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鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒③・妬みからの解放
Ⅰテモテ6;6~10
すでに見てきましたように、貪欲や人への妬みは、アダムとエバが堕落して以来、人間の性質として私たちにあります。それは自分の現在に満足しないという形で現れます。カインは自分の献げ物が神に受け入れられなかったことで、弟アベルを妬み、それが弟を殺す罪に至りました。預言者ナタンはダビデの罪を責めた時、多くの羊を持ちながら、隣人の一匹羊を奪う貪欲さに、ダビデは自分には関係がないことと思っていましたが、そうではなく、ダビデ自身の貪欲の罪でした。
聖書は、人が所有することそのものを禁じていません。問題は、使徒パウロが警告していますように、妬みや所有への欲望に危険な性質があるということです。特に所有のための手段となる金銭欲が悪の根(Ⅰテモテ6:10)ですから、注意しなければなりません。
また一見、関係が無いように見えますが、偽預言者や偽教師がその教えを伝えようとするのも、貪欲のために偽りの教えを語っていることを、使徒ペテロは指摘しています。ペテロの第二の手紙2章1節から3節で、彼は「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」言います。
イスラエルの民もこの貪欲から完全に逃れることはできませんでした。昔、彼らは奴隷であった国エジプトから主なる神の力によって逃れることができ、荒れ野でマナを食べ、岩から湧き出る水を与えられました。しかし、彼らはエジプトの肉鍋を食べたいと不平を言いました。世と世の欲は強力です。「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり、御父から出ないで、世から出るからです」(Ⅰヨハネ2:16)とある通りです。アダムとエバの時とは欲望の形は違っていても、悪魔は実質的には同じ方法で、信仰者に不満を抱かせ、罪に陥れます。
この貪欲と妬みに勝つためには、まず十戒の前書きの言葉にあるように、主なる神が罪の奴隷から救い出してくださったことへの感謝、そして、十戒の柵の中にいることが安全であり、かえって自由であることを忘れないことです。
その柵は、他の神々を拝まず(第一戒から第三戒)、安息日に神を礼拝し(第四戒)、権威、命、結婚、所有、真実を重んじる(第五戒)ことが、真の神を信じる信仰者に自由を与え、その反対の道を選ぶとき、再び罪の奴隷となるということを決して忘れないことです。
ですから、神が与えて下さっているものを大事にして生きることが必要です。改善を求めること、進歩を願うこと自体は問題ではありませんが、必要以上に豊かさを求めることは信仰者として警戒する必要があります。この第十戒は自分の家が今の自分にとって最善であり、配偶者が最も適しており、今の仕事が自分の能力を発揮するのに最善なのです。他の人々が持っているものが自分のものよりもよく見えても、神様がいておられる見方は、このように教える見方です。
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒②・神は心を見られる
Ⅰサムエル16:7
会社の重役会の会議は、機密事項であり、知られないはずの事柄がいつとはなしに漏れることがよくあります。閉ざされた扉の中のことが外に現れるという意味で、共通性があります。
このことは例外を見るだけで判断することは不十分であるということです。時には誤った判断をしてしまうこともあります。そのために慎重に判断することが重要で、心にあるものが外に何らかの形で漏れ出てくることにも注意する必要があります。他方、神がなさる判断は常に誤ることはありません。神は人の心を見ておられるからです。サムエルがダビデに油を注ぐように命じられたとき、神は彼に次のように言われたことは有名です。
「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7、新改訳)。
人は外に現れるものを、表面的に判断したり、厳しく判断したり、あるいは横柄な態度で判断したりすることがあります。そのような裁きに対して、今度は相手から裁きを受けることになります。そのため、主は山上の説教で、「裁くな、裁かれないためである。」(マタイ7:1)と軽率な判断について注意なさいます。
それでも、心にあるものは、ある程度は外に現れます。第十戒では、欲してはならないことを具体例として、まず隣人の家とそこにある物のことが挙げられています。戦争のことを考えると分かるように、隣国の領土を得ようとするために戦争が起こり、現在も繰り返されています。かつての日本がそうでしたし、今のパレスチナ問題にしても、アフリカ諸国の部族間による内戦にしてもその典型を見ています。
戦争によって多くの恐怖と緊張が続き、家族が失われ、多くの富が浪費されます。欲望がこうした罪を生み出しています。
第十戒は隣人の妻を欲してはならないことを命じます。このことは離婚と多く関係があるでしょう。そうはならないにしても、罪として裁かれることはないように思われがちですが、必ずしもそうとは限りません。裁判においても、計画性があることや、殺意があったかどうかは、犯罪の軽重に関係することはよく知られています。例えば、何かの陰謀があることが明らかになったとき、実行されなかったとしても、その内容によって重い裁きを受けることになります。
最後に、心の中は目に現れるとよく言われるように、聖書も、「彼の目は富に飽くことがない」(伝道の書4:8)と述べています。また「人の知恵は顔に光を添える」(伝道の書8:1)とあるように、心が大事であることを教えています。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒①・むさぼるな
ヨシュア記7:1~26
第十戒について、ローマ教会とルーテル教会は、他の教会と違った区分をしています。彼らは第二戒の「刻んだ像を作ってはならないを第一戒に入れたことにしたために(カトリック要理」第17、18課参照)、第十戒を二つに分けて、第九戒「人の妻を望むなかれ」と第十戒「人の持ち物をみだりに望むなかれ」というように数を合わせています。これを見ても、いかに人為的であるかが分かります。
出エジプト記20章17節のように、隣人の家が先に来ても、申命記5章21節のように、隣人の妻が先に来ても、その節の全体の内容が変わるわけではありませんから、隣人に属するものを欲する、むさぼるという罪のことを禁じられていると考えることは極めて自然です。パウロもローマ7章7節で、「むさぼるな」という言葉によって、第十戒を一言で語っています。
この十戒のむさぼりの禁止命令と、第七戒(姦淫)そして第八戒(盗み)の行為の禁止命令との関係をどのように理解したらよいのでしょうか。
世俗的な考え方からすれば、何かを欲する願いをもって、不正な行動に移らないかぎり、罰せられる罪はない、というように考えられています。しかし、この第十戒では、願いを持つことそれ自体が厳しく問題にされていることが分かります。その理由は手に入れたいという願いをもつこと自体、既にそれを得ようとする計画が生まれていて、都合の良い機会が来るなら、それを実行しようとする用意ができているため、問題にされなければならないと考えられているからです。
エリコが陥落した時、アカンは言っています。「分捕物の中に一枚の美しいシリアルの上着、銀二百シケル、重さ五十シケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今もそれらはわたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります」(ヨシュア記7:21)。この彼の言葉から、「むさぼる」ということは、その欲したものに手を出すことを停止することができなかったことを意味しています。
言い換えると、この戒めが指摘していることは、隣人の家、妻、雇用されている人、あるいは家畜を欲する人は、それに手をださいではおれなくなることです。むさぼりが生ずるとこのようになるというのが、この戒めが何よりも意味していることです。
ドウマ教授は、この第十戒が禁じている「むさぼり」とは、気持ちと行動との中間的なものであると言えます。姦淫と盗みの行動は、すでに第七戒と第八戒で禁じられているため、この第十戒は、心に抱く計画とその計画を実行するためのステップの背後に存在するものを問題にしています。「今もっているもので満足しなさい」(へブル13:5)ということが積極的な勧めです。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=偽証=
第九戒④・隠すこと
箴言25:9~11、マタイ18:15~17
「偽証してはならない」からと言って、事実であれば何でも語ってよいわけではありません。事実を明らかにしないで黙っていること、真実を隠すということも、この戒めと関係があると言えます。
「守秘義務」という言葉を聞くことがあります。医師、牧師、弁護士、看護師、ソーシャルワーカーなどの職業に従事している人々は、その職業上で得た秘密があります。それを守ることが義務付けられています。こうした意味で事実を公にしないことは正しいことです。しかし、このような立場にある人々でも、秘密を一切明かしてはならないということではありません。
例えば、患者さんが危険な伝染病におかされている場合、本人にも周囲にも知らせなければなりません。あるいはテロのように、国民にとって危険がせまっているような
情報を得たとき、それを何等かに形で明らかにすることが必要になります。
大事なことは、あることが事実であるにしても、人について知ったことを周囲にしゃべるのは間違っています。「他人の秘密を漏らしてはならない」(箴言25:9)。偏見や誤解が含まれているかもしれませんし、それが更に間違った内容が加わって更に周囲に伝えられるかもしれないからです。それでも、限られた人が知った秘密で、そのことがその人の誤りを正すために必要なとき、忠告しなければなりません。それでも聞き入れないときには、教会員であれば、責任ある立場の人に内密に告げることは許されています(マタイ18:5)。
誤りを正し、悔い改めて兄弟を得ることは、教会の訓練(規律)として大事なことです。日本語に訳されている改革派教会「訓練」と「戒規」には牧会固有のことで、戒規においても重んじつつという大事な点が消されていることが、戒規を不成功に終わらせることになるかもしれません。
私たちの会話が互いに相手を建ち上げることを目指しています。それは必ずしも真実を隠すということとは同じではありません。例えば、本当の友人であれば、誤りを指摘してくれます。しかし、そうでない場合、あるいは敵のような立場にある人は、自分の誤りを指摘してくれることはありません。
ドウマ教授はこういう指摘をされます。「第九戒は私たちの隣人の幸い(well-being)のために労することを求めている。われわれは偽証してはならない。しかし、その人に反対しなければならないときでさえも、自分の言葉で、隣人を助けることができるならば、真実を証言することになる。真の友はビロードの手袋をつけない(うわべだけの優しさを現わさない)。われわれを傷つける言葉と第九戒とが常に対立するわけではないのである」。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=偽証=
第九戒③・必要なうそ
ヨシュア記2:1~16
うそには大きく分けて、三種のものがあると言われています。悪意のうそ、冗談のうそ、そして必要なうその三つです。第一の悪意のうそは明らかなもので、この偽りによって人に害を与えることになるので禁じられています。第二のうそは、真実ではないのですが、それを言うことで人を欺くのが目的でなく、事実ではないことを言って、笑わせる場合です。
難しいのは、第三の必要なうそという問題です。そこで語られるうその内容は真実ではないのですが、その時、うそが必要であるという難しい場合です。例えば、よく例に出されることとして、第二次世界大戦下のドイツによるユダヤ人迫害に対して、彼らをかくまったクリスチャンたちが採った態度です。
この「必要な」ということは、自分のために必要なというよりも、隣人のために必要なうそということです。真実を語ることで隣人の命が危険になる場合、第六戒を犯す罪は第九戒を犯す罪より重いからということもできます。アウグスチヌスは、必要なうそであっても禁じるべきであると考えたのは、うそは罪であり、うそのために肉体は死ぬことがあっても、偽りを避けることで、魂は生きることになると考えたからです。
しかし、この必要なうそに関連して聖書の中に幾つかの実例があることを、思い浮かべることができます。モーセの誕生に関連して、エジプトの王ファラオが、ヘブライ人に生まれる男子をすべて殺すように、助産婦のシフラとプアに命じた時、神を畏れていた彼女たちは、それに従いませんでした。「ヘブライ人の女は元気なため、助産婦が行く前に産んでしまうのです」(出エジプト1・19)と答えました。それで、「神はこの助産婦たちに恵みを与えられた」(10)とあります。
また、エリコのラハブはヨシュアが遣わした二人の斥候を匿い、調べに来た者たちには真実を告げず、時期を見てヨルダン川を渡って戻って行く策を教えて助けました。新約聖書にはこのことを評価しています(ヘブライ11:31、ヤコブ2:25)。似ているもう一つの実例は、バフリムのところに来たダビデの家来二人を井戸の中に入れふたをして隠し、アブサロムの僕に偽りを語って彼らを助けました(サムエル下17:19~20)。
戦争において戦略的に敵の目をくらますことは、単なる偽りとはちがいます。ヨシュアがアイと戦った時、主なる神は荒れに街の裏手から攻めるのに夜の暗闇の中、町から兵士をおびきだす戦略を教えました(ヨシュア8:1~8)。また、主はダビデにペリシテ人を待ち伏せして、出てきたところを襲う戦略を授けられました(サムエル下5:22~25)。
アブラハムとイサクがエジプトへ行った時、彼らは自分たちの妻が妹だと言いました。確かに全くの偽りではなかったとしても、これは必要なうそでなく、禁じられている偽りです。妻に姦淫の罪を犯させることになりうるからです。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=偽証=
第九戒②・偽りとなるもの
マタイ26:57~64
信仰者は偽証しまいと努力しても、結果的に偽証したことになることがあるため、気を付ける必要があることが三つあります。
第一は良くない噂話。すなわち、ゴシップです。
このゴシップは必ずしも偽りそのものではありません。なぜなら、ゴシップには真実なことを広めるという面があるからです。しかし、それは同時に真実を語っても噂話がなされる状況には誤解を与える要素がないわけではありません。隣人の失敗、欠点、足りない面などは、話の材料として人の関心を引くものだからです。人の優れている点よりも劣っている点が話題になることの方が、一般には関心を引きつけると言われています。そのため、人の良い評判はすぐに盗まれてしまい、なかなか返へしてもらえない。どういうことかと言いますと、その人の良い噂話は人々の間に行きわたっていって、その人のところへ帰ってこないが、悪い噂と言うものはすぐに帰ってくるほど早く行きわたると言うことです。
第二は、早とちりによる判断は、隣人を誤って理解し、その人を扱うことになる場合に、偽りを生むことがあります。
今回の聖書個所にありますように、主イエスの弟子たちは、エルサレムの神殿の入り口に座って物乞いをしていた一人の盲人を見て、弟子たちは、この生まれつきの盲人は本人の罪のためか、それとも彼の両親の罪のためか、と主に尋ねました。そう思い込んでしまっていたからです。
昔、アブサロムに裏切られて、エルサレムを脱出した時、ダビデは、主人のヨナタンの息子で歩けないメフィポシェトの安否を、従者のツィバに尋ねると、ツィバは「エルサレムに留まっています。『イスラエルの家は今日、父の王座をわたしに返す』と申していました」と答えると、ダビデは彼に、「それではメフィポシェトに属する物はすべてお前のものにしてよろしい」と言いました。ダビデはメフィポシェトが自分に反逆したと早とちりしたのです。しかし事実、彼はエルサレムに留まっていましたが、エルサレムを離れようとした時、妨げられてしまったのです(同19:28)。
第三は中傷することです。これはゴシップと違って、面と向かって、意図的に誹謗することです。そして中傷は偽りの上に真実の上着を着せ、一見偽りでないかのように装います。主イエスが「この男は、神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる(マタイ26:61)と言ったと非難されます。しかし、主が言われたのは、ご自分の体の復活のことでした(ヨハネ2:19)。
こういうわけですから、私たちは極力、中傷しないことです。パウロはこう言います。「ですから、主が来られるまでは、先走ってなにも裁いてはいけません。主は闇の中の隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てを明らかにされます」(Ⅰコリント4:5)。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=偽証=
第九戒① 裁きにおける不正
ルツ4:1~10
主は殺人、姦淫、盗みを禁じられました。なぜなら、この三つが関係する生命と、家庭と、所有が守られることが、人間の社会にとっては基本的な必要事項だからです。そして、この三つの戒めと関係しているのがこの「偽証してはならない」の戒めです。
なぜなら、殺人、姦淫、盗みがなされるのは、正義が守られていないからで、反対に不正が起こるのは、偽証がまかり通るからです。特に、裁きにおいて不正がまかり通るからです。町の長老たちの裁きの典型的な実例が、このボアズがルツを妻とするために、なされた裁定に見られます。長老たちや証人たちが賄賂をもって事実を曲げるということで、不正な裁きをすることがこの第九戒の中心的な関心事です。
アハブの妻イゼベルが、偽証人たちを用いてナボトについて偽りの証言をさせて、彼の命を奪い、そのぶどう畑を夫のために奪ったことに見られますように(Ⅰ列王記21章)、それは第六戒、第八戒、第九戒、第十戒の違反です。これは社会を破壊させることになります。
裁くためには、いろいろの方法が採られました。預言者サムエルは巡回することによって、地方を裁きます(Ⅰサムエル7:16~17)。ユダの王ヨシュヤファトは町々に裁判官を任命して、主のために正しい裁きをするように命じています(Ⅱ歴代誌19:5~7)。また、エズラは捕囚の地で人々に主の律法を教え、主の知恵によって裁きをするものを任命するように命じています(エズラ:25)。
偽証しないようにするためには、二つのことが重要になります。
その第一は、証言する人々が真実を証言しても、不正な圧力がかけられる心配がないという保証があることです。内部告発が可能な社会であることが望ましいことです。
第二に、真実を訴える制度があっても、それが実質的に機能しない場合、それはさらに困難になります。コへレトの言葉3章16節にこういう言葉があります。「太陽の下、さらにわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があることを」。
江戸時代の五人組制度の時代、ソ連の粛正の時代、中国の文化大革命の時代、イラクのフセインの時代、北朝鮮について聞かされている現状など、真実を話すことができなくなれば、この戒めを守ることは困難です。
したがって、この戒めは単なる「うそ」の問題にとどまらないで、このように、人の名誉、生命、財産、結婚などに関係してきます。この十年から二十年くらいの間に、世界も日本もこの点で下降線をたどってきたように感じられます 。主流の教会と言われる教会自身が、中央集権的な政治力学に支配される時、その与える影響は教会だけに留まることはありません。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒⑤・所有する
ヨブ31:13~2、マルコ14:7~9
生産技術の発達、資源の有無、また市場競争などのために、富める国と貧しい国の格差が広がります。それはその国民にも影響を与えます。幸いなことに、敗戦後の日本の復興のためになされた努力の結果はめざましいもので、私たちはそれを享受しています。
しかし、そうでない国々が多くありますし、私たちの周囲にも、働く意思を持ちながら、生活の手段を失った人々もいます。そういう中で、私たちが働くことによって得ている収入を貯え、生活を楽しむために、使うことに後ろめたさを感じることはないでしょうか。
旧約聖書で神は、収穫の十分の一を神にささげることによって、神に感謝し、生産の手段を持たないレビ人もその恵みに与り、家族や奴隷をも含めて祭りを共に楽しむことを命じられた(申命記12章)ことは重要です。多く与えられた者は、それだけ気前よく用いることができます。ヨブは神から豊かに祝福を受けた人でした。彼は31章で語っていますように、助けを求める人々の求めに背を向けたことなく、7人の息子たちが順に家族を招いて宴会をすることを喜んでいました。
主イエスも、宴会に招かれたとき、招かれない貧しい人々がいるという理由で、その招きを断ることはありませんでした。カナの婚礼にも出席なさり、水をぶどう酒に変える奇跡をもって、その婚礼を祝福なさいました。
こうしたことから、貧しい人々を助けることは必要であり、それと同時に、神は人が楽しむことを良しとされました。
浪費はある種の盗みであることをすでに学びましたが、べタニアで、主イエスが食事の時に、一人の女性が高価なナルドの香油をイエスに注ぎました。人々は憤慨して、無駄使いだと言い、売って貧しい人々に施すことができたのにと言いました。その時、主は彼女を弁護して(マルコ14:7~9)、貧しい人々への同情はいつでもできるが、彼女が御自分にしてくれたことは、御自分の「埋葬の準備」あったと言われ、彼女が主の先のことについて理解をもっていることをお誉めになりました。
主は貧しい人々への援助を軽視なさったのではないことが分かりますが、喜びを現わすときは、自分に与えられていることを感謝するようお教えになられます。
ドウマ教授は、さらにもう一つの視点からこう指摘します。われわれは節約して、収入のある一定の割合を援助のために用いなければならないが、節約することで消費を抑えると、それだけ経済成長がマイナスとなり、結果的に失業者が増えるということになるというのです。そのことは最近のわが国にも当てはまります。
教会やNGOなどの援助活動に協力すると共に、一部を神への感謝をもって後ろめたい思いを持たず消費することも、また必要なことです。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒④・気前よく
箴言6:6~11
大教理問答の問99の4で、「反対の義務が命じられている」と教えられているように、「盗んではならない」という戒めは、「気前よく与える」という義務でもあります。
盗むなは、多くは貧しいからですし、貧しくなるのは多くは自分に原因があります。箴言6章のこの個所は、通常、貧乏になるのは怠惰のためであることを教えています。福祉の制度が備わっている先進国では、特にそのように言うことができます。
この働くことですが、創世記の3章17~19節が示していますように、罪が人間に入ってからは、働くことが苦痛を伴うようになりました。しかし、堕落以前の人間は、働くことが使命であり(創世記2:15)、喜びでした(申命記16:15)から、働くことに充実感や喜びが全く失われたわけではありません。信仰のない人でも、働くことの満足感は保っています。
働くことの祝福について、次の点はキリスト者にとって重要です。天地創造の業を終えられた後の第7日目に、「神は御自分の仕事を完成された」(創世記2:2)として休まれました。わたしたちキリスト者も、6日間の働きの後休み、7日目に安息して礼拝を捧げます。この主の日に礼拝を捧げることで、神から6日間の働きを認めていただくことになります。信仰者の6日間の仕事の完成として、礼拝は欠かせません。
このように神が人に労働の機会を与えてくださることは、働く場所を積極的に求めなければならないことを意味します。旧約聖書のルツ記に記されていますように、ルツが落穂拾いをしたこと(ルツ2:4)、またボアズがルツの働きのためにいろいろと配慮したことは相応しいことでした。
そして、ルツはただ自分のためにだけ働いたのではなく、姑のナオミのためにもなされます。こうしたことは、旧約聖書において、神がイスラエルの民にレビ族の存在によって、彼らのために働いておられることを教えられました。
他の部族は十分の一を神に献げました。新約聖書の時代に、この十分の一が信仰者の献げ物の基準という明白な言葉は聖書にはありません。主イエスも十分の一ということに言及しておられますが(マタイ23:23)、当時は税と献金の区別はありませんでした。
教会が自分たちのためばかりでなく、他の教会のために、また教会の外の人々にも心を配る必要をパウロは教えています。
「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」(ガラテヤ6:10)。
「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒③・良き管理人
ルカ福音書19:11~27
第八戒として、人を盗むことを第一に考えられ、次に不正な秤を用いることが盗みであることを知りました。今回は、自分に与えられているものをよく管理しないこと、用いないことも盗みであるということを学びます。
聖書から明らかなように、神はイスラエルの人々がそれぞれ財産を所有することを前提としておられます。アハブ王がナボトに葡萄畑を手に入れようと代金を払うか、あるいは自分の畑と交換してくれるように頼みましたが、ナボトに断られた(列王上21章)ほどです。使徒言行録4章には、初代教会に信者たちが自分の財産を売って、教会のために献げましたが、強制されてそうしたのではありません。アナニヤとサッピラの事件(使徒5章)からも、同じことが言えます。私有財産ということが前提とされ
ています。
主イエスの譬え話の中のタラントンの譬え話(マタイ25章)とムナの譬え話(ルカ19章)とはよく似ていますが、違う点があります。前者は貸し与えられていた金額が人によって違いましたが、後者では、主人から貸し与えられた金額は10人がみな同じように1ムナでした。主人が旅から帰ってくると、彼らの仕事の成果を問いました。そして、10ムナ儲けた人にも、5ムナ儲けた人にも同じように、主人は「良くやった」と言いました。しかし、1ムナを全くた使わなかった僕には、「悪い僕」と言われ、その1ムナは取り上げられ、10ムナを儲けた人に与えられてしまいました。
このことからも明らかなように、自分に与えられているものの多少に関係なく、浪費すればもちろんのこと、与えられたものを用いなかったということで、神のものを盗んだことになります。つまり神は私たち信仰者が消極的な生き方をすることを良しとされないということです。
愛知県は貯蓄率が日本一と聞いたことがあります。それは良いことです。先回学びましたように、貯蓄それ自体は目的ではなく、何かのための手段です。貯蓄が目的になると貪欲に陥ります。しかし、キリスト者はもっと大事な基本を聖書から教えられています。
それは、神だけが天地を所有しておられるように、神だけが私たちの持っている全てのものの所有者であるということです。神との関係で見る時、私たちは良き管理人という立場であり、所有者ではないのです。持っているものは預けられているものだからです。ただ、私たちが所有者であると言えるのは、人間同士の関係の中に於いてです。「わたしのもの」、「あなたのもの」という意味では合法的な所有者です。その上で、パウロは気前の良さを勧めます。「キリストが富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられた」(Ⅱコリント8:9)ことを模範にすべきだからです。神に信頼された管理人であることを忘れないようにしましょう。
十戒と主の祈り・・・・・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒②・不正な秤
申命記25:13~16、マタイ6:19~24
この申命記25章の禁止命令は、穀物などを仕入れるときには、大きな升やおもい重りを使い、その反対に売るときには小さな升や軽い重りを使って、その差から不正な利益を上がるということを禁止しているのです。これらは明らかな盗みです。
申命記の23章20~21節に、利子に関してこういう戒めがあります。「同胞には利子をつけてはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸しても良いが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えるためである」。
よく言われることですが、宗教改革時代までは、利子ということに対して、社会は否定的でした。それは、こうした聖書の言葉からきていました。しかし、カルヴァンの努力で、借金についての聖書解釈に光が与えられることになりました。借金によって仕事をして利益を得る場合、その借金に対して利子を払うのは当然だという考え方です。しかし、貧しい人々が生活のために借金することと区別されなければならないということです。更に、もう一つの一般的な原則を考慮する必要があります。それは旧約時代のイスラエルは、宗教と政治とが一つになった神権政治のもとにあり、神が自身への守りを保証してくださっていましたから、利子というものを考える必要がありませんでした。
現代ではむしろ借りたものを返さないという問題、不良債権があります。また、公的な資金の融資を受けて、返済が不能になり、国民が税金として払うことを余儀なくされるという問題があります。これらもみな盗みです。
そして、自分に与えられている神からの賜物を用いない怠惰ということも盗みになります。ウエストミンスター大教理問答問142問の答えは第八戒の禁止の内容が多くあり、その最後のところに、「・・・神が与えてくださった状態を・・・正当に用いず慰めとしないこと」が盗みとされています。自分の状態に不満を抱いて努力しないことが盗みです。
さらに、主イエスの山上の説教は、神と富とに兼ね仕えることができないことを教えています。富が目的になると、富は神のようになってしまうからです。蓄えることは良いことです。それは目的でなく手段です。将来のため、子供たちのため、不慮の出来事、老後などのためです。しかし、目的となると守銭奴やケチという盗みになります。
この反対に贅沢も盗みの一つです。浪費だからです。そして、信仰者はそのすべての所有の管理を、神から任されていますから、任されているものを良く管理しないということが、神のものを盗んでいることになります。逆に言えば、私たちは誰でも賜物の良き管理人となるように召されています。
十戒と主の祈り・・・25・・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒①・人を盗むな
申命記24:7、Ⅰテモテ1:9~10
第八戒になりました。盗むことへの戒めです。何を盗むかということになると、名誉や時間のようなものも含めて物を盗むことだけでなく、人を盗むということの戒めでもあります。その証拠に、パウロはテモテに宛てた第一の手紙1章9~10節で、十戒の中の第八戒に相当する盗みに、人を「誘拐する者」を挙げています。最初は、その点を考えてみることにします。同じことが出エジプト記21章16節にも、申命記24章7節にも、「人を誘拐」することが特に挙げられています。
宗教改革時代のオランダに有名な神学者でホエチュス(1589~1676年)という人がいました。ドルト会議でアルミ二アンと闘ったことでもよく知られています。彼も、この盗みについて、誘拐のことであるして、具体的に4つのケースを挙げています。
第一は、ローマ教会によって子供が盗まれて、修道院に連れてこられる場合です。第二は、奴隷として盗まれて、売られることです。当時、東西インド諸島で行われていたようです。第三は、物乞いをさせるために子供が盗まれました。第四は、若い男女が将来結婚するために、少女を盗みました。こうしたことは、自由という価値ある宝を人間から奪うことになります。
この人を奪って奴隷にするという点で、十戒の前書きにあるように、イスラエル人はエジプトという「奴隷の家」から救い出されました。したがって、神はイスラエル人が自分たちの兄弟の自由を奪って、奴隷にすることを禁じられました。イスラエルには、戦争の捕虜になった外国人や何らかの理由で奴隷になった外国人がいました。それでも、彼ら奴隷の生活は、耐えられるような配慮を受けていたことは第四戒の安息日の戒めの言葉(出エジプト20:10、申命記23:16~17)から分かります。
宗教改革以後には、第八戒は特に奴隷として人を盗むことが問題の中心になりました。しかし、現在は奴隷制の廃止によって、この戒めが奴隷のことを指しているとは一般に考えることがなくなりました。それでも、人を誘拐することが、違った形で表れていることも事実です。
例えば、北朝鮮による日本人や韓国人の拉致問題、テロによるハイジャックで人質とされることも一時的にあります。しかし、誘拐以上に、植民地政策とか、人種差別というようなものは私たちの周囲に最近までありましたし、1980年代の末に廃止された南アフリカのアパルトヘイトは法的になされた差別でした。しかし、こうした特定なものではないとしても、不景気になると、賃金カットやリストラと言う圧力、市場の独占により価格を釣り上げることなどによって、巧妙に人々の自由や労働力の搾取があります。20世紀になっても、各国で明らかな搾取もありますし、それを見分けることが困難なものでもあります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」