に、正常な肉体と理性的霊魂と言う表現が用いられていることを
    参考にされるとよい。
② 神のかたちに創造されたということ。これは①の問題と深い関係がある。人間には霊魂がある。だから死んでも動物のように、まったく自己分裂に落ちてしまわない。肉体はちりに帰っても、霊魂はそのまま存続する。この霊魂の中にこそ、自己の人格的主体が宿っていると言える。
    けれども、この霊魂がそのまま神のかたちなのではない。人間は魂と肉体とから
    成り立っている一個の生けるものであり、生きた人とは、実に霊魂と肉体の結合
    によって成り立っている人間のことである。そして、この人間が神のかたちに似
    せて造られているのである、と言うのが聖書の本当の意味である。
    では、どの点が神のかたちに似せてと言われているのであろうか。それは、知と
    義と真と聖についてである。すなわち、人間の文化能力、宗教・道徳性を統括す 
    るものであって、政治、経済、芸術、科学、哲学、倫理、宗教など、今日の大学
    が取り扱う一切の分野がこの中に入っている。
    カルヴァン主義は、この神のかたちを、このように広義に解釈するために、救い
    の範囲もこれに対応する全般性をもっているのである。
③ 心に記された神の律法とそれを成就する力。これは良心とか道徳という問題と深い関係にある。すなわち、律法の下に置かれたのである。神は常に律法の主であり、律法の上に立ちたもう方である。神のかたちは、この意味で人間の自由をその中に含んでいるのであるが、人間が律法の下にあるという点は、むしろ、人間が神に似ていない。神とは異なるという事実を強く示すのである。
    動物は自然法則の中に存在している。心に記された律法は、このような客観的な 法則ではない。律法の内容に二つあるのではないが、律法の記され方には、二つの面がある。それは心の外に記された場合と心の内に記された場合とである。
     人間が内に律法を記されたと言うことは、人間は神ではない、という事実とともに、人間が動物とは異なる存在である、という事実も同時に強く示すものである。この律法の成就力と罪を犯す可能性とは、実にこれが自由というものの姿であることを示している。従って、本項から考えると、これは、主として他の被造物との相違点を指摘することが主眼であると言えよう。だから、律法の下にあることを主張して、人間は神ではない、という事実を明示することよりも、心に記された律法と自由との二点を指示し、動物との相違を明白にしているのである。
④ 禁断の木の実ことである。これは人間論的に考えると、神と人との自然的関係、すなわち、造り主と被造物の関係から一歩進んだ契約関係に入った問題である。従って、厳密には創造論の課題ではなく、摂理論に入る問題である。しかし、とにかく人間が堕落以前に、どの点で独自な被造物として存在していたかを示したいという本項の建前から、これがその一点として加えられたのであろう。
⑤ 最後に被造物を統治する資格、使命、特権が述べられている。ウエストミンスター小教理問答では、この点も「神のかたち」の一面として理解するのが正しいと思われるように表現されている。③で言ったように律法の下にあるということが、神でないことの特徴であるように、統治権は主なる神の特徴である。
    だから、人間の文化能力としての統御力ということは、たしかに神のかたちの一
    内容と思われる。本項は、終始人間型の被造物より優れているという特異性を、
    強調する方向で述べられているから、このことが最後に一項目として取り上げた
    のはもっとものである。なお、この項には、今一つ堕落後の罪と悲惨の状態にあ
    る人間の姿に対し、創造されたままの姿の特徴を示そうとした点も見逃してはな
    らない。人間は、全被造物と同様に神のみ手の業であることを忘れてはならない。
   同時に、人間は被造物の冠であって、いろいろな点で特色を持つばかりでなく、 
   実は世界は人間がそこで神の栄光をあらわす舞台として創造されたのであり、世 
   界のない人間はありえないし、人間のない世界もまた空虚なものであることを知
   らなければならない。このような尊い使命を持つ人間が、やがて語られるように、
   罪によって自己を汚し、世界を損ねたという事実を深く考えなければならない。

この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。

単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
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b71c6cc0.jpeg 解説 ウエストミンスター信仰告白 (8)
               
                    岡田  稔著

第四章 創造について(1)

1 父・子・聖霊なる神は(1)、ご自身の永遠のみ力、知恵、および善の栄光の現われるために(2)、初めに、世界とその中にあるすべてのものを、見えるものであれ見えないものであれ、六日の間に、すべてはなはだ良く創造すること、すなわち無から作ることをよしとされた(3)。

  1 ヘブル1:2、ヨハネ1:2,3、創世1:2、ヨブ26:13、ヨブ33:4
  2 ロマ1:20、エレミヤ10:12、詩104:24、詩33:5,6
  3 創世1章、行伝17:24、ヘブル11:3、コロサイ1:16

一 神の聖定は創造と摂理の業によって、歴史の内に実現する。言い換えれば、神の歴史的行為を二分すると、創造と摂理とに分けることができる。創造は実に、有神論の根幹をなす大教理であって、大いに論ずべき問題である。
この信仰告白はごく簡単に取り扱っているが、少し詳細に解説したいと思う。ヨーロッパの思想史に理神論、汎神論などが登場したのは、主として17世紀以後であったので、本信仰告白が作成された当時は、決定論や偶然論が摂理論をおびやかしていたほどには、創造論に対する議論が沸騰してはいなかったのであろう。
本項で言及されている教理はおおよそ次の6つである。

1 創造という言葉の主語が三位一体の神であって、単なる父なる神のみの、み業ではないこと。
2 創造の目的が神ご自身の栄光をあらわすことにあったこと。
3 創造の時は、原始であり、6日の間のみ業であること。
4 神以外の一切のものが被造物であること。
5 完全創造の教理。
6 創造は無よりの創造であること。

①  まず創造を父のみのみ業とすることの誤りが指摘されている。ウエストミンスター小教理問答では「その御力の言葉によって」(問9の答)創造されたとあるように、第二人格であるロゴスは創造者であり、聖霊も被造物ではなく、最初より創造の業に深く関係していたことが、創世記1章で明白である。  
 だから、使徒信条で「我は天地の造り主」と言われているのは、単に三位一体の第一
人格を指すものではない。コロサイ人への手紙1章にある通り、キリストは明らかに創
造主である。このキリストの宇宙論的意義の教えは、キリストの完全神性論を構成する
一大要素である。
② 創造の究極の目的が、神ご自身のご栄光にある、と言うことは、一切の人本主義
や自然主義を根底から覆すことが出来る唯一の原理である。神の一切の行為は究極的には自己目的的である。神が何か神以外のものを目的として行為すると言うならば、神の自己充足と言う原理は破綻する。自己充足者でない神は、真の有神論的な神ではない。
③ 創造の時に関しては、古くより二つの誤謬が広く行きわたっていた。一つは、永
遠創造説であり、他方は永続的創造説である。前者はオリゲネスなどの主張したものであって時間を摂理と不可離的に結合しているものと考えるところから、摂理と区別された創造は時間の中にないと判断するために、永遠における事柄と推論され、結局、創造と永遠の聖定が同一視され、混同されたのである。
 ところが時間の対立語を、永遠と考えず瞬間と見るところから、瞬間創造説というものも現れてきた。そして永遠創造説と瞬間創造説とは、ともに時間に対する無時間または非時間という考え方をした。アウグスチヌスがこれらに対して「創造は時間の中においてなされたのではなく、時間と共に創造された」と説明したのは有名である。バルト神学でも創造の時を堕落の時と区別しようとして、創造即永遠と理解しているような印象を与える。
 本信仰告白は、創造の時を「初めに」と主張するが、これは歴史の初め、時間の初めであって、永遠界の出来事ではないと言うことである。創造が時間に対する瞬間ではなく、一定の期限を持つことを示すために「六日の間」を主張している。もちろんこの六日間は、わたしたちの24時間と同一の時限と考えなければならないかどうかについては、創世記1章の註解上、定説と見るべきものは出来てはいなない。
 太陽の回転速度が創造時と現在とで不変であるか、太陽の出現以前と以後とで一日が同じ長さであったか、考えて行くと断定困難な課題となっている。ただ、それが永遠界の出来事でもなく、やはり一定の過程を持って順序ある業としてなされたと見なくてはならない。
④ 神の霊は不可見物と同一ではい。サタンも一個の霊的存在者である。分けても精
神を神と同一視してはならない。公同信条が表明したように、神は神以外の一切の見えるものと見えないものをお造りになったのである。人間は肉体のみでなく、魂もまた、被造物である。それは、あらゆる迷信を排斥する偉大な原理である。
⑤ 完全創造と言うことは、二つの点で大切な真理である。第一は、創造的進化論や
有限の神などと言う思想を排斥するために大切であって、神の創造のみ業は初めの六日間をもって完成したのであり、以後の神の業はすべて摂理のみ業である。
カルヴァンもそう考えていたと思うが、六日間の創造を、さらに二つに区分して、第一を絶対的創造、すなわち無よりの創造と、第二を相対的創造、すなわち六日間の形成とに分けるならば、後者は既に、ある意味で摂理的性質をおびている。無より存在させられるのは、創造の厳密な意味であり、既に存在している物が保持または変化させられるのは、摂理であると言える。
しかし、六日間で存在したものを、ある形に形成するみ業は、摂理的要素を含みつつも、やはり根本的には、そのものの固有な形態にまで作り上げるのであるから、創造のみ業であると言える。この意味で、六日間に一切の事物はその固有性にまで存在させられたのであって、無より一切のもの、質料としての無差別的な被造物が存在させられた事実のみに、創造という用語を限定するは当たらない。
第二に、今日私たちが見ている世界の悪、不合理、腐敗した性質と言う一切の矛盾的事実は、その起原をこの六日間のみ業の中に持つのではなく、それ以後、天使や人間の堕落に起因することを明白にするために、この完全創造の教理は大切なのである。
⑥  最後に、最も重要な問題である「無より」という点を考えてみたい。創造するとは、すなわち、無より造ることだと書かれている。厳密には、まず万物の質料となるべき一切のものが、無より創造され、その後、この創造されたものを材料として一切の事物がそれぞれの固有性に形造られたと見るべきであるから、六日間の業が、そのまますべて無より創造されたと言われる訳ではない。
 この「無からの創造」という教理は、私たちに、次の点を明らかにする。
1 神以外に永遠より自存したものは一つもない。 2 無とは、あるものの意味ではない。すなわり、無よりというものがあったのではない。 3 万物が創造される場合、神以外に何かこの創造の媒介手段、第二原因などと言うような役割を果たす何物かが万物に先たって存在したり、作られてあったのではない。 4 しかし、神の創造は突如として神の中に湧き立った偶発的意志や知恵の行為ではなく、永遠の聖定に基づく創造であった。
 無は資材的に何ものもなかったと言う意味での無であり、聖定は叡知的根源と言う意味での創造の先行者である。神の内なる永遠は、世界の時間的先行者、または論理的先行者と言うようなものではない。創造論の核心は要するに、永遠と時間とに問題である。時間に対して無時間的世界というようなものを考える時、それはスピノザ的な論理に他ならない。永遠の相とは、単なる幾何学的必然界に過ぎない。時間に対して永遠性を持たない瞬間を永遠界と考える時、キルケゴール的非論理の世界を空想することになる。
 これらは共に、非時間として時間の対立者ではあるが、決して時間としての真の永遠界を指示しないであろう。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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                    岡田  稔著
 
第三章 神の永遠の聖定について(2)
 
3 神の聖定によって、神の栄光が現われるために、ある人間たちとみ使たち(1)が永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている(2)

  1 テモテ5:21、マタイ25:41
  2 ロマ9:22,23、エペソ1:5,6、箴16:4


 三 物質は水と火であれ、究極的には同性的であると言えるが、善と悪は被造界に関し
て最も究極的な二元性を示している。それによって生じた究極的区別の根源は、結局、神
の聖定以外に求めるべきではない。この予定論、選びの根本問題であり、聖定論はもとも
と、この問題の包括的論議に他ならない。ルター派は永遠のいのちへの選定のみを告白す
るのに対し、改革派教会は双方予定論を保持している。

4 このように予定されたり、あらかじめ定められているこれらのみ使や人間は、個別的また不変的に指定されており、またその数もきわめて確実で限定されているので、増し加えられることも、減らされることもできない(1)

  1 テモテ2:19、ヨハネ13:18


四 これは双方予定論の当然の結論であるが、この教理に対する温和化が試みられた中で、一つは集団的予定論という考え方であって、選びも放棄も個別的でなく、グループ的であるという説(ローマ人への手紙9章以下をこのように註解する者が多い)に対する排斥と思われる。ウオーフイルドの「救いの計画」を見るとよくわかる通り、カルヴァン主義は個別救済論を主張している。


5 人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ旨のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって(1)、それは、自由な恵みと愛とだけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく(2)、すべてその栄光ある恵みの賛美に至らせるために、選ばれたのである(3)

  1 エペソ1:4,9,11、ロマ8:30テモテ1:9テサロニケ5:9
  2 ロマ9:11,13,16、エペソ1:4,9
  3 エペソ1:6,12


五 前半は、救いは選ばれた者の選びが、その目的、その原因、そして、その経過のすべてについて、神によるものであることを示し、後半はその選びが、決して選ばれた人間自身の何ものにもよらないことを示している。すなわち、業による選びではないのみか、信仰というものを、何か信者の自力と考えることの誤りとともに、第二項の予知論の方向に目を向けることの非を教えている。

6 神は、選民を栄光へと定められたので、神は、み旨の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段をも、あらかじめ定められた(1)。だから、アダムにおいて堕落しながら選ばれている者たちは、キリストによってあがなわれ(2)、時至って働くそのみ霊によってキリストヘの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ(3)、み力により信仰を通して救いに至るまで保たれる(4)。他のだれも、キリストによってあがなわれ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選民だけである(5)

  1 ペトロ1:2、エペソ1:4,5、エペソ2:10テサロニケ2:13
  2 テサロニケ5:9,10、テトス2:14
  3 ロマ8:30、エペソ1:5テサロニケ2:13
  4 ペトロ1:5
  5 ヨハネ17:9、ロマ8:28-39、ヨハネ6:64,65、ヨハネ10:26、ヨハネ8:47ヨハ    ネ2:19


六 これは選ばれた以上は、かならず一定の経路を経て救いが完成されるのであって、中途で未完成に終わるということのない点を力説したものである。

7 人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的み力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた(1)

  1 マタイ11:25,26、ロマ9:17,18,21,22テモテ2:19,20、ユダ4ペテロ2:8

七 ここでは、二つの点を注意するように教えている。第一は、罪のために、永久に棄てられる者は、どこまでも神の主権的判断によって、そうされるのであるから、人間が「なぜだ」と神に抗弁する権利はないこと。第二は、五項の終わりの「恵みと賛美に至らせるため」と七項の終わりの「正義を賛美させるために」とを対照すること。前者は「あわれみの器」で、後者は「怒りの器」で、ともに「器」であり、神の栄光をあらわす器であることである。
 
8 予定というこの高度に神秘な教理は、み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう(1)、特別な配慮と注意をもって扱われなければならない(2)。そうすればこの教理は、神への讃美と崇敬と称賛の(3)、また謙そんと熱心と豊かな慰めの材料を、すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう(4)

  1 ペテロ1:10
  2 ロマ9:20、ロマ11:33、申命29:29(28)
  3 エペソ1:6、ロマ11:33
  4 ロマ11:5,6,20ペテロ1:10、ロマ8:33、ルカ10:20
 
八 (結び) 予定論ほど不思議な真理はめずらしい。信仰をもって学ぶ者を慰励するとともに、好奇心をもって軽蔑する者の心を混乱させる。まさに「とげのある鞭をうければ、傷を負うだけである」(使徒26:14)。だから、初心者には、刃物のように危険だと言う人もいるが、私は弊害を恐れるよりも、その利益を信じて大胆に、しかも、忠実、そして謙虚に学んでほしいと思っている。
1618年~19年、オランダで世界中の改革派教会の代表が会議を開いてドルト信条を作った時、英国王ゼームス一世は これを読んで「予定論は誠に真理であるが、余りにも奥義だから学識や経験の未熟な下級教職が説教することを禁止する」という法令を出した。しかし私は、パウロのローマ人への手紙をもらったローマ教会の会員たちに、それが有益だったと信じるから、同様に聖書に即してよく読み、学べばかならず大きな益を受けると確信している。
 
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解説 ウエストミンスター信仰告白(6)
  
                   岡田 稔著
第三章 神の永遠の聖定について (1)
1 神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが(1)、それによって、神が罪の作者とならず(2)、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである(3)。

  1 エペソ1:11、ロマ11:33、ヘブライ6:17、ロマ9:15,18
  2 ヤコブ1:13,17、Ⅰヨハネ1:5
  3 行伝2:23、マタイ17:12、行伝4:27,28、ヨハネ19:11、箴16:33

一 神のとは何であるかという問題と、神は何をなすかという問題との間に、神の聖定の問題が横たわっている。これは神の内と外にかかわっている問題だと言えよう。それは三一関係のように、単なる神の内の事柄でないと同時に、創造・摂理のように、単に神の外の事柄ではない。
 聖定が場合によって「意志」とか「計画」とか「思慮」とよばれることによってもわかるように、これは行為として外に現われた事柄ではないが、かならず、いつか、どこか外に現われる事柄と関係している。すなわち、歴史的世界、被造物世界に実現する出来事に関する聖定である。けれども、どこまでもそれは神の内に秘められたものであることであって、これを「永遠の聖定」と呼ぶのである。エペソ人への手紙1章11節「・・・、御旨の欲するままにすべてのことをなさるかたの目的」とある通り、
1  永遠についての事柄であり、
2  一切の被造界に生起する事柄に関するものであり、
3  意志による決定、計画、目的などと呼ばれるようになるように不可変的な確定的事柄であり、
4  同時に、自由なみこころと呼ばれる通り、必然的でない決定的な事柄である。
 それは、神の性質に固有的な意味で、神ご自身にとって、そうする外に、どうにもなら
ない、と言った事柄ではない。また、この世界に生起する事柄との関係については絶対的にそうなるようにと定まっている事柄である。
 神の性質と聖定の間には、自由の一線が横たわり、聖定と世界的事件との間には、必然的関係が横たわっている。これは、実にキリスト教哲学の根本原理である。自由と必然とは、このような関係としてのみ正しく両立する。神と世界との関係を単純に自由の一線で結ぶならば、偶然論となり、必然の関係で結ぶなら、決定論とならざるを得ない。聖定論は、実はこの二つの哲学を同時に論破する聖書的有神論の奥義である。
 この原理は更に、本項の後半の「定められたが」以下の告白によって、その威力を発揮してくる。神を罪の作者(責任者)とするのは、決定論の弱点であり、被造物に自由意志がないとして、第二原因の自由性を否定せざるをえなくなる。また聖定論は、宿命論と同一視されるが、偶然論とは常に相反するものと理解されている。
 そこで、本項の但し書きは、特に決定論との相違を弁証している。カルヴァン主義が哲学的決定論と異なるものであることは、自然哲学的には第二原因の偶然性とか、自由とかを否定するものではないといえば一番分かりやすいであろう。また、倫理学的には、罪悪の責任を神に転嫁しないで、どこまでも人間自身の自由意志の誤用に根源するという点を主張することによって、これを示すことが出来る。


2 神は、想像されるすべての条件に基づいて起こってくるかも知れず、また起こってくることのできることは何事でも、知っておられるが(1)、しかし何事であっても、それを未来のこと、あるいはそのような条件に基づけば起こってくるであろう事柄として予知したから、聖定されたのではない(2)。

  1 行伝15:18、サムエル上23:11,12、マタイ11:21,23
  2 ロマ9:11,13,16,18

二 予知説を排斥するための告白が、この項である。神の意志決定は気まぐれなものではなく、十分に熟慮された結論である、と言うことは正しい。けれでも、何かの物事が生起するのに神の意志決定よりも、もっと根源的な原因があると考えるのは誤りである。それが神ご自身の予知であっても、事物を存在させる究極的な根本原因ではない。
 一切の出来事の唯一根源的原因は、実に神の聖定以外にはないのである。神の聖定は、何物かへの対策ではなく、すべてのことが発生する根源なのである。予知論は結局、偶然論と決定論とに陥って行かざるをえないのである。

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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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                    岡田  稔著

第二章 神について、また聖三位一体について

1 ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、最も賢く(13)、最もきよく(14)、最も自由(15)、最も絶対的で(16)、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い(17)、ご自身の栄光のために(18)、すべての物事を営み、最も愛(19)とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで(20)、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり(21)、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく(22)、すべての罪を憎み(23)、咎ある者を決してゆるさないおかたである(24)。

   1 申命6:4、Ⅰコリント8:4,6
   2 Ⅰテサロニケ1:9、エレミヤ10:10
   3 ヨブ11:7-9、ヨブ26:14
   4 ヨハネ4:24
   5 Ⅰテモテ1:17
   6 申命4:15(*)、ヨハネ4:24、ルカ24:39(**)
    *申命4:15,16が正しい。            **ヨハネ4:24をルカ24:39と比較
   7 行伝14:11,15
   8 ヤコブ1:17、マラキ3:6
   9 列王上8:27、エレミヤ23:23,24
  10 詩90:2、Ⅰテモテ1:17
  11 詩145:3
  12 創世17:1、黙示4:8
  13 ロマ16:27
  14 イザヤ6:3、黙示4:8
  15 詩115:3
  16 出エジプト3:14
  17 エペソ1:11
  18 箴16:4、ロマ11:36
  19 Ⅰヨハネ4:8,16
  20 出エジプト34:6,7
  21 ヘブル11:6
  22 ネヘミヤ9:32,33
  23 詩5:6,7(5,6)
  24 ネヘミヤ1:2,3(*)、出エジプト34:7
      *ナホム1:2,3が正しい。NahをNehと読み間違えたため生じた誤り。

一 これは神の定義である。その前半を注意深く読むと「なく」とか「できず」と言う文字が出ている。つまり「神とは何か」という問いに対して、わたしたちは、神とはこのようなものではない、と答えざるを得ない。いわゆる否定の道である。神は限りがない方、少しもまじりけのない霊、目には見えず、部分がなく、変化がなく、結局、人間の心では「こうだ」ととらえきれない方である。これをひと言で「有限は無限をとらえず」と、表現することが出来る。
 「存在」と訳したのは、英語のビーイングである。「完全」の持ち主で「完全さ」は、その存在の属性である。すなわち、そのものに固有ないろいろの性質、特質を言う。神は本体(存在)そのものからみても、その本体(存在)の固有の性質からみても、無限の霊でいます。
 霊とは、不可見で部分から成り立たない単一性を特質とする存在者であって、物質と異なるとともに人間性とも異なるものである。人間の魂は一種の霊であるが、それが身体と結合している時、純粋・至純の霊ではない。この純粋性・至純性は、罪に汚れた霊に対する聖を保持しているという意味で、「まじり気のない霊」という意味である。
 改革派教会は、神の不可把握性を強調する。これは一方、合理主義に対する否定的主張であるとともに、不可知論、すなわち、神秘主義のいう神知識の否定とは異なる主張である。わたしたちは、神は知ることの出来る神、いな、知らなければならない神であると主張する。もちろんそれは、神が自己をわたしたちに啓示されることによってのみ、知ることが出来るのである。とにかく神は自啓者であって、人間に自己を知らさしめる神である。 
 同時に、わたしたちは神の全貌を、一時にすっかり知ることの出来る立場には置かれていない。わたしたちの神知識は常に部分的で、また、不徹底である。神が知らせてくださる程度においてのみ知ることが出来るのである。この神知識の不完全性は、実に神の自己認識の完全性と表裏をなしている。神は神を常に完全に知っておられる。
 そのために、わたしたちは神を常にとらええない。神も人間も同様に、神を知りえない、というのは不可知論であり、神のように人間も神を知りえるというのが合理主義である。前者は神の存在の無限性を認めつつ、その知識の無限性を否定する。後者は神の知識の無限性を認めつつ、その存在の無限性を否定する結果に陥っている。わたしたちは、神の存在と知識の無限性を認め、そして、人間の知識の無限性を否定するのである。
 さて、本項の後半は、積極的に神とはいかなる方であるかを記しているが、それは、いわゆる形而上学的属性と道徳的属性とを包含した行き届いた敘述であって、前者は絶対者、後者は人格としてこれを要約することが出来よう。すなわち、神は絶対的人格、人格的絶対者であられる。絶対という点は、神の自由、自己の意志決定のみによって行為し、他のどのような指図も強制も感化も援助も受けられないこと、人格という点では、厳正公平な審判者ということにおいて代表されている。


2 神は、ご自身のうちに、おんみずからすべての命(1)、栄光(2)、善(3)、祝福(4)をもっておられ、ご自身だけで、またご自身にとって全く充足しておられ、彼が造られたどの被造物をも必要とせず(5)、それらから何の栄光を得てくることもなく(6)、ただご自身の栄光を、それらの中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表わされる。彼は、すべての存在の唯一の源であって、万物は彼から出、彼によって成り、彼に帰する(7)。彼は、ご自身よしとされることを何事でも、万物によって、万物のために、万物の上に行なうために、万物を最も主権的に支配される(8)。彼の目には万物も歴然とあらわであり(9)、彼の知識は無限無謬(むびゅう)で、被造物に依存しないので(10)、何ひとつとして、彼には偶然や不確かなものがない(11)。彼は、そのすべての計画、すべてのみわざ、すべての命令において最もきよい(12)。彼には、み使、人間、その他あらゆる被造物に彼が要求することをよしとされるどのような礼拝・奉仕・服従も、当然払われなければならない(13)。

   1 ヨハネ5:26
   2 行伝7:2
   3 詩119:68
   4 Ⅰテモテ6:15、ロマ9:5
   5 行伝17:24,25
   6 ヨブ22:2,3
   7 ロマ11:36
   8 黙示4:11、Ⅰテモテ6:15、ダニエル4:25,35(22,32)
   9 ヘブル4:13
  10 ロマ11:33,34、詩147:5。
  11 行伝15:18、エゼキエル11:5
  12 詩145:17、ロマ7:12
  13 黙示5:12-14


二 この項は一見、一項と重複し、並列している感がなくはないが、一方、重点的に聖書の神が、哲学や諸宗教の人間的神観念と異なる点について詳述し、明瞭に主張するとともに、他方、被造物との対他関係という側面から規定している。この点で一項は主として神を神自身に即して対自的に規定しているという相違がわかる。
 ここで数え上げている点を列記すると、
1 神は善きものに満ち足りる方であること。
2 そのために、充足者であって他の何ものをも必要とはなさらないこと。 
3 のみならず、他の一切のものの根源であられるから、他のものはすべて神なくしては   存在しえず、神によってのみ、すべては存在しえること。
4 従って、神は万物への支配権、統治権、所有権を持たれる主権者であること。
5 神は全知全能であるから、一切の事柄を予知し、予定し、偶然も不確かさもなく、万事を一つも誤ることなく計画し命令されること。
6 神はこのような至上者であるから、天使も人間もこの神に対して、あらゆる崇拝と奉仕と服従とを捧げるべきであること。


3 神の統一性の中に、ひとつの本質、力、永遠性をもつ三つの人格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である(1)。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる(2)。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る(3)。

  1 Ⅰヨハネ5:7、マタイ3:16,17、マタイ28:19、Ⅱコリント13:13(*)
     *欽定訳はⅡコリント13:14 
  2 ヨハネ1:14,18
  3 ヨハネ15:26、ガラテヤ4:6


三 これは神の聖三一性について告白されている全部である。あの有名な大真理は実にこの数行に言いあらわされている。
 三一性の教理は、まさに神秘中の神秘であって、神ただ一人のみの事実であり、他のいかなる被造物にも全くその片りんさえもないと言うのが正しい。いわば、これは唯一の神の内部構造である。神は唯一であるということを少しも修正することなく、神は三一であると言わなければならない。三一性は唯一性と何ら矛盾するものではない。すなわち、一つの本質にある三人格である。父と子とみ霊とは唯一の神でいます。しかも、父には父の、子には子の、み霊にはみ霊と、それぞれの人格的特質があって、父を子及びみ霊と区別し、み霊を父及び子と区別している。
 この人格的区別をなす各人格の特質が「み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る」と、言われている。
 それは、すべて永遠的区別である。子を生まない父、父と子より霊が出ない時代と言うようなことはありえない。従ってこの用語は、三人格の本質やとからや栄光についての順位、等差を示すものではなく、どこまでも三者は、平等・等位である。ただ、それは一つの永遠的秩序であり、その順位は主として、働き職務に関して表された順位である。
 この意味で、わたしたちは単なるエコノミカル(経倫的)な三一論を排除すると共に、職務的等位論をも否定する。三位一体は本質における三位一体であり、従属は職域における差別であり順列である。

<結び>
 聖書の神は、神ご自身において、わたしたちの把握を超越する絶対人格であられ、世界との関係についても、絶対主権者であり、自らの内に、神秘な三一性を持つ無比な唯一神である。ここから、この神を他にして神はなく、この神のみが礼拝と祈祷と讃美の対象ででなければならないのである。

   ・・・・・・・・・・・・

この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
 解説 ウエストミンスター信仰告白 (4)
               
                    岡田  稔著

第一章  聖書について・・・4

9 聖書解釈の無謬(むびゅう)の規準は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって探究し、知らなければならない(1)。

  1 Ⅱペテロ1:20,21、行伝15:15,16

九 これは、七項と関連させるべきではないかと思う。聖書の明白性と深く関係する聖書解釈の原理である。まず聖書の意味は一つしかないことを主張して、聖書の表面的意味と裏面的(隠語的)意味とがあると言う主張を排斥する。ローマ・カトリック教会は、しばしば自己の教理の根拠を置こうとして、こじつけ的な解釈を下す。聖霊解釈などというのも、これと同類に近い場合がある。
 これに対して、わたしたちは文法的、歴史的方法を主張する。すなわち、字義通りに前後の文脈から、書いた人の歴史的事情に照らして、本来のままの心を読むべきである。
 また、聖書が自己完結的啓示であると考える以上、聖書を直接霊感や伝説、経典外文書などの光の助けを得て、はじめて理解出来ると見ることは誤りである。聖書の理解が困難な箇所は、より明白な箇所の光に照らして理解すべきで、同じ語、同じ問題はよりはっきりしている他の聖句に基づいて推論すべきであると言うのである。

 9c4a4c0d.jpeg10 それによってすべての宗教論争が決裁され、すべての会議・古代の著者たちの意見・人々の教義・個人の精神が検討されなければならないところの、またその宣告にわたしたちが従わなければならないところの至高の審判者は、聖書の中に語っておられる聖霊以外の何者でもありえない(1)。

  1 マタイ22:29,31、エペソ2:20、行伝28:25(*)
      *エペソ2:20を行伝28:25と比較

十 この項は、まず九項との関連から考えなければならない。これは、聖書解釈の原理に関するものである。すなわち、ここで言う「宗教論争」は、九項の「聖句の真の完全な意味について疑問のある場合」と同じように、教理上の異論についても考えられる。そして、その判定の権威を個人の哲学や教会の決議や教皇や伝説などの人間的なものに置くことに反対して、どこまでも聖書自身に基づくと言う主張であり、九項は「もっと明らかに語る他の箇所」からの推論を、十項は「聖書全体の統一的教理との調和」を主張したものである。
 同時に、十項は第一章の結論として、聖書の権威は聖書の真の著者である聖書自身の上にのみ依拠すること。従って、聖書の意味の判定者は、この聖霊ご自身の外にないこと。聖霊は信仰を通して信者の良心に明らかにされることなどを主張する。
 従って、この良心の自由を拘束するものは、ありえないこと。偉大な教権、伝統と言えども、個人の良心に語る聖書を通しての聖霊の声を黙らせることは出来ない、と言う聖書解釈における。個人的自由が告白され、ローマ・カトリック教会の教える、教会教理の無謬性と、それへの信者の無批判的盲従とを排斥するのが、この項の中心的な意味ではないかと思われる。
       ・・・・・・・・・・・・

この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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  解説 ウエストミンスター信仰告白 (3)
               
                    岡田  稔著
 
第一章  聖書について・・・3
 
6 神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない(1)。それにもかかわらず、わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯(きゅうじょう)的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要であること(2)、また神礼拝と教会統治に関しては、常に守られなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があること、を認める(3)。

  1 Ⅱテモテ3:15-17、ガラテヤ1:8,9、Ⅱテサロニケ2:2
  2 ヨハネ6:45、Ⅰコリント2:9-12
  3 Ⅰコリント11:13,14、Ⅰコリント14:26,40



 
六 ここでは、まず聖書における啓示の客観的な完結性が告白されており、聖霊による新啓示(神秘主義)と人の伝説(ローマ・カトリック教会)による追加や補足のあり得ないことが主張されている。
 この点、一項の終わりの「神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている」と対応する。聖書こそ神が罪人に与えられる、信仰と生活の完結した規範であって、聖書の外に聖書を補う教えは、現在も将来も与えられる必要がないということを断言している。しかし、この聖書における啓示の完結ということ(聖書の十分性)は、次の二つの意味で但し書きを必要とする。
 1 聖書の内に啓示されている事柄のうち、救いに必要な認識を得るためには、聖霊の内的啓明が必要であること。つまり聖霊の導き無しには自然的理性をもってしては、聖書の啓示の有効な理解は得られないということ。
 2 神礼拝や教会の政治のような、人間に共通な形で現われる問題に関しては、本性の光と信仰者としての常識から推理判断すべき点が存在すること。聖書を信仰と生活の無謬の規準として使用する際、一方では聖霊の内的啓明(これは結局信仰ということになる)が必要であり、同時に、原則と内的事柄は直接聖書の言葉から教えられるが、具体的な適用には賢明な知恵を働かさなければならない、ということである。
7 聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様に明らかでもない(1)。しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの個所で非常に明らかに提出され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる(2)。

  1 Ⅱペテロ3:16
  2 詩119:105,130 



七 ここは聖書の明白性の主張である。聖書は学者が専有する書物ではなく、無学な人にも読んでわかる書物である。理解に苦しむ箇所もあるが、他の何処かに必ずとく鍵となる明白な箇所があるから、教理上、また行為上知らなければならないほどのことは、誰でも信仰と常識、祈りと教会出席と聖書を読むこと、牧師や信友との交際、思索と研究と体験とで、(別に無理な要求を言っているのではなく、「普通の手段の適当な使用で」の意味)十分わかるのである。
 「改革派教会の教えは難しい。わたしのような無学なものにはとてもわからない」と言う声を聞くけれども、はたして本当にそうなのだろうか、決してそうではないはずである。 カルヴァンは、信仰とは神の恩恵のたしかな知識だと定義した。そして、ローマ・カトリック教会のように、信仰を盲目の服従と考える誤りを鋭く批判した。それは、何も一般信者に神学上の専門的知識を要求するという意味ではない。
 ローマ・カトリック教会が「聖書は平信徒にはとても理解し得ない奥義を書いた本だから、宗教家がこれを研究して教えてやろう。お前たちは自分で読んでもわからないから、教えられることを信用せよ」と言うのに対して、改革派教会は誰でも罪人は信仰をもって熱心に読み、教会生活の中でこれを学んでいけば十分にわかる、と主張している。聖書は信者が自分の本として毎日読んでこそ、神の啓示の書なのである。教会とは信徒の群れであって教職階級だけでは成り立たない。
 
8 (昔の神の民の国語であった)ヘブル語の旧約聖書と、(しるされた当時、最も一般的に諸国民に知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは、神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である(1)。それで、すべての宗教論争において、教会は最終的にはこれらに訴えるべきである(2)。しかしこれらの原語は、聖書に近付く権利と興味をもち、神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているすべての神の民(3)に知られてはいないから、聖書は、神のみ言葉がすべての者に豊かに内住して、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し(4)、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために(5)、聖書が接するあらゆる国民の言語に翻訳されなければならない(6)。

  1 マタイ5:18
  2 イザヤ8:20、行伝15:15、ヨハネ5:39,46
  3 ヨハネ5:39
  4 コロサイ3:16
  5 ロマ15:4
  6 Ⅰコリント14:6,9,11,12,24,27,28



八 ここでは、原典の権威と訳本の有効性とを主張している。厳格に言うと原本こそ霊感を受けた唯一の聖書であるが、実際にはそれは一冊も現存していない。新約聖書についても、現在の最古のものは325年頃のものとみられている手写し本であって、写し違いがかなりある。しかし、学者たちは数千の写本の比較研究の結果、今日、大体千分の八位までに疑問の句を減少させている。教義の論争や註訳上の問題を確定するには、どうしてもこのような厳正な校正を経た原典によらなければならない。けれども実際上は、信仰と生活の規準として慰めと導きを得るためには現行のもので十分間にあう。
 しかし、聖書の真理は、ある民族やある時代に特有な事柄ではなく、神の罪人へのメッセージであるから、いつの時代、どの国民にも共通な真理を基礎としており、翻訳によって原典の力が歪曲されたり、弱化される危険はほとんどない。厳正な意味で原典のもが霊感された無謬の聖書であるが、どの国語訳を通しても内的証明が働いておられることを主張している(しかし今日は原典の忠実な翻訳とは言えない、意訳が存在することを認めねばならない。
 
 
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (2)
               
                    岡田  稔著

第一章  聖書について・・・2

3 普通に経外典と呼ばれる書は、神の霊感によるものではないから、聖書の正経典の一部ではない。従って神の教会内では何の権威もなく、ほかの人間的な文書と違ったどのような仕方ででも是認されたり使用されてはならない(1)。

  1 ルカ24:27,44、ロマ3:2、Ⅱペテロ1:21

三 聖書の権威と効用が前項のように、不離密接である以上、聖書以外の文書の使用に関して十分な注意が必要である。ローマ・カトリック教会は経外典を聖書の中に含めており、英国聖公会は旧約外典を「続旧約聖書」と呼んで準聖書的に重視することは、一般に知られている。それから近代の学者たちは、二世紀の教父文書と聖書中の文書との歴史的価値を十分に区別せず、場合によっては同じように評価して原始キリスト教史を構想するのが常である。
 また、自由主義神学の立場に立つ牧師はアウグスチヌスなどの信仰文献を聖書と大差な
く利用しており、講壇での朗読や説教の引用などにも異教文書やゲーテなど非キリスト教
文学までもが採用されている場合も稀ではない。
 古代教会の公の集会での朗読が、厳密に正典書に限定されていたことは、ユウセビウス
の教会史などに、はっきりと記載されている。神の教会は、神のみ言葉に導かれ、養われ
る団体である以上、人の言葉と神の言葉とは、はっきり区別しなければならない。

4 聖書がそのために信じられ服従されねばならないところの聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれられなければならない(1)。

  1 Ⅱペテロ1:19,21、Ⅱテモテ3:16、Ⅰヨハネ5:9、Ⅰテサロニケ2:13

P6160447.jpg四 聖書が、信仰と生活の規準である、と告白することは、聖書は信ずべき、また、服従
すべきものであると告白することである。この両面(信仰と生活)に及ぶ聖書の神性にかかわる働き(すなわち、聖書の効用)は、それが神の霊感によって与えられたと言う聖書の権威に基いている事柄である。
 本項は、この権威をわたしたちが認容する手段についての告白である。一つの命題を真
なりと承服する場合、わたしたちは理性や経験によってこれを自ら判定する。しかし、聖
書の権威と言うような大問題になると、人間であるわたしたちには不可能である。
 このような場合、わたしたちより信用できる他の人間の証言に依存しようとする。ロー
マ・カトリック教会は、この常識論をもって聖書の権威を基礎づける。すなわち、わたし
たちよりも、より聖書時代に近く生存した古代人の証言や、よりキリスト教の真理に精通
した専門家の証言に信頼するようにと言うのである。
 これは相対的には間違ってはいない。しかし、絶対的な基礎とはなりえない。最初に聖
書を受け取った人々の証言と言えども、それが神の言葉・霊感による文書であるとの確信
をどのようにして得たかと言うことになれば、その本人の理性とか経験による判定というだけでは不十分である。結局、聖書の権威はその真の出所である神以外に依拠できない神
の言葉ということだけが、聖書の権威の拠り所なのである。

5 わたしたちは教会の証言によって、聖書に対する高く敬けんな評価へ動かされ、導かれることもあろう(1)。また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳、あらゆる部分の一致、(神にすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行なっている十分な発表、その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある。しかしそれにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざから出るものである(2)。

  1 Ⅰテモテ3:15。
  2 Ⅰヨハネ2:20,27、ヨハネ16:13,14、Ⅰコリント2:10-12、イザヤ59:21。

五 この項は、聖書がどうして神の言葉であるとの確信が与えられるか、という点の告白
である。まず教会の証言、すなわち、外的証明と聖書自身の持つ証拠、内的証明である。
しかし、この二つは豊富な証明でありながら、根本的な弱点がある。
 このことは第一項の自然啓示論とよく似ている。聖書が神の言葉であって、人間の言葉
ではないと言う証拠は、歴史からも聖書自身からも言い逃れられないほどに十分に存在す
るが、わたしたちの罪に汚れた知性や心情には、この二重の証拠も十分に有効ではない。
そこで、この障害を突破する道は、ただ神の特別な直接的・超自然的なみ業に待つ外ない。これが、聖霊の内的証明と呼ばれるものである。ここで注意したいことは、この聖霊の内的な働きと聖書自身との関係である。それがどんなに不離不即なものであるかを強調するために「み言葉により、またみ言葉と共に・・・」と表現されているのである。
 もう一つ注意したいことは、「聖書の無謬と神的権威」と言われていることである。聖書
が神の言葉であるということは、漠然とした感情ではなく、明白な無謬的真理だという確信であり、聖書の権威はこうした聖書の無謬性を根底に持つ主張なのである。無謬だからこそ権威があるのである。聖書がみ言葉を通してわたしたちに証しすることは、この無謬性に基づく権威性そのものである。このことによって、聖書が単に啓示の記録だけにとどまらず、現在与えられている唯一の啓示そのものなのである。
 ここでは明瞭に、アナバプテスト的な神秘主義、すなわち、み言葉を離れて聖霊が語る
という教説と、ルター派的なみ言葉以外に聖霊の活動を否定する考えに対して、改革派教
会の「み言葉と聖霊の共働」の教えが告白されている。
  **********

この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
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スーザン・ハント
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発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
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本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
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おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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