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「十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=日用の糧=
第四の祈り③・失われるもの
詩篇52:7~11
昔と違って、日本の国の全体が経済的に豊かになりました。神を知らない人々の多くは、日々のパンのために祈る必要を感じていません。私たちキリスト者はどうなのでしょうか。あの「愚かな金持ち」という主イエスの譬え話を思い出すまでもなく、蓄えが保証にならないことは分かっています。それで、この祈りの意味を良く理解しておく必要があります。例えば、アーサー・ピンクも幾つかの理由を挙げて、十分な蓄えがあっても、この祈りをする必要があることを教えています。
必要の第一の理由として、私たちの所有は失われる可能性があるからです。創世記の19章に記されているソドムとゴモラの町が、天からの火によって焼き滅ばされた時のことを思い出してください。ロトの家族は神の御使いによって、前もって警告を与えられ、この町から逃れるように命じられましたが、彼らはその警告を信じなかったため、強引に連れ出されました。関西・淡路大地震のように自然の災害が突然襲います。予期しない経済の変動があります。突然の病気や事故に見舞われることがあります。そのように予期しないことが起こりますから、私たちが豊かであっても、それは神の気前の良さのためであることを、この祈りによって教えられる必要があります。
この祈りが必要である第二の理由として言えることは、私たちが持っている蓄えが、神に祝福していただくものでなければ、私たちに益にもならないということです。人は神と富とに兼ね仕えることは出来ませんから(マタイ6:24)、富が悪魔によって利用されて争いの原因や神から離れさせる道具になる可能性があります。キリスト者は誰でも、富のために神から離れた人々の実例を多く経験させられています。
この祈りが必要である第三の理由は、「われらの日用の糧」の「われらの」という言葉から来ています。この祈りが個人で祈られても、個人の祈りではなく、「天にましますわれらの父よ」という言葉で始まっているように、共同の祈りですから、個人的な必要だけで終わってはならない祈りであることを意味しています。他の人々に対しても、同情や思いやりのために所有している心を持てるように求めている祈りです。その点をパウロはガラテヤ教会に宛てた手紙の6章10節で、こう述べています。
「今、時のある間に、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう」。
この祈りが必要である第四の最後の理由として、天地のすべての物の本来の所有者は神だからです。私たちの蓄えは、神から受けていること、あるいは管理を任されていることを自覚するために、この祈りが必要なのです。そうでないと、私たちは思い上がるか、富が神になる危険があります。
「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=日用の糧=
第四の祈り③・失われるもの
詩篇52:7~11
昔と違って、日本の国の全体が経済的に豊かになりました。神を知らない人々の多くは、日々のパンのために祈る必要を感じていません。私たちキリスト者はどうなのでしょうか。あの「愚かな金持ち」という主イエスの譬え話(ルカ12:13~21)を思い出すまでもなく、蓄えが保証にならないことは分かっています。それで、この祈りの意味を良く理解しておく必要があります。例えば、アーサー・ピンクも幾つかの理由を挙げて、十分な蓄えがあっても、この祈りをする必要があることを教えています。
必要の第一の理由として、私たちの所有は失われる可能性があるからです。創世記の19章に記されているソドムとゴモラの町が、天からの火によって焼き滅ばされた時のことを思い出してください。ロトの家族は神の御使いによって、前もって警告を与えられ、この町から逃れるように命じられましたが、彼らはその警告を信じなかったため、強引に連れ出されました。関西・淡路大地震のように自然の災害が突然襲います。予期しない経済の変動があります。突然の病気や事故に見舞われることがあります。そのように予期しないことが起こりますから、私たちが豊かであっても、それは神の気前の良さのためであることを、この祈りによって教えられる必要があります。
この祈りが必要である第二の理由として言えることは、私たちが持っている蓄えが、神に祝福していただくものでなければ、私たちに益にもならないということです。人は神と富とに兼ね仕えることは出来ませんから(マタイ6:24)、富が悪魔によって利用されて争いの原因や神から離れさせる道具になる可能性があります。キリスト者は誰でも、富のために神から離れた人々の実例を多く経験させられています。
この祈りが必要である第三の理由は、「われらの日用の糧」の「われらの」という言葉から来ています。この祈りが個人で祈られても、個人の祈りではなく、「天にましますわれらの父よ」という言葉で始まっているように、共同の祈りですから、個人的な必要だけで終わってはならない祈りであることを意味しています。他の人々に対しても、同情や思いやりのために所有している心を持てるように求めている祈りです。その点をパウロはガラテヤ教会に宛てた手紙の6章10節で、こう述べています。
「今、時のある間に、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう」。
この祈りが必要である第四の最後の理由として、天地のすべての物の本来の所有者は神だからです。私たちの蓄えは神から受けていること、あるいは管理を任されていることを自覚するために、この祈りが必要なのです。そうでないと、私たちは思い上がるか、富が神になる危険があります。
「十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=日用の糧=
第四の祈り①・霊的な必要のために
ルカ12:13~21
後半の三つの祈りに移ります。「日用の糧を今日も与えたまえ」という第4の祈りに始まるこの後半の祈りは、私たちにとってより身近な事柄の祈りになります。それでもそれらの個々の求めはそれ自体が最終的な目的ではなく、これらの祈りを聞いていただける目的は、やはり第一の祈りである神の御名が崇められることのためにあります。ですから、これからの後半の祈りにおいても、私たちのそれぞれの求めることの目的が第一の祈りにあることを理解することが必要です。
アーサー・ピンクは、これらの後半の祈りに関連してこう述べています。「われわれはこれらの祈りにおいて、三位一体の各位格に言及していることははっきりと識別できる。私たちのこの世での必要なものは父なる神の厚意によって与えられる。また、私たちの罪の赦しは御子の執り成しによって与えられる。そして、試みから守られ、悪から救われることは、聖霊の恵み深い働きによる」。そういうわけですから、三位一体の神が、文字通り一体となって、この後半の祈りを聞いてくださることを思い、それだけに「御名が崇められる」ことに関心を持たなければなりません。
それにしても、私たちの肉体的な必要が、「罪の赦し」と「悪よりの救い」という霊的な必要よりも先に求めるように言われています。それは霊的な必要のために体の支えが必要だからです。言い換えれば、霊的な必要の方が重要であって、そのために体が必要を満たされるということです。それはまた物質的なことで満足してしまってはならないということでもあります。
従って、日毎の糧を与えられていることは、霊的な働きをするように備えられていて、次の「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく・・・」「われらを試みに合わせず・・・」という霊的な歩みに食物があるということです。
ルカによる福音書12章13節から21節を読んでいただきました。遺産の分配のために助けを求めた人に対して、主イエスは愚かな金持ちの譬え話をなさいました。
金持ちであること自体は少しも愚かではありません。彼の愚かさは、自分の命を主なる神が定めておられることを知らず、自分の蓄えの量によって保障されていると思っていたことにありました。そのような思いであれば、このように、「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることが、無意味であるだけでなく、偽りの祈りでさえあります。
原文ではこの金持ちが「わたし」という言葉を6回も繰り返しているのを日本語ではなぜか訳されていません。17節の「わたしの作物」、18節の「わたしの倉」、「わたしの穀物」、「私の財産」、19節の「わたしは」、「わたしの魂」(新改訳ではここだけ「自分の」魂)です。蓄えは確かにこの金持ちの所有ですが、神から与えられたことがわかっていなければ、その人生は不幸で愚かなものになります。あ
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御心=
第三の祈り⑤・御名と御國と御心
詩篇103・20~21
第三の祈りの最後として、第一から第三の祈りまでの関係を整理しておきましょう。主の祈りは「天にましますわれらの父よ」という呼びかけの言葉で始まりました。それには神の子らとして、御父の思いを知って、それを少しでも行いたいという思いがすでに表明されています。そして、主イエスが御父の御子であって、われわれの長兄として、父の御心を行う模範を示してくださいましたから、この「父よ」という呼びかけによって、私たちは神の子らとして、御父の御心を知ろうという強い願いが現わされます。
そうして、「御名を崇めさせたまえ」という第一の祈りをするとき、主の祈りの最も中心となる祈りをしていることになります。御父の子らとされている者として御父に何を願うべきかと言えば、父が崇められることです。言い換えれば、父の栄光が現わされることです。それは、ウエストミンスター大教理、小教理問答のそれぞれの第一問にある通りです。神の子らの歩みはいろいろ違うわけですが、神の「御名が崇められる」ことが神の子らの人生のおもな目的です。
神の御名が神の子らによって崇められるのは、何よりも子らが御父のご支配に服することで現わされます。子らがこの世の父にしたがわないのであれば、父の名が崇められず、恥を受けることになります。子らが父なる神の支配に服するために、第二の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。
主イエスが、「神の国は実にあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と言われたのは、弟子たちが御子を信じて神のご支配に服するようになったからです。その点でも、御子自身が模範を示され、御父のご支配に服し通されました。このように、第二の祈りの御国の支配に服することに比例して、第一の祈りの神の御名が崇められることが実現します。
次に、神の御国の支配に服することは、神の御心を知ることで可能になります。それで、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という第三の祈りがささげられます。天使たちは常に顔を神に向け、神の御心を行うよう待ち構えています。ヘブライ人への手紙の記者が1章14節で記しているように、神は天使に、信者や信者になろうとしている人々に仕える使命を与えておられます。そういう天使が存在することは、私たちもいっそう神の御心を行うために励ましとなります。
「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブライ1:14)。
このように、第一の祈りのために、第二の祈りが支えとなり、そして、第二の祈りを次の第三の祈りが支えることになります。それで、「御名が崇められる」ことが祈りの中心であり、信仰生活の中心であることがわかります。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御心=
第三の祈り④・天になるごとく
コロサイ1・3~12
第三の祈りにおいて述べられる「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」の「天になるごとく」について理解しておきましょう。
神の住まいである天は三位一体の神と、聖徒たちと、そして天使たちの住まいです。黙示録7章9節には、「大群衆が白い衣を身に着け」、御父と御子を礼拝している状況がヨハネによって明らかにされています。聖徒たちの生活は「昼も夜もその神殿で神に仕える」(15)ものです。
したがって、天の生活の中心が礼拝であることは、今の私たちの生活に方向を与えてくれます。そのことを思う時、私たちの地上で営んでいる人生が、すでに真の神であるお方を御子にあって礼拝することができるようにされていることは、永遠の人生の幸いを先取りさせていただいていることになります。
しかし、このように、天では神の御心が聖徒たちや天使たちによって、完全に行われているのにも関わらず、私たちはこの地上ではそう願いながらも、私たちの内に残る罪の性質のため、願う通りには行きません。それなら御心を行うことを諦めすしかないのかと言えば、そうではありません。天においてなされていることを励ましとして、少しでもこの地上においても私たちが、神を礼拝することは神の御心に沿うことですから、このように祈って、礼拝に励みます。
そのため、使徒パウロは信仰者に絶えず励ましを与えています。例えば、コロサイの信徒への手紙1章9~12節を読んでいただきました。パウロは、コロサイの教会に人々が、主イエス・キリストに対する信仰と、全ての人々に対して愛を抱いている事実を、神に感謝し、この信仰と愛はあなたがたのために天に貯えられている希望から来ている(1:4~5)ことを認識させます。
その上で、神が将来のためにコロサイの教会に求めておられる4つのことを挙げて、パウロは地上の教会が御心に従って歩むように祈ります。それは、地上の教会である私たち信仰者が将来に備えて、父の御心を地上で行う姿を描いていることになります。
第一に、「御霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟る」(9、10)ように祈ります。私たちの内に御霊が内住してくださり、み言葉によって御心を悟らせてくださることです。
第二に、「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩む」(10)ことです。御心を知ることが従って歩むための一歩です。
第三に、「神の栄光の力によって、どんなことも根気強く耐え忍ぶ」(11)ことです。自分の力では耐えられなくても、神の力によって耐えられるように訓練されることです。
第四に、聖徒たちの「相続分に、あなた方があずかるようにしてくださった御父に感謝する」(12)ことです。これらが御心を行うための励ましです。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御心=
第三の祈り③・御心に従う姿勢
使徒21:10~14
「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」の祈りは、神の御心が明らかにされ、その御心に心を向け、そして御心に実行させていただく求めが含まれていることを学びました。今回は、御心に従う姿勢について考えます。
まず読んでいただきましたように、パウロは第三回伝道旅行の帰途にカイザリアに着きました。エルサレムに向かおうとして、伝道者フィリポの家に幾日か滞在した時のことです。その時、ユダヤからアガボという預言者が下ってきて、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言いました。
「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人はこの帯の持ち主をこう縛って異邦人の手に渡す』」(使徒言行録21:11)。
これを聞いた弟子たちは、その土地の信者たちと一緒になって、パウロにエルサレムに上ることは危険であると言って、上らないようにと、しきりに頼みました。アガボの預言が神の御心であると考えたからです。しかし、それに対して、パウロが次のように答えたため、人々はそれ以上語らず黙ってしまいました。
「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」。パウロが私たちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ」(13)。
パウロがアガボの言葉と人々の忠告によって、思案したり動揺したりすることがなかったのは、すでに彼自身が神の御心を知らされ、それに従うつもりでいたからです。「投獄と苦難がわたしを待ち受けている」(同20:23)との聖霊の御告げを受け、備えができていたからです。
マリアが天使から受胎の告知を受けた時、そんなことはあり得ないと思いましたが、神の力によって起こるという御心を知らされた時、それに従うことを決意し受け入れました。
このように、明らかにされた御心であっても、それを理解するのは困難であったり、時間を要することがあります。しかし、御心に従う思いがなければ、御心がわからないままになり、御心をなすことのないままになってしまいます。この第三の祈りはそのようなことがないようにという祈りでもあります。
それで、使徒パウロはこう述べています。
「あなたがたは世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神が喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)。
試練から逃れる道を備えられているという御心、(Ⅰコリント10:13)を信じないため、御心を行うことができずにいることがよくあります。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御心=
第三の祈り②・御心に従う
詩篇119:25~48
神の隠された意志が変わるように祈っても変わりません。主がゲッセマネの祈りにおいて、最後に「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心が行われますように」(マタイ26:39など)と祈られましたように、主は父の御心が変わらないことを知っておられました。イスラエルのバアル礼拝に対し、神が下される裁きとして、雨が降らないことを預言者エリヤが願い、三年半にわたって雨が降りませんでした。そして、雨が降るように祈った時、雨が降りました。しかし、それは預言者である彼にあらかじめ知らされていた神の啓示に基づくものでしたから(列王記上17:1)、エリヤが神の意思を変えたわけではありません。
入学試験に合格することを祈ることは、その学校について調べ、過去の試験問題を学習し、合格のため努力をすることも祈りです。神の隠された意志を知ることを求める祈りではありません。
前回学びましたように、この第三の「御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」の祈りは、父が明らかにされた御心が、私たちによって行われるように求める祈りであることを教えられました。それは具体的には私たちが思いと、行いにおいて父の御心に喜んで従うことです。主イエスが御父の御心に従い、サタンの求めをきっぱりと拒絶したことがその手本です。私たちの罪から来る弱さがありますから、その戦いは生涯続きます。そのため、父の助けを受けることがなければ、父の御心を行うことができないということを、へりくだって認めるように神に助けを求め続けることです。
そのために、この第三の祈りをするとき、私たちには三つの思いが込められていると、アーサー・ピンクは語ります。その願いの第一は、先ず父の御心が聖書によって明らかにされ、それを知ることができるように、つまり、聖書を読むことに熱心であり、喜びであるように、という求めです。「あなたの命令に従う道を見分けさせ・・・あなたの掟に従う道を示してください・・・」(詩篇119:32,36)。
第二は、その教えられた御心に、私たちの思いが向かうことを求める必要があります。「あなたによって心は広くされ、わたしは戒めに従う道を走ります。・・・あなたの定めに心を傾けるようにしてください」(詩篇119:32,36)。聖書の言葉を知っているというだけに留まっていては、御心を行うことができないからです。
こうして、御心を知り、御心を行なう願いの上に、第三は、父の御心を行うために霊的な力を父から与えられて実行することです。そこで初めて御心を行うことができます。「あなたの戒めに従う道にお導きください。・・・あなたの律法を守る者でありますように、常に、そしてとこしえに」(詩篇119:35,44)。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御心=
第三の祈り①・明らかにされた御心
使徒言行録21・10~14
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という第三の祈りに移ります。この祈りが聞かれるまで、「御国を来たらせたまえ」という第二の祈りがかなえられます。さらに「御国が来ること」が、「御名を崇めさせたまえ」という第一の祈りがかなえられたことになりまます。
では、神の「御心」について考えてみましょう。神の御心は何かということについて、まだ明らかにされていない御心と、すなわち、隠されている御心と、すでに明らかにされている御心の二つがあります。
そうなると、このように言う人がいるかも知れません。「私たちが第三の祈りをしても、あるいはしなくても、神の御心は常に行われているのであれば、祈る必要がないのではないのではないでしょうか」と。この疑問はもっともな疑問です。なぜなら、神は私たちがどのように求めても、あるいは求めなくても、御心を行なってくださる面があるからです。
それは隠されている神の御心と呼ばれるものなのです。それは神御自身の行動に関するものであって、預言の言葉として前もって語られた時になって初めて分かるか、出来事として起こった時に分かるからです。
例えば、「主よ、わたしたちの神よ・・・御心によって、万物は存在し、また創造されたからです」(黙示録4:11)とありますように、人は神の創造の御心を結果的に見ることが出来るだけです。また神の摂理的な支配の業についても同じことが言えます。ネブカドネツッアルは自分の苦しみに会ったことを神の摂理的な業であり、よいことであったと語って、神を讃美しています(ダニエル4:34):が、結果的に分かるだけです。また、神が誰を憐れまれるかは分かりませんが、後になってみると、結果的に恵みであったことが分かることが多くあります(ローマ9:15)。これらは神の隠れた意志と言えます。
パウロがエルサレムで迫害されるという予測(ローマ21:14)も隠された御心です。しかし、神が明らかにしてくださった御心があります。神は御自分の御心を聖書によって明らかにしてくださいました。十戒のように明らかにされた神の御心があります。隠された御心とは違って、私たちはそれを無視したり、従わなかったりすることができるため、御心が行われないことが数限りなくあります。
例えば、安息日、父母への敬い、憎しみ、色情、偽証、貪りなど、私たちの心の中まで厳密に調べるなら、信仰者であっても、私たち自身が守っているよりも守っていないことの方が多いことを知っています。
そのため、私たちはそれだけ神の御国が人々に見えないようにし、来ないようにしていることになります。それで主は、私たち信仰者に、「御心の・・・地でも行われますように」と祈り、明らかにされた神の御心を少しでも行うことを求めるように励まされました。これは傍観者の祈りではなく参加者の祈りです。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御国=
第二の祈り④・再臨
ルカ18・1~8
「御国を来たらせたまえ」と祈る神の国は、「すでに」到来しているという面と、「まだ」到来しない面の 両面があることが教えられています。すでに学びましたように、主イエス・キリストが来られ、特にその十字架と復活により、悪魔の支配に決定的な打撃をお加えになりました。しかし、神の国は目に見えるように完成していないことも事実です。悪魔はなお抵抗し続けていますし、この世の悪は幅を利かせています。神の国も完成はなお将来にその実現を待たなければならないことを聖書は教えています。御国がすでに完全に来ているのであれば、主イエスは弟子たちに、「御国を来たらせたまえ」と祈るように教えることはなさらなかったはずです。
ですから逆に言えば、主がこのように祈ることをお命じになったのは、御国が完全に到来することを約束してくださった証拠でもあります。読んでいただきました「不正な裁判官の譬え」から、神の国の性質を学んでおきましょう。
この譬えは、「気を落とさずにたえず祈らなければならないことを教えるために」(1)、主イエスが弟子たちにお教えになったのですから、神の国の完成を願う譬えとして、「裁判官は、暫くの間は取り合おうとしなかった」(同4)ということは、実現に時間がかかるという意味です。私たちの目から見れば、「しばらくの間」はごく短い期間のように思えますが、神の目から見れば、「一日は千年」のように短いとしても、それは私たちには非常に長い期間にわたって待つことを暗示しています。
他方、主は、最後の8節で、「人の子がくるとき」と言われて、裁判官が裁判をする時は、世の終わりの時、すなわち、主イエスの再臨による最後の審判のことであり、しかも、この裁きは、主御自身の目から見れば、「神は速やかに裁いてくださる」(8)ことなのです。わたしたちには「しばらくの間」と言う時間を要することでありながら、主イエスご自身の視野の中では、この「しばらくの間」と「速やかに」という二つが同時に事実であるということです。
私たちには、「しばらくの間」を要するということは、遠い先のように受け取られます。そうなると、再臨に対して無関心になります。その反対に「速やかに」再臨があるとなると、今にも実現するかのような期待をもって、再臨運動をしたりすれば、今の生活に身が入らなくなります。Ⅱテサロニケの信徒への手紙2章2節のように、既に再臨はあったものとしてみたり、3章11節のように、「怠惰な生活をし、少しも働かない」という誤りにも陥る可能性があります。
これらのいずれでもなく、神の国がすでに到来し、主によって、その支配が明らかになっていることに励まされ、現在の使命に生き、そして同時に、やがて確実に到来する再臨によって、神の国は完成することを大事にして、「御国を来たらせたまえ」と祈り続けます。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御国=
第二の祈り③・神の支配に服する
マタイ13:18~23
神の支配である神の国は、主イエスが誕生され、公生涯をなさったことで、画期的な新しい姿を現しました。それまでの旧約時代は預言者、祭司、王という人々を通して、神はその御心と御力とを現してこられましたが、御子によるその支配の豊かさは格段の違いとなりました。とりわけ、その十字架の死と復活によって、主の愛は人々の心を開き、大きな支配をもたらすことになりました。それが終末の完成に向かって、さらに拡大されていくことが確実であることは、この「種蒔きの譬え」の通りです。
主はこのように蒔かれた種には4種類の可能性があることをお語りになりました。その中の一つだけが順調に成長しています。このことは、妨害する悪魔の働きが強く、決して侮ることができないということです。現実もそのように見えます。私たちは、日本という異教の土壌に生きていて悪魔の働きを肌で感じています。信じることに妨害を受け、信じてから成長することにも妨げがあります。
しかし、30年余りの牧師の経験から、少し分かって来たことは、プロテスタントの宣教が始まって150年になろうとしている時、私たちキリスト者の成長の難しさを少しでも取り除かないと、人々が信仰に入るのは妨げられるということです。
言い換えると、私たち自身が聖書の教会に成長すること、具体的には私たちが、教会でも、家庭でも、地域でも、親戚にも、職場でも信仰的に羨ましがられるようになって初めて、良い環境が与えられることになります。そのために、改革派教会が目指している教会は確かに聖書の教会ですが、良い伝統がまだまだ受肉していないのが現実です。
この譬えから教えられるように、先ず、主がこのように実を結ばせてくださることを約束していてくださることを知って、励まされます。
そうして、主が言われたように、現実に、悪魔のために、私たちが実を結ぶのを妨げられている自分自身に気付き、先ずそのことを認める必要があります。認めるからこそ、「御国を来たらせたまえ」と祈らなければならないのです。
神の国が自分を支配してくださるように、自分が真実にその支配に従うようにさせてくださいと祈ります。私たちは傍観者ではありません。み言葉を聞こうとしない思い上がりで、この世の力に負けており、さまざまな誘惑に負けていては、御国は来ません。誘惑に対して闘うことができるよう、できれば、「勝たせてください」というのが、このように「御国を」求め、「御国に服すること」を求める祈りです。
それは私たちが、その祈り求める神の支配に服したいという願いが真実になることを願う祈りです。この譬えを聞いて悟る人は「ある者は百倍、ある者の六十倍、ある者は三十倍の実を結ぶのである」と、主御自身から保証されているので、失望しないで、「御国を来たらせたまえ」と祈ります。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御国=
第二の祈り②・神の国に入る
ヨハネ3:1~13
前回は「御国」すなわち、神の国が神の支配であることを理解しました。残りを3回に分けて、神の支配のことを聖書から、少し具体的に学ぶことにします。今回は、神の支配に入る、御国に入ることを求める祈りとして、次には、私たち自身がすでに神の国に入っている者として、神の支配に服することを求める祈りとして、最後は、約束されている終末の日が来て、イエス・キリストの再臨の後に、神の国は完成し、私たちは完全な救いを与えられますから、その日が来ることを祈ります。
御国は確実に、そして着実に拡大していくことを約束されていますので、このことを期待をもって求める祈りとして学びます。
旧約時代に神の国は、イスラエルの民と言う選民に殆ど限定されていましたが、主イエスの到来とともに、神の国は全世界に開かれました。そのために主の約束によって聖霊が降られ、主イエスを信じる人は、国籍に関係なく、神の国に招かれています。
このヨハネによる福音書3章に記されているニコデモのことは、私たちがよく知っている聖書箇所の一つです。彼が夜、主イエスを訪れた時、主は彼に何が必要であるかを、こうおっしゃいました。
「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3)。
ニコデモには今のままでは、神の国を見ることができない、と主はおっしゃいました。見ることができないだけでなく、ましてや、神の国に入ることは決してできない、とおっしゃったことになります。神の国、神が支配しておられることを本当に見ることさえ、「新しく生まれること」が必要条件であると言われました。さらに主は、言い方を変えて、5節でこう言われました。
「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。
「水」とは何を指して言われたのか、洗礼者ヨハネが授けていた水の洗礼に関係があるというのが最も自然で、ヨハネが水でどんな洗礼を授けていたかを思い出したでしょう。自分の罪を認め、それを悲しみ、悔い改めて、洗礼を受けるためにヨハネのところに来ていましたから、悔い改めの洗礼のことでした。もう一つの「霊」とは、主御自身がお与えになる聖霊のことですから、聖霊に助けられて、主イエスを信じることを指しています。
従って、ニコデモであれ、だれであれ、罪を悔い改めて、主イエスを信じることで新しく生まれます。こうして神の国に入れられます。
ですからこの第2の祈りによって、救われる人が起こされ、そのために私たちに証しさせ、伝道させてくださいという祈りです。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくはみ名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御国=
第二の祈り①・神の支配
ルカ17:20~37
「御国をきたらせたまえ」という第二の祈りは、主の祈りの中で最も短い祈りです。しかし、それでいて最も多くの意味を含んでいる祈りであると言われています。そのことを何回かに分けて理解することにします。
最近読んだ主の祈り本の一つに、この「御国を来たらせたまえ」について、国という言葉があるためでしょうか、「政治的な」性質のある祈りであると解説しているもの(ウイリモン、ハワーズ「主の祈り」、日本基督教団出版局、100頁)がありました。
この祈りが全宇宙的な神の支配を求めると言う意味がないわけではありませんから、政治的な祈りと考えるのでしょうが、この祈りはそういうことを中心に求める祈りではありません。イングランドの内戦の状況下で、しかも議会の求めに応じて生み出された、政治的な環境の中から生まれたウエストミンスター大教理問答にも小教理問答にも、そうした意味のことが記されているわけではありません。
事実、ファリサイ派の人々は、そうした政治的な国の到来を願って、「いつ来るのですか」と主イエスに尋ねたわけですが、主は、「神の国は、見える形では来ない」と言われました。
主イエスが「御名を崇めさせたまえ」という第一の祈りに続いて、「御国を来たらせたまえ」という第二の祈りを教えられたのは、第一の祈りが実現するための手段として、「御国を来たらせたまえ」という第二の祈りをお教えになりました。御国が来ることによって、御名が崇められることになり、崇められる程度も、御国が来る程度に連動するからです。
この「御国」は、主イエスが弟子たちにまず求めるべきものとして、マタイによる福音書6章33節で、人々に言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
この「神の国」を求めることは、神の支配に服することを求めることです。そして、「神の義」を求めるようにと言われたのは、その神の国の支配に服することは、神の義に従う程度によって現わされることになるからです。
神の義とは、神の契約にみられる神の真実、恵み、それゆえ、契約に入れられた者の間の平和、正義、助けなどです。それを求める程度に応じて、神の国が見えます。そうすれば、生活の上での必要は添えて与えられるという約束です。
このように、まず神の支配が私たちの心に生まれ、それが次第に強化されることを願うことがいかに重要であるかということが頷けます。しかし、私たちは自分でこの神の支配に完全に服して行くことはできませんから、主はこの第二の祈りをするようにお教えになったわけです。更に進んで支配に服していこうとするにつれて、神の民は御名をそれだけ崇めることができるようになるからです。
憐れみ深い神は願う前から与えようとされておられますが、大事なことは神の支配の中で与えられていることを知っていることです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」