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十戒と主の祈り・・・11・・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=姦淫=
第七戒⑤・同性愛
創世記2:21~24、レビ18:22~23、ローマ1:26~27
1960年代という時期は世界的に人権問題がクローズアップされた時代で、家庭や社会の差別が問題にされました。人権を守ることは必要なことであり、正しいことですが、聖書に基づくキリスト教の家庭倫理や社会倫理に対する挑戦にもなりました。同性愛者の家庭や社会における権利も刺その一つです。アメリカのある教会のオルガニストが同性愛者であることを理由に解雇されたことが裁判で争われました。
同性愛を擁護する人々は、大まかに二つの理由を挙げます。その第一は、聖書の教えは当時の歴史の中で生まれたことであって、歴史的に現代とは違うから、そこでの命令は今の私たちに通用しない、という考え方です。これは一理あるのです。例えば、旧約聖書では姦淫は死刑でした。しかし、主イエスは姦淫の女を赦されました。理由は、旧約時代には、肉によるイスラエルが神の民でしたから、律法違反には厳しいさばきが課せられました。主が来られてからは、信仰による霊のイスラエルが神の民ですから、そうでない人への裁きには悔い改めの機会が残されたため、緩やかでした。
第二に主張される理由は、倫理の最高は愛であるから、愛があれば、同性愛でも赦される、という主張です。禁じられているのは、宗教儀式や姦淫としての同性愛であって、愛と誠実があれば、つまり相手を変えなければ、聖書は罪としていないと考えるのです。ですから、今ではオランダ改革派教会(大会派)は、同性愛の教会役員を認めています。
アメリカ合衆国長老教会は、教会としてこれまで数度、同性愛者の教会役員を認めることを過半数の賛成で決定しました。しかし、3分の2以上の中会の採決では賛成を得られずに否決されています。賛成している中会は、教師の任職の面接で、賛成しない教師候補者を教師に推薦しないようです。
2003年6月の総会は、議長に賛成派の女性を選びました。
これに対して、これまでのように、一人の男と一人の女との結婚は神の創造の秩序であり、同性愛は明らかに神の意志に逆らうことであると考える立場は、同性愛を認めることが人に罪を犯させることであると考えます。しかし 、同性愛の傾向を持つ人の存在を否定するわけではありません。
この問題の難しさは、聖書の権威は神の言葉である聖書自身にあり、解釈も聖書から来るということと、「歴史的、文献的に聖書を調べ解釈すべき」ということとの関係です。これは、現在の女性の教師・長老問題と共通する性質を持っていますから、問題に対する立場の違いが生ずれば、改革派教会の将来は様々な点で、現在とはかなり違ったものになることでしょう。
十戒と主の祈り・・・11・・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=姦淫=
第七戒③・男と女
エフェ5:21~33
神が定めてくださった結婚という制度を考えた上で、その制度との関係でこの第七戒を検討する必要があります。
神が人間をお造りになった時、男と女に造られました(創世記1:27)。それ以来、この世に生まれた人は男か女のいずれかでした。人は初めから男か女かの違いがあることを経験してきました。しかし、初めから人類には男か女の違いがあるということについて、一致があったわけではありません。ドウマ教授によると、ギリシャの哲学者プラトン(紀元前4世紀中頃)は、人間が最初に造られた時、「アンドロジヌス」(両性)、つまり男であり・女でもあるように造られたと言ったそうです。この両性とは、男女の要素の完全な統一を具現化した者ということです。
しかし、神々からの刑罰がこの両性に臨み、その結果、二つに分裂し、今では人は男と女のいずれかになったと言います。この分裂以後、休息を失った人間の愛は、失われた統一を求めて終わりのない追及をしている、というのです。
この考えに立って、フランス人のエリサベツ・バドアンターという人が、人類の変遷を、第一に、互いに相手を必要とした自己と他の共存の時代、第二に、他を必要としない自己の時代、聖書の人間創造の時代は、女性を抑圧した父なる神の時代、そして第三に、今では自己は他であろうとする時代、他に自己を求める時代になっていると言います。つまり、男と女の違いが去って行く時代であると言います。
同性愛(homosexuality)とか両性愛(bisexuality)が生じているのはそのためで、聖書が規定しているような性ではなくなったことを示すと言います。
そして、人間が男女として振る舞うのは、人間が内在的にもっている方向から来るのではなく、生育(nurture)から来ると言い、子供たちが男として、或いは女として振る舞うように養育することから生じるのであって、男女のいずれかであるのでなく、男か女のいずれかになるのである、と主張します。この考え方が、フェミニストが聖書の神を男性名詞だけでなく、女性名詞でも表現することを主張するようになる根拠のようです。
わたしたちは、男女の違いが、神の意図から生まれたものであって、その後の歴史に見られる堕落や罪の刑罰や悲惨の中から生まれたものでないことを知っています。神は6日目に人を男と女に造られた時、その日のことを振り返って、「はなはだ良かった」と判断しておられるからです」(創世記1:31)。
創造の時に意図された男女の平等という理想的な関係は、罪によって破壊されましたが、キリストにある神の恵みによって回復されます。新しい調和ある関係は、夫としてのキリストと花嫁としての教会の関係から導き出されます。この調和の中にもある種の秩序があります。キリストがこの教会の頭であるように、最初に造られたアダムがエバの頭でした。彼らは一緒に世を治めます。女性の役割は仕えることよりも常に多くを含んでいます。
第七戒④・人工授精
創世記1:28
「姦淫してはならない」という戒めと関連性のあるものとして、家族計画、人工授精、そして、試験管ベビーなどのような現実の問題がありますので考えておきましょう。
特にヨーロッパのような少子化先進国に急速に近づいた日本では、結婚しない、結婚しても子供は産まない家庭が急増していることが統計に現れています。それが高齢化社会となって現れてきているのは、社会全体の責任であり、子を育てる家庭にのみ負担を求めるような状況が、手当や税金などの面で改善される必要があります。そうしたことに努力してきたヨーロッパは回復の兆しが見え始めているようです。
同じように「産めよ、増えよ」(創世記1:22)と神の命令を受けた動物とは違って、人間には長い期間にわたって養育するという任務があるため、家族計画が必要になります。そのため避妊ということも合法的であると言えます。
姦淫という視点から、卵子の受精や受精卵の定着に障害があるため、前者のための人工授精(artificial insemination)や後者のための試験管ベビー(in vitro fertilization)というような技術について、ドウマ教授のテキストを参考に考えてみます。
普通、人工授精とは、対外で人工授精を行って、受精卵を妻の子宮に戻すことです。この場合、夫の精子と受精するAIHとよばれるものと、第三者の精子提供者の精子と受精するAIDと呼ばれるものとがあります。結婚は夫と妻の排他的な霊的または肉体的な関係ですから、AIDは明らかに合法的です。しかし、第三者の精子の提供をうけておこなわれるAIDは、この第七戒に触れることになります、精子は単なる「もの」に過ぎないという反論がありますが、輸血や臓器移植の血や臓器は「もの」とは言えても、精子の場合はそのように言うことができないのは明らかです。
次に、妻の子宮が受精し定着できない場合の対策として、行われているものに、妻の代理として、第三者の女性の子宮を借りて、胎芽に成長させ、出産に至るという方法(IVF)です。
この方法が夫婦の受精卵による妊娠ということから、この第七戒に違反することはありませんが、4つの条件を満たさなければならないということです。その第一は、この受精卵が女性とその夫によるものでなければならないということです。つまり第三者の卵子や精子を用いるものであってはならないということです。第二の条件は、その胎芽は卵子の持ち主である妻の子宮に植え付けさせなければならないということです。さらに、第三の条件として、受精した卵子はすべて妻の子宮に植え付けられなければならないということです。一個だけを用いて、他を廃棄したり、実験用に用いたりしてはならないということです。そして、第四は、胎芽は最適の時に速やかに子宮に植え付けられなければならないということです。
十戒と主の祈り・・・10・・・
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=姦淫=
第七戒①・罪の性質
申命記22:22~27
「姦淫してはならない」という第七戒に入ります。どういう場合に姦淫と見なされるかと言いますと、一般にイスラエルでは結婚している女性、あるいは婚約している女性との性的関係だけが姦淫とされていました。それは男の重婚がなされていたからだと考えられます。
例えば、ユダは、死んだ長男エルの嫁のタマルに、二男にオナンを与えましたが、彼も死んでしまい、三男のシエラはまだ若いということで、与えませんでした。そこでタマルは、義父のユダが近くの町に来ることを聞いて、顔をおおい神殿娼婦のみなりをして、ユダと姦淫しました。その時、ユダは後に一頭の羊を与える約束をしましたが、その交換の品としてユダの印章と杖とを前もって求め、それをもったまま姿を消しました。やがてタマルが子を宿し三ケ月になるということがユダの耳に入りました。
ユダは彼女を焼き殺すように命じます。しかし、タマルが使いに証拠の品を送り届けさせると、ユダは自分が彼女に三男シエラを与えなかったので、タマルが正しいことを認めました。しかし、タマルはやもめであったため、ユダへの罰は考えられていません。
他人の女奴隷との性交は盗みとして、弁償が求められるだけ(レビ19:20~21)ですが、姦淫の場合の罰は、このように死刑でした。申命記22章23~27節には、その刑罰の原則が記されています。
男が婚約中の女と姦淫した現場を発見された場合は、二人とも石打の刑に処せられ、婚約中の女が助けを求めることができない場所で強姦された場合は、男だけが死刑になるとなっています。
旧約聖書で、偶像礼拝は比喩的にしばしば姦淫と呼ばれています(エレミヤ3:8~9、エゼキエル25:37など多数)。主なる神は、イスラエルが偶像礼拝者になることを御自分に対する姦淫と呼んで、特に嫌われました。そして決してお許しになりませんでした。
偶像礼拝はイスラエルの神が持っている神との関係を破壊し、かつ神の名誉を著しく傷つけることになるからです。カルメル山に集まったバアルの450人の預言者たちをエリヤが殺しても問題にならなかったのはそのためです。
こうしたことから言えることは、姦淫の罪は、盗みという第8戒の違反とは別のものであり、結婚や婚約した者たちだけにある関係と名誉とを破壊する罪(箴言6:34~35)、そして自分自身の結婚の関係を破壊する罪だということです。しかも配偶者への不誠実だけでなく、神との契約への不誠実でもあります。夫婦が互いに疑うということ自体がこの契約を軽んじていることから生じます。その原因は、クリスチャンも知らず知らずに世俗主義に影響されて、神との契約の民であることを忘れるですから、注意しなければなりません。
第七戒②・戒めの範囲
レビ記18:6~20
第七戒を考えるためには、人間の創造と結婚の制度を視野に入れなければなりませんが、それは次回から学ぶことにします。また、主イエスが山上の説教(マタイ5:17、28)で教えておられますように、罪は姦淫の行為だけでなく、その精神面にまで及ぶことが教えられていますが(ウエストミンスター小教理問71、72参照)、前回に続いて、まず、この第七戒が罪であるとしている人間関係の範囲について聖書から知っておく必要があります。
レビ記18章を読んでいただいて分かりますように、このような家庭関係についての一連の戒めがあります。それは血のつながりのある近親者だけでなく、その関係のない義理の関係であっても問題にされます。家族関係という秩序を破壊することになるからです。こうした禁止の命令があるということは、この時の近隣の異教の国々にこうしたことが存在していたことを意味すると共に、イスラエルの民がその影響を受ける可能性があったためであろうと考えられます。
22節には同性愛の禁止が記されています。この問題は、20世紀末から欧米の主流の改革派、長老派教会においても、教派を二分する原因となっている事柄ですから、別に改めて検討することにします。2003年6月に開催されたアメリカ合衆国長老教会(PCUSA)の第215回の総会では、投票はされませんでしたが(これまで数度総会で可決され、3分2以上の中会の承認が得られず否決)、同性愛者、両性愛者、性転換者の教職任職の提案が将来再び出されることになりました。
さて、姦淫は結婚関係に対する一つの罪ですが、結婚関係にない者との淫行、売春・買春についてはどうなのでしょうか。旧約聖書は、ユダと嫁のタマルのこと、サムソンとガザの遊女のこと(士師記16:1)、エリコの遊女ラハブのこと(ヨシュア記2章)、ソロモンの裁きを受けた二人の女のこと(列王上3:16~27)などから、イスラエルには明らかに遊女がいたわけです。このことから聖書は売春を一見、大目に見ているように見えますが、その女に夫があるか否かによって違い、夫がある場合、その夫に殺されることもあることを記しています(箴言7:19~27)。しかし、だからと言って、結婚していなければ問題がないとされたわけではありません。処女であることxが結婚の条件であったからです(申命記22:13~21)。
しかし、キリストによる贖いの恵みを与えられてからは、信仰者はキリストのものとされたことから、その体はキリストに買い取られた聖霊の宮です。そのため不道徳から離れなければなりません。エルサレム会議は、異邦人教会の信者たちには割礼を求めないことを決めましたが、偶像礼拝と共に、「みだらな行い」(使徒5:20.29)である不品行を避けることを命じました。キリストの教会である信仰者はキリストの花嫁だからです。
十戒と主の祈り・・・9・・・4 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=殺人=
第六戒⑦・中絶
出エジプト記2:22~25
第六戒の最後として中絶という問題を考えることにします。日本では古くから貧しさや子は親のものという思いから、子が犠牲にされてきました。15年程も前の北米の厚生省の統計ですが、合法的中絶の件数が訳130万、その妊娠8週までが約50%、10週までを加えると約77%となっています。日本の統計はどうでしょうか。
人が誤って妊婦を流産させた場合の償いについて、エスカレートしないために、主なる神がモーセに与えられた掟がこの出エジプト記21章の言葉です。カルヴァンはこの個所を注解して、こう述べています。
「・・・フエタス(9週間以後の胎児)は、母の胎内にあって、すでに人間であり、まだ享受し始めていないその命を奪うことは、恐るべき罪である。野外にいるときよりも、逃れの場所である家の中に侵入して命を奪うことのほうがいっそう凶悪であるから、その胎児が光を見る前に、胎内で破壊することは、いっそう残酷と見なされるべきである」。
胎芽から胎児になるのが2か月前後のようですが、中絶として問題になるのは胎児の段階になってからことのようです。中絶がやむをえないとされるのは、妊娠が、そして出産が母体を肉体的に命の危険にさらすことになる場合です。いわゆる医学的理由から出産の道がないと判断される場合です。
医学的な技術が発展している国々では、出産に当たって何らかの安全策が講じられることが出来るでしょうが、それでも危険な場合があります。どちらか一方の命を守るということになる場合は、当然母体を守りますから、中絶は正当化されます。
さらに母体の精神的な問題もあります。その場合の判断は肉体的な場合に比べて難しいものと考えられます。家族や医師の支えが出産を可能にするかもしれませんが、これは難しい問題で、この可能性を排除することは出来ません。
優生学上の理由から、障害のある子の誕生もある程度前もってわかる場合があるために、問題になることがあります。しかし、ドウマ教授は国の法律がどうであれ、実行するのは「神の法」の重い咎めを受けることになると言います。
十戒と主の祈り・・・9・・・3 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=殺人=
第六戒⑤・戦争
申命記20章、黙示録22:3~5
第六戒の「殺してはならない」ことに関連して、今回は戦争のことを聖書から考えます。為政者は神から剣の権威を与えられています(ローマ13:4)。それは、国の内部から生じる悪を抑えるためであり、外部からの侵入や攻撃を防ぎ、領土と国民を守ることのためにあります。
まず、非戦論とか完全平和主義というものは聖書から導き出すことは困難です。山上の説教は、個人の自己犠牲や愛の行動を教えていますが、国として戦争を放棄することを教えているわけではありません。むしろ、聖書は神の承認のもとに、あるいは神の命令として、戦争は行うものとされています。神は戦争の具体的な方法についてまで申命記20章で教えられています。
歴史的には「正義の戦争(just war)」という考え方があり、ドウマ教授は正義の戦争の条件として、次の6点を挙げています。すなわり戦争は、①合法的な政府によるもの、②合法的な理由で③合法的な目的で④利益と犠牲を考慮した上で⑤受けた攻撃に対応した手段で⑥民間人と兵士との違いを確認して、戦われるものであるということです。
しかし、神は戦争や流血を正常なものとみておられるわけではありません。そのため、戦場で多くの人の命を失い血を流したダビデは、神殿の建設にたずさわることが許されませんでした。
これが原則となることですが、問題は第二次世界大戦で、アメリカが原子爆弾を日本の広島と長崎に投下したことによって、戦争というものの考えが、その悲惨さのゆえに大きく変えられました。例えば、その大量殺戮と後遺症のゆえに、核廃絶を主張し、単独軍縮を行ったらどうなるのでしょうか。相手国はそれを良いことにして、核の脅威をもって攻撃を仕掛け、支配の手を伸ばすことを誘発するようなことになります。
また、核兵器が持つ抑止力については、核攻撃をすれば、相手から核攻撃を受けることになって、共倒れを恐れ、この半世紀以上、核兵器は使用されることがなかったと言えます。しかし、こうした力のバランスだけで平和を維持することはできず、道徳的、政治的な制度が必要です。というのは、かりに政府が緊急に核兵器を使用したとしても、相手国が使用しないという前提がなければ、意味がありません。また、何時でも使用できる可能性がなければ、相手国の餌食になるだけで、抑止力はありません。
このように、核戦争の影響力は「正義の戦争」の概念では扱い切れないことになります。今では簡単に原爆は作られるため、核兵器を除くことができませんし、それなしには生きられなくなりました。しかし、それを使うことができないのです。そうなると、残された道は、国連のような場で、悲劇を避けるために話し合うことしかありません。それと同時に、このための最終的な解決はキリストの再臨によって、こうした危機的な状態を変えていただくしか道はありません。
第六戒⑥・死刑
使徒25:11、ローマ12:19、13:4
隣人を殺してはならないという戒めに関係して、死刑について考えてみましょう。世俗化した国、例えば、ドイツ、スイス、オランダ、デンマーク、ノルウェー、北米の幾つかの州など死刑が廃止された国もあります。聖書にみられる死刑の基本的な根拠は、人間の生命の尊厳から来ていて、「人間同士の血については、人間から人間の命を賠償として要求する」(創世記9:5)ということです。「神にかたどって造られた」人間だからです。
死刑は、この神の律法を破った殺人者が、刑罰として受けることと、殺人の罪がその犯人や関係者によって更に犯されることを防ぐためという二つの目的があります。旧約聖書には、死刑執行のケースが、偶像礼拝、安息日を聖別しないこと、良心に反抗すること、姦淫、同性愛行為なども理由となり、その多さに驚かされます。
日本では仇討というものが美談とされ、なかでも忠臣蔵は有名です。殺された者の家族や関係者が、仕返しをするということですが、それはエスカレートする危険性があります。そうなることを防ぎ、殺意がなかった場合のために、6つの「逃れの町」という制度がありました。
今ではこうした個人的な仕返しは禁じられるようになり、為政者が刑罰として行なう死刑へと移行してきました。その聖書的根拠の一つは「権威者はいたずらに剣を帯びているのではない」(ローマ13:4)ということです。そして、パウロ自身、死刑に当たるようなことをしているのであれば、死を免れようとは思わない、と述べて、死刑の正当性を認めています(使徒25:11)。宗教改革の時代に、個人でもなく、為政者でもなく、ローマ教会が教会裁判によって、プロテスタントを処刑したことがヨーロッパには非常に多くあったことがよく知られています。
人権運動家たちは、アメリカでの死刑廃止や中絶禁止の運動に熱心ですが、アメリカでの暴力による死の人口比はなんとヨーロッパの20倍だそうです(M・ホートン『全き自由の律法』155頁)。
また、神学者のカール・バルトは、キリストのゆえに、神はすべての人と和解したのであるから、死刑はすべきではない、という考えです。しかし、ドウマ教授は、神が人の業に応じて報いられる(マタイ16:27など)のであり、人は個人的に復讐してはならないが、神が報復する(ローマ12:19など)ので、バルトの主張は誤っていると述べています(「十戒」237頁)。
これらのことから、神は死刑という制度を今も認めておられると考えられます。ただ注意しなければならないことは、旧約聖書の時代のイスラエルが、現在のイスラエルと違って、神の民として、社会的にも宗教的にも特別に清い状態を求められていたために、多くの死刑がある厳しい刑の適用が必要であったと考えられます。
十戒と主の祈り・・・9・・・2 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=殺人=
第六戒③・その内面
詩篇139:21~24
人を殺さなければそれだけでこの戒めを守ったことにはなりません。第六戒は内面的な意味を持っているからです。人を殺す行為は、人の内側から生じる思いが行為となって外に現われたものです。そのため、 第六戒について、ウエストミンスター大教理問答の問136の答えは、「罪深い怒り、憎しみ、妬み、復讐心」の4つの動機が問題にされています。
特に説明することもないかもしれませんが、「罪深い怒り」は感情が瞬間的に爆発することで、人に対する苦々しい思いの現れです。怒りの言葉を相手に浴びせ、それは目にも表れることになります。目で人を殺すということもあり得ます。
他の人への「憎しみ」の思いは、「あの人は死んだ方が良い」と現実に思うことです。ヨハネの第一の手紙3章15節もこう記しています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しである」。
次に「妬み」ですが、これは自分が持っていない良いものを盗みたくなる思いです。妬みは他人への攻撃心を生むだけでなく、自分自身を不安定にします。自分のもので満足することが必要ですが、パウロは、「愛は…妬まない」(Ⅰコリント13:4)と言って、愛の力を強調します。
最後に「復讐心」ですが、それは復讐する権利がないにもかかわらず、そうしようと願うことです。自分で復讐しないで、神のその権利を、判断を委ねるよう、「善をもって悪に勝ちなさい」という言葉(ローマ12:19)に従いたいものです。
これら4つの動機は合法的な場合があります。それは、詩篇139篇21~22節で言われているような場合です。すなわち、神を憎む者を憎むことや、神の民が偶像に負けたとき、神がその民に対してもつ妬みのように、私たちが誤って人を憎み、取り戻したいと願うことです。正義の怒りとか、きよい復讐心のように、神と隣人の誉れのために怒りや復讐心を持つこともあり得るからです。
しかし、現実はそんなに単純ではありません。正義の怒りと思っていても、利己心からの不義の怒りが混ざり合っていることがよくあるからです。私たちは自己の不義を隠すために正義の怒りと思っているかもしれません。そのため、それを識別するために、自己吟味が常に必要です。
それで、私たちは、神が私たちを調べ、正しい道を歩んでいるかどうか、間違った道を歩んでいないかどうか、私を調べ尽くし、迷い込んでいないかどうかを明らかにしてくださるように、祈る必要があります。この詩篇139編23~24節は、その祈りです。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください・・・」。
最後に、主イエスは山上の説教で、さらに高い次元のこととして、殺すことを防ぐために、だれに対しても自分のできる最善のものを与える愛があることをお教えになりました。
第六戒④・自殺
士師16:23~31、ヘブル11:32、32、39
第六戒に関して、一つの実際的な問題として自殺があります。聖書には6例が記されています。ペリシテ人と共に死んだサムソン、剣に倒れ伏したサウル王と彼の部下(サムエル記上31:3~5)、アブサロムの側に寝返った策略家アフイトフエル(サムエル記下17:23)、王宮に火を放ったイスラエルの王ジムリ(列王記上16:18~19)、そして、イスカリオテのユダです。これらの人々について、聖書はサムソンとサウルについて見解を述べていますが、他の4人については事実を述べているだけです。
サムソンが自分の命を犠牲にして行った最後の行為は、ヘブライ人への手紙では、「信仰の人」の行為と言われています。しかし、サウル王の自殺は、後に歴代誌上10章14節で「主によって殺された」と見なされています。彼らの自殺は、それまでの歩みがどうであったかによって判断されることが分かります。
このように聖書にある数少ない実例から、原則になるようなことを導き出すことは難しいと思われます。さらに、時代が複雑になるにつれて、問題も複雑になります。先日、ある集まりで、尊厳死とか安楽死について話を聞く機会がありました。医師の立場に立つと、尊厳死であっても、患者を殺しているような思いになるという感想がありました。
人は神のかたちに似せて造られたために、その人が身体をもって、知と義と聖という神のかたちを発揮する使命をもっています。自分はそれを捨てることになります。そういう点で、自殺は神の創造の目的に反します。それが原則的な理解ですが、やはり現実には判断は難しいことがあります。
例えば、肉体的また精神的に病的な要素が自殺に至らせるかもしれません。その場合、何よりも治療が必要です。時には専門的なケアが必要です。孤独に対する助けを求めて自殺未遂の程度のつもりが、自殺に至ることもあります。何らかの信号が出されていた時期に、特にキリスト者として助けになることができなかったかを、後になって悔やみます。宗教改革以前、教会は自殺者の埋葬を断ったそうですが、埋葬と結び付けることは行きすぎではないでしょうか。
ドウマ教授は、キリスト教会にも自殺者があることに言及し、自殺が罪であると語られていたなら、信者は悲劇をもっと防ぐことができたのではなかったかという反省を述べています。そして誤解のないように、同教授は、自殺を正当化する理由が倫理的にないこと、また、自殺が困難から逃げるために許される道でもないことを語ります。
信者にとってはキリストが避け所であり、希望の源ですから、多くの信者が指摘するように、自分の判断ではなく、神の導きに信頼すべきであるということです。
ただし、隣人を助けるための自己犠牲として命をささげることは例外的にあり得るとされています。
十戒と主の祈り・・・9・・・1 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=殺人=
第六戒①・殺してはならない
創世記1:26~30
第六戒は何よりも人を殺すことについての戒めですが、それでいて多岐にわたっているため、広い内容をもった戒めです。例えば、中絶、安楽死、自殺、不注意による殺人、正当防衛、死刑、戦争などが関係してきます。こうした具体的な事柄についても学ぶ予定ですが、その前にこの戒めのより基本的なことを聖書から教えられることにしましょう。
神は生き物をお造りになりました。したがって、植物も動物もその所有者は神です。人が自分勝手に収穫したり殺したりしてはならないのは、それらの被造物は神のものだからです。
また、神が全ての被造物を造られたのは、それらによって、御自身の栄光を現されるためですから、人は祝物も動物もその目的にそって管理し、また用いられるようにする責任があります。象や鰐のような動物が力を発揮するとき、その力は神の栄光を現しますが、危害を加えることがないように管理する必要があります。小さな生き物である蟻は清掃の働きをしますが、人はその勤勉さからも学ぶべき神の知恵があることを聖書は教えています(箴言6:6~8)。
また動物が人の罪のための犠牲の供え物として用いられることからも、人は動物を勝手に殺してはならないことを教えられています。一般的に言えば、人が勝手に捕獲するために、絶滅することがないようにすることも、このイメージと関係します。アマゾンやインドネシアの森林伐採、ヨーロッパ、北米、中国大陸の煤煙による酸性雨が森林に被害を与えています。化学工場による環境汚染、原子力発電所の放射能汚染も、神が人に委ねておられる管理責任に関係してきます。良い管理によって利用と保存の両面が保たれます。
生物の中で人間だけが、神のかたちに似せて造られましたが、独特な知性、宗教性、道徳性をもっています。神は人を地上での御自分の代理人とされ、その人の内に住み、その御力をこの世で現わすことをよしとされました。他の動物は神を理解し、神の御心に従う能力が与えられていませんから、そうする責任はありませんが、人間にはあります。
わたしたちが神のかたちをもっているので、人を戒め正すことは良いことですが、人を呪うことは神を呪うことに通じますから、注意しなければなりません。殺人は、神を軽んじることになり、たとえ王であっても神ではないため、自分のために人を殺すことは罪になります。ダビデがウリヤの命を奪ったことは、神と人への罪です。ダビデは悔い改めたために、裁きは直ちに下されることはありませんでしたが、ダビデの家から剣は離れることはなくなり、争いが絶えませんでした。
人が神ではなく、神のかたちであることは、消極的には自分の分を超えないこと、積極的には隣人を敬うべきことを意味します。
第六戒②・不法な殺人
民数記35:9~29
生命の尊厳という言葉があるように、命は尊ばれるべきものです。しかし、生命は神と人とに仕えるためにあります。高齢の方々は生きてこられていることをもって奉仕します。障害の方々は生きていることが人々に励ましを与えます。
神が動物を食用とすることを許されたため、禁猟でなければ、動物を殺すことは罪になりません。為政者は剣の権能を与えられているため、戦争や死刑は時には合法的です。
しかし、第六戒は殺人を禁じています。殺人には動機の異なる場合があるため、そこまで考える必要があります。
第一は、意図的で計画的な殺人の場合です。ダビデはウリヤを戦場で部下に殺させたこと(サムエル記下11章)はこの場合ですし、アハブがナボテのぶどう畑を手に入れるために、自分の妻の悪知恵にしたがって彼を殺した場合(列王記上21章)などは明らかにこの場合です。殺した者は殺害者(murder)と呼ばれます。
第二は、意図的であっても計画的ではない場合です。ヤコブの息子のシメオンとレビが妹ディナを辱められたとして、カッとなってシケムの男たちを殺した場合(創世記34章)です。この場合も故意の殺人(voluntary manslaughter)に違いありません。
第三は、無鉄砲な殺人と呼ばれるものです。例えば、赤信号になり始めているのに交差点に入って人をはねるというような場合です。殺すようなことは考えていなかったわけですが、殺してしまう結果になったというような場合です。これを意図的ではなかったとしても無謀な殺人(involuntary manslaughter)と呼ばれます。
第四は、偶発的な殺人というものです。建設現場などで、誤って落ちてきた工具が、たまたま下に通リかかった人の頭を打って死なせたというような場合です。これは悲惨な出来事ですが、関係する作業員が殺人という罪に問われることはありません。
第六戒の「殺してはならない」という戒めは短い言葉であり、これだけでは上記のような区分を記してはいませんが、これら4つの種類をすべて含めて、「殺してはならない」と命じていると考えられます。そして、この「逃れの町」の規定は、殺した場合の動機までがすべてに問題にされていること、更に、殺人行為がエスカレートしていくことを防いでいること、そして、故意の殺人でなかったとしても、それなりの報いを受けなければならないことなどを規定していることが分かります。
殺したことの性質によって、人が罰せられず、しかも、一時的に逃れることができるようにされていることは、殺した行為が大雑把に扱われてはならないことを教えています。
人には仕返しという考えが美徳と思われていることがありますが、大きな前提は殺すことが禁じられ、神は殺人の動機も問題にしておられることを知っている必要があります。
十戒と主の祈り・・・8・・・3 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=父と母=
第五戒⑤・上に立つ者
民数記12:2~10、ローマ13:1~7
ウエストミンスター小教理問答64、65問にこの第五戒の説明があります。そこでは父や母だけではなく、上下と対等の人への敬意と義務を果たすことが教えられていると記されています。
上に立つ人は、親であり、上司であり、また為政者などであったりします。彼らが持っている権威は神から来ているものです。私たちがそれぞれに相応しい敬意を払うことが教えられています(ローマ13:1)。
彼らはその持っているそれぞれの権威を行使することを認可されていますが、それは正しい目標にそって行使しなければなりません。しかし、正しく行使されなかったとき、そのためにその権威を行使する認可を失うわけではありません。両親が両親でなくなることはありません。政府が良くない政治をしたとしても、その政府は存在している限り、政府として敬意を払うべきです。神によらない権威はないからです。
しかし、親があまりにも親として義務に反することをなし続けるとき、子が親から離されて保護されることがあり、為政者は法的手続きによって変えられることが起きることがあります。教会における指導者についても教会の訓練規定があります。
上に立つ者は、神から与えられている権威が大きければ、それだけ大きな責任を神と隣人に対して負っています。親は神と子供たちに対して、為政者は神と国民に対して、そして教会役員は教会の頭であるキリストと教会員に対して責任があります。主イエスは御自分が羊のための良き羊飼いであることを強調なさったことを忘れることができません(ヨハネ10:11)。
あるいは上に立つ者が、ミリアムとアロンのように、指導者であるモーセを妬んだように、上に立つ者としての権威がどこから来て、何のためにあるかと言うことを、見失ってしまう個人主義的な誤りに注意することも大切です。
上に立つ者が役に立っているかどうかを機能的に判断することも、注意しないと自分の視点からしか見ないという個人主義的な偏った判断に陥る危険があります。
第五戒⑥・為政者
申命記17:14~20、ローマ13:1~7
この二つの聖書個所を見ますと、王あるいは為政者は神によるものであることがよく分かります。イスラエルの民がまだ荒野の旅の途中、やがて立てられる王は、神御自身によることがはっきりと宣言されています。しかも神の制度として立てられる王が守らなければならない4つの注意事項も挙げられています。ローマの信徒への手紙13章からも、為政者は「神に由来して」いて、善を行なう者に報いを、悪を行う者に罰を加えるためにあります。
しかし、この為政者自身が常に神の御心を行っているわけではありません。サムエルが預言をもって警告したように、近隣諸国のように王を求めたイスラエルの民は、王によって軍隊のために出兵、納税、苦役と言う義務を負わされることになります(サムエル記上8:11~18)。
パウロもそうですが、為政者によって不当な苦しみや刑罰を受けたことが聖書に多く記されています。彼がダマスコの町の城壁からつり降ろされたのは、アレタ王の迫害を逃れるためでした(Ⅱコリント11:32~33)。一度ならず投獄されました。いつも抗議したわけではありませんが、当時の通常の裁判なしに公に辱めを受けた時、躊躇することなく、抗議しました(使徒16:37~39)。
福音を語らせまいとする為政者の命令に対して、パウロは聞き従うことはありませんでしたが、それでいて、このローマの信徒への手紙13章1~7の言葉のように、為政者を否定的にではなく肯定的に考えています。
為政者に従うという原則に立ちながら、為政者の権力は絶対的なものではなく、為政者も神が聖書で示される正義とその国の法に従わなければなりません。それができなくなり、独裁的になった時、非常時として、次の地位にある適任者がおれば、政権交代が必要になるでしょう。ドウマ教授は、それが革命というような形をとる場合もあり得るが、それには三つの条件があって、1、基本的人権が為政者によって徹底的に継続的に侵され、2、国民を代表すると考えられる人々がリードして3、革命を成功する確率が高く、流血ができるだけ限定されるとき、可能であると述べています。
今回のアメリカのイラクにおける戦争のような問題に対して、教会として、あるいはキリスト者として、どう対応するかについても、議論のあるところだと思います。ウエストミンスター信仰告白31章「地方議会と全国会議について」の5項は、これらの会議は「教会的な事柄以外のなにごとをも扱ったり、結論を出したりすることはできない。非常時の場合の謙虚な請願として、あるいは為政者から求められた場合には、良心の満足のため助言すること以外は、国家に関する世俗的な事柄に干渉すべきではない」とあります。教会的な事柄と世俗的な事柄の区別が求められます。いずれにせよ、神によらない権威はなく、為政者は悪に陥る危険があるため、彼らのために祈らねばなりません。
十戒と主の祈り・・・8・・・2 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=父と母=
第五戒③・しつけ
サムエル記上2:22~25、箴言13:1、13~14、24
祭司エリの実例を読みましたが、親が子に対するしつけのことを聖書から考えることにします。「良薬口に苦し」と言うことわざがありますが、今では、良薬が必ずしも口に苦いわけではありません。カプセルに入ったり、錠剤であったり、時には糖衣錠であったりするからです。
しつけも、ただ高圧的に、がみがみ言えば、逆効果で反発を受けることになります。そのため、知恵をもって覆い、愛をもって与えるということをしなければならないと言われます。そうでないと、ただ苦いということで、口から吐き出されてしまうことになるからです。本気でしつけをするためには愛情が必要ですから、しつけをしないということは愛が足りないことを示していると言えます。実際しつけが効果を現すのは、親の愛が知られた時です。そして、神はしつけを子供のうちにするように言われます。
「子は父の諭によって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない」(箴言13:1)。
「鞭を控える者は自分の子を憎む者、子を愛する人は熱心に諭しを与える」(箴言13:14)。
親が、ただ口だけで、「やめなさい」、「してはいけません」と言うだけで、何もしていないのなら、それは「しつけ」をしたことになりません。
祭司エリは、祭壇で働いていた息子たちが、幕屋の入り口で仕えている女たちとの間に淫行のうわさがあるのを知らされ、そのことを諫めています。しかし、彼らは「父の声に耳を貸そうとしませんでした」(サムエル上2:25)。エリは彼らに何ら刑罰を科していません。
この結果が現れることになります。3章13~14節で、神の裁きはサムエルを通してエリに告げられました。エリは息子たちを諫めはしましたが、罰をもって咎め、悔い改めに至ることをしなかったため、エリはその罪を裁かれたのでした。息子たちは戦死し(4:11)、エリも首の骨を折って死にました(4:18)。
両親は、自分たちと子らが神との恵みの契約の中に入れられていることを喜んでいて、その喜びの中に子供たちを育てている時、子供たちもその恵みの中に入れられていることを理解するようになるでしょう。親が神を愛し、その律法を守ることを喜び、主の日に礼拝に参加することが幸せであるなら、その歩みが自由となります。嫌々ながら主に従うのであれば、そこには自由はありません。
私たちは、十戒が与えられた出エジプトという時代に生きているわけではなく、カナンという場所で生活しているわけでもありませんが、神の恵みをこのように親を通して受けていることでは、十戒が与えられた時代と同じです。
=父と母=
第五戒④・親に従う
申命記21:18~21、ルカ2:41~52
「父と母とを敬う」ということを学んでいます。出エジプト21章17節の「自分の父母を呪う者は必ず殺される」という言葉は厳しいもので、実行された例は聖書にはありません。
親の苦労は、親になってみて、子が思うように育たない時、自分も親にそうしてきたのではないかということを考える機会になります。子が思っている以上に親は子を思うものです。しかし、近年頻発する事件を思うと、変化を感じさせられます。
両親が間違ったことを子に要求した時でも、親の言葉に従わなければならないか、という問題は、理屈の上ではそれほど難しいことではありません。神の言葉に反することを求められた時、例えば、偶像を礼拝するように親に言われた時、その命令に従わないとしても、この第五戒の違反にはなりません。親の命令そのものが第二戒に違反しているからです。敬うべき親には変わりありませんが、その命令には親の権威はありません。
親を敬うということは、親に対する言葉において、態度において親に敬意を示すことです。親が話している時、静かに十分聞いたうえで、話すということもそうです。何かを与えられた時、親に感謝を言い表すことも敬意の一つです。
使徒パウロは、夫婦のどちらかが信者になり、信者でない夫か妻が、一緒にいたいと願っている場合、離縁してはならないと命じています(Ⅰコリント7:12~16)。ですから、人間関係の中で、神が恵みを与えようとしておられる事実を大事にしなければならないということになります。子が信者になった場合、未信者の親を軽蔑してはなりません。まして、信仰が親と違うからと言って、一緒に住むことが出来ないという理由にはしません。むしろ、信者になってからは、未信者の時以上に両親を敬うことが求められます。
聖書の中の二つの実例をみましょう。寡婦となったルツは自分の両親とモアブの地を捨て、これもやもめとなった義理の母ナオミの勧めを拒んで、彼女と共にユダの地に移り住みました。ナオミの神を自分も信じ、ナオミを母として敬って仕える道を選んだからでした。
読んでいただいたルカによる福音書の箇所は、12歳の時のイエスについて記されている出来事です。両親は、イエスのことを叱りました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです」。すると、イエスは両親の誤りを指摘なさいました。「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と。
しかし、少年イエスは両親の誤りを指摘しながらも、ナザレに帰り、「両親に仕えてお暮しになった」とあります。誤りを指摘しても、親を敬うことはもっと広い義務であることを教えています。
十戒と主の祈り・・・8・・・1 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=父と母=
第五戒①・両親を敬う
出エジプト20:12、申命記6:20~25
申命記6章24節の言葉のように、神がイスラエルを「今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」のですから、幸いであり続けるためには、「主を畏れる」ことから来ます。この時、エジプトから救い出された民は、荒野での生活をしていましたから、「幸いに生きる」ということは、物理的な幸いではないことが分かります。
二世代くらい前までは、家業を継ぐということが多くありました。そのために、親に教えられて一人前になっていくわけで、生活そのものが親に聞き従うということが比較的多くありました。しかし、教育の制度が普及、知識の伝達が早まり広まって来るにつれて、子供たちの知識が、比較的早い時期から親の知識を超える面が出てくるようになり、社会人になるころには、ごく限られた職種は別として、子は親と違う職業に就くことが多くなりました。さらには、親よりも高い収入を得ることもまれではなくなりました。そうした時、子が親を敬うのは、親の能力や経済力ではなく、親が持つ神への信仰と、子への親の愛が一層はっきりしてきます。
子の方が父母に勝る面があっても、子が父母を敬うのは、何よりも父母が神を敬って生きているのを見るからです。モーセも、主イエスも語っておられるのは、この点で共通しています。親の信仰の姿を見て、神への畏れを抱きます。しかし、親の信仰が人々の前では神中心であっても、家庭ではそうではなく、自分中心である場合、子は矛盾を感じながらも、子は親のようになっていきます。
両親が子に配慮がなかったり、態度に一貫性がない時、子は精神が不安定になります。また人格を軽視されると、自立が難しくなる場合もあります。子は、生まれつき自己中心ですから、親が神中心になっていないと、本当の意味で両親を敬うことはできません。そこで、神は申命記6章20~25節にあるように、親に役割を与えられました。
この点、主イエスの態度は分かりやすいと思います。ある女が「何と幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と叫んだ時、主イエスは「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われました(ルカ11:27~28)。幸いなのは血族でも、環境そのものでもなく、神の言葉を聞いて、信じて守る人であり、血のつながり以上に大事なのは信仰だということです。
このように、この世の教育の手段が進歩し、内容が豊かになっても、子が親の教育を信頼し敬うようになるのは最終的には親自身の責任です。親自身が神の言葉に信頼し、悔い改めの歩みをしていることで、特に幼い子供は、親によって百パーセント教育されることになります。聖書の物語を学び、讃美歌を歌い、祈りを身につける土台は家庭における毎日の生活のなかでなされます。よく三歳までが大事だと言われるのはそのためなのでしょう。
=父と母=
第五戒②・神を敬うから
エフェソ6:1~14
エフェソの信徒への手紙6章2節の「『父と母とを敬いなさい』は約束を伴う最初の掟です」と、3節の「そうすればあなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」ということについて、考えてみましょう。
十戒の第二戒の偶像の禁止命令では、出エジプト記20章6節にあるように、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」という約束があるので、第五戒で言われている約束は最初の約束ではないのではないか、ということです。しかし、エフェソ6章2節の「最初の」と訳されている「プローノス」というギリシャ語は、最初という意味のほかに、「最大の、最も重要な、最も優れた」という意味があります。
カルヴァンの考えでは、第二戒は第一の板に記されていて、「全律法に及ぶ」(綱要Ⅱ、8、37)戒めであるが、第五戒は第一の板の最初に記されていて、神に対する戒めから対人間関係に戒めが移り、その基礎となるので、「最も重要な」掟と考えることができるということです。
次に、この「主が与えた土地で長く生きることができる」という約束は、長生きそのものが神の祝福と考えられるのかということです。それとも、長生きそのものは重く考えるべきことではないのかということです。カルヴァンが綱要の中でこのいずれも正しくはないと語っていることを引用してみましょう。
「…ある人はぬけぬけと最高の年齢まで生き延びるかもしれない。けれども、それは、この人生において神の祝福を欠きながら、悲惨にも呻吩する以外のなにものでもなく、しかも、後の世においては、いっそう大きな刑罰が備えられているのであるから、敬虔な子らに約束された祝福にあずかることはとうていできない」(Ⅱ8、38、渡辺信夫訳)。
つまり、長生きそのものが必ずしも祝福ではないのです。長生きにつて、「健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません」(詩篇90:10))というモーセの詩の言葉もあります。従って、信者が約束されて、すでにこの地上の生活で経験することを始めている永遠の命に比べるなら、地上でどんなに長生きしたところで、それはたかが知れています。長生きそのものを絶対化してはならないのです。
こう理解した上で、信仰者は与えられている今の生命を軽んじてはなりません。両親を敬う者は、彼らを敬うことで神を敬うことをしているからです。神を敬う者へのこの約束は、神の祝福を将来だけでなく、現在も受けるという約束です。「信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、全ての点で益となるからです」(Ⅰテモテ4:8)とパウロが教えている通りです。その反対に不従順、不道徳、暴力、怠惰、知恵の欠如などは、多かれ少なれ、自己管理ができず、自己中心になりますから、短命をもたらす可能性が大きいことになります。
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=安息日=
第四戒⑤・働きの完成
出エジプト16・13~29
旧約聖書の歴史を見ると、安息日として週の第七日目を休むことが守られるようになったことが記されているのは、出エジプト記の16章です。天からのマナを集めるように命じられた時、この命令が初めて記されています。彼らは安息日というものを知っていたわけで、20章に記されているシナイ山で、十戒を与えられるまでは安息日について知らなかったわけではありませんでした。しかし、長期間にわたるエジプトでの生活で民は安息日を守ることが出来なかったのでしょう。
それが、エジプトから、イスラエル人が神の民として形成された時、創造の秩序に基づく安息日が十戒のなかにはっきりと謳われるようになりました。
「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20:11)という理由をもって安息日が定められました。
しかし、新約聖書の時代になった時、週の七日目の安息日が週の初めの日に簡単に変わったわけではないことをすでに申しました。信仰者たちは週の初めの日に働きを休むことが出来なかったからです。聖書に記されているように、週の初めの日は、朝早く集まるか、あるいは日没後に集まるかしなければなりませんでしたから、安息日ではなかったのです。
新約聖書には、週の初めを安息日とするようにという命令が、主イエスからなされていたわけではありませんし、使徒たちも命じているわけではありません。それが教会に定着したのは歴史的にはローマ皇帝がキリスト者になってからであり、教会からの命令によりました。
それなら、七日目が最初の日に変わったことが、神の意志から出たものではありません。キリスト信者がキリストの復活を祝うのに、日曜日を用いることが最も相応しいという確信に、すべての真理に導く御霊が導いて下さったからです。安息日から日曜日に変わることを明示している聖書の個所はありません。そういう意味で幼児洗礼の場合と似ています。休息、自由、救い、喜びなど、安息日が持っている意味から、主の復活日こそがその日に相応しいということでした。
使徒言行録20章7節にあるように、使徒パウロが第三回伝道旅行で、トロアスに来ていた時、「週の初めの日」も人々は集まっていて、パウロの言葉を聞きました。それは「夜中まで続いた」とありますように、この集会は夕方から始まったものと考えられます。この時はまだ「主の日」と呼ばれず、意識的に呼ばれたのは一世紀末(黙示録1章10節)でした。神の導きが主の日を安息日にしました。
=安息日=
第四戒⑥・この日が与える自由
ヘブライ10:19~25
信仰者の家族における契約の子が、大人になってから子供時代のことを振り返り、日曜日の生活は強制され、辛かったので、自分の子供たちには、同じ思いをさせたくない、という声は以前からしばしば聞きます。なぜこのような思いがあるのでしょう。キリスト信者はキリストの贖いによって神の子供とされたからには、主の日は文字通り神の日になりました。それで日曜日を真に楽しむことが出来るようにされました。それにもかかわらず、日曜日を楽しむことが出来ないのはなぜでしょう。この日は神の日であるということの意識が足りないのでしょうか。神の日ではなく自分の日であるという意識から、子供たちは不満を感じるのでしょうか。
主の日こそ、私たちが神のものとされたことを味わう日です。親自身がそのことをしっかりと受け止めていれば、心から主の日を楽しむことが出来るでしょう。そのように聖別しましょう。主の日には、通常の日々の心配事から離れるように努めましょう。職業のことだけでなく、六日間の仕事以外の働きから来る様々なことからも自由になりたいものです。仕事の奴隷でも趣味の奴隷でもないところに自由があります。
第四戒の言葉によると、この日は家族の安息の日であるとともに、奴隷も家畜も寄留の旅人にとっても安息の日です。それは、安息は個人的なものではなく、キリストによって買い取られて贖われ、自由にされ、神のものとされたことを一緒になって喜ぶ日です。信仰を与えられている親がこの日を喜び楽しむ姿を見て、子供たちはそれを喜びます。父親は教条的になる傾向がありますから、そのため家庭では母親の生活態度が主の日を楽しむことに貢献します。
すでに学びましたように、安息日は人のためにありますが、人がその日を自分の都合のために過ごす時、神のものを盗むことになるため、主の日は私たちにとって楽しみの日ではなく、苦しみ日になります。
主の日は神の日ですから、家族で教会へ行くこと、家族で祈ること、讃美すること、そして主イエスが私たちに願っておられることに心がけましょう。
警官、医者、牧師の三つに代表される仕事が、必要な仕事、憐れみの仕事、礼拝の働きを代表的に表しています。今では、医療関係、安全関係、交替制の連続勤務などが休めない職業と言えます。他の曜日に行えるのに、日曜出勤するためにやはり神のものを盗んだことになります。
ヘブライ人への手紙の10章25節は、信仰者の集会出席は仲間の励ましになることを繰り返し語ります。主の日を楽しむことは、互いの喜びとなり、励ましになります。礼拝堂の座席に高齢の兄弟姉妹の姿があることは大きな励ましになります。
十戒と主の祈り・・7・・2・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=安息日=
第四戒③・主の日
レビ記23・1~3
先回、安息日は救いの日ですから、喜びの日、感謝の日であることを学びました。今回は安息日の過ごし方について学びます。
第一に、レビ記23章2節から3節で繰り返されていますように、主人はモーセに安息日は「聖なる集会の日である」と言われました。集会のために聖別された日ということです。ただ休むためではなく、集会の日です。
第二に、その集会の日は、安息日の詩篇92編によると、「主の祝日」(2)であり、人々は御名をほめ歌い(2)、御手の業を喜び歌いました(5)。また、主の真実を宣べ伝え(3)、主の正しさを宣べ伝え(1)ました。ここに安息日の守り方の基本が見られます。また、そのことは、列王記下4章の預言者エリシャにまつわる一つの出来事から推測できるように、この日に預言者の言葉を聞くことで、神の言葉を聞く日でもあったことを暗示しています。
北のイスラエルにおいてさえ、人々が、安息日に神の言葉を聞いていたことは、シネムの女が、自分の死んだ息子のことで、預言者エリシャの所へ、ろばに乗って行くことに対して、夫が彼女に、「どうして、今日その人のところに行くのか。新月でも安息日でもないのに」(23)と言っていることからからもわかります。
第三に、新約聖書に繰り返し出てくる会堂での安息日の状況から分かります。会堂は、バビロン捕囚の時代に起源があると言われていますが、人々は、ごく普通のこととして、安息日に集まっていました。主イエスご自身も安息日には、会堂を神礼拝の場所に使われました。
ナザレにおいて、「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻き物が渡された」(ルカ4:16~17)とあります。礼拝の後で、病人を癒されました。右手のなえた人(同6・6)、18年間も腰の曲がったままの女性(同14:10~11)を癒されました。パウロとバルナバがビシデア州のアンテオキアで安息日に会堂に行った時のことですが、律法と預言者の書が朗読されると、「兄弟たち、何か会衆のために励ましの言葉があれば、話してください」と言われて、パウロが語っています(使徒13:14~41)。
こうした多くの例から明らかなように、安息日には、神の言葉が朗読され、それに基づいて、説教がなされました。
このように、安息日は仕事を休めばそれで良いということではなく、讃美と神の言葉を聞くことをもって、主なる神を礼拝するために聖別した日として休まなければなりません。このように、休むということが私たちだけでのためにあるのではありません。主なる神がなさってくださったことが語られ、それを聞き、喜びと感謝をもって神を讃美します。信仰者は、主人にあって、こういった意味で休むことに、最も深い喜びを見出します。
第四戒④・神への感謝
ネヘミヤ13:15~22
今回は安息日の戒めを破ることについて、聖書から学びましょう。すでに学んできましたように、安息日は休息の日、礼拝の日です。しかし、旧約聖書を見ると、常に感謝をもって守られていたわけではありません。
このネヘミヤ記は、バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民に向かって、ネヘミヤが紀元前4世紀の末ごろに記したものとされています。ここに記されている言葉からもわかりますように、安息日を守ることに積極的ではなく、いやいやながら守るというような雰囲気が見られます。ネヘミヤが問題にしているのは、安息日に商売をするために、前もって商品を都に運び入れようとする人々を締め出すために、金曜日の夕方に都の門を閉ざして、安息日にも門を開けず、安息日が終わって初めて開くようにさせたということです。安息日が始まった夜に城門の外で休むことさえ禁じました。
安息日を守るという命令は、積極的な意味で守ることに意味があることをすでに学びました。なぜなら、それはエジプトの奴隷状態からの解放であり、罪の奴隷から自由にされた自由の律法だからです。従って、この日に、私たち信仰者は神への感謝を表明する日です。ところが、守りたくはないのに守らなければならないという奴隷的な意識で安息日を過ごすのであれば、安息日の祝福を受けていないことになります。もしもそういうことであれば、何とか理由をつけて安息日を守らないようになるでしょう。
安息日に商売をし、仕事をしようとする人は、第四戒だけでなく、他の戒め、例えば第八戒めの盗み、第十戒の貪欲の戒めも違反していないかをチェックする必要があります。ネヘミヤはそうした点を問題にしているからです。
ウエストミンスター信仰告白第21章8項に、安息日の例外的な働きとして「神様礼拝と、また必要な義務と、慈善の務め」の3つが挙げられています。ここで必要な義務は何を指すかということになります。スコットランドのロバート・ショウは、ウエストミンスター信仰告白の注解書の中で、その内容として、「教会への往復、町の防衛、航行中の船の運転、消火と運搬、家畜の給食と世話、病人への訪問と助け、幼児の世話」を挙げています。
七日の内の六日間は自分のものですが、一日は主なる神のものです。それゆえに、神のためにとっておきましょう。大きな恵みをくださった神のものを盗むことはあってはなりません。主は、安息日だけでなく、七年目を休耕年とされましたし、50年目をヨベルの年として、その年に奴隷は主人から自由になり、土地は返却されました(レビ記25:1~12)。それらは本来、神のものだからです。安息日は私たちが神のものとされたことを、最も明白に教えてくれる日です。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」