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さんびか物語 (3)
(広く愛唱されている50曲)・・・2
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌22番
めさめよ わがたま
<神様のみ言葉>
「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ、目をさませ。私は暁をよびさましたい」。
=詩篇57編7節、8節=
この讃美歌は朝の礼拝用讃美歌と言えるもので、“めさめよ、わがたま”は1695年に書かれたイギリスの賛美歌の中で、もっとも古い朝の歌であります。作詞者トマス・ケンは、今から300数年前の1637年にイギリスのバーカクステッドで生まれ、小さい時に孤児になり姉アンと義兄(有名なつり人であり著者)アイザック・ウォルトンの家で育てられました。
トマスが13歳の時にウィンチェスター・カレッジ(有名な私立高校)に入学し、その後オックスフォードで学び、1661年に卒業しました。大学を卒業して後、国教会の聖職に任命され、各地の教会で牧会を続けました。
更に1669年にチャプレンとして母校のウィンチェスターに帰り、学生たちのために“A Manual of Prayer”(祈祷の手引き)を書きました。数年後、‘めさめよわがたま’の朝と讃美歌36番の‘この日の恵みを’の夕べの歌の二つをその祈祷の本に加えて、学生たちに毎日の朝夕の祈りの時間に歌うようにすすめました。この二つの讃美歌は、特に優れたものであったために、指折りの讃美歌として、広く世界中の教会で今日に至るもなお歌い続けられている美しい宝石と言えるものです。
1679年にトマス・ケンはオランダ公妃の宮廷のチャプレンとしてしばらくの間ヘーグに滞在しましたが、或る宮廷人の不道徳な生活を遠慮なく指摘し、それを正そうとしたため、そこでは歓迎されなかったので、イギリスへ帰らねばなりませんした。イギリスでの彼は、チャールズ二世に認められ自分のチャプレンの一人として招き、その後、司祭に任命されています。チャールズ二世が王となりローマ教会の復興を計画してイギリスのすべての教会で「信教自由令」を発表することを命じました。これに対してトマス・ケンと国教会と他の6名の司教たちが王の命令に反対し拒んだためにロンドン塔(刑務所)に入れられてしまいました。
冒頭の詩篇の言葉のように「神よ。私の心はゆるぎません・・・、ゆるぎません」というように神様への信頼と信仰の良心に従いつつゆるがぬ勇気ある司教でした。彼は後には釈放されましたが1691年に司教の職を辞めさせられました。
その後の彼は親しい友人ロード・ウェマースのウィルトシャーにある彼の家に招かれ、その家族の愛に包まれ最後の数年間を平安のうちに過ごし74歳で1711年にこの世を去りました。彼の遺言に従って葬儀は日の出とともに行われ、夜が明けとともに会衆一同が‘めさめよ、わがたま’の讃美歌を歌いながら彼の遺体を教会の墓地に葬りました。
讃美歌22番の曲MELCOMBEはサムエル・ウェブSrの作品で、彼は1740年ロンドンで生まれ、小さい時に父を亡くしたために非常に貧しく悲しい環境の中に育てられました。彼は若い時、家具工を7年ほどしていましたが、20歳になってから以前より持っていた音楽への志を貫くためにその仕事を辞めて、音楽家への第一歩を踏み出しました。その第一歩も大変なもので、音楽の写譜のために朝の5時から夜の12時までという厳しい働きがそれでした。彼は、その仕事をしながら音楽、フランス語、ラテン語、作曲法などを学びました。恵まれた才能の持ち主であった彼は、ついに専門の音楽家となり、ロンドンのサルディニア礼拝堂、ポルトガル礼拝堂などのオルガニスト兼聖歌隊指揮者となりました。彼の作品は無伴奏合奏曲に特に優れたものが多くあるそうです。
MELCOMBEという曲は、まずモテットとして発表されましたが、1791年に出版されたセークリード・ハーモニーという讃美歌集に初めて讃美歌の曲として使用されました。トマス・ケンは毎日朝な夕なにビオラを弾きながら彼自身が書いた朝の讃美歌をいつも歌っていたそうです。勿論、その曲は、MELCOMBEではなくルイ・ブルジョワが1551年に作曲か編曲したOLD HUNDREDTHでした。‘あめつちこぞりて’は、この曲に合わせて世界中のほとんどの教会で毎日曜日に歌われている頌栄のもっとも有名なものの一つと言えるでしょう。ところが、一般に知られていないことですが、この頌栄の歌詞はトマス・ケンの作品で彼が書いた三部作‘朝の讃美歌’‘夕べの讃美歌’‘夜中の讃美歌’の三つの讃美歌のそれぞれの最後の1節として付け加えられたものであるということです。ですから、英文の讃美歌には、この頌栄は‘めさめよ、わかたま’の6節として発表されていますが、日本の訳には6節が省略されているのは大変残念に思います。
<22>
1 めさめよわがたま あさ日にともない、
あしたのほめうた みまえにささげよ。
2 むなしくすごしし ときおばつぐのい、
ちからのかぎりに みわざをつとめよ。
3 うえよりたまわる たからをもちいて
おわりのさばきに かしこみそなえよ。
4 かくるるものをも 主は知りたまえば、
ことばとおもいを ひたすらきよめよ。
5 めさめよわかたま この日もひねもす
みくにをのぞみて いそしみはげめや。
ウインチェスター・カレッジの学生たちはいつも朝は5時に起床しなければならなかったそうです。文字通り‘朝日にともなわれて’目を覚まさなければなりませんでしたが、ここで作者は‘目がさめたら、まず神様のみ前に朝のほめ歌を捧げよ’と歌っています。英文では、‘喜びをもって、ほめ歌を捧げよう’とあります。私たちもこのように、毎日を、新しい日を迎えるという思いを持つためにも、この1節は大切と思います。
2節では、どなたでも虚しく過ごした時はありますが、しかし、過ぎ去った時は戻りません。ではありましても“償うことが出来ます”と、作者は教えているようです。それは与えられたこの新しい一日を十分に用いること、それも、まず神様のために用いることです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)とイエス様が私たちに教えて下さったようにであります。そのように用いて行うのが、私たちの過ぎ去った日を償い、新しい日を迎える私たちの役目ではなうでしょうか。作者は‘この一日は、あなたの一生の最後の日であるかのように、その一時間一時間を大切に過ごせ’と歌っています。
3節では、上より(神様より)与えられているタレントを用いて、終わりの審き対して、恐れと慎みをもって備えなければならないと歌っています。
人生はすべて、この終わりの審きの日に向かっての旅路でありますからこの事実を覚えての歩みでなければなりません。そうして、この審きの日に全人類は審き主なる神様のみ前に立ち、神様が下したもう私たちに対する判決を聞かねばなりません。私たちはそのために、いつも適切な準備をしておかねばなりません。その備えとは何でしょうか。それは、救い主なるイエス様への信仰に常に目覚め、かたく立ち、慎みの日々を過ごすことと言えるでしょう。
4節では、全知全能の神様にとっては、すべては明らかで、すべてをご存知であるがゆえに、神様のみ前にあって隠せるものも、隠れることもできないということを歌うと共に、むしろ、すべてを神様におまかせして、ひたすらに、み言葉に教えられて、神様の赦しと潔めを乞い求めよと歌っています。
「聖書(神様の言葉)は, 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Ⅱテモテ3:16)。
5節ですが、英文では‘今日一日中が私たちの計画、業、言葉が神様の旨にかなうように、神様が私を導き支配して、私のすべてが、神様のご栄光をあらわすようにさせて下さい’と歌っています。即ち、すべてのものを用いて、全身全霊をもって神様のために生かしめて下さいという神中心が、この5節の中心でありましょう。そうして、この讃美歌の素晴らしいクライマックスとして頌栄に用いられているものが、ここに6節として書かれています。
<539>
あめつちこぞりて かしこみたたえよ
みめぐみあふるる 父、み子、みたまを。
この頌栄で歌っていますことは、1節から5節までを支えている土台のようなものでしょうか。神様をほめたたえる素晴らしい傑作であると思います。私は頌栄として用いられるとともに22番の6節として用いるのも、全体のバランスからも良いのではないかと思います。
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この掲載には「つのぶえ社」の許可を得ています。
さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
(2)
さんびか物語・・1
(広く愛唱されている50曲)
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌6番
われら主をたたえまし
<神様のみ言葉>
「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます」。
~詩篇145編8節~
この讃美歌は礼拝の讃美として歌われているものです。讃美歌6番“われら主をたたえまし”の原作者ニコル・グリーブにつきましては、彼が1868年に生まれたことと、イギリスの讃美歌作者であったことの他、何もわかっていません。グリーブが書きましたこの歌は、詩篇145篇に基づいて作られた詩篇歌で、今も、イギリス国教会の讃美歌集に掲載されている一つであります。この素晴らしい讃美の歌が、日本語にも訳されていますことは、本当に喜ばしいことと存じます。
讃美歌6番の曲は、5番の曲と同様に、非常に古いものです。その原旋律は、テオドール・ベザの訳になる詩篇124編の曲として、1551年に出版されました、ジュネーヴの詩篇歌(Pseaumes de Daid)に収録されていました。
この曲は、その後、イギリスで、1562年に出版されました、“Whole Booke of Psalmes”に収められていたのです。そしてイギリスでは詩篇124編の曲として普及していたもので、そのために“Old124TH”という曲名が付されたのです。この曲は、1954年版の讃美歌でが、6番の他に226番の「地に住める神の子」の曲としても使われ、唄われています。
<6>
1 われら主をたたえまし、 2 世は世へとうたいつぎ
きよき御名あがめばや、 よろこびとおそれもて
くる日ごとほめうたわん、 主のくしきわざをつげ、
神にまし王にます、 いつくしみ知れるもの
主のみいつたくいなし。 みさかえをほめたたう。
3 みめぐみはかぎりなく
主にたよる子らにあり。
みいかりをしのびつつ
あわれみをたれたもう
主を愛し、主に仕えん。
以上の美しい言葉と詩篇145編を比較しつつ、学んでまいりますと、非常に教えられるところがありますので、ここで先ず讃美歌6番と関連のある詩篇145編の一部分を引用させていただきます。
1 私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。 3 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。 4 代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。 5 私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。 6 人々はあなたの恐ろしいみわざと力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。 7 人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を熱心に語り、あなたの義を高らかに歌うでしょう。 8 主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。 9 主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。 18 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられます。 20 すべて主を愛する者は主に守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。
まずここで教えられますことは、作者グリーブの歌詞にせよ、詩篇145編の詩人ダビデにせよ、どちらの歌も、その中心となっている点は、まことの生ける神様をほめたたえ、讃美することにあるといえましょう。
人の主な目的が自分をえらくするとか、お金をたくさん貯えるためではなく、「・・・神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」と、ウエストミンスター小教理問答書の問1で教えています。私たちは、みな、まことの神様の聖きみ名を来る日ごとに、ほめ歌うために、造られたものであります。
「神にまし、王にます主」を知り、主をほめたたえるのでなければ、私たちは人間としての主なる目的から、まとをはずした生活をしているのです。この讃美の歌は私たち人間に正しいあり方をはっきりと教えてくださっている立派な模範です。
次に学びたいことは、私たちが喜びと畏れの心をもって、主なる神様のくすしきみ業を、人々に告げなければならないということです。
2節に、「世は世へとうたいつぎ、よろこびとおそれもて、主のくしきわざをつげ、いつくしみ知れるもの、みさかえをほめたたう」とあります。一方、詩篇の4節では、「代は代へと、あなた(主な苦神様)のみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう」とございます。
しかし、私たちが、主のみ業を告げる前にまず主を知り、主を信じ、主を愛し、主を私たち自身の王としてお迎えしなければなりません。あなたは、主を知り、信じておられますか?
聖書の1ページ1ぺージをお開きになって祈りと謙遜の心をもって、み言葉を学びますなら、神ご自身がみ言葉の意味を明らかにしてくださいます。そればかりでなく、あなたが求めておられる正しい信仰を、あなたの心に与え、あなたの心の中に信仰の光をともして下さいます。これこそ神様のくすしきみ業の一つではないでしょうか。そして、主を知り、信じますなら、主のみ栄えをほめたたえつつ、あなたの心にある喜びと平安を、他の人々に宣べ伝えずにおれなくされるのです。
今一つお考えいただきたいことがあります。それは、一つの理解しにくい逆説的なことがらです。すなわち、豊かなお恵みと、いつくしみを、おそそぎ下さる神様はまた、その上、義と審きの神様でもあるということです。
讃美歌6番の3節で、作者は「みめぐみはかぎりなく、主にたよる子らにあり。みいかりをしのびつつ、あわれみをたれたもう、・・・」と、ございます。詩篇145編8節では、「主は情け深くあわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます」と、ダビデは歌っています。
神様は、何故、お怒りになるのでしょうか。それは、人間はアダムの時から主に背き、主を求めようとせず、尋ねようともしなかったからです。人間が、神様に反逆して以来のことなのです。また、人間は勝手に偶像を造り、それを神として拝み人の思いのままにいろいろな偽りの宗教を作り出し、神様に徹底的に背き続けたからなのです。それにもかかわらず、まことの生ける神様は、私たち人間の罪を贖い、赦しを与えるために、独り子のイエス・キリストを私たち罪人の身代わりとして十字架につけるために、この罪の世におつかわしになりました。そして、十字架につけ、十字架上に死にたもうたキリストの貴いいけにえによって、私たちの罪の赦しと、永遠のいのちとを、お与え下さっているのであります。
しかも、主は忍耐に忍耐をお重ねになって、私たちが父なる神様のみもとに立ち返る日を待ち続けておられます。まことに、「みいかりをしのびつつ、あわれみをたれたもう」神様であられます。
このように、神様は弱く、何の価値もない、罪と汚れとに覆われた私たちを愛し、滅びの穴から救い出して下さるのです。私たちは、そのような愛に富みたもう神様に感謝し、応答しなければなりません。私たちひとりひとりが、心から主を愛し、主に仕える決心を新たにしようではありませんか。
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この掲載には「つのぶえ社」の許可を得ています。
さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
(1)
「まえがき」
讃美歌はクリスチャンにとって、一つの大きな宝物といえます。教会で礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴らしいことでございます。
終戦直後、私たちは
もちろん、未信者の方でも、讃美歌の好きな方も多くおられます。特に、日本では、そのような方が多いのではないでしょうか。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信仰が必要であります。
また、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台にある神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。そして、それ以上に、神様のみ言葉を心から受け入れ信じなければ、讃美歌の本当の尊さをあじわうことは不可能であります。
わたしは16年前(1958・6)から、「聖書研究の友」誌を通して、多くの讃美歌について学んでまいりました。今回、その原稿のあるものを改定し、他の材料をも加えて、なるべく代表的な讃美歌を、また、日本のみなさまが広く愛唱されている讃美歌の中から50曲を選んでこの本にまとめてみました。この本が主にあるクリスチャンの方々の信仰の成長に、そして、初めて讃美歌を口ずさむ方の手引きになりますなら、幸いに思います。
この本の出版が実現いたしましたのは、長村秀勝氏の偉大な協力と、校正などに助力してくださった方々に心から感謝いたします。
この一巻に記されている讃美歌の言葉やすすめを通して、読者の方々がはっきりと神様のみ旨を知り、とるべき道、なすべき業を知ることができますようにと願っています。
1974年10月10日
ポーリン・マカルピン
「参考文献」
Bailly,Albaert Edward The Gospel in Hymns
Davis,John D The Westminster Gictionary of the Bible
Haeussler,Armin The Story of Our Hymns
Heney,Matthew Commentary in Handbook
Northcott,Cerl Hymns We Love
Price,Carl F One Hundred and One Hymn Stories
Ryden,E,E The Story of Christan Hymnody
「邦語文献」
聖書辞典 いのちのことば社
キリスト教大辞典 教文館
讃美歌略解 日本基督教団出版局
ウエストミンスター小教理問答 つのぶえ社
「使用讃美歌」
1954年版讃美歌 日本基督教団讃美歌委員会
「使用聖書」
新改訳聖書 日本聖書刊行会
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この掲載には「つのぶえ社」の許可を得ています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」