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今月のことば
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
=ヘブル3:14=
この世は不平等と不条理に満ちていると言われています。しかし、全人類、全被造物に等しく与えられているものがあります。それは2014年1月と言う日であります。誰もが願い、考えることは「幸せ多い年であってほしい」という思いです。この年も6ヶ月が過ぎました。そして、それぞれの国、民族を超えて等しく迎えたのです。しかし、いろいろの事情で7月を迎えることなく終えた人もおります。
私たちは「確信」をもって、一年を始めたはずです。振り返って、この「確信」は何だったでしょうか。世間の規準とは異なります。聖書が私たちに教える「確信」は、「自分の弱さや無能力を自覚して、神の力に目を注ぎ、神の助けに望みを抱くこと」なのです。自分の視線を神に向けると言うこと、それが「確信」と言うのです。
人は、自分の確信を自分自身に置くのです。聖書は「キリストにあずかる者」と私たちに語りかけます。なぜでしょうか。それは、私たちが自分自身の努力・精進が全面的に無意味・無価値と言うのではありません。それは、とても大切なことです。
しかし、それとは全く別の視点で自分を見つめなおす時、謙虚に「自分の貧しく無力な者として神と向き合うことは、決して、無意味なことではありません。むしろ、大切なことです。
キリストは、常に私たちの救い主であられます。私たちは「最後までしっかりと持ち続ける」ことを、このみ言葉を通して考え、改めて7月からの日々を歩もうではありませんか。一日一日をキリストなしでも過ごせるようなことになる危険・誘惑に陥らないために、「確信」に生きましょう。
今月のことば
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
=ヨハネ15:5=
ぶとうの木は実をつけなければ何の役にも立ちません。預言者は言います。
「その木は何かを造るために用いられるか。また人はこれを用いて、器物を掛ける木釘を造るだろうか」と。
木は実を結ばねばなりません。そうでなければ燃やされます。ぶどうの木の枝で実を結ばないものは切られ、集めて火に投げ入れられます。
神を信じる人々は、この世にあって、実を結ばなければなりません。「あなたがたが実を豊かに結び、それによってわたしの父は栄光をお受けになるであろう」とイエスは言われます。
「実とは何でしようか」を考えてみましょう。イエスは何の実のことを言っておられるのでしょうか。それは、私たちの生命の中のすべては神に造られたものですから、神の力を離れては、何も出来ない存在です。
聖書は、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」あると言います(ガラテヤ5:22~23)。
これらの実はキリストにある者に与えられるものです。私たちがキリストにあれば神の力は、私たちのうちに流れ注がれ、神のために実を造るのです。
また自分の「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである」(5:19~21)。
私たちが求めるもの、神から求められているものは、神のみ旨・み心を持つことであります。そのための訓練を熱心に求めたいものです。
「心には静けさが満ちる」
御神の限りない愛に 包まれているから 包まれているから
牢獄にとじこめられても 心には静けさがみちる
御神の限りない愛に 包まれているから 包まれているから
拷問の鞭に打たれても 心には静けさがみちる
御神の限りない愛に 包まれているから 包まれているから
命をも奪い取られても 心には静けさがみちる
水野源三 第三詩集 「今あるは 神の恵み」より
今月のことば
あなたの定めはわが旅の家で、わたしの歌となりました。
=詩篇119:54=
私たち一人一人も、自分の歌-自分独特の歌を持っています。人生の歌、日々の歌、生活の歌にはその人の音色があります。花にも沢山の花々があり、小鳥たちの歌声も様々です。面白いことは、自分の歌を繰り返し、繰り返し歌っているように聞こえます。
私たちはどうでしょうか。どんな言葉を歌っているでしょうか。「作る・・・作る・・・作る」と歌う人もいれば、「食べる・・・食べる・・・食べる」、または「嘆く・・・嘆く・・・嘆く・・・」人、「私・・・私・・・私・・・」の人、「感謝・・・感謝・・・感謝」の人もおられます。
この詩篇の詩人は「神の定め・・・神の定め・・・神の定め」が歌となりました。「旅」は日常の日々の営みであります。自分の人生を「旅」のように思う人もおります。これから始まる「旅」もあり、終わりの日数を数える人の「旅」もあります。
この詩人の「旅」は、目的地を知らない「迷い旅」ではありませんでした。悩みと不安の中に陥っても、その「旅」には「光」があります。遠くの光ではありません。生活の中にある、家の中にある光です。その光とは、「定めという光」です。家の中の隅々まで照らす光は、詩人には「定め」でした。無味乾燥な道徳というようなものではなく、実際の「歌」なのです。
神の「定め」は、この詩人には、福音となり、喜びとなっているのです。朝に夕にであり、春の歌であり、秋の歌でもありました。その歌声は「神の定め・・・神の定め」と歌うのでした。
私はどのように歌っているのかどうかと、自問しています。
今月のことば
二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。・・・それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
=マタイ10:29~31=
人間は、多くのすずめよりも価値があると言われています。別の箇所では、キリストは、人間は、全世界よりも価値があるとも言われます。「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか」(マタイ16:28)ともあります。
神様のお言葉によれば、一人の価値は、それほどにも大きいのであると言うのです。この神様の認識と私たちの認識には大きな開き・相違のあることに気付くべきでしょう。戦争、貧富、差別、虐待、人権無視の私たちの社会の現実にあって、このみ言葉は、何を私たちに神様は厳しく問いかけるのでしょうか。他人事と目をそらし、無関心な私たちに、神様は厳しくキリスト者と教会に問うているのです。
このような神の問いかけを、自らの欲望の満足のために無視し、浪費し、自分自身を見失っているのです。預言者は言います。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。・・・。草は枯れ、花はしぼむ」(イザヤ40:6~7)。
こころを飾ることよりも、外側を飾るために飽くなき努力を注ぎ、お金を注ぎ込むのが私たちです。
もう一度、こころを傾けて、神のみ言葉に聞こうではありませんか。私たち一人一人の救いのために、神は何を犠牲にされたのでしょうか。十字架上のイエスは神の子のみ子でした。滅びの肉と骨として捨て置かれても致し方のない私たち一人一人に神は、愛と憐れみと救いと罪の赦しと、それ以上に永遠の命を得させるために、支払われた代金は、全世界の富でも賄いきれない代償を、ただ、神の真実と愛のゆえに支払われた金額は、神としてのみ子の命でした。
私たち罪人にそれだけの値打ちがあるのでしょうか。全くありません。罪の償いのために私たちは何を持って贖うことが出来るのでしょうか。出来ません。不可能です。
そのような私たちのために、差し出された主イエス・キリストの救いのみ手を、今一度、確りと受け止めようではありませんか。み子の命をもって贖いだされた命は、本当に貴いのです。
今月のことば
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
=ローマ6:2=
この世の道徳は、「罪を犯してはならない」と言います。神の律法も「罪を犯してはならない」と言い、あらゆる宗教もそのように言います。しかし、甦られた方の証人パウロは、「君たちは罪に対して死んだ」と言います。罪からの命脈が絶たれ、力が奪われ、罪の息の根がとまり、その脈拍は途絶えたというのです。
パウロがこのように言うのは、ただイエスの十字架での死の働きに目を注ぐことによってだけのことです。あの十字架には、この世の罪がかかっています。あそこには、私たちの罪の身代わりとなられた方が、私たちに代わって、すべての憐れな罪人に代わって死なれたのです。イエスは、私たちの罪を、墓の中に携えて行かれました。それゆえに、パウロは大胆に言うのです。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)、また「わたしたちは彼と共に葬られた」(ローマ6:4)と。
私たちが、この救い主の死をそのあらゆる結果・結末に至るまで、真剣に考えなければならないということでもあります。すなわち、そこで死ぬのは、古いアダムであり、神の前に存続できない人間なのであります。ですから、罪に対して死んだ者―もはや罪の中に生きようとすることは出来ないという存在ということです。
罪を憎みキリストと共に生きることを赦された者として、キリストに生きよう! というこの招きの言葉は、なお、罪の残滓を持つ私たちに、生きる希望を与えます。私たちは弱く、貧しく、罪と戦う力のない者であることを認め、それゆえに「キリストと共に生きようではありませんか」。
この信じ難い招きこそ、福音なのです。
今月のことば
「われわれは、ただちに行って、主の恵みを請い、万軍の主に呼び求めよう」。
=ゼカリヤ8:21=
「行く」→「請う」→「呼び求める」・・・。この順番は、大切です私たちはしばしばこの逆をいます。
神様からの祝福をいただくためには、神様が良しとなし給う時と所と仕方で、私たちに祝福である救いのみ言葉を教えます。しかし、私たちの方が先ず、ある特定の場所に行かなければならないということも教えています。しかし、最初はなぜそこに行かなければならないのか良く分からないが、とにかく行って初めてその理由が分かるという場所に行かなければならないのです。
旧約聖書に登場するモーセという人物は「もし神が私に出会おうとされるなら、神はもちろん私がどこにいるかご存知なのだから、私をすでに見出しておられるはずだ」などとは考えず、「モーセは、立ち上がって「行か」なければならなかったのです。モーセは「燃える柴のところに行かなければならなかった」(出エジプト3章)のです。
クリスマスの夜の羊飼いたちは「もし神が私たちに救い主を示そうとされたのであれば」と待つのではなく、「行か」なければ、幼子に出逢うことはできなかったのです。
神様は、常に「行か」なければ、救いの道はないと教えています。神様に出会うために、特定の場所へ行かなければならないのです。み言葉を聞くために、聖餐の恵みに与るために行かなければならないのです。
神様との出会いなくして、「請う」ことも「呼び求める」ことも出来ません。私たちは「求め」ます。しかし得られません。それは何故でしょうか。それは求めているものが「自分の要望・願望」が優先しているからではないでしょうか。神様に傲慢にも請求・要求していないでしょうか。
私たちが「請い、求めるもの」は、具体的です。
「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。また「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(ルカ10:27)。
この思いを持ち続けたいものです。
どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。
=Ⅱテサロニケ3:16=
人は戦争や醜い争いを願い求めてはいません。しかし、現実には、全世界の中で戦争のない時はなかったでしょう。誰もが平和を願い、様々な仕方で、様々な人が努力してきたのも事実です。しかし、「平和自体」は存在しませんでした。クリスマスの恵みを思う時が与えられて、キリストが世界に平和をもたらされたという事実と切り離された平和は存在しないことを、改めて深く知ってほしいものです。キリストは平和をもたらされたのですが、私たちはそのような平和を受け入れなかったのです。救いをもたらすキリストを十字架にはりつけにしたのです。
私たちは自分だけの平和・平安を求めてはいないでしょうか。私たちは、平和でないことの結果として生み出される現実に対する解消法としての平安を求めていないでしょうか。自分の苦しみから逃れるだけの平和・平安と言う自己愛であるなら、それは偽りの快適さを過ごす方便です。
神は私たちに平和を与えようとされます。神の平和は、神との平和です。私たちの罪深い心の中に、真の平和を与えようとされます。考えて見ましょう。では、私たちは神とどれほど不和の中に生きているでしょうか。この神との不和がある限り、人との平和もないのです。
神が与えて下さる平和は「神との和解」です。その道を神は福音として人類に、歴史の中で示して下さいます。私たちは人との間でイライラし、またそうさせる存在であることを、深く知るべきです。
神は「いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように」とキリストにおいて差し出されています。
主の2014年が平和であるために、主イエス・キリストにあって祈り求めましょう。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
=使徒行伝16:31=
この言葉には、実に単純ですが限りない希望があります。この言葉が語りかけられたのは、自殺しようとした男に向かってのものでした。人はその極限まで追い詰められると、物事に対して単純になるといわれます。生きることを諦めた人の結論も単純であれば、生きることを求める人への対応もまた単純であることが、このみ言葉が示していると思えます。溺れかかっている人に、一本の棒を差し出して、これを掴め、確り握ぎれ、助かるんだ! 激しい飢えにある人に、手を伸ばして取って食べなさい!と言う言葉は単純です。
イエス・キリストの招きも究極的には単純です。どのように信じ、どのようにキリスト教を理解しなければならないのかも、重要なことです。しかし、その知識・理解もこの「イエス様の単純な、しかし、愛のこころ」への単純に導く過程なのです。人生の複雑さ、社会の醜さ、自分自身の汚れを前にした時、人は悩み、混乱し、その複雑さの中に飲み込まれてしまうのです。この複雑さを解きほぐすために、人は考え、より複雑さの中に落ち込んでしまうのです。
このみ言葉を聞いた男はただ一人ではありません。父親としての彼の自殺は、その家族を不幸に落とし入れることでもありました。同時に、この父親への招きは、彼個人ではなかったのです。一家の父親が救いに与ることは、その家族全体への救いでもあったのです。
神の愛は、あなたとあなたの家族全体を、祝福しようとしておられるのです。あなたがそれをするのではなく、神がその業をして下さるというのです。その祝福の源である主イエス・キリストのご降誕を讃美し、お祝いするのがクリスマスなのです。神からの贈り物・プレゼントは、この「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」なのです。
今月のことば
わたしたちは神の同労者である。
=Ⅰコリント3:9=
同労者! 最高の雇用主の同労者! この上もなく尊い事業の同労者!
私たちは、単に、私たちの主にして救い主である方によって、自分の罪と恥と汚辱をあらわにされ、取り除かれるように召されている、というだけではありません。神は、和解を与えられ清められた人間を、神と共に働くようにと召されるのです。そして、私たちを有能に働くことによって、その働きをもって、神様に栄光を帰し、ほめたたえることを、お許しくださるというのです。この神様の召しの事実は、言葉に尽くせないほどの幸いです。
そのことで迫害を受け、侮辱されると共に、自分の汚れに打ちのめされても、神様は、神ご自身の召し(雇い主)のゆえに、助け、支えつつ用い続けて下さるというのです。
私たちはそれぞれ、十タラントなり五タラントなり一タラントなりを与えられています。
そして、それを地の中に埋めておく権利を持っていません。ですから、神の同労者であるか否を選ぶことは、誰にも出来ないことでもあります。
しかし、私たちは、誠実な同労者であることもあれば、また怠惰な僕であることもあります。道具として神に使用される者もいれば、神のみ業の中での有害な者・無能な者もいるのも事実です。しかし私たちは二種類の人間ではありません。第一に、私たちは、事業の支配人ではありません。かつて私たちは自分が支配人だと考えて自分で選んだ重荷のために苦しんでいた時に、次の言葉を聞かなかったのです。お前は支配人ではない。お前は同労者なのだ。静かに自分の本分を務めなさい。自分に与えられたささやかな働きの場にいて、謙虚に仕事に対する心づかいを、すべて支配人に任せなさい、との声を・・・。
しかし私たちは今一つのもの、すなわち雇人ではないのです。放蕩息子が帰宅して、「雇人の一人と同様にしてください」と言った時に、父はその放蕩息子を、子または相続人として扱っている」(ルカ15章)のです。
主よ、今日、子また同労者でありたいと心から思います。 アーメン
今月のことば
なにゆえ、もろもろの国民(くにたみ)は言うのでしょう。「彼らの神はどこにいるのか」と。
われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。
=詩篇115・2~3=
私たちは悲しみの時、苦しみの時、また喜びの時、天を見上げ、天を見つめます。人は平和を求め言葉やペンや筆を用いたり、平和の名の下に数多くの砲弾、銃声を降らせ、平和の実現のための正しい手段と言います。地上に平和(天国)を建てようとする思いがそうさせます。それは、歪んだ姿です。
天と言われ地と言われるものについての光や理解や教示を聖書から得ている人は、地上の生活を楽しんでいる「もろもろの国民」から、様々な嘲りを受けることでしょう。この嘲りはキリスト者にとって苦痛ではありますが、信仰のゆえにである限り、光栄でもあります。
人は言うでしょう。「あなたの神はどこにいるのか」と。この悲惨な地上の出来事に対して、神はどのように答えるのか、と問われる時、戸惑い、言葉を失う実に恥ずかしい自分に気付くのです。どのように答え、どのような言葉が適切かと思うなら、それは誤りです。
人は神を証明することなど不可能です。試みへの思い悩みは無用です。むしろ、単純率直に、何にも頼らずに、「われらの神は天にいらせられる」と告白しようではありませんか。神を示すことは、私たちには出来ません。しかし、キリスト者・信仰者には可能なのです。神は自らご自身を示し証明される、と証し、告白することです。
もろもろの国民のこの悪意に満ちた、「彼らの神はどこにいるのか」と言う問いかけに、神ご自身が証明されるのです。
それを告白し、信じ、生きるのがキリスト者・信仰者なのです。
我が魂よ忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
あわれみ深い主イエスに
はじめてお会いしたあの日を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ
わが名呼びたるあの御声を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
悲しみに冷えた心が
喜びに燃えたあの時を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
他では得られない まことの
愛と安らぎのある御もとを 水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」
わたしたちは、その栄光を見た。それは、父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまことに満ちていた。
=ヨハネ1・14=
心に残る絵画や音楽は、何時までもその時の感動は消えません。そうしてその思いを誰かに知らせたい、伝えずにおれないものがあります。
希望の光を見出せない日々、悩みの中にある心、その繰り返しの人生に、想像も出来ない「神の愛」という出来事を知った時、人は素直に感動し、受け入れることはしません。圧倒される「神の救いの恵み」を示された時、戸惑い、時に疑いすらするのです。小さなぼんやりとした光なら、その明かりを求めて進み出すでしょう。
この「わたしたちは、その栄光を見た。それは、父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまことに満ちていた」。という光は眩い栄光の光だったでしょうか。
聖書は、そのひとり子の栄光を、「彼にはわれわれの見るべき姿もなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」(イザヤ53・2)と証言しています。しかしその姿は、復活の日以降、一変しました。その変貌の輝きは、栄光に満ちた姿でした。「父のひとり子としての栄光であり、その姿は、めぐみとまことに満ちている」というのです。
道に迷い、光を求める者には、その姿は神の栄光の輝きであり、人を滅びと絶望から恵みへと導く救い主の輝きです。闇の中をおぼつかない足取りで歩むことはもうないのです。
私たちの前に、光り輝く主イエス・キリストがおられるのです。
このナザレのイエスを知る人生にはもはや闇は存在しないのです。
<121>
4 この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる。
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活(い)ける神なれ。
=ヨハネ8・47=
神の言葉を聞くということには、普通のことではなく特別な事情があります。それは、この世の様々な事柄を聞く場合には、耳を持つ者はみな、その耳が健全である限り、よりひたすら聞くか聞かないかで差異が出てきますが、聞くことは可能です。。しかし、神の言葉を聞く場合には、全く別なのです。
申し分のない耳を持っているということではないのです。神の言葉を聞くためには、それは役に立たないのです。聖書の中に「聞く耳のある者は聞くがよい」(マルコ4・9等)とありますように、「耳のある者は・・・」ではなく、「聞く耳のある者は聞くがよい」とつけ加えられています。
また「神からきた者」と言われています。このみ言葉から、神の国を見るためには、私たちの目は「神からきた」目でなければならないのです。すなわち、「霊から生まれた」耳でなければならないのと同じように、「霊から生まれた」目でなければならないのです。
当然「聞くためには」キリスト者として新たにされた霊の耳が必要です。
キリスト者として神の言葉を聞くために、耳だけでなく目も霊の目を必要とされます。キリスト者が、礼拝に参加する者の姿勢は、まさに「霊と真とをもって」礼拝するのは、神の招きに応答した者としてであることを覚えなければなりません。
「まことに神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆に従って、何か可視的な表現によって、または、聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきではない」(ウエストミンスター信仰告白)のこの告白を、教会の礼拝において大切にする時、この「神からきた者は神の言葉を聞く」は、心に響くのではないでしょうか。
大切にせよ
友にそむかれた時にも
大切にせよ 大切にせよ
主イエス様が与えて下さる
この恵みを この信仰を
病に苦しむ時にも
大切にせよ 大切にせよ
主イエス様が与えて下さる
この希望を この喜びを
すべてを失った時にも
大切にせよ 大切にせよ
主イエス様が与えて下さる
この命を この平安を 詩 水野源三
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」