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この度、長年、皆様のお祈りとご支援をいただいてまいりました「つのぶえジャーナル」を、一身上の都合により2023年6月号をもって刊行を終了することを決断いたしました。「つのぶえ」時代からの長い間のご支援を心より感謝いたします。ありがとうございました。
「つのぶえジャーナル」編集・発行人
長村秀勝
「今月のことば」
神さま、罪びとのわたしをおゆるしください。
=ルカ18:13=
ある初めて教会に行かれた人のお話です。心の重荷を負い、苦しみ、悲しんでいた時に、友人から教会に行きましょうと誘われて行ってきましたが、その時の印象は、牧師さんのお話は、罪とか、罪人のお話ばかりで、暗い気持ちで帰宅したそうです。その後、数カ月過ぎても、あの「罪、罪人」という言葉が気になって、再び教会に行き、3年後に洗礼を受けられたと言うのです。
わたしたちを神より離し、すべてのものの上に災いをもたらすものは何でしょうか。それは罪であります。罪の見出されないところには、神とわたしたちの間を隔てる壁はありません。神はそのみことばを通して、わたしたちが罪より離れ、命に至る道をお示しくださいました。それはカルバリの道を通り、墓を通ります。キリストは、わたしたちの罪とその代価の借用証書を十字架につけ、わたしたちを「義」とするために、よみがえられました。この命への道筋・軌跡によって、わたしたちすべてに、救いという恵みが与えられたのです。
しかし、実に完全に、これはわたしたちが関与することなく整えられたと同様に、わたしたちはどうしても「罪人」としてキリストのみもとに来なければなりません。神の前にキリストをあたかも罪ある者としたのは、わたしたちの負債であったことを認めなければなりません。
罪から離れる道は、告白を通ります。わたしたちは何者であり、何をしたかを告白します。冒頭のみことばですが、神殿の中のこの取税人とともに、神の前に出て、「神さま、罪びとのわたしをおゆるしください」という人、その人は救われるのです。神はこの罪びとの告白した心が、「義」としたもう神の恵みに対して開いているので、そのように告白する者を「義として」宣言されるのです。
イエスはわたしたちの罪のために、ご自身をお与えになったのですから、わたしたちもすべての罪を主に取っていただかねばなりません。そうすればキリストの血は、神の前にわたしたちの罪・咎の支払いをしてくださるばかりでなく、命の書の中には領収書となり、聖霊のお働きと信仰によって心がきよめられるのです。そうしてこの二つの命の歌は、力強い和声となります。「ご自身でわたしたちの罪をきよめられ」、そして「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる」と言われるのです。
このようにして、罪より遠ざかり、神へと導くのです。
「今月のことば」
あなたの若い日に、悪しき日の来る前に、あなたの造り主を覚えよ。
=伝道の書12:1=
皆様には、鮮やかな新緑をお迎えのことと思います。4月の9日にはイースターの恵みに与かり、信仰の思いを新たにさせられましたが、この「今月のことば」は、新しい旅たちを始めた若者のための聖句として、多くの人は、教会の礼拝の説教で、尊い神様からの指針として学ばれた方も多くおありのことでしょう。
この聖句は、若者にとっても、またもはや若くない歳を重ねた者にとっても、自分の歩み、若い日を考え、感謝と悔い改めへと導いてくれる「神様からの恵みの言葉」の一つではないでしょうか。同時に、今一度、「若い日とは・人生とは何であるか」を振り返る日」として捉えることにも意味があるのではないでしょうか。
若い日の年月は美しいと言われます。それは希望と多くの不安や迷いの時と言えるからです。人生という時間を用いて人は、真理・真実を求め、光を知りたいと情熱を注ぎ、生きようとしている時だからでしょう。しかし、また、それは責任と危険にも満ちている時でもあります。挫折と暗闇もそこにはあります。ですから、その前途に、この「あなたの造り主を覚えよ」というみ言葉は光となるのです。
若い日は、最も美しい朝、日の昇る時でもあります。険しい山や谷があっても、その先を求めて進むのが「若い日」であります。花は微笑み、野山は緑に映え、広がる畑には収穫が待っています。ビルの谷間にあっても、混雑の中にあっても、人の歩みは、汗という宝石がその額にあるのですが、それもまた「人生そのもの」です。
若い日は、生涯の春です。その時に、その人の生涯の方向を定める、良い時でもあります。この大切な時に「あなたの造り主を覚え、求めること」であると、神様はお語りになりました。歳を重ねた今、ふと若き日を振り返る時、その道筋に、神様の計り知れないお導きを見る人は、何と幸いなことでしょう。
=主の恵みを=
真の神を信じない 仰ごうとしない私を
真の神を仰ぐものとされた 主の恵みをほめ讃える
真の愛を求めない 触れようとしない私を
真の愛に触れるも者とされた 主の恵みをほめ讃える
真の道を尋ねない 歩もうとしない私を
真の道を歩む者とされた 主をほめ讃える 水野源三「信仰詩」
「今月のことば」
さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、・・・・。(主はあなたがたをよみがえらせたもうた。)
=エペソ2:1=
わたしたちの主イエス・キリストの贖いの死と甦りによって神はわたしたちのために、この救いという恵みをくださいました。こうして、神は再び永遠の日に至る扉を開いてくださったのですから、感謝以外にありません。
自分の罪過と罪によって死んでいたわたしたちのため、我がまま勝手にやって来たわたしたちのため、全てのことが主イエスに負わされたのです。
何の罪も知らない主イエスが、わたしたちのために、罪ありとされたのです。死の果実を知らないお方が、全ての人間のために死を味われました。そしてわたしたちにとっては永遠の死が、永遠の命ととりかえられたのです。
主イエスが死をその足の下にされ、踏まれた時、わたしたちは命を受けました。神の約束は、「わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15)と言われました。その約束の完成のために神は、「わたしたちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにあって、ともに天上で座に着かせてくださった」のです。アダムに滅びと地獄を与え、キリストは天をくださいました。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされたのである」とされたのです。そして、このすべてのことを、わたしたちは何の功績(いさおし)なしに、ただ悔い改めて、回心して、神のみ子のみ名を信じることによって得られる者とされたのです。
「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終わりの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:40)。
そこで、自分の命を救いたいと思う者は、主のもとへ行くことなのです。何も躊躇することなく、功績を携えずに、ただ、主イエス・キリストを救い主と信じ、わが罪を認め、罪赦されることを願い、悔い改めの心をもって生きることです。
命の扉は開かれています。
「今月のことば」
弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにした。
=マタイ21:6=
今年のイースターは、4月9日と教会カレンダーに記されていますので、その先がけではないですが、このみ言葉から、教会のこれから、信仰の明日を考えてみたいと思いました。
イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスは、教会やキリスト教世界だけでなく、世界の各地で最大のお祝いの日として祝われています。日本でもクリスマスが近づくと、商戦のタイトルに用いられ、クリスマスケーキの予約の広告が大々的になされています。
しかし、イースターの取り扱いはそうではありません。これは日本の教会の特徴でしょうか、教会内でさえあまり話題になっていません。せいぜい、教会学校でのイースターエッグで、ああそうなんだという程度の関心事です。それでよいのでしょうか。もし、イエス・キリストのよみがえりがなければ、キリスト教信仰には、今も、救い主を待ち望む歩みになってしまいます。
この3月号のみ言葉は、私たちに勇気と希望を「お命じ」という言葉の中に込められています。
私たちキリスト者が、イエス様がするようにとお命じなった通りに従うなら教会の活動も、日々の生活においても、多くのことが神様からの恵み(ご褒美)として与えられることでしょう。私たちが、こんな小さいことと思われることでも、救い主イエス様のためにそれがなされるときは、偉大なものになります。馬屋のロバの綱を解いてイエス様のもとへ連れて行くだけで、主のみ栄と人々への奉仕となりました。キリスト者の生活が、キリスト教信仰のみの教えとこの世的な生活との部分に分けられると考えるなら、それは悲しむべき信仰ではないでしょうか。
神様を信じる人々は、神の教会の中におり、どこで生き、どこで働いていようとも、常にそれは神を礼拝している大切な礼拝行為です。もし、キリスト者が、自分の判断で教会の生活とこの世の生活とに分けてしまうなら、キリスト教を信用いたしません。クリスマスをお祝いし、お正月には神社に行き、節分には豆をまき、幸せを願って恵方巻を食べるキリスト者を見たなら、キリスト教は幅の広い宗教だと信頼されるでしょうか。反対に、世間の流れに背を向けて生きる姿に信仰者の輝きを見るのではないでしょうか。
私は、一人のご婦人の姿を忘れることは出来ません。時代は違いましょうが、小さなお店をされていた方でしたが、仕事着の姿のままで礼拝に来られ、終わるとすぐお帰りになり、子供たちが楽しみに待っている、お菓子屋さんのおばちゃんに戻っていました。多くの悲しみや喜びを知っているおばちゃんのところに子供たちが遊びに来ていました。おばちゃんは、毎年、イースターエッグは高いので、小さなおまけをつけて、イースターおめでとうさんね!と渡していました。神の国の交わりはこのようなものかと、今も心に残っています。
「今月のことば」
すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
=ヨハネ9:38=
キリスト者の願いは、ただ一つ。それは信仰によって歩むという願いです。
救い主としてのキリストにみ言葉とその愛のみ業に触れ、お目にかかった後、キリスト者は全てをかけて、キリストを救い主として信じる者でなければなりません。
この誰もが願うことに、時として陥る無意識の不信仰状態・空白が生まれることを、多くの信仰者は経験してきました。それは、日々の生活の中での自己中心に陥り、キリスト者として、信じることよりも経験の上に信仰を考え、生活を建てることで、これはキリスト者をキリストより引き離させ、信仰の思いから遠ざける、人生設計になっているのです。
「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども信じている」とペテロは言っています。パウロでさえも、天にあげられ、人の語ることばではないことばを聞いて、その後は信じる者でなければならなかったのです。十字架のイエスの死を見上げ、イエスの墓のそばに立っても、人は信仰を失わなかったことを喜びたいです。
キリスト者は、探し求めても見出さない者とは違います。神のみ言葉を信じて生き、進む者は、単に信じる者だけでなく、神の御約束に生きて、その約束を見るだけ、知るだけの者なのはなく生きる者なのです。キリストは、私たちが信じ、また有るべきことを語られたばかりでなく、こう約束されました。
「なんじの労して耕しし所は、わが永遠の収穫とならん」。
これからの日々を、キリストの前にひざまずいて、今よりも深く、主イエスの明らかな救いの恵みの約束を信じましょう。幾度も幾度も助けて下さった主を、時には少しも私たちが期待しなかったとしても、主は、今日も私たちの頼りとなるお方です。この主イエス・キリストを信じる信仰に、生きましょう。
あなたを愛するゆえに
あなたを愛するゆえに 私を愛するゆえに 父なる御神が
御子を遣わしくだったのです
あなたを愛するゆえに 私を愛するゆえに 御子なるイエスが
命をば捨てて下さったのです
あなたを愛するがゆえに 私を愛するゆえに 真理の御霊が
み救いを告げてくださったのです
水野源三著 第四詩集より
「今月のことば」
すると園丁は答えて言った、「ご主人様、今年も、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやってみますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください。
=ルカ13:8~9=
私たちは2023年を迎えました。新年という曙光の中に立っています。今年はどのような年になるのだろうかと、誰しも不安と希望をもって考えます。信仰者としてへりくだって、過ぎ去った年月を振り返る時、神様の愛と恵みが、私たちの命の中に、日々の営みの中に如何に数限りなく織り込まれていたかを知ります。そうして心の底から、「主よ、あなたはすべてことを良くしてくださいました」と感謝の告白が湧き出てくるのを経験します。
このような言葉と同時に、「けれども」とか、「嘆きの思い出や出来事も溜息とともに沸いているのも」私たちの信仰生活です。悲劇を招く戦争、貧困や差別、社会の出来事や人々への無関心も冷たい社会という回廊を吹く抜ける風、目の前に暗雲として立ちはだかったまま、2023年が始まりです。
「今月のことば」のみ言葉は、常に最悪の事態の起こることを防いで下さる「人」が立っておられることが知らされています。正義の手で斧が打ち下ろされようとする、その時、「主イエス・キリスト」は仲保者となり、猶予の時のために祈られるのです。「ご主人様、今年も、そのままにして置いてください。以前にも同じ願いをいたしました。しかし、どうぞ今年もお許しください。もう一年、そのまわりを掘って肥料をやってみます」。というこの言葉にある「執り成しの心」に感動いたします。
この園丁は最悪のことが起こることを留められたばかりでなく、多くの人々が救われるための年月をも与えて下さいと願っています。
この2023年も「キリスト」は、国と民のために同じ祈りを捧げることをお望みです。この救い主の愛のゆえに、神様は再び恵みの年を憐れみ深く、私たちに賜るのです。もしこの年が生活の中に、年の中にある誰かにとって、最高の、そうしてそれが最後の年となるとするなら、「キリストが救い主であることをもって終わることができたことを信じる一年なりますように」お祈りいたします。
大切にしなければ
恵みの恵みにいます 御神から与えられた
この恵みを この信仰を
大切にしなければ 大切にしなければ
命の命にいます 御神から与えられた
この命を この一日を
大切にしなければ 大切にしなければ
希望の希望にいます 御神から与えられた
この希望を この希望を
大切にしなければ 大切にしなければ
水野源三著 「み国をめざして」より
「今月のことば」
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出していけない。必要があれば、人は徳を高めるのに役立つようなことばを語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
=エペソ4:29=
私たちにとって大切なものは数え切れないほどありますが、その中でも、「ことば」が如何に大切かを「今月のことば」で振り返ってみたいと思います。
言葉を話す能力は、神様からの最大の贈物の一つと言えます。「ことば」によって私たちはお互いに理解しあい、意志や思想を表現し、心の中に有ることを語ります。「ことば」によって、お互いの涙を乾かし、背負いきれない重荷を取り除き、心の闇の中に光を灯し、助け合い、生と死を乗り越える光を見出すことが出来ます。
どんな良い音楽も、よい「ことば」のようには、美しい旋律や大きい宝や、幸福をもたらすことはできないかもしれません。キリストの愛の支配するところでは、私たちの「ことば」は、天国に通じる道しるべにもなります。
しかし、私たちの「ことば」が悪く、キリストを救い主と語らないなら、そのもたらす結果は、その口から言い訳のできない「最悪」を招くのです。「ことば」は、滅びと悲惨を招くと思う時、神様に浄めたまえ、と祈る以外にありません。
聖書は、「舌は火である、不義の世界である、それは全身を汚し、滅びに至る」と言います。そうであるなら、私たちキリスト者が語る「ことば」を聞く人々の益になるなら、何と幸いなことでしょう。
私たちキリスト者が交わす「ことば」を多くの人は聞いています。その一言が、その人にとって、思慮のない話、悪いことば、また噂話であるなら、神様は、私たち一人ひとりに、「ことばに注意せよ!」と厳しく警告されます。この警告を、心を低くして受け止め、聞く必要があります。
世界は、言葉の洪水です。ある時期から「フェイクニュース」に色々な形で接する時代になったと言われていますが、それは、人間の歴史そのものと一体でした。混迷と暗闇の時代、見せかけの偽りの平和という時代は、神様から離れている時代でもあるとするなら、神様のこの警告の声に聞き従うことです。
先人は言いました。教会が、キリスト者が、この警告に従わない時、その時代、教会もキリスト者も霊的には精気のない半分死んでいる状態と言うのです。舌を制する者はその魂を過ちから守る、と。
すべての悪意と偽りとを 舌と心と精神とをもって追い払おう。
そうすれば地上は楽園となり 平和と調和はつづき 善意が支配する。
「今月のことば」
良い地に落ちたのは、御言葉を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。
=ルカ8:15=
人には、それぞれの時間があります。人は時間の長短や貧富で評価しますが、それは私たち人間の身勝手な基準、評価です。しかし、その基準から離れて、時間や内容を沈考させる言葉として、「今月のことば」の聖句として選んでみました。
「良い地に落ちたのは、御言葉を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」。という人生、日々を振り返ってみたいと思います。
慣用語に「氏より育ち」というのがありますが、ここで言う御言葉の意味は少し違います。それは、私たちの心の地、日々の時間、すなわち生活そのものが、落ちた地なのです。私たちの心の地、日々の生活は、良い実を結ぶものなど一つもありません。また、その地に「種まきが種を蒔きに出て行った。蒔いているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。・・・岩の上に落ちたのは、喜んで受けいれるが、根がないので信じていても、試練の時が来ると、信仰を捨てる、・・・。生活の心づかいや富や快楽」(ルカ8:5、13、14)心惑わされる地に、神のみ言葉と言いう種が蒔かれたのです。
そのような心の地に、春のうららかな日に始まり、輝く秋に至るまでに成長し、実となって熟するという幸いな「心の地」とされる幸いを神様は、お恵みとして下さるというのです。
では、正しい良い心の地を持つ人々とは、どういう人々でしょう。どのように生き、どのような人々でしょうか。それは、その人生、日々の生活の大きな目的を、神様との幸いな交わりの中に持つ人々です。正しい心で、み言葉に立つ生活をと願う心の生活を求め続ける人ではないでしょうか。その指針であるみ言葉を心の糧とし喜びとして、聖霊の導きに生きることを願う人でもあります。
神様は、私たちをロボットのように扱いません。神様がお与えくださった意志によって、力量によって、天賦の才能によって、また自由な道によって提供されているすべてのことに、神様のご栄光を求める「心の地」で感謝をもって生きる人々が、すなわちキリスト者一人ひとりなのです。
信仰生活を苦難とか、日々の戦いの連続であるかのように思い込み、喜びを忘れてしまいがちですが、それは違います。
信仰生活は、幸いという実を結び、美しい花が開き、うるわしい実、すなわち、愛、喜び、平和、忍耐、親切、情け、忠実、優しさ、自制などを実らせるものなのです。「よい地」とは、「感謝の地、生活」であることを、この11月のみ言葉に心を向け、クリスマスの心備えをしたいものです。
「今月のことば」
イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
=マルコ1:25~26=
聖書の中には日常生活とはかけ離れた出来事や気づかないことが、奇跡のような出来事や教訓が記されていることに驚きます。平穏無事を願い、心穏やかでありたいと願っている私たちには時として驚きます。
この「今月のことば」の聖句は、私たちが信じ、理解する以上に、悪の霊は多くの人々に力をふるっていることが分かります。また大それた悪は犯さなくても、小さな悪は見過ごしがちです。誰もがしていることとか、これ位は許されるだろという曖昧さの中で、ことさらどうこう言うことではない、と自分を許して生きているのです。
しかし、人間が考える最も悪いこと、悪質なことは、私たちは生まれつき悪い者ではありますが、悪の働きが自分の生活の上になければ、大部分は罪や悪はそれ程ではないだろう、という身勝手な安堵の中に平安を見出していることです。
神の言葉は、悪が人間を支配する力を失う時が来ると預言しています。それは悪の力が縛られる時であります。
悪の霊は、敵意、嫉妬、野卑、憎悪、醜い貪欲などが人を支配する時に、人間の魂を統治しているのです。家庭が争いで満ちている時、夫と妻との間、親と子の間の幸福が壊される時、親類同志が憎み合う時、隣りの人同志が争う時、悪の力が働いていることに気付くなら、何と幸いなことでしょう。しかし、現実はそうではないのです。
私たちは、人との諍いなど望みません。神様との和解、安らぎを願っています。しかし、一歩も進まず、落胆と諦めに陥っています。それは自分の意志や努力不足以上に、悪の霊が私たちを縛っているからです。
人は、誰もが、家内安全、健康を願います。しかし、そうであるのに、なぜキリストにある平安を頂くための歩みをしないのでしょうか。出会いの機会がない、キリストを信じなくても、私には昔からの家の宗教があり、今更、キリスト教を信じなくても、という思いがおありでしょう。
しかし、それはどの様な状態なのでしょうか。イエス様は言われました。「・・・これをしかって、『黙れ、この人から出て行け』と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った」といわれれる前の状態です。
今は、悪の力から解放させる力をお持ちの方を探し求め、出会い、歩むことを決心する時なのです。主イエス・キリストはその決断を祝福してくださいます。
目覚めよ、眠れる者、死の眠りより起きよ。
キリストは汝を照らすなリ。
真昼の光、満ちみちて、清き恵みに招きたもうなリ。
<お詫びとお知らせ>
「つのぶえジャーナル」10月号は、更新はできましたが、家庭用印刷機の過度の使用のため、印刷機が壊れて買い替えのため、お手元にお届けするのが遅れてしまいますが、お待ちくださる多くの方にはご迷惑をおかけいたしますが、必ずお送りいたしますのでお待ちください。 編集子
「今月のことば」
恐れてはならない、わたしはあなたがたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたがたの神である。
わたしはあなたがたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
=イザヤ41:10=
このみ言葉で、世界の多くの人がどれだけ勇気と力と希望を見出したことでしょう。何時の時代も不安と希望を奪う出来事で生きる希望を見出せず、勇気と言う大切なものを見失ってきたことでしょう。そんなに深刻に考えるのは止めて、今日を一日、思いのままに過ごす方法を考えようではありませんか、と言う声が聞こえてきます(箴言の中の言葉)。
その誘いは魅惑的です。しかし、日々の在り方が頼りなく感じ、不安と恐れ、自分自身のこれからに失望してしまった時、魅惑の声や言葉は強力です。しかし、私たちに必要なことは、難しい言葉ではなく、病める者に手を添えるような優しい愛の手と心ではないでしょうか。
私たちにとって神の存在が遥かに遠く、理解しがたいお方と考えているなら、それは違います。「今月のことば」が、私たちの身近にあるとするなら、何と幸いなことでしょう。私たちが、主イエス・キリストを知るために、その歩みを「聖書」と言う全人類の宝の書物を開いて読み、何かを感じては如何でしょうか。この「つのぶえジャーナル」の「主の祈り」のコーナーに掲載されている「主の祈り」をご自分の大切な事柄・指針としてお考えになっては如何でしょうか。
神様はその弱く、生きる光を求めている人の姿をご覧になり、それは、今で言う「自己責任」として突き放すお方ではありません。その声に耳を傾け、その嘆きの言葉をお聞きくださるお方であることが「今月のことば」は示しているのです。
「恐れるな」といういう言葉は、聖書の中に365回もあると言われています。もしそうなら、一日一回とするなら神様は私たちに365日、絶え間なくお声をかけておられることになります。即ち、神様を求める者に、毎日、慰めや希望や明日への道をお示し下さっているということです。その招きを信じ、生きようではありませんか。その救いの道を、先に信じるようにされている私たちキリスト者は、それを、今、伝えなければならないのです。「今月のことば」は、私たちへの言葉であると同時に、まがい物宗教に惑わされたり、この世的な喜びを求めておられる人々に、心を低くして伝えなければならないのではないでしょうか。
「今月のことば」
聖徒のうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べつたえるためである。
=エペソ3:8=
神の国における私たちの仕事が、重苦しい義務となった時は、何かが間違っているのです。神の国で、私たちが生活の資を作るため、あるいは名誉や権力を得るために働くとすれば、事は一層悪くなります。
パウロが当時、あるキリスト者たちに対して、「彼らはすべて自分の欲を求める」という悲しむべき事実を非難したことは、今日でも何と多くの人に当てはまることでしょう。私たちの生涯の仕事が審判の火を通る時、私たちが純粋な物であると信じていたものの多くは、藁のように燃えることもありうると言うことです。
しかし、この冒頭の「聖徒のうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べつたえるためである。」と言う聖書のみ言葉は、何と心に突き刺さり、印象に残るでしょうか。
宗教が平和と安寧を乱し、家庭や家族を泥沼に引き込んでしまった出来事を、ニュースは伝えています。健全な宗教、信仰でないことをまた警鐘として示されました。苦しみや悩みの解決を金銭で手にすることができるかの様な誘いは、イエス様も悪魔の誘いで経験され、み言葉に立つことをお教えになりました。
自分について最も小さい者というこの人は、神が今まで得られたこともない最も偉大で、最も立派な働き手でありました。パウロは、神様から賜わった任務を果たしさえしたら、この命は自分にとって少しも惜しいとは思いませんでした。
主イエスの僕のうち、最も小さい者と目にうつり、主の福音を人々に伝えることを許されるのを恵みと考える。これこそ、私たちが仕事をする時に持つべき信仰・精神ではないでしょうか。
私たちが、当然見るべきありのままの自分の姿を見ることができ、自分を神様が如何に造り変えられたかを知れば、自分の目に、如何に小さく映り神の恵みは言い表せない程に大きいことかが分かります。そのような心の視力とそのような信仰を神様に祈り求めましょう。
救いは、金銭で得るものではなく、「主イエス・キリストの十字架の贖いの愛にあること」を、改めて知らされます。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」