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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御名=
第一の祈り④・自分を崇める
創世記11:1~4,ヨハネ12:27~28
ノアの洪水の以後、人々は再び増えました。創世記11章のはじめの部分を読んでいただきました。そこには人々がバベルの塔を築いたことが記されています。彼らは何の目的でこのような塔を建てたのでしょう。人が最初に造られた時、やがて数が増え、地に満ちることになることが神から人に与えられたことが目的の一つでした。しかし、この11章4節には、人々は塔を建てて集まり、「全地に散らされないようにしよう」と言って、神の命令に逆らいました。彼らがそのようにした動機は、建てた塔のことで「有名になろう」、すなわち、「自分たちの栄光を現わそう」という強い願いがあったためでした。
結果として有名になるのであれば、それは避けられないことですが、バベルの人々は、有名になること、自分たちの名が崇められること、栄光を自分たちに帰すことが目的で、この塔を建てました。このように、私たちは彼らの子孫として、常に自分を崇めたいという性質を大なり小なり持っていることを示しています。
「御名を崇める」ことに関して、アーサー・ピンクという人(1886~1952年、移民としてアメリカにわたり、アメリカの教育を受け、牧師になり、1934年にスコットランドに戻り、前後の30年間「聖書研究」という月刊誌に書き続けたものが、書籍になっている)は、主の祈りの第一の祈りに関連して、神の御名を妨げている自分の罪を嘆く必要があると教えています。
そして(1)避けるように願うべきことが、自尊心、熱心さの欠けた冷ややかさ、意志の頑なさ、生活の不潔さという4つの点を挙げています。その反対に(2)積極的に求めるべき点としては、神を知る知識が豊かになること、清い畏れが心に増すこと、信仰と希望と愛が増し加わること、そして、自分の賜物を正しく積極的に用いることの4点を挙げています。
17世紀のオランダの神学者でウイトシウスという人は、「主の祈りの講解」のなかで、神の御名を崇めることを願っているなら、神に仕えるのに自分に欠けた点を、人が補ってくれるのを喜ぶはずであること、また、他の人が自分より能力があって神に貢献しているのを喜ぶはずであること。この二点がチェック・ポイントであることを語っています。
キリストご自身の実例を考えてみましょう。今回の聖書の個所に、十字架を思って心を騒がせられた主イエスがヨハネによる福音書12章28節で、「父よ、御名の栄光を現わしてください」と祈られました。公生涯の終わりが近づいた時、主はこのようにご自分によって、父の御名の栄光が現れることを願われました。
死を前にした御子にとって、父の御名の栄光を現わすことが最後の関心事として、そのことを願われたということは、御父の栄光が最も大切なことであることを意味します。私たちが神の栄光を現わすことができるなら、それが何よりも幸福であるということです。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくはみ名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御名=
第一の祈り③・御名が崇められることが中心
マタイ6:5~8
「御名を崇めさせたまえ」という祈りが最初に来るもう一つの理由は、その後に続く第2祷から最後の第6祷までが、この御名を崇めさせたまえという第1祷の具体的な内容の説明だからです。
例えば、第2祷の「御国を来たらせたまえ」と祈ることが、御名が最も崇められる具体的な内容になるからです。御国とは神の国ですから、それは神が支配しておられる国であり、神の支配に服している民からなっています。従って,「御国を来たらせたまえ」という第2祷は、神の民が神の御心に服することを求める祈りです。そのような神の御心に支配されることが実現するなら、そこでは何よりも神の御名が崇められていることは明らかです。つまり、主の祈りは、この第1祷に尽きると言ってもよいのです。しかし、主は理解の鈍い私たちのために、具体的にその内容を第2祷から第6祷までをもって教えてくださいました。
このように最も大事なことは、言わば結論を最初に挙げて、その後は内容の説明をするという順序は、物語を語る時の順番とは逆です。しかし、聖書には教えを語る場合、最も大事なことを最初に挙げて、その内容や説明がその後に続くということは、よく注意して見ると多くあることに気付きます。
旧約と新約から、その実例を挙げてみるとよく分かります。例えば、モーセの十戒を考えてみましょう。確かにこれは十の掟が記されています。しかし、中心は何か言えば、第一戒です。「わたしのほかに何者をも神としてはならない」という戒めが守られれば、具体的には、神の名をみだりに唱えることも、刻んだ像を造ったり、拝むこともないでしょうし、安息日を聖別することも当然です。そして、神を畏れ敬う者であれば、隣人に対しても神の御心を行う者として、第五戒から第十戒を守るよう努めることも当然のことです。
例えば、使徒パウロの場合を見てみましょう。彼は、人間関係の基本的な原則として、エフェソの信徒への手紙5章21節で、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と先ず語ります。その上で、この命令の実際的なこととして、「妻たちよ」と22節で、「夫たちよ」と25節で、「子供たち」と6章1節で、「父親たち」と4節で、「奴隷たち」と5節で、「主人たち」と9節でそれぞれ説明を加えています。「キリストに対する畏れ」敬いが薄れ、自意識が強く、自分の思いが中心になるので、パウロはこのように語りました。
同じことは、主がこの主の祈りをお教えになるきっかけも、「偽善者のようであってはならない」と言われて、偽善者の特徴は「御名を崇める」のとは正反対であって、自分の誉れのために行動しているのをご覧になって、弟子たちへの教育のために、この祈りをお教えになりました(マタイ6:5~8)。このように、主の祈りで、最初に来る「御名を崇めさせたまえ」が祈りの中心であるということです。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御名=
第一の祈り②・神を崇める
マタイ19:16
前回は大教理問答の190問の答えから、御名が崇められるのに私たちが「無能力と無気力」であるという前提を学びました。復習の意味でその現実を考えてみましょう。
例えば、アダムとエバの堕落は神の命令よりも自分たちの誉れを重んじたために起こりました。カインがアベルを殺しましたのも、カインが自分の供え物を神に受け入れられなかったことに腹を立てたためでした。アブラハムに始まるイスラエルの民の歴史は、神の恵みの選びに始まったにもかかわらず、全体としては、神よりも自分たちの誉れを重んじた歴史です。
イスラエルが主イエスを拒んだのも同じ理由からです。そして、私たちキリスト者の信仰生活においても、無意識のうちに神の誉れよりも自分の誉れを重んじているのです。
そうなると神が崇められることが私たちに最も大切なことでありながら、それは最も難しいことであることを理解した上で、努力することが、私たちキリスト者にとって、大事なことであることを知らされます。
それはどうしたら可能になるのか、聖書に記されている一人の人のことから、具体的に考えてみましょう。それで、読んでいただきましたのは「富める青年」のことです。
まず、主イエスは彼を軽蔑したり、叱責したりして言われたのではありません。マルコによる福音書には、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(10:21)と記されています。しかし、主はこうも言われました。
「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人びとに施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(マタイ19:21)。
主は12弟子にもこのように言われたとは記されていません。この青年にだけ言われました。それは彼が自分の財産に特に支配されていたからでしょう。彼は若いし、誠実であるし、人々の信頼もあったため、最高法院の議員になれたほどでした。社会的に尊ばれていたでしょう。でも彼がキリストの弟子になれない大きな欠陥がありました。それは自分の誉れを財産としていたことでした。主は彼を財産から解放する必要がありました。
しかし、主は彼にただ財産を貧しい人々に施すことさえすれば、永遠の命が得られると言われたわけではありません。この命令は財産に勝るものがあることを彼に教えるためでした。それは何かといえば、「それから、わたしに従いなさい」(21)ということでした。
彼が財産の支配から解放され、主に従っていくなかで、主の十字架の死と3日目の復活と、そして40日後の昇天を見ることになります。そして、その意味を理解し、主を信じることになります。永遠の命を与えられた自分に気付きます。伝承によりますと、この富める青年は、のちに使徒たちの足元に土地の代金を置いたバルナバ(使徒4:37)だと言われています。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御名=
第一の祈り①・神を知る
詩編51:17、ヨハネ17:1~8
最近、犬を飼っている人が多くなったそうです。そう言われて見ますと、朝夕、教会の近所も小さな犬を連れて散歩している人々を特に多く見かけるようになりました。またロボットが次第に巧妙になってきて、コンピューターの進歩のお陰で、ある程度の反応を示すように制御される犬のロボットまで登場してきました。人に癒しを与えるようになるということで人気があるようです。
しかし、人はなぜ癒しに欠けているのでしょう。また、本当の癒しはどこから来るのでしょう。それは人が神によって造られたのに、神を無視して、癒しを失ったのです。神は人を、思い付きからではなく、深い配慮をもって造られました(創世記1:26~27)。従って、人は自分を造ってくださった神を知ることで、自分の目的を知りますから、どうしても神との交わりの回復が必要です。その交わりが生まれたとき、本当の癒しが与えられます。芸術や自然や科学も神の作品の一つですから、そこに安らぎがあるのは当然ですが、その安らぎは神を直接知ることから来る安らぎに比べれば、あくまで間接的な安らぎです。
人は神から離れては、本当の癒しや平安はありません。それで、ダビデは、詩編でこのように、神が「唇を開いてくださることで、神を讃美することができます」と言います。なぜなら、人間の性質は罪の影響を受けているため、神を崇めるよりも、むしろ自分自身を崇めることを願うからです。
神を知らずに、崇めることはできません。しかし、大教理問答の190問の答えは、まず私たちが、「神を正しく崇めることのできない無能力と無気力を認める」必要があるという現実について語ります。
そこで、神の御名を崇められるために、この「無力と無気力」を少しでもとり除いて、神を崇める能力と気力が強化されるために、御子イエス・キリストを知ることが必要です。そもそも罪を犯して堕落したアダムとエバに対する救いの約束(創世記3:15)の成就として、イエス・キリストがこの世に来られ、アダム以来の選民の罪の償いのために十字架で死なれ、復活してくださいました。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=天にまします=
呼び掛け③ 天にいます
ヘブライ12:1~3
主の祈りにおける呼び掛けの言葉について考えています。原文では「父よ」、「われらの」に続いて、第三に、「天にまします」という言葉になっています。
この「天にまします」の「天」は、主の祈りの中の第三の祈りの言葉の中にも出てきます。すなわち、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」(10)の「天」です。これはギリシャ語では「ウーラノス」という言葉なのですが、マタイによる福音書6章9節の「呼びかけ」の言葉では、「天」は複数形であるのに対して、10節の第三の祈りの「天になるごとく」の「天」は、単数であるという違いがあります。
呼びかけの言葉のなかの複数であるのは、聖書では「天」が、雲が浮かんでいる大空の天、星がきらめいている宇宙の天、そして、神の霊的な住まいのである天という三つの天に言及しているため、呼びかけの言葉の「天」が複数形で表現されているのは、三つの諸々に天を支配しておられる父なる神への呼びかけを意味しているからです。
父なる神がこのように見える世界と見えない世界を支配しておられることを知っている必要があります。悪魔も見える世界と見えない世界に挑戦してきます。しかし、キリストの勝利はこの両面の勝利です。十字架も復活も昇天も、そして神の右に着かれたことも両面の勝利を意味します。その中でも、大事なことは悪の霊との戦いの勝利です。なぜなら、パウロは、エフェソの信徒への手紙の6章12節で、こう語っているからです。
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするのではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするのです」。
悪霊の頭である悪魔と地上で戦い、主イエスは天に昇られ、神の右に座してくださったことが勝利です。しかし、戦いは終わったわけではなく、最後に死を完全に滅ばすことになりますが、その実現は終末を待たなければなりません。しかし、その勝利は保証されています。その根拠が、「恥をもいとわないで、十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」(ヘブライ12:2)ことにあります。
そのため、主イエスから教えられたときに比べ、私たちは、天の父の支配に対して、一段と確かな信頼を持つことが出来ます。
そして、それだけでなく、目を天に向けて祈る時、すでに世を去った信仰の先駆者たちが私たちの祈りを聞いて、声を合わせて共に祈っていて下さることも知らされています。
「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」(ヘブライ12;1)ことを知るからです。従って、この呼びかけの言葉には父なる神への深い信頼があります。
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=天にまします=
呼び掛け② 父なる神
マタイ23:1~13
主の祈りは、呼び掛けと祈願、そして結びの言葉の三つからなっています。「天にましますわれらの父よ」がその呼び掛けの言葉です。今回はその「父よ」について理解を深めたいと思います。
旧約聖書は言うまでもなく、新約聖書も、祈りは父なる神に向かって捧げるものと教えています。罪人である私たちは父なる神に近づくことが出来せんから、御子を通して御父に祈ります。そして御父の御心に適った祈りが出来ませんので、それが出来るように聖霊の助けを受けて御言葉に教えられて祈ります。このように御父に向って、御子を通して聖霊を受けて祈ります。そのため、三位一体の神は、私たちが祈りが出来るよう力を結集して励まして下さるので、祈りは神との豊かな交わりになることが分かります。
「父」なる神に祈ることを考える時、ウエストミンスター大教理問答の189問には、「父としての神の善意への確信と関心、畏敬の念、その他に子供らしい気持ち」が与えられると語っています。「父よ」と呼ぶ時、深い信頼感が与えられます。それは地上の肉親の父が与えるものとは似ていますが、それ以上のものであるということが出来ます。
その理由は、主イエスが群衆と弟子たちに向かってお教えになったマタイによる福音書23章9節の意味を理解すると分かります。主は、ファリサイ派の人々の教えには耳を傾ける必要はあるが、彼らの行いを見習ってはならないと教えられた後で、こうおっしゃいました。「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」。この言葉を見ますと、肉親の父を父と呼んではならないと言われているように聞こえますが、もちろん、そうではありません。主イエスが第五戒の「父母を敬え」に矛盾するようなことをおっしゃっているはずがありません。
それでは主イエスが天の父だけを父と呼ぶようにと、言われた理由はどこにあるのだろうかということです。それは私たちに信仰を教えてくれた信仰の家族、つまり、教会が第一の家族だということです。教会が第一の家族で、その父だから、肉親の家族以上に教会において父なる神を重んずるように、と言われたのです。
年賀状の季節が終わりましたが、四国の一人の友人が電話でこんな愚痴を漏らしていました。彼は友人から指摘されたと言っていましたが、同感だから私に語ってくれたのだと思います。牧師たちの年賀状は自分の家族のことは書いてあるが、神様のこと、教会のことには一言の言及もないものがあるのはどうしたのかと言うのです。
私たちの天の父が優先されることを契約の子供たちに教えるのは、父親が天の父を第一として生き、父親以上に影響を与える母親が御父を第一とする手本を示さなければならないということです。
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=天にまします=
呼び掛け① わたしたちの父
マタイ6・9、ヨハネ15:1~8
マタイによる福音書に記されているように、主イエスは弟子たちに祈りとその内容を教えられました。特に「主の祈り」と呼ばれるものがそれで、弟子たちが祈るように教えられた祈りですから、「弟子たちの」祈りと呼ばれてもよいのかもしれませんが、そうではなく「主の」祈りと呼ばれてきました。
主が教えてくださった祈りの内容ですから、御父はこの祈りを必ず聞いてくださるはずだと言うことが出来ます。また、ヨハネによる福音書の15章5節に記されていますように、ぶどうの木に連なる枝のように御子に連なっている私たち信者が、今では神の右に座して執り成してくださるキリスト御自身にあって祈るのですから、私たちキリスト者の主の祈りが、聞かれないはずがありません。このように二重の意味で必ず聞いていただけます。
さて、この祈りの呼び掛けの言葉「天にましますわれらの父よ」は、原文では、日本語の順序とは逆で、「父よ、われらの、天にいます」という順序になっています。「われらの父」が「天にいます」の先に来ます。
この「われらの父よ」から、第一に教えられたことは、「わが父よ」ではないということです。「わたしの父よ」ではなく、「わたしたちの父よ」という呼び掛けです。
「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)と個人の祈りを教えられた主は、そのすぐ後の9節では「われらの父よ」と複数で呼びかけるようにお命じになられたのは、大事な理由があるからです。
その理由は、私たちが、一人で信仰生活をするためにキリスト者になったのではないということです。信者たちの交わりに、教会の交わりに加えられるために信仰が与えられたということです。このことを主の祈りの呼び掛けの言葉は教えています。私たちに入ってきた罪の性質は、自分だけで満足する生活をしたいという傾向をもちます。共同の祈りを好みません。しかし、キリストを信じるということ、その人が救われることによって、「われらの父」に互いに連なることです。
もちろん個人の祈りが必要です。しかし、個人の祈りにしても、「われらの父よ」と祈る時、個人主義は間違いであることを教えています。教会の礼拝や祈祷会の交わりに加わらないことは、主の祈りに矛盾することになります。私たちはキリストを信じることで、初めて父なる神を信じるようになりました。主が「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる」(ヨハネ14:7)と言われている通りです。私たちはその父を「われらの父よ」と呼びます。そのため、この呼びかけの言葉は、キリストの体に結び合わされている平安を私たちに自覚させてくれます。
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくはみ名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=祈りについて=
祈りについて③・願う前からご存知
マタイ6・8、32~34
主は、主の祈りをお教えになる前に、弟子たちにこう言われました。「あなたがたの父は願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ6:8)と。
この言葉の意味を心に留めておくことで、私たちは祈ることの喜びと熱心へと励まされます。しかし、「天の父が私たちの願いを、祈る以前からご存知であるなら、祈る必要があるのだろうか」というように思う人がいるかもしれません。そうであれば、祈りへの姿勢は消極的になります。
さらに「どんなに祈っても、どのようになるかは祈る前から決まっているのであるなら、祈る必要がないのではないか」というようにさえなるもしれません。
しかし、主は祈りの内容を教えてくださる前に、このようにおっしゃったということは、父は既に私たちの願いをご存知なのだから、熱心に祈る必要はないというような消極的な意味でおっしゃったはずでは決してありません。むしろ祈りの励ましのために言われたはずです。それでは、このように言われたことの意味は何なのでしょう。
それは、ヘルムート・テイーリッケという牧師が、その著書「主の祈り」の中で語っていますように、父なる神は、私たちが願う以前から、私たちの願いを私たち自身が知っている以上によく知っていて下さるという事実です。私たちが自分のために願い、他の人のために祈る時、その願いよりも、それ以上に必要なことを父なる神は知っておられ、それに基づいて答えて下さることがあるということです。
例えば、使徒パウロとシラスは、第二回伝道旅行のなかで、リストラからテモテも加えて、ビティニア州に入ろうと願ったが入れないでトロアスに下り、そこからマケドニアへ渡って行くことになりました(使徒16:10)。それがヨーロッパ伝道、つまり世界伝道への突破口となりました。
パウロは小アジアの伝道を願っていましたが、天の父のご計画は違っていたのです。私たちはよく検診によって、自分の知らなかった病が明らかになります。医者はその検診の結果と、私たちへの問診によって、どういう問題や病があるかを明らかにしれくれます。それは、医者の方が私たちのことを、私たちよりもよく知っているために出来ることです。神もそうです。
私たちは無意識のうちに自分が自分の事を一番よく知っていると思っています。そのため、祈ったとおりにならないと、祈りが聞かれなかったと思ってしまいます。しかし、御父の答えは私たちの願いのようにならないことがあっても奇異に感じる必要はありません。御父の方が私たちのことを良く知っていて下さるからです。その御父の御心をよりよく知るために聖書があり、聖書を理解するのに聖霊のとりなしの助けを受けていることは非常に幸いなことです(ローマ8:26)。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=祈りについて=
祈りについて②・聞かれない祈り
マタイ6・5~7、ルカ1q8:9~15
施しをするとき、人からの報いではなく、神からの報いを信じることが大切であるように、祈りが神に聞かれることを信じるのにも、信仰が必要です。祈りを聞いている周囲の「人からの報い」を期待する祈りは、聞かれない祈りであると、主は5節でおっしゃっていました。
そして主は、人に聞かれることを願う祈りとして、二つの実例を挙げられました。その一つは偽善者の祈りであり、もう一つは異邦人の祈りです。
偽善者の祈りの特徴は、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」という言葉に見られます様に人の評価を期待する祈りです。人に向かって語る祈りとも言えます。会堂で祈る祈りが、皆、人に向かう祈りというわけではもちろんなく、どのような時の祈りでも、人からの賞賛を期待する祈りや、人に聞いてもらって、立派な祈りだというように思われることを期待した祈りは、神に聞かれないと主は言われました。例えば、読んでいただきましたルカによる福音書18章10節以下で、主はファリサイ派の人と徴税人の祈りについて対比して話されました。
ファリサイ派の祈りは、神殿の境内で周囲の人々に聞こえる祈りです。しかも、よく見ると、その語っている内容は自慢話であって、人に聞いてもらうための言葉であるか、自分に向かって語っているような祈りです。そこには神様がおられないかのようです。主は祈りが人に聞かれてはならないと言われているわけではありません。
主ご自身、あの大祭司の祈りをなさったとき、弟子たちが聞いている中で長い祈りをされました。私たちも祈祷会で祈るとき、お互いがその祈りを聞きます。その祈りを聞きながら、祈る人と一緒に祈ります。結果的に周囲の人々に聞こえますが、周囲の人々に向かって祈るわけではありません。天の父に向って祈ります。
他方、徴税人は遠くに立って顔を伏せて、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。独り言ではなく、彼は自分の罪を悲しみ、憐れみを信じて願い求めました。罪の赦しさえも求めていませんが、神がその祈りを聞かれ、赦しの平安を与えて下さったので、神に「義とされて家に帰った」と主は言われました。
主が聞かれない祈りのもう一つの例として挙げられたのが、異邦人の祈りです。その特徴は自分の功績に関心があり、「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」祈りです。数年前、韓国の高神派の総会議長のお宅に3日ほど泊めていただいた時、早天祈祷会に出席しました。4時半~7時くらいでしたが、20分くらいの奨励があり、その後は各自がそれぞれ自由に祈り、6時半ころまで祈って帰っていく人々が多く、その後も祈っている人もいました。そこには「言葉数が多い祈り」と言う誘惑があります。しかし、三々五々静かに家路につくことで、神と共にその日の歩みが始まったという思いを与えられました。矢張り神中心なのです。
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=祈りについて=
祈りについて①・見ておられる父
マタイ6・1~13
大教理問答では十戒によって、人の罪が明らかになります。その罪に対する神の怒りから逃れるために、悔い改めと信仰は必要です。この悔い改めと信仰を与える恵みの外的手段として、御言葉と礼典と祈りの三つが挙げられます。このように祈りは信仰に関係し、178問から扱われ、その中心となる「主の祈り」は最後の186~196問にあります。
十戒と祈りを、このように理解したうえで、主の祈りについて学んでいきます。これは新約聖書には、マタイによる福音書の山上の説教(6:9~13)と、ルカによる福音書では一人の弟子の求めに応えて、祈りの内容をお教えになった部分(11:1~4)にあります。
主が祈りを教えられることになった動機を山上の説教から考えることで、まず祈りについて、主はこの6章に7つの実例を挙げて、信仰について教えておられます。信仰を求めておられる人にとって、信仰とは何かを知るのに役立ち、すでに主イエスを信じておられる信仰者にとっては、信仰を吟味するのに助けになります。
主は、祈りについてお教えになる前に、6章の1~4節で「施し」について語られました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい(6:1)。人に自分が評価されることを目的に善行をしないように、ということです。人の益のために善行をすること自体が問題なのではありません。前の5章16節でこう教えておられるからです。
「あなたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。
自分が人に評価されることを願ってする施しは神に認められないために、主はさらにこう言われました。右手をすることを左の手に知らせてはならない」と。右手も左手も自分の同じ体ですから、知ることになりますが、主は人に知らせることを厳しく禁じられました。自分は人にこれだけのことをしたことを、自分にも知らせるなということは、言い換えると自分のした施しを「忘れなさい」ということになります。自分が親に、兄弟に、子供たちに、あるいは他の人にした施しや親切を忘れなさいという命令です。
なぜなら、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(6:4)からであって、あなたたちはそれ信じなさい。なぜなら、それが信仰だからだ、と言われたことになります。祈りも人に聞かせるためのものではないので、人からの賞賛のための言葉使いや内容であってはならないのです。
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒⑤・恵みによって
ローマ7:13~25
一応これで「十戒」の学びを終りにします。しかし、これまでの55回の学びを、キリスト教倫理に関係する学びの指針にしていただければ幸いです。
第十戒は行動だけでなく、欲望という心を問題にしている戒めであることを学びました。旧約聖書には心を問題にした箇所は幾つもあり、この第十戒だけが特別ではありません。例えば、ノアの洪水の前後、神は人についてこう見ておられます。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思いは計っているのを御覧になった」(創世記6:5)。洪水後に、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人は心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(同8:21)。神は洪水後の人の思いは変わらないのを見ておられます。
ダビデも隠れた罪の存在を問題にしています。「知らずに犯す過ち、かくれた罪から、どうかわたしを清めてください」(詩編19:13)。また神だけが私たちを罪から守ることができるので、「神よ、わたしを究め、わたしのこころを知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください」(同139:23)と求めています。
ローマ教会は、罪を三つに分けます。無意識の罪、意識した罪、実行した罪の三つです。このうち無意識の罪は罪ではないとします。従って幼児には罪がないと主張します。しかし、聖書が人は全的に堕落していると教えていることから見て、これは誤りです。
十戒の要約として主イエスが、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という旧約聖書の申命記6章5節の言葉と、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」を引用されました。(マタイ27:37~39)。
この規準を満足できる人はいません。ローマ教会の説明は、この世の人々の受けは良いでしょうが、意識しようがしまいが、神のこの求めに応えることができる人は、主イエスを除いて一人もいませんから、この点でも正しくありません。
私たち信仰者は、パウロと共にこう正直に告白します。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしたちを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。しかし、主イエス・キリストが救ってくださいましたから、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(同7:25)と告白することができます。
それはちょうど、十戒の前書きに記されていますように、十戒を完全に守ることができないとしても、守ろうとする熱心と力が、奴隷の国から導き出してくださった主なる神に対して生まれます。同じように、永遠の滅びから救い出してくださった主イエス・キリストがおられ、約束の地を受け継ぐことができるようにして下さったので、いっそう私たちは励むことができます!
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒④・宣伝や宝くじ
エペソ5:1~5
今回は第十戒の「むさぼり」に対する戒めとして、宣伝とか宝くじのような具体的なことを、ドウマ教授の指摘を参考にして考えることにします。
宣伝は、古くからあって、中世教会のステンドグラスの中には、教会は支援者たちから資金を出させるために、彼らの信仰の告白を残すために作らせたものもあったようです。
現代の宣伝では、多様化するとともに、今ではテレビのコマーシャルのように、技術的にも高度なものが製作されるようになりました。心理的に研究され、効果のある技法が用いられ、消費者の購買意欲をそそるのにしのぎを削っています。しかし、宣伝にはその業界の倫理規制があって、誇大広告であったり、誤解を与えることや、浪費をもたらすようになるものに対しては、自粛されています。
良い製品を作り出した人がその製品を宣伝するのを、だれも妨げてはなりません。その反対に、自分の欲に負けて、必要でもない物を買わせるような宣伝には、自分の誘惑を治める努力が必要です。
他方、国がスポンサーになって販売する宝くじ、スポーツくじ、東京都が計画しているカジノというようなものを、どのように考えるべきでしょう。運が良ければ大金が手に入るという性質のものです。それらは、自分がする将棋やチェスのようなゲームにかけるようなこととは違って、自分と関係のないゲームを利用して、高額な金額を儲けるというようなものは、この第十戒に反する貪欲の罪と言えます。
オランダでは、スポンサーが出す賞金を目当てにクイズに参加し、失格者が増えることで、賞金も増え最後に優勝者がいないと、そのお金は義援金として施設に寄付されるという番組があるようです。
しかし、反対に挑戦者が最高額の賞金を獲得すると、最終的にはスポンサーの手元には一銭も残らないことも起こるそうです。こういうものも一種のギャンブルです。また、商店のお客を獲得するためにくじをだすことがあります。程度の問題でしょうが商品を売るのが目的でなく、明らかにお客の欲望をそそるためのものは、王道ではありません。長い目で見れば、商店は出来る限り良品を、合理的な価格で継続的に販売することで、顧客の信頼を得ることを目指すべきです。
所有は罪ではありませんが、所有欲は罪です。このエペソ5章5節に、使徒は「貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神の国を受け継ぐことはできない」と言います。偶像礼拝者の礼拝が「貪欲」であるのは、神の国、すなわち、神の御支配を信じ、満足することがないというところから来ています。「偶像礼拝の原因は、神の支配に満足しない欲望」から生じることを、使徒パウロは指摘しています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」