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さんびか物語・・・15・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・14
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌163番
あまつみつかいよ
<神様のみ言葉>
「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実。』と呼ばれる方であり、・・・、その頭には多くの王冠があって、・・・、血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』とよばれた」。・・・。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた」。
=ヨハネの黙示録19章11~13節、16節=
1世紀の終わり頃、使徒ヨハネが信仰のために、パトモス島に島流しになった時、主イエス・キリストが、神のみ使いを遣わして、すぐに起こるはずのことを黙示をもって僕ヨハネにお告げになったと、ヨハネの黙示録1章1節に記されています。
作詞者エドワード・ペロネットは、このヨハネの黙示録を通してお現われになった‘王の王、主の主’を讃美歌163番‘あまつみつかいよ’を中心的な柱にして歌っております。同時に、主イエス・キリストの主権についても歌い上げておりまして、優れた歌を書いたその才能を、神様に讃美したいと思います。英語の讃美歌でこれほどよく知られ、評判の高いものはないそうです。
エドワード・ペロネットはイギリスのケントで生まれ(1726~1792)ました。祖父はフランスからの新教の亡命者であり、父のビンセントはスイスからイギリスに移って、50年間ショウハームの国教会の聖職として勤めました。
父のビンセントは有名なウエスレー兄弟を支援したのですが、国教会からは脱退しませんでした。しかし、息子のエドワードの方は、お父さんよりも一層メソジスト運動に賛同して、若い頃はジョン・ウエスレーと共に伝道したりしていたと言われております。しかし、その後、いろいろな問題に関連して意見が合わなくなったために、別々になってしまいました。
その後、ペロネットは教派から教派へと移って、最後には、カンタベリーにあった非国教会のある教派の牧師として、その生涯を終わっています。ペロネットがカンタベリーに移って間もなく、ウイリアム・シュラブソールという非常に才能のある青年と仲のいい友人となりました。
シュラブソール(1760・1~1806・1)は、かじ屋の息子としてカンタベリーで生まれました。小さい時から音楽が好きで、カンタベリーの有名な大聖堂の聖歌隊員として7年間、歌っていました。同時にそこでオルガンをも学びました。
シュラブソールの20歳の時に、この163番の曲MILES LANE
(彼がオルガニストとして勤めていた教会の名前)がThe Gosepel Magazinという雑誌の11月号に発表されましたが、作曲家名が記されていませんでした。その同じ11月号の同誌に、エドワード・ペロネットの‘イエスのみ名の力を仰げよ’(163番の英語の表題)の一部だけが無名で初めて発表されました。
曲MILES LANEは、ペロネットの依頼によってシュラブソールが作ったと言われていましたが、最近、この節を疑問視した意見が出ましたが、やはり、従来から言われております通り、依頼によるものと思われます。ともあれ、この二人の素晴らしい才能と深い信仰の結びあわせによって、このような貴重な作品が出来上がったのは世界中のクリスチャンにとりまして、大きな惠みと言えましょう。
翌1780年版のCollection of Psalm Tunesにおいて、初めてシュラブソールの名前がMILES LANEの作曲者として記されました。更に、ペロネットは1785年に完成された‘イエスのみ名の力を’を彼のOccasional Versesという機関紙に発表しました。これは、今日では世界中の大変めずらしく貴重な本として知られていて、今では二冊しか残っていないそうです。
シュラブソールは22歳でバンガの大聖堂でオルガニストとして選ばれましたが、非国教会と関係を持ったことを理由に辞めさせられました。それで彼は、ロンドンへ移り音楽の教師となり、非国教会のスパフィルドチャペルのオルガニストとなって、亡くなる1806年1月18日まで終生勤めました。
<163>
1 あまつみつかいよ イエスの御名の
ちからをあおぎて
君の君、主の主とほめよ。
2 いのちをささげし あかしびとよ
ダビデの御裔(みすえ)を
君の君、主の主とほめよ。
3 世のつみびとらよ イエスの愛と
なやみをおもいて
君の君、主の主とほめよ。
4 よろずのくにびと みまえに伏し
みいつをあおぎて
君の君、主の主とほめよ。
5 とわに世をしらす イエス君にぞ
かむりをささげて
君の君、主の主をほめよ。
素晴らしい讃美歌163番の言葉を読み、また歌うにいたしましても、深く感じられるのは、その3行目の‘君の君、主の主’というクライマックスであります。この日本語訳は最も聖書的であり、英文の原作の‘すべてのものの王として王冠をさずけよう!’よりも、本当に優れたものであると思います。
また、この言葉とシュラブソールの曲を合わせて歌います時、讃美歌としての無上の喜びと幸いを味わい知ることができると思います。
1節では、作詞者はみ使いたちに向って歌っているようです。‘あまつみつかいよ、イエスのみ名のちからをあおぎて、主とあがめよ’と奨めるのであります。この奨めを頂いて、私たちも‘イエスのみ名によってのみ、祈りを捧げる資格が与えられていることを決して忘れはありません。また、すべてを造り、すべてを治め給うのは三位一体の神であられることを覚えて、そのみ名の力を仰ぎましょう。
2節では、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」(黙示6:9)、つまり、‘いのちをささげしあかしびと’に向かって、‘ダビデの御子であったイエス・キリストを主とあがめよ’と歌っています。
ここで思い起こさせますのがイザヤ書の有名な11章1節であります。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若芽が出て実を結ぶ」。また、しゅろの木の枝をとって出迎えのために出て来て「ホサナ、祝福あれ。主の御名によって来られる方に」(マタイ21:9)とイスラエルの王に叫んだ群衆の声であります。私たちは、このように主をお迎えできているでしょうか。
3節では、私たち一人一人に向かっての呼びかけです。‘世のつみびとらよ’と歌っているからです。私たちはみな、このグループの一員です。みな罪人なのです。主イエス・キリストの贖いの十字架の死がなければ、誰一人の例外もなく滅びなければならない者です。ですから、イエスの愛と悩みを忘れてはなりません。
4節と5節では、世のすべての人々に呼びかけて、よろずの国々の人々が主イエス・キリストは唯一の主権者であり、絶対的な王であり、主のみ名とみ前にひれ伏して、その栄光と尊厳とを仰がなければなりません。また、永遠に世をご支配し治め給うイエス・キリストに‘君の君、主の主’としての冠を捧げてほめたたえなければならないと歌っています。
この作者の呼びかけは、神様ご自身が遠い旧約聖書の時代から語っておられることであります。イザヤ書45章23~24節であります。
「わたしは自分にかけて誓った。わたしたちの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主だけ、正義と力がある。』と言う」。
ヨハネの黙示録11章15節にありますように「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」キリストが再びこの世に来たり給うて悪魔を滅ぼし、すべてを、新たにするその日を預言しているのでありましょう。
どうぞ、私たちもその日のために希望をもって、正しく、また、雄々しくキリストの僕としての証しの歩みをいたしましょう。
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この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語・・・14・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・13
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌150番B
あくまのしばし ほこりし勝利(かち)は
<神様のみ言葉>
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、・・・キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子にあらわれたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。・・・」
=コリント人への手紙第1、15章3~6節=
讃美歌150番は、復活節を祝うために歌われている多くの讃美歌の中でも、本当に素晴らしいものの一つと言えます。
原作者ミヒャエル・ヴァイセ(1480頃~1542)は、すぐれた才能を持っていた宗教改革時代の讃美歌作詞者の一人でした。ヴァイセは1480年頃サイレジヤ(昔はドイツ、今はポーランド領の西南にある地方)に生まれました。その後、成長してローマ教会の司祭となり、しばらくサイレジャのプレスラウの修道院に修道僧としての生活を続けていました。
しかし、神様の不思議な摂理によって、ルーテルの初期の著作がヴァイセの手に入り、その結果、彼は信仰の目をさまされて霊的に生まれかわらせたのでした。それで同修道院のもう二人の司祭と共に、ヴァイセはボヘミヤ(チェコスロバキヤの西の地方)のボヘミヤ兄弟団のもとに亡命しました。そこで彼はドイツ語を用いる同教団の創立者並びに説教者となって有力な働きをしたそうです。
また1522年に彼は同兄弟団を代表して、ウイッテンベルグにいたルーテルのもとに行って、兄弟団の立場や教理を説明し改革の成功を祈り、お互いの教団の交わりを深めたのであります。
彼は兄弟団の讃美歌の編集者として任命されて、ボヘミヤ語の歌をドイツ語に訳したり、自ら創作した歌を1531年までに155ほどの讃美歌を含めた本を発表しました。それらはみな彼の翻訳のものか彼の創作のものでした。
この150番もその時に発表されましたが、これは古いポヘミヤの讃美歌にもとづいて作ったものだそうです。この素晴らしい復活節の歌は彼の代表作として広く認められていますが、創作後、450年もたった今日、私たちは昔の聖徒たちと同じようにこの讃美歌を通してイースターの喜びを味わい声高らかにハレルヤ!と歌うことが出来ますのは非常な喜びといえます。
讃美歌150番Bの曲ESSEXは、イギリス人トマス・クラーク(1775~1859)の作品であります。クラークはウェスレー派並びにユニテリアン派の教会で音楽の指揮者をしておりましたが、あまり知られた音楽家ではなかったようです。彼はいくつかの讃美歌を作曲したようですが、今日では広く用いられていないようです。
ESSEXという曲は、日本の教会では明治版の讃美歌以来広く親しまれているイースターの曲の一つのようです。ともあれ、この讃美歌の歌詞と曲は実によく組み合わされているばかりでなく、各節を結ぶクライマックスの‘ハレルヤ’は何とも素晴らしいの一語に尽きます。
おもしろいことは、この讃美歌の日本語訳では‘ハレルヤ’(神=エホバ=を讃美せよ!)という言葉がどの節でも一度だけ使われていますが、原作のドイツ語や英訳では3回から4回使われていることです。しかしながら、この実に味わいある日本語訳での‘ハレルヤ’は実に力のある用い方がされていて数の上では1回ではありましても、おろそかにしているのではなくクライマックスにふさわしい言葉の用い方として歌われているように私には思えてなりません。
ここで日本語訳と英訳とを比較しながら、それぞれの特徴を味わってみたいと思います。
<150>
1 あくまのしばし ほこりし勝利(かち)は
今しももろく ついえけるかたな。
ハレルヤ
英訳の1節は‘主イエス・キリストは三日の牢屋から(またの訳は‘あらゆる鎖を破り給うて’よみがえり給うた!聞け。天の使いたちは天で喜びつつ、絶えず‘ハレルヤ’と叫んでいます。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!
2 かがやきのぼる あさ日のごとく
陰府(よみ)にうちかち 主は活きたもう
ハレルヤ
英訳の2節は、‘私たちのためにいのちをささげ、戦いをたたかい尽した主は、いま私たちの過ぎ越しの子羊となり給いました。私たちも喜びつつ‘ハレルヤ’と歌いましょう。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!
3 めぐみとさかえ みいつにみてる
イエスの御顔ぞ げにうるわしき
ハレルヤ
英訳の3節は‘十字架であわれまれず、あらゆる苦しみとあらゆる損を耐えしのばれた方(主イエス)は、いま天においてご栄光を受けつつ私たちのとりなし主となり給うて、私たちの叫びに耳を傾けておられる。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!
4 ひとやのなかに つながれおりし
アダムの子らは 解きはなたてぬ
ハレルヤ
5 世界のたみよ あまつつかいに
こえをあわせて よろこびうたえ
ハレルヤ
英訳の4節は‘墓の中でねむり給うた方は、私たちを救うために、いま高く上げられております。いま世界中で響いているのは神の子羊は王の王であられる、という歌であります。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!
この讃美歌が歌われている中心点を少しくみなさんとご一緒に考えてみたいと思います。
その1 主イエス・キリストは神の子羊として、私たちひとりひとりを救うためにこの世に降り給うたということです。「十字架上で私たちの身代わりとなって、罪人が受くべき罰をお受けになり、贖って下さったことを歌い上げています。
その2 主は悪魔にまた死に打ち勝ち給うたということです。使徒の働き2章23~24節には「神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方(イエス・キリスト)を、あなたがたは不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」と記されている通りであります。
実に‘主は活き給う’です。昔の弟子たちがよみがえられた主を見た時に喜んだように、私たちも同じように・・・、いや、それ以上に喜ぶはずです。なぜなら、死に定められている私たちは、信仰によって「キリストとともに死にキリストとともに生きることになる」からであります(ローマ6:8)。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と語られた、よみがえりの主を信じていますなら、心からハレルヤ!と歌わずにはおれません。
最後の点は、この何よりもかえがたい恵みと喜びを持っている私たちは、これをまだ救われていない多くの人々にわかち与えなければならないという、偉大なそして光栄な責任があるということであります。
‘世界の民はあまつ使いに声をあわせて、ハレルヤ!と喜び歌う’ためには、まず最も大切なことを知らなければなりません。それは、‘キリストは私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、三日目によみがえられたこと、500人以上の兄弟たちに現われたこと’(Ⅰコリント15:3~6)であります。この事実を信じて、聖書に立って主イエス・キリストのおよみがえりの喜びをともに味わいましょう。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまでも、あなたがたとともにいます」。~マタイの福音書28章19~節~
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この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語・・・13・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・12
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌138番
ああ主は誰がため 世にくだりて
<神様のみ言葉>
「まことに、彼(キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやさ れた。 =イザヤ書53章~5節=
この讃美歌は、受難週に歌われるものの一つであります。主イエス・キリストの苦難と十字架での苦しみの目的が誰のためであったかを、明確に、しかも美しく歌っていますのが、この讃美歌138番の‘ああ主は誰がため世にくだりて’であります。
この讃美歌が発表された1707年です、からもうすでに270年近くもの年月がたちました。しかし、今も多くの教会で歌われ、多くの人々をキリストへの道に導くにふさわしい素晴らしい讃美歌であります。
この讃美歌の歌詞によって、回心された多くの人々のうちの一人に、有名な盲人作者フアニー・クロスビー(ヴァン・アルスタイン)がおります。彼女はまだ信仰のない時に、ニューヨークのある教会の礼拝に出席し、この讃美歌を聞いた時、‘急に心が天よりの光で満たされた’とその時の感激を言っています。その後、彼女は自分の全てをキリストにゆだね、その救いの素晴らしい光にみたされて多くの信仰に輝く讃美歌を書き続けました。493番・495番・529番などがそれであります。
讃美歌138番の作詞者アイザック・ウオッツは1674年7月17日サウザンプトンに生まれました。彼の両親はプライベート・スクールを経営し、幼い子供たちを養育し非常に信仰深い夫婦でした。
父のエノク・ウオッツは英国国教会の反対者であったため、数回にわたって投獄されています。アイザックは8歳の時から詩才に恵まれていたのでしょうか、詩を書き始めました。高等学校時代には、ギリシャ語、ラテン語、ヘブル語などに優秀な成績であったと言われています。
彼の才能を知ってサウザンプトンのある医師は、名高いオックスフォードかケンブリッジ大学で勉学できるようにと奨学金の援助を申し出、受けるように奨めましたが、それを辞退しました。辞退の理由は、当時の両大学の入学資格の一つに、国教会の信者でなければならないと条件があったからです。
彼は非国教会の私立ストック・ニューイングストンにあった大学へと進み、卒業後の2年間、自分の家に帰って、600ほどの素晴らしい讃美歌を書いています。
それを集めて、1707年‘Hymns and Spiritual Songs’と題して出版しました。この讃美歌集は、イギリスの創作讃美歌集最初のものであるばかりでなく、内容においても、旧来の詩編歌の形を破って自由で新しくユニークなものでした。
当時の讃美歌は、詩編の言葉そのままを用いていましたが、彼は詩編の本来の意味をそこなうことなく、詩編の生命的な意味を十分に生かしたところに、彼はオリジナリテーがありました。彼は1712年にメーク・レイン教会と言う大きな教会の副牧師として迎えられ、10年間教会に全精力を注ぎました。
しかし、以前より虚弱であった彼は、マーク・レイン教会の会員であった、アブニー郷が彼を別荘に招いたのが縁になって、その家の終生の客となり(36年間)、1748年に天に召されました。36年もの長い間、彼の世話をしたアブニーご夫妻は、ウオッツの信仰に深い尊敬と愛をもっていたのでしょう。
彼の影響は、イギリスの教会は言うに及ばず、アメリカでも深いものがあります。ともあれアイザック・ウオッツは「イギリス讃美歌の父」と仰がれた偉大な人物であります。
讃美歌の曲BELLERMAはフランス人のフランソワ・H・バルテレモン
(1741~1808)によるものです。フランソアはアイルランドで教育を受け、英国へ行ってバイオリンニスト及びオペラの指揮者として活躍しました。彼は作曲家として多くのオペラやバイオリン・ソナタを書きましたが、教会音楽の作品はわずかでした。この讃美歌のメロデーは、古いスペイン民謡から取材されたもので、彼の唯一の讃美歌と言われています。1954年版の曲はロバート・シンプソンの編曲になるものであります。
<138>
1 ああ主は誰がため 世にくだりて、
かくまでなやみを うけたまえる。
1節では、イエス・キリストが、私たちひとりひとりの罪を取り除くために、受肉なさって、この世にくだりたもうたことを歌っています。
ヨハネの福音書1章14節には「主イエス・キリストが人となって、私たちの間に住まわれた」と記されています。また、同じ3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とも記されています。神様は、私たち罪人に対して、こうようなまでに深いあわれみと愛とをもってかえりみて下さるとは、なんと素晴らしいことでしょう。
2 わがため十字架に なやみたもう、
こよなきみめぐみ はかりがたし。
2節では、預言者イザヤがイザヤ書53章4~5節で、主イエス・キリストの十字架での悩みと苦しみを言い表しています。イザヤ書には「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と記されています。
主イエス・キリストは、誰のために死にたもうたのでしょう。そうです!私のためであり、あなたのために十字架上で死にたもうたのです。全人類は、神様のみ前に罪を犯した罪人です。そうして罪の支払う報酬は死罪です。この死罪の宣告を受けている私たちの、否、全人類の身代わりの贖いとして、その身に刑罰を負って下さったのであります。誰がこの贖いの恵みを軽んじるでしょう。私たちは、ただ素直にこの救いの恵みを感謝をもって頂きましょう。
3 とがなき神の子 とがを負えば
てる日もかくれて やみとなりぬ。
3節では、罪なき神の子キリストが、私たちの罪のために十字架につけられた時のことを歌っています。
ルカの福音書23章44節にはその時「全地が暗くなって、3時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕が真二つに裂けた」。太陽はなぜ真昼に3時間もの間、光を失ったのでしょうか。これは決して自然の日蝕ではなく、全能なる神様の不思議なみ業であったに違いありません。
私たちがこのみ業を通して学ばなければならない大切なことは、人間の罪の深さと神様の愛の広さであります。即ち、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する御自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)という事実であります。
4 十字架のみもとに こころせまり、
なみだにむせびて ただひれふす。
4節では、イエス・キリストが十字架におかかりになった時、周りにいた人々の様子を歌っています。
「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしった。同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちもあざけりました。イエスといっしょに、十字架につけられた強盗どもも、同じようにののしった」(マタイ27:35~44)のです。しかし、「イエス様の見張りをしていた百人隊長は地震やいろいろな出来事を見て、非常な恐れを感じて「この方はまことに神の子であった」と言いました」(マタイ27:54)。
また、遠くから涙にむせびつつ見つめていた、イエスを信じ、つかえていたところの女たちもいました。あなたはイエス様をののしるグループですか。それともイエス様の救いの恵みを信じるグループの方ですか。
5 なみだもめぐみに むくいがたし
この身をささぐる ほかはあらじ。
5節では、この讃美歌の主題が、素晴らしいクライマックスとして‘この身をささぐる、ほかはあらじ’という言葉の中に示されています。ファニー・クロスビーもこの言葉を耳にすると同時に、自分の傲慢とわがままを捨てて、イエス様の十字架のみもとにひれ伏し、イエス様を自分の救い主として受け入れたのであります。
私たちが神様の愛に応答する道は、ただこの身をささげ、神様のみもとにひれ伏し、讃美の歌声をもってほめたたえる道以外にどこにもありません。そのためにこそ、神様の本当の愛をあなたご自身味わい知ることが大切であります。
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この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語・・・12・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・11
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌121番 馬槽(まぶね)になかに
<神様のみ言葉>
「イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たまま外へ出られると、ピラトは彼らに言った、『見よ、この人だ』」。
~ヨハネによる福音書19章5節~
主イエス・キリストのこの世での人生をつぶさに、また、その神性を美しく歌っている讃美歌の一つであります。
この‘馬槽のなかに’の讃美歌は由木康の一番有名な作品と言えましょう。彼については、讃美歌282番をご参考になさっていただけますなら幸いです。
この作品が作られたことについてですが、彼が近代神学の影響をうけ(1923)、イエスの神性について思い悩んでいた時、イエスの神性がイエス・キリストのこの世におられた人性のうちに包まれていること、また、それを通して輝き出ていることを示され、一つの確信に至った時の心境を自由詩に表現し、「この人を見よ」と題して彼の個人雑誌「泉」に発表したのであります。
讃美歌121番の曲MABUNEの作者は、1891年5月18日に
また、15年間の留学を終えて帰国し1927年から明治学院音楽主任教授になりました。戦後の1948年から、キリスト教音楽校講師になり、現在もご活躍とのことです。彼の作品にはオラトリ‘ヨブ’があります。1954年版の讃美歌におさめられているMABUNEは、彼が由木康の‘馬槽のなかに’のために1930年に作曲したメロデーでありまして、それは、昭和6年版(1931)に収録されたもので、この讃美歌集に取り入れられた日本人の作曲した旋律の中で、最も歌われている曲の一つであるそうです。この讃美歌は和声独特のものとして、今日に至るまで日本で非常に愛唱されている讃美歌であります。
讃美歌121番の中心的テーマは‘この人を見よ’という言葉にあると思います。わずか4節の中で作詞者は5回もこの短い、しかも人目を引くようにという願いをもって私たちに知らせようとしています。では、なぜ‘この人’を見なければならないのでしょうか。由木康はこの作品の中で、このような基本的・根本的な質問に対して、わかりやすく、しかも適切に答えを与えるばかりでなく、すべての人が知らなければならない事実をもここでわかりやすく、美しく歌っています。
<121>
1 馬槽のなかに うぶごえあげ
木工の家に ひととなりて
貧しきうれい 生くるなやみ
つぶさにまめし この人を見よ。
1節では、主イエス・キリストのこの世での貧しい人性―言い換えますと―キリストの低い状態―について歌っています。神であられる主が、‘馬槽のなかに’人の子として産声をあげられたのです。
ルカの福音書2章7節には、「宿屋には彼らのいる場所がなかったので、母のマリヤはその初子を布でくるんで、飼葉おけに寝かせた」、とその様子を記しています。また、‘木工の家に ひととなりて’というのは、キリストの少年時代、ナザレの貧しい大工の家の子としての生活を歌っています 。
主イエス・キリストは「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります」と言った律法学者に対して、ご自分について「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と答えられました(マタイ8:19~20)。
事実、貧しさ、うれい、疲れ、悩みをもみな味わい給うたお方であられます。イザヤ書53章3~4節には「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病いを知っていた。・・・彼は私たちの病いを負い、私たちの痛みをになった」と記されています。
この私たちの一切の重荷をになって下さった主イエス・キリストなる‘この人’を見ずして何を見よ!と言うのでしょうか。私たちの罪をにない救わんがための主イエス・キリストの恵みと愛に対して、自分の罪のため、という事実に誰一人知らぬ顔をしていることは出来ません。
2 食するひまも うちわすれて
しいたげられし ひとをたずね
友なきものの 友となりて
こころくだきし この人を見よ。
2節では、キリストの忙しい伝道中に起こった、いろいろの出来事について歌っています。たとえば、イエス様が山に登られ、12弟子を任命されてから家に戻られると、また大勢の人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかったことが、マルコの福音書3章20節に記されています。また、一般のユダヤ人から軽蔑されていた取税人マタイやザアカイの家をお訪ねになり、そこで共に食事をなさった例もございました(19:1~10)。
このように、人々から嫌われている者や聖書の中に多く記されている病み人や罪と悲惨の中にある人々に対して、本当に‘友なきものの友となり’いつくしみ深き友なるイエス様として、自からの心をくだきご心配くださる‘この人を見よ’であります。
パリサイ派の律法学者たちは、イエス様が罪人や取税人たちと一緒に食事をしておられるのを見て、弟子たちに「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」とつぶやきました(マルコ2:16)。このつぶやきに対してイエス様は「・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」とお答えになりました(2:17)。
この救い主なるイエス様こそ、「この人」を見よ、であります。
3 すべてのものを あたえしすえ
死のほかなにも むくいられで
十字架のうえに あげられつつ
敵をゆるしし この人を見よ。
4 この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ。
3節で歌っていますことはる、主イエス・キリストの苦しい贖いの十字架の死についてであります。十字架にはりつけにされた主は、人々に愛といつくしみをもって人を導きたまいました。しかし、そのむくいは、何であったでしょうか。人々からの感謝でしょうか。そうではなく、人々のそむきとそしりとつばきでした。このような忘恩な者、かたくなな者に対し、また、実際に十字架につけた者に対して、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と叫ばれました(ルカ23:34)。
この主イエス・キリストの愛と赦しは、どんなにか大きく深く素晴らしいことでしょう。この‘敵をゆるすこよなき愛’は主イエス・キリストを外にしては見ることが出来ません。本当に‘この人’を見よ、であります。
4節では、‘この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛はあらわれている’と歌っています。そうして、再び‘この人を見よ’と繰り返して言っています。どうしてでしょうか。それは、人を赦し、すべての重荷を負うて下さる方、この人は、実に活ける神であられるからにほかなりません。人の目には見えない神様を主イエス・キリストの人々になさった、み業を見ることによって、人ではあっても神様であり、神様であっても人なるキリストを見ることが出来るからです。
‘この人こそ、人となりたる、活ける神なれ’との歌声は、この讃美歌のもっとも美しく力強い讃美の歌声であるとともに、主イエス・キリストの神性が、比類なき栄光をもって照り輝いています。
「この方は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちは、この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵み
とまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)。
この聖句こそ、受肉のキリストなるイエス様を示し、神ご自身であられることを示しています。私たちは、この神であり人であられるキリストのみもとに帰り、キリストが神ご自身であることを信じ、その贖いを受け入れて、生きてはたらき給う永遠の神様と共に日を送りましょう。
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この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語・・・11・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・10
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌119番
羊はねむれり
<神様のみ言葉>
「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」。
~ルカの福音書2章8~9節~
この讃美歌は主イエス・キリストの降誕を歌ったもので、1954年版の讃美歌にはイエス・キリストのご降誕を祝う歌が、24曲ほどあります。その内のあるものは、非常に古いものもありまして、94番の‘久しく待ちにし’の歌詞は12世紀のラテン語の讃美歌から訳されたものであります。面白いことに、このクリスマスの讃美歌の中で一番新しい二つの曲はどちらも日本の作曲家鳥居忠五郎によって書かれたものです。
1941年に作曲された119番の曲KORINもその一つです。このKORINは、日本人の手になる讃美歌の中で最高のものといえましょう。この曲は、フランスの古いキャロルに似た素朴な美しさの中にも、非常に個性的な曲であり、いかにも日本人の作品らしいものと言えます。
讃美歌119番の作曲者・鳥居忠五郎は、1898年2月4日に北海道の伊達紋別で生まれました。1921年に明治学院神学部を卒業し、1925年にさらに東京音楽学校の声楽科を卒業しました。同時に、彼は霊南坂教会聖歌隊の指揮者でもありました。
また、東京学芸大学の前身である東京府立青山師範学校時代から長い間、声楽主任教授を務めました。現在は、聖徳学園短期大学教授、キリスト教音楽学校理事、明治学院評議委員、教団子供さんびか委員などの要職にあって活躍されています。
この曲は、三輪源造の‘羊はねむれり’というキリストご降誕の歌詞に対して1941年に作曲されて、「青年讃美歌」に発表されたものです。
讃美歌119番の作詞者三輪源造は、1871年に新潟県に生まれ、同志社神学校を卒業し、その後、松山女学校の教師を経て、同志社女子専門学校の教授となり、晩年までその職にとどまりました。彼は国文学に造詣ふかく、明治版や昭和6年版の讃美歌の編集の委員、または顧問として力を尽くしています。また、この讃美歌集のために、幾つかの創作の歌を寄贈したそうです。
‘羊はねむれり’は、明治版「讃美歌」第2編、1915年に発表され、その後、「青年讃美歌」に1941年に納められました。彼は1946年に、この世を去ったのですが、私たちは、毎年クリスマスになりますと、この宝石のように輝く讃美歌を歌うことができますのは、神様が彼にお与えくださった才能と、神様のお恵みとを忘れることは出来ません。
<119>
1 羊はねむれり 草の床に、
冴えゆく冬の夜 霜も見えつ。
はるかにひびくは 風か、水か、
いなとよ みつかい うたうみうた。
2 まひるにおとらぬ くしきひかり、
み空のかなたに てりかがやく。
すくいをもたらす 神の御子の
うまれしよろこび 告ぐる星か。
3 「あめにはみさかえ 神にあれや、
つちにはおだやか 人にあれ」と、
むかしのしらべを 今にかえし、
うたえや、友らよ こえもたかく。
歌詞をお読みになってお分かりのように、この歌詞の場面は、ユダヤのベツレヘムの村の郊外にある牧場です。そこで羊飼いたちは野宿で、夜番をしながら、羊の群れを見守っていました。冴えたつめたい冬の夜でした。狼やほかの獣から羊を守らなければならない羊飼いたちは眠れませんが、羊はなんの心配もないかのように、草の床に眠っています。
なんと平和で穏やかな場面でしょうか!これを一つのたとえのようにお考え下さい。神様ご自身は、私たちの羊飼いです(詩編23:1)。また詩編95編7節には「主は、私たちの神、私たちは牧場の民、その御手の羊である」と記されています。しかし、私たちはみな、私たちの牧者である神様からさまよい出て各々自分勝手な道に向かって歩む愚かな羊であります(イザヤ53:6)。
そのために、不信仰と不安に陥り、いつも思い煩う不幸な日々を送っている者であります。このような私たちをいつも見守っておられるのは神様です。私たちの真の牧者は、決してまどろむことも、眠ることもありません(詩編121:4)。ですから、まことの牧者のみもとに立ち返ろうではありませんか!立ち返ることによってのみ、私たちははるかに響くみ使いたちの歌うメッセージを知ることができます。
ベツレヘムの郊外の牧場で、羊の群を見守っていた羊飼いたちに主のみ使いが現われ、「主の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」と9節にあります。作者が2節で歌っていますように、そのくすしき光は、真昼のようにみ空のかなたで光り輝いていました。み使いが現われると、その光のあまりのまぶしさのために、羊飼いたちは非常に恐れました。
そこでみ使いは彼らに「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためにすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と知らせて下さいました。主イエス・キリストのご降誕は、この世の罪を取り除き、暗い世に光り輝くまことの入場であります。
また、この誕生の日は、彼を信じる全ての者にとりまして、罪よりの救いをもたらす、唯一の喜びの日でもあります。
作者が歌っていますように、「みすくいをもたらす、神の御子の生まれしよろこび」の日なのです。
2節の終わりの「星」は東の方から博士たちをベツレヘムまで導いた、あの不思議な輝かしい「星」を意味しているでしょう。ともかく、博士たちが幼な子イエス・キリストのみ前に、素晴らしい捧げ物を捧げましたが、あなたは何をもってみ子の誕生のプレゼントにいたしますか。
私たちが捧げなければならない「捧げ物」は、主の主、王の王であられるみ子のみ前に心からひれ伏し、礼拝することであります。
3節では、天の軍勢が現われ、神を讃美して歌った場面を歌い上げています。
「あめにはみ栄えが神にあるように。土にはおだやか、平和が御心にかなう人々にあるように」。
この讃美の調べを、今こそ、私たちも声高らかに歌いたいものです。主にある人々も、そうでない人も、共にクリスマスの本当の意義を知ってください。神様が私たちのために与えたもうたみ子、また、み子が与えようとしていらっしゃる救いの恵みを心から信じ、受け入れ、共にこの讃美の歌声を神様のみ前に捧げますようお勧めいたします。
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この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語・・・10・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・9
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌109番
きよしこの夜
<神様のみ言葉>
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました』」。
=マタイの福音書2章1~2節=
新教と旧教にはいろいろな点で大きな相違がありますが、一つの非常に目立っ点は、讃美歌の用い方であります。たとえば、新教信徒は、神様を崇め、ほめたたえるために、当然のように礼拝でいつも多くの讃美歌を歌っています。声をあわせて神に栄光をきすのは礼拝の大切な部分であり、要点と思っているからであります。
これに反して、カトリック教会では14世紀間にわたって、つい最近に至るまでミサでは絶対に讃美歌は許されませんでした。ローマ教会の会衆はただ決められたラテン語の言葉を繰り返すだけで、プロテスタント教会の会衆のように礼拝に参加するだけでなく、傍観者(オブザーバー)的でした。しかし彼らの内にも自分たちの歌をもって心から神様を讃美しようとする作詞者や作曲者が、わずかですが生まれてきました。特に、音楽好きなドイツやオーストリアでは、泉が湧き出るように自然に讃美歌が湧いてきました。こうして、いくつかのカトリック讃美歌も現れてきたのであります。
幸いにして、1954年版の讃美歌には、それらの中でも一番有名な作品が二つ含まれています。その一つは1677年に作詞された166番の‘イエス君はいとうるわし’であり、いま一つは、世界中で一番よく知られ、歌われているクリスマス・キャロル‘Stille Nacht,Heilige Nacht’(静けき夜、聖き夜)、109番の ‘きよしこの夜’であります。
この最も有名なクリスマス・キャロルの原作者ヨーゼフ・モールは1792年12月11日にオーストリアのザルツブルグに生まれました。ヨーゼフは成人して1815年にローマ教会の聖職となり、ザルツブルグ付近のいくつかの教会を歴任しました。ちょうど、このキャロルを作詞した頃、モールはザルツブルグの北にあるオーベルンドルフという小さな村の聖ニコラス教会の副牧師として勤めていました。
さて、この109番が作られた時の様子ですが、1818年のクリスマス・イブでした。次の日の礼拝で使うはずのオルガンの急な故障にモールは途方にくれてしまいました。友人たちの家でのクリスマスパーテーの帰りに、モールは村の近くの丘に登って、美しく輝く夜空の星を眺め、麓に眠っているように見える平和で穏やかな村の景色をのぞみながら、乱れる心を静めようとしていました。ちょうどその時に浮かんできだのが、この‘Stille Nacht’の原作でした。モールは急いで家に帰りクリスマスの朝の4時頃までにこの歌詞を書き上げたそうです。そうして、同じ日の朝早く、友人のフランツ・グル―バーのところに持って行って、彼に曲を書くように頼みました。
作曲者グル―バーは、当時、隣りの村のアールンスドルフの小学校の先生であり、聖ニコラス教会のオルガニストとして奉仕していたからであります。彼はモールの依頼を引き受けて、間もなくSTILLE NACHTという曲をモールのところに持ってきました。そして、その夜のクリスマス礼拝でモールはテナー、グル―バーはバスとギターの伴奏の二重唱で世界で初めて紹介されました。当時、もしテープレコーダーがありましたなら、素晴らしい録音ができたと思いますが、残念ですね!しかし、今も私たちは歌うことが出来ますから感謝いたしましょう。
ともあれ、このキャロルはその後、多くの人々に歌われましたが、1840年にツィルラータールのカルテットによって、ヨーロッパからアメリカまでの演奏旅行で発表され世界的になりました。
歌を90曲以上も作曲したグル―バー(1787~1863)は、織物業者の息子としてオーストリアで生まれました。彼は18歳の頃からオルガンを学び、いろいろな教会のオルガニストとして奉仕しました。彼は小学校の教師でありまして、1833年以降オーベルンドルフの小学校の校長になりました。曲STILLE NACHTはグル―バーの一番よく知られている曲であります。
<109>
1 きよしこのよる 星はひかり
すくいのみ子は まぶねの中に
ねむりたもう いとやすく。
この讃美歌を原作のままドイツ語で歌うことができますなら、どんなに素晴しいことでしょう。英語訳や日本語訳では味わえない喜びがあると思います。
1節で中心になっていますのは、ベツレヘムの馬小屋の飼葉おけに眠っておられる救いのみ子であります。この赤ん坊―神のみ子―は、なぜまぶねの中に寝かされていなければならなかったのでしょう?
記者ルカは「・・・宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカ2:7)と言っています。「定めの時が来て、神はご自分の御子をこの世にお遣わしになり、女から生まれさせ」(ガラテヤ4:4)、「ご自分の国に、また、ご自分の民にお送りになったにもかかわらず、その民はイエス・キリストを始めから受け入れなかった」(ヨハネ1:11)のであります。
では神様は、なぜみ子をこのような無頓着で邪悪なこの世にお送りになったのでしようか?それは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)からであります。「世が救われるためである」(17)と、その理由が述べられています。
「救い」とは、十字架をさしています。私たち罪人がかかるべき十字架を、主イエス・キリスト(救い主)は、あなたと私のために身代わりとして、贖いの死をとげられましたが、その救いの恵みを指し示しています。あなたにとって、この救いのみ子を心に受け入れるか否かは、緊急な問題です。
1節にある‘星’は、もちろん東方の博士たちをベツレヘムへと導いた、あの素晴らしい星を意味しているでしょう。彼らが、遠くからその星に従ってやって来た理由は、王を拝み、また、ふさわしい贈り物を王に捧げるためでありました。ですから、クリスマスは王の王の誕生日なのです。あなたは、王の王に何を差し上げますか?主イエス・キリストがご要求なさっておられるものが一つあります。それは、あなたご自身です。ただそれだけです!
2 きよしこのよる み告げうけし
まきびとたちは み子の御前に
ぬかずきぬ かしこみて。
2節で中心になっていることは、天使からのみ告げを受けた羊飼いたちの、驚きと喜び、そして、み子のみ前での場面までを歌い上げています。 ルカの福音書2章15節~18節と20節には次のように記されています。「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう』。そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。・・・羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、讃美しながら帰って行った」。
私たちはこの羊飼いたちの行為を学ばなければなりません。神様のお招きのみ声に従わねばなりません。教会の中にまで足を運んで、神様を崇める者の姿を見てください。み言葉をお聞ききください。聖書を手にして読んでみてください。そしてそれが本当であり、まことであると信じ受け入れますなら、あなたの友人、肉親、周りの人に、このいのちのおとずれを告げ知らせてください。これこそがクリスマスであります。
3 きよしこのよる み子の笑みに、
めぐみのみ代の あしたのひかり
かがやけり ほほがらかに。
3節ですが、原作の方が意味がはっきりしています。ここで作詞者が中心にしていますことは、主イエス・キリストのご降誕によって、救いと恵みの時代がスタートしたことを歌っています。ですから、救い主のご誕生と言うことは、人類の歴史にとって大変なことなのです。罪人なる私たち、滅びゆく者にとりまして主イエス・キリストがお生まれになられたということは、本当に恵みと救いの時代を迎えた希望と、たしかさが与えられたということです。
しかし、問題は、あなたがそれを信じるかどうか、白紙になって神様が提供してくださる恵み、救いを受け入れるかどうか、というところにあります。‘あしたのひかり’を本当に見たいとお望みなら、今日、今、キリストの救いの恵みをいただいてください。
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」。
~コリント人への手紙第二、6章2節~
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さんびか物語 (9)
(広く愛唱されている50曲)・・・8
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌85番
主の真理は
<神様のみ言葉>
「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、めぐみとまことに富んでおられます」。
~詩篇86編15節~
日本語の最初の讃美歌は1872年、横浜で開かれた第一回宣教師会の時に、宣教師ジェームス・バラの紹介した二つの翻訳の歌であると言われています。
その一つは、ジョーナサン・ゴルベ先生の「よい国ありますたいそう遠方に」(490番のあまつみくには)と、いま一つはミス・クロスビー訳の「耶蘇我を愛す左様聖書申す」(461番の主われを愛す)でした。
この宣教師たちの直訳は、日本語的ではありませんが、その宣教師たちの持っていた深い信仰と伝道に対する熱心と勇気は素晴らしいものと言えるでしょう。日本語学校はもちろんのこと辞典も先生もいなかった当時、よくも難しい日本語を話し、翻訳したものと、私の経験からも感心させられます。
ともあれ、この最初の二つの讃美歌が日本語の讃美歌のスタートとなって、1874年には8種の歌集が、それから10年の間に多数の小歌集が出版されました。歌詞もそのたび毎にととのい歌数も次第に多くなってまいりまし(一致・組合派)、「基督教讃美歌」(バプテスト派)、「聖公会讃美歌」(聖公会)、などの諸讃美歌集の基礎となりました。さらに1903年には、初めて各派共通の讃美歌が出版されてから、これがまた1954年版讃美歌の基礎になりました。
讃美歌85番 「主の真理は」の素晴らしい歌詞の作詞者は不明ですが、この歌は1890年に「新撰讃美歌」から1090年の明治版「讃美歌」に編入された歌であると言われています。
この讃美歌では、神様とはどのようなお方であり、また、神様は私たちに対するはかり知れない慈しみを力強く歌っています。ただ残念に思いますのは「新撰讃美歌」の作詞者が1954年版の場合、不明になっていることで、何とかして知りたいと思います。
曲のLEONIはイギリスのウエスレー派の教師トーマス・オリバース(1725~1799)の作品で、オリバースがある日、ロンドンのユダヤ教大礼拝堂を訪ねたところ、そこで美しいヘブル語のクリードを聞きました。これは、YIDGALと言われているもので、13節もあるユダヤ教の頌栄のようなもので、今でもユダヤ教の礼拝で歌われているものだそうです。
オリバースはそのクリードを聞いて非常に感動して、是非その楽譜を手に入れたいとその独唱していたユダヤ人レオニ(英名マイアー・ライアン)に頼みました。それはオリバースはこの美しい曲をキリスト教讃美歌にも取り入れたいと思ったからでした
その結果、YIDGALの編曲として‘The God of Abraham Praise’という歌詞を作りました。これは1781年にウエスレー派の讃美歌Sacred Harmonyに採用されてから、広く、そして多くの人々に愛唱されるようになりました。この曲名は独唱者レオニの名前に因んでつけたものです。
<85>
1 主の真理は 荒磯の岩
さかまく波にも などか動かん。
2 主のめぐみは 浜のまさご
その数いかでか 計りうべき。
3 うつりゆく世 さだめなき身
ただ主に頼りて 安きをぞえん。
4 つもれるつみ ふかきけがれ
ただ主に仰ぎて 救いをぞえん。
父なる神はどのようなお方でしょうか。神様が雲の中にあって降りてこられ、モーセの前を通り過ぎる時、ご自分について宣言されたお言葉をまずお考えください。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者・・・」(出エジプト34:6~7)と言われました。
そうです。憐れみと情け深い神であり怒るのにおそく、恵みとまことに富み給う神様であられます。
1節では、主のまことを中心にして歌っています。主のまことは荒磯(ありそ)の岩のように、逆巻く波にも決して動くことのない、たしかな、しっかりした、不動の岩のようであると、その不変性を岩にたとえています。
詩人ダビデは「私のたましいは、黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決してゆるがされない」(詩編62:1~2)と歌いましたように、私たちも決してゆるがされないように、まことの岩なる主を、わがやぐらといたしましょう。
2節では、主の恵みについて歌っています。その恵みの数々は、浜辺の真砂のように限りなく、数えることも計ることも出来ないほどに豊かであります。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたの全ての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる」(詩編103:2~5)とダビデは神様の恵みに対して、感謝の歌を捧げています。
私たちも、神様の多くの恵みに対して感謝の心を持たなければなりません。特に主イエス・キリストの贖いによって、私たちのすべての咎が赦されているのは、どんなに大きな惠みでありましょう。これ以上の恵みがイエス様を外にしてどこにありましょう。
このように讃美歌85番の前半は、まことのみ神、恵みの神、とこしえの神について歌われてきましたが、後半では、前半とは対照的な移り行くこの世、定めなき身、とらえて放さない罪と汚れ、はかない人生について歌っています。光から暗闇に移された望なき思いは、神様から離れている人間の真に姿でありますが、このような暗きに迷う者、罪、咎、けがれ、人生の困難や悲しみ、これらの問題も、実は正しい解決が与えられていると作者はっきりと示しています。
その正しい解決とは何でしょうか。それは‘ただ主に頼ること’‘ただ主を仰ぐこと’であります。主に頼る人は必ず安らぎを得ることが出来ます。主イエス・キリストは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしはあなたがたを休ませてあげます。・・・。わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:28~29)とお約束して下さいました。
また、‘主を仰ぎ見なさい’は自分の罪を認識して、それを悔いて、改めて、主からの赦しを乞い願う者には、その信仰の故に救いが得られます。
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。・・・。と万軍の主は仰せられる」(イザヤ45:22、45:13)。
(おりかえし)
くすしきかな あまつみ神
げに尊きかな とこしえの主。
=「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語 (8)
(広く愛唱されている50曲)・・・7
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌79番
ほめたたえよ、つくり主を
<神様のみ言葉>
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」。
~詩篇107編1節~
この讃美歌79番は父なる神、大能の神を歌っているもので、ここで素晴らしい感謝の歌を考えてまいりましょう。この讃美歌は、米国では感謝祭の礼拝でかならず歌われるものの一つです。この讃美歌にみられる深い感謝の心は、感謝祭の時ばかりではなく常に持ち続けなければなりません。
讃美歌79番の曲の方は、非常に古いもので、16世紀の中頃のスペイン、ホルトガル、オランダにはいろいろな愛国の歌が広く歌われていました。その時の有名な音楽家の一人が、アードアヌス・バァレリウスと言う人でした。
バァレリウスは、その愛国の歌を一つの聖歌集に納めて、1626年、彼の死後間もなく、ハーレム(Haarlem)で発表されました。彼の発表した聖歌集の中で、特に有名なものが、“われら主なる神に祈りまつる”という感謝の聖歌でした。
この歌のメロデーが讃美歌79番の曲の原旋律であり、そのもと歌は、古い民謡の旋律でした。このようなわけで、私たちの讃美歌には、“古いオランダの旋律”と記されているのであります。
残念なことに、この歌集が発表されて後、200年もの間この聖歌集は忘れ去られていたのですが、幸いにもウイーンに住んでいた音楽家エドワード・クレームザーによって発見され、1877年に男性合唱曲としてドイツに紹介されました。クレームザーの編曲によってドイツで普及し、更に他の国々に広まりました。讃美歌79番の曲名は、この歌を初めてドイツに紹介したクレームザーの名前KREMSERと呼ばれるようになりました。
79番の歌詞の方は、あまり古いものではありません。原作者ジュリア・B・ケディ・コリーは1882年ニューヨークの有名は建築家の娘として生まれました。ミス・ケディはニューヨークのブリック長老教会の教会員でした。後に彼女は、ロバート・H・コリーと結婚してから、イングルウッドに転居しました。1904年コリー夫人は、ブリック長老教会のオルガニストをしていた、J・アチャーギブソンから依頼されて、新しい歌詞をクレームザーの曲に合わせて、この素晴らしい讃美歌を作りました。
彼女自身の話によりますと、この讃美歌の言葉は16世紀末、オランダが解放された時に歌われた勝利の歌とは、全く別の言葉を用いて、新しいオリジナルな詩であるということです。ここでコリー夫人がお書きになった、素晴らしい言葉を共に学びましょう。
<79>
1 ほめたたえよ、つくりぬしを、
きよきみまえにひれふし、
ささげまつれ、身をも魂をも、
たくいなき御名をあがめて。
1節で、私たちにすすめていますことは、造り主なる神様をほめたたえることであります。“ほめたたえよ、造り主を、きよき御前にひれふし”とあります。私たち人間は、今日、何を神として崇めているでしょうか?偶像の神々でなないでしょうか。持ち物ではないでしょうか。
私たちひとりひとりを造られた主、よろずの物を造られた主をほめたたえるのは当たり前のことではなでしょうか。しかし、事実多くの人々は、神様をほめたたえるのではなく、己をほめたたえています。神のきよきみ前にひれ伏すどころか、欲の奴隷になり、富にひれ伏しています。しかし、私たちの神様の類いなきみ名を崇め、身も魂をも捧げ全き服従に生きる時、まことの平安と喜びを知ることが出来るのであります。
2 くすしきかな、かみのちから、
あらぶる波をしずめて、
あやうきより御民を守り、
この世のなやみに勝たしむ。
2節では、神様のくすしきみ力を歌っています。そのみ力は、荒ぶる波を静めることがお出来になり、私たちをあやうきより守って、この世の悩みに勝たしむみ力であると記しています。
詩編107編の作者ダビデも‘主があらしを静めると、波はやんだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。’(107:29~30)と歌っています。あなたも、主のくすしきみ力をご自分のものとなさいませんか。あなたを、その望む港へ導かれる主を、お求めになりませんか。
3 めぐみの神、さかえの主を
もろごえあげてたたえよ。
つよき手もてみちびきたもう
主にのみみさかえつきざれ。
3節で作詞者の讃美は、素晴らしいクライマックスに達します。‘もろごえあげて恵みの神、栄えの主をたたえよ’と歌っています。詩編の作者も‘主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。’と歌っています(2、8)。また「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた」と6~7節に記されています。
神様が‘強き手もて導きたもう’まっすぐな道は、永遠のいのちへの道であります。私たちの住むべき永遠の町、天国に行き着くまで導きたもうのは、生けるまことの神様であられます。あなたもこの強きみ手に依り頼み、この世の荒海から守られて、住むべき永遠の町に着くまで、まっすぐに進んで下さい。
=「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語 (7)
(広く愛唱されている50曲)・・・6
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌66番
聖なる、聖なる、聖なるかな
<神様のみ言葉>
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。その叫ぶ声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた」。
=イザヤ書6章3~4節=
‘聖なる、聖な、聖なるかな’の讃美歌は世界に比べるものなき地位を占める、礼拝の歌と言われているものです。多分この讃美歌が歌われない教会は、世界のどこにもないと思われるほど有名であり、多くの人々に歌われているものでございます。
原作者レジナルド・ヒーバーは1783年4月21日、イギリスのマルパスで裕福な牧師の家庭に生まれました。彼は小さい時から詩才をあらわし、17歳の若さでオックスフォード大学に入学いました。彼はそこで、二つのすぐれた詩を書き、賞を得ました。そうしてイギリス中で詩人として知られるようになりました。
ヒーバーは1807年にホドネットという辺ぴな村の教会の牧師に任命されました。この教会は以前、お父さんの教会でありまして、そういう関係で16年間この教会で意義深い、しかも楽しい牧会の時を過ごしました。
ヒーバーはホドネット在任中に讃美歌を57曲作詞しましたが、この57曲がみな今日に至るまで歌われているのは、彼の作品のすぐれた証拠と言えましょう。彼が讃美歌を書き始めたきっかけとなったのは、当時の教会内の讃美歌集の不足でした。また自分の教会の信者がもっと元気を出して歌えるように、ヒーバー自身が新しい讃美歌を次から次へと教会カレンダーに合わせて作詞しました。
この讃美歌66番は、当時教会カレンダーで指定されている‘三位一体の日’のために書かれたものです。しかし、今日では、あらゆる朝の礼拝に用いられています。ヒーバーは若い時から、インドに興味を持っていました。1819年に作詞した‘北のはてなるこおりの山’(214番)の原作には、インドやセイロンなどの国名まで出ています。この讃美歌は最も有名な外国伝道の讃美歌と言われています。
1822年(ヒーバー40歳の時)、彼はようやくインドのカルカッタの司教に任命され、3年間なれない猛暑と闘いつつ職務に励みましたが、残念なことにその仕事の重荷があまりにも重かったのか、彼の健康は衰え1826年4月3日ヒーバーは43歳の若さで心臓麻痺で急死しました。
ヒーバーはウオッツ、ウエスレー、モンゴメリー、ボナーと共にイギリスの5大讃美歌作者と言われています。或る人は、彼の讃美歌の優美さや文学的な美しさを称賛されるかもしれませんが、私が一番素晴らしいと思いましたのは、彼の伝道に対する熱心さであります。讃美歌214番はそのよい実例の一つと言えますのでご参考になさって下さい。
<214>
4 大君イエスよ み代をしらす
時のくるまで いよよ励み
救いのひかり たかくかかげ
あまねく照らせ 四方の国に。
ヒーバーの讃美歌集は死の翌年(1827)未亡人アミリアによって発表され一般に普及しました。
讃美歌66番の曲NICAEAは、ジョン・B・ダイクスの作曲ですが、ヒーバーの威厳のある歌詞に対して少しも劣るところのない素晴らしい曲といえます。この曲はダイクスの他の作品と一緒に1861年に‘Hymns Ancient and Modern’という讃美歌集に初めて発表されたものです。
ニケヤというのはトルコにあった大昔の町であって、紀元325年にこの町でキリスト教会の大切な会議があり、‘三位一体の神’という教理がキリスト教の根本的な教理として決められました。
ウエストミンスター小教理問答書において「三位一体の神について」、問5と問6は次のように教えています。
問5 唯一の神のほかに神々があるか。
答 唯一の神がいますだけで、それは生けるまことの神である。
問6 神にはいくつの人格があるか。
答 神には、三つの人格がある。それは父と子と聖霊であって、この三つは一つの神で、本体は同一であり、力と栄光は同等である。
このような神観に立つ三位一体の神を中心に歌っています。この讃美歌を作曲したダイクスは、わざわざNICAEAという曲名をつけたのです。ジョン・B・ダイクス(1823~1876)はイギリス人で、祖父を牧師に、父を銀行家にもって生まれました。ダイクスはケンブリッジの聖キャサリン大学を卒業後、牧者となり、主にダラム市でその生涯を過ごしました。
ダイクスは、音楽に対しては天才的才能を持っていたのでしょう。わずか10歳のころから教会のオルガニストとして活躍しています。
大学時代には、音楽クラブの優れたリーダーとして、その才能を生かしています。1861年(彼38歳)には、ダラム大学から、音楽博士の学位を受けています。翌62年には、ダラム市の聖オズワルド教会の「教区牧師」に任命され、53歳で亡くなるまで牧会を続けました。その間に、礼拝学に関する論文や、説教集や、また300曲にのぼる讃美歌を作曲しています。
また、英国讃美歌史上の歴史的事業である‘Hymns Ancient and Modern’の編集にも重要な役割を果たしています。
彼の特色は、保守的な英国讃美歌の伝統を破って、当時の通俗的歌曲に基づいた新しい形の讃美歌を書いた点にあります。彼の曲が英国的でありながら、民謡的色彩をもち、しかも大衆的な性格を持っていたということです。讃美歌が、一般大衆の心にとけこむことは、礼拝用讃美歌として、特に大切でありますが、彼の讃美歌には、貴族的な気品と大衆性を持っていたこということは特筆されることでしょう。
日本の1964年版の讃美歌には、ダイクスの作曲されたものが18曲ほどあります。それらは、とても美しいものであり、多くの人々に愛唱されています。
<66>
1 聖なる、聖なる 聖なるかな、
三つにいまして 一つなる
神の御名をば あさまだき
おきいでてこそ ほめまつらん
2 聖なる、聖なる 聖なるかな、
神のみまえに 聖徒らも
かむりをすてて ふしおがみ
みつかいたちも み名をほむ。
3 聖なる、聖なる 聖なるかな、
罪ある目には 見えねども
みいつくしみの 満ちたれる
神のさかえぞ たぐいなき。
4 聖なる、聖なる 聖なるかな、
み手のわざなる ものみなは
三つにしまし 一つなる
神の大御名 ほめ奉らん。
この讃美歌の素晴らしい原作は、余りにも優れたものであるために、他の国語に翻訳するのは非常にむずかしいことと思います。言葉の独特な美しさと訳文では中々味わい知ることは出来ません。
1節ですが、原作では作詞者は小教理問答書の問4に言われていますように(問4 神はどのような方であるか。 答 神は、その存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊である)、神様を聖なる神、また三位一体の聖き神であられると歌うと共に、神様を主なる神、全能者、あわれみ深い神、偉大な神と歌っています。
つまり神様とはどのようなお方であるかを、この1節で美しい言葉をつらねてヒーバーは歌っています。私たちも朝な夕なにこの聖なる神様に賛美の歌声を捧げるのは当然となりたいものですし、そうあるべきです。
2節では、場面は天国に移されています。使徒ヨハネが黙示録によって見聞きしたことが歌われています。即ち、「たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、…また、御座の周りに24の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった24人の長老たちがすわっていた。…。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。…。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方』」。また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、24人の長老は御座に着いている方の御前にひれふして永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出した」(ヨハネの黙示録4:2~10)。
このようなヨハネの黙示録の言葉を背景にして、讃美歌の2節をお味わいください。神様のみ前に冠を捨てて伏し拝んだ聖徒たちは、水晶に似たガラスの海の回りで金の冠を投げ出して、み座についている方の前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝んだ24人の長老たちを意味しています。また、原作にありますように、このお方は昔いまし、常にいまし、のちに来られる唯一のまことの神様であると歌っています。つまり、再臨のキリストへの待望と讃美の歌と言えます。
3節では、私たちが神様のたぐいなきみ栄えを見ることの出来ない理由は、罪のために私たちの目が暗くなっているからです、と歌っています。また唯一の神様のみがそのみ力にも、愛にも、聖にも、清さにも、いつくしみにも完全であることを歌っています。
4節では、作者は今一度神様を聖なる神、主なる神、全能なる神、いつくしみ深い神、三位一体の神と言って讃美を捧げると共に神様のみ手の業になるもの-地にあるもの、天にあるもの、海にあるもの-すべて造られたものが神の大御名をほめまつるようにと歌っています。私たちも心から讃美の歌を主に捧げましょう。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なるみ名をほめたたえよ。」=詩編103篇1節=
=「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語 (6)
(広く愛唱されている50曲)・・・5
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌62番
主イエスのみいつと みめぐみとを
<神様のみ言葉>
「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います」。
=詩篇9編1節、2節=
この讃美歌は礼拝の時に歌われるもので、讃美歌62番の作詞者チャールス・ウェスレー(1707~1788)は、英国教会聖職者サムエル・ウェスレーと妻のスザンナの18番目の子供としてエブウォスで生まれました。チャールスは8歳の時、兄サムエルが教えていたロンドンのウエストミンスター・スクールに入学し、そこからオックスフォード大学へ進みました。卒業後兄のジョンとともに、伝道のためにアメリカに渡りました。しかし、事志しと反して、再び、イギリスに帰ってきました。
1738年、ジョンと一緒にモラヴィア派の集会で回心を経験いたしました。それ以来、この二人の兄弟はイギリスの信仰復興のために、各地で信仰運動を熱心に続けました。ジョンの方は、国教会から分離してメソジスト派の有力なリーダーになりましたが、チャールスは母教会にとどまり、特に社会から見捨てられていた哀れな人々に向かって、熱心に神の愛とキリストの救いを宣べ伝えたのであります。
また、開拓伝道を行い、多くの人々に福音を伝えた彼は、説教者としても兄に劣らなかったそうです。
しかし、彼の本来の才能は詩人として素晴らしい花を咲かせました。彼が回心の結果、真の信仰に目覚めてから、彼の心には泉のように詩が湧いてきて、毎週数編の讃美歌を作り、一生の間に作った数は、6,500以上と言われています。
彼はメソジスト運動の代表的歌人であるばかりでなく、英語讃美歌作者の中での王とも言われ、この運動の成長、発展に大いに役立つところがありました。
1954年版の讃美歌には、彼の作品が14曲ほど収められています。その中かでも一番有名なものとしては273番の“わがたましいを愛するイエスよ”であります。その讃美歌は世界中の国々の言葉で歌われている、あつき信仰に満ちた素晴らしい歌です。
62番の讃美歌も、彼の5本の指に数えられるものの一つで、この歌は、彼の回心1年を記念して、1739年に作られたもので、初めのもは19節から成っていましたが、今日では原作の7節から12節だけが歌われています。英語の初めの行“O for a thousand tongues to sing my great Redeemer’s praise”(千言万語を費やしても、神への讃美を言い尽くせない)は、ウェスレー兄弟を回心に導いたモラヴィア派の伝道者ペーター・ベーラーの表現にもとずいていると言われています
讃美歌AZMONの原作者カール・G・グレーザー(1780)はドイツのラィプッィヒの聖トマス学校で法律を学んでいましたが卒業後、ブレメンで楽器店を経営しながらピアノ、バイオリン、声楽などを教え、合唱団を指揮し、合唱曲や独唱曲の作曲などをしていました。
編曲者ロウエル・メイスン(1839)は、独学で音楽を学び、20歳までにあらゆる楽器の奏法を習得しました。20歳の時ジョージヤ州のサヴァナ市に行って、銀行員になりましたが、夜は音楽の勉強を続け合唱団を指揮し音楽を教えていました。
1822年、彼はボストンに移り当時の人々に好評を得た聖歌集を出版しています。その後、G・J・ウェブと共に、ボストン音楽学校を設立し、「アメリカ讃美歌の父」「アメリカの音楽教育の父」と称せられるほどの著名な人物になりました。
彼は、特にヨーロッパの讃美歌を多く編曲し、アメリカの人々に親しまれる作品へと生まれ変えさせました。
AZMONもその一つで、原曲はグレーザーのどの曲であったかは不明ですが、1839年にメイスンの出版した讃美歌集で、この曲が初めて編曲され発表されました。
<62>
1 主イエスのみいつと みめぐみとを
ことばのかぎりに たたえまほし。
2 とうときわが主よ たかき御名を
ひろむるこの身を たすけたまえ
3 うれいをなぐさめ おそれを去る
み名をばつみびと 聞くうれしさ。
4 くらきのちからを イエスはくだき
血をもてあがない すくいたもう。
5 死にたるこころも 活きかえらせ
のぞみをあたうる み名をたたえん。
1節では、神様を讃美する言葉ではじまり讃美する言葉で終わっています。讃美歌は神様を讃美するために書かれたものですから当然といえますが、その言葉の一つ一つに神様の聖名と救いのみ業と私たちに対する愛とが歌われ、信仰の喜びと感謝の心が表現されていなければ、讃美の歌とはなりません。“主イエスのみいつとみ恵みとを、言葉の限りに”たたえなければならない、と作者は教えます。
私たちも、いつも信仰の喜びに満たされて、心から讃美の歌声をもって、主をほめたたえたいと思います。
2節では、伝道者の唯一の責任を中心にして歌っています。私たちクリスチャンには、イエス様がマタイの福音書28章19節以下に示されていますように「あらゆる国の人々に」尊き主イエス・キリストのみ名と福音を宣べ伝えなければならないという、偉大なそして大切な役割があります。
それは、「この方(主イエス・キリスト)以外にはだれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と記されているからです。
この尊い責任を十分にはたし得るためにも、私たちは、主イエス・キリストのもとに助けを求めることを2節で教えています。
3節から5節では、うれいの中にある人、恐れをいだいている人、罪に打ちひしがれている人、暗闇の中にとじ込められている人、望みを失っている人、死に直面している人々に向かって、主イエス・キリストのみが与えてくださる慰めとみ力、十字架の尊い血しおによって獲得なさったみ救いを、その人その人の必要に答えて、豊かにお与えくださることを力強くあかしされています。
そうして、再びキリスト(救い主)であられる神様のみもとに立ち返ることをすすめています。時代が変わり、歴史が移りましても、この尊い福音のメッセージは永遠に変わることはありません。
イエス様が、バプテスマのヨハネの弟子にお語りになられたみ言葉を、今一度、ここでお読み下さい。
「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、耳の聞こえない人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(ルカ7:22~23)。
皆さまも、このキリストのお与え下さる幸いを味わい知るために、自分のものにするために、自分の罪を神様のみ前に告白し、悔い改めて、十字架のもとへ行かなければなりません。
どうぞ、自分のこの世の肉の人間的なプライドを捨てて、主イエス・キリストにつまずくことなく、キリストに立ち返ってください!
=「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、
「つのぶえ社」までご注文ください=
さんびか物語 (5)
(広く愛唱されている50曲)・・・4
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌56番 七日の旅路
<神様のみ言葉>
「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」。
=詩篇118編24節=
主の日の礼拝にふさわしい讃美歌56番“七日の旅路”の作詞者は、イギリス人のジョン・ニュートンであります。彼は1725年7月24日に船員を父とし、信仰深い婦人を母としてロンドンに生まれました。悲しいことに、彼は7歳の時によき導き手であった母を亡くし、その後ほとんど自力で歩まなければならなくなりました。
11歳の時に(先生や友だちにきらわれ、いじめられたために)学校をやめ、父とともに海に出て5回ほど、地中海を航海しました。そうして、自分の信仰の弱さのために、悪の仲間に入り、不道徳な書物の影響によって信仰を捨て、すっかり放蕩な生活に陥り堕落のどん底にまで落ちてしまいました。
ある時には奴隷売買人の下で死ぬほどの苦役にあったりいたしましたが、父の友人であった、ある船長に助けられ、1748年船長の船に乗せられ、ようやくその境遇から救い出されイギリスへ向かうことが出来ました。
ところが、この航海のある晩、船は暴風に書き込まれ、浸水して殆ど沈没するところでした。ニュートンは他の船員と一緒に朝の3時から昼頃まで、ポンプで水をかき出し、やっとのことで助かったのです。泳ぐことの出来ない彼にとってこの恐ろしい経験は、彼を悔い改めに導き、そして回心しました。しかし、まだまだ信仰には立ち返らず、それから6年間、奴隷船の船長をしていました。
しかし、神様の不思議なみ摂理によりまして、その最後の航海で素晴らしい信仰を持っていたクリスチャンの船長が彼の友人となり、キリストを自分の救い主として受け入れる信仰にまでニュートンを導いたのであります。
その結果、ニュートンは、古き人を捨てて、幼い時に母親によって教え導かれた神様のみもとに立ち戻ったのです。1754年にリバプールに上陸すると、当時の有力な伝道者であったホイットフイルドやウェスレーの指導を受け、へブル語やギリシャ語などを学び、牧会に入るために苦労したのであります。そうして10年後の1764年に、ケンブリッジの近くにあったオルニという小さな村の国教会の牧師に任命され、そこで彼は新しい仕事に力を注いだのでした。
彼のオルニでの16年間の牧会は、本当に優れたものでした。彼は定例の礼拝を守るだけでなく、木曜日に子供会を行なったり、大人のための夜の集まりを多く持ちました。この集まりでは、聖書研究の他に集まった大勢の人々に讃美歌をも教えました。当時、イギリスでは讃美歌はまだほとんどなかったために、ニュートン自身それを書くようになりました。
また、近所に住んでいた友人のウイリアム・カウパーにも書かせたりしました。このようにして出来上がったものを、1779年、この二人の作者は有名な“Olney Hymns”という讃美歌集を出版しました。
この讃美歌は、当時のイギリスに讃美歌によるリバイバルを起こすきっかけとなったそうです。ジョン・ニュートンの作品は56番のほかに1954年版の讃美歌には6つ含まれています。その中でも、一番有名なのが194番の“さかえにみちたる”であります。この讃美歌は、特に当時のリバイバル運動に、公の集会だけでなく個人の霊的成長に力を現し、彼の最高傑作と認められているそうです(194番、287番、325番、351番、401番、409番を参考にしてください)。
1789年、彼はロンドンに代わり、82歳で亡くなるまでの長い間、熱心に牧会を続けました。老齢のために視力が衰える時まで講壇に立ち、説教を続けました。彼の柔和と熱意と寛容は市民の多くに大きな感化を与えたそうです。神様のみ力によって180度の変化を経験したニュートンの神様に対する証しは、素晴らしいものであったと思います。
讃美歌56番の曲FAITHFUL GUIDEは弁護士であったアメリカ人、マーカス・モリス・ウエルズ(1815~1895)の作品であります。彼は1858年に彼の唯一の作品である“Holy Spirit,Faithfdul Guide”(聖なるみ霊、忠実な導き手よ)を作詞・作曲いたしました。
歌詞は非常に信仰的であり曲も歌いやすいものでありましたので、たちましアメリカでポピュラーになり今日でもゴスペルソング(福音聖歌)として広く歌われています。彼の原作がそのまま用いられ、日本語で歌われることも望ましいことと思います。勿論、56番の場合にはニュートンの素晴らしい歌詞によく合っていますから、ウエルズの旋律だけが使われています。
<56>
1 七日のたび路 やすけく過ぎて
みまえにつどい かしこみあおぐ
今日こそあめの 休みのしるし
1節では、過ぎ去った一週間の旅路を振り返り、心静かにかえりみるとき、神様の愛と導き給うたことを本当に感謝として知ることが出来ます。そうして、このお恵みに満たされて神様のみ前に集い、新たな恵みをいただかんとしている、と歌っています。また、この日こそは“あめの休みのしるし”であり、一週間での最もすぐれた日であると原作には記されています。
十戒にありますように、安息日を覚えて、これを聖なる日としなければなりません(出エジプト20:8~11)。神様の律法を守りみ声に従い、キリストの救いを信じる人のみが、この“あめの休み”に入ることができるということを決して忘れてはなりません。
「信じた私たちは安息にはいるのです」(へブル4:3)。
2 あがないぬしに よりていのれば
みいつくしみの み顔をむけて
つみとがゆるし やすきをたまえ
2節では、私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて祈りますなら、神様は主イエス・キリストへの信仰の故に、私たちに対して慈しみと愛をもって、罪人である私たちにみ顔を向けて、罪、とが、けがれを赦して下さり、やすきをお与えくださる、と歌っています。このやすきこそ私たちにとって唯一のなくてならない宝であります。
“やすしや、罪の世にも やすし、主の血によりて”(讃美歌295番1節)
3 きよきこの日に みこえきかせて
さまようものを みちびきかえし
したがうたみを なぐさめたまえ。
3節ですが、日本語訳の3節と4節は原作の方では順序が逆になっています。しかしながら、この方が、ニュートンの伝道心を明らかにしているように思います。彼にとって“きよきこの日にみこえきかせて、さまようものをみちびきかえし”と歌っていますように、聖書にもとづいた正しい福音が、すべての教会の講壇から宣べ伝えられるようにと、私たちも祈り求めてまいりましょう。
立派な建物を建てたり、社会の色々な運動に参加する以上になさねばならないことは“さまようものを みちびきかえす”ということは教会を蔑ろにてはならないからです。この第一の、唯一の役目である伝道をおろそかに致しますなら、主イエス・キリストといういのちの源から離れていることになり、そのような教会は、いのちを失い枯れてしまう樹木と同じですから、この3節は味わい深いものと思います。
4 たかきめぐみを うたうわれらと
ともにいまして さかえをしめし
あまつうたげに つかしめたまえ。
4節はこの讃美歌のクライマックスと言えましょう。“あまつうたげにつかしめたまえ”とは、1節の“あめの休み”と関係があります。原作では、この“あまつうたげ”を天上にある教会というように言っています。天上にある教会に加えられるまで、私たちは声たからかに神様のみ名をほめたたえ、地上の教会につらなることこそ“あまつうたげにつかしめ”られる大切な条件であることを忘れてはなりません。その証しが主の日(日曜日)の礼拝につらなっていることであります。
=「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、
「つのぶえ社」までご注文ください。
さんびか物語 (4)
(広く愛唱されている50曲)・・・3
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌39番
日くれて 四方はくらく
<神様のみ言葉>
「それで、彼らが『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりましすし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼等といっしょに泊まるために中にはいられた」。
=ルカの福音書24章29=
讃美歌39番“日くれて四方(よも)はくらく”は英語讃美歌中、最もよく歌われる夕の歌であるばかりでなく、チャールズ・ウェスレーの讃美歌273番の“わがたましいを愛するイエスよ”についで英米でも広く愛されているものの一つでございます。
この素晴らしい夕べの歌の原作者は、ヘンリ・フランシス・ライトで、イギリスの陸軍士官の子として1793年6月1日、スコットランドのケルソの近くに生まれました。彼は小さい時に孤児になり貧乏と戦いながら、アイルランドのダブリンのトリニテー大学で教育を受けました。
一時医学を志していましたが、生まれつき体が弱かったために、それをあきらめ神学に転じ、21歳で国教会の聖職となりました。そうして、アイルランドの各地の教会でしばらくの間、牧会を続けました。ちょうどその頃、ライトの同労者の一人が急に重い病気に罹りました。牧師でありながらも、死が近づくにつれて、自分の心の不安と赦されていないのではないかという、自分の罪の重荷に耐えられなくなったのです。それで友人のライトを呼び、神様よりの罪の赦しの道を教えられたいと、熱心に願ったそうです。
この友人の真剣な願いをうけたライト自身この出来事によって、自分の信仰をかえり見て、その信仰の弱さを始めて認識させられ、友人と二人で一生懸命に聖書を学び、熱心に祈りました。この熱心な求道と神様の愛によって、主イエス・キリストの贖いによる罪の赦しの確かさを、恵みによって痛感させられました。
この出来事はライトの信仰生活の大きな転換期となったといえましょう。それと、よき助け手としての妻の与えられたことです。彼女は牧師の娘でありましたが、たまたまお金持ちでもありましたので、ライトは生まれて初めて金銭的な苦労からも解放され十分に才能を発揮することが出来るようになったことと思います。
1823年、ライト一家はイギリスのデブンシャーに移り、そこの漁師たちのために24年間牧師として出来得る限りの働きに没頭しました。彼は牧師としての働きのほかに、讃美歌を81曲ほど作っていますが、その中の一つが讃美歌336番の“主イエスよ、十字架を”であります。また、いろいろの本を出版したり、生徒が800名ほどの教会学校を建てたり、70名ほどの教会学校の教師を養成したりと、広く活動いたしました。
ライトは喘息を患っていまして、結核に近い病にも罹っていたようですが、1844年まではどうにかその任務をはたしてまいりました。しかし、この期を境に寒い冬の数ヶ月を、暖かいフランスの南の方で静かに過ごさなければならないようになりました。
彼はいつも夏には懐かしいデブンシャーに戻り伝道に励んでいましたが、1847年9月、静養のためニースに戻ることもなくそこで亡くなりました。彼はニースのイギリス人墓地に葬られました。
讃美歌39番については、二つの節があります。その一つは、1847年、彼がニースに旅立つ前の最後の日曜日の夕べに、作者が庭に出て海岸まで降りて、そこから日没をじっと眺めながらこの作品をメモにし、書斎に戻って仕上げてから、この歌を親戚の一人に渡したそうです。
いま一つの説は、ライトがまだ若い牧師であった1820年に、瀕死の老人のために書いたものであるということです。いずれにいたしましても、私たちにとって大切な点は、この歌の中心的なメッセージが何であるかということであると思います。
私は、この讃美歌が一日の終わりを告げる夕べを歌っていることよりも、人生の夕べをテーマにして、ライト自身が死を心に感じつつ書き上げた、彼自身の素晴らしい信仰の告白であったと思います。
讃美歌39番の作曲者ですが、イギリス人のウィリアム・ヘンリー・モンクで、1823年3月16日にロンドンで生まれ、1889年3月1日ロンドンで召されました。モンクはキングス・カレッジの聖歌隊長、オルガニスト、声楽教授をつとめながら賛美歌の編集や出版に活躍し、英国教会音楽の発展に大いに貢献いたしました。
このメロデー(EVENTIDE)の作曲は、ある日非常に悲しい事件が起こったとき、モンク夫妻が外に出て散歩していた時、二人で地平線に沈み行く輝かしい夕日を眺めていたときに浮かんできた曲であったと言われています。
この曲は、日本ばかりでなく、広く英米の人々にも愛唱されている傑作の一つと言えましょう。
<39>
1 日くれて四方はくらく わがたまはいとさびし
よるべなき身のたよる 主よ、ともに宿りませ。
2 人生のくれちかずき 世のいろかうつりゆく
とこしえにかわらざる 主よ、ともに宿りませ。
3 世の闇おしせまりて いざないの声しげし
時のまも去りまさで 主よ、ともに宿りませ。
4 死の刺いずこにある 主のちかくましまさば
われ勝ちてあまりあらん 主よ、ともに宿りませ。
5 十字架のくしきひかり 閉ずる目にあおがしめ
みさかえにさむるまで 主よ、ともに宿りませ。
この讃美歌のテーマは、各節の4行目にある“主よ、ともに宿りませ”であります。もちろん背景にあるのは、冒頭のみ言葉であるのは当然です。
エマオという村に行く二人の弟子は、目がさえぎられていて、彼らとともに道を歩いておられたのが主イエスご自身であることは分かりませんでした。イエス様は彼らの願いに従って家に入り、食卓に着きパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された時に、初めてイエス様であることがわかったと、ルカの福音書24章13節~31節に記されています。
この二人の弟子と同じように世の多くの人々は、霊的には盲人ではないでしょうか。
讃美歌39番の1節では、人の心の寂しさ、孤独、身を寄せる所のない者のやどり木、支えになって下さいと求めている祈りのように思えます。
2節では、この世の生滅流転と人生の終わりという有限に対して、永遠に変わらざる主がともにいたもうて、変わらざる永遠のいのちへと導き給えという、人類の切なる願いの歌であります。
3節の原作は、日本語訳より直接的で明確です。即ち、神様のご臨在はいつも必要であり、神様の恵みがなければ、到底、悪魔の力には打ち勝ち得ないと歌っています。また、神様の他に誰が何が私たちの正しい案内人や助け手に成り得ようか、と言っています。曇りがちの時にも、日が照り輝いている時にも(順境にも逆境にも)私たちとともに宿ってください、となっています。
4節は、申すまでもなく、使徒パウロの有名な言葉に基づいています。それはコリント人への手紙第一、15章55節~57節であります。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」。
“主イエス・キリストの十字架の贖いこそほむべきかな”であります。
5節でライトは、主イエス・キリストの十字架の贖いによる、永遠のいのちの保証とそれへの確信を高らかに歌っています。
“み栄えに、眠れる信仰が目覚めるまで、主よ、ともに宿りませ”と歌っています。この確信と希望に満ちた言葉は、昔も今も多くの人々の励ましとなり力となってきました。
キリストの十字架と復活の上にある信仰、これこそがライトの私たちに対する素晴らしいメッセージと言えます。
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この掲載には「つのぶえ社」の許可を得ています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」