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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・7
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
6 横浜公会の創立・・・2・・
このように諜者監視の中に、バラ先生夫妻は、何とかして小児たちにも福音を伝えたい、との熱心から日曜学校のさんびか出版を思い立って、今日の「主、われを愛す」(Jesus lovos me、I this know 461番)の日本訳をされたが、これもまた、1872年(明治5)9月5日付で、諜者が詳明にその訳文を報告している。それによると、
エスワレオ愛シマス サウ聖書中シマス
彼レニ子供中、信スレハ属ス
ハイエ愛ス、ハイエ愛ス ハイエ愛ス サウ聖書申ス
エスワガタメニ 天ノ御門ヒラキ
ワガツミユルシ ソノチニヨレリ ハイエス等、
エス愛スイツモ ワレヨワヒトモ
ワガ病気助ケニ 御座ヨリ下リ ハイエス等
と言ったものあった。
当時、米国婦人一致伝道協会から派遣された婦人宣教師のミセス・メリー・ブライン、ミス・ジュリアン・エヌ・クロスビー、ミセス・ルイゼ・エッチ・ピアソンの3名が、ブラウン宣教師宅を中心に日本婦女英学校を開いて、横浜の混血児の世話と教育に当った。バラ先生はじめ他の宣教師たちにとっても、この混血児問題は非常に心の痛む問題であった。
日本婦人と外人との間に生まれた子供は、特に正式結婚の許されない当時のこととて、その多くは私生児として、また、いまわしい存在として蔑視され、罪悪視されていただけに、バラ先生たちは日本の婦人の立場に痛く同情されて、この問題の解決を米本国に訴えられた。その結果が前記の婦人宣教師たちの来日となったのである。この社会事業に感激した学者の中村敬宇は、自らその生徒募集の案内を執筆し、これがわが国最初の生徒募集案内となったのである。
(ドクトルヘボン伝 高谷道男著)
このような人種問題にも、いち早く解決と救助の手をのべたのも初代の宣教師たちの仕事であった。
1873年(明治6)2月24日、明治政府は外交上、切支丹禁制の高札を撤去することになり、この時点で諜者は全く姿を消すことになったが、日本基督公会の初代の信徒の中に、3名の諜者がいたことは驚きであった。
バラ先生の人柄を知り資料も、諜者によって政府に報告されたものによって明らかにされたが、2月6日の記録によると「小川義綏の親類である富田屋卯助という者が急病で死んだが、バラはこの者の病中からアメリカの医者を招いて、ねんごろに介抱し、死亡した後も死人の前へ来て頭をさすり、親族の者たちへ、ねんごろに説諭を加えて、キリスト教の話をした。その親切は形けのものとは思われず、見る者で感銘せぬ者はなかった」と、日頃偏見をもってキリスト教宣教師を監視していた諜者も、バラ先生の深い愛情に心を打たれたものであった。
このように初代の宣教師たちの国境を越えた隣人愛が、頑迷な日本人の心をとらえ、キリスト教へと回心する動機となったことは確かであろう。
井深梶之助牧師の談に「十数名の英語を教授する傍ら、言語に未熟ながらも、燃ゆるばかりの熱心を以って聖書を説明し、且つ、声涙共に下るといふべき熱誠を以って彼等の為に祈りつつ伝道せらるる事が無かったならば、明治五年(1872)三月に日本最初の基督教会は建設せらるることは、恐らくなかったであろう」と述べ、さらにバラ先生が残された教訓の4つをあげて、
一 熱誠なる祈祷 心を熱くして主に事へ、祈祷を常にせよとは同教師不断の教訓であった。毎年初週の祈祷会を日本に始めたのも同氏の努力に依ると思ふ。・・・その熱誠な祈祷に感激して遂に信仰に導かれた人は決して少数ではないと思う。
二 聖書の愛読 バラ氏は祈りの人であったばかりでなく、聖書の愛読者であった。この一事に就いても、同氏の感化を受けた人の多数あることを知る。
三 直接伝道の急務 バラ氏は思想の人ではなく、活動の人であった。遠き将来の計を立てるという様な人ではなく、機を得るも得さるも一心不乱に伝道を志した人であった。「我若し福音を宣べ伝へずは禍なるかな」とは、実に同氏の所感であった。横浜海岸教会の主任を日本の牧師に譲って後には、或は神奈川県下に、或は伊豆地方に、或は信州地方に随分困難な直接伝道に従事て、伝道者の範を示した。
四 深厚なる友誼同情 バラ氏の病院又は不幸なる人に対する同情、又は信仰を離れんとする信者に対する友誼親切に至っては実に敬服すべきものがあった。
固よりバラ氏にも短所はあったであろう。或は熱心の余り思慮を欠いて判断を誤り、又は人を誤解した場合もあろう。或は雅量(がりょう)に於いて欠くところもあったろう。然し、人誰か過ちなからんである。たとえバラ氏に幾分の瑕瑾(かきん)ありとするかも其の長所は之をつぐのいえて餘りありと断言するを躊躇せぬ。
(大正十一年十二月福音新報)
月刊「つのぶえ」からの転載で、つのぶえ社から許可を得ています。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・6
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
6 横浜公会の創立・・・1・・・
「公会名簿」によると、洗礼者9名とは左の者であった。
1 竹尾 緑郎 (静岡の人) 海岸教会初代執事
2 篠崎桂之助 (静岡の人) 幕臣の子
3 安藤劉太郎 (三河の人) 僧侶・諜者
4 進村 漸 (伊予松山の人) 藩医の息子
5 押川 方義 (伊予大洲の人) 藩士
6 吉田 信好 (伊予松山の人) 藩士
7 佐藤 一雄 (東京) 士族
8 戸波 捨郎 (横浜)
9 大坪正之助 (横浜) 小川義綏(よしやす)夫人の弟
その結果、1869年(明治2)タムソン宣教師より受洗した小川廉之助(義綏)を長老に選び、翌年(明治3)長崎でウムソン宣教師から仁村守三を執事に選びバラ先生を牧師代理として、ここに日本最初のプロテスタント教会である横浜公会は、11名の会員をもって創立したのである。さらに1872年(明治5)3月21日(陽暦4月28日)、バラ先生による第2回の洗礼者があった。
公会日誌によると
「二一日、即チ安息日受洗六人アリ、執事ノ選アリ、竹尾コレニ当リ、即チ、プラオン、バラン師手ヲ按テ授ク、其他前安息日ノゴトシ」とあり、受洗者は左の者であった。
1 杉山 孫六 (静岡) 旧幕臣土屋孫六の兄
2 熊野 雄七 (大村) 士族
3 桃江 正吉 僧侶、諜者 正木 護
4 朽木 鑑 (福知山) 福知山藩士の弟
5 伊藤 友賢 (仙台) 医師
6 湯浅久兵衛 (仙台) 商人
日本基督公会の初期の受洗者の中には、キリスト教排撃のため、スパイが潜入していた。
1 仁村守三は本名を香川実玄といひ、広島の真宗の住職をして居り、長崎でエンソ―宣教師に取り入ってクリスチャンを装い、横浜公会で最初の執事に選ばれたが、仏教側からの密偵であることが判明した。
2 安藤劉太郎は明治政府から、上等諜者として、月二十両の手当を受けて内命をうけてキリスト教探索に従事いていた東本願寺派の僧で、猶竜(ゆうりゆう)と言い、横浜地方「異宗探索」を担当していた。
3 桃江正吉こと諜者正木 護も破邪護法の僧侶で光永寺隆瑞の偽名であった。月十両の下等諜者として活動した。
正木が長崎から東京に出て諜者となったのは、明治4年の冬で、政府から内命を受けて、諜者として活動した。その活動記録によると、
「然ルニ昨冬出京ノ内命ヲ蒙リ即当港ニ在留シ、バラ、ブローン、フロエン、女ビヤルソン、女ルーム、女キダ等ノ耶蘇教師ニ立入、旦暮馴近シ、真ニ彼等ガ宗徒ト偽リ、宗則ヲ護リ祈祷ヲ唱ヘ、住々死地ニ入テ之ヲ捜索ス」と、その実態を報告している。
彼は、ミス・ピアソン宣教師の弟子となって、1873年(明治6)春から東京築地カロゾルス宣教師の鉄砲洲六番書庫の店員となりすまして、出入りする者を日誌に筆記して上司に密報していた。今日、彼の諜報記録は微に入り細に亘って、当時のバラ先生や他の宣教師たちの伝道活動を知りうる貴重な文献となったが、当時、こうしたスパイたちの中にあって、真剣に福音を日本人に提供するために戦ったバラ先生たちの苦心を、今にして思うのである。
さらに、この正木の諜者報告書中、バラ先生の状況を記したその個所を借記すると、
「三月七日安息日、バラノ教会追々人数増シ、学校ニテハ狭キニ付海岸三九番 元ト ヘボン療治所ヲ借リ、耶蘇の晩餐ヲ行フ、此会中ニ米国耶蘇教師、凡ソ年令六十余斗ノ者来リバラニ通弁ヲ頼ミ 公会ノ長老小川廉之助ニ語テ云、 我支那ニ入テ教ヲ弘ムルコト二四年ノ久シキニ及ブ、故ヘアリテ昨今此地ニ来ル、遠カラズ復 支那ニ往クナリ 借テ爾等此教ヲ信ズルコト厚クシテ 此国ニ盛ンニ弘メントスル由、大慶ノ至リ、大ニ真神ノ意ニ契フヘシ 益信心ヲ堅固ニシテ 弘教ニ尽力スベシ、然ルニ 我 二十四年前 支那 フチヤウ ト云処ニ行ク 此処天津ノ近クニシテ 凡人員五十万斗ノ土地ナリ、初テ礼拝堂ヲ建ルニハ 日本ノ先生ヲ頼ミ外国ノ金ニテ立ルナリ、凡ソ九年間教ヲ布フクト雖モ更ニ一人モ聞モノナキ耳ナラス 家サヘ借サヌ程ノコトナリ、其中チ追々ニ開ケ、一年ニ一、二人ツツ道ニ入ルモノアリ、
初ノ公会ハワズカニ、三、四人ナリ、然ルニ近方ノ田舎ニ 千五百口斗ノ邑アリ 此処ヲ勧ルニ凡ソ公会ニ入ルモノ 三百五十人余出来タリ 夫ヨリ漸々ニ弘マリ 今日ニテハ洗礼ヲ受シモノ七千人ニ余ル 是ハ支那フチウ ノ話ナリ今 爾等ニ天下ト耶蘇ノ名ニヨリテ命シ度事アリ 此 教ヲ盛大ニ弘メント思ハバ、此横浜ノミニテ勧ルヨリ早ク 方々ニ出、田舎間ヨリ重ニ開クベシ云々 此話ヲ聞キバラ 長老諸弟子等大ニ喜ベリ、
バラ学校ノ公会日々盛ナリ ビヤルソン学校バイブル生盛ナリ ビヤルソンしゅ学校ノ夜会、日曜日 水曜日一周ニ二夜ズツナリ 邑ニ 二月三十日ノ夜会?アマリノ群集ニテ書生ノ帽子、洋傘等種々品物紛失スルホドノ繁盛ナリ。
来ル二十一日安息日ニハ ビヤルソン書生ニテハ、静岡県下杉山孫六、大村熊野安次郎ノ両人バラ書生中ニ、三、四人、小川廉之助妻 大坪正之助妻 当地大村 徳嶋屋久兵衛 奥州伊東某等授洗ノ義ソ相決候 尚巨細捜索ノ上追々可申上候 三月 正木 護」
(幕末明治耶蘇史研究 小沢三郎著288頁)
月刊「つのぶえ」からの転載で、つのぶえ社から許可を得ています。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・5
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
5 初祈祷会
この小会堂で日本人最初の祈祷会が開かれたのは、篠崎桂之助と言う英学塾の学生の発案によるものであった。篠崎は当時横浜在留の外人信徒が新年に初祈祷会を開いているのをみて、自分たちも初祈祷会を開きたいとバラ先生に申し出たのである。その間の事情についてバラ先生の話を記した文面によると「横浜の石造りの小会堂は日本第一のリバイバルのあった所、篠崎桂之助は親切な愛心のある青年、私の所に来て一時貸してくれ(小会堂の一室)と言う。何をするのかと聞くと祈祷会を開くと言うので貸した。旧正月2日祈り会を開く、 私も一緒にやった。イザヤ書32章13~15節を読んだ。小川(義綏よしやす)さんが祈った。続いて他の人が祈った。三ケ月続いてもやまぬ。3月10日9人洗礼をした」(横浜海岸教会百年の歩み12頁)。
「公会日誌」第一の最初の頁を見ると、
「明治五壬申歳正月元日
二日 今日ヨリ聖書使徒行伝講義始マル、バラン師出席 前後祈祷有之
三日 即安息日朝九字集会祈祷畢(おわ)リ、バラン師使徒行伝講義畢リ祈祷、11字散衆 昼後三字バラン師ノ馬太伝講義聴衆四十余畢(リ祈祷シ聖晩餐守之 五字散衆 夜山四十八番八字集会 馬太伝講義 バラン師出席 聴衆凡四十余名祈祷シ畢リテ九字散衆ス」
とあり、バラ先生は使徒行伝のペンテコステの章を熱心に講義し「されど遂
には霊うえよりわれらそそぎて、荒野はよき畑となり、よき畑は林のごとく
見ゆるとき来らん」(イザヤ書32章15節)と黒板に書いて祈った。
こうして祈ったことのない青年たちが、次々と祈り出し、霊溢るるが如く、
或る者は泣き、或る者は感激の声を発して尽きることを知らず、バラ先生を
驚かした。
祈祷の集会が連日同じように開かれて2月2日に至った(新暦3月10日)。
二日 即安息日朝九字集会祈祷 バラン師出席 十一字散衆 昼後三字集会祈祷 バラン師 馬太伝講義畢リ洗礼ノ者九人アリ 長老ノ撰アリ 小川当撰ナリ 即チ、ブラウン師、バラン師手ヲ按テ授ク 山四十八番ノ婦人三人外ニ信者二名会シ聖晩餐共ニ守リ五字半散衆 夜山四十八番へ集会 バラン氏馬太伝講義 聴衆凡四十余名 九字散衆」と以後、
安息日には聴衆五十名ほど集まった。
この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、つのぶえ社から許可を得ています。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・5・・
水垣 清著(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
4 犬小屋の英学塾
1666年(慶応2)、バラ夫人は故郷訪問のため、米国バージニア州に二人の子供を連れて帰った。バラ先生はそのため、サンフランシスコまで妻子を送って行き、すぐまた日本に帰られたが、夫人は郷里に数ヶ月滞在されたのであろう。その年の10月には、後の大蔵大臣となった高橋是清氏がバラ夫人から英語を学んでいた。彼の自伝によると慶応2年彼が13歳の時「横浜に出てから最初の間、私と鈴木六之助とはドクトル・ヘボンの婦人について英語の稽古をしておった。たまたまヘボン夫妻が帰国することになったので、同夫妻は私らを当時横浜在住のバラと言う宣教師の夫人に託して行った。それで我々両人は、毎日朝早くからバラ夫人の宅へ出かけては稽古した」。(高橋是清自伝史公文庫28頁)と記しているが、彼が2・26事件で仆(たお)れたときも机上に聖書が置いてあったと言う。
当時、青雲の志を抱いていた武士の子弟や青年たちは、新しい時代の文化を求めて横浜に来て日本の唯一の英学校であったバラ先生やヘボン博士、ブラウン宣教師の英学所に集まって、英語で聖書を学ぶ機会を得たのである。バラ先生の願いは、青年に英語を教えることではなく、伝道してキリストの福音を宣べ伝えることであった。従って英語の教授はバラ夫人がこれに当たり、先生は不自由な日本語で手まね身振りで聖書を教えられた。
バラ先生が日本で最初の礼拝を開始されたのは、先の矢野元隆と先生の家の召使いたちとであった。それは規則正しく聖日礼拝が守られ、町人、武士たちも集まって12、3名の集まりとなった。その礼拝の順序は、祈りと十戒の朗読で始まり、聖書の1章の講解と奨励であった。まだその頃は讃美歌は歌われず、英語の読める者は英語の聖書を持ち、英語の読めない者は漢訳の聖書を持ち、漢文の読めない者は黙って聴くだけであった。先生の日本語教師の矢野が聖書を読んでバラ先生が説明した。そして祈りをもって閉会したが、矢野は聖書の翻訳に関係していたので、聖書の知識もあって先生の話の説明に役立った。この礼拝こそバラ先生にとって、もっとも楽しい時間であった(1867-慶応3-第61回北米改革派教会大会議事録)と、本国の教会に報告された。
混沌とした日本の変革期(明治維新)を前にして、バラ先生は聖書の翻訳と英学所の語学教授による教育伝道に忙しい日々を過ごされた。医療伝道に従事したヘボン博士の談に「1887年8月、バラ、タムソン両氏と私自身、私の診療所にマタイの福音書を翻訳するために集まり、われわれは約9ヶ月の作業で完了した。この訳は再び私の手で改訂した。これはS・R・ブラウンと私自身とで改訂し、1873年に出版した最初のマタイ福音書の基礎をなすものである」(米国長老教会伝道局講演=日本の聖書=122頁 海老沢有道著)からも察せられるように、バラ先生の日常は多忙であった。
バラ、ヘボン、ブラウンの英学所出身者で将来活躍した人物に、医学者三宅秀、外交官・実業界に林董(たたす)、益田孝、服部綾雄などがある。一方、長崎にあって、同じ米国オランダ改革派教会の宣教師として活躍していたG・H・フルベッキも英学塾を開いて青年武士たちを指導し、さらに肥前佐賀藩の重臣村田若狭守政矩とその末弟綾部恭の二人が、1866年(慶応2)5月20日の五旬節にフルベッキより受洗した。
フルベッキは長崎に留まること10年、西郷隆盛、後藤象二郎、江藤新平、大隈重信、副島種臣たちが彼の下で教えを受けた。彼はまた、福音宣教のために身を挺して大胆にキリストのために突進した。その後、政府の文教顧問に聘せられて大学南校(後の東京大学)の創設のために尽力した。燃えるような伝道の熱心は、横浜、長崎という東西の門戸を通じて、日本の夜明けに福音のともしびが点じられた。
1868年(慶応4)5月、バラ先生からの受洗者は粟津高明と鈴木貫一の両名である。粟津は膳所藩出身の士族で桂二郎とも言った。彼は在仏の日本公使館に勤める外交官になったと言う。鈴木貫一も同様に膳所藩士であった。
この年、9月8日を明治と改元して、以後政府は一世一元とすることを定め、翌10月には天皇の東京遷都が行われて、旧幕府勢力は一掃され、封建的幕藩体制から近代国家へと移行する機会に、江戸(東京)を首府と定めたのである。
この明治変革のため日本国内は内乱となり、明治元年の鳥羽伏見の戦争、江戸征討軍の進撃、旧幕臣を主体とした彰義隊の叛乱戦争、さらに奥羽の会津戦争、越後(新潟)の北越戦争、続いて函館戦争など、国内の人心は、激しく動揺しているうちに、明治政府は戦争によって旧幕府の勢力を一掃して、近代国家の組織を目指し、富国強兵策を打ち立て、国家資本の創出という建前から欧米の進んだ産業技術、経済的制度、政治、法律、文教などの西洋文化移入のために外人の学者、芸術家、技術者、医師、教師などの指導者を招聘して雇用した。
1872年(明治5)の諸官庁の雇用外国人は214名に及び、その国籍はイギリス、アメリカ、フランス、ドイツが主であった。従って、これら外人の居留地として横浜は次第に発展し、日本の文化都市として急激に膨張した。しかしながら、明治政府は宗教に関しては江戸幕府の古い仏教国教策に変えて、神道国教化の方針をとり、キリスト教に対する禁教政策は少しも変えようとはしなかったので、居留地の外人に出入りする日本人を厳しく監視し、また特に宣教師の行動には諜者を用いて詳細にそれを調査し報告させた。
その頃、明治2年に九州の浦上で捕らえられた隠れ切支丹の信徒三千余人が、名古屋以西の21藩に配分流刑に処せられていた。特に宣教師の多い横浜は居留地に出入りする日本人へ厳重な警戒の目が光った。このような状況の中にも、日本人の町では許されなかったが、横浜の居留地に小会堂を建て、これを利用して英学を志す青年たちに、バイブルを教えつつキリスト教伝道が出来ると感じたバラ先生は「聖なる犬小屋」(Sacred Dog Kennel)と呼ばれる石造りの小さな礼拝堂をこの年、1871年(明治4)に建てたのである。そして、20余名の学生が日本全国から英語の学習を求めてここに集まって来た。
この小会堂について植村正久は「部屋が二つに仕切られ、その間の壁の左右に戸があって、より大なる一部分は家の三分の二を占めた。4人掛けの腰掛が二列に置かれ、すべてで20はなかったろう。すっかり詰めても6、70人しか集まれない。別に講壇はなかった。一脚のテーブルと一脚の椅子が置かれた」と思い出を記している(植村正久とその時代 第一巻446頁)。
*この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、「つのぶえ社」から許可を得ています。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・4・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
3 最初の受洗者
先生の日本語教師矢野元隆は、成仏寺の集会や先生との接触、聖書翻訳の仕事を通じて、次第に信仰の芽生えが成長した。病身の彼は、この年の1月20日頃には病床の人となって、自分も再起不能を悟ったのか、先生に受洗を申し出た。バラ先生は、たびたび彼の病床を見舞っては日本語で祈り、また彼の信仰の徹底を願われた。彼も先生からヨハネ伝翻訳を托されていたので、次第に聖書の真理を悟るようになり、キリストへの信仰を熱心に求めるようになったのである。
バラ夫人はその日記に「先生(矢野のこと)は誠実に真理を求めつつあることは明白なり。ヘボン博士は彼が到底恢復の見込みなしとなす。比に於いて11月第一の安息日、彼に授洗することに決したり」(植村正久とその時代1巻)とある。1864年(元治元年)11月4日(聖日の朝)、矢野の宅にバラ先生はヘボン博士と同行した。ヘボン氏は長老として祈祷をささげ、バラ師は彼に洗礼を授けた。この洗礼式には、矢野の長男が立ち会っていた。
翌日、バラ先生夫妻は矢野を訪ねられた。矢野は肘で辛うじて起き上がり、床に頭をつけてバラ夫人に「私は最後の御暇乞いを申さねばなりません。私は間もなくイエス様にお目にかかりましょう。お目にかかったら、私はあなた様と親切な御主人とが、私のためにして下さったことをキリスト様にお話しいたします」と言った。
バラ夫人はこの事を手紙に「異教国の改宗者のよって、私の名をイエスに告げられることよりも更に貴いものがこの世にありましょうか。私は私の全生涯に於いて、これを最も幸福な出来事と思います。主よ、私が喜びの冠にこうした宝玉を多く与え給へ」と記している、
その年の12月4日(月曜日)、矢野は天に召されてこの世を去った。彼こそ日本伝道の最初の受洗者であり、またさらに日本初代宣教師たちの手となって、マルコ伝、ヨハネ伝 、創世記、出エジプト記などの翻訳に貢献した人であった。
矢野元隆受洗年月についての説
矢野の受洗年月日について、日本のキリスト教史家に2つの異なった説がある。
1 1864年(元治元年11月4日)説
日本基督教会史 山本秀煌(ひでおき)編
植村正久とその時代(第1巻)
ドクトル・ヘボン伝 高谷道男著
日本プロテスタント史研究 小沢三郎著
日本基督教史 比屋根・安定著
J・H・バラ年譜 J・A・マカルピン編
横浜海岸教会百年の歩み
近代日本とキリスト教 (明治編)
日本キリスト教史 大内三郎著
日本基督教史 柳田友信著
明治文化史 岸本英夫著
2 1865年(慶応元年11月5日)説
横浜海岸教会会員名簿(写し)
日本の聖書 海老沢有道著
日本の近代とキリスト教 森岡清美著
日本社会とプロテスタント伝道 工藤英一著
(註)
筆者は1864年(元治元年)説を採るが、その主な根拠は、植村正久の手記ならびにバラ先生の文献に基づくJ・A・マカルピン氏のバラ年譜を可とするのである。1865年(慶応元年)説は、思うに横浜海岸教会会員名簿によってのものと思われるが、今日の会員名簿は、大正12年に焼失した原本の写しであって、横浜海岸教会長老林翁氏の筆になるものであるが、原本に記入の時、すでに誤記されていたのではないかと思われる。会員名簿には、矢野玄隆とあって元隆と相違するが、江戸期の医師には「玄」の字の使用例は医師の慣習的用語とも考えられ「元」の字は、「玄隆」の玄を音読による後世のあて字ではないかと思われるふしがある。しかしこの年代決定は後日の研究に待ちたい。
*この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、「つのぶえ社」から許可を得ています。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・3・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
2 成仏寺の生活・・2・・
ヘボン博士の談に「或時、定次郎という日本人の家僕を雇い入れたが、二週間程たって急に暇を呉れと申し出た。どうしてかと聞くと、彼の言うに、自分は某藩の武士であるが、外人の内情を探って、隙があれば斬り捨てようと思って家僕に入り込んだが、貴方は夷人とは思われない程に親切で、仁義道徳をわきまえて居られるから、殺すに忍びず、自分の考えの誤りであったことを覚ったので御免をこうむって帰ります、との事であったが、その後も家僕を雇い入れると、それは、しばしは政府の探偵であったことが解った」ということである。
切支丹禁制の高札が国中至るところに立っていた時代のこととて、当時、日本語を学ぶにも、その教師を得ることは容易ではなかった。バラ先生の祈りは、日本の言葉で祈り、日本の言葉で聖書を読み、日本の言葉で福音を語ることであった。熱祷の人であり聖書を愛読するバラ先生は、十字架の福音をこの異教国日本に一日も早く宣べ伝えなければとの切なる願いであった。従って、宣教師の日本人下男達から日本語を手まねで聞きただすことが、唯一の日本語を学ぶ道であった。
その頃、幕府は横浜運上所官舎内に英学所を設けて、幕臣の子弟に英語を教えるため、バラ先生、タムソン氏が共に教師になり、次第に日本人との接触が開けて来た。さらに幕府老中の紹介によって、日本語教師として鍼医の矢野元隆(玄隆?)を得ることが出来て、先生はその矢野から日本語を学ぶこととなった。成仏寺にあったヘボン、ブラウンの両師も矢野によって漢訳聖書を日本文に翻訳する仕事を続けることが出来たが、矢野は病弱でヘボン博士の診察によると、彼は肺結核であったと言う。
この年、1862年(文久2)6月26日、バラ夫人はヘボン博士の手によって長女のキャリー・エリサベス・バラ嬢を出産した。そして9月7日、バラ先生30歳の誕生記念日にキャリー嬢はブラウン宣教師によって幼児洗礼を受けた。異郷の日本にあって、乳児を育てる苦労をバラ夫人は次のように手紙に記している。「私の憐むべき嬰児は、この世界を堪え難いところと考えねばなりません。私共は、この児に適した食物を与えることは出来ません。日本人はミルクを用いませんから、私達は決心して乳母をおくまで、私はお茶と米の汁とを与えて折ります。夜中暑さに堪えかねて、彼女は目をさましますが、夜中に起き上がることは私達の生命をちぢめる思いがいたします。それは、驚くほど恐ろしい蚊の群れが蚊帳を出るや否や、私達の鼻先を目がけて襲撃しようと待ちかまえているからです」。とバラ夫人にとって蚊軍は「迫害者」であり、成仏寺は「蚊の寺」であると名付けていた。
1863年(文久3)、この年、日本は尊王攘夷の運動がはげしく、外人襲撃事件も多くなったので、成仏寺に住んでいたバラ先生たちは、米国陸戦隊の護衛の下に居留地内の米国領事館へ一時移ったが、1864年(元治元年)1月、横浜海岸の波止場付近に家屋が与えられて半分はブラウン氏、半分はバラ先生が住んだ。
この家屋は、元居留地167番を米国居留民の礼拝場として、ダッチリフォームドミッションの名義で、幕府から下附されたもので、ペルリ提督と日米条約の談判が行われた地であった。ここで英語の教授も始まったが、後に横浜公会創立の地ともなったのである。
バラ先生は日本に来て二ケ年、初めて日本語で祈りをすることができるようになった。集まった人びとにこれは大きな感動を与えたのであるが、バラ先生の宣教は、実に祈りをもって始められたのである。
*この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、つのぶえ社から許可を得ています。
バラ・マカルピン「日本伝道百年史」・・2・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
2 成仏寺の生活・・1・・
「どんな場所へ案内して呉れるのかと尋ねて見たかったのですが、遠慮してしまった。するとやがてお寺について、大きいどっしりした門が開いて、大きい立派な建築物、門からそこへ石畳をしいて舗道が出来ているのを見て驚きました。ブラウン一家は本堂に接する庫裡(くり)におられ、バプテスト派の宣教師ゴーブル氏は境内の小さい家に住んでおりました。
ヘボン博士は独り本堂に住まっておられましたが、家族はその頃アメリカに帰っておられたので、私達はヘボン博士と共に本堂に住むことになりました。ブラウン夫人の言われるには、『これが日本のこの地に於ける唯一の宣教師館なのです。あなた方を歓迎しますよ』と、ヘボン博士は独り住まいにあきて、私共夫婦を親切に迎えて下さいました。寺の境内の外景は立派でありましたが、家の中は稍(やや)暗く、陰気でした。博士は仏像を取り除き、ガラス窓や紙の仕切りなども作ったのでしたが、私共はブラウンさんの一家に迎えられました。ヘボン博士は喜色満面、微笑をうかべ戸口で私共を迎え応接間を通って気持ちのよい居間に案内して呉れました」(ドクトルヘボン伝)。
こうしてバラ夫妻の日本伝道の出発は、仏教寺院を本拠にして始められ、その本堂が日曜礼拝の教会堂となり、横浜居留の宣教師や信徒たちが小舟に乗って礼拝に集まった。宣教師たちの子供のため、バラ夫人などが日曜学校を受持った。クリスマス礼拝も、パーティーもこの成仏寺の本堂で行われた。
バラ先生の日課は、毎朝早く起き出して、成仏寺から1キロ程北の丘にある「岩崎山平尾内膳守物見の松」に登り、その樹下でしばらく祈って帰り朝食をとられ、それから横浜の167番の建物に出かけて、その日の教務を執られた。 成仏寺の附近には、本覚寺に米国領事館、フランス公使館には神奈川甚行寺、オランダ領事館には長延寺、成仏寺のすぐ左り隣りの慶運寺にはフランス領事館にあてられ、成仏寺前の小川の向か側の浄瀧寺は英国領事館があった。
この寺町の一画に、常に「尊王攘夷」をとなえる水戸浪士や長州、土佐などの浪人たちが横行して、すきがあれば外国人を斬殺しようとねらっていたのである。また江戸幕府もキリスト教禁制の立場から、門衛や下僕にしたてたスパイを入れて、成仏寺の宣教師の行動をいつも探っている有様であった。幕府は宣教師を寺に軟禁して監視するという政策をとったので、寺の門の両側には、保護という名目で監視の役人がいつも4人ずつの交替で立ち番をしていた。
成仏寺に於けるバラ、ヘボン、ブラウンの三家族は異教の国、日本にあって、言語の通じる唯一の友であり、また慰めであった。日本語のわかるアメリカ人はおらず、また、英語を解する日本人もいない生活は、ずいぶんと不自由であったが、言葉によらず行ないによる宣教師たちの生活に感化された一つの物語が残っている。
バラ・マカルピン「日本伝道百年史」・・1・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
1 ゼームス・H・バラの来日
バラ先生は、米国ニューヨーク州デラウェア、カウンテー ホバアトと言う町で、1832年(天保3)9月7日に生まれました。
父はジョン・ハミルトン・バラ(1800~1888)と言い、母はアン・グレイギ(1807~1887)と言い、ともに米国のダッチリフォームド教会に属する熱心な会員であった。アン・グレイギ夫人の願いは「子供に恵まれたら、その幾人かは、私の代わりに外国宣教師となってもらいたい」と言うことであった。そうした篤信の母親の祈りと教育によって、その家族の中から4人の宣教師が出たのも偶然ではなかった。その後一家は、住居をダウエンポルドに移したので、少年バラはそこで小学校に通学した。
時に魚を漁(すなど)り、農業の手伝いをし、羊を養い、バターをつくったり、気まめに働いて日曜日には8哩ほど離れリフォームド長老教会に出席した。
1844年、バラ先生12歳の時ニューヨーク市に一家は転じ、さらにロックランド、カンテーに移った。この地のウエスト バプテスト ダッチ教会に出席、会員となり、将来、外国宣教師となる決心をしたという。
1852年の秋、ニュージャーシー州ニューブラウンズビックのラドガースカレッジに入学し、同校を卒業後、ニューブラウンズビック神学校に進み、その在学中にダッチリフォームド教会から、日本へ宣教師を派遣することとなり、バラ氏は卒業後その召命に応じて日本に行くこととなった。
1861年、バラ氏はヴァージニア州ブロスベリー出身の、同様に宣教師志願のマーガレット・キンナー(1841~1909)女史と結婚して間もなく、6月1日ニューヨーク港から帆船の「キャセイ号」に乗って米国を出発し、アフリカの喜望峰(ケープタウン)を経由して、122日を費やして9月28日、やっと上海に着いたのであった。
バラ夫妻は、さらに10月23日、上海から貨物船アイダロジャース号に乗り換えて日本に向かったが、その船は156トン積の帆前船で、乗客4、5名、水夫8、9名のボロ船であった。途中11月7日、熊野灘で暴風にあい、船体は沈没の危険にさらされ、船長も絶望して、一同は死を期す有様となった。
バラ氏は当時の心境を「私は今、自分が死ぬのを憂い悲しむ考えはありませんでした。ただ、私を日本に派遣したリフォームド教会の伝道局は、先に一人の宣教師を支那に送ったが、すでに日数を経過しても、その到着の報告もなく、きっとその船は難破してしまったものと噂されております。私の乗っている船も、今や暴雨風で海底に沈もうとしている。リフォームド教会の伝道局は、微力を以て外国伝道を新たに行わんとし、今、日本の国土を眼前にしながらその伝道計画は、水泡に帰さんとしています。この156屯の小船に伝道局の存亡がかかっています。自分が死ぬのは惜しくはないが、唯、伝道局の前途が心配であります。「神よこの船をつつがなく無事着岸せしめ給え。私は誓って身命を惜しまず、忠勤に励んでこの使命を全ういたしますと祈りつつ、この誓いを以て私は日本に来たのであります。神はこの誓いを果たせるために私を紀州灘で救われた」(バラ先生来朝40年祝賀会演説)と述べておられる。
バラ氏夫妻は、19日を費やして1861年(文久元年)11月11日、やっと神奈川に着くことが出来たのである。嵐はただ海上のみではなかった。当時の日本もまだ尊王攘夷、王政復古の倒幕のため不穏な状態にあった。特に西洋人は夷狄(いてぎ)と軽蔑し、殺傷事件がひんぱんに起きていた。宣教師に対しては、切支丹邪宗観の立場から蛇蝎(だかつ)のように忌みきらっていた。
幕府は先年来(1860・萬延元年)、銅を外人に私売するのを禁じ(10月17日)、米、麦粉を売ることも禁じた(11月3日)。12月5日には米国公使館通訳官ヒウスケンが江戸の麻布古川橋で暗殺され、この年(1661)5月28日には、水戸藩士の14人が英国公使館の品川東禅寺を襲撃して英人2人を斬るなど、物騒な時代であった。
江戸幕府と天皇家の妥協をはかって、尊王攘夷の対立を和らげるため、皇女和宮が将軍家茂に降嫁する大行列が木曽道中を、深谷宿(埼玉県)から熊谷宿(埼玉県)に向かっている頃、バラ先生夫妻は日本に上陸したのである。
この日11月11日は、バラ夫人キンナーさんの誕生日に当たっていた。バラ氏29歳、キンナー夫人21歳で、この若い夫婦が最初のスイートホームとなった場所は、神奈川の成仏寺本堂で、その本堂を4つに区画した一室であった。それは米国領事の斡旋で神奈川奉行から居住許可を受けたところであり、すでに、北米プレスビテリアンミッションから宣教医として派遣されたヘボン博士が住んでおり、他に先着のダッチリフォームドミッション派遣のS・R・ブラウン宣教師夫妻と子供たちと、そしてバプテスト教会のゴーブル宣教師が住んでいた。
バラ夫人は神奈川(横浜市)に到着した時の有様を「旧日本の瞥見(べつけん)」に次のように記している。
「私達は、寒さ身にしむほどの11月の日暮れにやっと到着しました。私の21歳の誕生日に、ブラウンさんの家族は私達を迎える為め、埠頭に行かれたのですが、あまり早すぎたので暫く我々の船の到着まで友人の家で待つこととしました。その為め、私達は皆に会うため、新しい居留地の道を歩かされ、それから神奈川まで小舟で行かねばならなかったのでした。その舟とは天蓋のない小舟で、半身裸体の船頭が船歌にあわせて掛け声をかけながらこいで行ったのです」。
この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、「つのぶえ社」から許可を得ています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」